さて、今回は2007年に公開されました「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」です。

 赤い海。整備された海岸線の公道。そこに並ぶ、戦車の列。蝉の声、鳥の声。そして、赤い海に水柱が立つ。
 
人類がセカンドインパクトという災害に見舞われてから後、その原因とされた使徒の攻撃は終わっていなかった。それを迎撃するために総力戦が繰り広げられるも、まったく相手にもされていない。
 
そうした使徒に対抗するために、戦闘都市が建設された。第三新東京。
 
そこに一人の少年が呼ばれる。その名を碇シンジ。彼を呼んだのは長年離れて暮らしていた父、ゲンドウであった。
彼が新しい生活をしようとしたその時に、新たな使徒が攻めてきたのだった。
 
待ち合わせの連絡をすることもできず、シンジは使徒と自衛隊との戦火に巻き込まれていく。
 
そこに登場したのは、彼と待ち合わせをしていた女性、葛城ミサトであった。彼女はシンジの父が司令を務めるNERV所属である。
 
人の使える最大火力をもってしても倒すことのできない使徒に対して、国はNERVにその権限を委譲する。その切り札となるのが、エヴァンゲリオンであった。
 
しかし、日本におけるエヴァンゲリオンの操縦者は足りておらず、その搭乗者が怪我をしたとしても、使徒が現れれば戦うしかないのが現状であった。
そうした、パイロット候補として呼ばれたのが、シンジであったのだ。
 
久しぶりに会った父が言う。乗れと。乗って使徒と戦えと。やらないのならば、帰れと。
 
憤るシンジの前に、現れた…いや、連れてこられたパイロットは、体中を怪我していた少女であった。
その姿を目の当たりにしたシンジは、乗る事を決意するのであった。
 
 
 
 よく、「ガンダムを超えるロボットアニメは登場するのか」などと言われるわけですが、その質問はある意味、ナンセンスであると言うしかありません。理由としては、条件が大きく異なるからです。
機動戦士ガンダムが放送されたのは1970年代。今は21世紀ですから、情勢も情報も全てが変わっています。その違う土台で比べると言う事は、長距離走ランナーと短距離走ランナーに障害物競走をやらせてどちらが早いのかを競わせているようなものです。
 
同じ様にエヴァンゲリオンがTV放映されて後、「エヴァっぽい」という指摘が様々な作品で成される様になりました。それが、エヴァンゲリオンよりも前の作品であったとしてもです。
 
こうした作品が近年に出たと言うのはアニメ界にとっても僥倖であると思うべきでしょうが、先ほども記載しました通り、それ以降は比べられる可能性が高くなるという事になったわけです。
 
これは仕方がない話かもしれません。機動戦士ガンダム以降、様々な分野でガンダムが、はかりの分銅のような役割を押し付けられた様に、エヴァンゲリオンという作品も同じ様な状況になってしまった。それは人気作品の宿命と言えるのかもしれません。
他にもそうした作品は沢山世に出まわっているわけですからね。個人的な好みであれば、そんな作品だらけと言えるのかもしれません。
 
そんなエヴァンゲリオンですが、流石にもう新作はないだろう…続編もやったとしたら大コケするのではないかと言われていた中に、新劇場版として公開する話が出てきました。
案の定、感想は真っ二つに別れました。
 
期待するか、遠慮するか。
 
期待しないではなく、遠慮…もうお腹一杯だよ、と少しせせら笑うかのような状況と言った方が良いのかもしれません。
そうした中、いよいよ公開となったわけですが、蓋を開けてみれば、流石はエヴァンゲリオンもしくは庵野総監督、もしくは、摩砂雪監督、鶴巻監督、もしくはスタジオカラー初作品…全てひっくるめてやはり、流石はエヴァンゲリオンと言えるのでしょう。その動員数は凄まじいものでした。
 
内容はTV放映もされましたし、今更記載する事もないのでしょうが、しかし、一つだけ大きく変化したなぁと感じた部分がありました。それはキャラクターの心情です。
 
TV版ではある意味、明確に色分けされていた各キャラクターでしたが、それがそれぞれの色を混ぜ合わさない様に必死になっている印象がありました。
それは、ATフィールドという、エヴァンゲリオンの設定が、深く関与していたせいなのかもしれません。ですが、そのために、ドラマと言う部分ではちぐはぐに絡み合う人物ばかりになり、結果、そのちぐはぐした部分をエヴァンゲリオンの登場によってリセットする。そんな印象を受けたわけです。
 
今回の劇場版ではそうした事よりも、より人同士の絡み合いが基本にある事を示してくれている。これはエヴァンゲリオンの活躍を…言ってしまえば、昔のスーパーロボット作品のような展開からの脱却に見えたわけです。
 
あくまで「人」がその業によって「人」をどうするのか。その系列の話では頂点に君臨している作品なのですから、よりそうしたエグい部分をオブラートに包んだ状態で表現しようとしているのだなぁ…そんな感じにも見えました。
オブラートですからね、簡単に向こうが見えてしまうというほどの薄いものです。それは、アニメというカートゥーンキャラを使った壮大な人間ドラマであると言えなくもありません。
 
…が、それもこれも、続く公開の内容によりけりなのでしょう。これ単体だけの評価が良し悪しではなく、ヱヴァンゲリヲン新劇場版がどうであったのかを記載するためには、まだまだ、先にある作品まで見る必要があるのは言うまでもありません。
 
個人的に、同じ徹を踏む事ないように…とは思っていますけどね。
 
ちなみに、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」におきまして、使徒のデザインが変わっていたのですが、第六の使徒…テレビではラミエルと呼称していたあの使徒。カッコイイですね。あれは今でなければ出来ない表現だなぁと思い感心しました。
同時に、サキエルの顔が他の使徒にもついていて、可愛く見えてしまうのは…作品としてのギャップを狙っているんでしょうかね?
 
だって、本当は怖い存在ですものね、使徒って。いやはや、こうした事からも思う事は、この作品に、やっぱり引きこまれているんだなぁ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「代表作」と言う事で一つ。
 
エヴァンゲリオンは庵野総監督や貞本義行氏の代表作となったわけですが、その代表作。何かにつけ基準という意味での使われ方がされているのではないのかと思えてなりません。
 
その作品に携わった人を語るのに、大抵の方へ伝わる作品は何か、もしくはすぐに見やすい作品は何か、それが代表作のはずです。
 
所が、その代表作というのが人…もっと言えば携わった人ではなく、カテゴリー分けされた中での話となりますと、これは意味合いが違ってきます。それは標準作品となってしまうからです。
 
ある意味、こうした事がエヴァンゲリオンもそうですが、ガンダムにおける「△□はダメ!」という事を指摘する話になっていく原因を作っている…全てとは言いませんが、その一つではないのでしょうか。
 
リアルタイムで見れた作品に衝撃を受ける。これは確かにその通りでしょう。しかし、だからと言ってそれがその作者の代表作品である…とは限りません。むしろ、代表作というのは、その方が作品を作らなくなった上で決めるべきものではないのかと思うわけです。
 
では、どうすればいいのか。それは簡単な話です。オススメ作品とすれば良いだけなのです。
 
感性というのは個々によって異なります。しかし、その異なる感性が多く共感した作品であれば、オススメするのは簡単な事でしょう。ただ、ススメられた人が同じ感性を…いえ、近しい感性を持っているのかは、開けてみなければわからないものです。
 
そう考えれば、まず作品を見る事が必要になってくる。そうは思いませんか。
 
ブログやサイト、こうしたポータルサイトによってレビュー記事が多く出てきているわけですが、それはそれ、あくまで参考程度にするぐらいでやはり自分の目で耳で確かめる。作品を嗜み、親しむためには、時間という浪費が必要になってくるわけです。
それが多くなればなるほど、大変なのでしょうが、昨今の情勢。更にせわしなくなってくる日本を見ていると、それぐらいの余裕があっても良いのではないのか。そんな風に思えてくるわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。


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