とあるきっかけで遅ればせながらアニメ版の「げんしけん」を見ているわけですが、その中に、オタクの青年と付き合っている普通の女性がいます。恐らくは、テレビなどで映っているアキバのオタクたちを見て鼻で笑うか気味悪がるか、そういう女性です。しかし、彼氏はオタクの巣窟にいるものですから、毎日が不機嫌であるわけです。
さて、彼女は何故不機嫌なのでしょうか。
それは、彼氏のいるその世界に自分の中に共通点がない(と思い込んでいる)からです。実際、これにはおかしな点があります。何故ならば、人に自分の価値観を求めるに当たり、その動機として常識を使うからです。常識とは何なんでしょう。その世界(といっても自分の周り、おおよそ見える範囲内の矮小な世界)にとっては、自分の常識が絶対であり、それを覆す事は世界の崩壊を促すからです。
これはオタクの世界にも言える話ですし、それだけではなく他の世界でもいえる話です。大きく括ってしまえば、日本の常識は世界の非常識、という事も言えるわけです。では、常識って何なのでしょうか。大辞林にはこのように記載されています。
「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力」…しかし、もう一つの方が納得のいく意味ではないのでしょうか。「「共通感覚」に同じ」。
これは得心の行く話です。共通感覚。そう、常識というのは共通感覚であり、その世界における当たり前の話であるわけです。となれば、共通感覚というのは人が文字や言葉、身振り手振りで伝えあう事=コミュニケーションによって培われていくという事になるわけです。
さて、最初の話、彼女は何故不機嫌なのでしょうか。
答えは、コミュニケーションを培う事によって自分の世界が壊れるのを恐れているという至極単純にして明快な話になったわけです。これは何も、この物語特有の話ではありません。例えば、団塊の世代が今の若者に対して理解を示せない事にもいえる話ですし、その逆も然りなのです。
自分が自分の世界を保つというのは非常に困難な話です。たとえ譲れない根本であったとしても、それは容易に破壊される可能性もあるわけです。今、受け入れる側の話だけをしていますが、それこそ、送り手にも同じことが言えるわけです。理解されないから相手に不可・劣化の烙印を押すのは如何なものなのでしょうか。
受けるにせよ、話すにせよ、一歩引いた場所から相手の様子を見つつ酌み交わす。それは遠慮ではなく思いやりというものです。年齢も性別も関係ありません。言葉を繰る人と言う生き物が出来る不器用でも暖かいコミュニケーションであるのです。
さて、今回は1989年から全4巻でリリースされました「鎧伝サムライトルーパー 煌輝帝伝説」です。
眩しい光の下、彼らは思い思いの生活を楽しんでいた。だが、ただ一人、全ての始まりである新宿に向かう少年の姿があった。烈火の鎧を身に纏う遼は、鎧から何かしらの異変を感じ取っていたのだ。時、同じく、新宿では突如として吹き荒れた熱風と共に、サバンナの蜃気楼が見えていた。そして、ビルに絡みつくようなジャングルの幻想。更に、人々が避難した街中に立つ遼の前に、あるか遠いあるはずのない砂漠から一人の人影が近づいてくる。
海辺でその異変を知った秀と伸は急いで新宿へと向かい、同じ時、軽井沢の避暑地へ純の宿題を見に来ていた当麻もナスティたちと一緒に向かっていた。遼と同じように鎧から異変を知った征士も、同じように新宿に向かっている。何かに導かれるように、サムライトルーパーは同じ場所に集結しつつあった。
その新宿では遼がサバンナからの人影に翻弄されていた。アンダーギアを纏い、尋常ならざる力を持った遼。その速度は車でもぴったりと追いつくのは難しいが、しかし、その人影は吸い付くようについてきた。しかも、生身で。その人影が自分と同じぐらいの少年である事をそのとき初めて知るのだった。
少年はその手に持つ巨大なブーメランを、そして自分の肉体を駆使して遼を追い詰めていく。しかし、そこに当麻が、征士が合流する。そんな彼らに対してサバンナからの少年は、何かジェスチャーをする。鎧を、纏え。そう解釈した三人は鎧を身につける…しかし、サバンナの少年はそれを見て不快とも取れる表情をする。
遅れて秀と伸も合流する。鎧をまとって戦う相手を見た伸は相手が生身である事に驚愕する。しかし、それ以上に驚いたのは、鎧をまとった仲間を見た時であった。まるで、それが妖邪のように見えたのだ。しかし、相手の力量を知った伸は秀と共に武装して加勢する。
鎧を身にまとった五人でも生身である少年には歯が立たない。ついに、当麻は天空の矢を少年に向かって放った…しかし、それを素手で掴み、しかも投げ返した。驚く五人の前で更に少年は驚きの行動にでる。
天の太陽に仰ぎ、祈るように、踊るように、そして何かを叫ぶ。
その声に踊りにこたえるように、少年の下に出現し、その身を覆ったのは、五人も良く知る鎧であった…いや、その形は知るものの、色はまるで正反対であった。遼の纏う白い鎧、煌輝帝の鎧。そう少年の纏ったのは黒い煌輝帝の鎧であったのだ。
完全なテレビ版の続編として、そして、一応の完結編として製作されたのがこの煌輝帝伝説でした。実際には、その後、もう一つのOVAで完結するわけですが、その話はまた次回という事で。
さて、サバンナからきた少年ですが、彼の名はムカラといい、第一巻のサブタイトル(太陽のムカラ)にもなっています。顔立ちは遼によく似た少年で、遼も設定上では野生児であったわけですが、それに輪をかけた野生児となっています。
基本的には無口で強く、しかしセリフは変身と叫び声、あとは最後にナリアという幼馴染の少女に声をかけるのみと、まるでボトムズのキリコみたい(彼もその当時は「何?」「フィアナ」「うむ」という三つしかセリフがなくても成立したと揶揄されたキャラ)でした。鎧と纏う際にトルーパーたちは武装と叫んで舞踏のように踊るのですが、そこはアメリカでそれもおかしいのだろうとして、祈りのような踊りになったのでしょう。その印象が強く、OVAキャラの割りにはすんなりとトルーパーの世界に入ってきたように見えました。
基本的には、TV版では設定のみになっていた鎧世界の話にスポットを置き、鎧と心の有り様を示そうとしたようですが、どうにも四巻では説明しきれない部分があったのでしょうか。最後に何故、遼たちとムカラが戦う事になったのかが、よく考えないと理解できなくなってしまっていました。また、現実世界と鎧の有り様についても話がなされなかったので、結局は黒い煌輝帝も何のために出てきたのか、ストーリー的には不明な状況になったとも言えるわけです(その補完をしたのがメッセージであるわけです)。
要は力と力のぶつかり合いは、予想以上に被害を出すものであるとのメッセージを組ませたかったのかもしれません。それは今までも数多くのアニメで取り上げられてきた命題ともいえるものですが、それをうまく表現しきった作品は現実にあるとはいえないのではないのでしょうか。この煌輝帝伝説もその命題をこなせなかった作品であるのはいたし方のない現実なのでしょう。ただ、だからと言って、そうした事を考えずにこうした作品を作る事は出来ない話です。戦いを一つのテーマにしている以上、必ず通る道であるわけですが、果敢に挑戦したその姿勢には共感が持てると思うのです。
そして、その挑戦は一年の期間をあけて「メッセージ」として登場する事になります(続く)
いわゆる同人誌バブルと揶揄される作品として知られるわけですが、商業における二次商品の価値を知らしめた作品でもあるとも言えるのです。恐らく、この作品(もちろん、その前にあった聖闘士 星矢、キャプテン翼も含めてです)がなければ、現在のアキバにおける萌え産業もなかったものと思われるのです。
それまでの二次産業と言えば玩具が主流でした。いえ、これは間違いですね。おおよそ原作付きではないアニメや特撮に関しては、玩具が一次産業であり、その玩具を売る媒体としての特撮でありアニメであるわけです。しかし、特にアニメに関しては、グッズと呼ばれる商品の出現により、単なるなりきり玩具だけではなく、まるでアイドルグッズと同じ様相の商品が数多も出現してくるようになりました。いわゆる、アニメイト商品やブロッコリー商品など今も脈々と続く商品は、そうした媒体も商品としてなりえる結果をしめしたと言えるわけです。
現在では、メイド喫茶やネットアイドルなど、少しずつ形態を変化させているわけですが、この先2年で新しい何かが出てくる可能性もあるわけです。もしかすれば、それは萌えに変わる新しい「何か」かもしれないわけで、その時、例えばアキバはどのように変化するのか一つの楽しみであると思うわけです。
そんなこんなで本日はここまで。
さて、彼女は何故不機嫌なのでしょうか。
それは、彼氏のいるその世界に自分の中に共通点がない(と思い込んでいる)からです。実際、これにはおかしな点があります。何故ならば、人に自分の価値観を求めるに当たり、その動機として常識を使うからです。常識とは何なんでしょう。その世界(といっても自分の周り、おおよそ見える範囲内の矮小な世界)にとっては、自分の常識が絶対であり、それを覆す事は世界の崩壊を促すからです。
これはオタクの世界にも言える話ですし、それだけではなく他の世界でもいえる話です。大きく括ってしまえば、日本の常識は世界の非常識、という事も言えるわけです。では、常識って何なのでしょうか。大辞林にはこのように記載されています。
「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力」…しかし、もう一つの方が納得のいく意味ではないのでしょうか。「「共通感覚」に同じ」。
これは得心の行く話です。共通感覚。そう、常識というのは共通感覚であり、その世界における当たり前の話であるわけです。となれば、共通感覚というのは人が文字や言葉、身振り手振りで伝えあう事=コミュニケーションによって培われていくという事になるわけです。
さて、最初の話、彼女は何故不機嫌なのでしょうか。
答えは、コミュニケーションを培う事によって自分の世界が壊れるのを恐れているという至極単純にして明快な話になったわけです。これは何も、この物語特有の話ではありません。例えば、団塊の世代が今の若者に対して理解を示せない事にもいえる話ですし、その逆も然りなのです。
自分が自分の世界を保つというのは非常に困難な話です。たとえ譲れない根本であったとしても、それは容易に破壊される可能性もあるわけです。今、受け入れる側の話だけをしていますが、それこそ、送り手にも同じことが言えるわけです。理解されないから相手に不可・劣化の烙印を押すのは如何なものなのでしょうか。
受けるにせよ、話すにせよ、一歩引いた場所から相手の様子を見つつ酌み交わす。それは遠慮ではなく思いやりというものです。年齢も性別も関係ありません。言葉を繰る人と言う生き物が出来る不器用でも暖かいコミュニケーションであるのです。
さて、今回は1989年から全4巻でリリースされました「鎧伝サムライトルーパー 煌輝帝伝説」です。

眩しい光の下、彼らは思い思いの生活を楽しんでいた。だが、ただ一人、全ての始まりである新宿に向かう少年の姿があった。烈火の鎧を身に纏う遼は、鎧から何かしらの異変を感じ取っていたのだ。時、同じく、新宿では突如として吹き荒れた熱風と共に、サバンナの蜃気楼が見えていた。そして、ビルに絡みつくようなジャングルの幻想。更に、人々が避難した街中に立つ遼の前に、あるか遠いあるはずのない砂漠から一人の人影が近づいてくる。
海辺でその異変を知った秀と伸は急いで新宿へと向かい、同じ時、軽井沢の避暑地へ純の宿題を見に来ていた当麻もナスティたちと一緒に向かっていた。遼と同じように鎧から異変を知った征士も、同じように新宿に向かっている。何かに導かれるように、サムライトルーパーは同じ場所に集結しつつあった。
その新宿では遼がサバンナからの人影に翻弄されていた。アンダーギアを纏い、尋常ならざる力を持った遼。その速度は車でもぴったりと追いつくのは難しいが、しかし、その人影は吸い付くようについてきた。しかも、生身で。その人影が自分と同じぐらいの少年である事をそのとき初めて知るのだった。
少年はその手に持つ巨大なブーメランを、そして自分の肉体を駆使して遼を追い詰めていく。しかし、そこに当麻が、征士が合流する。そんな彼らに対してサバンナからの少年は、何かジェスチャーをする。鎧を、纏え。そう解釈した三人は鎧を身につける…しかし、サバンナの少年はそれを見て不快とも取れる表情をする。
遅れて秀と伸も合流する。鎧をまとって戦う相手を見た伸は相手が生身である事に驚愕する。しかし、それ以上に驚いたのは、鎧をまとった仲間を見た時であった。まるで、それが妖邪のように見えたのだ。しかし、相手の力量を知った伸は秀と共に武装して加勢する。
鎧を身にまとった五人でも生身である少年には歯が立たない。ついに、当麻は天空の矢を少年に向かって放った…しかし、それを素手で掴み、しかも投げ返した。驚く五人の前で更に少年は驚きの行動にでる。
天の太陽に仰ぎ、祈るように、踊るように、そして何かを叫ぶ。
その声に踊りにこたえるように、少年の下に出現し、その身を覆ったのは、五人も良く知る鎧であった…いや、その形は知るものの、色はまるで正反対であった。遼の纏う白い鎧、煌輝帝の鎧。そう少年の纏ったのは黒い煌輝帝の鎧であったのだ。
完全なテレビ版の続編として、そして、一応の完結編として製作されたのがこの煌輝帝伝説でした。実際には、その後、もう一つのOVAで完結するわけですが、その話はまた次回という事で。
さて、サバンナからきた少年ですが、彼の名はムカラといい、第一巻のサブタイトル(太陽のムカラ)にもなっています。顔立ちは遼によく似た少年で、遼も設定上では野生児であったわけですが、それに輪をかけた野生児となっています。
基本的には無口で強く、しかしセリフは変身と叫び声、あとは最後にナリアという幼馴染の少女に声をかけるのみと、まるでボトムズのキリコみたい(彼もその当時は「何?」「フィアナ」「うむ」という三つしかセリフがなくても成立したと揶揄されたキャラ)でした。鎧と纏う際にトルーパーたちは武装と叫んで舞踏のように踊るのですが、そこはアメリカでそれもおかしいのだろうとして、祈りのような踊りになったのでしょう。その印象が強く、OVAキャラの割りにはすんなりとトルーパーの世界に入ってきたように見えました。
基本的には、TV版では設定のみになっていた鎧世界の話にスポットを置き、鎧と心の有り様を示そうとしたようですが、どうにも四巻では説明しきれない部分があったのでしょうか。最後に何故、遼たちとムカラが戦う事になったのかが、よく考えないと理解できなくなってしまっていました。また、現実世界と鎧の有り様についても話がなされなかったので、結局は黒い煌輝帝も何のために出てきたのか、ストーリー的には不明な状況になったとも言えるわけです(その補完をしたのがメッセージであるわけです)。
要は力と力のぶつかり合いは、予想以上に被害を出すものであるとのメッセージを組ませたかったのかもしれません。それは今までも数多くのアニメで取り上げられてきた命題ともいえるものですが、それをうまく表現しきった作品は現実にあるとはいえないのではないのでしょうか。この煌輝帝伝説もその命題をこなせなかった作品であるのはいたし方のない現実なのでしょう。ただ、だからと言って、そうした事を考えずにこうした作品を作る事は出来ない話です。戦いを一つのテーマにしている以上、必ず通る道であるわけですが、果敢に挑戦したその姿勢には共感が持てると思うのです。
そして、その挑戦は一年の期間をあけて「メッセージ」として登場する事になります(続く)
いわゆる同人誌バブルと揶揄される作品として知られるわけですが、商業における二次商品の価値を知らしめた作品でもあるとも言えるのです。恐らく、この作品(もちろん、その前にあった聖闘士 星矢、キャプテン翼も含めてです)がなければ、現在のアキバにおける萌え産業もなかったものと思われるのです。
それまでの二次産業と言えば玩具が主流でした。いえ、これは間違いですね。おおよそ原作付きではないアニメや特撮に関しては、玩具が一次産業であり、その玩具を売る媒体としての特撮でありアニメであるわけです。しかし、特にアニメに関しては、グッズと呼ばれる商品の出現により、単なるなりきり玩具だけではなく、まるでアイドルグッズと同じ様相の商品が数多も出現してくるようになりました。いわゆる、アニメイト商品やブロッコリー商品など今も脈々と続く商品は、そうした媒体も商品としてなりえる結果をしめしたと言えるわけです。
現在では、メイド喫茶やネットアイドルなど、少しずつ形態を変化させているわけですが、この先2年で新しい何かが出てくる可能性もあるわけです。もしかすれば、それは萌えに変わる新しい「何か」かもしれないわけで、その時、例えばアキバはどのように変化するのか一つの楽しみであると思うわけです。
そんなこんなで本日はここまで。


