サンクトペテルブルクには一度だけ行ったことがある。もうずっと昔の話で、ソ連が崩壊する前のペレストロイカの頃であり、町の名前もレニングラードと呼ばれていた時代だった。私がこれまで実際に地面を踏んだ場所としては、アラスカのアンカレッジに次いで二番目に緯度の高い地点の経験になる。昔は日本から欧州に飛ぶ航空機はソ連領の上空を飛行することができず、まず迂回してアンカレッジに立ち寄り、そこから北極海をクロスして欧州の空へ入って行った。思い出すと懐かしいが、トランジットで降りたアンカレッジ空港のロビーには日本語が堪能な原住民(いわゆるエスキモー)のおばちゃんたちが待っていて、「はい、免税ブランデー」「はい、マカデミアンチョコ」と元気よくお土産品を売り捌いていた。あれは復路便の機内の貨物に入れてくれたのだろうか。アラスカは寒かったが、おばちゃんたちを見ると外国に来た感じがしなかった。おばちゃんたちはどうなったのだろう。サンクトペテルブルクには行ったが、実はホテルに着くなり体調を崩して熱を出してしまい、貴重な二泊三日の観光の日程を部屋の中で寝たきりで過ごしてしまった。エルミタージュ美術館とペトロパブロフスク要塞と聖イサク寺院の見物が含まれていたが、残念ながらそれらを見ることはできなかった。二度と聖彼都に行くことはないだろうと思うと、少し残念な気持ちになる。ホテルは市内北西のプリバルチスカヤで、ホテルの前庭がそのままバルト海の浜辺になっていて、バルト海の海水に両手を浸したことを覚えている。アルバムにバルト海の真っ赤な夕陽を撮った写真が残っている。GW期間中で、日暮れは午後10時頃ではなかっただろうか。それほど立派なホテルではなかったが、モスクワ五輪のときの建物で、ツアーで使わされたホテルの中では一番まともだった。ホテルのカフェにフィンランドから遊びに来ていたギャルの一団がいて、ここへよく遊びに来るのだと言っていた。
フィンランドのギャルと書いてしまったのは、彼女たちが本当に明るく元気よく見えたからで、実はそのときはソ連国内に入って一週間が過ぎていたが、街で見る大人たちの顔に生気がなく、人々の表情が重苦しく鬱屈していて、これ以上耐えられないという険悪な目をしていたからである。われわれ日本人旅行客を見る視線が困苦と苛立ちと羨望を訴えていた。それが何故かは観光客としての体験だけでも一日目から全てが理解できた。食事がひどかった。思い出してもぞっとするが、テーブルに出されたもので口に入れられるものは何もなかった。パンはカチカチで味気なく、マーガリンの味は不気味で、ステーキだと言って出された黒い肉の塊は歯が折れてしまうほどの異常な固さで、ナイフで切ることさえできず、噛んで胃袋に入れようという気が起こらなかった。バイカル湖のレストランで出た鮭は塩の固まりで、食塩をそのまま食えと言われているのに等しく、一口で吐き出して手が止まった。
ザクースカはひたすらまずく、コーヒーは黒い泥がカップの底に溜まるようで、日本の六十年代のネスカフェの粉末飲料より十倍粗悪で、とにかく三度の食事で食えるものが何もなく、食事の時間が苦痛で苦痛で仕方がなかった。私は何をしたかというと、ホテルの国営ベリョースカ・ショップに足を運び、そこでハイネケンとレーベンブロイを見つけて、それを口に流し込んで一週間を生き延びていた。オランダとドイツの缶ビールのおかげで命を繋ぐことができた。覚えているが、モスクワで泊まったホテルロシアはバカでかい建物で、ベリョースカは玄関から外へ出て二百メートルほど歩かなければならず、私は毎度の「食事」のために往生させられた。部屋やシーツの汚さとかトイレの不潔さは次第に慣れたが、食事のストレスだけは何ともならず、遂に旅行終盤のレニングラードで体調を崩して発熱するに至ったのである。日本に帰りたい気持ちだけで、エルミタージュ美術館などもうどうでもよくなっていた。
関連して紹介したい件が一つあって、帰国して暫くした頃に岩波新書から出た渓内譲の「現代社会主義を考える」があり、その冒頭にこう書かれている。「一九八七年一一月七日、ソ連は革命七○周年の記念日を迎えた。(中略)ソ連一国のみであったこの体制は、第二次大戦後、東欧、アジア、ラテンアメリカへと拡大して今日に至っている。(中略)これらの体制群は国家間の関係においても、それぞれの国内問題においても深刻な困難と矛盾を抱えているが、しかし近い将来、内部崩壊することはありそうもない(P.1-P.2)」。初版第一刷は88年1月。ベルリンの壁崩壊が89年11月、ソ連崩壊が91年12月。この新刊を書店で買って読んだとき、私は実際に自分の目でソ連国内を見てきたばかりだったから、渓内譲ののん気さと言うか神経鈍感に驚き呆れた記憶がある。今すぐにでも崩壊しておかしくなかった。中の人々は倦み疲れきっていた。こんな体制が長続きするはずがない。旅行した者の共通の感想だっただろう。
新書は現在品切で重版未定。渓内譲はこの当時は東大社研の重鎮だったはずだ。岩波書店から出ている「スターリン政治体制の成立」全四巻は日本の社会科学の屈指の名著と言われていて、学生の頃は必読文献の一つとして指定され、教官が板書しながら「読んだ人いますか」とよく聞いていた。この岩波新書にポロッと書いた一言で碩学の名誉を傷つけた気配がある。これとのコントラストでどうしても挙げておきたいのが、一方の小室直樹で、80年に光文社のカッパブックスで「ソビエト帝国の崩壊」を出し、周知のように今では現代の預言者として崇め奉られている。この本は私も店頭で見た記憶があるが、当時は他にも似たような本は多くあったような印象があり、小室直樹だけが特別に絶賛される理由がよく分からない。ソ連崩壊を願い望む論者たちが、同じくそれを願い望む人々に向けて商売で本を売っていた。中国崩壊を言っている本と同じで、そういう本は無数にあり、中国が崩壊したら著者は預言者になるのだろうか。
ソ連崩壊についての考察と予言は78年のダンコースの方が早かったという声もあり、私は別にどちらが先でもいいけれど、民族問題にフォーカスしたダンコースの「崩壊したソ連帝国」は、確かに売らんかなの商売本の装いではなく、最初から社会科学の良書として論壇とアカデミーで紹介されていた。渓内譲と小室直樹の二人のことを思いながら、私が何を考えるかと言うと、当然ながら、日本の平和憲法体制という問題である。私はすでに予言をした。そして体制防衛のための最後の提案もした。匿名ブログでの発言だから、当時で言えば、小室直樹のカッパブックスと同じかそれ以下の卑賤な立場からの議論ということになる。碩学の小森陽一は、地域で末端が九条の訪問販売に精を出していれば大丈夫だと言っているのだが。
| このブログのURL
|この記事のURL