何回かお話していると思いますが、今回もロボットの話です。

 NHKのニュースで、3~4歳の理解力を持つ、ロボットが紹介されていました。皮膚もあり、表情も言葉は話せませんが、声を出す事もできます。問題は、自律的に動く事ができない事、先ほども記載しましたが言葉を話せない事。表情も人間のような複雑な表情筋があるわけではないので、無表情に近くなってしまう事。しかし、こうした事は技術が進めばすぐに解決していく問題なのです。

 恐らく、一番の問題となるのは「感情」そして「感性」です。

 人には二つの記憶する場所があります。物理的な話ではないのですが、一つは脳もう一つは心です。これは私の見解なのですが、記録と言うものは脳に、記憶というものは心に残るものであると考えています。
記録はそれこそ機械的なことです。つまり重複した経験や初見した経験がそこに整理整頓されていって、予測が可能になると思うわけです。これがあるからこそ、人は出来るだけ間違いの無い行動をとり、構想を練る事ができるわけです。
一方、記憶は感動と恐怖によるスナップ写真であると考えています。写真とは実際にその場を記録したものですが、その場そのものではありません。そこにあった状況を記録しているものです。それを見ると人は想像します。旅行などのスナップ写真で実に鮮やかなものがあるのですが、それはそう撮れるような技術をもって写しているわけです。もちろん、その場の状況がそれだけの写真となる素質を持っているわけですが、素質はあくまで素質。言い換えれば宝石ではなく原石です。
原石は磨かれれば光り輝きますが、その原型は留めていません。写真も似たようなもので、写真に撮られたものはすでに宝石であるわけです。その原石はその場のその時にしかないのですから、原石はないに等しく、しかも写真に収められた段階ですでに研磨された状態になっているのです。

 つまり、感動したものが記憶の中でより美しくなるのも、恐怖が記憶の中でより恐ろしく感じるのも、それが心の中で磨かれた記録であるという事になります。これは実に複雑怪奇と言える事ではないのでしょうか。

 現在、こうした感情をプログラム化しようと研究しているグループがあります。今までのロボットは一定の条件を元に、あらかじめプログラムされたデータを模倣しているにすぎません。しかし、感情はそんな単純な話ではありません。何故なら、人が十人存在すれば、それだけ感動できるものも、恐怖するものも変わってくるからです。
つまり、プログラムしようとしているのは、そのロボット独自の心であると言っても過言ではないのです。

 もしこの技術が成功すれば、そのロボット独自の感性が生まれてくる事でしょう。その一つは善と悪です。しかし、その事は一つの問題を同時に投げかける事になると思うのです。


 さて、今回は1995年に公開されました「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」です。

 吾が舞えば(あがまえば) 麗し女(くはしめ) 酔いにけり(よいにけり) 吾が舞えば(あがまえば) 照る月(てるつき) 響むなり(とよむなり) 結婚に(よわいに) 神降りて(あみあまくだりて) 夜は開け(よはあけ) 鵺鳥(ぬえどり) 鳴く(なく) 遠神恵賜(とおかみえみため)

 この有名すぎるほどの歌が流れる劇場版の攻殻機動隊は、原作が最初にそれを作った料理人の味を、まさに自分に合わせるために作ったはずが万人に受けた料理ではないのだろうかと思うのです。監督であります、押井氏は原作を知りつつも、それに甘んじることなく自分の作品として作り上げていく監督で、有名な作品といいますか、まさに代表作とされているのが「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」です。あれも原作ファンの中に物議を放り込んだ作品としても有名で、しかし良作であるのは間違いない作品であるわけです。

 この攻殻機動隊も同じように原作を知りつつも、その中身…特にキャラクターを大きく変えた作品であるといえるのです。


 原作から見ていて当初、違和感を覚えたのは、草薙素子、バトー、荒巻の三名です。そう、主要キャラクターに大変な違和感を覚えてしまった作品であるのです。それは何故か…。

 素子は原作からして生にしがみつくキャラではありません。しかし、死に救いを求めているわけでもなく、真実のみを求めているわけで、故に正義という真実に対する悪が明らかに行われている、もしくは行われようとしている事を制止するために攻勢の組織を切望していたわけです。同じように、仕事に対しては率先的であっても、私的な部分では何かに依存したがっている女性。それが劇場版の素子であった印象があるのです。ただ、彼女の依存したがっていたものは、恐らくおいそれと与える事のできないものであったようで、それをある意味かなえたのは、人形使いだけであったようです。

 バトーの原作の違いは一目瞭然、素子への依存度です。愛情のように見えなくも無いのですが、その表現の下手な所をみると、むしろ、犬のようにも見えます。だからこそ、第二作目のイノセンスではあれほど気の抜けたバトーが出てくるようになったわけです。この素子への依存はその後製作されるTV版にも受け継がれているものです。ある意味、攻殻機動隊の核となる一つの物語といえるのかもしれません。

 荒巻は老人の様相が強くなっています。自発的に行動するというよりも、状況を的確に見極め指示する立場をより強調しているともいえます。原作でもTV版でも、自発的な行動が目立ったわけですが、劇場版ではそうではありません。少し生に落胆しているかのような余生短い老人の最後の一花を咲かせようとしている風にも見えるのです。

 トグサに関しても、その立ち位置が変更されているわけですが、それはこの上記三名につられて変わってしまったという事、そしてその声優でもある山寺氏の声質の影響もあって、原作などよりも活躍するキャラとなっていました。原作では攻殻機動隊2でやっと一人前になっていったようですけど。


 原作そのままではないのは、当然物語にも言えることですが、しかし、何回見ても原作者であります士朗氏の影響が色濃く残っているといいますか、その世界設定には驚かされるばかりです。原作の初出が1989年。単行本化が1991年。先見の明があったというのは、正にこのことなのでしょう。今、この世界観であっても、それほどの遜色はなく、また荒唐無稽すぎる話でもないわけです。

 劇場版でメインになるのは原作での終わり付近の話「人形使い」です。

 限りなく人間に近い人形であり人間ではない存在に魂は存在するのか。原作では、人形使いと素子が一つとなることで、素子の目に天使の足と羽が見えたような絵が描かれていましたが、劇場版では、天から羽が振ってくる事でその表現としていました。そして、結果として、魂の答えは何も出さないまま、物当たりは終わっていきます。それは可能性の話であり、結果ではないという事なのかもしれません。
(結果というのは、物語の…ではなく、魂とは何であるのか、その答えはという事に対する結果であります)

 素子は結局、9課を抜け、広大なネットの海へと旅立っていきました。そしてイノセンスに舞台を移していくわけです。


 日本での興行は振るわなかったらしいのですが、海外での評価がすこぶる良く、世界に押井の名を更に広げる作品となったという事は改めて記載する事でもないかもしれません。


 この物語でロボットと言えばタチコマに人形使い(としているが正確にはプログラムであるために厳密にはロボットとは言えない。しかし、この世界におけるロボットの定義は今の世界よりも広がっていると解釈するので、今回はロボットという言葉を使っています)なのですが、彼らを人との大きな違いはゴーストが存在するかどうかという事です。

 人は生まれながらに魂を持っています。少なくとも、有機的化合物によって動いている存在であるにせよ、単なる物体ではないという事です。ですが、魂というものは不可視である以上、その存在は仮定でしかありません。
 
 ただ、もし、感情のプログラムが本当に完成すれば人は人を介さずして魂を現存できるかもしれないのです。ただ、その時、そのロボットは大変なトラウマを抱えてしまうかもしれません。それは人の感情を持ちながらも人ではない自分へのコンプレックスです。それは童話にあるピノキオが持っていたトラウマである事と同じなのでしょう。

 …とここまで記載してふと気づいたのですが、んー取り上げる作品を間違えたのかもしれませんね。石ノ森先生のキカイダーやロボット刑事のときに取り上げればよかったのかも…。しかし、タチコマもそうですが、こうした物語の際に「心」という問題は切り離せないのは当然の話。それは人に返ってくる問題であるからなのです。

 人の心が失われているという今、感動と恐怖、それが希薄になっているのかもしれないと、ふと思ってしまいます。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。


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