さて、今回は1987~1990年に連載されました「滅日 -HOROBI-」です。



 男は夢を見ていた。その夢の中で、声が聞こえる。あきらめろ…無理だ、逃げられしない…わかっているはずだ…。その声が掛けられているのは、一組の男女。駆け落ちをしているらしいが、何かから車で逃げている。そしてその車は、崖の上から落ちてしまい…。
 
男は、そんな悪夢を毎晩のように見ている。彼の名前は尼子全。とある生物研究所に助教授として勤めている。
今彼が共同で研究しているのはアルビノのサンショウウオが成長できるのと言う事である。そして、同じ研究所に勤める同じ助教授である相賀修一もまた、尼子の知り合いであった。
 
研究所の所長である呼野氏には、一人娘がいる。呼野翔子。彼女に対して尼子は好意を持っていた。しかし、翔子が好きなのは尼子ではなく相賀であった。
何かにつけ、相賀に劣等感を持つ尼子。恐らくそれは研究にしても、女性に関する事についても、苛立ちを覚えるものであった。
 
そして、ある日、ある場所で事故が起きる。
それは、車が神社近くの崖から落下し、乗っていた男女が死亡したというものであった。それは尼子が見ていた夢と全く同じ内容のものであった。誰かに話せば楽になるのかもしれない…尼子は相賀に夢の話をした。だが、悪夢はなくならなかった。なくなりはしなかったが、しかし、駆け落ちの男女が死亡した日から夢が変わった。
 
尼子はその夢の話も相賀にしている。平静を装いながら聞いていた相賀であったが、彼もまた、眠ることに怯えていた。そして、彼だけが知る真実。それは彼と尼子が同じ悪夢を見ているという事であった。
 
その後、また事件が起きる。ある中学校のホラー研究会が、車の落下事故があった現場にきていた。その付近で幽霊の目撃談があったからだ。山の中を散策していると、ある一人が、丸い銅盤を発見する。それを持ち帰って調べようとした時、彼らの目の前に怪物が現れた。
それは、尼子や相賀が夢で見た怪物であった。
 
三角縁神獣鏡と名付けられたその銅盤は、ホラー研究会の中学生が巨大な獣に襲われた現場…あの、車の落下現場にきていた、青目麗衣子によって回収され、そして翔子の父親である呼野教授が保管する事になった。
 
その夜。
呼野教授から神獣鏡をしまって置くように言われた尼子が、それを手にしようとした瞬間、神獣鏡の中央にあるレンズのようなものが尼子の右掌にくっついた。その瞬間、強烈なテレパシーが相賀や翔子、呼野教授たちに飛ばされ、彼らもそれが尼子からの物であると認識する。
 
次の日、相賀が慌ててやってくる。怪我をしたという尼子に代わり、神獣鏡をしまって置くように頼まれた相賀であったが、残りの部分が今度は相賀の胸に、まるで刺青のような形で吸い込まれていった…。
 
 
 
 徳間書店から発行されていた月刊少年キャプテンにて連載されていた「滅日 -HOROBI-」です。
たがみ氏の作品の中では、個人的にかなり好きな部類に入ります。というか、今からでもリメイクしても面白い作品ではないのでしょうかね。
 
基本的に描かれているのは、実に簡単に悪意と善意です。
これは全く別物でもなく、また、表裏のものでもなく、同じものであると言う話なんです。
 
一つには捉え方、もう一つは発し方。その結果によって、悪意であるとか善意であるとかを決めているだけに過ぎないという、人の捕らえ方の一部分を描いているように思えてならないわけです。
結果的にはその捉え方によって、相手に好意を持つことも、恨みを持つことも出来ると言う話。コレを人は度量と言う尺度を使って表現しているわけです。
 
作品上で、尼子は実に誰にでも優しい、包括力のある人物として描かれています。しかし、捉え方によっては、優柔不断な人間であるとも言えるわけです。
同じ様に相賀は活動的で自分の意見をはっきりといえる人物として描かれているわけですが、それも捉え方によっては、傍若無人な人間であると言えなくもありません。
 
ある意味、性悪説をそこらここらに散りばめている作品ですが、それでも、そうした発言の後に来るのは、それで良いのかもしくは割り切れる話じゃないという否定であります。その否定が、諦めになるのかそれとも否定からの行動に繋がるのだろうかという部分も見えなくもないわけです。
 
こうしてみますと、かなり曖昧な作品のように思えるのですが、実際に曖昧な部分が常識であるような描き方には共感をもてます。
 
今でも、言われている事は、決して今言い始めた事じゃないというのも、この作品では見て取ることが出来るのです。
それはエコに対してもそうですし、人口に関してもそう。仕事に関してもそうです。一体、いつの頃から言われ続けているのだろうかと思えば、少なくとも、この作品が描かれた時には、既に言われていたのですから、もう、20年以上は同じ文言を言い続けて尚、好転していない状況であるといえるのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「滅亡」と言う事で一つ。
 
人が滅亡というテーマで話をする上で必ず問題視するのは、人の滅亡が全ての終りであるという基準を設けることです。これが正しいのか正しくないのか、それは宗教家と生物学などの学問に任せるとしまして、本当にそれが滅亡であるのかと言えば、全ての宗教学問が揃って言う台詞は「いいえ」であるのでしょう。
 
中には人の滅亡が地球自然の再生であるとする人もいます。現状からすれば、あながち間違いではないのかもしれません。
人がいなければ、確かに自然破壊は起こっていませんしね。
 
しかしながら、生物の滅亡が起こっていないのかと言えば、それは違います。事実、化石になっているような恐竜にはお目にかかれませんし。
 
要するに人の手にかかってしまうと、その滅亡が早くなってしまうのが問題と言う事になるわけです。ならば、逆の考え方も出来るわけで、そうした議論を国連主導してやっていただきたいものですね。
 
正直、人類だけが滅亡することに問題はないんです。でも、その後にその巻き添えを食らって滅亡していく動物がいてはならない。それはどんな理由をつけようとも、そして人がいなくなろうとも、人という種が行った償うことが出来ない行為なのですから。
 
少なくとも、日本は化石燃料に依存することが難しい国なのですから、太陽光発電の国家的プロジェクトを立ち上げて地球に貢献する必要があるのではないのでしょうか。住宅地の上に太陽光発電の設置を必須にするとか。
そして、風力発電の改良も必要になってくるのでしょうね。雨水の排水を利用した水力発電も、風力発電の改良が成功すれば、応用できるようになると思いますし。
 
衛星から見たら、日本の居住区が黒光りしていても良いのではないのかと思うわけです。その上で省エネの機器を研究開発してみると。
 
日本の科学技術をより向上させる事が、より自然との共存が出来るようになる。そんな時代が来れば良いんですけどね。馬鹿やって滅亡するよりも、馬鹿になってそういう研究を進めてみる。それが良い意味での大馬鹿者ではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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