さて、今回は2009年に放送されました「アスラクライン(第一期)」です。



 その世界が自分にとっての「何」であり、自分は世界にとっての「何」であるのか。
 
幼馴染の自称守護霊、水無神操緒と共に一人暮しを始める事になった夏目智春は、兄である夏目直貴が暮らしていたという屋敷に引っ越してきたその日に、厄介ごとに巻き込まれることになった。
それは、兄から預かったトランクを渡しにきた、黒崎朱浬。そして、そのトランクを奪いに来た、嵩月奏にただでさえオンボロ屋敷をさらに壊され、更には命の危険にさらされてしまったからだ。
 
だが、そのトランクには「秘密」と「真実」が隠されている。それを手にした瞬間から、智春は否応無しに事象に巻き込まれていく事になる。
 
そのトランク「インストラクタ」は、機巧魔神=アスラ・マキーナを召還するシステムであり、その契約者である演奏者=ハンドラーには、同じ条件が必要であった。
それはアスラ・マキーナを動かすために必要な人の命、副葬処女=ベリアル・ドールがハンドラーの傍にいること。アスラ・マキーナの中に組み込まれたベリアル・ドールは、ハンドラーの傍に幽霊の様に付き添っている様になる。
 
智春にとっての操緒のように…そう、操緒もまたベリアル・ドールであり、智春はハンドラーであった。そのハンドラーとの契約によって召還されるアスラ・マキーナ。その名は黑鐵=クロガネ。
 
彼らは「知るはずのなかった」世界の「真実」と向かい合わなければならなくなる…。
 
 
 
 2009年秋の新番組として、この続きにあたる第二期が開始されましたアスラクライン。この作品もライトノベルが原作となっており、その原作も今もなお続いています。
当然の話ながら、その最後は原作とは異なった話で終わるのではないのかと思うわけです。
 
その話はともかく、正直に言いますとかなりツボな作品だなぁと思うわけです。
 
厳密に魔法という表現を成されているわけではないのですが、魔法と機械が混在する世界は私的には面白くて仕方がありません。アスラ・マキーナもそうですけど、操縦者が乗り込むわけではなく、でも、エネルギー源には人の命が必要という点も、贄的な要素が魔法的で機械っぽいのに、とワクワクしてしまうわけです。
 
こうした話は現実味がないといわれるかもしれません。しかし、今の技術を正確に述べられる人など、極一部です。そうした人たちの話を聞くと、結局はチンプンカンプン。それこそ、魔法の言葉をかけられているようなものです。
 
家電など良い例ではないのでしょうかね。便利と不便は表裏一体のような感じがしてならないのですけどね。
 
その話はまた後にするとしまして、アスラクラインの話は最近では珍しい、世界の命運が一目瞭然にわかる作風として書かれています。滅びと再生。絶望と希望。それは表裏一体であるのか、渾然一体であるのか。その見せ方が大変面白いのではないのでしょうか。
 
一巡目、二巡目と世界が巡っていく中で繰り広げられる人間模様は、かつてのスーパーロボット作品がリアルロボットに向かうにあたる転換期の作品に近しいものを感じます。
ただ、その中でメインとなるのは、あくまでロボットではなく人間。ここら辺は、やはりスポンサーになっている企業の違いからなのでしょう。あくまでロボット売るのではなく、作品…この場合は原作本とアニメのDVDでしょうかね…を売る作りになっているからこその話ではないのかと思うわけなのです。
 
…と、言いましても、そんな思惑は大人の都合に任せるとしまして、その都合に振り回されない様に、作品をしっかりまとめて欲しいものだと、第二期には期待するわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「魔法のような機械」と言う事で一つ。
 
iPhoneを始めとする、いわゆるスマートフォン、もしくはそれに類するケータイなどを、もし、過去に持って行けたとして、そこでも通話が可能であれば、それは妖術に思われるかもしれません。
全自動洗濯機や電気掃除機、炊飯器に到っては、三種の神器などと呼ばれた時代に持っていけば、腰を抜かす事でしょう。
車にしても、電気自動車…いえ、ハイブリッドカーでも驚くのではないのでしょうか。
 
そして、いずれにしても言える事は、それらがまるで魔法のような物と感じられるのではないのかと言う事です。
 
稀代のSF作家であるクラークは、自身のいう三法則にて…
 
 1.高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
 2.可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
 3.充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。
 
…と述べたと言います。確かに、今の科学分野…いえ、業界でも納得できる話ではないのでしょうか。その三つ目「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」というのは、特に合点の行くものであります。
 
前にも記載したことがありますが、パソコンのカメラによってあるマークを読み取らせ、そのマークに関連したCGを画面に表示するARToolKitというのも、ある種魔法のようなものです。
また、ホンダが先ほど発表したU3-Xという電気自動一輪車も、漫画やアニメの中ならばありえた乗り物が現実になってきました。
更には、アメリカが軌道エレベータを作る際に適した材質を発見したといわれています。これが実用化されれば、宇宙まで一気に、しかもこれまでとは比べ物にならない安価で宇宙へ人や物が運べるようになるわけです。
 
魔法は存在しない。これは世界の常識です。しかし、それは人が魔法の域にまで科学を発展させてはいない、理解していないからだという意見も少数ながら存在するのです。
 
水があります。今の物理学では、水は水であり、まずそうであるという認識が必要なのだそうです。水を水たらしめている要素は何か、どうして水素二つと酸素一つで水となるのかはわからないわけです。
それは、「・・・となりて」、そうあるからして、そうなる。人はまだ、無知にほど近い存在であり、そのわずかな隙間で右往左往しているのかもしれないわけです。もしかすれば、今はまだ超えられない一点だけが理解できずに、それを超えればゴールに到達するのかもしれませんけどね。それは突破して始めて体験できることなのでしょう。
 
もし、それが突破できれば、人はまさに魔法を使う事が出来るかもしれないのです。理屈によって構築されるのが科学であるのなとして、そこに人の欲求と要求を加味すれば、近いうちに更なる魔法が使えるようになるのかもしれないのです。
 
…とすれば、魔法は決して遠くにあるものではなく、傍に見えないまま、寄り添っているのかもしれませんね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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