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2006年07月16日

サンクトペテルブルクを旅した頃(1) - 渓内譲と小室直樹の明暗

サンクトペテルブルクには一度だけ行ったことがある。もうずっと昔の話で、ソ連が崩壊する前のペレストロイカの頃であり、町の名前もレニングラードと呼ばれていた時代だった。私がこれまで実際に地面を踏んだ場所としては、アラスカのアンカレッジに次いで二番目に緯度の高い地点の経験になる。昔は日本から欧州に飛ぶ航空機はソ連領の上空を飛行することができず、まず迂回してアンカレッジに立ち寄り、そこから北極海をクロスして欧州の空へ入って行った。思い出すと懐かしいが、トランジットで降りたアンカレッジ空港のロビーには日本語が堪能な原住民(いわゆるエスキモー)のおばちゃんたちが待っていて、「はい、免税ブランデー」「はい、マカデミアンチョコ」と元気よくお土産品を売り捌いていた。あれは復路便の機内の貨物に入れてくれたのだろうか。アラスカは寒かったが、おばちゃんたちを見ると外国に来た感じがしなかった。おばちゃんたちはどうなったのだろう。サンクトペテルブルクには行ったが、実はホテルに着くなり体調を崩して熱を出してしまい、貴重な二泊三日の観光の日程を部屋の中で寝たきりで過ごしてしまった。エルミタージュ美術館とペトロパブロフスク要塞と聖イサク寺院の見物が含まれていたが、残念ながらそれらを見ることはできなかった。二度と聖彼都に行くことはないだろうと思うと、少し残念な気持ちになる。ホテルは市内北西のプリバルチスカヤで、ホテルの前庭がそのままバルト海の浜辺になっていて、バルト海の海水に両手を浸したことを覚えている。アルバムにバルト海の真っ赤な夕陽を撮った写真が残っている。GW期間中で、日暮れは午後10時頃ではなかっただろうか。それほど立派なホテルではなかったが、モスクワ五輪のときの建物で、ツアーで使わされたホテルの中では一番まともだった。ホテルのカフェにフィンランドから遊びに来ていたギャルの一団がいて、ここへよく遊びに来るのだと言っていた。 フィンランドのギャルと書いてしまったのは、彼女たちが本当に明るく元気よく見えたからで、実はそのときはソ連国内に入って一週間が過ぎていたが、街で見る大人たちの顔に生気がなく、人々の表情が重苦しく鬱屈していて、これ以上耐えられないという険悪な目をしていたからである。われわれ日本人旅行客を見る視線が困苦と苛立ちと羨望を訴えていた。それが何故かは観光客としての体験だけでも一日目から全てが理解できた。食事がひどかった。思い出してもぞっとするが、テーブルに出されたもので口に入れられるものは何もなかった。パンはカチカチで味気なく、マーガリンの味は不気味で、ステーキだと言って出された黒い肉の塊は歯が折れてしまうほどの異常な固さで、ナイフで切ることさえできず、噛んで胃袋に入れようという気が起こらなかった。バイカル湖のレストランで出た鮭は塩の固まりで、食塩をそのまま食えと言われているのに等しく、一口で吐き出して手が止まった。 ザクースカはひたすらまずく、コーヒーは黒い泥がカップの底に溜まるようで、日本の六十年代のネスカフェの粉末飲料より十倍粗悪で、とにかく三度の食事で食えるものが何もなく、食事の時間が苦痛で苦痛で仕方がなかった。私は何をしたかというと、ホテルの国営ベリョースカ・ショップに足を運び、そこでハイネケンとレーベンブロイを見つけて、それを口に流し込んで一週間を生き延びていた。オランダとドイツの缶ビールのおかげで命を繋ぐことができた。覚えているが、モスクワで泊まったホテルロシアはバカでかい建物で、ベリョースカは玄関から外へ出て二百メートルほど歩かなければならず、私は毎度の「食事」のために往生させられた。部屋やシーツの汚さとかトイレの不潔さは次第に慣れたが、食事のストレスだけは何ともならず、遂に旅行終盤のレニングラードで体調を崩して発熱するに至ったのである。日本に帰りたい気持ちだけで、エルミタージュ美術館などもうどうでもよくなっていた。 関連して紹介したい件が一つあって、帰国して暫くした頃に岩波新書から出た渓内譲の「現代社会主義を考える」があり、その冒頭にこう書かれている。「一九八七年一一月七日、ソ連は革命七○周年の記念日を迎えた。(中略)ソ連一国のみであったこの体制は、第二次大戦後、東欧、アジア、ラテンアメリカへと拡大して今日に至っている。(中略)これらの体制群は国家間の関係においても、それぞれの国内問題においても深刻な困難と矛盾を抱えているが、しかし近い将来、内部崩壊することはありそうもない(P.1-P.2)」。初版第一刷は88年1月。ベルリンの壁崩壊が89年11月、ソ連崩壊が91年12月。この新刊を書店で買って読んだとき、私は実際に自分の目でソ連国内を見てきたばかりだったから、渓内譲ののん気さと言うか神経鈍感に驚き呆れた記憶がある。今すぐにでも崩壊しておかしくなかった。中の人々は倦み疲れきっていた。こんな体制が長続きするはずがない。旅行した者の共通の感想だっただろう。 新書は現在品切で重版未定。渓内譲はこの当時は東大社研の重鎮だったはずだ。岩波書店から出ている「スターリン政治体制の成立」全四巻は日本の社会科学の屈指の名著と言われていて、学生の頃は必読文献の一つとして指定され、教官が板書しながら「読んだ人いますか」とよく聞いていた。この岩波新書にポロッと書いた一言で碩学の名誉を傷つけた気配がある。これとのコントラストでどうしても挙げておきたいのが、一方の小室直樹で、80年に光文社のカッパブックスで「ソビエト帝国の崩壊」を出し、周知のように今では現代の預言者として崇め奉られている。この本は私も店頭で見た記憶があるが、当時は他にも似たような本は多くあったような印象があり、小室直樹だけが特別に絶賛される理由がよく分からない。ソ連崩壊を願い望む論者たちが、同じくそれを願い望む人々に向けて商売で本を売っていた。中国崩壊を言っている本と同じで、そういう本は無数にあり、中国が崩壊したら著者は預言者になるのだろうか。 ソ連崩壊についての考察と予言は78年のダンコースの方が早かったという声もあり、私は別にどちらが先でもいいけれど、民族問題にフォーカスしたダンコースの「崩壊したソ連帝国」は、確かに売らんかなの商売本の装いではなく、最初から社会科学の良書として論壇とアカデミーで紹介されていた。渓内譲と小室直樹の二人のことを思いながら、私が何を考えるかと言うと、当然ながら、日本の平和憲法体制という問題である。私はすでに予言をした。そして体制防衛のための最後の提案もした。匿名ブログでの発言だから、当時で言えば、小室直樹のカッパブックスと同じかそれ以下の卑賤な立場からの議論ということになる。碩学の小森陽一は、地域で末端が九条の訪問販売に精を出していれば大丈夫だと言っているのだが。

2006年07月16日

サンクトペテルブルクを旅した頃 - 渓内譲と小室直樹の明暗

サンクトペテルブルクには一度だけ行ったことがある。もうずっと昔の話で、ソ連が崩壊する前のペレストロイカの頃であり、町の名前もレニングラードと呼ばれていた時代だった。私がこれまで実際に地面を踏んだ場所としては、アラスカのアンカレッジに次いで二番目に緯度の高い地点の経験になる。昔は日本から欧州に飛ぶ航空機はソ連領の上空を飛行することができず、まず迂回してアンカレッジに立ち寄り、そこから北極海をクロスして欧州の空へ入って行った。思い出すと懐かしいが、トランジットで降りたアンカレッジ空港のロビーには日本語が堪能な原住民(いわゆるエスキモー)のおばちゃんたちが待っていて、「はい、免税ブランデー」「はい、マカデミアンチョコ」と元気よくお土産品を売り捌いていた。あれは復路便の機内の貨物に入れてくれたのだろうか。アラスカは寒かったが、おばちゃんたちを見ると外国に来た感じがしなかった。おばちゃんたちはどうなったのだろう。サンクトペテルブルクには行ったが、実はホテルに着くなり体調を崩して熱を出してしまい、貴重な二泊三日の観光の日程を部屋の中で寝たきりで過ごしてしまった。エルミタージュ美術館とペトロパブロフスク要塞と聖イサク寺院の見物が含まれていたが、残念ながらそれらを見ることはできなかった。二度と聖彼都に行くことはないだろうと思うと、少し残念な気持ちになる。ホテルは市内北西のプリバルチスカヤで、ホテルの前庭がそのままバルト海の浜辺になっていて、バルト海の海水に両手を浸したことを覚えている。アルバムにバルト海の真っ赤な夕陽を撮った写真が残っている。GW期間中で、日暮れは午後10時頃ではなかっただろうか。それほど立派なホテルではなかったが、モスクワ五輪のときの建物で、ツアーで使わされたホテルの中では一番まともだった。ホテルのカフェにフィンランドから遊びに来ていたギャルの一団がいて、ここへよく遊びに来るのだと言っていた。 フィンランドのギャルと書いてしまったのは、彼女たちが本当に明るく元気よく見えたからで、実はそのときはソ連国内に入って一週間が過ぎていたが、街で見る大人たちの顔に生気がなく、人々の表情が重苦しく鬱屈していて、これ以上耐えられないという険悪な目をしていたからである。われわれ日本人旅行客を見る視線が困苦と苛立ちと羨望を訴えていた。それが何故かは観光客としての体験だけでも一日目から全てが理解できた。食事がひどかった。思い出してもぞっとするが、テーブルに出されたもので口に入れられるものは何もなかった。パンはカチカチで味気なく、マーガリンの味は不気味で、ステーキだと言って出された黒い肉の塊は歯が折れてしまうほどの異常な固さで、ナイフで切ることさえできず、噛んで胃袋に入れようという気が起こらなかった。バイカル湖のレストランで出た鮭は塩の固まりで、食塩をそのまま食えと言われているのに等しく、一口で吐き出して手が止まった。 ザクースカはひたすらまずく、コーヒーは黒い泥がカップの底に溜まるようで、日本の六十年代のネスカフェの粉末飲料より十倍粗悪で、とにかく三度の食事で食えるものが何もなく、食事の時間が苦痛で苦痛で仕方がなかった。私は何をしたかというと、ホテルの国営ベリョースカ・ショップに足を運び、そこでハイネケンとレーベンブロイを見つけて、それを口に流し込んで一週間を生き延びていた。オランダとドイツの缶ビールのおかげで命を繋ぐことができた。覚えているが、モスクワで泊まったホテルロシアはバカでかい建物で、ベリョースカは玄関から外へ出て二百メートルほど歩かなければならず、私は毎度の「食事」のために往生させられた。部屋やシーツの汚さとかトイレの不潔さは次第に慣れたが、食事のストレスだけは何ともならず、遂に旅行終盤のレニングラードで体調を崩して発熱するに至ったのである。日本に帰りたい気持ちだけで、エルミタージュ美術館などもうどうでもよくなっていた。 関連して紹介したい件が一つあって、帰国して暫くした頃に岩波新書から出た渓内譲の「現代社会主義を考える」があり、その冒頭にこう書かれている。「一九八七年一一月七日、ソ連は革命七○周年の記念日を迎えた。(中略)ソ連一国のみであったこの体制は、第二次大戦後、東欧、アジア、ラテンアメリカへと拡大して今日に至っている。(中略)これらの体制群は国家間の関係においても、それぞれの国内問題においても深刻な困難と矛盾を抱えているが、しかし近い将来、内部崩壊することはありそうもない(P.1-P.2)」。初版第一刷は88年1月。ベルリンの壁崩壊が89年11月、ソ連崩壊が91年12月。この新刊を書店で買って読んだとき、私は実際に自分の目でソ連国内を見てきたばかりだったから、渓内譲ののん気さと言うか神経鈍感に驚き呆れた記憶がある。今すぐにでも崩壊しておかしくなかった。中の人々は倦み疲れきっていた。こんな体制が長続きするはずがない。旅行した者の共通の感想だっただろう。 新書は現在品切で重版未定。渓内譲はこの当時は東大社研の重鎮だったはずだ。岩波書店から出ている「スターリン政治体制の成立」全四巻は日本の社会科学の不朽の名著と言われていて、学生の頃は必読文献の一つとして指定され、教官が板書しながら「読んだ人いますか」とよく聞いていた。この岩波新書にポロッと書いた一言で碩学の名誉を傷つけた気配がある。これとのコントラストでどうしても挙げておきたいのが、一方の小室直樹で、80年に光文社のカッパブックスで「ソビエト帝国の崩壊」を出し、周知のように今では現代の預言者として崇め奉られている。この本は私も店頭で見た記憶があるが、当時は他にも似たような本は多くあったような印象があり、小室直樹だけが特別に絶賛される理由がよく分からない。ソ連崩壊を願い望む論者たちが、同じくそれを願い望む人々に向けて商売で本を売っていた。中国崩壊を言っている本と同じで、そういう本は無数にあり、中国が崩壊したら著者は預言者になるのだろうか。 ソ連崩壊についての考察と予言は78年のダンコースの方が早かったという声もあり、私は別にどちらが先でもいいけれど、民族問題にフォーカスしたダンコースの「崩壊したソ連帝国」は、確かに売らんかなの商売本の装いではなく、最初から社会科学の良書として論壇とアカデミーで紹介されていた。渓内譲と小室直樹の二人のことを思いながら、私が何を考えるかと言うと、当然ながら、日本の平和憲法体制という問題である。私はすでに予言をした。そして体制防衛のための最後の提案もした。匿名ブログでの発言だから、当時で言えば、小室直樹のカッパブックスと同じかそれ以下の卑賤な立場からの議論ということになる。碩学の小森陽一は、地域で末端が九条の訪問販売に精を出していれば大丈夫だと言っているのだが。

2006年06月27日

迷い込んできた女王アリの優美な曲線と私の隣室のくの一たち

日本には250種ほどのアリがいるという.初夏はアリたちの結婚シーズンだ.種別によって異なるが4月~8月くらいに羽化した雌アリと雄アリの集合結婚式が行われる.詳しいことは知らないが(1:1なのか1:多なのかなど)ともかく関わったすべての雄アリがそこで死に絶えてしまうことは確かだ.地上に降りた雌アリはそこに一匹だけ入れる穴を掘り,上にフタをして閉じ篭もると一日に一個づつ卵を産み始める.産み落とされた卵が孵化して幼虫になり繭を作ってさなぎを経て成虫になるまでには数十日かかる.幼虫に与える離乳食は雌アリ自身の肩の部分羽の付け根に残った筋肉を唾液で溶かしたものだ.最初の働きアリが外に出てエサを運んでくるまで女王アリは何も食べないで生き延びなくてはならない. 窓枠に止まった羽アリはこれまで見たこともないほど大きなものだった.胴体のくびれの前後でそれぞれ1センチはあるから全長2センチという巨大なアリだ(色は黒).アリはハチ科だという話なので,これはもしかするとアリではなくハチだったのかもしれない.^^; アリの身体的特徴がウェストのくびれだとすればこれは紛れもなくアリと言ってよいような気もするのだが,あまり長い時間観察できなかったので,何とも言えない.くびれからお尻にかかる部分のカーブがスプーンの柄のように細くネット上の図鑑を見ても該当するものが見つからない. 女王アリは窓枠の辺りで右往左往しながらしきりに外に出たがっていたので窓を開けてやるつもりだったのだが,それよりも早く折から室内に吹き込んだ風をつかむと,緩やかにカーブを描きながらあっと言う間もなく天窓から脱出していってしまった.私の部屋の隣室に4月下旬から常駐しているくの一たちの正体が大体はっきりしてきた.観察する限りでは少なくとも3,4人が交代でこの部屋をモニタリングしているようだ.6月14日付けの「追伸:ハエと遊ぶ (後日談)」で報告した「ヒールの高いサンダルを履いた女の子」が隣室に寝泊りし,他の女性が不定期に訪問するという形態を取っていたようだが,つい最近この女の子は荷物をまとめて出て行ったようだ.(もしかすると任を解かれたのかもしれない) 私の直感ではこの女忍者たちが統一教会でないことは確実だったが,イエスの幕屋である可能性はかなり高いように思っていた.上記6月14日付のエントリを注意深く読まれた読者は多分私がその辺りをそれとなく暗示しているのに気付かれたに違いない.事実はどうもそうではなかったようである.「彼女たちは公安調査庁から来ている」というのが私の結論である.なぜそう判断したのかという根拠はここでは示さないが,まずほとんど間違いないと思う. 彼女たちが「国家公務員の身分」を持っているかどうかについては私は何とも言えない.007の国家諜報部員のイメージとはかなり程遠いものがあるし^^;,大体彼女たちがきちんと3食食べているのか?(食べられるくらいの俸給をもらっているのか?)という辺りで既に疑問がある.私のアパートを含むこの界隈の経済的レベルに合わせて「変装」しているのかもしれないが(笑)だとしたら,完全に風景に溶け込んで何の違和感もないということだけは保証しよう. 5月2日付けのエントリで私の部屋の前方に広がる「小さな草原」に棲息する一羽のキジのことを書いているのをご記憶だろうか?上記で「ヒールを履いた娘」が出てゆこうとしているのを私に告知したのは実にこの(仲良しの)雄キジだった.この「草原」は道一本隔てた向こう側に刑務所の塀のような高い塀で仕切られているのだが,声はすれども姿を見ることはできなかった.いつもは「コッ・ケーン」のようなやや雄鶏が時を告げるのと似た鳴き方をしているのだが,この日の鳴き方はいつもと全然違うものだった.もっと強く短く何かの警報を発しているような鳴き方で,しかも何時まで経ってもそれが止まない.立って窓際の方に行ってみると隣家の2階の壁の中から聞こえるようにさえ錯覚される近さだ.キジが家の中に閉じ込められているなどというのも考え難いので,ともかくズックを突っ掛けて草原が見渡せるところまで出た. キジは丁度私の部屋の真ん前に当たる斜面に完全に姿を露出して大きな声で「ギャッ・ギャッ」と叫んでいる.外階段から見下ろすと路上にその女の子が自転車を出して前カゴに大きなバッグを縦に押し込もうとしていた.バッグと言ってもGIが移動に使うような大きなズタ袋である.この日は黒と白の大きな格子柄の上着を(野暮ったく)羽織っていた.(前は光沢のあるブルーのバミューダに生成りのTシャツだったのをご記憶かな?)女の子はハンドルをひょろひょろさせながらようやくのことで発進した――しかし,この会社はずいぶん人使いが荒いねー.まぁ,それもトレーニングの一環なのかもしれないが...そりゃ,私のところは100%安全だからニュービーのトレーニングには打ってつけかもしれないけどねー. 古事記に雉の頓使(ひたつかひ)という話が出てくる.アマテラスが高天原から葦原中国を見て下界がずいぶん騒がしいので天菩比神(あめのほひのかみ)を斥候に出したのだが,3年経っても帰って来なかった.その後天若日子(あめのわかひこ)を出したところこれも向こうで下照比売(したてるひめ)を娶って住み着いてしまい,8年経っても復命しようとしなかった.そこで雉鳴女(きじのなきめ)を伝令に出したという話である.→葦原中国の平定 キジは天若日子の家の庭の湯津楓(ゆつかつら)の木にとまると大声で天つ神の伝言を叫び始めた.多分私のキジのように「ギャッ・ギャッ」と叫んでいたのだろう.天佐具売(あめのさぐめ)が「大変不吉な鳥でございます.射殺なされませ.」と言うので天若日子はアマテラスから授かった弓矢でキジを射抜いたが,矢はそのまま飛び続け天にいる高木神(たかぎのかみ,高御産巣日神)の足元に落ちた.高木神はその矢がすぐに誰の物であるかを見抜き「この矢が若日子のものであり,正しい心で射たのなら当たるまい.邪しい心で射たのなら必ず若日子の命を奪うだろう」と言って地上に投げ返した.矢は真直ぐに若日子の胸を貫き彼は寝床の中で即死した.これから「行ったきりの使い」のことを雉の頓使と言うようになったと言う. 「ヒールの娘」の上司も斥候に出したまま行ったきりに(どこに?)なってしまうのを恐れて呼び戻したのかもしれないね.それにしても「私は誘惑に弱いよ」って宣言してるのに全然そっち方面からアタックがかかってきませんねー.戦術を誤ってんじゃないか?て思うんだけど^^; ←おもしろかったら,ワンクリック!

2006年06月26日

外食などで牛肉の原産地表示の義務付けを求める回答は96%と圧倒的だった。

6月26日(月)7時12分 米国産牛肉、再開後も「食べない」6割…ネット調査  7月下旬にも輸入が再開される米国産牛肉について、6割の人が米国産牛肉を「食べたくない」と考えていることが25日、読売新聞社とNTTレゾナントが共同で実施したインターネットによるアンケ...

2006年06月25日

戸田の名物もつ煮を知ってるかい

全国一千万のホルモンファンの皆さん今日は。本日はここ、競艇で知られる埼玉県の戸田市よりお送りします。この戸田というところは大変に野蛮なところで、食人の習慣があります。なんでも内臓を煮て食うとのことで、競艇場の食堂で「もつ煮」を頼んだりすると、その中身が教育長だったりすることがあるようです。起立せぬ親と来賓調査 君が代式典で徹底図る 埼玉県戸田市の伊藤良一教育長が今月十三日の市議会で、同市立小中学校の卒業式や入学式の君が代斉唱の際に起立しない来賓や保護者について「はらわたが煮え...

2006年06月17日

日本の米兵受刑者は毎日シャワー、デザートと特別に優遇

☆米兵受刑者は毎日シャワー、デザートと優遇 政府答弁書(朝日新聞)http://www.asahi.com/national/update/0617/TKY200606160559.htmlhttp://www.asyura2.com/0601/war81/msg/303.html一般の受刑者が入浴できるのは、夏は週3回、それ以外は週2回。だが、米軍関係者は、土日を含めて毎日シャワーを使用させている。食事も、米軍から定期的に肉などが「補充食料」として現物支給。デザートは、アッ...

2006年06月16日

続・ヤラセは地球を巣食う

昨日の日記を読んだ人たちから、「日本テレビのヤラセ」について、たった1日で、もの...

2006年06月16日

自民党区議団が税金でライブハウスに出かけてノリノリ?

これもブックマークさせていただきます。*あれが噂の 「Welcome 情 報 源」!~ リベラル 国会議員が「国政調査活動費」で飲み食いしてたってニュースはここでも取り上げたことがあったけどさ。いやはやすごいねえ。

2006年06月15日

「自律的労働制度」という名の残業手当廃止法案!

その昔、東●府●工場に派遣されて正社員と同じように働かされていたが、とにかく残業が多くて参った。忙しい時など、4時間の残業予定(30分の夕食時間を挟んで21時30分まで)がホワイトボードに記入されているのである。飯を食うと眠くなってはかどらないので、休憩せずに集中して働いて20時30分や21時で帰ることもあったが、翌日上司(●芝の正社員)から「そんなペースでやってて終わるのか!」と小言を喰らうことになる。ところでその上司も同じように4時間の残業予定を入れていたのだが、7時から...

2006年06月14日

すごくすごく美味しいものを食べたり飲んだりしているとき

⇒参照 La Compagnie A-n 's BLOG ものの考え方 世界のとらえ方 2006.06.13 Tuesday 02:50|鶏頭蠍尾的畏怖尊敬 御紹介、頂いて有難う御座います。 西山水木さんが、私の語った内容を、「真髄」で御理解頂けていることが、なにより嬉しいです。 「超ひも理論」については、個人...