食品偽装にタクシー問題。要するに人を騙して楽しよう儲けようとしている人が多いわけ…なんですね。
さて、今回は1984年に発売されました「妖神グルメ」です。

とある場所にある料理学校。そこは一切の人工物を使わずに、しかも、如何なるものも食材として使い、一流の料理を作り上げる事を信念とした天才料理人がしぶしぶながらに経営していた。しかも、その経営者は高校生。
今日も今日とて数少ない…いや、たった一人の教え子に対して、考えられるだけの罵声を浴びせ倒している。そのたった一人の生徒も流石に逃げていったその日。彼は料理教室をたたむ決心をしていた…いや、どうしてもたたみたかった。
彼の名前は内原富手夫。稀代のイカモノ料理研究家である。
イカモノ料理は決してゲテモノ料理ではない。そこにあるコケ、ゴキブリ、腐りかけの野菜屑、ハエ。そんな通常では絶対に考えられないものでも彼にとっては食材である。そして、決してマズイ料理は作らない。
そんな彼の前に、一人の男がやってくる。アブドゥラ・アルハズレット。
彼が富手夫に頼んだのは、彼の主人に対して、その腕を振るって欲しいということ。しかし、それはあの恐るべき神を蘇らせる事でもあった。
ただ、その事よりも富手夫に興味があったのは唯一つ。その日から、富手夫の脳裏にはその事だけが思い浮かぶようになった。
だが、彼の周りは彼の考えるよりも騒々しくなる。そして、全てはある海底へと向かって収束していくのだった。
菊池秀幸氏にしては珍しいのではないのでしょうか。シリーズ化になっていない話です。
しかも、その元ネタは「クトゥルー神話」で、その相手が高校生なのですから、驚きです。
物語的にはクトゥルーの恐ろしさというよりも、その周りで動く人の恐ろしさというのが良く描かれている作品ではないのでしょうか。主人公である内原富手夫は、イカモノ料理の天才。その様子はまるで美味しんぼの海原雄山と変わりがありませんと言うくらいに、激しいものです。
ただ、彼は孤独を愛するようで、出来る限り人とは係わり合いにはなりたくない様子。まるで、今の引きこもりのような感じですが、アグレッシブさはちと違うような感じがします。
これが発売されたのは、1984年。グルメが持てはやされた時代でもあったわけです。
それまで日本で食べられていたものとは違うものが数多く入ってきた時代でもありました。作るよりも食べる方に重点が置かれていたと記憶しています。
今のように大食漢とかではなく、むしろ少なく貴重な食材をありがたがって食べていた。個人的感想として、少し間違ったような世界であったと思います。
この小説は食と神話をうまく融合させた話であります。
基本的に神話で食の話が出てきても、それで料理まで含めて話を作るというのは稀有ではないのでしょうか。それも最高の食材が神であるというのは、人の反逆としてはありえない、しかしながら最高のものではないかとも思うわけです。
確かに、そうした食材を作って作る料理はゲテモノではなく、イカモノという呼称があっているのかもしれません。
この作品に出てきた主人公、内原富手夫はこれで死んでしまったのか…と思いきや、そうでもないらしく、実は別の作品にも登場しています。その作品をまだ読んでいないので、どうなっているのかはわかりませんが、恐らくは、イカモノ料理を極めようと東奔西走している事でしょう。
人のモラル云々と言われた昔も「騙す」犯罪がなかったわけではなく、それ以上に人情があったわけでもないわけです。単純にモラルがあっただけの話。モラルを常識という人もいますけど、本来常識というのは時代ごとに変化していきますし、時代でなくても地域によって変わっていくものです。
日本でも西日本と東日本で風習はかわりますし、食事の好みも変わります。用意するべき祝い事も同じ様な祭りでも意味が違っていたり、順番が違っていたりするわけです。それをその地域では常識と言います。
問題は、こうした常識というのが様々な場所で作られてしまうという事です。
要するに食肉偽装の常識、タクシー問題の常識、年金問題の常識など、勝手気ままに作った常識が世間の常識であるかの如く振舞うのが、全ての原因となっているわけです。
明らかにこれはモラルではありませんね。
もし、モラルが常識であるのならば、その根本にある人に迷惑をかけない…これが常識に入ってなければなりません。ですが実際にはどうでしょう。人に迷惑をかけている事ばかりです。
人には、それぞれ持って生まれた常識が存在します。その大半は地域性というものでくくられるわけですが、それが時として人同士のコミュニケーションを破壊する場合もあります。モラルとは、そうした異文化の人の事を考えて、迷惑のかからないようにする事だと思うわけです。
そうです。モラルを何か別の言葉にするとすれば、それは奥ゆかしさではないのでしょうか。
奥ゆかしさは決して臆した事と同意義ではありません。人を立て、自分を立てる行為の事です。人だけを立てるのはおべっか…今で言えば、ゴマスリと何ら変わりがないわけです。ですが、本来、人は人同士で立てあうものであるわけです。つまり、相手を敬い尊敬し、それを相手も行う。決して誹謗中傷、ましてや卑下していては出来るはずのないものであるわけです。
自分の思い通りに行かない世の中を憂う気持ちは誰にでもあることでしょう。しかし、問題はそれぞれに生活があり、それは干渉し合って流れているものであるという事です。
どうにも、その干渉という意味を服従に置き換えて考えている人が多いようで、それが間違った認識である事を気付かないまま日々を暮らしているようなのです。
干渉するという事は、ただ、お互いを認識しただけで起こることであり、その間にある流れが自然な流れであるわけです。ところが、それが自分の思い通りに流れていないと、無理矢理その流れを変えようとする人がいるわけです。これが歪です。歪はゴムの張りと同じ様なもの。ある程度以上は変えられないものなのです。しかし、それを無理矢理に変えようとします。結果、流れは決壊し修復など出来なくなってしまうわけです。
家族の大事がなくなってきていると言いますが、実際には家族の干渉の仕方が変わってきているからおかしな流れになってきているとすれば理解しやすいのではないのでしょうか。
その流れは世間の奔流からすれば、小川のようなものです。歪がなければ、受け流す事もさして難しいものではないのでしょう。しかし、歪にぶち当たる大きな流れは、まるでその流れ自体を壊そうとする勢いのはずです。結果、流されるのではなく、いなすわけでもなく、壊れてしまう。そして壊した原因を大きな流れに求める。そんな所ではないのでしょうか。
家庭の歪み、学校の歪み、企業の歪み、社会の歪み。本来あるべき流れに戻すには、それこそ自身の流れの向きや強さなどをしっかり理解する必要があり、それが回りに迷惑をかけるのではなく、影響を与える流れになるわけです。
奥ゆかしさとは人に良き影響を与える流れの事。つまりはモラルとは人に迷惑を与えないだけではなく、正しい事を示す姿勢でもあるという事になるのではないのでしょうか。
常識にとらわれないと言うのは、決して自由気ままなだけで動く事ではなく、モラルをもって行動する事であると思うわけです。
そんなこんなで本日はここまで。
さて、今回は1984年に発売されました「妖神グルメ」です。

とある場所にある料理学校。そこは一切の人工物を使わずに、しかも、如何なるものも食材として使い、一流の料理を作り上げる事を信念とした天才料理人がしぶしぶながらに経営していた。しかも、その経営者は高校生。
今日も今日とて数少ない…いや、たった一人の教え子に対して、考えられるだけの罵声を浴びせ倒している。そのたった一人の生徒も流石に逃げていったその日。彼は料理教室をたたむ決心をしていた…いや、どうしてもたたみたかった。
彼の名前は内原富手夫。稀代のイカモノ料理研究家である。
イカモノ料理は決してゲテモノ料理ではない。そこにあるコケ、ゴキブリ、腐りかけの野菜屑、ハエ。そんな通常では絶対に考えられないものでも彼にとっては食材である。そして、決してマズイ料理は作らない。
そんな彼の前に、一人の男がやってくる。アブドゥラ・アルハズレット。
彼が富手夫に頼んだのは、彼の主人に対して、その腕を振るって欲しいということ。しかし、それはあの恐るべき神を蘇らせる事でもあった。
ただ、その事よりも富手夫に興味があったのは唯一つ。その日から、富手夫の脳裏にはその事だけが思い浮かぶようになった。
だが、彼の周りは彼の考えるよりも騒々しくなる。そして、全てはある海底へと向かって収束していくのだった。
菊池秀幸氏にしては珍しいのではないのでしょうか。シリーズ化になっていない話です。
しかも、その元ネタは「クトゥルー神話」で、その相手が高校生なのですから、驚きです。
物語的にはクトゥルーの恐ろしさというよりも、その周りで動く人の恐ろしさというのが良く描かれている作品ではないのでしょうか。主人公である内原富手夫は、イカモノ料理の天才。その様子はまるで美味しんぼの海原雄山と変わりがありませんと言うくらいに、激しいものです。
ただ、彼は孤独を愛するようで、出来る限り人とは係わり合いにはなりたくない様子。まるで、今の引きこもりのような感じですが、アグレッシブさはちと違うような感じがします。
これが発売されたのは、1984年。グルメが持てはやされた時代でもあったわけです。
それまで日本で食べられていたものとは違うものが数多く入ってきた時代でもありました。作るよりも食べる方に重点が置かれていたと記憶しています。
今のように大食漢とかではなく、むしろ少なく貴重な食材をありがたがって食べていた。個人的感想として、少し間違ったような世界であったと思います。
この小説は食と神話をうまく融合させた話であります。
基本的に神話で食の話が出てきても、それで料理まで含めて話を作るというのは稀有ではないのでしょうか。それも最高の食材が神であるというのは、人の反逆としてはありえない、しかしながら最高のものではないかとも思うわけです。
確かに、そうした食材を作って作る料理はゲテモノではなく、イカモノという呼称があっているのかもしれません。
この作品に出てきた主人公、内原富手夫はこれで死んでしまったのか…と思いきや、そうでもないらしく、実は別の作品にも登場しています。その作品をまだ読んでいないので、どうなっているのかはわかりませんが、恐らくは、イカモノ料理を極めようと東奔西走している事でしょう。
人のモラル云々と言われた昔も「騙す」犯罪がなかったわけではなく、それ以上に人情があったわけでもないわけです。単純にモラルがあっただけの話。モラルを常識という人もいますけど、本来常識というのは時代ごとに変化していきますし、時代でなくても地域によって変わっていくものです。
日本でも西日本と東日本で風習はかわりますし、食事の好みも変わります。用意するべき祝い事も同じ様な祭りでも意味が違っていたり、順番が違っていたりするわけです。それをその地域では常識と言います。
問題は、こうした常識というのが様々な場所で作られてしまうという事です。
要するに食肉偽装の常識、タクシー問題の常識、年金問題の常識など、勝手気ままに作った常識が世間の常識であるかの如く振舞うのが、全ての原因となっているわけです。
明らかにこれはモラルではありませんね。
もし、モラルが常識であるのならば、その根本にある人に迷惑をかけない…これが常識に入ってなければなりません。ですが実際にはどうでしょう。人に迷惑をかけている事ばかりです。
人には、それぞれ持って生まれた常識が存在します。その大半は地域性というものでくくられるわけですが、それが時として人同士のコミュニケーションを破壊する場合もあります。モラルとは、そうした異文化の人の事を考えて、迷惑のかからないようにする事だと思うわけです。
そうです。モラルを何か別の言葉にするとすれば、それは奥ゆかしさではないのでしょうか。
奥ゆかしさは決して臆した事と同意義ではありません。人を立て、自分を立てる行為の事です。人だけを立てるのはおべっか…今で言えば、ゴマスリと何ら変わりがないわけです。ですが、本来、人は人同士で立てあうものであるわけです。つまり、相手を敬い尊敬し、それを相手も行う。決して誹謗中傷、ましてや卑下していては出来るはずのないものであるわけです。
自分の思い通りに行かない世の中を憂う気持ちは誰にでもあることでしょう。しかし、問題はそれぞれに生活があり、それは干渉し合って流れているものであるという事です。
どうにも、その干渉という意味を服従に置き換えて考えている人が多いようで、それが間違った認識である事を気付かないまま日々を暮らしているようなのです。
干渉するという事は、ただ、お互いを認識しただけで起こることであり、その間にある流れが自然な流れであるわけです。ところが、それが自分の思い通りに流れていないと、無理矢理その流れを変えようとする人がいるわけです。これが歪です。歪はゴムの張りと同じ様なもの。ある程度以上は変えられないものなのです。しかし、それを無理矢理に変えようとします。結果、流れは決壊し修復など出来なくなってしまうわけです。
家族の大事がなくなってきていると言いますが、実際には家族の干渉の仕方が変わってきているからおかしな流れになってきているとすれば理解しやすいのではないのでしょうか。
その流れは世間の奔流からすれば、小川のようなものです。歪がなければ、受け流す事もさして難しいものではないのでしょう。しかし、歪にぶち当たる大きな流れは、まるでその流れ自体を壊そうとする勢いのはずです。結果、流されるのではなく、いなすわけでもなく、壊れてしまう。そして壊した原因を大きな流れに求める。そんな所ではないのでしょうか。
家庭の歪み、学校の歪み、企業の歪み、社会の歪み。本来あるべき流れに戻すには、それこそ自身の流れの向きや強さなどをしっかり理解する必要があり、それが回りに迷惑をかけるのではなく、影響を与える流れになるわけです。
奥ゆかしさとは人に良き影響を与える流れの事。つまりはモラルとは人に迷惑を与えないだけではなく、正しい事を示す姿勢でもあるという事になるのではないのでしょうか。
常識にとらわれないと言うのは、決して自由気ままなだけで動く事ではなく、モラルをもって行動する事であると思うわけです。
そんなこんなで本日はここまで。


