さて、今回は1994~1997年に連載されました「さいばぁふぉーす」です。

 ケエカア王国に伝わるお約束伝説曰く、その昔、巨大な鏡が天空に現われ、その中から「かがく」という魔法を使う者どもが溢れだし、この世界を破壊し始めた。科学の前になす術なく、もう終わりかと思われた時、同じ鏡の中から兆重の姿をした十二体の神々が舞い降り、魔鏡族(まきょうぞく)を鏡の中に追い返したのだった…。
 
そのケエカア王国が魔鏡族に襲われてしまう。王子であるアルトは、守りの者と一緒に城外へと逃げるが、その先は大きな滝。なんと、そこからお逃げ下さいと突き落とされてしまう。
 
その下流では、でんとう芸能である「にんぽお」を修行している老人と女の子がいた。
 
老人の名はさぶろく老師。名の知れたにんぽお使いであった。アルトは流れ流され、さぶろく老師の下でにんぽおの修行に励んでいる、ヴィヴィオに拾われる。
だがしかし、そのアルトを追って魔鏡族であるミラが部下ロボット・AZ-1を引き連れてやってきた。
 
いきなり銃をぶちかますミラたち。その威力に小屋は吹き飛んでしまうが、ヴィヴィオは無傷でミラたちの前に出てくる。
状況を飲み込めていないヴィヴィオはなんとアルトを人質に取るが、ミラはその方が好都合と言い放つ。それが結果的にヴィヴィオに、伝統芸能はアルトを守るための芸である事を認識させてしまう。
 
身体能力の優れたヴィヴィオはAZ-1が放つ弾など空中で叩ききってしまう。
 
それを面白い芸だと言ってしまったミラに対して、もっと面白い芸=にんぽおを見せると言い出す。ミラ達にみせたにんぽお「土ぶた」。それは地面から多数の土のブタを出現させ、ミラ達に向かって突進させるにんぽおであった。
 
立体映像と思っていたミラは、それが実態のあるものだと知るが、しかし、非かがく的な事は信じないと言い残し、土ぶたたちに運ばれていったのだった。
 
 
 
 …そこから、魔鏡族に対抗するための旅が…始まるはずなんですけど。というわけで、今回はさいばぁふぉーすというファンタジーというよりも童話ちっくな漫画のご紹介です。
 
もし、私達の遠いご先祖が今の私達の生活を見たら、それはまるで魔法のような物が沢山あることでしょう。もし、私達の遠い子孫の世界に言った場合、そこにあるのはまるで魔法の様な生活なのかもしれません。
 
基本はそのような時間のずれが起こしている世界同士の話なのですが、記載しておりますにんぽお(忍法とはちょっと違うようです)ももしかしたら、かがく(科学とはちょっと違うようです)の仲間なのかもしれない。そんな記述があったりします。
要するにお仲間っぽいんですよね。
 
先ほども記載しましたが、多分、昔の人にケータイ(基地局がないとかそう言うのは、取りあえず考えないとして)を見せた場合、そりゃ驚く事でしょう。小さな箱が光るだけではなく、音も出しますし、声も出します。今のケータイならカメラもビデオも簡単に録音録画することが可能です。
メールが使えれば、文字を伝えるのもあっという間の話です。
 
この物語ではそうした驚きと同時に、一方で科学が急速に発展する事における弊害も記載しているのです。
 
物語の主人公であるヴィヴィオたちのいる世界と、魔鏡族とされるミラたちの世界は平行世界。別の次元に存在する世界なのだそうです。それをアリスの鏡計画という名の下、鏡のような空間転位装置を使い、魔鏡族たちはヴィヴィオの世界に開発と言う名の下に侵攻してきたわけです。
それを阻止したのは、同じ魔鏡族出身の科学者たち。彼らが作り上げた十二体のロボットがさいばーふぉーすと呼ばれる、神々として祭り上げられたものたちでした。
 
単純に仲間割れから始まった物語が、時代が流れ流れて、まるで神話のようになった。しかし、その世界もミラたちにしてみれば、たった三年ほどの話であるはず。神話のようになるはずがないと思っていたわけです。
そう、時間のズレがそうした結果を生んでしまった…浦島太郎のような話です。
 
その結果、認識のズレが発生するのは当然。そのズレたやり取りが、この作品の楽しみの一つでもあります。
 
同時に、先ほど記載しましたが、「にんぽお」も、もしかしたら「かがく」の一部かもしれない。そんなフレーズも有ったりするわけです。それをご紹介しましょう。
 
『「にんぽお」とは地・水・火・風、あまねく自然の法と知るなり。その声に耳傾けぬもの、自ら滅びの道を歩まん。されば聞け。地の鼓動、水の営み、火の舞い、風の歌声を。人はかがくのみに生きるにあらず。心なきかがくはその道をとざす。』
 
どうでしょうか。もし、人が自然を制する事を科学と言うのであれば、そうなのかもしれません。しかし、今周りを見れば、確かに自然を舐めている科学が存在するのも事実です。
人の営みを重視するのも当たり前なのかもしれません。されど、彼らの声に耳を傾けない慢心を、彼らは決して見逃してくれないのです。
 
私達は生かされているのだと知るべきなのでしょう。生きると言う事は、決して己自身のみがしている事…そんな傲慢は持たないほうが身のためかもしれませんねぇ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「八百万の神様」と言う事で一つ。
 
最近の日本の四季。情緒がなくなりつつあります。我が家の近くでも、雪が降らなくかった年がちらほら。本当にこれで大丈夫なのかと心配の種をつきません。
 
ニ酸化炭素の排出量ばかりが問題視されていますが、それだけではなく、例えば森林に手をつけすぎたり、例えば水源を確保するとい目的でダムばかりを作っているのも、自然を破壊している原因になっているのです。
 
人は整備の名目で人の利便性ばかりを高めていきます。それこそ、昔懐かしい風景など、探さなくては行けない状況になっています。
 
風景がそこまで変化すると言う事は、それだけ生態系が変わったという事でもあります。杉花粉など、その良い例でしょう。
木が植わっていれば良い。それは人の勝手な理屈でしかありません。
 
人が人を補完するかのように自然を阻害していく。日本ではどうにも顕著のように思えてなりません。その結果、ゲリラ豪雨にみまわれ家財一式がなくなっていく。それを人のせいにする…山には山の川には川の付き合い方があったのではないのでしょうか。
 
人は神様を信じますが、神様の姿を知る事はありません。
日本古来の神様は、私達の周りにある全て。私達を生かしてくれる全てが神様であったわけです。
 
食事をする時に手を合わせ感謝し、終わる際に手を合わせ感謝する。
 
生かしてくれている全てが神様なのですから、感謝するのは当然の話ですよね。
 
そう考えると、自分たちの生活を潤してくれる神様に感謝する必要があるわけでして、それが八百万の神々であるわけです。
 
例えば、最近、野生動物たちが町に出てきているという事は、山をないがしろいしているからではないのでしょうか。山の神様を怒らせると、山から不穏な事が起きるものです。
それは海もまた然り、平野であっても同じ事です…。
 
 
ちょっと宗教じみてきましたが、しかし、行政にしても、私達個人にしても、すこし生活のあり方を考えるべき必要があるのは間違いないわけです。
例えば電気にしても、太陽光発電の国内普及数を世界一にする努力。こうした行動から、自然との新しい対話が始まるような気がしなくもないのですが…。
 
自然に囲まれている事の有り難さ。そこに息づく命たちを、今一度、省みた方がよろしいと思うのです。失われてから気付く様では、人間様とはとても言えたものではありませんからね。
とても、身近にいる神様たちに、適うものでもありません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。


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