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2005年12月31日

昭和80年の今年も終わるが、結局、天皇の戦争責任は不問

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今年もあと少しとなりましたが、コイズミ自民党に投票した国賊の皆様、いかがお過ごしでしょうか。

オマエラの所為で、憲法も風前の灯がほぼ決定。来年は、ますます住みずらいスバラシイ日本が待っていそうです。拉致された日本人も、餓死するかも知れません。

いいだもも が、雑誌『en-taxi』にて三島由紀夫宛に書いておりますよ。

かれ三島は、生前自分の口から、「おれは2番、1番はいいだ」「いいだは日銀で、おれは大蔵省」と、2番ヴァイオリンを自認するケンジョウ奇特な学友であったが、もうそろそろマクラを高くして寝たらいいんじゃないかね? 皇室典範改正で「女性・女系天皇容認」ということになり、精神病院を出たり入ったりしている母后の鼻タレ小娘が久しぶりに「女性天皇」になることがきまったのだし、念願の日本国憲法第九条(戦争の放棄・戦力放棄条項)が廃止・改憲される「自民党結党50年記念・新憲法草案」が出たのだから。もういいじゃないか。
念願だった自衛隊の「国軍」への昇格が、第三次小泉内閣下で自衛省国防大臣の管轄下に決まったんだよ。それでもダメかね? 鼻タレ女性天皇や今春サマワ撤退必至の自衛隊では、マスラオぶりにふさわしくないかね?


三島が望んでいた日本が、来年にも実現されようとしているかに見えるが、当の三島が望んだ日本なのかどうか疑問だ。

昭和80年の今年、コイズミの靖国参拝が問題となったが、俺にとっては、首相の参拝なんぞ極論すれば、「文学的な事」であって、本質は昭和天皇の責任問題の決着をどうするのかってのが重要な事だったのだと考える。

中共のおかげで、A級戦犯が問題となった今年が、その議論を深めるチャンスだったはずだ。それも出来ずに終わったことで、「あいまいな日本」という伝統はズルズルと継承されて行くのだ。『男たちの大和』で流される鼻水とともに。

昭和20年、8月15日。昭和天皇の肉声「終戦の証書」は、ラジオを使い全国に放送された。これを聴いた高松宮は、海軍省軍務局次長の高田利種少将に、

「証書の中に、天皇が国民にわびることばはないね」

と語った。たしかに証書では天皇自身の責任について何の言及もなかったのだ。また高松宮は、昭和天皇崩御後に、「あの戦争は陛下がお停めになろうとすれば、お停めになれたはずだ」と評論家加瀬英明に語ったともいう。

20年11月1日、伊勢神宮に参拝、「終戦の報告」をした。国民は犠牲となったが、「3種の神器」は守られた事を喜んだ。そのころ、国民は食料確保に必死の状態。列車は鮨詰め状態で、圧死する人もいるというのに…。本人は、お召し列車で優雅に参拝だ。

同、11月19日。新聞では、餓死者が全国的にでていることを報道。仙台では1日平均1人、横浜では3人、東京では多い時は日に6、7人。その時、宮城では、朕はたらふく喰っていたというのに。

同、11月21日。ミカドは敗戦後始めて、靖国神社に参拝した。国民への謝罪なきまま、何を祈ったのか。合祀された兵士は、天皇の命令で戦死したものたちだ。

同、12月18日。巣鴨刑務所に出頭する当日の朝、元首相の近衛公爵が服毒自殺。自分が戦犯で逮捕されて、「陛下に責任が及べば生きておれない」とこぼしていた矢先の服毒自殺。どう考えても、自分の身替わりと天皇は考えなかったのだろうか。

近衛は、10月21日、AP通信東京特派員ラッセル・ブラインズのインタビューに答え、「天皇の御退位手続きに関する規定は、現行の皇室典範には含まれていない。(中略)憲法改正にあたる専門家は近く、改正皇室典範に退位手続きに関する条項を挿入する可能性を検討することになろう」と語っている。
近衛は、天皇が退位されることにより、戦争責任をとることを考えていた。

明けて、21年元旦。昭和天皇は「証書」を公布した。

「然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ体威ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」

いままで絶対的な「現御神」と君臨し、それを批判する国民を「大逆罪」として処刑虐殺または、拷問しておきながら、それをいとも簡単に180度の方向転換。臆面もなく「信頼」だの「敬愛」などという。天皇を祭り上げてきたのは国民であって、朕は知らんぞと言うのか。

「惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ」

開戦の詔勅にハンコ押して、国を破滅に導いた当の本人が自分はそのことには何もかかわりあいはないって宣言に等しい。国民の「焦躁」も「詭激」もそのほとんどは自分の責任から起きている事だと心が痛まないのか。「道義ノ念頗ル衰へ」たと言っているが、戦争責任を放棄した自分の事は棚に上げて、よくも最もらしい事が言えるものだ。道義が衰退した根源はそもそも戦争責任を取らなかった天皇自身にあるのではないか。反面教師としての自分の存在を自覚してくだされ。「深憂ニ堪ヘズ」はこっちのセリフだ。

「一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」

「一年ノ計ハ年頭ニ在リ」と言った男が、戦争責任を放棄しておきながら、国民に対し「自ラ奮ヒ自ラ励マシ」などというのは笑止千万なり。

この証書の原案を書いたのはGHQだった。天皇の利用方針をかためていたGHQとしては、「民主化された天皇」のイメージを、国際世論とくに米本土の世論に強くアピールする必要に迫られたからであった。

同年、1月16日。新聞に「転落の復員軍人を…聖上深く御憂慮、復員省、異例の上奏文」という見出しで「『特攻隊くずれ』の厭わしい名の下に強盗にまで転落する者さえ出た。この暗澹たる状態について、天皇陛下は頗る御憂慮遊ばされ、さきに第一、第二復員者に対し『復員軍人で犯罪者に転落する者もあり又特攻隊くずれなどという言葉さえ見受けられるが、現状はどうか、これを善導することは出来ぬのか』という御下問があった」という記事が出た。

国全体を暗澹たる状態に追い込んだ責任もとらずにいる天皇に復員兵の「善導」を云々する資格はあるのだろうか。

同年、2月21日、天皇は、横須賀の久里浜の引揚援護所に行幸。サイパンからの復員兵とこんな会話をかわしている。

天皇「戦争は激しかったかね」
兵 「はい、激しくありました」
天皇「ほんとうにしっかりやってくれて御苦労だったね。今後もしっかりやってくれよ。人間     
として立派な道にすすむのだね」


決めゼリフ「ああ、そう」がなかっただけ救いだが、あまりにも「気配りのない」空虚な会話だ。俺だったら、「苦労をかけてすまなかった」と、ねぎらいの言葉をかけるがな。もしかしたら、昭和天皇は無自覚だったのかもしれない。かえってその方が救いのナイ話だが。

俺たちが、もし不慮の事故で他人を傷つけたり、あやまって死なせてしまったら、それで一生を棒にふらなければならない。それが、法治国家として当たり前のことだ。ところが、天皇の場合は違う。自分の詔勅で多数の国民を悲惨な運命に追い込んでおきながら、まるでそんな事実はなかったかのように、出迎えの『支配されたがる国民』にたいし「帽子をふって」こたえていた。もちろんこれも側近の演出なのだろうが。

今年、最後になって、我が日本は「偽造マンション」で大騒ぎだが、そんなことは驚くに値しない。

無責任を貫き通すスバラシイ伝統は、60年前、わが大御心が身をもって我々に示してくれているのだから。

2005年12月31日

トホホ戦争映画観る前に読め 『戦艦大和の最後』

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俺は、第2次世界大戦の大好き人間だ。子供の頃、よく読んでいたマガジンやサンデーのグラビアを飾っていたのはゼロ戦戦艦大和であり、そのカッコ良さに憧れていった。決定的だったのは、小学校4年生のとき(1971年)に放映されていたアニメ『決断』を見た事である。太平洋戦争をアニメ化したもので、絵もリアルな劇画調のものであった。クラスの同級生が『仮面ライダー』にうつつを抜かしていた頃、俺は『決断』を見ていた。提供はサッポロビール。世界の三船が出演していた『男は黙ってサッポロビール』のCMも、今思えば『決断』の男らしい世界にピッタリだったのかも知れない。

http://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/

これをきっかけに俺は日本軍大好き人間になってしまい、しまいには、いまでも発行されている、戦争復古調雑誌『丸』を毎月、親に買ってもらい、わけ判らず日本海軍のファンになっていたのだ。

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2005年12月30日

そして、年がまた重なる

日付が変わって、とうとう12月30日になった。あと1日と少しで、2005年も終わる。そう言えば、昨年の今ごろは、スマトラ沖地震が年末年始気分を吹き飛ばしていたな、とか、いろんなことを思い出しながらメールをチェックしていたら、学生時代の古い友人から久しぶりにメールが届いていた。 彼はいま、本州の山間の小さな町で家業を継いでいる。学生時代のある時期は、ほとんど毎日のように顔を合わせていた。なかなかの好漢で、冗談好きで、明るく、穏やかで、モテた。しばらく話もしていなかったが。メールには、こう書いてあった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ こちらはと言えば、ひと言で言えば、家業の不振に喘ぎつつ、三人のこどもと妻、両親のために「死なない」で必死に戦っております。億の位の借金を抱え、体力の限り頑張っても、頑張っても頑張ってもなかなか事態の打開には至らないのが現実です。この状況で精神的にも鍛えられ、学生時代の(略)はすっかり影をひそめてしまいました(笑) 君の「新聞とは何か?」という自問に負けず劣らず、「生きるとは、人生とは?」を毎日考えずにはいられません。「今までの人生、ほんとに甘かった。人に甘えて生きてきたんだな」と自分を責めたり、でも一方でそうは思えない自分もいます。 この一年、身近なところで三人も自ら命を絶ちました。その度に、自身の命も削られる思いです。あまりに過酷だと思います。普通の人間が普通に努力してるだけでは普通に生きられない社会。この現状に憤りと虚しさをおぼえます。そういう意味でも、けして負けるわけにはいかないのです。もがいてはいあがって、必ず事態を変えてみせます。「逃げない」ことがこどもたちへの 自分ができる最大のメッセージだと思っています。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 彼が住む本州の山あいの町は、早くも雪に覆われている。今年の冬は厳しい。東京に居ても本当に寒いから、彼の町はこの何倍も寒く感じるはずだ。 そして、何の脈絡もなく、BigBangさんが少し前に書かれたエントリ「僕はいつ『ブロガー』」などという謎の生き物になったのだろう。」を読んだ。「僕らは静かに消えていく」も読んだ。 友人からのメールも合わせ、どれもが心に染みる。友人はメールの最後に「ありきたりですが、ばらばらにされた一人一人を結ぶ大きな仕事を君の力でぜひ実現してください。期待しています」と書いていた。その言葉を聞くことが、いまは苦しいくもある。けれども、私も他の誰も、進むことを止めるわけにはいかないのだと思う。進んでいる方角が分からなくても、足を前に出すことは止められない。。。いつの間にか、私や私のような世代は、そういう年齢に達しているのだ。 ではまた、来年に。 コメント欄で頂いた書き込みに、ぜひこれは返事せねば、と思うものも多々ありましたが、ごめんなさい、年をまたいでの返答にしたいと思います。

2005年12月29日

「一人旅」について

年末の雑用を種々片付けながら、メディア論を専攻する大学の先生から「読んでください」と渡されていた本を見つけ、パラパラとめくっていた。「ジャーナリズムの情理-新聞人・青木彰の遺産」という1冊で、産経新聞社から出ている。「一昨年死去したマスコミ界の重鎮で筑波大学名誉教授・青木彰氏の仲間と弟子たちがジャーナリズム復権へ、思想や立場を超えてつづった」内容だが、私が一番引かれたのは、高知新聞の依光隆明社会部長さんが書かれた一文である。高知は私の郷里で、依光さんも既知の方ではあるが、この本に収録された依光さんの文章は、やはり、「志」の塊みたいなところがある。 <「一人旅」の十五年―高知新聞の試み>という文章の中で、依光さんは1990年代の初頭から、高知新聞のスタンスは変わったのだと書いている。最初は高知県庁のカラ出張問題だったらしい。今では役所の不正経理は「常識」みたいになってしまったが、当時は今以上の大ニュースだった。ところが、高知新聞の社内では当時、取材チームに対し、「カラ出張は必要悪だ」「予算を有効に使うために編み出されたシステム」といった声が出てきたのだと言う。それでも、高知新聞は徹底追及を続けたらしい。その中で、社内の雰囲気も変わった、と依光さんは書く。感じ入るところがあるので、以下で少し紹介したい。 ●悩みの一つめ。県庁には権力が集中している。一方で高知新聞の世帯普及率は7割を超えている。権力の中枢と言論の中枢。この両者がガチンコでけんかしたらどうなるか? → 結局、何も起こらなかった。むしろ、読者は応援してくれたし、部数も減らなかった、と。「両者がケンカしたらどうなるか」という県庁に対する思いこそが、自らの手足を縛っていたと、依光さんは言っている。 ●悩みの二つめ。情報源が無くなるのではないか? → 過去に培った情報源は細くなったが、新しい情報源もできた。取材のスタンスを「県庁密着」型から大きく転換したのだから、取材源は変わって当たり前。問題はないし、なかった。 そうこうしているうちに、編集局内では「県民の側に立つ」「官の理屈に流されない」「官製ネタに頼らない」「ネタは全部自分で探し出す」「オフレコは認めない」といった姿勢が固まってきたという。オフレコで聞けば、もう書けない。ならば、聞かずに探り出した方が良い。そして、編集局内では「書けないネタを聞いてくるな」という罵声が飛ぶようになったのだ、と。相手方はたいてい、オフレコで話を打ち明け、報道を止めようとする。そこに「オフレコ禁止」で切り込んだ、と。 その後、高知新聞は「県庁の闇融資問題」や「県警の捜査費問題」等々へと、次々に焦点を当てていく。依光さんはそして、こう書いている。少し長いが引用したい。 「県警との衝突は以後、ずっと続いている。高知県警の捜査費問題を他者はほとんど書かない。つまり、県警の攻撃対象は依然として高知新聞だけで、このままでは高知新聞だけが(何かの事件について)ガサ入れ(=家宅捜索)を知らなかったという悪夢が現実になるかもしれない。だが、それはそれでいいのではないか。ガサ入れを(他社に)抜かれたところで、県民生活に影響は無い。しかし、捜査費問題を書かなければ、県民はまっとうな報道機関を持てないことになる」 「近年、高知新聞では先輩が後輩にこんなことを伝えている。『半日や一日早いだけの特ダネは特ダネではない』と。例えば県が決定したプロジェクトを半日早く書く。間違いなくこれも特ダネなのだが、本当に目指すべき特ダネとは違うぞ、『それを書かなければ表に出てこないことこそ真の特ダネ』という意味だ。闇融資にしろ、捜査費にしろ、高知新聞が報じなければ表に出ることはなかった」 「後輩に伝えるということは、言っている本人の決意表明という意味もある。半日や一日早い特ダネはやりがいがある。他社が追いかけて報じるからだ。他社が追いかけてこそ、出し抜く気分を味わうことができる」 「しかし真の特ダネはそうならないことが多い。闇融資も捜査費もキャンペーンを張ったのは高知新聞だけだった。全国的にほとんど知られることもなく、いわば孤独に耐えながら報道を続ける。このことを高知新聞では『一人旅』と形容している」 「(平成)16年から高知新聞は『市場原理』が幅を利かす今の日本社会にメスを入れ始めている。市場原理の浸透によって、高知のような辺境は存廃の危機に立たされる。であれば、高知に視座を据えた報道が居るのではないか。東京の視座と高知の視座は違うのではないか」「郵政民営化へのスタンスも、東京で発行している新聞と地方紙は違っていい」「財務省が喧伝する『地方の無駄遣い』論にしても、地方紙なりの厳密な報道が要るのではないか。景気も同様で、東京の景気回復ではなく、高知の景気の深刻さを軸にすべきではないか」 「他紙がどうあろうとも、権力者の思惑がどうあろうとも、書くべきことを淡々と書く。おそらく、高知新聞はこれからも、地方紙らしい『一人旅』を続けることになるだろう」 引用が長くなってしまったが、本文はもっと長く、凄みがある。「半日早い特ダネ」を軽くいなし、「書けないネタを取ってくるな」とオフレコ禁止を励行し、巨大な行政機構や警察機構と鋭く対峙しても、「一人旅」宣言を撤回する気配すらない。こういう腹の座った幹部というのは、実際は、新聞業界にはなかなか居ないものだ。高知新聞には実は、上にも下にも、依光さんのような腹の座った幹部や記者が大勢いる。この1年余り、そういった大勢の方々と高知や東京、大阪などで一緒に酒を飲む機会等があったが、(当たり前のことだが)視線はみんな、見事に読者・県民を向いていると感じた。 たぶん、そういう新聞こそが、本当に強いのだ。