さて、今回は2009年に封切りされました「劇場版 仮面ライダー超・電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」です。

田舎暮らしに馴染めずにいる少年「ユウ」。彼にとって父の故郷であるその田舎はとても退屈な場所であった。同級生にも莫迦にされ、苦手とする小さな虫にすら翻弄される日々。その鬱積した状況の為に、学校へも行かず、また祖母へも反抗する生活が続いていた。
そんな折り、大地震によって産まれた時空の歪からオニがユウの田舎へと現われる。
ユウのいる村では、鬼退治の伝説が残っており、その退治されたはずのオニ達が何かを探しに未来の時代へとやってきたのだった。
オニの探しているのは、鬼の切り札。その半欠けであるのだという。それがあれば、歴史は変わりオニの時代がやってくるのだという。
それを阻止するために、デンライナーでやってきたのが、野上幸太郎=仮面ライダーNEW電王であった。だがしかし、敵の親玉である兄弟オニの弟、ミミヒコの強さは半端なものではなかった。
しかも、ミミヒコが持つ純銀の金棒を天空に突き上げると、そこに歪が生じ、なんとミミヒコが変身してしまったのだ。
その名も仮面ライダーシルバラ。
変身したミミヒコ=シルバラはNEW電王と一戦交えるも、すぐに退散。事態は一向に改善へと向かう気配がなかった。
自宅に帰ったユウはある事で祖母に反発し家を飛び出してしまう。しかし、その時には既にユウが鬼の切り札を持っている事が、ミミヒコには気付かれており、ユウの祖母の家までオニ達が近づいてきていた。
祖母を巻き込まないようにと、自分の自転車で逃げるユウ。NEW電王に遭遇した時、彼の仲間である野上良太郎から受け取っていたデンライナーのパスを握り締め、時分秒が揃いデンライナーの駅に行ける機会をうかがっていた
NEW電王の助けがあったものの、それでも自力でデンライナーの駅へと入るユウ。その目の前には時を駆ける列車デンライナーがあった。
乗りこんだユウが自分の持つ鬼の切り札を野上たちに見せる。そしてそれを渡しても良いというのだ。
ただ、一つの条件さえ飲んでくれるのならば…。その条件にオーナーがユウの前に立ち、問いただした…。
というわけで、ある程度のネタバレをしつつですが、ストーリーをなぞっていくのはここら辺でやめておきます。
仮面ライダー電王の新劇場版第一弾が封切りされて、約一週間経ちました。すでに複数回見ているファンがいるのかもしれません。非常にストーリーがうまく流れており、最後には涙が出てくる様な展開になっています。
しっかりと、電王の世界を踏襲してくれたのには感謝ですね。
当然、電王という物語に必要なのは、例えば、モモタロスやウラ、キン、リュウなどのイマジンたち、そして電王を演じるスーツアクターさん、その声を担当する声優さん。そして脇を固めるオーナーやナオミちゃん、コハナちゃんといったキャラ。
そして主役である野上良太郎を演じる役者さん。
物語の演出や構成、小道具や大道具を準備活用するスタッフ、それを指示する監督。
監督の考える事を文書化するシナリオライター…など、書いて言ったら切りがない人たちがいればこそであろうと思われるかもしれません。
確かにその通りです。ですが、実のところはパフレットの最初をめくったそこに答えがあったのです。…
『(前略)「電王」とは<少年が時の列車に乗り、仮面ライダーとなって自分を見いだし、列車を降りるまでの冒険物語>。(後略)』
…これを映画を見た後に読んだ時、おもわず大きく頷いた一文でした。
今回の物語はユウという少年が主人公です。
野上良太郎が幸太郎が、そして助っ人のように門矢 士が仮面ライダーに変身しているわけです。そして物語の題名は仮面ライダーです。しかし、彼等は主役ではありません。
どうしてそう言いきれるのか、それは映画を最後まで見ればわかります。確かに、あの一文の通り、電王の物語はしっかり受け継がれていたのです。だからこそ、ホロリと来たのです。
それは、TV版の最終話で彼が見せた喜びの原点がここにあったのかと思うに十分な物語であったわけなのです。
電王ファンであれば、また映画かと食わず嫌いをせずに見て欲しい一本であり、初見であるのならば、これを機会に仮面ライダー電王という絆の物語を知って欲しいと思うわけです。
ちなみに、ミミヒコを演じた柳沢慎吾氏、その兄であるクチヒコを演じた篠井英介氏は本当に素敵な演技をなされていました。敵役ながら主役を食ってしまうほど格好良かったですよ。
と言う感じで思うところとしては「絆」と言う事で一つ。
今回は、少しふとした時に、このように感じた事と言う形で記載していこうと思います。
この映画…と言いますか、電王の世界におけるイマジンとの絆。それは契約という形でもたらされるのが基本というわけですが、それを超えた絆もあるという所をしっかりと見せてくれました。
物語における絆というのは、予定調和の部分が多分にあるわけで、それは綺麗な形であるわけです。
しかしながら実際には、それほど絆が綺麗なままでいられるというのが難しい事を私達は知っているわけです。
その絆が試されるのが約束ではないのかと思うわけですが、容易に絆を断ち切る要因になるのが約束であり、より強固になるのも約束であるわけです。
約束にはした側の使命感と達成力が、された側の期待感と応援力が必要となってきます。それが今の日本に足りない云々とは言いませんが、それでも、これは昔から変わる事のない事であるのは間違いないわけです。
それぞれの立場がありますし、状況・条件などもありますので、中には不可能とわかっていながらも引けない約束をする場合もあるのでしょう。それをされた側がどのように対応するのか。それによってもまた絆が深まる事もあるわけです。
絆を深めていく事は、より研鑚を求められるのかもしれません。
それを面倒と感じたとき、人の付き合いは表面だけの絆になっていくのでしょう。自分をさらけ出すのが怖くなるのかもしれません。それでも、人は人と絆を培っていくしかないのです。
経験上であるわけですが、自分の培ってきた絆がどれだけの広さ深さであるのかは、死んでからしかわからないのかもしれません。
それを人は得と言います。
とすれば人との絆をより良く築いていく事、それが善行=得を積む事なのかもしれませんね。
ある人はそれを赤い糸と呼びます。それを自ら断ち切る事がないようにしたいものだ…最近、そんな事がふと頭を過ったのでした。
そんなこんなで本日はここまで。


