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2007年12月19日

医療用語の辞書をいただいて感激

昨日いいモノをもらった。『日本語-英語-タイ語医療用語集』という辞書で、すごい力作だ。MICかながわタイ語医療勉強会というNGOが作成して配布している。確かもう昨年になってしまうと思うが、県の国際課を通じて予約の希望を聞かれたので、欲しいと答えておいたまま忘れかけていた。そんなにたいしたものだと思っていなかったので見てびっくり。医療用語がこれでもかって程集録されている。タイ語の基本知識にも触れてあり、日本語にはローマ字読みもついてタイ人にも日本人にも使いやすいものとなっている。索引も両方の言語からひける。こんな素晴らしいものを無料でいただけるとは、これはもう有効活用させていただかないと申しわけない。嬉しくてパラパラ見ていた。本って本当に楽しい。難しい用語は歯が立たないからともかくとして、ふうん、って思うのがたくさんある。

精神科の関係の用語の中に「むなしい」というのがあった。タイ語で何て書いてあるかと思ったら「自分なんて何の価値もないと感じること」とある。なるほど、で、ついでに周辺散策。精神科の症状のページを見ると「つまらないことで悩む」「他人は皆幸せに見える」「注意を持続させることが難しい」「人の話しを聞かず、自分の世界にいる」「指示に従えない」「勉強や手伝いを最後まで仕上げられない」「すぐに飽きてしまう」「覚えられず忘れやすい」「危険や困難なことは避けて通りたがる」…なんてのが並んでいる。こ、これは私だって大いに心当たりがある、ということは、この症状をもって精神科を受診したらクスリを出されるかもしれないということだろうか。で、もしかしてこういう症状はクスリで改善するのだろうか。そのあたりは書いてないが。内分泌系の治療に関する用語では「海草」というのがあって、その中に「昆布」「ひじき」「ワカメ」「海苔」がある。で、どう訳すのかと思ったら、全部「海草の一種」になっていた。筋肉や骨の名前も網羅。日本語だけだと見る気にならないものもタイ語があると退屈しない。ありがたい。

2007年12月17日

いよいよ残り少なくなってきた感想

暮れだからというわけではないと思うが、うまいこと一段落してゼロに戻っている。今年に持ち上がった話しはすべて流れた。友人によると今年の私は大殺界なのだそうだから、これでいいのであろう。組織に所属しないかという誘いの話は激しく迷った挙句に断り、持ち上がった仕事で規模の大きいのがあって、これは流れると予想していたわけではないしスタートは順調だったし、自分の問題ではないのだが、なぜか跡形もなくなってしまった。これが痛かった。そんなこんなで、ああもうヤダ、安定が欲しい、と就職活動もどきをしてみたが、こっちはそもそも最初から期待していない。歳も歳だし使える資格もないし、就職に有利に作用するような経験も技術もないし、何もない。ただそういうことを確認しておけば諦めがつくということだけだ。今、目がいくのは年末年始のアルバイト求人。年末年始はひとりなのでバイトするのも悪くない。来年はどっかに旅行したい。そういうことをしてみたくなる年頃でもある。

こういう時にウサギがいなくなったのも何かの符合のようでもある。踏ん切りつけなさい、とか。それにしてもどこに行ったんだ。娘が穴に手を突っ込んで念入りに探したがいない。この檻では逃げようがない。誰かが持ち去ったか。それもちょっと考えにくいけど可能性としてなくはなく、物理的には充分可能。こういうのはまさにタイ語でงง(ンゴン)なのだ。呆然となる、とか、何が何だか分からない等の意味。タイ語の字面もかわいいが、ココアちゃんもかわいかった。どっかで元気にしているか、どっかで楽しく暮らしていると思うことにしよう。さようなら。おかげでタンポポとクローバーのある場所を覚えてたくさん採りました。今日は忘年会に遠方に行く。大きな出費。でも、ゼロの時に縮こまっているとますますもぐっちゃうからなあ。ココアちゃんは穴掘りで身を挺して教えてくれたのかもしれない。ここまでくると、来年が楽しみになってきた。でもまだ殺界にあるらしい。自分は詳しくないから友人の受け売りであるが。今週から掃除にかかろうという気になった。前向きっぽい。

2007年12月16日

最低限必要な知識『戦後アジアと日本企業』

睡眠前読書で読み終えた本。いつ買ったのか覚えてないが発行は2001年。多分以前にも読み始めて挫折していたと思われる、開いた形跡がある。著者は小林英夫先生。テーマとしてはとっても興味ある分野なのだが、1度挫折したのは、多分、文章の平坦さに退屈したんだと思う。こういうものに面白さを求める方が間違っているとは思う。しかし、資料で必読の場合は線引きながらどうしても読むわけで、その時には表現の如何は気にしないけど、趣味で読む時は読みやすさとか面白さというのを求めてしまう。で、岩波新書って、そのへんがこう半端な感じがして、このところ読みにくく感じている。新書の役割というか、求められるものが変わってきて、私も時流に乗っているってことかもしれなくて、そう思うのはなんだかしゃくな気もするが、なんて…何を言い訳しているんだか。とはいえありがたい視点を含んでいることは確かです。それは、日本企業やその他の国の企業のアジアでのプレゼンスの大きさの背景に何があって、歴史的にどう変遷してきたかって点。何のかんのいいつつ、興味深く読んだのだった。

帯は「変動するアジア経済、その底流を探る」。まさにそれ。私がタイから帰国したのは1996年で、翌年にタイへ行った時が、ちょうどタイに端を発したアジア通貨危機の始まりで、それまで米ドルと連動していたからそんなに変動がなかったバーツが突如として変動相場になっていて、銀行には正式なレートが表示されていなかった。この本は、このようなアジアにおける経済的大変動を論じたり、対応策を提示する際に、これまでの蓄積、つまり歴史的視点があまり考慮されていない、という問題をまず提起している。そこで、戦後補償という役割からスタートした日本企業のアジア進出から今日までの歴史をたどっているわけだ。タイへの日本企業の進出ぶりはすごかったが、私が経験した時期というのは、ちょうどアジア経済圏の発展とバブル期ということになる。70年代に直接投資が盛んになって、次の進出ラッシュの時期で、下請け企業が出ざるを得なくなって日本では空洞化が進んだ。経済の知識のない私のような者にも分かりやすく、最低限必要な知識を授けてくれる。やはりありがたい、いい本なのだった。

2007年12月16日

スゴイ、スゴイを連発した昨日

不規則な生活だ。昨日も夜中まで店にいた。昨日は夫の兄が電車と新幹線を乗り継いで来てくれた。彼はIT業界が長いので、パソコン関係で何かあるとすぐに来てくれてすぐにトラブルを解決してくれる、大変ありがたき存在である。ここ何年かそういう用事もなくて会ってなかったが、夫が、店でネット接続できるようにしたくなったらしく、あちこちで配布しているヤフーのパッケージをもらってきたが、どうしていいか分からなくて頼んだようである。一緒に駅に迎えに行く車中で「今どこで働いてるの」と尋ねた。以前は米国の企業だったがそれを辞めてオーストラリアに行くって言って、それも変更してまた東京で勤務している程度しか知らない。「東京の会社。給料が安いってぼやいている」と夫が言うから「ふうん、いくらなの」と聞いて、その返事を聞いてびっくり。安い時の我が家の年収が月収であった。「ええええ、それで安いってことは以前は一体いくらよ」である。首都圏に近い場所に土地買って家建てて、タイの故郷の村に豪邸建てて、日本人の妻子を養っている。年の半分は海外出張で、時には何ヶ月も帰宅しない。「この間香港に行った時も、洗濯物をウチに送って、新しい服を送ってもらった」というくらいのスケジュール、らしい。それでいて、何かあると飛んで来てくれる。

彼らの双子の子達は今年高校受験だ。「同じ高校に行くの」と聞いたら「多分別々」ということ。我が家と違ってデキの良い子達であるのは知っているが、もっとデキのいい父親にしたら「勉強できない。塾に行っても伸びない。僕の払っているローンより高い塾代払っているのに伸びない」ってことになる。で、その塾代が月額30万円である。私なんか昨年、息子の塾代に月額3万円を3か月だか4か月だか払った時にムカムカして、こんなにかけて出来ないしで怒りまくっていたのに、桁違いじゃないか。いくら2人分とはいえ…。世の中ってすごいことになっているんだな。こんな田舎で呑気にしている場合じゃないんだな、って思ったところで、かといってそこまでする価値を私は見出すことはできない。カネがないという条件を別にしても。まさにソコソコの高校に通って勉強するでもなく、かといって得意分野があるわけでもなく、煮るにも焼くにも半端な息子はこの社会をどう生き延びるのであろか、って心配する前に我が家はどう生き延びるのか。「男の子だからいいよ、ウチは女の子だからねえ」と夫の兄ちゃん。それは分かるな。女は自立できる職業を持たねば、男のように肉体労働って選択がない。ところが日本人だとこれが逆になりやすい。「女の子だからソコソコで」って言う人が今だにいる。そりゃあないでしょ、と思うけど面倒だから黙っている。まあ、性別関係なく高度な知的労働偏重社会になり、当然あぶれる人々が増える。その不安が現代の不安であると思う。現代に適応型の人はいい世の中だろうけど。

2007年12月15日

息子のアルバイト初日

息子が今日から初めてのアルバイトに行った。魚屋の年末年始限定のバイト。彼については問題だらけなのだが、高校生にもなって矯正っていっても言葉で言うしかないから、それをどう理解したり反発したりはご自由に、と開き直らないとこっちがおかしくなる。それは防がないとならない。自分をもちこたえるために、このところ寝てばかりいる。それに彼は彼でもう自分の世界を作っているんだし。アルバイトの件は以前から話しにでていた。息子のようなタイプはアルバイトでもする方がいいと思っているから「やりたければやればあ」と言っていた。夏休みの怠惰な態度を見て冬休みは絶対にバイトして欲しいという気もあったが、こっちから言うのは面倒なので放っておいた。ただし「勝手に決めてはいけない、連絡してみたいのがあったら事前に必ず親に言うこと」だけは言い渡しておく。そしたら魚屋が大量募集しているというのを見つけてきて「ここがいい」と言うから、魚屋なら、魚の名前覚えたり魚のさばき方でも上手になってくれたり、アラをもらえたりしたらすごく嬉しいから賛成。

「本当に興味があったら早く連絡すること、言葉遣いは丁寧に、時間は厳守」等の基本を伝えると「何て言えばいいのか」と聞く。そうだな、そういう事も知らないわけだが、それで自分は一体どうしていたんだろうかと遥か昔を振り返ったが、何も思い出せない。高校生の頃に郵便局で年賀状の仕分けのバイトをして、ものすごく辛くて、確かじきに挫折したような記憶もあるが不確か。学校からバイトの許可を取ったという報告。それからしばらくして学校からの帰路に「電話したら来いって言うから今から行く」という報告。それから「決まった」という報告。そして報酬を振り込むための通帳作りは手伝うことになった。銀行の営業時間に高校生が行けるわけがないからだ。それで今日は初日。ベッドで読書していたら勝手に出て行った。昨夜は部活関係費用で27000円請求された。この間、いいなって思ったが我慢したコートの値段とほぼ同じ。バイトして払ってくれと言いかけたが、よくよく困った時に言った方が説得力あるから我慢した。子供に関しては一瞬一瞬が調整の連続だ。

2007年12月14日

外国人施策に関する講演会骨子等

昨日のことになるが、本県で最も外国人登録者の割合が高いU市で「外国人施策に関する国の動向と多文化共生のまちづくり」と題した講演会があった。少し前にチラシをもらっていたのを忘れていた。このタイトルが太字になっていれば絶対に行こうと思えてスケジュール帳に記入するところだが、目立つのは「多文化共生」ばかり。こういうタイトルがあると「つまんないだろうけど参考のために行くか」としか思えずチラシの扱いはぞんざいになる。で、そうなっていた。ところが前日の夜に偶然発見したのと、ちょうど同じ日の夜にちょっと仕事が同じ場所であるので、これはご縁かと感じてうかがった。結論からいって短い時間ながらとても参考になった。話したのは同市の外国籍市民支援会議のアドバイザーであり、明治大学教授で政府の外国人施策関係の各種委員も務める山脇啓造先生。まず国の動向を概観してから日本の制度を基本にしている韓国の入管政策の現状をざっと紹介。外国人政策といえばヨーロッパやアメリカの例はよくあるが、いつもすっきりしないのは、基礎があまりに違うということだ。よって、韓国の例というのは興味深かった。韓国では「雇用許可制」「結婚移民者」「人権擁護」を3原則にしているということで、結婚移民者というのは国際結婚。日本が結婚数の6%なのに対して韓国では13%。農村男性になると40%とか。

日本の国の動向は、やっぱりね、ってところ。これまで国レベルの関心は外国人政策=労働者問題か治安対策のみだった。これは実に疑問であった。私の中の最大の不思議もこれだった。この発想だから問題は現場現場の混乱を招くことにもなっていたわけだが、昨年からやっと「生活者」という当然の視点が出てくる。きっかけは総務省の「多文化共生の推進に関する研究会」報告書。小泉の骨太の改革にも盛り込まれることになり、一気に外国人政策は進展するかに見えるが、相変わらずなのは、省庁間がバラバラに対応していることで、調整する力をもった上部機関は今のところない。ということは、国としての外国人政策に関する長期的なビジョンがないということで、これはやっぱすごいことである。でもその分自治体が独自の取り組みをせざるを得ないから、ある意味、国の関与が少ない方がいいのかもしれない、という気もする。それであげられた外国人の集住する都市の例はまた興味深いものだった。議員が「多文化共生特別委員会」を設置したり、PTAが国際交流委員会を立ち上げたり。こういう動きには、数の問題が大きいな。いずれにしろひじょうに変化の大きい時期であり、外国人人口の割合というのは一貫して増え続けているのだし流れが止まるわけはない。施策には関与していないものの、自分の中での整理整頓にも役立つ話でありがたかった。レジュメは保存資料へ。

2007年12月12日

さっそく挫折で自分を振り返る

昨日の就職活動はさっそく挫折した。業界が業界だし職種が職種だし、無謀であった。つまり、若い時なら勉強になるだろうけど、今になってこれは無理だ、と自分は思い、会社側にしたらば多分、この歳になってこの職種での応募はないだろ、専門性にも欠けるし何考えてんだよ、ってなところだろう。よく分かったから納得である。無駄な応募をせずに済んだが、提出しない書類を書くためと訪問する時間とにかなりを要した。それにしても自分が今まで所属した企業というのがかなり特殊であるような気になってきた。「就職したい、組織で働きたい」という本音を言うと皆に笑われるが、その理由が分かった。昨日訪問したところも、業種が業種で職種が職種だからフレックスタイム制ではあるが、だからといってとんでもない時間にランチタイムってことはできない。12時~1時だそうだ。私なんかこれだけで、エッと感じてしまう。仕事が乗っている時に中断するよりも仕事に乗らない時に休憩した方が合理的なんだから、何時だっていいじゃん、と思ってしまう。それに、さすがにこれは大きな声では言えないが、眠かったら仮眠とった方がはかどるだろう、とも思う。あと、1時間では外でゆっくりできないから2時間位休憩取って、その分を朝早くからやったり夜やってもいいだろう、とも思う。で、実のところ今までかなりそうやってきた。

昨日まで自分的には盛り上がっていた求職活動であるが、いっぺんにテンション下がってしまった。で、今日はアテもなく町を彷徨っていた、なんてカッコいいことはなく、ブラブラ歩きながら、各種片付け事をしながら、昨日店に置きっぱなしにしてきた自転車を取りに行ったら、お店のシャッターが開いていたので覗いてみたら、いつもの常連のタイ人女性がカウンターでビールを飲んでいて付き合えという。ちょっと1杯のつもりで座ったら長くなってしまった。毎日パチンコ通いが仕事のような人だ。「今日はパチンコは?」「しないよー」で飲む。「儲けてきて分け前ちょうだいよお」「やだよー」で飲む。で、この間は6万円儲かったというから「一番ソンしたのはいくらよ」と聞くと「5万円」と言っていた。今月は20万儲かって運を使い果たしたから行かない、という。これが本当なら自己抑制の効く珍しいタイプのギャンブラーである。私にはこういう才能もないし、使えない人間なのだ。せめてビールのお付き合いで飲んでいたら外が暗くなっていた。組織人としては失格だろうな、これ。

2007年12月11日

私も息子も履歴書記入の日

忙しかったわけでも外出していたわけでもないのに日付が変わってしまった。明日、というかもう今日、就職活動の取り掛かりとして一社の個人説明会に行くから、その書類を準備していたら遅くなってしまった。そもそもその前に友達が来ておしゃべりしていて、その前はペンや履歴書を買いに行っていて、その前はハローワークに行って、次の応募先の紹介状をもらっていた。ハローワークは相変わらずだった。「事業場外みなし労働時間制」なんて聞いたことのない言葉があったから意味を尋ねたら「さあ、どういう意味でしょうね」で、にこにこ。で、ここはこういう制度を採用しているから労働時間が1日10時間52分となります、って書いてある。ということはつまり、ランチタイム休憩を入れると12時間ってことになる。「最初っからこううたっているってすごいですよね」と言ってもにこにこ。何が楽しいんだ。年俸制に対しては「外国式ですよね。こういう場合はしっかり労働契約結んでおいた方がいいですよ」と言う。ありがたいアドバイスをいただいたのは初めてだ。しかし、この程度のアドバイスを言いっぱなしにすることなら、私でもできるんですけど…。違いは、私が言っても報酬でないけど、ハローワークの机に座っていると出るってことくらいか。

とにかく私は今月は求職活動にあてる。これといった特技もないし、資格もないし、まあ仕事の経験は長いが、それは歳しているから長いだけであんまり威力はない。だから全滅は覚悟の上だが、人生において履歴書送ってお願いしますなんて行為に臨めるのは今しかないだろうから、最後のあがきである。で、全滅後に何が待っているか、それは知らないが、なんとかしないとならない、ということだけは確かだ。今日は息子が初めてのアルバイトを電話で申し込み、年末年始のバイトが決まった日でもある。途中で履歴書を買って書いたそうだ。体力はあり余っているんだし、家にいても何もしないでボーっとしているんだから、バイトするのはいいと思う。ただ、そのままバイトで食えると思わないでくれってことだけ。もう手中を離れた感はじょじょに強まる。心配ばかりだが、アタシは先におさらばだから強く生きてくれ、と、最終的にはそう考えて諦めるしかないや。「ママも明日面接に行く」と言ったら、ヘッて顔していた。君らを育てるためなんですが。

2007年12月08日

なつかしいラオス

タイのパタヤで、日本の制作会社によるアダルトビデオ撮影のコーディネートをしていて逮捕されて裁判になって、家族をバンコクに残して自分だけ国外退去になった知人から連絡があった。お金に困って引き受けた仕事の結末がとんでもないことになったしまったわけだが、日本に帰国なんてことはせず、隣国ラオスに移住したそうだ。それでラオスの炭やチークや大豆や和紙の原料を輸出する会社を設立して、そのお知らせだった。それらの紹介写真を見てなつかしくて、心はタイムスリップである。炭を入れたドサ袋にはタイ語で「化学肥料」って書いてあるじゃないか。イラクで銃撃を受けて亡くなった橋田信介さんが「ラオスの国家予算なんかどっかの村程度なんだから、誰かがあの国を買っちゃえばいいんだよ」と笑っていたこともあったが、多分経済的にはタイの影響下にあるものと思われる。タイ語が通じるから言葉で困ることはないのだが、相手からラオス語で返されるとちょっと困る。

私がバンコクにいた頃に社会主義国が次々と経済開放政策をとるようになって、ラオスもオープンになっていった。それまでは対岸に兵士がいたっていうメコン川にもその面影はなくて、のんびりと船で渡った。夜にバンコクを電車で出ると早朝に国境の町、ノンカイに着く。メコン川のほとりの食堂で朝食をとってから入管を通って川を渡る。あの頃はビザを取るのが難しくて、勤務先の会社の社長がいつもどっかから手配してきた。当時から市場に並ぶ品物はタイ製品が圧倒的だったし、ラオスの人は川を渡ってタイに入ってはふとんやら自転車やらかついで戻っていくのだった。そのうちにタイの銀行ができて外資系のホテルが次々とオープンした。今は当時の静けさはなくなっているのだろうか。でも写真を見る限り郊外は相変わらずのようにも見える。旅行者はそう多くないし、お店もそんなにないので食事やホテルが一緒だったりで、2-3日も滞在すると知り合いが何人もできた。電車の中でカンボジアでお坊さんをやっている日本人と出会ったこともあったなあ。何もかもなつかしい。ずっと旅らしきことをしていない。知人を訪ねて行ってみたい。今なら入国は簡単だろうし。

2007年12月07日

謎を呼ぶ「よろしくお願いします」

日本の高校に通っているタイ人と話していたら、何かの折に日本語の「よろしくお願いします」に相当するタイ語を発した。それでずっとくすぶっていた疑問を思い出した。いつも尋ねてみようと思って忘れているもの。そういえば私の場合は夫がタイ人なのでタイ語の疑問は彼に聞いてもいいのだが、あまりに会話がないので彼がタイ人であることも忘れそうになる。今朝も気付くと家にいたので「いつからいるの?」と聞いたら「...

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