<TOHOシネマズ梅田>
点数のみを付け、本作「PEACE BED アメリカVSジョン・レノン」の評論、感想は一切していません。
今からちょうど30年前。私が中学3年生だった時、親しいクラスメイトから1本のカセットテープを渡された。それは120分テープで、何やら私の知らない世界の音楽が入っているという。A面、B面、全部埋めていると友達は言った。テープには何も書かれていず、私は「誰の曲?」と聞くと、「ロック」と、一言、返事がきた。邦楽は、フォークソングが全盛期で、私は洋楽に興味ないと言ったけれど、あげると言うので、学生鞄に入れて持ち帰った。
中学3年生だから、受験勉強をせねばならない。いつもはラジオを聞きながらだったけれど、その日は、もらったテープを聴くことにした。誰の曲と聞いたのに、ロックと答えた友人だったので、私は何が流れてくるのかわからず、とりあえず、A面をかけた。タイトルはわからなかった。流れたのは、後にタイトルを知ることになる「ヘイ・ジュード」だった。この曲は、歌がはじまりだ。私のビートルズとの出合いは、ポール・マッカトニーの歌声である。ビートルズという名前も知らず、私はそれを聞いた。120分テープには、彼が選んだ曲が入っていた。私のために、レコードからカセットテープに編集してくれていたのだった。次々に曲は流れた。「プリーズプリーズミー」「ハードデイズナイト」「サージェントペパーズロンリーハツークラブバンド」「イエローサブマリン」「イエスタディ」「ロングアンドワイディングロード」・・・テープのそれは時代の順を追っていないが、何度も聴いているうちに、その曲にどんどんトキメキのようなものを感じだした。そして、一週間もしないうちに、私は、カセットデッキの小さなスピーカーから流れてくるメロディ、歌声の虜となった。
「もっと聴きたい」という私に、彼はとても喜び、次々とテープをくれた。そのすべてが、どれもこれも、なにもかも私の心をとらえた。自宅に聴きに来いというので、訪ねると、彼の部屋には、大きなステレオセットがあり、一枚一枚、丁寧に拭いては、レコードを聴かせてくれた。私の小さなモノラルカセットとは違い、ステレオのその音は涎が出るほどの良質で、それから毎日のように、彼の自宅へ聴きに行った。当時のステレオコンポは巨大で、スピーカーも巨大で、10万円以上が当たり前。私は親にせがんだけれど、10万円という大金は、今なら50万円はするだろう。受験に合格したら買ってあげると言われて、その時を待った。ところが私は高校受験に落ちてしまった。必ず合格すると担任から言われていたので、すべり止めの私学も受けていなかった。中学卒業から高校入学まで余裕ある時間はなく、3月の私学の第二次募集の受験を受けた。容易な普通科コースではなく、大学を目指す進学科コースを選んでしまったので、この最後の糸がつながるかどうかはわからなかった。進学科コースは、デキのいい高校を落ちた学生達が受けにきている。県外からも受験にきている者もいた。いよいよ切羽つまって、もしダメだったら、私は中学浪人をすると母に言った。母は、寂しそうな顔をしたが、キリッと私の目を見て、「中学浪人するなら、今年に受けた高校よりもレベルの高いところを目指しなさい。」と言った。本当に私は親不孝の塊であり、今でもそれは続いている。
受験後の合否はわからなかったが、しょんぼりしている私を見て、母は、ステレオを買ってあげると、街へと誘った。パイオニアの大きなステレオコンポ。10万円以上する買い物を、母はしてくれた。ステレオだけではどうしようもないので、ビートルズのアルバムも一緒に買ってくれた。イギリス版の「ヘルプ!」と「アビーロード」だった。当時のLPアルバムは、2,500円だった。30年前と今、アルバムの値段はほとんど変わっていない。父の学生時代、今から50年前もLPアルバムは、2,500円だったらしい。ステレオやアルバムは、お金持ちのシロモノだった。私の家は、とても裕福とは言えないし、お金に苦労したこともあるのだけれど、高校受験に失敗し、中学浪人するかもしれない私に、黙って、高いプレゼントをくれた。あの時の母の気持ち、父の気持ちはどうだったのだろうと時々、振り返る。
3月25日を過ぎていたと思う。私のもとへ、合格通知が届いた。両親、今は亡き祖父母もほっとして、笑顔になった。一学年500人以上のマンモス中学の中で、最後の合格者が私だった。春休みの新学期になってから、4月になって、私は中学の担当教師に合格の知らせとお礼を言いに行った。私学なので、授業料は高い。それでも、私の両親は何も言わなかった。思えば、大学も芸術大学という私学で、高い授業料だが、何も言わなかった。陰で苦労させているけれど、私の目の前では、一言もお金の話しはなく、合格した、大学に通っていることだけを喜んでくれた。いま、私は、その時の親の歳になっている。私は何をやっているのだと思う。この映画を観て、帰郷は正解なのだと思った。
高校に入ってから、私は小遣いをもらうと、お年玉をもらうと、ビートルズのアルバムを買った。イギリス版をすべて揃えたい一心だった。一枚だけ、アメリカ版にしかない「マジカルミステリーツアー」も買った。当時、ビートルズに関する書籍はほとんどなく、たった一冊のビートルズにまつわる本を買い、何度も読み直した。来日した時の様子や熱狂的ファンの様子が文章にされていて、私は空想にふけった。ビートルズが結成されたのは1962年で、私の生まれる前年である。そして、解散したのは1970年で、私は7歳だった。だから、当時のことはまったく知らない。ベトナム反戦など、その後のジョン・レノンとオノ・ヨーコの行動も、高校生の時に知った。私がビートルズに熱狂的になったのは、解散してからすでに10年経っていたが、それでも、編集しなおした新しいアルバムが新発売されていた。第二次ビートルズブームである。
小倉の映画館で、ビートルズ特集をやると聞き、友達二人と観に行った。「ビートルズがやってくる!ヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ヘルプ!」「レット・イット・ビー」の3本立てだった。日曜日の朝からの劇場は超満員で、私は一番前の席で、スクリーンを見上げながら、3本を鑑賞した。しばらくして、アメリカでテレビ放映された「マジカル・ミステリー・ツアー」も上映され、これも観に行った。とにかく、音楽はビートルズだった。さだまさし、イルカ、チューリップなどの邦楽も好きで聴いていたし、友達の勧めもあり、ローリング・ストーンズやキッスも聴いていたけれど、何度も何度も、レコードが擦り切れるくらい聴いていたのは、やっぱりビートルズだった。学校から帰るとかけて、寝る前も小さな音にして、タイマーをかけて眠った。
ビートルズが解散した後の、ジョン・レノンのアルバム、ポール・マッカートニーのアルバムもいくつか買った。どういうわけか、リンゴ・スターのアルバムも買った。それらは今、すべて実家に保存してある。もちろん、巨大なステレオもそのままである。私が大阪に長く住みついて、30年経ち、それらはお宝になってしまった観がある。CDではなく、レコードがある。モノに執着せず、なんでもかんでも捨ててしまう私だが、帰ったら、丁寧に拭いてあげようと思う。そして、レコードの針をおとしてみよう。私は楽しむ一方だったが、それを買ってくれたのは、父であり、母であり、亡き祖母だった。デキの悪い息子に、あの時代、高価だったが、買ってくれた。これが宝物でなくて、なんであろうか。古いお宝という意味ではない。これこそ、魂のこもった宝物と呼べるものだ。ホワイトアルバムは、2枚組みでちょっと高かった。一枚一枚、シリアルナンバーが打ってある。
高校3年生だったと思う。冬の寒い日だった。「ジョン・レノン射殺される」というニュースが流れた。私は胸が高鳴った。朝見たニュースを頭に、ドキドキして、登校した。その日は、団塊の世代の教師も含め、ジョン・レノンのニュース一色で過ごした。享年40だった。私は今、44歳。ジョン・レノンより4年も長く生きている。あの日、あの時、とても歳のはなれた大人であり、神のような存在だと思っていたが、ジョン・レノンの歳を過ぎた。だが、今でもジョン・レノンはとても歳の離れた大人であり、神のような存在だと思っている。きっと、70になっても、80になっても、ジョン・レノンは、私の中で、そうあり続けるのだろう。
しばらく、ジョン・レノンの曲を聴いていなかった。久しぶりに、ドキュメンタリーの中で聴くその曲。私は背筋がゾクゾクした。ゾクゾクするのをおぼえたわけではなく、実際に何度もゾクゾクと体が前後左右に揺れ、震えた。映画監督になりたい、映画の脚本家になりたいと思いながら、音楽はビートルズだった18のあの日に、あの頃の気持に瞬時にかえされた、戻されたことが、とてもこの世のものではない、恐ろしいもののように私には感じた。時は間違いなく流れていた。 <75点>
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