さて、今回は1978~1981年に放送されました「銀河鉄道999」です。



 地球。その時代、貧富の差は住居の隔離だけではなく、人として扱われるか否かにまでかかっていた。さらに、裕福な人々は老いも病気も知らない機械化人間となり、その日を楽しく暮らしていた。だが、その一方で貧しい人はその日の暮らしをするだけで精一杯。そんな生活をしている人の中に鉄郎もいた。
 
ある雪の日。鉄郎は母親と共に、銀河鉄道の汽笛を聞く。噂ではその銀河鉄道に乗車できれば無料で機械の身体を与えてくれる星にいけるのだという。
しかし、それに乗車するためには、莫大なお金が必要だ。鉄郎は一生懸命に働き、母と自分のパスポートを買う…そんな話をしているときに、馬のいななきを聞いた。
 
それは機械伯爵の人間狩りであるという。
 
その一発の銃弾が、鉄郎の母を撃ち抜く。鉄郎に隠れる様に言うと、母は息を引き取った…。そして鉄郎も、その場で意識を失ってしまう。
気がついたとき、鉄郎がいたのはとある小屋であった。
 
そこにいたのは、綺麗な女性、ただ一人であった。鉄郎にスープを渡した女性はメーテルと名乗った。さらにメーテルは銀河鉄道999に乗車できる無期限パスまで渡すと言う。その条件は自分も一緒に度へ同行すること。
 
しかし、鉄郎は母を殺した機械伯爵を倒してから、999に乗る決意をする。母の仇を討ち、地球へは戻らない覚悟で999に乗車した鉄郎。その旅路は始まったばかりであった。
 
 
 
 松本零次さんの原作を東映がアニメ化した本作品。実に113話(スペシャルと総集編は除く)が放映された長寿番組でした。ただ、言い方を変えれば、いつでも終着駅にたどり着けるという作品であったと言えるのかもしれません。
 
昨今では考えられないのでしょうが、113話…実に8クール分近くも放映された番組でそれだけ人気があったといえるわけです。打ち切りなどあり得なかった話なのでしょう。
むしろ、人気がなくなるのを待って、最終駅にたどり着くという形でも問題なかったわけです。
 
何かとげのあるような言い方をしていますが、それはこの作品ではなく、今の2クールほどで終わるのが当たり前になっているテレビ業界への嫌味と捉えてください。
良くも悪くも、作品をどのように活用するのかが明確に決められていた…いえ、その前に真剣に考えられていたのではないのかと思うわけです。最近の浪費するだけの状況に、それだけの力があるのでしょうか。
 
それだけ長寿番組となれば、それは記憶に残る作品になるわけです。
 
実際、今も何かしらの形態として復活しては話題を提供しています。実に二十年以上も月日が経っているというのに、それだけ記憶に残っているのが素晴らしいではありませんか。
 
鉄郎が様々な星で経験した物語…と捉えられる事が多いこの作品ですが、しかし、自分の記憶に残っているのは、999の車両での逸話になります。
一つはクレアの話、そしてもう一つは落ち葉の惑星での話です。
 
どちらも機械化した人と鉄郎との交流の話になりますが、何かのためにその命を投げ出す覚悟があったと思うわけです。機械化された身体だからこそ無茶が出来る…と言えなくもないのですが、それでも修理が不可能であれば、死が待っているという事に代わりはないわけで、そこに命とは人生とは、という疑問が出てくるわけです。
 
松本零次さんの作品では、生き様がテーマの根底にあるわけですが、人それぞれの生き様があるわけで、それを指摘するのは勇気のいることなのでしょう。
躾という言葉がありますが、その言葉を自分にとっての楽な解釈で認識しているようではいけないわけです。
 
最終話で親の歪んだ愛情が描かれている本作ですが、人を踏みにじってまでの幸せって、あってはならない。現実でもそれが理解できていない事件が多いですよねぇ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「躾」と言う事で一つ。
 
難しい話です。何を持って躾と言うのか…誰もが明確な答えを持っているわけではないのでしょうし、もし、明確な事絵をもっているとすれば、それは独り善がりになっている可能性もなくはないわけです。
 
ただ、明らかに言えるのは、自分以外に対して迷惑をかけているのは、躾がなっていないという事なのでしょう。
 
当然、その中には一過性のものは関係ありませんよ。失敗するのは人の常です。問題はそこから後の話。
失敗をし、どのように謝罪するのか。言葉であるのか、行動であるのか、それこそ時と場合によりけりなのでしょうけど、それが出来るか否か。それこそ躾がなっているかどうかの分かれ目であると思うわけです。
 
逆に、では何をしてもその後のフォローが出来ていれば良いのか…いいえ、そうではありません。当然、しては行けない事をするのはしつけのなっていない、いえ、躾以前の話なのです。
 
では迷惑とはなんでしょう。それは一つにマナーであるのは間違いない話です。
車に乗っていますと、車内からのポイ捨てを目にする事があります。これは躾がなっていない証拠です。電車内における通話や音漏れもそうなのでしょう。公共施設におけるゴミの投げ捨てや、場合によっては落書きなどもそうでしょう。
 
挙げればきりがありません。では、逆にどうしてそうするのかを考えてみると、「自分のため」と集約する事が出来るのかもしれません。
考えてみれば理不尽な暴力も暴力を振るう自分のためですし、オレオレ詐欺にしてみても、詐欺を行う自分のためです。
 
…ふと、考えてみるのですけど、そうなった背景には何があるのでしょうか。あるCMのフレーズがよぎります…「あなたのためなのよ」。
あぁ、躾と称してよく言われる言葉ですね。
 
つまり躾をする側が結局「自分のため」に相手を躾している。なるほど、それでは躾にならないのは当然。
 
躾は誰に対して何のために行うのか。決してその場を取り繕うためだけの話でもなく、自分が苦しむだけでもなく、一緒に楽しみあえるようにするための所作であると思うのですけどね。
 
そういう自分も躾の何たるかを考える必要はあるわけですけど…本当に難しい話です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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