普段であれば、作品を決めてから記載する内容を考えるのですが、今回は逆で行ってみようかと。
最近、何かと騒がせている…いや、騒いでいるマスコミでありますが、相変わらずその横柄な態度に苦笑する日々であるのは言うまでもありません。しかも、そんな彼等が言う事には、表現の自由を守れというわけで、まあに片腹痛いというのはこの事なのでしょう。
私は自由というのは権利であると主張しています。何故なら、自由は奔放と取り違えてはならないからです。それは無法と言います。となればそれは権利と言う事になるわけですが、権利を主張する為には義務を果たさなくてはなりません。この場合、義務とは何か、それは発言に関しての所在にあります。そしてそれには責任を負わなければならないわけです。
ですが実際はどうなのでしょう。間違いとされた発言に対して、それをしっかり謝罪したマスコミはこれまでにどれだけあり、それを踏襲した上で尚、権利を施行しているといえるのでしょうか。
ハッキリ言えば、それは存在しないわけです。
そんな彼等自身がどれだけの影響を与えているのか、実際の所彼等もそれはわかっているようなのです。
さて、今回は1987年にアメリカABC放送で放送されました「マックス・ヘッドルーム」です。

時は近未来。そこには電源スイッチの存在しないテレビがあり、全ての物事が数千にも昇るテレビ局の視聴率によって決定される世界。その中でトップを走っている「ネットワーク23」に調査報道番組を任されている凄腕のレポーター、エディスン・カーターはいた。彼がその時に追っていたのは視聴者の連続変死事件。しかし、その取材は何故か局上層部から指し止めを食らってしまう。
それもそのはずで、実はこの事件の犯人は正に局内に存在していたからだ。
その首謀者は社長であるグロスバーグ。そして、その原因となったのがとあるCMであり、それにはチャンネルを変えないようにするため=ザッピング防止ためのCM圧縮技術「ブリップバード」が仕込まれていた。それは確かに視聴率を上げる効果はあったものの、しかし副作用として不活発な視聴者には爆発死する結末が待っていたのだ。
当然、その事をひた隠しにしている局であったが、ついにその原因となる技術を開発した天才少年の存在に、カーターは気付く。しかも、その少年は局の企画開発部門のチーフであった。そしてついに、副作用の決定的な場面を抑えたカーターであったが、録画は失敗。カーター自身も捕まっていまう。
グロスバーグはカーターがどこまで調査したのかを知る為に、天才少年ブライスに記憶を数値化し映像化する事を命じる。その結果、ブライスにも予想もしない出来事が起こる。それは実験を行った結果、カーターの分身、そして独自の人格を持ったCGが誕生したのだ。それが「マックス・ヘッドルーム」であった。
日本語版ではあの七色の声を持つ山寺氏がマックスをやっているわけですが、本当におしゃべりなマックスには最適なやくではないのでしょうか。CGとは言いましても、カーター役のマット・フリューワーが特殊メイクでそれらしいバックの前で演技をするというアナログな方法で撮影はされているものです。
その話の一番となるのは、あくまでマスコミという存在の影響力であり、それをコミカルに批評している作風なのです。
一生懸命に不正を暴こうとするカーター。しかし、局の上層部はあくまで視聴率にこだわり、ある種面白さだけを追い求めている。そしてそれを見ている視聴者の大半は面白さだけを求め何も考えないようになっている。まるで現代を予見していたかのような作品ではないのでしょうか。
確かに、マスコミの影響力は凄まじいものがあります。それによって冤罪となった事例も少なくはありません。もちろん、それを報道することなどまずありえないわけですから、知る事も少ないわけです。
カーターのような正義感の溢れる記者などつまはじきにされる世界なのでしょうが、それは何もマスコミだけの話ではないのです。そうした本当の意味での問題意識を持たないままで繰り返される歴史は決して誇れるものではないわけです。
この番組ではマックスの軽快なしゃべりが一つの売りになっているわけですが、それも決して笑うばかりではないのです。マックスの役どころは滑稽なピエロのようなもの。つまり、笑いの裏に悲哀が隠されているわけなのです。そういう意味は、単なる近未来を舞台にしたドラマというわけではなく、その当時からあったのだろうある種の警告が含まれていると見ても良い、そう思うのです。
今の世の中でマックスに似たようなものはないかしらと考えてみたのですが、ある意味、某巨大掲示板はそれに近しいと思うのです。世の中を皮肉り、少し斜めから話をする。とは言いましても、その大半が人を馬鹿にするような発言なのですからマックスよりは役に立っているのかいないのか、微妙な所ではありますけど。
冗談はさておき、今から20年も前にこうした作品が作られるほど、マスコミの影響力は目に付くものであった、そう考えるのが妥当なのでしょう。そしてそれは今でも変わらず…いえ、より酷くなってきていたのかもしれません。Blogの出現により、マスコミの影響力が下がる、もしくは下がったと言われるのでしょうが、それも一時的なこと。結局、それすらも巻き込むだけの技術を持つことになるのではないかと思うのです。
だからこそ、そのモラルはしっかりと率先として誠実になくてはならないはずなのです。昨今の発言に対する責任のあり方は、やはり視聴者として納得できるものばかりではないのが多く、結果的に報道としていてもそれはバラエティの域を抜けないものであると感じてしまうのです。
ならば、そんな無責任の集団のどこに報道の自由、言論の自由があるのか。疑問になるのは当然の話ではないのでしょうか。影響力のある分野であるからこそ、責任の重さをしっかりと認識してほしいものです。
そんなこんなで本日はここまで。


