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2006年05月31日

129日目

●2006年5月30日(tue)





この日はよく食べました。日記を読み返して気づいたんですが、最近2食しか食べていない。原因を考えてみたんですが、昼前に起きて、早起きしていた頃と同じ時間に眠っている。それで1日の稼働時間が減った。これに伴い、食事の時間も1食分スリムになってしまったと、こう私は結論づけました。
それで、ただでさえほっそりとした私の体形がますますよくなっていくというのに、何も手を打たず見過ごすのは、世の女性諸氏への大変な冒涜だとこう紳士的に考えて、意識的に1食増やした。それで「よく食べた」なんて俗っぽい表現が冒頭を飾ることになったんですな。ニュアンスとして言葉尻に満足感を匂わせているあたりなど、このフレーズを引用した我ながら、くさい言い回しです。食べて得る満腹感や達成感なんて、私にとっちゃ家畜並のアンニュイにすぎない。
そんな俗世間の中にでも、尊さをごくまれに、見つけることがあるんです。
「1杯30円のラーメン」。奇跡ですよ、これは。ただ価格面にだけとらわれているあんたには、ちっとも分からないと思いますが、5年前と値段を変えていないんです。バンコクは高度に成長してる。そして物価は上昇している。にもかかわらず、毎日変わらず決まった時間にずっとご近所やアジアの旅行者においしいラーメンを作り続けている人がいるんですよ、このバンコク・カオサンロードに。
彼の名はミスター・ワッタナーといいましてね。がたいのよい中国系タイ人。彼の作るラーメンには小松菜、甘口のチャーシュー、木の実、ニンニク、ネギなどよく観察してみると実にたくさんの具財がそれぞれ程度よく込められている。それぞれ実に体のためにいいものだと、味や価格にしか興味のないあなたに、その思いやりが理解できるとは思えないが。
そしてスープは油が抑えられた薄味。味の好みはタイ人、日本人、韓国人、中国人それぞれ違うから、調味料やチャーシューのスープなどを加えて調節できるようになっている。そんな細かな配慮にもワッタナー氏の気配りを実感せずにはおれませんよ。それで私はすっかり気に入ってしまって毎日のように挨拶代わりに通っているんです。彼も私のことを覚えたんでしょう、それまではまるで胡散臭い詐欺師を眺めるような視線を不当にも私に向けていたんですが、最近いい顔を見せるようになりましてね。それで私も気まぐれに店を変えるのではなく、ここの常連になろうと、こう決めたわけなんです。
いい人のまわりには、いい人たちが集まる。私もまさにその中の一員というわけです。とはいえ、ただ安いからとか、他に知らないからなんて貧しい理由で立ち寄る旅行者が多いんですがね。それでも彼は作り続ける。
毎日おなじことの繰返しだなんて嘆いている日本人の話など、彼には口が裂けたってできやしません。彼に対する非情な失礼にあたりますからな。
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この日、私が撮ったタイ・バンコク・カオサンの写真はこちらこちら
■本日の支出(生活レベル:タイ庶民同等)
[外]屋台の朝食 45円
[食]露店のイチゴシェイク 60円
[外]屋台の昼食 75円
[食]スーパーのヨーグルト飲料 18円
[外]レストランの夕食 300円
[食]露店のパンケーキ 60円
合計:558円

2006年05月30日

128日目

●2006年5月29日(mon)





この日も絶望と事件の連続。最近はほんとうに悪いことばかり続いていて、私のように忍耐強く、分別のある大人でなければ、「自分は呪われている」なんて勘違いしかねない事態ばかり。
まず第一章「絶望」。
これは昨日私が100日に1回という非常に稀有な確率でなくしたメガネを探しに、昨日楽しんだサッカーで重くなった足を引きずりながら、わざわざ向かったバスの発着所で聞かされた話。
「タイでは、落し物といえばそれを拾った人のもの。質のいいメガネであれば500バーツにはなるから、もう売り飛ばされているんじゃないかしら」
まったく、人のものをなんだと思っているんでしょうか。しかし、どうやら日本のように過保護の象徴ともいえる「忘れ物預かり所」なんてのはバンコクにはないんですな。それも拾った人にとってはお金とおなじ。天下の回りものというわけです。ま、そういうものかとタイの文化を理解するような、おおらかな感覚で私は了承しました。紳士たるもの、異文化の異常な悪習にさえ順応してしまうものなんです。それはそれは大きくて広々とした心でもって。ハートといったほうが分かりやすいかな。
そして第二章「事件」。
突然の停電、断水。こんなことバンコクでだって滅多にあるもんじゃない。でも起きたんですよ。ちょうどお昼時に。これがまた不愉快なんですが、私になんの断りもないんだから。
不断で有名なバンコクのライフラインに不具合だなんてまさかそんなはずはないと、私はおもむろに外に出て周囲の様子をうかがってみたんですが、どうやら私のゲストハウスだけの現象で。おそらく、停電によって水の配給システムもダウンしたんでしょう。前のゲストハウスでも見かけたエンジニアが力を尽くしてましたがね。電流制限器の不具合。それが原因だった。
30分くらいして、一度復旧したんですがまた落ちましてね。私は何事もなかったかのように食事に出かけましたが、泡だらけの大男がシャワールームから飛び出してきた時には、さすがに身の危険を感じずにはいられなかった。とはいえ図体ばかりのでくの坊ですから、私の真横でキョロキョロとしていただけ。何が起きたのか分からなかったんでしょう、首を振り振り情報収集に手間取っていた。
いやほんとうに。日本じゃ考えられない事態ですよ。ただ、それを意に介さないなんて、まさに大物の器とはこのことですな。いや、ほんとうに。
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この日、私が撮ったタイ・バンコク・カオサンの写真はこちらこちら
■本日の支出(生活レベル:タイ庶民同等)
[外]レストランの朝食 120円
[食]サンドイッチバーのサンドイッチ 177円
[食]露店のパイナップル 30円
[外]レストランの夕食 135円
[食]露天のフルーツシェイク 60円
合計:522円

2006年05月30日

わけのわからない本を読んでしまった

草薙厚子『子どもが壊れる家』という本を読んだ。文春新書は、こういうトンデモ本が多かったんだったかな、と思って本棚を見てみたら何冊かあって、そうでもない。読書に集中できるという日でもなかったので、何か気楽に読めるものと思って見渡していたら、未読のこれを発見。今の経済状況だったら買わないだろうが、当時(といってもいつか忘れた)は金回りがよくて、気分もヘンになっていたんだろうか。とはいえ、子育て中の親としてはこういうタイトルには弱い。特に私のように母親に向いてないと思っている身にはこたえる。そういうところを突いて書いているんだろうけど。興味をもった理由は著者の経歴で、法務省東京少年鑑別所元法務教官だからだと思われる。昔と違って普通の家庭から犯罪少年少女がでている→一体何が起こっているのかを実例から考察→親の過干渉とゲームがいけない、というお話。これ自体は私には否定も肯定もできない。根拠を持ち合わせていないから。個人的にはゲームは嫌いだから子がのめりこむことは警戒しているし、過干渉もいいとは思わないので、いわんとすることが馬鹿げているとは思わないけど、問題は一文一文の成り立ち。

「特に体格も大きかったわけでもないAがなぜ、ボクシングの選手になりたいと言ったのでしょうか」→相撲ならともかくボクシング選手って小柄な人もいるでしょ?それに幼稚園時代に将来の体格が分かるのか? 「いじめが横行する学校は誰もが行きたくない場所でしかなくなりました」→誰もがって、本当ですか?少なくとも私は学校が好きで行っている子を何人も知っている。「現代に生きる私たちは、昔に比べて便利なモノを子どもたちに与えることの是非を、深く考え込んだりはしないものです」→私は考え込んでいますし、友人らもそうです。現代に生きています。「近年の凶悪少年事件が、こうした家庭・学校環境の変化を背景に起こっていることは間違いありません」→なんで自信をもってそこまで断言できるのか不明。「」内は引用そのママ。こういう摩訶不思議な文章が数え切れなく並んでいると、何か良い事を言ってくれても信用できなくなってしまう。この手の本だったら家裁調査官の藤川洋子さんのが、納得できます。

2006年05月29日

あの米原万里が…

出たり入ったりしながらも全体としては朝から晩まで外にいた日。帰宅してメールをチェックしたら友人からの「米原万里が死んだ。56歳という私達とそう違わない年齢。もっと意見を言って欲しかったのに元気がなくなる」という文面のがあった。驚いてネットのニュースをチェックしたがなかなか見つからず、間違いであることを願って電話したが、確認しただけだった。この友人とは昨年、米原万里の講演を聴きに行ったし、お互い彼女のエッセイが好きなので借りたり貸したりしていた。電話でどちらともなく「世にはびこっている問題の人々じゃなくて、なんで米原万里なの」と言い合った。あんなにユーモアと皮肉にあふれて核心をつくエッセイストが1人減ってしまうとは、実に残念。自覚もなく不条理劇を演じる人々に「それ、ちょっと違わない?」と舞台の裾から冷静に言ってくれる貴重な声がまたひとつ消えたような感じがする。

エッセイというと、日常の何気ない一場面を綴るというイメージがなぜだか浮かんできて(これは私の思い込み)、そういうのは興味がないので普段はほとんど読まないが、米原万里は別格だ。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で、私は自分の知らないことをいろいろ学ぶことができたし、何より、途中でやめられなくなる面白さと、それから、このひねったタイトルが象徴するような重層性が頭の芯のところを刺激してくれる。ギブスの上から掻いていたのを、叩き割ってから掻いたような快感を得る。私は彼女のエッセイをお風呂に常備している。お湯に浸かって読むには、濡れて本がいたんでも惜しくない文庫で、章ごとの独立性があって、難解でなく、深く味わう文学のようなものでもなく、あまり熱くなるものでもなく、絶望的になるものでもなく、となると雑誌を除いてはエッセイなので、イコール米原万里。今は『ロシアは今日も荒れ模様』があるが、これは笑いが止まらない。続きを読みたくて風呂から持ち出すこともある。昨年の講演もとてもいいものだった。書いたものがいいから実物がいいとは限らない中で、貴重な人だった。

2006年05月28日

バンコクの危険な建築物

バンコクから客人があった。私達がバンコク在住時に住んでいたタウンハウスの借主で、10年近く住んだので気分転換もあって引越しをするということ。少しでも家賃収入があるとタイへ行った時の足しになるし、私としてはタイへの短期でいいから留学が夢なので、その費用にもなるな、と思っていたので引越しは残念だが、しょうがない。懐かしい家の近所の様子を聞いて、10年の間の変化は大きいものの、決定的に秩序だった国に変身したわけではないことは分かった。タウンハウスというのは、日本でいうところの長屋のようなものだ。壁を共有しながら長々と同じタイプの住居が並ぶ。2階建てもあるし3階建てもある。一戸建てより手軽で、治安の面でも気分的には安心感を得られ(屋根から泥棒が入ったのを目撃した友人もいるのであくまで気分的)るし、1階を食堂や雑貨屋や仕立て屋にするなど商業目的にも利用しやすいので人気がある。

本日の客人によると、近所は一時建築ラッシュで眠れなかったらしい。なにしろ隣家と壁を共有しているのにもかかわらず、隣も向かいも新築、というか増築したのだそうだ。それも、向かいは4階建てで隣は3階。もともとは2階建てのもの。壁を共有する隣でガンガンやるのだから地獄だったという。そして「地震があったら倒壊ですね」と客人は自信あり気に言う。バンコクは地震がないということになっているので、私が在住時に遊びに来た友人の建築士が、建築中の建物を見て声を失っていたが、実は揺れなくてもつぶれる建物は結構あった。記憶に残っているものでは、地方都市においては外国人も泊まるしコンベンションにも使われるようなホテルが倒壊して多数の死傷者がでた。それから職場の同僚だったタイ人が買ったコンドミニアムが、だんだん傾き始めてとうとう倒れたと、すごく悩んでいた。建築主は、金を払ったら建て直すと言っていたとかで「庶民は騙されるばかり」と嘆いていた。有名人や外国人がいない限り、たいした問題にはならないのだ。過酷であるが、あそこまで徹底していると、そもそも誰かをアテにしようとか保証してもらおうという発想にならないので、潔くなる、というかならざるを得ない。

2006年05月27日

初めて英語の授業を見学

学校開放日ということで、授業参観に行った。1時間目が総合の時間を使った英語の授業。新任で英語専攻の先生が担当する。いかにも、楽しく英語に親しむ、が学習目標であるかのようなゲームを多用したサービス精神を感じるものだった。1,2,3…という数を教えるのにも、各人が自分の数を記憶して、その数を順番に言いながらぬいぐるみを手渡しして速さを競う。声の大きさも判定基準になっていて、小さいと×の、聞こえると○の札があがる。子供達は楽しそうに歓声を上げながらやっている。私のようなゲーム嫌いは、自分が小学生だったらこれを楽しめるのかな、と考えながらそれを見ていた。大きな声も苦手だから×の判定が下るかも。自分がやるわけじゃないからいいのだが。

英語を習っている子は相当いるから、そういう子にとっては簡単すぎる授業だろうと思う。実際、単語などは先取りで答える子がたくさんいた。娘は英語は全くできないので退屈はしていないようだ。総合という時間を使って週に1回やる授業でどういう効果があるのか、私には分からない。しかし、他の授業を減らして総合を作って、それを使って科目を勉強するとなると、何のための総合なのか不思議なことである。文科省の方針はよく変わるが、私にはどうも、勉強しすぎた人達が、自分の経験を元にして、勉強時間が長すぎるとかいって減らしてきただけのように思えてならない。一体子供は、そんなに勉強していたのだろうか。何をしたところでする子はするし、しない子はしなくて、だったら、学校で最低限の知識を身につけることを目指さないと、格差が開くのは当然だ。それを良しとする方針であれば、それはそれだが、今になって格差が問題というなら、どうして「生きる力」なんてことを持ち出したのだろう。それに生きる力はどこに行ってしまったの、って感じ。遊びの授業を見ていて、数と挨拶の決まり文句を覚えることの意義を考えていた。そんなもの、中学になって自分で覚えようと思えば1回で覚えられる程度のものだろうと考えると無駄なような気もするが、門外漢の自分には分からない。ただ、中学の授業との連動なしに一部で取り入れても、それまでのこと、って気がした。ずっと思っていることだが、この程度の英語をやるんだったら、英語だけよりも、むしろいろいろな言葉の違いを体感する方が楽しいし貴重な機会になるように思った。中国、ブラジル、フィリピン、タイなんかは学校に何人かいるし、そういう人の協力を得たら不可能ではないと思うのだが。

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