少し前に柔らかな皮膚を持つ子供ロボットが登場した話をしましたが、考えてみれば、日本ぐらいなんでしょう人型ロボットに興味を示しているのは。何故ならば、人の形を成したのは神であるとしている宗教を信仰している方々には、人間をこしらえるなどというのは論外な話であり、神を冒涜する行為でもあるからです。
しかし、人の欠損している部分を補う技術に長けているのは、以外にも日本よりも海外であったりするわけですが、それは許認可の話もあるので、一概には言えませんが、しかしやはり宗教が絡んでいる部分が大きいと言えなくも無いのです。
その昔、人が人ならざる姿をしていない場合、それは信仰心不足として処分の対象になりました。それは歴史としてあった話です。現在ではおよそ許されぬ行為が行われていた…それは即ち、自分たちが生き残るための手段であったともいえます。
ですが、生命の設計図である遺伝子の解明が実際になされ始めたとき、人は何故病気になるのかという事も理解し始めて来たわけです。より完全な人は、即ち神の模倣品からの逸脱を目指しているとも言えなくも無いのです。
人が目指しているのは一体何であるのか、そして神は一体何であったのか。今、人類はその岐路に立たされているのかもしれないのです。
さて、今回は2004年に公開されました「イノセンス」です。

公安9課から草薙素子が去ってから三年後。巷では、愛玩用アンドロイド=ガイノイドによる暴走事件が多発していた。その被害者のには政府関係者も含まれている。公安9課はその事件の担当となり、バトーはトグサと供に、事件の捜査へと向かう。
しかし、バトーは捜査に乗り気ではない…というよりも全てのことに意味を見出せずにいた。その原因は素子の存在である。恐らく、愛情に極々近しいその感情を自分でもどうしようもない事に、もはや無気力感を感じていた。だからと言って捜査に手を抜くわけにもいかない。トグサと供に、警察から探りを入れにいく。
警察にある解析室では、問題のアンドロイドが解析されていた。その担当官は言う。彼女たちは自殺しようとしていた…アンドロイドが自殺するという表現にトグサは否定する。自殺すると言う表現はアンドロイドには適切ではない、自壊というべきではないのか。だが、担当官は続ける。彼女たちにはまず必要はないであろう機能がつけられている…そして、彼女たちが残した言葉「死にたい…」。バトーは繰り返されるその遺言のレコーダーを止めると、礼を言いその場から離れていった。
その中さらに別の事件が発生する。その凄惨な事件現場でバトーは一枚のホログラムカードを見つける。その少女が記録されたカードが気になるのか。カードを胸に忍ばせ、その事件現場も離れる。
その帰り、バトーは飼っている犬のためにドックフードを購入し、イシカワに送ってもらう。バトー自身はイシカワ自体にも、セーフハウスを隠しているつもりであったが、しかし、確実に誰かにバトーの行動はトレースされていた。だが、イシカワが何を言おうとも聞き入れるつもりのないバトーには、気づくはずもなく。結果、後日、ショッピングセンター内、一人で大立ち回りを演じた結果、イシカワに取り押さえられる事になる。
物語はこの後、バトーが暴力団に向かって自前の重火器を乱射したり、また、調査に向かったハッカーの家で電脳迷路に陥れられたりと映像的にはかなり見ごたえのある場面が出てきます。
バトーが主役であるこの物語は、前作に位置づけられる、GOHST IN THE SHELL/攻殻機動隊を見ていた方がわかりやすいのかもしれませんが、お勧めするのは、やはり原作の漫画版です。この一連のシリーズはいい意味で原作の要素をきちんと使っており、また、それを独自の解釈、さらには時代にあわせた設定の更新を行い、製作されています。その意味では、原作をしっかり読み、前作を見ていれば、イノセンスの流れをつかむのに、それほど苦労しなくても済むのではないのかと思います。
原作だけで掴みにくいその理由は、バトーの心理とそれを基にした行動でしょう。
映画のバトーは素子に依存しています。だからこそ、自分の前から消えた素子の事をいつでも考えてしまうのです。それは、素子がガイノイドで現れた際によく表現されています。その安心感はまるでスーパーマンが現れたかのような安心感であり、探していた恋人が現れたかのような高揚感でもあるように感じます。
つまり、この物語というのは、あくまで恋物語であり、そして命の物語であるという事なのです。そこに、電脳世界があり、銃撃戦があり。もし、それがアニメではなく特撮であったとしても表現出来る物語であるともいえます。あくまで人の物語であり、単なるバイオレンスでもサスペンスでもないわけなのですから。
前作もそうですが、イノセンスも観れば観るほど、新たな発見が出来る物語であると思います。ですが、その発見は必ずしも、監督である押井氏と同じであるのかどうか。それは些細な事なのかもしれません。何故なら、結局はその答えは物語として観るバトーたちにしかわからない事なのかもしれないのですから。
神様っていると思いますか?
そんな質問をする必要もないと思います。神様というのは、少なくとも存在し、こちらを見ている存在であるわけです。それは何故か。そうでなければ、私たちは生きていけないからです。
何のことを言っているのかといえば、それは自然そのものの話です。例えば、人は沢山の犠牲の上で生活をしています。命というもので考えていけば、一日生きていくだけでどれだけの犠牲を必要としているのか想像もつきません。つまり、それら一つ一つが神であるともいえます。
ただし、神が依存する相手であれば…という意味も含めての話です。
神様に依存するという事に関しては、宗教が明確ではないのでしょうか。宗教が存在するから神がいる場合もあるわけですが、しかし、大多数は神がいて、宗教が存在するわけです。宗教にはルールが存在します。そのルールというのが戒律です。戒律を破れば、罰が与えられます。罰はイヤですから戒律を守るわけです。最終的には、神の身元へいけるように努力していくわけですが、それが宗教における道徳であるともいえるわけです。
道徳と常識は異なります。しかし、どちらも絶対的に不変なものではありません。ただ、常識が時と場所によって変化するものであるのに対して、道徳の根本は変わりないものです。それは迷惑をかけないという事です。ただし、何が迷惑なのかは、時と場所によって変わっていきます。
最近の日本人に道徳が足りないといわれるのは、結局、こうした共通して依存するものがなくなったからなのかもしれません。その代わり、学歴やネットなどに依存する人が多くなっている現状から見れば、依存したがりの人は多くいるという事になります。
何に依存するのか、それはその人の問題であるのかもしれませんが、しかし、依存しすぎるというのは中毒になる事であるとも言えます。
中毒になれば抜け出すことは難しく、場合によっては周りに多大な迷惑をかける事になりかねません。人も金も趣味も、自分のできる範囲で収めておくのが一番良い依存であるとわかっているのではないのでしょうか。
ただ、自分にとって良い依存は中々抜けられないのもまた事実であるわけです。自戒も込めて思う事は、もう少し、自身に対する節度を学ぶ必要があるという事なのです。
そんなこんなで本日はここまで。


