<シネプレックス小倉>
「小倉コロナシネマワールド」から「シネプレックス小倉」まで徒歩1時間。路線バスに乗りたいならば遠いバス停へ別方向へ歩かねばならない。体は楽だけれど、余計に時間がかかることになり、やっぱり目的の方向へ歩きたい。しかし・・・映画館のハシゴで徒歩1時間は考える。歩いた先で寝るのならいいが、映画を観て疲れようというのである。この間を過去に何度も歩こうとしたが、一度だけ実行し、すべて断念してきた。車を基本としている人は別世界のお話だろうけど、公共交通と徒歩だけしか頭にない者にとっては、大きな問題である。大都市とは違い、地方都市の足は自動車であることを痛感している。昔はこんなことなかったのに、電車もバスも時刻表はどんどん穴だらけになっていく。定期路線もある日、反対らしい反対も聞こえずにふと消える。
シネプレックス小倉で上映中の「50歳の恋愛白書」のタイムテーブルを見ると、今から30分後の上映開始。徒歩1時間では不可能で、買い求めていた前売り券は諦めていた。前売り券があるのに観られなかった映画がたくさんある。観たい!と思って衝動的に買うのは二十代の時からのクセみたいなものだけど、こんなにたくさん観られない状況下に居たことはなかったので、もはや前売り券を買ってしまうクセは封じなければならないと思っている・・・が、なかなか治ってくれない。
本作を観たいと思ったのは、豪華な顔ぶれのみ。アラン・アーキン、ウィノナ・ライダ-、モニカ・ベルッチ、ジュリアン・ムーア、キアヌ・リーヴスと、人の名前を覚えない薄情な私でも、これを見ただけで、出演してきた作品が頭に浮かぶほどの顔がゴロゴロしている。端役も充実しているのだろうか。まったく違うとは知りつつ、昔のハリウッドお正月映画みたいな気分になる。
観なさい!ということなのか、コロナワールド前を出るとすぐに、小倉北口までの無料マイクロバスが出発しようとする気配。2時間に一本の無料バスは頭からなかったのに・・・。時計をじっとみつめ、このバスで小倉駅まで、駅を隔てて南口に出て、シネプレックスのあるチャチャタウンまでの徒歩時間を計算する。上映ギリギリか?5分過ぎか?・・・定刻に出たマイクロバスは思ったより早く小倉に到着した。乗客は私を含めて3人だった。それも私以外は小倉コロナのアルバイト学生らしい。バスを降り、小走りで駅を抜け、暗い裏通りを走る。チケット売り場に10分前に着いた。観られるとほっとしたけれど、この寒い夜に、背中は汗でびっしょりになった。
原題は「The Private Lives of Pippa Lee」で、直訳すると『ピッパ・リーの私生活』になろうか。ここ20年ばかり、広報の能力がないのか、時間がないのか、原題をそのままカタカナにした外国語映画が多いけれど、流石にこの原題をカタカナとはしなかった。また、直訳にもしてない。一応は考えているのだが、白書ってなによ?とも思い、一歩ひいてみると甘ったるい気もする。日本では、三十代から五十代の観客が見込めないらしいので、敢えて・・・かもしれないけれど。「Spirit of St. Louis」(セントルイスの勇気?)を「翼よ!あれが巴里の灯だ」としたのは見事だと思うが、そこまでタイトルだけでウキウキさせろとは言わないまでも、もひとつ工夫する人はいないのかなと寂しい。英語タイトル半分、日本語タイトル半分くらいほしい。日本映画のダラダラした副題よりは英語をそのままカタカナにした方がまだマシだけど。
これほどギャラの高い俳優がどんどん出てくるのに、アメリカではほとんど観られてないのね。ホントだかどーだか興行収入が1億円くらいだと・・・。これじゃあ、すべてノーギャラでも赤字ではないか・・・。原作を書いて、脚本を書いて、監督までやって、レベッカ・ミラーという人はそんなに多才じゃないのをアメリカの観客は知っているのかしら?これだけの俳優をわんさかもってきても、地味な文芸もので、期待したはずのエンターテイメントには仕上がってないもの。
ハリウッド映画には保険屋がついていて、赤字でもプロデューサーは知らん顔できるようになっているらしい。現場や編集にはタッチしないけど、シナリオは保険屋の手が入る。いい本を保険屋によって無茶苦茶にされることもあって、映画化断念も少なくない。基本的にB級には保険屋はつかない。これは救いだろう。極端に輸入が少なくなったけど、B級には拾い物が多い。保険屋のせいで、外国のリメイクが多くなっているのだろう。さて・・・本作の製作には、ブラッド・ピットまで名を連ねている。豪華だ。顔ぶれだけ。
43歳、撮影時は42歳のロビン・ライト・ペンが『良き妻を演じる50歳』を演じている。十代、二十代に吸収したモノは我が物となり、それを捨てるというのは困難極まりないことで、普通に暮らしていたら、まずできないこと。破天荒に生きてきた自分を変えることはできず、演じるしかない。人生はすべて芝居、一人で居るときも演じているのかもしれない・・・それも含めて自分だが、彼女はその上に演ずるのだから、神経はまいっている。演じているのにまだ演ずるということは誰にもあろうが、四六時中ではたまらない。まわりが年寄りばかりの地にやってきたから彼女の気持ちが揺れ動くようになったのか、本作を観るとそう流れるが、それはきっかけとなっただけで、潜在意識より遥かに突出した意識がずっと彼女の心に燻っていたのだろう。ありきたり、普通の人々とともに・・・なんて、彼女には退屈であり、偽善でもある。それを死ぬまで封じ込めることなどできず、平静を装っても精神は崩れていっている。幻想を見て、徘徊し、台所で食べ散らかすのは精神の破壊の典型的症状だが、この症状には救いがある。自分に戻るか、新しい何かを見つけるか・・・。
悪くはないが、ここまでの配役をズラズラと並ばせて撮るほどでもない。まったく知らない俳優たちでも良かった。レベッカ・ミラーの自分の小説に対する愛情のみで侍らしただけのような気がする。ただ、一日で撮影が終わったろうモニカ・ベルリッチのエピソードだけ好きだ。ピッパ・リーは、モニカ・ベルリッチの道も考えたろうが、狂って生きるより卑怯だとしていたろう。キアヌ・リーブスの登場で生への執着がどんどん出てきたことで観客はほっとするけれど、この物語、ハッピーエンドのように見えて、行った先でも繰り返しになるのではないかと勘ぐってしてしまう終わり方だ。まわりの人を巻き込んで、人生がループしていくような・・・。 <50点>
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