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2009年12月26日

昔から今、そしてその先へ…【「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」(2009年 東映)】

 さて、今回は2009年に公開されました「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」です。



 風都にはびこる悪、ドーパントを追いかけ、追い詰め、倒す。そこにいる者たちが名付けてくれた仮面ライダーであるW。だがしかし、その誕生の影には、Wである左 翔太郎そしてフィリップにも忘れられない夜があった。
 
ビギンズナイト…その日、一人の仮面ライダーが死に、二人で一人の仮面ライダーが誕生する…。
 
 
一方、世界は滅亡の危機を迎えていた。
仮面ライダーディケイド。時空を渡り歩く事が出来る仮面ライダーのために、全ての世界はつながり、崩壊を迎え様としている。
 
だが、仮面ライダーディケイド…門矢士は自分の意思で他の世界の仮面ライダーたちを倒していく。
 
それが友であったとしても…。
 
 
※注意:若干のネタばれは含んでおります。
 
 
 
 二つの映画を流す…今までの仮面ライダーと戦隊シリーズの形かと思えば、何と東映のあの映画の最初の波しぶきを三回も連続で見てしまう作りになっている…その事に「へ?」と思わず声を出してしまいました。
 
感想としては、ディケイドの方が「なんじゃそりゃ」と言いたくなったという感じでしょうか。
Wは良いですよ。正直、Wだけでもう一回でも良いやって感じです。
 
ディケイドに関しての一番の理由は、物語はないと言いきった所でしょうか。これ、ディケイドの物語はないのではなく、少なくとも、仮面ライダーとしての物語などないと聞こえたのは私だけなのでしょうか。
それに、Sプロデューサーがインタビューで言っておりましたが、TVの最終回は最初に繋がる…あれ、嘘でしょう。映画はパラレルだとでもいいたいのでしょうか。むしろ、TV最終話から映画の方がスムーズに、これまでのSプロデューサーが担当した仮面ライダー話しに通じるものがあるのですが…。
 
これを考えずに物語りを見ていると非難されても、困ったものです。
幼児向けの作品に、思慮を深く求めるのが間違っているのだと思うのですけど。一緒に考えることと独自に考えさせること、そして、理解を求める事は大きく違っています。
 
再三、色々な場所で記載しておりますが、別に作り手の思想など、どうでも良いのです。それは生きている以上、主義主張はあるのでしょう。しかし、それを表現する場に幼児向けの媒体を使うとなれば、それはお門違いも甚だしい話しなのです。
 
電王が爆発的な売上を見せ、Wもまた、同じ様に売上を上げている背景には、単純明解なことがあると何故理解できないのでしょうか。
 
それは、敵がいて悪さをするから懲らしめる。これだけです。
戦隊シリーズのそれを一人のヒーローが行う。それが仮面ライダーであるだけの話しなのです。
 
別に大きなお友達向けの作品であれば問題はありません。主義主張をぶつけ合うのが正解なのでしょう。しかし、もう一度記載しますが、仮面ライダーを見せるべき相手は幼児なのです。
仮面ライダーは大きなお友達向けの作品ではなく、幼児がヒーローごっごをするために作られるべき娯楽作品なのです。
 
ディケイドに関して、TV最終話で子供が「なんじゃこりゃ」と言った。そう言う話を周りから聞きます。それを大人に尋ねる、それも一つの手なのでしょう。しかし、何よりも子供たちに少なくとも「何じゃこりゃ」と言わせる作品を作った時点で、反省するべきなのです。
何処に向けて、誰を楽しませるために作品を作っているのか。
 
我々のような大きなお友達…言ってしまえば外野からの声に耳を傾けるのではなく、もう一度、子供たちに目線を会わせて欲しいものだと思う次第なのです。
 
 
そう言う意味では、仮面ライダーWは面白い。中には泣き出す子供もいるそうですけど(ドーパントが怖いそうです)、それは正しいあり方なのでしょう。そこに仮面ライダーがやってきて懲らしめてくれる。
何時でも、仮面ライダーは子供たちの味方であり、正義の人であるべきなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「シリーズ」と言う事で一つ。
 
そうは言っても、仮面ライダーも戦隊シリーズも、まだまだ続いていく事でしょう。個人的には宇宙刑事物やメタルヒーローを再開するのも面白いとは思うのですけどね。
 
ディケイドは戦隊シリーズと仮面ライダーの開始時期を半年ずらす事で、玩具の売りだしにバッティングしないようにと放送された作品であるわけです。真実はわかりませんが、恐らくそうなのでしょう。
そうした苦労もあって、新製品の何ともサイクルの早い事早い事。今回の戦隊シリーズは一応の終わりを見せましたが、それで新製品が終わりかと言えば、来年そうそうに仮面ライダーの方では売りに出されますし。
 
何とも、親御さんからすれば懐の痛い話しです。
 
そう言う意味では、ガンダムというのも同じかもしれませんね…どっちもバンダイかw
 
 
それは置いておきまして、こうしたシリーズ物というのは、マンネリの安心感があります。あまり逸脱しない路線におけるマンネリは、飽きが来るとは言いますが、路線が順調に伸びていけば、なくなる不安が大きくなるもの。それがマンネリの安心感というものです。
 
いつでも、チャンネルを合わせれば、そこにいる。
考えてみれば、そうした長く続く作品であるからこそ、親子通じて楽しむ事が出来るのだと思うわけです。
 
同じ様にトミカのプラレールにミニカーもそうですよね。更に言えば、そうした実物を題材にした玩具には、歴史が感じられるものです。それを話し合う事も出来るのでしょう。
 
女の子玩具はより顕著であるのかもしれません。
人形を子供に手渡し、その子供がさらに子供に渡す。物の大事を伝える上でも良い教育になるのではないのでしょうか。
 
 
思うに、消費というのがあくまで使い捨てであるというのならば、確かに、当たらしいものに買い換えるのは当然のことなのでしょう。しかし、それだけでは文化や思いを継承させる事など出来ません。
昔があり、今があり、そして未来がある。
 
昔を懐かしむだけではなく、これからを見るだけでもなく。これまでに続いてきた積み重ねがあるのですから、そこにある思いを忘れない様につなげていく事を、今再確認するべきなのかもしれないと思うのです。
 
 
これからの新しい年が決して楽ではないのでしょうが、それでも少し振りかえれる余裕と先を見ることが出来る余裕を持ちたいものだと思う次第です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。また、来年もよろしくお願いいたします。

2009年12月26日

ダウンロードで気軽に楽しめるカセット文庫【「鎧伝サムライトルーパー 鎧伝承篇」(1990年 ムービック/サンライズ)】

 さて、今回は1990年に発売されましたとある冊子の予約特典「鎧伝サムライトルーパー 鎧伝承篇」です。



 ある吹雪の夜。カメラマンを父に持つ真田遼は、玄関を叩く音に戸をあけた。そこにいたのは、白い虎とひとりの雲水であった。
雲水は自らを迦雄須と名乗る。
 
迦雄須は、白き虎・白炎の事を話し、そして、心を諭した。人は業無くしては生きていけぬ。だがしかし、業の深さ故に、落ちてしまう者たちもある。それを救いたいのだと。そして、迦雄須は遼に戦士となれ…と言う。その言葉に動かされた遼は日々、心身を鍛えた。
 
ある日、遼の暮らす山で加治が起こる。心ない者によって起こされた火事に遼の心が動く。
 
遼の心は邪悪に気付く。それが妖邪と迦雄須は言う。それが立ち向かう…いや、救うべき者であるのだと。その魂を救うのだと。
 
その時、遼の耳に何かが聞こえる。音…それは鎧の発する音。烈火の鎧が遼の持つ、仁の心に反応した音。
燃え盛る仁の心を、烈火の鎧と共に、仲間を求めて、遼は旅立っていった。
 
 
 
 上記画像は、この鎧伝承篇というストーリーがおさめられたカセットテープ。それが予約特典であった対象の冊子の表紙「鎧伝サムライトルーパーメモリアルズ」のものです。そう、このエピソード0と言うべき物語は、この冊子を予約して初めて聞くことが出来という、かなり厳しいものであったわけです。
 
この物語の主役は、遼たちを導いた雲水、迦雄須。彼が五人のトルーパーに鎧を託していく様が描かれています。
 
鎧伝承の話は、確かノベライズにも記載されていたはず。なので、それとはまた異なった話となっています。今で言うところの、CDドラマ…昔でいえば、カセット文庫の動画がないわけですが、それでも、意外に動いている絵が、勝手に脳内再生されるのですから、予約特典して手に入れただけの価値があるのだなぁと今さらながら、自己満足しております。
 
もともと、カセットテープですので、今はその劣化たるや激しいものです。今回、この機会に、こうしたテープ素材をデジタル化して保管しようと思った次第で、その中に、この鎧伝承篇も入っていたというわけです。
 
久しぶりに聞きましたけど、燃える燃えるw 無条件で燃えますよw
 
この辺りの時代では、主人公が戦う理由などを、語る部分はあるのですが、そうした部分が弾かれる場合が多かったと記憶しています。長寿番組となる場合、もしくはなった場合は、そうした部分も丁寧に語られるのですが、やはり4クールではそこまで語っていては、話が進められないと言う事なのでしょう。ましてや、サムライトルーパーは39話。
五人はすでに、戦士として登場したわけです。
 
当時のファンとしては、どうして戦士になったのか。それを想像して描いていた人も少なくありません。そういう意味で、このドラマは公式の一つの答えとして出てきたものと言えるのかもしれないわけです。
 
ただし、あくまで一つのものとして…です。
 
先ほども記載しましたが、ノベライズである「鎧正伝サムライトルーパー」にもそした件があるわけですが、それとはやはり異なっているわけで(ノベライズ自体がストーリーを少し変えているので仕方がありませんが)、そうした意味では、公式であるにせよ、これもまた一つの物語…つまりは、大きく言えばパロディであると捕らえることが出来るかもしれないわけです。
 
と言いましても、声を担当していた方々が醸し出す雰囲気は、素晴らしいものがあるのは当然。最近、アーマープラスで復活したともいえるトルーパーなのですから、こちらも復刊していただけないものかな…と思うのですね。
 
持っているんですけど、よりクリアな音質で聴きたいなーと思うのがファン心ってものじゃないかなぁと思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「ドラマCD」と言う事で一つ。
 
もしかしたら、前にも同じような記載かもしれませんが、ご容赦のほどを。こうしたドラマCDですけど、その中に音楽やサウンドエフェクトを合わせる技術。本当にパソコンで簡単に出来るようになってきました。アマチュアでも、こうした作品が出来るようになってきた時代。より大変なのは、プロの人たちなのでしょう。
 
雑誌などに、今放送している作品のドラマCDが付録として付いてくるわけですけど、本当に採算が取れているのかなぁと思ってしまうわけです。
これまでの話の再録であるのならば…と思うのですが、そんなわけはなく、やはり新たに取られたストーリーであるわけです。
 
その昔、オリジナルストーリーが多くアニメとして放送されていた時代。原作つきというのは、意外にも敬遠されていました。その理由としては、今の状況と同じく、人気のある作品をアニメにする=物語が完結していない。さらに、デザイン的に原作とのキャラが異なる点、そのキャラクターの声などなど。原作に思い入れのあるファンが、それをきっかけに、その企業の他の作品を見なくなる恐れがあったからです。
 
基本的に一話完結の話であればアニメ化にしやすかったのでしょうが、連続的な話では先ほども言った通り、結局終盤がオリジナルになる…今ほど、需要がなかったと言える時代において、ドラマCD…いえ、カセット文庫というのは、当たりをつけるのに丁度良い媒体であったのかもしれません。
 
こうした音だけのドラマは、ラジオでも盛んに放送されていましたし、そうした中からメディアミックスされた作品も数多く出てきたものです。
 
現在は原作つきが大半を占めているアニメ業界ですが、こうした手探りの活動が今の需要を生んでいる可能性があると思えるわけです。
 
カセット文庫が一本46分ほど。アニメで言えば、二話分になるのでしょうが、これで文庫本サイズの小説であれば一冊分とするのも、よくみられました。ラジオドラマでは、一か月~二か月が一つのサイクルであったと記憶しています。
 
漫画も小説も、こうしたカセット文庫も、言えるのはキャラクターの動きは想像で補完するしかないという事です。ただ、小説や漫画と異なるのは、声によって想像を喚起されると言う事。これはさらなる展開を狙っていた業者からすれば、先兵としては十分な効果を発揮してくれたのではないのでしょうか。
 
そしてやってくるOVAの時代。さらに深夜アニメの時代。でも、個人的には、またこうしたカセット文庫…いえ、ドラマCDが多くの原作小説や漫画などの原作として発表されていくのではないのか。そんな時代が来るように思えるわけです。
 
ただし、今度はドラマCDではなく、MP3媒体としてダウンロード可能という形で。
気軽にドラマをいつでも聴く事が出来る時代。なったら、面白いんですけどね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年12月12日

作り手の消費【「デュアルマガジン」(1982-1985年 タカラ/丸善)】

 さて、今回は1982~1985年に季刊発行されました「デュアルマガジン」です。

 サンライズとバンダイのヒット作品、機動戦士ガンダムに触発されるように、同業種他社メーカーは、こぞってリアルロボット路線を発表しました。それはタカラも決して例外ではなかったわけです。
 
そうした作品を紹介する上で、当時としてもっとも重要な媒体が、雑誌であったのは言うまでもありません。
 
雑誌社におけるそうした、いわゆるアニメ雑誌、または模型雑誌は当時の少年たちのバイブルにもなっていったわけです。そうした中、玩具メーカーが自社の商品とそれに絡んだアニメ作品を掲載するための雑誌を発行し始めたのです。
最初は、小さなポケットサイズであったそれも、次第にA4サイズの雑誌へとシフトしていき、バンダイからはB-CLUBが、そしてタカラからはデュアルマガジンが発行されたのです。
※デュアルマガジンに関しては、季刊という事もあり、1984年から発売されない月には「3Dジャーナル」という小冊子を発売していました。
 
ただし、デュアルマガジンは季刊の発売で、全十二巻の発売に留まりました。しかし、その内容はマニアをニヤリとさせるだけの力があったのだと思うわけです。
 
当時のタカラが発売していたリアルロボット路線と言えば、太陽の牙ダグラム、装甲騎兵ボトムズ、そして機甲界ガリアンでした。
 
ダグラムに関しては、正直、盛り上がりが少なかったと記憶していますが、ボトムズに関しては、その後独自に展開していく事になる、青の騎士ベルゼルガ物語が掲載されたのが、この雑誌ですし、ガリアンに関してはオリジナルの機甲兵を読者から募集するという、眼D舞うで言えばオラザク(オラのザクは世界一…雑誌上のプラモデルコンテストです)のようなこともやっていました。
 
それだけ、盛り上がりを見せていたわけですが、最初に記載しました、機動戦士ガンダムを追いぬく所か、追いつくのもやっとな状態。
中には玩具の売上が思う様に伸びない作品も珍しくはなかったのです。
 
そうした玩具の売上不審は、こうしたメディアミックス戦略に影を落とす事になります。
 
結果、季刊で十二回を持って休刊。個人的には、休刊になる事が残念でなりませんでした。
 
 
 と言う感じで思うところとしては「メディアミックス」と言う事で一つ。
 
最近の言い回しでは、コラボと言った方が良いのかもしれません。ただ、日本アニメに関しては、これまでの歴史において、目ディミックスではない作品を探すのが意外に苦労するのかもしれないのです。
特に最近はその傾向が強いのではないのでしょうか。
 
深夜アニメの大半はライトノベルが原作ですし、そうでなくても、テレビゲームが原作と言う場合もあります。
これらは立派にメディアミックス戦略と見るのが良いのでしょう。
 
ただ、そうしたアニメに関しては、今が旬=完結していない時にアニメ化する事も多いので、最後は原作の途中で終わるのか、もしくはアニメオリジナルの結びとなります。
こうした状況にある方は「アニメと小説は異なるのだから、終わりが違っていても問題はない」という趣旨の発言をされました。
 
これは本当にそうなのでしょうか。
 
こうした問題…ご当人たちは問題とは見ていないのかもしれませんが、あえて、問題と言う事で…を解決する方法は、ただ一つしかありません。
それは完全なオリジナル作品とする事です。
 
玩具が元媒体になっているアニメ作品、特撮作品のほとんどには、原作作品がありません。それ自体が物語としての原作になるからです。
 
 
ハリウッドでもそうですが、既にマンガとして人気のあるもの、あったものを映画化する傾向にあります。
その理由としては、脚本化の才能不足と資金調達のスムーズ化のためというのを耳にするのですが、それは長期的に見れば、緩やかな破滅を目指しているに他なりません。
 
物語を作ると言う事は、想像を掻き立てる事そのものであるはずです。それは決して、それに関わった方全てが楽になれる方法ではないのです。…しかし、今、求められているのはその楽であるように思えてならないわけです。
 
想像が創造を生む。
 
その想像が様々な意味で貧困のであり、そうあり続け様とするのであれば、それは創造ではなく、浪費でしかないのです。浪費の果てにあるのは、廃棄される媒体のみ。それこそ、深夜アニメのような貴重な財産を散在していく事に他ならないわけで…と、これ以上はデフレスパイラル並みの繰り返す話になりますので、ここら辺で。
 
 
言い得て妙であるのは、こうした事実に気付いている人も多いはずなのに、何故にそれを破壊する人が出てこないのだろうかという事なのです。そこにも、現実的な問題が多数あるのだろうと言う事はわかりますが…さて、国は一つの有益な輸出産業に関して、同考えているのでしょうかねぇ。
 
結局こうした問題は、伝統産業となんら変わらないわけで、後継者問題に保護問題。それが有益「だったのか」…では、まさに先見の明も省みる目もないわけで…。
こうした分野に、国からの援助と監視と保護の手が早急にして的確に入ってくれる事を願うばかりなのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年12月12日

変身という見得を切る!【「仮面ライダー SPIRITS」(2001-2009年 講談社)】

 さて、今回は2001~2009年に連載されました「仮面ライダーSPIRITS」です。
 ※現在、「新仮面ライダーSPIRITS」として月間少年マガジンで連載中ですが、今回は、月間マガジンZで連載されていた作品です。

 ジンドグマという秘密結社があった。少なくとも、それが日本で確認された最後の秘密結社であった。彼らの目的…いや、それまでにあった幾つもの秘密結社の目的は、世界征服であった。世の中からすれば荒唐無稽も話であったのだろう。今の世の中でそれを信じるものは少ない。
 
だが、それを目の当たりにしてきた人物がいる。滝 和也…FBI捜査官でありあながら、しかし、その話をホラ話として笑い飛ばされてきた男であった。
 
しかし、彼は知っていた。ゴリゴリとする体の中に、人の心を燃やし、遥かに強靭な力で正義を成す男たちの事を…。
滝は彼らを友と呼ぶ。今も尚、どこかで戦い続けている男たちの事を、語り続けながら…。
 
だがしかし、悪夢は再び滝の前に舞い降りてきた。人ならざる者たちが、人を蹂躙し始めたとき、滝は彼ら友の名を語り立ちはだかる。
 
仮面ライダー。それは正義の名、悪への反逆の名前であった。
 
しかし、滝は人間。彼らとは違う。
脆弱な人の肉体を捨て、鋼鉄の皮膚、機械の内臓、そして人ではない動物の姿に変わり、強大な力を得た怪人たちに、滝の力は無力に近いものであった。悔し涙を流す滝…しかし、その時、一人の男が風と共に現れた。
 
男は言う。今日は俺とお前でダブルライダーだと。その男の名は、本郷 猛。またの名を仮面ライダーと言った。
 
 
 
 昭和より平成の時代を経て尚、作品が続けられている仮面ライダー。その中でも、いわゆる昭和ライダーの作品を再編集し、マンガと言う領域で作品にしたのが、この仮面ライダーSPIRITSです。
 
1971年に放送が開始された仮面ライダーから、10号ライダーである仮面ライダーZXまでを題材にした本作品は、全ての仮面ライダーを主役としながらもその中心に仮面ライダーZXを持ってきており、その世界に連なるものとして、これまで登場した悪の秘密結社を、ZXで登場したBADANにつなげるという形にしました。
 
これは、AXのストーリーを踏襲するものとなっており、それまでの仮面ライダーとの特撮という世界では難しい、コラボレーションを実現したものとなっているわけです。
ちなみにZXは映像化はされておりますが、「10号誕生!仮面ライダー全員集合!!」というテレビスペシャルの一回のみとなっています。後は雑誌企画での連載となっていた仮面ライダーであるわけです。
 
コラボレーションと言う話しですが、実際、改造人間である彼らは年を取ると言う事はないのでしょう。しかし、特撮と言う世界では、役者さんも年を取ります。その昔、ライダー集合の話も幾つかありましたが、やはりそこに全員を集合させるのは、難しいものであります。
思えば平成ライダーでも同じように兆戦しましたが、それが成功したものであったかどうかは…受取りて次第なのかもしれませんね。
 
さて、そんなライダー大集合な作品なのですが…少し、というか一人足りないなぁと思う次第なのです。
それは、仮面ライダーブラック、およびRXです。
 
平成の仮面ライダー作品の一つである仮面ライダーディケイドにも出演していたのは記憶に新しいのですが、しかし、このマンガの中では出てくる事はありません。
 
その理由はただ一つ、ブラックとRXはZXの後になるという事なのです。
これは仕方がない話しなのですが、それはそれとして、原作者である石ノ森先生とは異なる、この作品を描き続けている村枝先生版のブラック…いえ、南幸太郎を、その変身を見てみたいと思うのです。
 
何故なら、この作品。仮面ライダーが必殺技を使うシーンにも迫力があります。また、その変身後の姿も、特撮で見なれたスーツの特色を良く掴んでいます。
ですが、何より心を掴んで離さないのは、彼ら仮面ライダーの変身シーンなのです。
 
そう、変身ベルドがあれば尚良し、なくても、腰にそれがあるつもりでやった変身ポーズ。それが、彼らの覚悟と共にマンガとして描きつづられている。
そこにあるのは憧れであり、そして必ず何処かにいるはずの正義の味方。その登場シーンであるのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「変身」と言う事で一つ。
 
その昔、例えば紫頭巾とか月光仮面とか、僕等を守ってくれるヒーローはテレビの中に必ずいまして、それを真似してみたものです。
 
年齢によって、それが仮面ライダーやウルトラマン、変身忍者嵐であったり、忍者部隊月光とか、宇宙刑事ギャバンだったり、超人機メタルダーであったり…平成になってみても、それは変わらないと思うわけです。
 
しかし、最近の変身シーンは、正直、結構淡白だなぁと思う次第。でも、ロボットアニメでも、いわゆるリアルロボットがより多く出てくると、必殺技も叫ばなくなりましたと思うのです。
 
そうした背景にあるのは、恐らく、時代劇が少なくなったからなのだろうなぁと、個人的には思っております。
 
最近、水戸黄門の再放送で、第一部から始まっているのですが、「この紋所が目に入らぬか!」って印籠を出すのは、三部以降からなんですよね。しかも、台詞が微妙に違う。
何かしっくり来ないものを感じる次第です。面白いのは面白いんですよ。でもねぇ…って感じになるわけです。
 
日本は見得を切るという芝居に親しんできました。言い方が悪ければ、マンネリと言う奴です。
しかし、そこには安心感があったわけです。ただし、単なる安心感ではないのは、これまでの芸能の歴史が証明している事なのです。
 
見得とは見せ場でもあります。その見せ場をどうやれば、より素晴らしく見せる事が出来るのか。まさに、それが芸事の本懐でもあるわけです。
同じ様に、特撮の世界における見得、アニメやマンガに世界における見得というのがあるわけで、それが如何に素晴らしく見せる事が出来るのかが技術の進歩でもあると思うわけです。
 
決して複雑が良いのではなく、例えば、仮面ライダー1号と2号の場合は、技の1号に力の2号の異名がつけられた様に、その変身ポーズも少し違っているものになりました。
それこそ、見得を切ると言う事でもあり、舞台であれば掛け声の一つでもかかるような場面でもあるわけです。だからこそ、絶対にその場面は手を抜かずに放送していたのだと思うのです。
 
最近は見得を切る場所が変わってきました。必殺技の場面で多くなってきたわけですが、それも決して間違っているとは思えません。しかし、少なくとも、今やっている仮面ライダーWのように、少し変身ポーズに意味を持たせて見るのも良いのではないのかと思うわけです。
 
子供って案外そう言う事に敏感な部分がありますし、それがより真似やすい真似への第一歩にもなるのだと思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年11月28日

仕分けの見極め【「スプリガン」(1989年、1992-1996年、2000年 小学館)】

 さて、今回は「スプリガン」です。
 ※1989年に週刊少年サンデーで連載。1992年~1996年に週刊少年サンデー増刊号で連載。2000年にサンデーGXで読み切り。



 かつて、この地球には、優れた文明があった。
現代では到底及びもつかない知識・科学力を持っていたという、超古代人の遺産が、今ものあこの地球上の各所に眠っているという。
 
だが…。
 
ここに一枚のプレートがある。
比重から測定すると、それはプラチナに似ているというが、どのような年代測定法であっても年代を知る事も出来ず、過酷な熱、冷気にさらされても、また、どのような衝撃でも傷一つつかない。現代科学からすればありえない物体オーパーツ…。
 
しかし、その物質よりも興味を引かれるのは、そのプレートに古代ヘブライ語で刻まれた刻まれた文言であった。
 
『未来の人類へ…
この伝言を発見する者が心ある者なのを願って…
 
心ある者たちよ、過去からの伝言を伝えたい。
この惑星には多種の異なる文明があった…だがまもなくすべて滅びる…。
 
種としての限界、異文明ゆえの争い、堕落、荒廃…。
 
君たちには未来あることを願う。
世界中にあるわれらの文明の断片を遺産として残そう…だが、もしも君達に遺産を受け入れる資格がなければ、それらをすべて封印してほしい。悪しき目的に使う者達から守ってほしい。
 
われらと同じ道は決して歩んではならぬ…』
 
このメッセージを誠実に受け止め、超古代文明の遺産を封印することを目的に活動する組織があった。
そして、その組織の特殊工作員を遺跡に出現する伝説の妖精にちなみ“スプリガン”と呼ぶ。
 
 
 
 同じ小学館の少年誌系列ですが、実に三誌に渡って掲載していたのが、このスプリガンという作品です。
 
主人公は、高校生・緒神苗 優。第二のロックフェラーと呼ばれるアーカム財団。その特殊工作員であるスプリガンの中でも、その世界には名の知れ渡っている青少年です。
彼には複雑な生い立ちがあり、その経歴に絡んだ事件も少なくありません。ただ、そうした経緯を自分の中で飲みこみ、さらなる力にする事。つまりは、彼の成長が、この物語のテーマの一つであったわけです。
 
そして、彼が関わるいわゆるオーパーツに関しても、その強大な力云々というより、むしろ深海で発見されたメッセージを踏まえた物語として展開していくのです。
と、言いましても全てがそうであるのかと言えば、少し違っている部分もあり、第二章である仮面伝説の章の際には、敵対した側にも、一概に悪と一蹴できない理由があると言う事を匂わせていました。
 
終盤でアーカム財団は、いわゆる乗っ取りにあいます。
そのとき、その首謀者であるヘンリー・ガーナムという人物の台詞として…
 
『真の平和をもたらすには、個人の考えを差し挟む余地はないのだ』
 
…とあります。ただ、真の平和とは何か。個人の考えとは何か。そうした考えも所詮、個人の考えではないのか。では、そうではない。それが差し挟む余地がない状況とは…。まるでパズルのような話です。
ただ、この物語の味付けとしてありますオーパーツたちがなくても、我々の生活にとって、決して遠い話ではないと思えるのです。
 
平和をもたらすのは、一体何であるのか。案外、この作品はその命題を読者に突きつけているのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「必殺仕分け人」と言う事で一つ。
 
さて、同じ様に当初の想定とは異なる形式で始まりました事業仕分け。実のところ、この事業仕分けにも、ヘンリー・ガーナムの言った言葉がチラホラと見て取れる様な気がしてなりません。
 
目標として三兆円の予算削減を行う…確かに、目標としては大きな話ですが、これまでの状況はどうであったのでしょうか。
 
概算要求は大きく膨らみ、事業仕分け人に携わる国会議員の数は、同じ与党内から待ったがかかり、そのために減った人数の関係で扱う事業数も減り、止めに仕分け人として指摘している財務省関係の事業は一つもない。
これで本当に目的通りになるのでしょうか。
 
確かに、これまで見えなかった部分が一応あからさまになった様な気がします。
ただし、これで予算は決定するものではなく、この後に二回ほどの審議が待っているのです。その場はあくまでこの事業仕分けのような公開の場で行われるわけではありません。
 
当然、その場が勝負と見ている役人も大勢いるのでしょう。
 
何より、今回の事業仕分け。その腕、経歴を活かすという前提の下に再就職を果たした天下り役人が一人も出てきていないのが気に入りません。全て、その事業所で働く天下り以外の人物ばかりです。
本当に事業の何たるか、その本質を知っている人が出てこないという事が残念でならないわけです。
 
いずれにしても、今回の事業仕分けが本当に意味を持つ様に、研鑚する必要があるのは当然であり、こうした試みがただ一回のパフォーマンスで終わらない事を願うばかりであるわけです。
 
 
それとは別に科学技術やスポーツ進行に関しての削減は、明らかに間違いであるにしても、それらが無用な天下り連中の懐に入るのは、確実に阻止するべきであるわけです。
 
双方とも、世界一になるために努力するための国の後押しという事では大事な事業。そこら辺は別の法律なり仕組みで無駄を回避する必要があるのではと思う次第なんですよね。
少なくとも、イトカワに旅立ち地球に帰還中のはやぶさ、その様々な情報が活かせる技術の後押しはして欲しいものだと思うのです。
 
この話、またの機会に出来ますればその時にでも。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年11月21日

ゲーム=悪?【「Wii fit Plus」(2009年 任天堂)】

 さて、今回は2009年から発売となりました「Wii fit Plus」です。



 「健康を管理するゲームソフト」を目指して設計された家庭用ゲームソフト。それがWii fitです。
2007年12月に発売されたそのソフトには、バランスWiiボードという外部コントローラが付属。そのコントローラが、これまでのゲームとは大きく違うところでもあり、特徴でもあるわけです。
 
プレイヤーは基本、このバランスWiiボードに乗りながら、ゲームを楽しむわけです。
その機能たるや「体重測定」だけではなく、「重心感知」まで行ってくれるのです。それらを組合せる事によって、ゲーム内では上下左右前後の動きを表現し、奥行きのある遊びを提供しているのです。
 
それだけではなく、これまでのように手首より先だけで遊んでいたゲーム機と異なり、身体全体でテレビゲームをするWiiの特性を活かして、ヨガ、筋トレ、そして有酸素運動を行えるミニゲームで遊ぶ事で、自然に自分のリズムで健康管理が行えるのです。
 
そのWii fitにさらに新作トレーニングを21種類増やしたのが、Wii fit Plusです。
 
 
 
 ふとしたきっかけで、我が家にWiiが来る事になりました。元々、ゲームは好きであったのですが、最近すっかりやらなくなったのは、新機種を購入していないのと、ゲームにかける時間が少なくなったからかもしれません。
 
そんな中で、このWii fit Plusに関しては、自分の体重や運動量を管理してくれているので「やらなければ」という意思にしてくれます。
 
またWiiの特性として、一定時間プレイすると休憩を促す画面が出てくるので、これまでのように時間を忘れていて、大事なことをやり忘れたとか、気がつけばこんな夜遅くまで…という事がないのも嬉しいですね。
 
それだけ夢中になれるわけですが…と記載しておりますが、基本やっているのは家族であったりします。
私はWii スポーツリゾートに夢中です。
 
どちらにも言えますが、本当にやりすぎると、腕や腰、足がいたくなるのですね。
それだけ身体に負荷がかかっているのでしょうが、さて、その成果はまた後日。お知らせできれば良いなぁと思っている次第ですw
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「ゲームと効果」と言う事で一つ。
 
もう、既に知られている話のなかで、ゲーム脳は信用が出来ないというものがあります。思うに、こうした、いわゆる悪のレッテルと言うのは、事を性急に結論付けたいため。もしくは理解できないものを排除したいために起こる動きではないのかと思うのです。
同じような話にマンガに対する悪評があります。これは現在でも起こっているのですが、それでも、現在の出版業界における半分以上の売上はそのマンガによってもたらされているわけです。ゲームにしても、売上が落ちたと言われながらも、家庭用ゲームに関しては、決して下火になっているとは思えません。
 
今まで、そうしたゲームに対する正しい評価が得られていなかった状況において、WiiやDSで発売されているソフトには、まさに逆手を取ったかのようなものが多く発売されています。
ゲーム=悪。悪影響だけがクローズアップされる時代は終わったのかもしれません。
 
そうした中で、カードゲームにおける面白いデータが出てきました。
 
子供たちが夢中になっているカードゲームにおける脳の働き具合を調べてみると、その血流の流れ具合は、計算式を解いているときの脳波と差ほど代わりがないそうなのです。
これは、戦術を考える際に現れる脳波なのだそうですが、考えてみれば、数百種類もあるカードの中から決まった枚数を選び出し、そこに自分の求める戦略を込めていく。それは頭が廻らないと出来ない作業です。決して、闇雲に組み立てて勝てるゲームではないと言う話になります。
 
同じように昔からあるゲーム…将棋や囲碁、チェスもそうですが、これらは長い歴史と扱ってきた大半が大人と言う事で、知名度が上がってきたわけです。ならば、こうしたカードゲームも決して同列にならないとは言えないわけで、むしろそうした土壌があってもおかしくはないのでは…とも思うわけです。
 
ゲームを攻略するための思考や物語を読み解くための思考。そうした中に、心身の健康を加味していく教育方針があっても、面白いわけで、要するに道具としてのゲームやマンガをどのように活用していくか…と言う事なのだろうと思うのですが、皆様はどう思われますか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年11月14日

どこまでが趣味の範囲?【「コミックマーケット」】

 さて、今回はすこし視点を変えまして、同人誌について。



 今、11月。後1ヶ月もすれば、日本最大の同人誌即売会「コミックマーケット」の開催となります。
昨今、様々な取り上げられ方をし、ニュースでもおなじみになってきた感があります、通称コミケですが、その参加人数をご存知でしょうか。実に延べ人数で60万人近くを数えるほどになってきているそうなのです。
 
それもイベントの様相が変わってきたから、なのかもしれません。
 
まず、基本的理念として、同人誌(以後、冊子)を頒布すると言う事から即売となっています。決して商業的観点からの開催ではないというのが大前提にあるわけです。
しかし、各種経費を賄うためには、そうした理念の中にも例外を加える必要が出てきました。それが企業ブースという存在です。
 
今ではすっかり馴染みになりました企業ブース。しかし、当初は問題視されていた存在でもあります。ただ、言い方を変えれば、これほど冊子における認識を企業側に持っていただくのに格好な方法もありません。
 
いわゆる設定などを独自で考えるオリジナル冊子は別にして、既にある作品や人物を利用したパロディ冊子には、必ず付きまとう問題があります。それは著作権問題です。
ファンであるから、好きだからというのは決して理由として認められるものではなく、場合によっては企業営利の邪魔をしているという判断が成される場合もあるのです。事実、そうした事例がないわけではなく、企業の中にはこうした無許可の営業を問題視している所も皆無ではないのです。
 
先ほど、冊子を頒布すると記載しましたが、あくまで冊子における利益は出さないというのが、同人誌のあり様であるはずなのです。
 
同人とは同じ趣味を持つ者、同人誌とはその同人が互いに作り出した冊子という事になります。あくまで趣味の範囲であるというのが、見て見ぬ振りをされてきた状況の一つであったわけです。
 
しかしそれも形骸化となっているのが現状であり、それは今後、どのような進路を取っていくのか先は未定な部分があるのでしょう。
 
一つのコンテンツとして考えますと、それを巻き込むべきなのかもしれません。しかし、そうなればそれは趣味ではなく、実益になります。そうしたコンテンツの状況によって戦略も考えられるのでしょうし、戦術として冊子やアイテムが投入されていく事になるのでしょう。
企業ブースにおける限定品はまさに、こうした場所で行う商品展開の戦術の一つとなっているわけです。
 
逆にまったく認めないという状況になれば、三つの形が予想されます。
一つはこれまで通り見て見ぬ振りをする。一つは排除する。一つは監視する…です。
 
数の多さからすれば、見て見ぬ振りをするのが一番企業側としても楽なのでしょう。恐らくはこれまで通りの状況が続くのだろうと言う気がするわけです。
ただ、何かのきっかけで事が動くのは先ほども記載した通り、経験している事なのです。その動きとは訴訟です。
 
こうなりますと、防ぎたいのは企業全体で反対するという、いわゆる一致団結の状況です。と考えれば、企業ブースと言う存在はそうした企業の中にもこうしてうまく使っている所もあるんだよ…というメッセージにもなり得ます。だから、認めてね…というのは企業からすれば勝手な言い分なのでしょうし、それを認めてしまえばさらに混沌として冊子が出される結果になる…ジレンマですね。
 
正直、どうすればうまく舵取りが出来るのかを悩んでいるのが企業の状況ではないのかとも思うわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「許可」と言う事で一つ。
 
先ほども記載しましたが、冊子の大半は許可を貰っていません。中には許可を得ている冊子もあるのでしょうが、それは全体からしても数パーセントもない事でしょう。
 
もともと、冊子自体は趣味の範囲で楽しんでいたものです。しかし、その趣味の範囲というのは何処までを言うのかが問題となっているわけです。
 
全てのコンテンツにおける趣味の範囲とは自分で楽しむだけという範囲であるはずです。映画にしてもアニメにしてもドラマにしても、それは同じ事でしょう。
とすれば、同人誌における頒布はその範囲を超えているのかもしれないわけです。
 
確かに、冊子を作るにしても無料では有りません。せめて制作費でも回収したいというのは、製作側としてはわかる理屈です。
しかしながら、そうした理屈も果たして趣味の範囲と言えるのかどうかは、難しい判断なのかもしれないわけです。
 
逆にその冊子における頒布許可を貰えば、話は変わってくるわけです。
 
公認問い事にもなりますし、利益を踏まえた上で版権料を企業に支払うわけですから、ある程度の値段設定が大切になってきます。許可を得るために審査や校正もされるのでしょうから、それは質の向上も期待できます。
しかし、それはすでに趣味の範囲を逸脱し、頒布ではなく販売=商品となっているわけです。
 
そうなりますと、趣味の範囲からは逸脱していますし、純粋なアマチュアであるとは言えないのかもしれないわけです。
 
こんな面倒なことを考えなくても、誰かが結論を出してくれるのかもしれません。
しかし、そうした場合、その結果に満足いかなかったら、それを反故に出来るのでしょうか。きっとそうではないのでしょう。
 
ただ、楽しむだけであるのなら、ネットで公開をする手段もあります。色々な問題ああるのでしょうが、それを一旦横に置くとして、作品を見てもらうという観点では手っ取り早い方法です。
ただし、そこに金銭が絡めば、やはり企業の利益を阻害している可能性もなきにしもあらず。本当に堂々巡りの問題であるわけです。
 
サークル数だけでも三千あまり存在するコミックマーケットにおいて、どこまで目を瞑っていただけるのか。それはサークルにおける表現方法もそうでしょうし、それがどれだけ企業に影響を与えているのかも関係してくるのでしょう。
 
それを考えますと、もしかすれば、何らかの基準を設けて申請を促す企業が出てきたとしても、おかしくはない話だと思うわけです。
そのとき、サークルがどのような対応をするのか…。
 
それでも他人の褌で相撲をしている以上は、文句も言えないとは思うのですけどね。上にも書きましたが、ファンであるから、作品が好きであるからと言って、許されるか否かは別問題なのですから。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年11月07日

ひとつのブランドで複数の作品、そのラインナップ【「アーマープラス 烈火のリョウ」(2009年 バンダイ)】

 さて、今回は2009年に発売されました「アーパープラス 烈火のリョウ」です。



 『かつての聖闘士聖衣大系(セイントクロスシリーズ)が現在の技術で『聖闘士聖衣神話』に昇華されたように、今までのコレクターズ事業部の各商品で培かわれたノウハウにより、当時のファンが本当に欲しかった烈火のリョウをヨロイギア(アーマー)の着脱可能な可動フィギュアとして、遂に立体化します。』
(魂ウェブより一部抜粋)
 
アーマープラス第二弾として登場したのは、鎧伝サムライトルーパーより烈火のリョウ。
 
素体となる真田 遼はアンダーギアの状態を表現。表情は「キリッと引き締まった表情」と「叫んでいる表情」の二つ。稼動域の広さと表情の交換により、アンダーギアでの活躍も再現する事が出来ます。
 
鎧ギア・烈火は、鎧召還における状態を再現。劇中では黒く抜けている状態であった兜内部を独自に解釈。日本の鎧にある面当てを召還用人形の顔としています。
鎧を装着させたその後は、やはり鎧をまとう…という事でしょう。
 
アンダーギアの遼に烈火の鎧を装着させれば、仁の心で悪を討つ、烈火のリョウが誕生というわけです。
 
 
 
 待ちに待っていた商品が発売されました。アーマープラス第二弾。鎧伝サムライトルーパーから烈火のリョウがまさに見参です。
過去にも記事を書きましたが、この作品。放送当時のメインスポンサーはタカラであったわけです。当然、玩具はタカラから発売されていました。
しかし、その売れ行きは…。紆余曲折があったにせよ、決して誉められた状況ではなかったようです。
 
そう言う意味ではまさに今回も紆余曲折と言った方が適切なのかもしれません。何故なら、今回発売されたアーパープラスはバンダイから出ているわけです。これはとても考えられない事でした。その考えられない事が実現をした。それはファンにとって待ちに待った形でのトルーパー玩具の登場であったと言っても決して過言ではないのです。
 
ただし、そうは言っても、それは今の技術があればこその話です。
 
それだけ数多くの同じような玩具を手がけてきたバンダイの研鑚があればこそ。当然、タカラにしても路線は違えども、同じように研鑚し、結果をだした玩具があるわけです。タカラで出していたとしても、それはかなりの結果で発売される事になったのだろうと思うわけです。
 
何が言いたいのかと言えば、それは「人形は顔が命」と言う事なのです。
 
玩具業界ではそうした部分がこれまでないがしろにされてきたというのは、決して言い過ぎではありません。技術云々というよりも「ギミック」にとらわれてきた過去が間違いなくあるわけです。ロボットではない、等身大のヒーローでも同じようなことが行われたいました。
 
昨今では、そうした造詣=形も重要視されています。これは良い傾向であると思うわけです。何故ならば、キャラクターも大きく括れば男優女優なのです。
やはり顔で商売している部分が多かれ少なかれ、あるのだろうと思うわけです。
 
今後も、様々な作品がアーマープラスの商品として出てくる事でしょう。劇中のギミックの再現もそうですが、やはり、そのキャラクターたちの素顔にもより力を入れていただきたいと思う次第なのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「ラインナップ」と言う事で一つ。
 
このアーマープラスというブランド。実のところ、鎧伝サムライトルーパーだけのブランド名ではありません。もし、そうであれば、鎧擬亜大系とでもなるのでしょうw
これまで数多放送されてきたアニメや特撮における鎧、アーマーをまとったヒーロー・ヒロインのためのブランド名です。
 
第1弾はマクロスフロンティアの早乙女アルトとEXギア。そして第3弾は宇宙の騎士テッカマンブレードの主人公、テッカマンブレードであります。となれば、例えば天空戦記シュラトや超音戦士ボーグマン、機動警察メタルジャックなど、これまでこうした玩具になりにくかった商品ラインナップが考えられるわけです。
 
…と、言いましても、やはりその作品。特に自分の好きな作品のラインナップを期待するのは当然の話でしょう。
 
こうした様々な作品がひとつのブランドで出てくる場合、消費者がメーカー側に期待させるのが、一番の手段であると思うわけです。その期待とはやはり売上になってくるのでしょう。
やはり、自分の作品がしっかり出されないと思えるようなラインナップであると、寂しい思いをするのは消費者側であるのは間違いない話なのです。メーカー側も残念とは思うのでしょうけど、それでも売上につながらない物を商品化する必要があるのかどうか。そこは言わずもがなという話ですよね。
 
また、その商品を盛り上げるのも方法として必要なのでしょう。
最近ではブログでレビュー記事を書かれている方も多いので有効な手段であるのだと思います。
 
後はアンケートにも積極的に参加するのも手段としては必要です。
 
こうしたブランド品の場合、やはりある程度消費者にも努力するのが必要であるのは今の世の中からしても、そうなのだろうと思います。メーカーと消費者を近づける結果になった、ネットという媒体は消費者の動向を探るには良い媒体ですからね。
それを逆手に取る事によって、自分の欲しいラインナップが早く商品化される機会がくる…のかもしれません。
 
 
ちなみにですけど、私はこの鎧伝サムライトルーパーをどんどん出していって欲しいのです。
 
烈火から始まりましたから、金剛、光輪、天空、水滸ときまして、鬼魔将、闇魔将、毒魔将、幻魔将、そして阿羅醐に迦遊羅。出来れば、妖邪兵に剣舞卿もラインナップにいれて欲しいのです。
さらに言えば、五人に関しては、OVAメッセージ版の鎧も出して欲しいですし、あの幻の新・鎧伝サムライトルーパーの五人の鎧に、魔将の鎧、そして聖天衆の鎧も出して欲しいと思っているぐらいです。
 
当然、輝煌帝に黒い輝煌帝も忘れちゃ行けません。
 
…と、暴走出来るのなら、恐らく、上記の文章量と同じぐらいに要望出来るわけですけど…今回はこの辺で。またの機会があれば、そうした話も記載してみたいものですね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月31日

手作りの大切さ【「劇場版クラッシャージョウ」(1983年 日本サンライズ)】

 さて、今回は1983年に公開されました「劇場版クラッシャージョウ」です。



 誰かから強襲されるトラック。しかし、そのトラックにも武装が施されており、高速カーチェイスの中で生死を分ける戦いが繰り広げられていた。何とか倉庫の中に逃げ込めたトラック。しかし、荷物をそれ以上運ぶことは出来そうにない。
荷物はトラックにある秘密の隠し扉の奥に隠されていた。
 
その荷物は人間であった。
 
恒星間飛行を開発した人類が、その先に求めた停留地…つまり惑星を地球環境に似た状態にするテラフォーミング。それを担っていた者たちは、後に犯罪以外の事柄であれば報酬によって請け負う仕事を始めた。
惑星開発の名残から彼らはクラッシャーと呼ばれる。
 
クラッシャーの地位向上のために遁走している名の知れた元クラッシャー・ダンには同じクラッシャー家業を営む息子がいた。その名をジョウという。
若いながらも名の知れた活躍を見せるジョウではあったが、しかし、クラッシャー評議会議長の父・ダンからは認めてもらえていないと思い、反感を募らせていた。
 
そんなジョウは、名門スコーラン家の執事からある依頼を受ける。それは荷物の宅配であった。
しかし、ミッコラへ向かう途中でジョウたちの宇宙船は操縦不能に陥ってしまう。その後、海賊の容疑をかけられクラッシャーの資格を停止されたジョウは、姿を消した執事が宇宙海賊の一員と知り、無法者が集う惑星ラゴールに乗り込むのだった。
 
 
 
 劇場版アニメとして登場したクラッシャージョウ。1977年に最初の小説が文庫本として発売され、それから数年後に映画化されました。今のようなライトノベル化された何かの話の映画化ではなく、完全オリジナルの物語となっています。
後に、この映画を題材にした小説が発売されたのです。
 
本作の表紙や挿絵、キャラクターデザインなどでも知られる安彦良和さんの初監督作品で、しかも本作品が公開された年というのは、アニメ映画も大作が目白押しでもあったのです。
 
中でも、宇宙戦艦ヤマト 完結編、幻魔大戦は上映時期が重なり、興業戦争なんて言われたのだとか。
 
それぞれに有名な作品でありましたし、また、放映時間も現在と比べれば長かったので、はしごするには結構体力が必要であったはずです。
後にビデオ発売されるとしても、それも長い期間が必要でしたし、何よりその当時のビデオの値段は、高かったですからw とても、簡単に買えるものでもありません。
 
先ほども記載しましたように、これはオリジナルの物語ですから、当然、映画を見なければ話がわかるはずもないわけです。ですが、そうした中にあっても、キャラクターの有り様を変えないようにする努力はしっかりなされていたのではないのかと思うのです。
 
今では爆発の煙などもCG加工によって誰でも同じような煙が出せる・・・いえ、どの作品でもと言いなおした方が良いのかもしれません。しかし、本作品の時代ではそうしたエフェクトも技術として描けなければいけないわけです。
だからこそ、味わいがあるといえるのでしょう。そして、そうした技術がより貪欲に、本物がどうなっており、それを自身の手で表現するには…という気持ちにさせていたのではないのか、と思うわけです。
 
昔のアニメだから、今の作品と比べて…と思われる方は一度見ていただきたいと思う作品です。個人的には、今のレトルト感のあるアニメの作り方しか知らない若い人に、手作りの妙技を見てほしいのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「手作り」と言う事で一つ。
 
現在、セルアニメというのは、見られなくなってきました。人件費的にも、材料費的にも確かにその方が効率的であるとは思います。そして、企業である以上、利益を求めるのは当然でしょう。
 
しかし、それに対して、技術を求め続けていく姿勢はあって当然ではないのかとも思うわけです。
これは今の技術全般に言える話なのかもしれません。
 
とある放送の中に、様々な商品が出来るまで、というものがあります。その中では、商品が出来上がっていく工程を見せてくれるのですが、確かにその大半は機械がその役割を担っています。しかし、中にはどうしても機械では出来ない物もしくは工程があるわけです。
そうした中には、職人と呼ばれる方々の技術が、その商品を残していくのだと見せつけてくれるものもあるわけです。
 
こういう話があります。
スイスの時計職人といえば、現在では国がバックアップし、時計職人を育成しその技術を残していこうとしています。ですが、そうした背景には日本のデジタル時計(クォーツ時計)の台頭があったからなのだそうです。
 
安価で大量生産が可能なお手軽な時計。確かに、そうした時計もあっていいのだと思います。しかし、逆にいえば、せっかくこれまで培ってきた時計の技術が廃れてしまう可能性もあるという事になるわけです。
 
日本を見まわしてみれば一目瞭然。すでに廃れてしまい、文献からの復活を模索している技術もあるぐらいなのです。
 
日本のそうした技術は、日本の中でよりよく精査され研鑽されてきた歴史があるわけです。そうした歴史をうまく使い継承するためには、やはり国のバックアップは必要なのでしょう。
 
大企業ばかりに使われる公的資金。将来的に見て本当にそれが日本を潤す結果になるのかどうか。
それは成人年齢云々だけではなく、社会的に見せかけの学歴ばかりにとらわれてるままで良いのかを問われることになるのではないのかと思うばかりなのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月24日

命の意味と有様【「鋼の錬金術師 FULLMEATL ALCHEMIST 特典映像「盲目の錬金術師」(2009年 鋼の錬金術師製作委員会)】

 さて、今回は2009年に発売されました鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST Blu-rayとDVD 第1巻映像特典の「盲目の錬金術師」です。



 鋼の錬金術師ことエドワード・エルリックとその弟のアルフォンス・エルリックは、旅の途中でとある屋敷に寄った。その屋敷にかかえられている錬金術師の噂を耳にしたからだ。
 
その家…ハンベルガング家に仕える錬金術師、ジュドウが、禁断とされている人体錬成を成功させたというのだ。
 
大きな門、その内側にハンベルガング家の屋敷はある。大きな門を二人の警備員が開門し、エド達を中に入れると再び閉めた。中庭を進んでいく。エドはその短い間に、何か敵意を感じていた。門番に庭師…何をしたのか、皆目検討もつかないが、忌み嫌われている様子であるのは理解できた。
 
気がつくと、屋敷の方から、この屋敷の主であろう奥方と、その横に執事に手をひかれた錬金術師がやってきた。彼こそ、ジュドウであり、噂の錬金術師であったのだ。
 
エドは挨拶もそこそこに話題を切り出した。人体錬成…その言葉に奥方とジュドウは驚きの表情を見せる。一緒にやってきた娘のロザリーをその場から離そうとするが、しかし、ロザリーはアルが気に入った様子。
結局、アルはロザリーと一緒に遊び、エドはジュドウと奥方と一緒に池の中央にある東屋へ向かった。
 
東屋でエドは噂ではなく、きっぱりと自分の言葉で質問した。人体錬成は成功したのかと。すると、ジュドウと奥方は笑って応える。エドは既にその成果を見ているのだと…。そう、ロザリーこそ、ジュドウが人体錬成した結果であるというのだ。
 
アルと遊んでいたロザリーは、アルの兜が外れ、中身がカラッポであるのを知る。しかし、その事にあまり驚きを見せないロザリーはアルをどこかに連れていこうとする。
そこには、ロザリーの秘密があるのだと言うのだが…。
 
 
 
 鋼の錬金術師 パーフェクトガイドブックという冊子に外伝という形で漫画掲載されたものを特典映像化したもので、内容的にはほぼ忠実に再現されています。
 
15分ほどの作品ですが、もう少し長めにして、TV用にしたとしても十分に話をして使えるように出来ています。と言いましても、今現在進んでいる個所に入れようもないんですけどね。1クール目中盤の辺りであれば、十分にインパクトのある一話として活用できた。それぐらいいに十分な出来であると言う事です。
 
この回では敵が出てくるわけでもなく、軍に関係するわけでもなく。あくまで身体を取り戻そうとしている兄弟の旅路、その物語の一つという描き方がされているわけですけど、これも鋼の錬金術師では有り得た作風であるのは間違いなく、思い出せば第一話、リオールの街は、まさにその様子に近しいものであったと思う訳です。
 
物語も最終に向かうにつれ、どうしても善悪の形骸化が起こり…といっても、その方が伝わりやすいわけですけど、アクション面が強くなってきた状況にあって、こうした物語が特典映像としてもアニメ化された事は個人的に嬉しいのです。
 
今、原作では最終話に向かい、アニメもそれに準拠する様子で進んでいるわけですが、その終わり方が同一であれアニメオリジナルで終わることになるとしても、敵を倒してハイ終わり…はやめて欲しいものだと思うわけです。
 
賢者の石が命であるとするのであれば、禁忌と真理は何を指すのか。その答えとは言わなくても、何か何処かを指し示し、訴えて欲しいのだと思うのです。
…決して万事めでたしでは終われるとは思いませんしね、この物語は。でも、何がめでたしなのかも、わからないのも事実。
 
完全調和ではないからこそ物語だと思うのですし、それが面白いのだと思うのですけどね。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「命」と言う事で一つ。
 
鋼の錬金術師では、複数の生きた人の命を使って賢者の石を錬成します。その命という対価を支払う事で等価交換の原則を無視したかのような錬成が出来るわけですけど、それは命の等価交換という価値からすれば、十分に価値のある結果という話なのでしょう。
 
人が死ぬと、約2グラムほど軽くなるのだそうです。これが、魂の重さなのだといわれるのですが、これは死ぬと人は魂が抜けると言われているからなのでしょう。
 
霊感があるという人が稀にいます。意外に身の回りでも、強弱はあるものの、気配を感じる、目に見えるという人がいるはずです。霊気というのは、命でも魂でもないそうです。
 
人や動物だけではなく、植物にも生体エネルギーというのがあるそうで、それをオーラと言うのだそうです。…
 
 
…と話して行きますときりがありません。霊気、魂、精気、命…カタカナ語も含めれば、もっと多くの言葉が出てくる事でしょう。
 
人は人…いえ、物質が成長していく過程を厳密に理解しているわけではなく、結果としてそのように成長していくのだと理解しているに過ぎないのです。その過程で栄養が必要で運動が必要で太陽が必要で酸素が必要で…しかし、同じようにたんぱく質などを組み込んだとして、その生命足り得るのかといえば、それは出来ない事なのだそうです。
 
簡単に言えば、人は人以外から人を作り上げるのは無理と言う事です。
 
その原因は命そのものにあると言われています。
命…言葉では知っているものの、それが何であるのかは理解できない。もし、こうした文章を打つ、運動をする、物を見る、話しをする、食事をとる、排泄をする…そのほかも含めた諸々が脳内の化学反応で説明できるのであれば、人は人を介さずに人を作り上げる事が出来る様になるのでしょう。
 
精子も卵子もいりません。化学物質だけで人足り得る何かを作り上げるのですから。
 
ただ、それが人であるのかどうかはわかりません。人という定義への問題にもなるのでしょう。何より、今の人類がそれを人として認めるのかも疑問です。
 
 
命とは何か。一つの答えとしてあるのは、生まれ生き、そして死ぬものである。それが命であると厳密に言えるのです。
 
宗教が生まれる以前より、それは厳格に遂行されていた事柄であり人の何たるかの根本である、まさに命題のようなものなのです。
今一度、命とは何かを、宗教や経済などから離れ考えてみるべきではないのかと思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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