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2009年03月28日

『 琉球王国のグスク及び関連遺産群 』首里城跡

所要時間 約90分



守礼門:首里城に入る前に総合案内所でパンフレットを貰って行きましょう。参考ルート等があり中学生以下であればスタンプラリーで粗品進呈されます。


首里城入り口に見取り図があります。



龍樋(上)と冊封七碑(下)
冊封使が飲んだ水が、とても美味しかったと言う事で碑石を建立したそうです。


瑞泉門 (漏刻門は補修中だったので後日UPします)


日影台の日時計、1739年から1879年の廃藩置県迄日時計が使われていました。


旧首里城正殿鐘の複製(銘文から「万国津梁の鐘」とも呼ばれています)


首里城から那覇が一望できます。

2009年03月27日

『 琉球王国のグスク及び関連遺産群 』園比屋武御嶽石門

所要時間 約10分




参考資料
園比屋武御嶽出典: フリー百科事典『 Wikipedia 』
沖縄県指定史跡にも指定されている園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)は16世紀琉球王国尚真王時代の御嶽沖縄県那覇市首里
真和志町一丁目に位置する。

概要
石門の背後にある森が園比屋武御嶽である。この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君が就任する時にまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だった。王家尚氏縁の島である伊平屋島の神「田の上のソノヒヤブ」を勧請し祭っている。 元々は今より広範な森であったが、現在では小学校の敷地となっている部分もあり残されているのはその一部である。
首里城歓会門と守礼門との間にある園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がこの御嶽の礼拝所である。 園比屋武御嶽石門は1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真の時に造られた。オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘という人物により創建されたとされる。
沖縄戦において王城と共に戦禍を被り無惨な姿となるが1957年に復元。更にその後、旧石門の残欠を再利用しての修復作業が行われた。現在の石門を注意深く見てみると明らかに摩耗の度合いが異なる部分があるのは、この為である。園比屋武御嶽石門は2000年11月首里城跡等と共に琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている。

2009年03月20日

『 琉球王国のグスク及び関連遺産群 』玉陵


所要時間 約60分
観覧時間 9:00~18:00 (入場締切 17:30)
観覧料金 大人200円(団体100円) 子供100円(団体50円) ※団体扱いは20人以上
玉陵管理事務所 那覇市首里金城町1-3 電話098-885-2861
那覇教育委員会 那覇市樋川2-8-8   電話098-891-3501

奇数月の第三日曜日は玉陵と識名園で『世界遺産解説会』を教育委員会が行なっているので参加してみました。
因みに「たまうどぅん」は便宜上玉陵と書いていますが、正しくは玉御殿を「たまうどぅん」と読みます。


東西に乗っている獅子は建築当初から存在するもので材質は輝緑岩(ドレライト
dolerite粗粒玄武岩またはダイアベイスdiabase)という石造りで約500歳になります。太平洋戦争の沖縄戦において東室の獅子は腰から折れてしまいましたが、修復されて元の位置に鎮座しています。因みに西側の獅子は米軍の攻撃で玉陵が壊された時に落下しましたが、傷一つ無く当初のまま存在しています。


上・西室の獅子 下・東室の獅子


玉陵の碑文 読み仮名:たまおとんのひのもん
建立年 弘治14年(1501)9月
材質 輝緑岩(ドレライトdolerite粗粒玄武岩またはダイアベイスdiabase

  1. 首里おきやかもひかなし、まあかとたる、しよりのミ御ミ事(首里、於義也嘉茂悲加那志、真嘉戸樽…尚真王)
  2. 御一人よそひおとんの大あんし、おきやか(世添御殿の大按司、宇喜也嘉…尚円王妃、尚真王母)
  3. 御一人きこゑ大きみのあんし、おとちとのかもいかね(聞得大君の按司、音智殿茂金…尚真王妹)
  4. 御一人さすかさのあんし、まなへたる(佐司笠の按司、真鍋樽…尚真王長女)
  5. 御一人中くすくのあんし、まにきよたる(中城の按司、真仁堯樽…後の尚清王。尚真王五男)
  6. 御一人ミやきせんのあんし、まもいかな(今帰仁の按司、真武太金…尚真王三男)
  7. 御一人こゑくのあんし、まさふろかね(越来の按司、真三良金…尚真王四男)
  8. 御一人きんのあんし、まさふろかね(金武の按司、真三良金…尚真王六男)
  9. 御一人とよミくすくのあんし、おもひふたかね(豊見城の按司、思武太金…尚真王七男)

この御すゑは千年万年にいたるまて、このところに、おさまるへし、もしのちに、あらそふ人あらハ、このすミ見るへし、このかきつけそむく人あらハ、てんにあをき、ちにふしてたたるへし
大明弘治十四年九月大吉日
※因みに欠けている部分は銃撃の跡です。

墓域総面積 2442㎡ (738坪)
石牆内総面積 2085㎡ (630坪)
内室総面積 102.85㎡ (31.1坪)
東室 38.5㎡ (11.6坪)
中室 37.5㎡ (11.3坪)
西室 26.65㎡ (8.1坪)
庭総面積 1360㎡ (411.3坪)
内庭 628㎡ (189.9坪)
外庭 732㎡ (221.4坪)


東室上の獅子(雌)


東室上の獅子(雄)

参考資料
玉陵
出典: フリー百科事典『 Wikipedia 』

玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿)は琉球王国第二尚氏王統の歴代国王・親族が葬られている陵墓。所在地は沖縄県那覇市首里金城町。第3代尚真王(在位1477年1526年)が父、尚円王を葬る為に弘治14年(1501)に建立したもの。世界遺産・国指定重要文化財で沖縄県最大の破風墓。「玉陵」と名付く墓所は他に「伊是名玉陵」「山川の玉陵」がある。

概要

玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。中室は葬儀の後、遺骸が骨になる迄放置し、骨を取り出して洗骨した。洗骨した後、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。
第二次世界大戦時には玉陵は東室、西室が破壊される等、大きな被害を受けた。現在、見られる大部分は第二次世界大戦後に復元されたものである。また第二次世界大戦で亡くなった沖縄県立一中の生徒を弔う為の「一中健児の塔」等が近くに建立されている。
2000年に「
琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された他、全体が国の史跡、玉陵墓室石牆が国の重要文化財(建造物)、石彫獅子と玉陵碑が県の有形文化財(彫刻)に指定されている。

被葬者
玉陵内には被葬者としての資格を記した碑、いわゆる玉陵の碑文があり、それによると有資格者とは

  • 尚真
  • おぎやか(尚円の妃、尚真の母)
  • 聞得大君・音智殿茂金 (尚真の妹)
  • 佐司笠按司・真鍋樽 (尚真の長女)
  • 尚清(尚真の世子)
  • 尚韶威・今帰仁王子朝典(尚真の三男)
  • 尚龍徳・越来王子朝福(尚真の四男)
  • 尚享仁・金武王子(尚真の六男)
  • 尚源道・豊見城王子(尚真の七男)

と、されているが尚真が生存中は守られていたものの子の尚清は即位の後すぐにこの碑文の内容に反し、廃嫡された兄:尚維衡・浦添王子朝満を玉陵に移葬している。また、各王子の子孫もここには葬られず、それぞれ各家で墓所をもっている。例外を除き基本的に被葬者は歴代王と王妃であると思って良い。1931年、尚家20代当主尚典の夫人:祥子(野嵩按司加那志)の入棺の後、新たな被葬者はいない。

玉陵以外の尚家墓所
歴代王の中で2代尚宣威王、7代尚寧王の二名は玉陵に葬られてはおらず尚寧は浦添市仲間にある浦添ようどれに、尚宣威は沖縄市八重島にそれと伝わる墓がある。尚、伊是名玉陵には尚円王の父・尚稷とその妻、歴代の神女の他、2005年には21代尚昌の長女である井伊文子、22代尚裕が葬られた。山川の玉陵は王家の脇墓で夭死して玉陵に葬られなかった者等の墓所であった。19代尚泰王の七男である尚時等もそこに葬られている。21代尚昌の墓所は沖縄県ではなく東京都台東区にある。

2009年03月18日

国際通りのトランジットモール

毎週日曜日は国際通りはトランジットモールという歩車共存道路になります。大道芸や各種イベント等があちらこちらでやっているので日曜日に那覇に居るならブラブラしてみるのもいいですよ(σ`・ω・´)σ

ちびっこがエイサーを踊った後に獅子舞があったのですが、カメラの電池が切れたので残念ながら一枚しか写真がありません。また追加します

参考資料
国際通り
出典: フリー百科事典『 Wikipedia 』

国際通り(こくさいどおり)は
沖縄県那覇市にある県道39号線の通称。
国際通り(こくさいどおり)は、
那覇市県庁北口交差点(パレットくもじ前交差点)から安里三叉路にかけての約1.6kmの通りの名称である。戦後の焼け野原から目覚しい発展を遂げた事、長さがほぼ1マイルである事から、「奇跡の1マイル」とも呼ばれる。沖縄県で最も賑やかな通りであり那覇最大の繁華街。

概要
交通
・沖縄都市モノレール線:県庁前駅・美栄橋駅・牧志駅が最寄り駅。
・路線バス:パレットくもじ前バス停、沖銀本店前バス停、県庁前バス停、県庁北口バス停、松尾二丁目バス停(市内線のみ)、松尾バス停(市外線のみ)、三越前バス停(市内線のみ)、牧志バス停(市外線のみ)、安里バス停が最寄りバス停。開南通りでは開南バス停が最寄りバス停。

所在地
:那覇市の久茂地から安里、沖縄県道39号線の一部
・通り沿いの地名
  • 安里1~2丁目
  • 牧志1~3丁目
  • 松尾1~2丁目
  • 久茂地3丁目

歴史
戦前は旧那覇市中心部と首里市を最短距離で結ぶ県道として整備され「新県道」と呼ばれていた。郊外の一本道で人家は少なく畑や湿地帯が広がっていた。沖縄戦後、米軍により従前の中心地(現在の那覇市西・久米・辻付近)が接収されてしまい人々は行き場を失っていた。まず壺屋地区の窯業業者達が産業復興を名目として入市。続いて牧志地区の瓦職人達も入市が認められた。他の人々も皆窯業関係者や職人の親戚縁者を名乗って市内に入り始め壷屋から牧志にかけてのガーブ川周辺や新県道近くに居ついて自然発生的に闇市が広がった。1948年には米軍の物資集積所があった新県道沿いの土地に「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が開館(現在のてんぶす那覇付近)。映画館に因んで「国際通り」の名が定着した。デパート等の大店舗が集まる繁華街であったが地域の繁華街としての役割は次第に周辺へ移行し、大型ショッピングセンターは駐車場を確保できる郊外に、生活に密着した店舗はその裏通りにある平和通りやその周辺に移行した。国際通りの方は、その名が著名になるにつれ観光客が増え観光客向けの店舗が増加。那覇新都心等、周辺地域の開発もあり現在では沿線事業者の大部分は土産物店や有名飲食店、ホテル等であり殆どが観光客向けの通りの様相を呈している。また同系列の店舗で2号店・3号店等が同じ通り上に乱立しており、どの区間を歩いてもあまり代わり映えしなくなっている。尚、地元住民の生活にかかわる商店街はその裏手の平和通りや「沖縄の台所」とも呼ばれている牧志公設市場等この通りに隣接している(国際通りからの入口は通りのほぼ中間地点に当たるむつみ橋交差点周辺)。

交通状況
国際通りでは構造的な渋滞を起こしている。これは沿線が繁華街である事に加え上下各1車線(計2車線)のみと狭路である事や国際通りと接続する道路の多くがT字路で接続しており南北に横切る場合でも一旦国際通りを通る事になる道路構造にも起因している。商店街でも配送の集約等、渋滞解消についての協議が行われている。また、モノレールでは一番の繁華街である国際通りでは両端の県庁前駅牧志駅での接続に留まっている事でバス・マイカーの利用客の転移が余り進んでいないとも言える。両駅から北西に大きく離れて路線を作っている事は中間の美栄橋駅から繁華街への誘導が難しい事でもある。国際通りは那覇バスターミナルと中北部(名護バスターミナル具志川バスターミナル屋慶名バスターミナル等)を結ぶ路線バスの多くが経由し、一日の歩行者数が約2万人の所をバスの通過台数は2,000台を超える。バスの運行本数が増える時間帯はバスレーンが実施されるが、この国際通りの道路は片側一車線通行の為、平日朝7:00~9:00は安里から久茂地へ、夕方17:30~19:30は逆の久茂地から安里への片側車線について、一般車両の通行が規制される。また、国際通り内の路線バスの停留所は乗り降りをスムーズに行う為、安里バス停以外は那覇市内線用・市外線用に分かれている(但し、国道58号泊高橋)方面に向かう下り路線バスは国際通り内の安里バス停には停車せず崇元寺通り(又吉通り、県道29号)にある安里バス停に停車する)。しかし利用者にとってはわかりづらいという意見があり、バス停位置の統一もかつては検討されたが、いつの間にか立ち消えになった。その後2007年4月25日に市内線用のバス停名が変更される形(松尾→松尾二丁目、牧志→三越前)で対応がなされ市外線用のバス停と区別がし易くなった。

路線バス

  • 国際通り内には県庁方面から順に松尾二丁目、松尾、三越前、牧志、安里と5つのバス停があり、基本的に松尾二丁目、三越前は市内線用、松尾と牧志は市外線用となっている(市外線のうち、那覇バスの那覇市近郊路線は市内線用側に停車する)。安里は前述の通りに両方向停車する路線と県庁方面のみ停車する路線がある。
  • 路線の詳細は、琉球バス交通沖縄バス那覇バス東陽バス。
  • 一部の路線については国際通りを経由しない便もある。それらは時刻表等で「牧志経由」「久茂地経由」として区別され国際通りを経由する便には青地に白で「牧志」、経由しない便には黄地に黒で「久茂地」の表示が掲出される(尚、稀に表示が色分けされていない場合もある)。
  • 毎週日曜日の12:00~18:00はトランジットモールの実施により、路線バスも含めて車両の交通が規制される(10番・牧志新都心線を除く)為、国道58号等、周辺の道路へ迂回する。尚、牧志駅前~安里三叉路は交通規制の対象外で国道58号経由とならない路線は安里には停車する。

(☆・松尾二丁目・三越前に停車、★・松尾、牧志に停車)
(安里 ◎・両方面に停車、○・県庁方面のみ停車(逆方向は
県道29号崇元寺通り側に停車))
(トランジットマイル実施時間内 ●・国道58号久茂地経由、◆・美栄橋経由、■・
県道222号開南経由)

  • 1番・首里牧志線(那覇バス)☆◎■
  • 5番・識名牧志線(那覇バス)☆◎■
  • 9番・小禄石嶺線(那覇バス)☆◎■
  • 10番・牧志新都心線(那覇バス)☆○
  • 15番・寒川線(那覇バス)☆◎■
  • 20番・名護西線(琉球バス交通・沖縄バス)★○●
  • 22番・こどもの国宮里線(琉球バス交通)★○●
  • 23番・具志川線(琉球バス交通)★○●
  • 25番・普天間空港線(那覇バス)★◎■
  • 27番・屋慶名(大謝名)線(琉球バス交通・沖縄バス)★○●
  • 28番・読谷(楚辺)線(琉球バス交通・沖縄バス)★○●
  • 29番・読谷(喜名)線(琉球バス交通・沖縄バス)★○●
  • 30番・泡瀬東線(東陽バス)★◆ - 牧志駅前~安里三叉路を通過しないので、安里には停車しない
  • 33番・糸満西原(末吉)線(那覇バス)★◎◆
  • 46番・糸満西原(鳥堀)線(那覇バス)★◎◆
  • 52番・与勝線(沖縄バス)★○◆
  • 56番・浦添線(琉球バス交通)★◎■
  • 63番・謝苅線(琉球バス交通)★○●
  • 77番・名護東(辺野古)線(沖縄バス)★○
  • 80番・与那城線(沖縄バス)★○●
  • 87番・てだこ線(沖縄バス)★○●
  • 88番・宜野湾線(琉球バス交通)★◎■
  • 90番・知花(バイパス)線(琉球バス交通)★◎■
  • 97番・琉大(首里)線(那覇バス)★◎■
  • 98番・琉大(バイパス)線(琉球バス交通)★◎●
  • 101番・平和台安謝線(那覇バス)☆○■
  • 110番・長田具志川線(琉球バス交通)★○●
  • 120番・名護西空港線(琉球バス交通・沖縄バス)★○●

■トランジットマイル
トランジットマイルとはトランジットモールと「奇跡の1マイル」をかけた造語であり、国際通りで実施されるトランジットモールの通称。国際通りをトランジットモール化しようという構想があり、これ迄に何回か実験が行われていた。「トランジットマイル」の名称で実験されていた時期があるが現在は「トランジットモール」が正式名称となっている2007年2月11日から定期的に実施されるようになり同年4月1日から本格導入。国際通り全体の内、県庁寄りの約1.3km(県庁北口交差点~牧志駅前)に対して実施され日曜日の12:00~18:00の間は許可された車両(区域内に車を所有する人)以外は通行できない。実施時間内は低速バス(那覇バスの10番・牧志新都心線)が運行されているが観光客優先で歩行者天国にした事には不満があり、地元の一部の人達からは良く思われていない事も事実である。また一方で普段国際通りに来ない地元の人達が訪れるのも事実で、普段から観光客を相手にしていない店舗では地元客の来店が増え逆にお土産物屋からは観光客が減ったとの声がある。

接続する通り
沖映通り
国際通りのむつみ橋交差点から西に伸びる通り、以前あった沖映本館という劇場が名前の由来。
●一銀通り沖縄県道222号真地久茂地線・久茂地方面)
松尾消防署通り(沖縄県道222号真地久茂地線・開南方面)
浮島通り一方通行の為、国際通りからの車両の進入は不可)
平和通り(歩行者専用道路)
市場本通り(歩行者専用道路)
むつみ橋通り(歩行者専用道路)
グランドオリオン通り
桜坂中通り
パラダイス通り

2009年02月25日

与儀公園~夜桜で一杯?

2月中旬に沖縄県立図書館に用事があった時にたまたま与儀公園で植木祭り&花見客で賑わってましたので、夜桜でも見に行くかと思って東京から来たナンチャッテ島人に「与儀公園で夜桜見れるよ」と教えられて行ってみましたが、『寒い!真っ暗!何も見えない!』一緒に夜桜見物に来た観光客もびっくりの結末でした。
折角なので一応写真撮っておきました。


参考資料 カンヒザクラ(寒緋桜・緋寒桜・元日桜・薩摩緋桜)
釣り鐘状の花が特徴。花の色は白から濃いピンク色まで様々なものがある。中国南部から台湾にかけて分布する桜である。日本でも主に
沖縄県で野生化し、沖縄で「桜」と言えばこのカンヒザクラを指す。また、沖縄や奄美での桜の開花予想及び開花宣言はこのカンヒザクラの開花に対して発表される。沖縄では1月から2月に開花。また、関東より南でも植えられており、2月から3月にかけて花を咲かせる。ヒカンザクラ(緋寒桜)と呼ばれることもあるがヒガンザクラ(彼岸桜)と混合され易い為、近年はカンヒザクラと呼ばれる事が多い。
出典: フリー百科事典『 Wikipedia 』

2009年02月22日

那覇市立壷屋焼物博物館

所要時間 約90分
国際通りから平和通りをひめゆり通りに向かって5~10分歩いて行くと、白い石畳の『壷屋やちむん通り』という焼物店が多い所に出たので歩いてみる事にしました。

少し歩いていくと那覇市立壷屋焼物博物館というこじんまりした博物館があって壷屋焼『近代百年のあゆみ』という特別展がやっていたので立ち寄ってみました。



沖縄の陶器 昭和47年5月15日発行
 監修:
濱田庄司 装丁:芹沢銈介 発行:琉球電信電話公社(総裁:新里善福)
「沖縄の陶器」は沖縄が日本に復帰したのを記念して、当時の琉球電信電話公社が発刊したもの。
濱田庄司氏が監修し名作のカラー写真を収録。新里善福琉球電電総裁は「先人の足跡に(生まれ変わる)琉球電信電話公社の名を留めたい」と発刊に踏み切った。濱田庄司氏、外間正幸氏、柳宗悦氏等の解説等を収録しているが手に入れにくい希少本となっていた。平成10年にNTT沖縄支店等が復刻、株式会社サンエージェンシーが発行元になっている。定価は2万1,200円。』



参考資料
壺屋焼出典: フリー百科事典『 Wikipedia 』
壺屋焼(つぼややき)は沖縄県那覇市壺屋地区及び読谷村等で焼かれる陶器。現在では壺屋地区の都市化により壺屋地区の釜は殆ど電気釜となっている。

歴史
琉球王朝時代
琉球王朝は古くから交易が盛んで東南アジア方面との交流が活発だった。その時、流入してきたのが南蛮焼と呼ばれる焼き締め陶器である。琉球では主に酒器等を自足する為、技術を学び自国で焼き始めたと言われる。しかし1609年に薩摩の島津藩が琉球に侵攻、薩摩藩に占領されると共に交易でも様々な制約を受ける羽目になった。そこで17世紀に琉球王朝の尚貞王が産業振興目的で地方に分散していた幾つもの窯場を市街の一角に固めヤチムンと呼ばれる焼き物街を作った。これが壺屋焼の草創である。そして薩摩で技術指導していた朝鮮陶工等を招き焼き物の発展指導を促した。1671年に平田典通を中国に派遣、赤絵の技術を学ばせた。こうして壺屋焼は琉球随一の窯場として国内消費は勿論、外国との交易に一役買ったのである。尚、壺屋はヤチムンをそのまま日本語に訳した地名であり沖縄が日本に支配された時名付けられた地名である。

明治~昭和初期
明治に入ると有田焼等の安価な焼物が流入する事で壺屋焼は危機を迎える。だが、そこに民芸運動の第一人者であった柳宗悦・浜田庄司等が来訪し郷土の陶工、後に県下初の人間国宝にもなった金城次郎や新垣栄三郎等を指導し技術を研磨させた。また、美を追究した民芸陶器として壺屋焼を東京や京阪神等に情報発信した事により、壺屋焼は人気を仰ぎ廃絶を免れた。今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家等に因る所が大きい。彼等は「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性を兼ねた日用雑器に光を照らした者達であるが、とりわけこの壺屋焼には本土に無い鮮やかな彩色が目を惹く。民芸運動家らは庶民の日用品で、これ程迄装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと強調した。

戦後
壺屋地区は幸い第二次世界大戦で沖縄全土が焦土と化す中、比較的軽微な被害で済んだ。再興に従って、壺屋焼も徐々に勢いを取り戻す。しかし、窯は市街地に集中している為、今度は薪窯による煙害が深刻な問題となった。後に市は公害対策の為に薪による窯使用を禁止、窯場はガス窯への転換を余儀無くされ、伝統的な技法を失った壺屋焼は岐路に立たされた。折しも、基地返還による広大な土地転用を模索していた読谷村が窯元の積極的な誘致を行っていた。読谷村は元々ミンサーや花織等の文化が根付いた地で文化奨励に積極的だった事もあり、加えて読谷周辺は原料となる良質の陶土が豊富であった。そして薪窯の設置にも柔軟に対応した事で金城次郎初め多くの陶芸家達が壺屋を離れ、読谷村に集まり陶芸村を作ったのである。これが読谷村が第二の壺屋焼の故郷と呼ばれる所以で現在も40程の窯元が集まっており「読谷やちむんの里」として観光ルートにもなっている。また、読谷で作られた壺屋焼を読谷壺屋焼と呼んでいる。抑も壺屋焼のルーツを辿る窯元の幾つかは元々読谷の地にあった事も言われ300年振りに故郷に回帰したと考える事も出来る。今日では壺屋地区と読谷村以外にも窯元が分散しており、およそ100程の窯元がある。

作品の特徴
壺屋焼は大きく分けて「荒焼(アラヤチ)」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと「上焼(ジョウヤチ)」と呼ばれる朝鮮系の絵付がある

  • 荒焼(アラヤチ)
    14世紀~16世紀頃、ベトナム方面から伝わった焼き物。釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、かなり見た目は荒っぽい。当初は水や酒を貯蔵する甕が中心であったが、近年は日用食器も多く焼かれる。また、魔除けで知られるシーサーもこの荒焼の一種である。
  • 上焼(ジョウヤチ)
    17世紀に入ってから国の殖産の為、薩摩から朝鮮陶工を呼び寄せ焼かせた絵付陶器。陶土に白土を被せて化粧し、その後、色彩鮮やかな絵付や彫刻紋様を施し釉薬を掛けて焼成したもの。用途は抱瓶(携帯用の酒器)、カラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)、茶碗、皿、鉢等の日用品が焼かれた。前述の荒焼に対して装飾性が強いが、決して上流階級だけの代物でなく、庶民向けの民芸品だった所に民芸運動家等は驚き絶賛したという。