恐らく人が人と異なるのは、自分が自分である事を認識するために必要な事であり、その自分が人と違いながらも、恐らくはこうであろうと思う描くためであるのではないかと思うのです。
さて、今回は1982年に発売されました「幻獣少年キマイラ」です。

高校生になったばかりの青年・大鳳吼は、その人離れした美しさから、相対する者にサディスティックな感情を沸き立たせ、暴力によってそれを満足させる…そんな不思議な魅力の持ち主であった。今で言ういじめられっ子タイプなのであろうが、しかし、その身の内には耐え難い欲望も秘めていた。
そうした日々の中で、同じ高校生でありながらも鍛え上げられた肉体を持つ九十九三蔵と知り合い、その関係で武道を習う事となる。
彼の師匠は真壁雲斎。日々の糧をパソコンでのエロゲーム製作によって賄っているという不思議な年寄りであった。質素な生活と思えば、しかし最新の電化製品も操る。彼の生き様は自然体そのものであった。
雲斎の元で修行を積む大鳳、しかし、彼へのサディスティックな攻撃はその日も止む事はなかった。同級生である織部深雪を庇い、絡んできた他の同級生をその手で叩きのめす…その後に熱を出して寝込んでしまった大鳳の下へ一人の女性が尋ねてくる。
亜室由魅。彼女は大鳳にささやくように言う。欲しいものがあるのでしょう…と。大鳳は三蔵たちと夕食を共にし、その中で肉をイッパイ食べたいと要求した。確かにその要求は満たされた…が、本心から満足するものではなかった。
彼が欲したのは血の滴る生肉。その芳醇な香りと甘い味わいがするものを存分に胃に満たしたかったのだ。そう、由魅が持ってきたのは、生肉そのものであったのだ。それを貪りつくし、その様子を見つつ由魅は更にささやく。
生肉と同じ様に欲しているものがあるのでしょう…と。その通りであった。その言葉に誘われるように、大鳳は由魅を抱いた。
それが災いをもたらす事になる。同じ高校にある実質学校を統制している男が居た。彼は大鳳と同じ様に人ならざるほどの美貌の持ち主であったが、しかし、大鳳と異なり弱さを微塵も感じさせなかった。実際に、体躯が彼よりも大きな猛者と言えど、勝てる事はない。それほどの実力があった。
彼の名は九鬼麗一。そして、亜室由魅は九鬼の女でもあった。
大鳳に報復を決めた九鬼は、大鳳と仲の良い女生徒、深雪をさらい大鳳を誘い出した。その時、大鳳がその目で見たのは、九鬼の体から出てくる異形の口、獣の剛毛…。それを幻獣=キマイラと九鬼は言った。
そして同じものを飼っていると大鳳は知ることになる。その時から大鳳は自身の内にある化け物と戦わなければならなくなった。
夢枕獏氏の初期作。キマイラ・吼シリーズの一巻目「幻獣少年キマイラ」です。
思い出しながらの殴り書きでしたが、多分あっていると思います。あったはずの小説がどこかへ行ってしまったので…。
かなり面白く、ショックを受けた記憶があります。
その当時から小説を自分なりに記載していたわけですが、その書き方は漫画をベースにしたもので、基本的に擬音と台詞の多い…というか大半がそれというものでした。今のケータイ小説に似ているのかもしれません。
そうした中で読んだこの作品に出てくる擬音は、本当に目から鱗のものでした。
口で表現するに足るものでも、実際に音として表現できるのか---?
そんな感じの表現が、あちらこちらにあったわけです。
この小説は今で言うCDドラマにもなっているわけですが、確か記憶が正しければ聞いたことがあるような気もします。でも、そこまで表現できていたのかと言われれば…基本的にCDドラマは説明が多いわけで、それで賄っていたように記憶しています。(間違えていたらゴメンナサイ)。
説明時にはしっかりと行間をつめて記載し、人が動いたり話したりする情景では、行間や擬音でタイミング=間を計る。
結構すらすらっと読めるものなのですが、それでも、一気に読んでしまいたくなる魅力があると思います。
生々しい表現も多いわけですけど、それも作品の雰囲気を出すための演出であるわけです。
現在、朝日新聞社で新装版として「キマイラ(1) 幻獣少年・朧変」として発行されています。夢枕氏が「生涯小説」と言う力作であり、現在も執筆継続中という作品ですので、時代の流れにあっても変わらぬ魅力を出しているのではないのでしょうか。
…最初に記載したのは、要するに人は一人ずつ違っていて当たり前という話で、しかも、人と言うのは自分を認識するのに他人が必要だという話なのです。
当たり前なのですけど忘れてしまうのがこの話なのです。
誰々が出来たのだから、自分が出来たのだから、出来ていない人がいないのだから…あなたも出来る。これは、真っ赤な嘘です。
人が50mを10秒フラットで走れたとして、その人が出来たから誰もが出来る。それでは記録は意味を持ちませんし、何より、どうして走っているのか理解できなくなります。誰よりも速く走れる。だからこそ、その人の走る行為に価値があるのです。
誰かが、未だに解けない公式を解く事ができた。だから誰もが出来る。これも同じ事ですね。
農作物を獲る、魚を獲る、鳥を獲る。これも、全ての人に出来る話しではありませんし、何よりそれを絞めて肉にする行為など…私は出来ません。弱虫ですから。命を食っている事に代わりがないのですけどね。怖いんですよねぇ。
別の人が言います。誰も人と異なっているのだから気にする事はない。確かにその通りかもしれません。ですがそれは社会が許しません。
一人一人、特技が合って然るべき。それを見つけるのも重要な事だ。そうですね。でも、それよりも他人と同じものを学び、そこで差をつける事に意味があるとしているのが社会らしいのです。
出来不出来。それは一体誰が決めるのでしょう。少なくとも、他人であるのは間違いありません。自分でここまでというのは、大概が甘えなのだというのが一般的な見解なのだそうです。
私はこう思います。
人が人を認識するのに、人を見ていなければ、その人は自分を人と思うのだろうか。恐らく、それは無い話であり、何か見た動くものを自分だと思うのだろう。それだけ人は不完全に自分を理解しているに過ぎない。
しかし、その理解の低さは人にとって我慢できるものではないらしく、それを人は無知と呼び忌み嫌った。
無知である事を無意味と思った人々は、あらゆることを理解しようとした。
だが、知れば知るほど、理解には程遠く、疑問ばかりが浮かんでくる。その疑問を解決するのに、自分で確かめるよりも簡単な方法があった。それは人の知識を理解する事。これで、人は賢くなったと思った。
恐らく人は、様々な地球にいる生物よりも高く飛び、深くもぐれるようになった。何処までも遠くに、そして誰よりも力強く。自由である両手を使い、物を作り、文字を書き…。
しかし、それは全て過程であって結論ではない。その事に気付いている人がどれだけいるのだろう。
いつしか人は模倣を捨てた。動物に学ぶ事をやめた。植物に学ぶ事をやめた。全てを利用する事を覚えた。だから、人はどこまでも自分のために生きる事が出来るようになった。
そして人は他の生き物を見て、人である事を理解できなくなった。
人は何処に行くのか、人は何者であるのか。かつてとある侵略者が問いかけた言葉を、今、私たちは自分に対し他人に対して聞かなければなりません。その行き先が天国にしろ地獄にしろ、人だけではなく大多数の命を道連れにしなければならない事にどのような意味があるのか。
…宗教でもなく哲学でもなく、曖昧ではなく確信でもなく、理路整然に説明できる必要があるのではないのか…そう思うのです。
そんなこんなで本日はここまで。
さて、今回は1982年に発売されました「幻獣少年キマイラ」です。

高校生になったばかりの青年・大鳳吼は、その人離れした美しさから、相対する者にサディスティックな感情を沸き立たせ、暴力によってそれを満足させる…そんな不思議な魅力の持ち主であった。今で言ういじめられっ子タイプなのであろうが、しかし、その身の内には耐え難い欲望も秘めていた。
そうした日々の中で、同じ高校生でありながらも鍛え上げられた肉体を持つ九十九三蔵と知り合い、その関係で武道を習う事となる。
彼の師匠は真壁雲斎。日々の糧をパソコンでのエロゲーム製作によって賄っているという不思議な年寄りであった。質素な生活と思えば、しかし最新の電化製品も操る。彼の生き様は自然体そのものであった。
雲斎の元で修行を積む大鳳、しかし、彼へのサディスティックな攻撃はその日も止む事はなかった。同級生である織部深雪を庇い、絡んできた他の同級生をその手で叩きのめす…その後に熱を出して寝込んでしまった大鳳の下へ一人の女性が尋ねてくる。
亜室由魅。彼女は大鳳にささやくように言う。欲しいものがあるのでしょう…と。大鳳は三蔵たちと夕食を共にし、その中で肉をイッパイ食べたいと要求した。確かにその要求は満たされた…が、本心から満足するものではなかった。
彼が欲したのは血の滴る生肉。その芳醇な香りと甘い味わいがするものを存分に胃に満たしたかったのだ。そう、由魅が持ってきたのは、生肉そのものであったのだ。それを貪りつくし、その様子を見つつ由魅は更にささやく。
生肉と同じ様に欲しているものがあるのでしょう…と。その通りであった。その言葉に誘われるように、大鳳は由魅を抱いた。
それが災いをもたらす事になる。同じ高校にある実質学校を統制している男が居た。彼は大鳳と同じ様に人ならざるほどの美貌の持ち主であったが、しかし、大鳳と異なり弱さを微塵も感じさせなかった。実際に、体躯が彼よりも大きな猛者と言えど、勝てる事はない。それほどの実力があった。
彼の名は九鬼麗一。そして、亜室由魅は九鬼の女でもあった。
大鳳に報復を決めた九鬼は、大鳳と仲の良い女生徒、深雪をさらい大鳳を誘い出した。その時、大鳳がその目で見たのは、九鬼の体から出てくる異形の口、獣の剛毛…。それを幻獣=キマイラと九鬼は言った。
そして同じものを飼っていると大鳳は知ることになる。その時から大鳳は自身の内にある化け物と戦わなければならなくなった。
夢枕獏氏の初期作。キマイラ・吼シリーズの一巻目「幻獣少年キマイラ」です。
思い出しながらの殴り書きでしたが、多分あっていると思います。あったはずの小説がどこかへ行ってしまったので…。
かなり面白く、ショックを受けた記憶があります。
その当時から小説を自分なりに記載していたわけですが、その書き方は漫画をベースにしたもので、基本的に擬音と台詞の多い…というか大半がそれというものでした。今のケータイ小説に似ているのかもしれません。
そうした中で読んだこの作品に出てくる擬音は、本当に目から鱗のものでした。
口で表現するに足るものでも、実際に音として表現できるのか---?
そんな感じの表現が、あちらこちらにあったわけです。
この小説は今で言うCDドラマにもなっているわけですが、確か記憶が正しければ聞いたことがあるような気もします。でも、そこまで表現できていたのかと言われれば…基本的にCDドラマは説明が多いわけで、それで賄っていたように記憶しています。(間違えていたらゴメンナサイ)。
説明時にはしっかりと行間をつめて記載し、人が動いたり話したりする情景では、行間や擬音でタイミング=間を計る。
結構すらすらっと読めるものなのですが、それでも、一気に読んでしまいたくなる魅力があると思います。
生々しい表現も多いわけですけど、それも作品の雰囲気を出すための演出であるわけです。
現在、朝日新聞社で新装版として「キマイラ(1) 幻獣少年・朧変」として発行されています。夢枕氏が「生涯小説」と言う力作であり、現在も執筆継続中という作品ですので、時代の流れにあっても変わらぬ魅力を出しているのではないのでしょうか。
…最初に記載したのは、要するに人は一人ずつ違っていて当たり前という話で、しかも、人と言うのは自分を認識するのに他人が必要だという話なのです。
当たり前なのですけど忘れてしまうのがこの話なのです。
誰々が出来たのだから、自分が出来たのだから、出来ていない人がいないのだから…あなたも出来る。これは、真っ赤な嘘です。
人が50mを10秒フラットで走れたとして、その人が出来たから誰もが出来る。それでは記録は意味を持ちませんし、何より、どうして走っているのか理解できなくなります。誰よりも速く走れる。だからこそ、その人の走る行為に価値があるのです。
誰かが、未だに解けない公式を解く事ができた。だから誰もが出来る。これも同じ事ですね。
農作物を獲る、魚を獲る、鳥を獲る。これも、全ての人に出来る話しではありませんし、何よりそれを絞めて肉にする行為など…私は出来ません。弱虫ですから。命を食っている事に代わりがないのですけどね。怖いんですよねぇ。
別の人が言います。誰も人と異なっているのだから気にする事はない。確かにその通りかもしれません。ですがそれは社会が許しません。
一人一人、特技が合って然るべき。それを見つけるのも重要な事だ。そうですね。でも、それよりも他人と同じものを学び、そこで差をつける事に意味があるとしているのが社会らしいのです。
出来不出来。それは一体誰が決めるのでしょう。少なくとも、他人であるのは間違いありません。自分でここまでというのは、大概が甘えなのだというのが一般的な見解なのだそうです。
私はこう思います。
人が人を認識するのに、人を見ていなければ、その人は自分を人と思うのだろうか。恐らく、それは無い話であり、何か見た動くものを自分だと思うのだろう。それだけ人は不完全に自分を理解しているに過ぎない。
しかし、その理解の低さは人にとって我慢できるものではないらしく、それを人は無知と呼び忌み嫌った。
無知である事を無意味と思った人々は、あらゆることを理解しようとした。
だが、知れば知るほど、理解には程遠く、疑問ばかりが浮かんでくる。その疑問を解決するのに、自分で確かめるよりも簡単な方法があった。それは人の知識を理解する事。これで、人は賢くなったと思った。
恐らく人は、様々な地球にいる生物よりも高く飛び、深くもぐれるようになった。何処までも遠くに、そして誰よりも力強く。自由である両手を使い、物を作り、文字を書き…。
しかし、それは全て過程であって結論ではない。その事に気付いている人がどれだけいるのだろう。
いつしか人は模倣を捨てた。動物に学ぶ事をやめた。植物に学ぶ事をやめた。全てを利用する事を覚えた。だから、人はどこまでも自分のために生きる事が出来るようになった。
そして人は他の生き物を見て、人である事を理解できなくなった。
人は何処に行くのか、人は何者であるのか。かつてとある侵略者が問いかけた言葉を、今、私たちは自分に対し他人に対して聞かなければなりません。その行き先が天国にしろ地獄にしろ、人だけではなく大多数の命を道連れにしなければならない事にどのような意味があるのか。
…宗教でもなく哲学でもなく、曖昧ではなく確信でもなく、理路整然に説明できる必要があるのではないのか…そう思うのです。
そんなこんなで本日はここまで。


