さて、今回は1986~1989年に掲載されました「魔界都市ハンター」です。

198x年9月13日金曜日午前3時。その日、新宿に…その外殻を切り裂く様に、その区内だけで大地震が起こった。新宿区外では、コップの水も揺れなかったその大地震は、しかし、新宿内部には多大な被害を残していた。
遺伝子研究所からサンプルが流出し、また、霊障が各地に残り、次元断裂が空間を捻じ曲げた。たった、一区域の復興すらままならなくなったその地震は、魔震=デビル・クエイクと呼ばれるようになった。
それから数年後。
新宿はその外、外部とは異なり、独自の世界が構成され始めていた。
何より、復興が成されない理由は霊的な束縛、もしくは遺伝子研究所のサンプルが成長し、魔物のようになってしまい手がつけられない状況になっているからであった。
それでも人はたくましく生きぬいていた。
だが、その魔界都市に新たな事態が発生する。いや、正確にはその外部、銀座からその現象は発生していたのだった。
銀座のある通りの早朝。その区画を担当する警察官は、ある老人を目撃する。ふらふらと歩き、けらけらと笑うその老人に声をかけた警官は、次の瞬間、水…いや、海の中に落ちてしまう。
銀座の通りが海に変わってしまったのだ。しかも、その海にはあり得る筈のない生物が多数住んでいた。
「どうじゃ楽しかろうぉ。わしの造った海にはあんなのがいっぱいおるでな」
海の上でそう語りかけた老人は、その海の上を滑る様にある場所へ向かっていった。
その老人の出現をある物は魔術で、ある物は科学で知る事になる。そして、その老人が創り出した銀座の海を、その生物を調査した結果を出した。
神、光あれとのたまえば光ありき
彼らはその老人を神…しかも、狂った神と結論付けた。彼らはその神の説得もしくは捕獲をするために、魔力を極めた魔道師、そして超能力を秘めた軍人たちが魔界都市より、そして魔界都市へと出陣していったのだった。
菊地秀行氏の代表作である魔界都市<新宿>を再構築した漫画作品であり、原作である魔界都市<新宿>と同じ様なキャラクターが出てくるものの、その立ち位置が大きく変わっているのが特徴です。
主人公は、木刀・阿修羅を持つ念法の使い手、十六夜京也。そしてヒロインは、片桐さやか。この二人が物語の核となって話が紡がれていくのです。
老人は神と呼称されていますが、その神ですら大宇宙の一つの生命に過ぎない。この物語はそう語っている様に思えます。
魔界都市…その中では殺人が日常のように行なわれています。しかし、実際に外部と呼ばれている場所でも、同じ様に殺人は起こっている。それは、何も変わらない、ただ、頻度の違いなだけという事なのでしょう。
そうした中にあっても、人の心…愛や慈しみが枯れる事はないのです。
そうした、まさにエロスとタナトスがより濃く混在した場所で繰り広げられる生命の物語。それが、この漫画であるわけです。
人の進歩と進化の違い、そして進化の先にあるものは…そのために何を成すべきなのか…それよりも、我々はどこから来て、どこに行こうというのか。
神とは何か。そして人とは…そんな問いかけに人である我々はどのように答えるべきなのでしょうか…。
と言う感じで思うところとしては「クォ・ヴァディス」と言う事で一つ。
最近では、様々な媒体の物語にて使われるこの言葉ですが、ラテン語で「どこに行くのか?」という意味です。正確には、「Quo vadis, Domine?(主よ、どこに行かれるのですか)」という、ペテロがイエスに対して、最後の晩餐で尋ねた言葉であると言います。
人の人生は旅に例えられます。それはどこに向かうのか、まさに行く宛ての見えない旅と同じであるからなのでしょう。
人生のゴールとは一体どこにあるのでしょうか。誕生、成長、学業、就職、結婚、老衰…もしくはその先。
恐らくそれはどれもが通過点でしかないのかもしれません。
人という種としてみれば、自分の成した事を継いでいく事、それは一人で走っているわけではなく、これから先に紡いでいく事の他ならないわけです。
親が子に、子が孫に。そうした紡がれていく事、その事がまさにクォ・ヴァディスなのかもしれません。
誰もが求める幸せがその先に待っている…そんな保障などあるはずもなく、それは同時に不幸せになると決められた事でもないのです。
努力や根性でどうにかなる場合もありますし、どんなにあがいても無理な場合もあります。しかし、意外に楽に手に入れられる事もあるのです。それを人は幸不幸で分けてしまいます。
しかし、それは旅の途中でふと、視線を巡らし気付いた一欠けらの何かでしかないのかもしれません。その後ろには、もっと大きな何かがある。そんな場合だってあるのです。
全てにおいて、どこに行くために歩いているのか。いえ、どこに向かって歩いていくのかを考えながら進んでいく必要はあるのでしょう。それが安全に歩んでいくための大事な事なのですから。
さて、「主よ、どこに行かれるのですか?」と聞かれたイエスがどのように応えたのか。「私が今からいくところに、あなたは今いくことはできない。しかし、後からいくことになる。」
これをその後に迎える死に対することであるのか、それとも別の何かであるのか。
宗教という枠を超えた中であっても、当たり前のように考える事が出きる逸話ではないのかと思うわけです。そして、それは意外に何時もの生活に置き換える事が出きる。何に対しても、どうなっていくのか。それを考える事が小さな事から大きな事までを含めて行動する事が出きる事ではないのでしょうか。
そう、思えてならないのです。
そんなこんなで本日はここまで。


