突然ですが…思うに、人というのは生まれてから死ぬまで個人であるわけです。
 
いきなりなんじゃらホイと思うかもしれませんが、今回のお話は個性でゴザイマス。



 さて、今回は2008年に発売されました「ルパン三世 GREEN vs RED」です。

 一人の男が欄干にもたれかかり、その手に持ったアルバイト情報誌を見ているところから、物語は始まる。情報誌を投げ捨て、振り返るとそこにあるのは、青いフィアット。その中を覗き込むと、灰皿には山のような吸殻。そしてラジオから流れるニュースでは、指輪盗難の情報が流れている。
 
その犯人とされるのが、緑のジャケットを着たルパン三世であると。
 
男の手に持つ、その指輪。そして自分がルパンだといわれる事に驚く男。男は孤児院の出身者であり、園長先生からは悪い事をしなければ上等なのだと教えられていた。それは悲観的になる事なく、生きる事が良い事。しかし男は日々の生活を少しのアルバイトとスリで賄っていた。
 
一方、人生をかけてルパンを追い続ける男が日本に向けた飛行機に搭乗していた。銭形幸一。ルパンの噂を聞きつけ世界を飛び回るが、しかし、本物ではなかった。
 
 
日本でもニセルパンのニュースが飛び込んでくる。あのルパンが万引きで逮捕されたというのだ。ニュース映像に流れる顔は確かにルパン。しかし、それを見たルパンが憤り、一斉に活動を開始する。
 
そう、その時、ルパンは一人ではなかったのだ。
 
ルパンがまるで姿を隠したのと同じに、世界同時多発的にルパンが出てきた。そして、緑のジャケットを着た青年、ヤスオもまたそんな模倣ルパンの一人であった…あったはずなのだ。あの日、あの橋の上で同じワルサーP38を構えて見据えている赤いジャケットのルパンが現れるその日までは…。
 
 
大変に意欲作であり、同時に問題定義の作品でもあると思います。
 
今までのルパン…というよりも、ある意味、これまでのアニメに対する疑問・批判の答えであるような気がしてならないわけです。
 
この作品のテーマと言いますか、根本にあるのは、「ルパン三世とは何ぞや」という事です。それは原作からアニメ、ゲームに小説、立体などの全ての作品においてのルパン三世のあり方に対する問いかけでもあります。
 
顔かたち、身長や体重に対する正確無比な比率からなる創造。ある種、原作者でもあるモンキーパンチ氏ですら、毎回描き続けるルパンが本物であるのかと指摘しているようなものです。
 
 
昨今の作品において、見ている側がその作画に関して「作画崩壊している」と非難している場合があるわけです。これは、長年続くマンガ作品においても言われる事ですが、ルパンはその顕著な例と言えるのかもしれません。
 
文字としてみれば、東洋風でサル顔。華奢な体つきに見えて、大変な肉体派。頭脳明晰で手先も器用。女に対しては節操がなく、しかし、無用な殺しはしないが、悪人には容赦が無い。
 
所が人によってサル顔の定義も異なりますし、肉体派といっても、どれだけ筋肉質なのかもわかりません。何より、ルパン三世と名乗っておりますが、その証拠は何一つないわけです。
 
 
「ルパンとは何ぞや」。劇中、それを理解しているのは次元大介、石川五右衛門、峰不二子、銭形警部、そしてルパン本人であるわけです。
 
ルパンはルパンであったのではなく、ルパンである必要があるだけ。
 
最初からルパンがいたのかいなかったのかではなく、ルパンであったのか、ルパンでいれたのか。これは、全てのマンガやアニメなどの作品に言える事なのでしょう。
 
特にTVアニメは数多くの作画監督・動画監督の手で作られます。それぞれの監督の癖が必ず反映されてしまうものです。中には、ディフォルメする方も見えることでしょう。果たして、それがどれほどまでに問題であるのか、とも言えるわけです。
恐らく、設定に厳密にして細部まで忠実に再現できる人というのは、まず、いないのではないのでしょうか。本人でさえ、日ごとに変わっていくものなのですから、他人がやれる程度はあくまで模倣の範疇を超えることは出来ないわけです。
 
しかし、それもあくまで同じキャラクターであると言えるのは、それが絵だけで決まるものではない、と言えるからなのです。
 
そのキャラクターたちにも、それまでの人生があるはずです。また、周りには関わってきた人・物があるはずです。それを無視しての人生などありえません。それが匂わせれるかどうかが、キャラクターの芯を作り上げるのだと思います。
 
つまり、実在する人と大差はなく、空想の人であったとしても、そこに存在する「芯」を見てそうであると決まると言えるのかもしれません。
 
 
この作品で言えば、ルパンのジャケットが緑であろうと赤であろうと、日本名でヤスオと名乗っていようとも、その芯がルパンであればそうなのだと言う事なんでしょう。
 
人であっても動物であっても、成長すれば外見はかわるものです。安易に作画崩壊などと言うのではなく、中身を見て判断するだけの度量も必要ではないのか、と思う次第なのです。



 個人を尊重する世の中…聞こえは良いですが実際は大変に生き抜くい世の中であるわけです。個人情報保護という名の下に過敏に反応するのは稀代の綺麗好きとなってしまった日本人の悪い癖なのかもしれません。結果的に、こうしたネットの中では個人情報が流れまくっている反面、個人を特定しない…いわゆる「ななしさん」があちらこちらに増殖中であるわけです。
 
さて、個性という問題は、実の所、何も問題にするべき事ではないわけです。上の方に記載しましたけど、人は誰一人として他人と同じ人物はいないという事です。これが個性=パーソナリティであるわけです。
 
当たり前の話ですけど、実際の話、これが良く忘れられてしまいます。
 
学業・仕事・恋愛。○○のようにだとか、○○は出来るのにとか。とかく他人と比べる事で個人を確認する風潮が、結果、日本における学歴優先の社会を作ってきたかのように思えてならないわけです。これは既に競争ではなく、狂騒というほどの騒ぎとなり、結果的に受験戦争という歴史も作ってきました。未だにそれが脱する事が出来ない原因は、結果的に言えば、個人を見る能力を失ってしまったから…としか言えないわけです。
 
 
例えば、仕事にしても、受験にしても面接があるわけです。
その面接官は一体、何を見て判断しているのでしょうか。態度・口調・応対。それぞれなのでしょうけど、結果的に人と関わりあうのはその後の話です。つまりは、入社・入学してからの話。それから、その人物の事が理解できるはずです。
所が、実際に聞いたことのなる話として…
 
「○○(大学名)を出ていながらなんでこんな事もわからない!」
 
…という言葉が出てきたりします。これは、ある大学を卒業していれば、これぐらいの事は理解して当然だ…もっと言ってしまえば、40を話して120わかるのは当然だと言っているわけです。
 
なんて乱暴な話なのでしょうか。
 
学業というのは、あくまで学問を修了する事であります。社会に出てからの、ましてやその会社の内情など、知る由がありません。そこに研修制度があったとしても、実際に働いてからわかる事など湯水のように出てくるものです。
 
つまりは、その文句を言った人は、とある大学の人間であれば全ての者が理解できるはずだ=教えなくても理解できるんだから、なんて楽なんだと個人を見ずに大学を見て、尚且つ自分の事だけを考えている…あからさまにではなくても、どこかでそう考えているはずなのです。
 
 
個性とは、その人の歩んできた人生が経験として積み重なり、形成されていくものです。恐らくソレは死ぬまで変わり続けるものでしょうし、そうでなければ、成長があるはずないのです。つまりは、個性を伸ばすという事は人を成長させていく事と同意義でもあるわけです。
 
関わった人、物、状況。それらが全て教科書であり先生である。そう理解して人に接していけば、肩書きだけで人を見るという事もなくなり、結果的に「思いやる」事が出来るようになると思うわけです。
 
 
昨今頻発している残虐な事件。それぞれを何かに当てはめようとする動きが多いわけですが、結局、それは自分の理解できない事を理解できないままで納得しようとしている浅はかな行動・言動であると思います。
どうしてそういう事件が起こり、犠牲が増えていくのか。それは人が人を認める事の意味のはき違えから来ているような気がしてなりません。地位・財産・権利。それだけで人を認めるというのであれば、勝ち組・負け組という情けない日本語が世界に広まるのもそれほど時間がかからないような気がするのです。
 
それで、他国にODAを出し、平和を論じるなどおこがましいと思うのですが…。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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