古今東西、様々な悪の巣窟があるわけですが、それは決してお話だけの存在ではないのです。
さて、今回は1984年に発売されました「ドルアーガの塔」です。

IN ANOTHER TIME. IN ANOTHER WORLD...
THE BLUE CRYSTAL ROD KEPT THE KINGDOM IN PEACE...
BUT THE EVIL DEMON DRUAGA HID THE ROD AND THE MAIDEN KI IN A TOWER...
THE PRINCE GILGAMESH WORE GOLD ARMOR AND ATTACKED MONSTERS TO HELP KI IN THE TOWOR OF DRUAGA.
悪魔ドルアーガ…その姿は濃緑にして四対の腕と四本の脚。目は複眼にして黄金の輝きを持ち、口は顔の両端にまで裂けそこから牙を除かせている。だが、その姿が本当にそうであるのかは定かではない。ある勇者の前にあっては魔法使い、ある勇者の前にあっては龍、そしてある勇者の前にあっては騎士の姿で現れたという。
その姿を暴くためには、聖なりし防具、剣そしてアイテムが必要となる。それは、ドルアーガの存在する塔に隠されているという。
勇気を力にする黄金の鎧をまといギルは、その勇気を力に変えて塔へと入っていく。其処に待ち受けるだろうモンスターたち、そしてドルアーガの力で邪悪な意思を植えつけられた聖龍クオックスや騎士たち。
さらには、封印するために入っていったカイを助け出し、そして聖なる光を放つブルークリスタルロッドも確保しなければならない。
ギルはその試練に打ち勝つ事が出来るのか。そして、最上階に何があるのか…それは、その場所に行く事でしか解けない非情な謎であった。
ある意味画期的な、ある意味非道なゲームとして知られるドルアーガの塔です。
それまでのゲームは終りがありませんでした。永遠にループをし、残機数がなくなるまでゲームできるという代物であったわけです。
カンストと言う言葉があるのですけど、その意味するところはカウンターストップ。例えば点数であったり面数であったり。それをマックスにすることが一つのステータスであったわけです。
ところが、そのゲームシステムと異なるものが、このドルアーガの塔でした。
ドルアーガの塔には明確なゲーム目的があり、その目的を達成するとそこでゲームが終了するシステムを採用していたのです。その目的とは悪魔ドルアーガを倒し、そしてカイを助け出してブルークリスタルロッドを最上階に掲げる事。
ですが、それが非道なゲームであるといわれた原因でもあったのです。
このゲーム、RPG的要素を踏まえたもので、ゲーム中に出てくるアイテムでパワーアップをしたり、パワーダウンをしたりします。その効能は獲得してみるまでわからないのではなく、大半は獲得してもわからないものなのです。
しかも、最終的にドルアーガを倒すのに必須となるアイテムがあるのですが、そのアイテムも明記されていないのです。
トドメに、そのアイテムに関する事で最も非道な事と言えば、アイテムが入れられている宝箱の出現条件は、プレイヤーで探し出しましょうというものでした。
ゲーム発売当初、即ちゲームセンターに設置当初にそのような事がわかるはずもありません。多くのプレイヤーが途中で挫折したわけですが、その情報をいち早く全国に知らせたのは電波新聞社のマイコンBASICマガジン…略してベーマガでした。
其処に載せられた情報によって全国のプレイヤーが、いわゆる解き方を競い合うように研究していったのです。そうした経緯の中には、他のプレイヤーが盗み見しないように、ダンボールで画面を隠すゲームセンターも出てきたほどです。
最終的にはその攻略法が世に出回ったことで、一応の解決を見たように見えました…が、問題はその出現パターンを覚える事ができないという事です。
何せ、ドルアーガの塔の階数は全部で60階。その中から必要なアイテムを覚えるというのは、無理と言うもの。結果的に、メモ帳を作ったり、ゲームセンター側が用意したりと言う、ある種のお祭り騒ぎであったゲームと記憶しております。
その後にファミコンやPCエンジン、パソコンにも移植され、そして今ではオンラインゲームやアニメ化までされたわけですけど、その当時よりメディアミックスはされていたゲームでもありました。
今では名称としても見当たらないゲームブックス。ナムコが家庭用として出す際に使用していたナムコットのブランド名で出されていたボードゲームもありました。また、大阪で開催された国際花と緑の博覧会において屋外型施設として作られたこともありました。
時代を経ていくと、その姿を何かに変えて展開していくドルアーガの塔。この先、まだまだその姿を変化させていくような気がしてならないわけですが、どのようになるのでしょうか。楽しみな事です。
何かとんでもなく、限りなく黒い訝しげな場所の事を万魔殿(パンデモニウム)と呼称しますが、決してこれは異次元や魔界の話ではなく、現実世界の話。しかも、身近に存在する場所に対するお話です。
というのは、昨今の税金に対する政治家や役人の対応がどうなっているのかという事。
例えば裏金問題。これは日本全国で勃発している問題で、使い切らなければならないというおかしな理論から来ているものです。別に税金を使い切らなければ、それで次回の予算に廻せば良いだけの話。
使い切っていないのだから予算いらないんでしょ?という話もおかしなもので、状況と言うのは日々刻々と変化するものです。
要するに現場を何も見ていない典型的な事柄がこうした問題を引き起こしてるのは明白。
ソレに繋がるのは、岡崎の洪水における話でしょう。市の設備でありながらも水門の整備を全く行っていなかった。別に現在の方だけが問題なのではないのは当然ですが、それまでの市制が問われるのも当然の話なのです。
また、ダム問題もこれに類する話になるのでしょう。
徳山ダムなどその典型的例かもしれません。実際に見てきたわけですけど、広大なダム湖の役割として大きいといわれる川の氾濫の防止。少なくとも十年以上は揖斐川で川の氾濫など起こっていないはずです。それよりも、そのダムが出来た事による揖斐川の水位が下がった事による問題は、大きいのではないのかと危惧しております。
東海において長良川に代表される鮎漁。揖斐川でもやながあるわけですが、本当に鮎が帰ってきたのか心配になりました。
有明海の水門の問題もそうですね。
当初の予定では農地確保、それが工業用用地と用水確保、最終的には防災となりましたが、その結果、希少な財産を多く失う結果になりました。
結果的にこうした使わなければいけない、やらなければならないとする背景には何があるのでしょう。それは利権です。何かしらの徳を見出せるからこそ、躍起になっているだけです。
戦後から数えて六十数年。これ以上の公共事業が本当に必要であるのでしょうか。当然、中には必要としている場所も当然あります。ただ、その計画がそのままでも資金が回収できるのかという問題も孕んでいるのは間違いない話です。
高速道路などはその典型的な例でしょう。無料化をするために料金徴収を行っていたはずが、結果的には無料化できない状況になっています。それは補修などの費用の徴収が必要になっているからだとしています。本当の所はどうなのかわかりませんが。ガソリン税の二重徴収とも言われる暫定税率の問題もありますし。
九州地区には新幹線…いえ、高速道路すらも通っていない。それどころか、道路整備の面から見ても、決して利便性が高いというわけでもない状況であります。山間部というよりも、都会から遠く離れた場所、もしくは行きにくい場所における観光地ではない場所、そこは率先して省かれてしまう場所なのでしょう。
むしろ、そうした場所には公共事業は必要であると思っています。ですが、いつまでも公共事業があるのかと言われれば、それはあり得ないと答えるべきではないのでしょうか。
公共事業に頼っている建設企業があります。私からすれば、何故?と疑問を投げかけたくなるわけです。
そして、現状における公共事業の削減に嘆いています。何故?それは先が見えていないだけの話ではないのでしょうか。
こうした返答における内容として、公共事業がなければ食っていけないという話があります。おかしな事です。公共事業をする場所は公共…つまり、国民が利用するための物としての建設事業です。それを成しただけでは意味がなく、そこから利用することによって資金の回収が出来る目処があってこその公共事業でなくてはならないはずなのです。
ところがそうではなく、困窮している人たちのためだけの公共事業がなされているようにしか思えないわけです。これは国もしくは地方の役所の有り様に問題があるとしか思えません。
本来、そうした人たちにおける支援で必要なものは、国の事業に頼らないものでなければならないはずです。それが自立支援としてあるべき姿なのです。となれば、国や地方の役所がするべきことは、その地方における状況を把握し、支援するための税金や人材の投入と精査でなければなりません。
最近では地産地消を謳っておりますが、公共事業に肩入れしている地域、その地方に誇れるものがあるとでも言うのでしょうか。
万魔殿は悪徳と背徳に塗れた負の象徴として言われるわけですが、問題は「ソレがあるからこそそうなっている」のではなく、「そうしてしまったからこそそうなった」という考え方の変化ではないのでしょうか。
つまり、それは税金の使い道にもいえる話であり、「使わなければもらえない」とするのではなく、「使わない状況を実行してみた」「今回は大丈夫、でも次回は異なる」「どうしても必要になる部分がある、そのためには必要となる」といった、その意味の中にくくられてしまっている様々な状況をしっかりと見聞きし考え実行する責任が必要ではないのかと思うわけです。
足りないものは覚悟と責任。日本における美徳といわれたその二つであるのは間違いない話なのです。
そんなこんなで本日はここまで。
さて、今回は1984年に発売されました「ドルアーガの塔」です。

IN ANOTHER TIME. IN ANOTHER WORLD...
THE BLUE CRYSTAL ROD KEPT THE KINGDOM IN PEACE...
BUT THE EVIL DEMON DRUAGA HID THE ROD AND THE MAIDEN KI IN A TOWER...
THE PRINCE GILGAMESH WORE GOLD ARMOR AND ATTACKED MONSTERS TO HELP KI IN THE TOWOR OF DRUAGA.
悪魔ドルアーガ…その姿は濃緑にして四対の腕と四本の脚。目は複眼にして黄金の輝きを持ち、口は顔の両端にまで裂けそこから牙を除かせている。だが、その姿が本当にそうであるのかは定かではない。ある勇者の前にあっては魔法使い、ある勇者の前にあっては龍、そしてある勇者の前にあっては騎士の姿で現れたという。
その姿を暴くためには、聖なりし防具、剣そしてアイテムが必要となる。それは、ドルアーガの存在する塔に隠されているという。
勇気を力にする黄金の鎧をまといギルは、その勇気を力に変えて塔へと入っていく。其処に待ち受けるだろうモンスターたち、そしてドルアーガの力で邪悪な意思を植えつけられた聖龍クオックスや騎士たち。
さらには、封印するために入っていったカイを助け出し、そして聖なる光を放つブルークリスタルロッドも確保しなければならない。
ギルはその試練に打ち勝つ事が出来るのか。そして、最上階に何があるのか…それは、その場所に行く事でしか解けない非情な謎であった。
ある意味画期的な、ある意味非道なゲームとして知られるドルアーガの塔です。
それまでのゲームは終りがありませんでした。永遠にループをし、残機数がなくなるまでゲームできるという代物であったわけです。
カンストと言う言葉があるのですけど、その意味するところはカウンターストップ。例えば点数であったり面数であったり。それをマックスにすることが一つのステータスであったわけです。
ところが、そのゲームシステムと異なるものが、このドルアーガの塔でした。
ドルアーガの塔には明確なゲーム目的があり、その目的を達成するとそこでゲームが終了するシステムを採用していたのです。その目的とは悪魔ドルアーガを倒し、そしてカイを助け出してブルークリスタルロッドを最上階に掲げる事。
ですが、それが非道なゲームであるといわれた原因でもあったのです。
このゲーム、RPG的要素を踏まえたもので、ゲーム中に出てくるアイテムでパワーアップをしたり、パワーダウンをしたりします。その効能は獲得してみるまでわからないのではなく、大半は獲得してもわからないものなのです。
しかも、最終的にドルアーガを倒すのに必須となるアイテムがあるのですが、そのアイテムも明記されていないのです。
トドメに、そのアイテムに関する事で最も非道な事と言えば、アイテムが入れられている宝箱の出現条件は、プレイヤーで探し出しましょうというものでした。
ゲーム発売当初、即ちゲームセンターに設置当初にそのような事がわかるはずもありません。多くのプレイヤーが途中で挫折したわけですが、その情報をいち早く全国に知らせたのは電波新聞社のマイコンBASICマガジン…略してベーマガでした。
其処に載せられた情報によって全国のプレイヤーが、いわゆる解き方を競い合うように研究していったのです。そうした経緯の中には、他のプレイヤーが盗み見しないように、ダンボールで画面を隠すゲームセンターも出てきたほどです。
最終的にはその攻略法が世に出回ったことで、一応の解決を見たように見えました…が、問題はその出現パターンを覚える事ができないという事です。
何せ、ドルアーガの塔の階数は全部で60階。その中から必要なアイテムを覚えるというのは、無理と言うもの。結果的に、メモ帳を作ったり、ゲームセンター側が用意したりと言う、ある種のお祭り騒ぎであったゲームと記憶しております。
その後にファミコンやPCエンジン、パソコンにも移植され、そして今ではオンラインゲームやアニメ化までされたわけですけど、その当時よりメディアミックスはされていたゲームでもありました。
今では名称としても見当たらないゲームブックス。ナムコが家庭用として出す際に使用していたナムコットのブランド名で出されていたボードゲームもありました。また、大阪で開催された国際花と緑の博覧会において屋外型施設として作られたこともありました。
時代を経ていくと、その姿を何かに変えて展開していくドルアーガの塔。この先、まだまだその姿を変化させていくような気がしてならないわけですが、どのようになるのでしょうか。楽しみな事です。
何かとんでもなく、限りなく黒い訝しげな場所の事を万魔殿(パンデモニウム)と呼称しますが、決してこれは異次元や魔界の話ではなく、現実世界の話。しかも、身近に存在する場所に対するお話です。
というのは、昨今の税金に対する政治家や役人の対応がどうなっているのかという事。
例えば裏金問題。これは日本全国で勃発している問題で、使い切らなければならないというおかしな理論から来ているものです。別に税金を使い切らなければ、それで次回の予算に廻せば良いだけの話。
使い切っていないのだから予算いらないんでしょ?という話もおかしなもので、状況と言うのは日々刻々と変化するものです。
要するに現場を何も見ていない典型的な事柄がこうした問題を引き起こしてるのは明白。
ソレに繋がるのは、岡崎の洪水における話でしょう。市の設備でありながらも水門の整備を全く行っていなかった。別に現在の方だけが問題なのではないのは当然ですが、それまでの市制が問われるのも当然の話なのです。
また、ダム問題もこれに類する話になるのでしょう。
徳山ダムなどその典型的例かもしれません。実際に見てきたわけですけど、広大なダム湖の役割として大きいといわれる川の氾濫の防止。少なくとも十年以上は揖斐川で川の氾濫など起こっていないはずです。それよりも、そのダムが出来た事による揖斐川の水位が下がった事による問題は、大きいのではないのかと危惧しております。
東海において長良川に代表される鮎漁。揖斐川でもやながあるわけですが、本当に鮎が帰ってきたのか心配になりました。
有明海の水門の問題もそうですね。
当初の予定では農地確保、それが工業用用地と用水確保、最終的には防災となりましたが、その結果、希少な財産を多く失う結果になりました。
結果的にこうした使わなければいけない、やらなければならないとする背景には何があるのでしょう。それは利権です。何かしらの徳を見出せるからこそ、躍起になっているだけです。
戦後から数えて六十数年。これ以上の公共事業が本当に必要であるのでしょうか。当然、中には必要としている場所も当然あります。ただ、その計画がそのままでも資金が回収できるのかという問題も孕んでいるのは間違いない話です。
高速道路などはその典型的な例でしょう。無料化をするために料金徴収を行っていたはずが、結果的には無料化できない状況になっています。それは補修などの費用の徴収が必要になっているからだとしています。本当の所はどうなのかわかりませんが。ガソリン税の二重徴収とも言われる暫定税率の問題もありますし。
九州地区には新幹線…いえ、高速道路すらも通っていない。それどころか、道路整備の面から見ても、決して利便性が高いというわけでもない状況であります。山間部というよりも、都会から遠く離れた場所、もしくは行きにくい場所における観光地ではない場所、そこは率先して省かれてしまう場所なのでしょう。
むしろ、そうした場所には公共事業は必要であると思っています。ですが、いつまでも公共事業があるのかと言われれば、それはあり得ないと答えるべきではないのでしょうか。
公共事業に頼っている建設企業があります。私からすれば、何故?と疑問を投げかけたくなるわけです。
そして、現状における公共事業の削減に嘆いています。何故?それは先が見えていないだけの話ではないのでしょうか。
こうした返答における内容として、公共事業がなければ食っていけないという話があります。おかしな事です。公共事業をする場所は公共…つまり、国民が利用するための物としての建設事業です。それを成しただけでは意味がなく、そこから利用することによって資金の回収が出来る目処があってこその公共事業でなくてはならないはずなのです。
ところがそうではなく、困窮している人たちのためだけの公共事業がなされているようにしか思えないわけです。これは国もしくは地方の役所の有り様に問題があるとしか思えません。
本来、そうした人たちにおける支援で必要なものは、国の事業に頼らないものでなければならないはずです。それが自立支援としてあるべき姿なのです。となれば、国や地方の役所がするべきことは、その地方における状況を把握し、支援するための税金や人材の投入と精査でなければなりません。
最近では地産地消を謳っておりますが、公共事業に肩入れしている地域、その地方に誇れるものがあるとでも言うのでしょうか。
万魔殿は悪徳と背徳に塗れた負の象徴として言われるわけですが、問題は「ソレがあるからこそそうなっている」のではなく、「そうしてしまったからこそそうなった」という考え方の変化ではないのでしょうか。
つまり、それは税金の使い道にもいえる話であり、「使わなければもらえない」とするのではなく、「使わない状況を実行してみた」「今回は大丈夫、でも次回は異なる」「どうしても必要になる部分がある、そのためには必要となる」といった、その意味の中にくくられてしまっている様々な状況をしっかりと見聞きし考え実行する責任が必要ではないのかと思うわけです。
足りないものは覚悟と責任。日本における美徳といわれたその二つであるのは間違いない話なのです。
そんなこんなで本日はここまで。


