富山県の射水市民病院で延命措置が中止され、入院患者7人が死亡した問題に関連し、ネットでも尊厳死に関する議論が盛んに行われている。
仕事で取材しているので、本論に立ち入ったことは書けないのをまずお断りしつつ、自分なら、と考えた場合、非常に矛盾した立場にあることを思い知り、とまどっている。
この議論には「唯一の正しい答え」というものは存在しないのであろう。その人の生死観、宗教観、家庭や経済などを含むその人がおかれた環境によって、様々な答えが出てくるからだ。
僕自身については回復不能な状態になったのであれば、命が消えるのを先延ばしにするだけの延命措置は不要と思っている。ただし、僕がそのような状態になった場合、最終的な判断は妻と子供に任せる。彼らの気が済むようにしてくれればよい。彼らがそうすることにより、安心や満足を得られるのであれば、僕の命の最後の使い道として悪い使い道ではなかろう。
そして、現在幸いにして健在の両親について言えば、両親の意志に従う。オヤジもオフクロも延命するだけの措置はいらないと言っている。たぶん、その状態になれば悩むと思うが、姉などを含めた親族で話し合い、最終的には延命措置を中止するだろう。
しかし、子供となるとこれは一筋縄にはいかない。長女、長男と幼児なので、死という概念すらさだかではない。しかし、彼らに死という概念ができて、彼らが尊厳死を望んだとしても、僕はその意志に従うことはできないと思う。可能性がゼロと言われたとしても、奇跡を信じて、延命措置を続けるに違いない。
妻についても微妙だ。彼女の意志も僕同様の延命拒否で、本人の意志を尊重しようとは思うのだが、その場面になったら自信がない。どんな形でも良いから生きていてくれ、と延命措置を施してしまうかもしれない。
延命措置については何らかの指針は必要だとは思う。ある程度の決まりがあれば、患者家族に対する精神的・経済的負担を減らせることは確かだろう。それをある制度化するために、回復不能の患者に対する延命措置は保険適用外にしてはどうか、と提案する人さえいる。
理論的にはそれが正しいのかもしれない。しかし、しかし、だ。
両親、自分、妻、子供と僕の家族を考えるだけで、そういう指針が機械的に適用されてはかなわないと思う自分がいる。実際に決断の場にたたされた人のブログを読んでも自問が深くなるばかり。分からない。しかし、分からないからこそ、尊厳死に関する考察を自分の中で深めていきたいと思う。たぶん、深めても答えはでない。延命措置を中止しても続行しても、自問や後悔の念は必ずつきまとうであろう。しかし、深めなければ、尊厳死について目の前で判断を求められ、下したときに、その後悔の念はよりいっそう深くなると思うからだ。
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