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2009年10月31日

手作りの大切さ【「劇場版クラッシャージョウ」(1983年 日本サンライズ)】

 さて、今回は1983年に公開されました「劇場版クラッシャージョウ」です。



 誰かから強襲されるトラック。しかし、そのトラックにも武装が施されており、高速カーチェイスの中で生死を分ける戦いが繰り広げられていた。何とか倉庫の中に逃げ込めたトラック。しかし、荷物をそれ以上運ぶことは出来そうにない。
荷物はトラックにある秘密の隠し扉の奥に隠されていた。
 
その荷物は人間であった。
 
恒星間飛行を開発した人類が、その先に求めた停留地…つまり惑星を地球環境に似た状態にするテラフォーミング。それを担っていた者たちは、後に犯罪以外の事柄であれば報酬によって請け負う仕事を始めた。
惑星開発の名残から彼らはクラッシャーと呼ばれる。
 
クラッシャーの地位向上のために遁走している名の知れた元クラッシャー・ダンには同じクラッシャー家業を営む息子がいた。その名をジョウという。
若いながらも名の知れた活躍を見せるジョウではあったが、しかし、クラッシャー評議会議長の父・ダンからは認めてもらえていないと思い、反感を募らせていた。
 
そんなジョウは、名門スコーラン家の執事からある依頼を受ける。それは荷物の宅配であった。
しかし、ミッコラへ向かう途中でジョウたちの宇宙船は操縦不能に陥ってしまう。その後、海賊の容疑をかけられクラッシャーの資格を停止されたジョウは、姿を消した執事が宇宙海賊の一員と知り、無法者が集う惑星ラゴールに乗り込むのだった。
 
 
 
 劇場版アニメとして登場したクラッシャージョウ。1977年に最初の小説が文庫本として発売され、それから数年後に映画化されました。今のようなライトノベル化された何かの話の映画化ではなく、完全オリジナルの物語となっています。
後に、この映画を題材にした小説が発売されたのです。
 
本作の表紙や挿絵、キャラクターデザインなどでも知られる安彦良和さんの初監督作品で、しかも本作品が公開された年というのは、アニメ映画も大作が目白押しでもあったのです。
 
中でも、宇宙戦艦ヤマト 完結編、幻魔大戦は上映時期が重なり、興業戦争なんて言われたのだとか。
 
それぞれに有名な作品でありましたし、また、放映時間も現在と比べれば長かったので、はしごするには結構体力が必要であったはずです。
後にビデオ発売されるとしても、それも長い期間が必要でしたし、何よりその当時のビデオの値段は、高かったですからw とても、簡単に買えるものでもありません。
 
先ほども記載しましたように、これはオリジナルの物語ですから、当然、映画を見なければ話がわかるはずもないわけです。ですが、そうした中にあっても、キャラクターの有り様を変えないようにする努力はしっかりなされていたのではないのかと思うのです。
 
今では爆発の煙などもCG加工によって誰でも同じような煙が出せる・・・いえ、どの作品でもと言いなおした方が良いのかもしれません。しかし、本作品の時代ではそうしたエフェクトも技術として描けなければいけないわけです。
だからこそ、味わいがあるといえるのでしょう。そして、そうした技術がより貪欲に、本物がどうなっており、それを自身の手で表現するには…という気持ちにさせていたのではないのか、と思うわけです。
 
昔のアニメだから、今の作品と比べて…と思われる方は一度見ていただきたいと思う作品です。個人的には、今のレトルト感のあるアニメの作り方しか知らない若い人に、手作りの妙技を見てほしいのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「手作り」と言う事で一つ。
 
現在、セルアニメというのは、見られなくなってきました。人件費的にも、材料費的にも確かにその方が効率的であるとは思います。そして、企業である以上、利益を求めるのは当然でしょう。
 
しかし、それに対して、技術を求め続けていく姿勢はあって当然ではないのかとも思うわけです。
これは今の技術全般に言える話なのかもしれません。
 
とある放送の中に、様々な商品が出来るまで、というものがあります。その中では、商品が出来上がっていく工程を見せてくれるのですが、確かにその大半は機械がその役割を担っています。しかし、中にはどうしても機械では出来ない物もしくは工程があるわけです。
そうした中には、職人と呼ばれる方々の技術が、その商品を残していくのだと見せつけてくれるものもあるわけです。
 
こういう話があります。
スイスの時計職人といえば、現在では国がバックアップし、時計職人を育成しその技術を残していこうとしています。ですが、そうした背景には日本のデジタル時計(クォーツ時計)の台頭があったからなのだそうです。
 
安価で大量生産が可能なお手軽な時計。確かに、そうした時計もあっていいのだと思います。しかし、逆にいえば、せっかくこれまで培ってきた時計の技術が廃れてしまう可能性もあるという事になるわけです。
 
日本を見まわしてみれば一目瞭然。すでに廃れてしまい、文献からの復活を模索している技術もあるぐらいなのです。
 
日本のそうした技術は、日本の中でよりよく精査され研鑽されてきた歴史があるわけです。そうした歴史をうまく使い継承するためには、やはり国のバックアップは必要なのでしょう。
 
大企業ばかりに使われる公的資金。将来的に見て本当にそれが日本を潤す結果になるのかどうか。
それは成人年齢云々だけではなく、社会的に見せかけの学歴ばかりにとらわれてるままで良いのかを問われることになるのではないのかと思うばかりなのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年07月18日

やっぱり作品を楽しむには見るのが一番!【「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」(2007年 クロックワークス/カラー)】

 さて、今回は2007年に公開されました「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」です。

 赤い海。整備された海岸線の公道。そこに並ぶ、戦車の列。蝉の声、鳥の声。そして、赤い海に水柱が立つ。
 
人類がセカンドインパクトという災害に見舞われてから後、その原因とされた使徒の攻撃は終わっていなかった。それを迎撃するために総力戦が繰り広げられるも、まったく相手にもされていない。
 
そうした使徒に対抗するために、戦闘都市が建設された。第三新東京。
 
そこに一人の少年が呼ばれる。その名を碇シンジ。彼を呼んだのは長年離れて暮らしていた父、ゲンドウであった。
彼が新しい生活をしようとしたその時に、新たな使徒が攻めてきたのだった。
 
待ち合わせの連絡をすることもできず、シンジは使徒と自衛隊との戦火に巻き込まれていく。
 
そこに登場したのは、彼と待ち合わせをしていた女性、葛城ミサトであった。彼女はシンジの父が司令を務めるNERV所属である。
 
人の使える最大火力をもってしても倒すことのできない使徒に対して、国はNERVにその権限を委譲する。その切り札となるのが、エヴァンゲリオンであった。
 
しかし、日本におけるエヴァンゲリオンの操縦者は足りておらず、その搭乗者が怪我をしたとしても、使徒が現れれば戦うしかないのが現状であった。
そうした、パイロット候補として呼ばれたのが、シンジであったのだ。
 
久しぶりに会った父が言う。乗れと。乗って使徒と戦えと。やらないのならば、帰れと。
 
憤るシンジの前に、現れた…いや、連れてこられたパイロットは、体中を怪我していた少女であった。
その姿を目の当たりにしたシンジは、乗る事を決意するのであった。
 
 
 
 よく、「ガンダムを超えるロボットアニメは登場するのか」などと言われるわけですが、その質問はある意味、ナンセンスであると言うしかありません。理由としては、条件が大きく異なるからです。
機動戦士ガンダムが放送されたのは1970年代。今は21世紀ですから、情勢も情報も全てが変わっています。その違う土台で比べると言う事は、長距離走ランナーと短距離走ランナーに障害物競走をやらせてどちらが早いのかを競わせているようなものです。
 
同じ様にエヴァンゲリオンがTV放映されて後、「エヴァっぽい」という指摘が様々な作品で成される様になりました。それが、エヴァンゲリオンよりも前の作品であったとしてもです。
 
こうした作品が近年に出たと言うのはアニメ界にとっても僥倖であると思うべきでしょうが、先ほども記載しました通り、それ以降は比べられる可能性が高くなるという事になったわけです。
 
これは仕方がない話かもしれません。機動戦士ガンダム以降、様々な分野でガンダムが、はかりの分銅のような役割を押し付けられた様に、エヴァンゲリオンという作品も同じ様な状況になってしまった。それは人気作品の宿命と言えるのかもしれません。
他にもそうした作品は沢山世に出まわっているわけですからね。個人的な好みであれば、そんな作品だらけと言えるのかもしれません。
 
そんなエヴァンゲリオンですが、流石にもう新作はないだろう…続編もやったとしたら大コケするのではないかと言われていた中に、新劇場版として公開する話が出てきました。
案の定、感想は真っ二つに別れました。
 
期待するか、遠慮するか。
 
期待しないではなく、遠慮…もうお腹一杯だよ、と少しせせら笑うかのような状況と言った方が良いのかもしれません。
そうした中、いよいよ公開となったわけですが、蓋を開けてみれば、流石はエヴァンゲリオンもしくは庵野総監督、もしくは、摩砂雪監督、鶴巻監督、もしくはスタジオカラー初作品…全てひっくるめてやはり、流石はエヴァンゲリオンと言えるのでしょう。その動員数は凄まじいものでした。
 
内容はTV放映もされましたし、今更記載する事もないのでしょうが、しかし、一つだけ大きく変化したなぁと感じた部分がありました。それはキャラクターの心情です。
 
TV版ではある意味、明確に色分けされていた各キャラクターでしたが、それがそれぞれの色を混ぜ合わさない様に必死になっている印象がありました。
それは、ATフィールドという、エヴァンゲリオンの設定が、深く関与していたせいなのかもしれません。ですが、そのために、ドラマと言う部分ではちぐはぐに絡み合う人物ばかりになり、結果、そのちぐはぐした部分をエヴァンゲリオンの登場によってリセットする。そんな印象を受けたわけです。
 
今回の劇場版ではそうした事よりも、より人同士の絡み合いが基本にある事を示してくれている。これはエヴァンゲリオンの活躍を…言ってしまえば、昔のスーパーロボット作品のような展開からの脱却に見えたわけです。
 
あくまで「人」がその業によって「人」をどうするのか。その系列の話では頂点に君臨している作品なのですから、よりそうしたエグい部分をオブラートに包んだ状態で表現しようとしているのだなぁ…そんな感じにも見えました。
オブラートですからね、簡単に向こうが見えてしまうというほどの薄いものです。それは、アニメというカートゥーンキャラを使った壮大な人間ドラマであると言えなくもありません。
 
…が、それもこれも、続く公開の内容によりけりなのでしょう。これ単体だけの評価が良し悪しではなく、ヱヴァンゲリヲン新劇場版がどうであったのかを記載するためには、まだまだ、先にある作品まで見る必要があるのは言うまでもありません。
 
個人的に、同じ徹を踏む事ないように…とは思っていますけどね。
 
ちなみに、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」におきまして、使徒のデザインが変わっていたのですが、第六の使徒…テレビではラミエルと呼称していたあの使徒。カッコイイですね。あれは今でなければ出来ない表現だなぁと思い感心しました。
同時に、サキエルの顔が他の使徒にもついていて、可愛く見えてしまうのは…作品としてのギャップを狙っているんでしょうかね?
 
だって、本当は怖い存在ですものね、使徒って。いやはや、こうした事からも思う事は、この作品に、やっぱり引きこまれているんだなぁ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「代表作」と言う事で一つ。
 
エヴァンゲリオンは庵野総監督や貞本義行氏の代表作となったわけですが、その代表作。何かにつけ基準という意味での使われ方がされているのではないのかと思えてなりません。
 
その作品に携わった人を語るのに、大抵の方へ伝わる作品は何か、もしくはすぐに見やすい作品は何か、それが代表作のはずです。
 
所が、その代表作というのが人…もっと言えば携わった人ではなく、カテゴリー分けされた中での話となりますと、これは意味合いが違ってきます。それは標準作品となってしまうからです。
 
ある意味、こうした事がエヴァンゲリオンもそうですが、ガンダムにおける「△□はダメ!」という事を指摘する話になっていく原因を作っている…全てとは言いませんが、その一つではないのでしょうか。
 
リアルタイムで見れた作品に衝撃を受ける。これは確かにその通りでしょう。しかし、だからと言ってそれがその作者の代表作品である…とは限りません。むしろ、代表作というのは、その方が作品を作らなくなった上で決めるべきものではないのかと思うわけです。
 
では、どうすればいいのか。それは簡単な話です。オススメ作品とすれば良いだけなのです。
 
感性というのは個々によって異なります。しかし、その異なる感性が多く共感した作品であれば、オススメするのは簡単な事でしょう。ただ、ススメられた人が同じ感性を…いえ、近しい感性を持っているのかは、開けてみなければわからないものです。
 
そう考えれば、まず作品を見る事が必要になってくる。そうは思いませんか。
 
ブログやサイト、こうしたポータルサイトによってレビュー記事が多く出てきているわけですが、それはそれ、あくまで参考程度にするぐらいでやはり自分の目で耳で確かめる。作品を嗜み、親しむためには、時間という浪費が必要になってくるわけです。
それが多くなればなるほど、大変なのでしょうが、昨今の情勢。更にせわしなくなってくる日本を見ていると、それぐらいの余裕があっても良いのではないのか。そんな風に思えてくるわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年03月15日

頑張って作っているのは…【「ファイブスター物語」(1989年 永野護/角川春樹/角川書店)】

 さて、今回は1989年に公開されました「ファイブスター物語」です。



 クラウン大銀河に存在する4つの恒星系…イースター、ウェスタ、サザンド、ノウズと長大軌道を持つスタント遊星により構成されるジョーカー太陽星団。星団には極めて発達しつつも緩やかに衰退を始めている文明が存在している。
4つの太陽系の幾つかの惑星に居住している人類は、無数の国家を形成し、国家は互いに勢力拡大を争っていた。
 
惑星デルタ・ベルンの統治者、「光の神」天照帝は、その日、妻であったリトラーとの話である場所へ向かう事を決めた。
 
星団歴2986年。
第1太陽系第2惑星アドラー西方トラン自治区。大規模な惑星改造により数千年前より人が住み始めた、歴史のある惑星である。そこに、一機のモーターヘッド(MH)が落下してくる場面から物語は始まる。
そして、そのMHを操縦して来たのは、レディオス・ソープというMH技師=マイスターであった。
 
砂漠の真ん中で往生しているソープを見つけた一台のキャリア、それは評議会よりある任務を託された騎士=ヘッドライナーであるボード・ヴュラードの物であった。
ソープを乗せたドーリーは奇しくも同じ方向を目指していた。ソープは古き友人にあるため、そして、ヴュラードはファティマのお披露目を見届けるため。
 
ファティマ。それは人の姿をしている人ならざるもの。MHを駆るヘッドライナーのために存在する生体コンピューター。
星団全てのヘッドライナーにとって、それはMHと共に自身を騎士たらしめている存在であった。だが、騎士に対して絶対的に服従を誓うファティマにも、一つだけ許されている事があった。それは自身が仕えるヘッドライナーを自身で決める事が出来るというものであった。
 
ファティマは騎士に惚れるわけではない。騎士の力に身をゆだねる。それを愛情と間違ってはいけない。それだけの美貌と献身さを兼ね備えているファティマが魔性のように言われる所以でもあった。
 
ファティマは人と同じ様に生まれるわけではない。マイトと呼ばれる設計者によって作り出される。ソープが会いに行った古き友人は、そのファティママイトである、狂気の科学者、クローム・バランシェであった。
 
そのバランシェがソープに言う。彼女らを守ってくれと。
 
今回、お披露目が行われる自治区の大公ユーバーには、黒い噂が絶えないからだ。だがしかし、バランシェはソープにある秘密を暴露する。それが守って欲しいという最大の理由であったからだ。
 
ファティマには、マインドコントロールを施される。それは人よりも長生きをし、その演算能力、そして身体能力を恐れる故に人が施した鎖のようなものであった。
明らかに人類よりも上位に位置するファティマを配下に置くには、絶対的な精神的支配が必要であったからだ。だが、バランシェはそれを疑問視していた。だからこそ、アトロポス、クローソー、そしてラキシスにはマインドコントロールをさせていないというのだ。
 
それは星団法を無視した重罪であった。だからこそ、ソープに守って欲しい。クローソーをしかるべき騎士に、そしてラキシスをその手に託すと…。
しかし、ソープの心は揺れていた。それは自身の心の問題でもあったからだ。
 
それから後のある日、ヴュラートにMHを見せてもらっていたソープ。そこに警報が鳴り響く。お披露目を控えていたファティマ、クローソーが脱走を図ったのだった…。
 
 
 
 1989年…今から20年も昔に公開されましたファイブスター物語 劇場版のご紹介です。上記はかなり割愛されていますので、ご了承のほどを。
 
原作は月刊ニュータイプというアニメ雑誌に掲載されている(現在進行形)同タイトルの漫画です。原作者である永野氏が忙しいので、休載を挟んでの長期掲載になっており、その関係でこれほどまでに長期作品となっているといえるわけです。
 
劇場版は、その第一巻をまとめた作品となっております。
デルタ・ベルンの天照が、自身のファティマであり最愛の人となるラキシスとしっかり手を取り合うラブストーリーなのです。
 
そう、これを決してロボット物と呼称してはなりません。あくまで絵本。そして神話でありSFではなくファンタジーであるのです。その劇場版アニメ化であるのです。
ですので、この第一巻の物語はこれから始まるラブストーリーの始まりを描いたものとしても何も問題はないのです。
 
ファイブスター物語は言ってしまえば、剣や魔法の物語となんら変わりがありません。言い換えるとすれば、全てのロボット物がそうであると言ってもおかしくはないのです。特にスーパーロボットと呼称されるのは当然なのですが、リアルロボットと呼称されるものであったとしても、とても近代兵器に並ぶものではありません。
 
正直、兵器としては不完全なものばかりなのです。
 
とすれば、これらは魔法世界で言う所の土人形(ゴーレム)と何ら変わりがないという事になります。昔ありましたロードス島の青銅の巨人がMHであるとしても無理な話ではありません。そこに立ち向かう勇者が騎士であったとしても不思議はないのです。
生身では敵わないから、魔法の防具に剣。それが相対するMH。そしてその手助けをしてくれる魔法使い=ファティマ。
 
確かにファンタジーです。
 
となれば、バスター砲は禁忌の魔法という事になるのでしょうか。その土地を壊滅にしてしまうほどの威力という事は、メテオフォールぐらいの強力魔法と言う話になるのかもしれません。
 
そのファンタジーをこうしたアニメ化するというのは、かなりの苦労があったのではないのかと思います。
今でも、これだけの作りをして営業するという企業がどれだけあるのか、正直疑問です。ポケモンやケロロ軍曹など、確かに劇場版で活躍しているアニメは数多くありますが、それでも定番を脱出できないのは今の時代仕方がない話なのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「アニメ」と言う事で一つ。
 
昨今におけるアニメ事情というのは、決して良い方向に向かっているとは思えません。確かに、海外における評価はありますし、何より声優アワードを開催したり、世界コスプレサミットなどでも、ジャパニメーションはその地位を確立しているわけです。
 
…が、それだけです。
 
例えば、映画においては俳優だけではなく、監督や監修にスポットを当てられる事は当然の如くあるわけです。漫画・小説にしてもそうです。作者にスポットが当てられるというのは当然の話です。
 
ですが、最近のアニメに関しては声優にスポットが当てられているだけで、監督や作画に動画、音楽といった分類には目が向かれにくい状況になっています。
以前にも記載しましたが、アニメは声優があってのアニメではありません。声優もあってのアニメです。一部だけにスポットが当てられ、それでアニメ自体の得になっていくのでしょうか。
 
アニメ…動画作品と呼称しても良いのでしょうが、こうした作品を作り上げるのは、技術者・芸術家の仕事と変わりがありません。
作品となってみてもらうこと。それは第一であるべき事です。問題は、そうした事が行われつつも、それを作り上げた人にスポットを当てられない原因は何だろうという事なのです。
 
プログラマーと違い、一人で全てを行うには無理がある世界であるからこそ、一人の英雄を作りにくいのでしょうか。それとも、最近の何を見ても同じ様な映像しかない事に問題があるのでしょうか。
 
個性は特徴であり、歪みから来る味わいです。原画があったとしても、それをどう料理するのかはそれぞれの認識にかかっています。
同じ花を見て、それを華と感じるのか、鼻と感じたのかは、それぞれの個性ですし、それを絵として表現するにあたり、花に戻すかそうではないのかも、個性です。
 
絵を描くにあたり、原作と異なる設定と異なると吠える視聴者に問題があるのでしょうか。それとも、それをそうであると納得させられない作家陣に問題があるのでしょうか。
 
私自身はそれよりも何よりも、今の放送形態そのものに問題があるのだと思うのです。
売れる物を作ること、その認識の違いがこうした問題の根底にあるような気がしてならないのです。
 
売れる作品とは何でしょうか。今のライトノベルや漫画で売上げが上がっている作品をアニメ用にオリジナル設定にすること。原作の人気があるのだから、それに便乗でして売上げを上げればいい…アニメである意味はあるのでしょうか?
ハリウッドもそうですが、原作におんぶに抱っこの姿勢で本当に良作が作れるとは思えません。事業である以上、確かに売れる事が前提であるのは当然の話ですが、守りに入った状況で、何が創作できるというのでしょうか。
 
もう一つ、製作している方々がもっと、前に出てきて作品の説明をしても良いのではないのかと私は思うのです。それが出来ない理由は何なのでしょう。
 
才能が足りない人が足りない…そうした結論はあるのでしょうが、それを補える組織が現状でもあるはずです。広告代理店などは、そう動いてみるのも一つの手ではないのでしょうか。
映画やドラマでの世間に対する売り込みをアニメでもやってみる事に何の問題があるのでしょうか。それを踏まえて時間を作るのも手段の一つであると思うのですけどね。
 
声優がこれだけ前に出てきているのですから、製作者側も持っと世間に出るべきなのです。それこそ、声優アワードと同じ様なものを作り称えるのは当然の話ではないのでしょうか。
一部分の誉れだけで良しとしている。現状のアニメ業界はそのように見えて仕方がないのですけどねぇ。
 
他にも素人目にでも見えている「このままで良いのかナァ?」という事は他にもありますが、それはまた後の機会にて。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年11月01日

パソコンの中にある魔法世界【「ハウルの動く城」(2004年 「ハウルの動く城」製作委員会)】

 最近ではパソコンを介してですけど、魔法が使えるようになってきた…かもしれません。



 さて、今回は2004年に公開されました「ハウルの動く城」です。



 この作品の原作は、イギリスのファンタジー作家、ダイアナ・ウィン・ジョーンズさんの作品「魔法使いハウルと火の悪魔」を少し変更したものです。アニメ用に焼き直したものとして、この作品はあり、その事については作家自らが絶賛しているとの話です。
 
スタジオジブリといえば、世界でも有名なアニメ制作会社です。その作品と言えば、原作がないものが圧倒的でありまして、この作品も実に15年ぶりの原作付きであるそうなのです。
 
この作品における一番の謎は、魔法そのものでしょう。
 
一つの技術として確立している割には、その描写がそれほど多くはありません。ですが、それが使われた影響を見る事はしっかり出来るわけです。魔法を使っているというよりも、魔法を仕込んでいた道具を使っているとした方がしっくり来るのかもしれません。
 
そうした中で、荒地の魔女がソフィーにかけたという呪いも、どうしたものであるのかという明確な理由は話されていません。
 
ソフィーにかけられた呪い(魔法)は、老婆になってしまうというものでした。ですが、その作中においては、ソフィーの年齢が戻っていく描写が度々見られます。それもソフィーの心境と同調するかのように。
元々、ソフィーは人にどう見られるのか、どう接して良いのかがわからない少女であったのではないのかと思うわけです。そのために、自分と言うものの中に入り込んでしまった。自分はこうであると意固地になってしまった。それは少なくとも少女の心ではないと思うわけです。
 
呪いを受けた後のソフィーは、老婆でいる事に安らぎをも感じているようです。それは一種の変身願望のようなものであったのかもしれません。
 
ですが、それはやはり本心ではなかったと言う事が、映画の最後の方ではありありと出ています。老婆に戻る事がなかったのです。と言っても、それが呪いを解いたという事でもないのかもしれません。
ハウルと恋人になったのでしょうけど、きっと、喧嘩するたびに親(というより祖母)のような気持ちで怒るのかもしれません。そうしたら、あの姿に戻ってしまう…かもしれませんね。
 
一方のハウルもソフィーと似た存在であったと言えます。自分の見た目を気にし、臆病である自分を隠していた。偽名を多く使うのもその現われではないのでしょうか。
自分の正体は自分だけが知っていれば良い。その力も自分のためにあれば良い。人との関わりを煩わしく思い、それでも人と関わって生きていかなければならない。
 
彼にとって、「美女の心臓を食う」という批判でさえ、もしかすれば煩わしく同時に嬉しく思っていたのかもしれません。
 
 
思うに、この作品は人との係わり合いがテーマであるように思えてならないわけです。どれだけ大勢の登場人物がいようとも、人との係わり合いよりも別のことをテーマにする作品は多く存在します。
しかし、ファンタジー作品でありながらも、ファンタジー要素よりも、人との係わり合い…日常的な物語であった事が、例えばそれまでのジブリ作品を見ていた方でアクション性を求めている方には物足りなかったのではないのでしょうか。
 
互いに同じように自分を偽っていたハウルとソフィー。だからこそ、信頼以上の愛情、掛け値なしの友情が物語をまとめてくれたのではないのかと思うわけです。
そんな事あるわけないじゃない…と思っているのなら、それは彼らと同じ呪いにかかっているのかもしれませんね。



 魔法…あったら楽しい半分、大変半分という感じでしょうか。ゲームなどではそういうのが体験できるわけですが、3Dと言っても、それはあくまで画面の中での話。実際に自分がその画面に入り込んで実体験できるという所までは、流石に実現できていないのが現状です。
 
しかし、もしかしたらそれが画面の中…かもしれませんけど、色々な器具を使って仮想体験できるかもしれない。そんな妄想に取り付かれそうな技術が実現しました。
 
ARToolKitがそれです。
 
実際に、これはもうかなり前に発表されていて、ニコニコ動画ではそれを利用した作品が多く出ているわけです。で、これはあくまでパソコン画面ないにおいて、カメラで撮影された映像を表示しに、そこにあるマークに反応して、それに関連した映像をインポーズするわけです。動きのある画像もインポーズできるのですから優れものです。
 
ニコニコ動画ではリリカルなのはに登場するベルカ式の魔方陣が展開する様子などの動画がアップされている状況となっているのですが、これをどうにかしてゲームとして実現できないものかなぁと思ってしまうわけです。
 
例えば、プレイする人は小部屋に入って、そこでゴーグルを装着する。そのゴーグルは半透明になっており、壁面にある画面と、自分の手に持つカード、そしてゴーグルに映る画像が同時に見られるようになっている。部屋の中には、机が置いてあり、その机にカードを出す事によって出て来る敵や対戦プレイヤーと戦う事ができる。
 
一番の話題は、そのカード。机の上に出す事によって、マーク上にアイテムや召喚されたモンスターが出てくる。それがプレイヤーの指示通りに戦うという…感じのものです。
 
カードバトルの雰囲気と言う感じでしょうか。今、ゲームセンターにおいているカードを利用した業務用ゲームの一つと言っても問題ありません。
 
机があり、そこにカードを置くシステムというのは、不正を防ぐためです。要するに自前のカードでズルをしようとさせないためと言った方がいいのかも。少し雰囲気は違いますけど、業務用ゲームでこうしたゲームの中に入れるシステムを作ることが出来れば、ポケモントレーナーにだってなれるかもしれません。
 
開発にどれぐらいかかるのか…それは考えたくありませんけど、ユーザーの勝手な妄想と願望として、どこかで基本となる筐体を作ってもらえないものかなぁと思ったりするのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年10月11日

人を見たら…と思え【「劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」(2005年 劇場版「鋼の錬金術師」製作委員会)】

 騙される人が悪い…いいえ、騙す方が悪いに決まっています。ただ、私たちにも注意が必要なのは当然なのですけどね。



 さて、今回は2005年に公開されました「劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」です。



 先週の続きと言う事になります、劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者。これはTVで放送されました最終回の続編…ではなく、完結編と位置付くものです。
 
 
エドワード・エルリックがいるのは、1923年ワイマール共和国ミュンヘン。
第一次世界大戦末期のその時代、それでも人々はその日の糧を求め生活をしている。何事も変わりなく、ただ戦争という非日常的な状況が、人々の心を荒廃させたのは事実であったらしい。その戦争も終結し、しかし、ドイツ帝国にとって屈辱的なヴェルサイユ条約締結後、国の名も、ドイツ共和国と帝国時代の名残を残さないようにされてしまった、そんな時代にエドはいた。
 
その世界において、錬金術はあくまで想像上の産物であり、代わりに科学が発達していた。同じ様に、この世界に住んでいる父、ホーエンハイムによって、この世界では動かす事ができない機械鎧からこの世界に即した義肢を付けていた。
 
この世界に骨をうずめる覚悟をしているホーエンハイムとは異なり、エドは自分の世界に帰ろうと様々な人物や文献を探している。
錬金術が命を利用するというのであれば、それを使わない方法で扉を開けようとしていた。
 
この世界でエドはルームメイトと暮らしている。アルフォンス・ハイデリヒ。名も顔も、エドが記憶する弟にそっくりのアーリア人である。アルフォンスはエドの話す異世界の話をエドの創作であると思いこんでいるらしい。
だが、その情熱は認めている。何故なら、自分にも情熱を注ぎ込んでいる事があるからだ。
 
ロケット。それも有人飛行が可能な高速で空を飛べる機械。それの完成が病に犯され先の短い自分の生きた証…それを信じて仲間と共に情熱を注いでいた。
 
だがしかし、その情熱すらも自分の欲求のために使おうをしている者たちがいる。
 
それは、伝説にあるシャンバラに向かい、その奇跡なる力で世界をその手に収めようとしている者たち。そして、エドは知る。そのシャンバラこそ、エドの知る自分の世界であり、奇跡なる力こそ錬金術であると。
 
自分の世界に帰る事と自分のいた世界を守る事。その相反する葛藤の中でエドは一つの選択を決める事になる…。
 
 
エドたちがエドたちの世界で使っている錬金術。それが映画でのエドのいる場所、もうひとつの世界で失われた命がその原動力であるという事に驚愕するばかりです。
ですが、これは原作にも通用する話で、原作におけるアメストリアの錬金術は、ホムンクルスたちが言う所の「父」によって制御されている節があります(実際にそのような描写がありました)。つまり、命を媒介にしている状況に代わりがないという事になります。
 
エドにとって、原作であれアニメであれ、それが命である事に違いがないのは間違いなく、これから原作ではその葛藤と向き合う事がやってくるのでしょう。
 
アニメ版では、そうした葛藤は終盤にありました。ただ、一つ問題となるのは、その錬金術を使用不可能にはしていないという事実です。要するに命の搾取は終わっていないという事になります。
 
一つにそれをすると言う事は、恐らく2~3年はアニメを続ける必要があったのかも知れません。現状であれば、それも可能なのかもしれませんが、当時におけるアニメというのは基本的に深夜枠。ガンダムなどのネームバリューでもない限りは、一年間持つことすら疑わしかったわけです。
 
しかも、原作途中のアニメ製作には、何かと人気にかげりが出やすくなるものです。
 
実際に、このアニメ版でも原作好きの中から批判される状況にありました。ただ、先週にも記載しました事を更に追記させていただきますと、原作(漫画)をそのままアニメにするのは不可能な話です。何故なら、それは漫画というフィールドにあって完成されたものであり、材料ではないからです。
 
とすれば、アニメはあくまで原作を材料にした作品なのではなく、大半、原作者が関われない、アニメ関係者責任の上での別作品と言う事になるわけです。
 
それは一つの完成品。その仕上がりの是非はすべてアニメ製作者の双肩にかかっているだけであり、原作はなんら関係はなくなるという事になるわけです。
 
私自身の原作とアニメの見解は、やはり原作が終了してからアニメ化するのが望ましい事に代わりがありません。ですが、それを個人的な良し悪しであり、だからアニメが駄作であるとはいえないわけです。
実際に、鋼の錬金術師に関しては、TVから始り、劇場版まで見て行きますと、その世界観に引きずり込まれ、話の終焉に納得いく出来になっている事でしょう。
その上で、あえて、先ほどの命の搾取の話を持ってきたのですが、さて、エドはそれから先、どのようにその事と向き合っていくつもりなのでしょう。
 
少なくとも、劇場版の終りにて生活している場所のままでは、その疑問がおざなりにされても仕方がない。むしろ、その事に悩まず、苦しまず、その目的の成果が出なかったとしても、精一杯生きて欲しいと思うのは私だけではないと思うわけなのです。




 一生懸命に生きている人もいる中で、そうした人を騙す人がいる。なんとも嘆かわしい事です。
 
ニュース記事でありましたが、東京都における振り込み詐欺が激減しているそうです。それはしかし、逮捕されているからというわけではなく、所轄の方々が銀行を回ってるからなのです。
 
問題は、いつまでもそうした事は出来ないという事でしょう。
それだけが仕事ではありませんし。そこにしかいないとわかれば、別の犯罪のきっかけになる可能性もあるのですから。
 
やはり一番は、家族や知り合い同士で気をつけあうように確認する事。自分だけは大丈夫だとは思わないことでしょう。
 
 
以前、我が家にもかかってきました。それはとある業種に関するものであったのですが、上司を名乗る人物からです。しかし、声がどうにも若い。年を経ている感じが全くしないのです。若々しく感じるというわけでもありません。
 
電話には私がでました。こちらの名前は言いません。すると、いきなり●●の△△と言います…と話を始めました。これはおかしい。少なくとも、そのように例えば、企業や部署、役職などを示すはずがないと思いまして、どちらの△△さんでしょうか、このように尋ねました。
 
すると、一瞬慌てた様子で、もう一度同じ●●の△△ですと言ったので、ですからどちらの□□の△△さんでしょうか、と尋ねたわけです。その瞬間、電話は切れました。これで確信が持てます、その電話は間違いなく詐欺の電話です。
直後、関係各所に電話を入れました。思ったとおり、同じ様な電話が別の方にもかかってきており、危うく、騙される所だったといいます。
 
 
人を疑う事は、決して気持ちいいものではありません。ですが、少なくとも自分の身分を明らかにしない相手に、新説丁寧に対応をしたとして隙を見せれるものではありません。そうした緊張は伝わるものだと思うのですけどね。
 
我が家の家族には、少なくとも、そうした電話がかかってきたとして、本当に不利になるのだとしても本人に対して直接確認が取れなければ相手にする必要はないと伝えてあります。少なくとも、自分であれば、非通知などで所在も明らかにしないままで家族に電話しませんし。
そうした状況になれば、警察から話が行く事などないのも知っていますし、電話があるときは、入院しているか死亡確認に来てくださいという時ぐらいです。少なくとも未成年でなければ、そうした事故・事件は本人と司法との関係しかありませんから。
 
家族に迷惑がかかるのは、その関係で家宅捜索がある場合ですし、令状もなくそうした行動を取ることなどありませんから
 
 
本当に身に覚えのない場合、すぐさま警察に連絡するのが良いでしょう。たとえ、それが本当に警察であったとしても、電話をするのは自由ですから。それで確認してもらえば良いんです。
それが本物であれば、電話する事に躊躇する事もないのでしょうしね。それで躊躇するようであれば…いろいろ考えると怖い話ですねぇ…。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年04月12日

いざと言う時に【「空飛ぶゆうれい船」(1969年 東映動画)】

 先日、バスの事故で、高速道路を走っていたバスに、反対側から飛んできたトラックのタイヤにぶつかったというものがありました。最初の一報では、運転手は死亡とだけ言われていましたが、その夜、その運転手の方は、タイヤが飛び込んできた際に全身強打をしながらも、バスを端に寄せつつブレーキを踏み、サイドブレーキも引き上げて停まったとの事でした。
 
しかもその運転手さんは、サイドブレーキをしっかり握ったまま、命を落されていたとの事です。
 
これほどの職業意識の高い、まさにプロを見習い、もしもの時には同じ様な事が出来るのだろうかと思ってしまうのです。



 さて、今回は1969年に公開されました「空飛ぶゆうれい船」です。

謎のゆうれい船が出てくるという海。そこでは、黒潮コンツェルンの船ばかりが襲われると言う事件が起こっていた。ある日、父親とボートで遊んでいた隼人は、海岸の道路で交通事故を発見する。その車には黒潮コンツェルンの会長夫妻が乗っていた。その婦人が骸骨を見たという。
 
隼人と父は会長夫妻を、空き家で解放する。その屋敷で隼人は夫人が見たという骸骨を見る。しかも、その骸骨は明らかに黒潮会長を敵対する言葉を残し、隼人たちの目の前で空中に消えていった。
 
後日、隼人の住む町にゆうれい船の使いだとするロボット・ゴーレムが出現。町を破壊する。応戦する防衛隊であったが、ゴーレムの破壊力になす術もなく倒されていく。その中、隼人はビルの破片が当たり重傷を負った父と共に、自宅へ戻る。しかし、その自宅はすでにゴーレムに破壊され、母親も既に亡くなっていた。
 
病院に担ぎ込まれた父であったが、母の後を追うように息を引き取る。その今際の際に、実は隼人が実の息子ではない事を告白する。
 
一方、無敵と思われたゴーレムは、自身が使いであると言ったゆうれい船と対峙していた。圧倒的な力でゴーレムを破壊するゆうれい船。その模様をテレビで見ていた隼人は、疑問を感じた。だが、ゆうれい船がゴーレムを破壊した事に喜び、それを席を外し隣の部屋へと向かった黒潮会長に報告しにいくも、その部屋に黒潮会長の姿はおらず、ただ一つのイスがあるだけであった。
 
興奮気味の隼人がそのイスに座り、肘掛を叩くと、イスは床下に吸い込まれ、通路まで降りていく。そこにあったのは別のイス。そのイスに座り、再び肘掛を叩くと通路を進む隼人の目の前に地価兵器工場が現れ、そこにあの破壊さえたゴーレムが帰還したのだった。
 
そしてイスが辿り着いた先で隼人は重大な秘密を見ることになる。
 
 
久しぶりに見た作品です。実はNHKで放送した「とことん!石ノ森章太郎」で放送してくれたのです。
 
この作品の面白いと思うのは、隼人でもゆうれい船でもなく、敵ボスであるゴアそのものであったりするのです。ゴアの正体は最後の最後までわかりません。本当に色々想像できる状況が、映画の中にあるのです。その正体不明な敵に隼人はどのように戦いを挑んでいくのか。
 
当時の映画ですので、大変説明口調が激しいのですが、それでも話のつながりがスムーズではない点が幾つか見えます。まとめるには尺の問題があるのはいつの映画でも同じ事なんでしょう。
 
この映画を見た人が恐らく印象に残ると思われるのが、ボアジュースのコマーシャルソングではないでしょうか。
 
♪ごっくりごっくりこんと、ボアジュース♪という歌にあわせて、西部劇に出てくるようなバーの中で相対して二人のガンマンが次々とボアジュースを飲んでいくのですが、最後の一本を奪い合い、銃で互いを撃ってしまって。結局、天国にまで昇りながら、その一本を分け合うというブラックユーモアなものです。それだけおいしいと言う事を表現したCMであるという事なのでしょうが、作品内のテレビCMでありながら、実際にあったら飲んで見たいと思わせるできであったわけです。
 
実際に飲んでしまったら、ボア中毒で死んでしまうんですけどね。
 
今では恐らく作風として作ることが難しい映画ではないかと思います。それゆえに、こうした作品が新たに作られないものかと期待をしてしまうわけなんですけどね。



 驚きと共に、本当に残念な事だろうと、思ってしまいます。しかし、恐らくは薄れ行く意識の中で職務を全うしたという事に、尊敬するだけです。
 
自動車だけではなく、人はいざという時のために色々準備しておく必要があるわけです。例えば事故、例えば災害。この世の中で安全な場所を探したとしても、予想もしない状況に見舞われる事などあるわけです。
 
これは確かに運という言葉で片付けられる話なのかもしれません。どれだけ心配しようとも、防ぎきれない事なのかもしれません。ただ、人はそうした事が起こらないように出来る限りの注意を促し、そして払う事が出来るわけです。
 
ただし、あまりびくついていても仕方がありません。それでは動きが取れなくなってしまいます。
 
結果的にはある程度の覚悟というのは必要になってくる事なのでしょう。ただ、それを日々持ち続ける事の困難は確かにあるような気がします。
 
 
これから車などで遠出をする機会も多くなってくる時期になりました。
 
せめて自分が加害者にならないように、気をつけて行きたいものですね。お互いがそう気をつけていれば、不注意による被害は減らせるものと信じております。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年01月19日

皆、生きているんです【「銀色の髪のアギト」(2006年 GONZO)】

 2008年最初の更新となります。本年もよろしくお願いいたします。

 さて、最近よく言われるのが地球温暖化。しかし、温暖化防止だけでは地球を救う事は出来ないというのが実際の話なのだそうです。基本的には人間がいる以上、改善はしそうにないというのが今の結論である様子。しかし、私たちは確実に生きています。言い換えれば私たちの生きている意味を問われていると言う事にもなりかねません。

この先の未来、そこにあるのは絶望だけなのでしょうか。


 さて、今回は2006年に公開されました「銀色の髪のアギト」です。

 300年後の未来、地球から遠く離れた月において、森が意思を持ち地球へと降りて行く。そして、それまでの生活を桜花していた人類は森に支配され生きていく事になった。森の支配とはいわゆる生命の根幹、水を支配する事であった。もともと森はその身にそしてそれらが生きる大地に多くの水を蓄えていた。それだけではなく、土地の中に生きる生命の循環を調整していたとも言える。そうした中から大きく離れ、また蹂躙してきた人間は森にとってよき隣人ではなかったと言える。

人は森におびえながらも、その力を持って開拓し、身を寄せ合って生きていた。

そのような中にある集落の一つにアギトという少年がいた。彼は、ある理由で動けなくなった父のために、入ってはいけないとされる地下へと向かっていくが、森に見つかり水の中へと姿を隠す。しかし、その水路から昔の都市部へと辿り着いたアギトは一つのカプセルを見つける。そこにいたのは少女。

彼女の名はトゥーラ。300年前の世に生きていた人類であった。

トゥーラの覚醒は森に危機感を覚えさせる事になる。が、同時にその目覚めを待っていた人物もいた。

アギトたちのように森と共に生きる事を求めた人たちがいれば、また、それを良しとしない人たちもいる。彼らは古の世、その技術を使い、森を駆逐し「正常なる人の世」を作り上げようとした。昔を知るトゥーラは、アギトたちの生活より彼らの偉業を信じていくようになってしまう。

アギトは森から力をもらう為に森に入っていく。それはかつての父と同じように強化体…森の力を駆使できるようになり、トゥーラを取り戻すために。

だが、トゥーラには、そして彼女を待っていた人物にはある秘密があった。森はその事を知りながらアギトを選んだのだろうか。それは森を人類をどこへ向かわせるのか。今、アギトの願いが、トゥーラの思いが答えを出そうとしている。


 一昨年、映画館へ見に行ったときに、大変驚愕した映画でした。本当に勿体無いとしか言いようがない映画であったと思います。その昔、「未来少年コナン」という作品がありましたが、これこそ新世紀のコナンであると言える内容でしょう。

基本的にはコナンと同じような冒険活劇物であるわけですが、やはり映画で放映された時間枠では、どうしても説明不足があったりしたのは仕方がないのかもしれません。時間的には12話ほどのテレビシリーズが丁度良い作品ではないのかと思っています。

元来、植物には意思があり、それぞれに意思疎通を行っているというのは常識に近いものとなっています。考えてみれば、受粉するために同時に花を咲かせたり、動物を呼び寄せるために果実を実らせたりと集団で行うには何かしらのタイミングを掛け合わなければ出来るものではありません。

そうなりますと将来、直物と話が出来るようになるのかも知れません。その時、彼らがどんな意見を言うのか。もしかしたら、思いっきり詰られたりして…少し恐ろしい事かもしれませんね。


 人間は種で見れば実にしぶとい生き物ではないでしょうか。

考えてみれば、これほど自然で生きるのに不適切な生物もいないと言えます。夜目は利きませんし、可聴域も狭い。爪も牙も鋭くありませんし、何より体毛が少なく、汗腺が多いのです。これでは他の動物に対抗するどころか、身を隠す事も出来ません。何より、筋力が弱いのです。その割に体重が重いですから空を飛ぶ事も出来ませんし、かといって水の中を自由に動く事が出来るというわけでもありません。

しかし、人間は今まで生き残ってこれました、しかも、他の動植物を蹂躙し、駆逐し生活範囲を広げて繁殖して行ったのです。これは幾つかの要因があるのでしょうが、一番にいえるのは人間が狡猾な知恵を持っていたからと言えるのでしょう。

そして、人は自身の事をこう言います「万物の霊長」であると。

自分の身を飾るために毛皮を狩り、飽食を満足させるために最上の獲物を要求したのです。結果、人の周りから次々と生命は失われていきました。一度失った生命は戻ってきません。人間のその知恵を持ってしても蘇る事はないのです。もし、それに似たモノが現れたとしても、それはあくまで似たモノであると認識するべきなのでしょう。

そして今、人は言います。地球の危機であると。

この先、恐らく百年もしないうちに人は宇宙へ向かう事になるでしょう。その時、人は地球をどうするのか…いや、それよりも地球はどうなっているのか。

決して人の宇宙進出が地球を見捨てるための事業にならない事を願ってならないのです。

 そんなこんなで本日はここまで。

2007年07月29日

楽しませてくれる事を期待してます【「幻魔大戦(映画版)」(1983年 角川アニメーション)】

 はい、夏です。もう、今回紹介します幻魔のように、しかも定期的に迫ってくるのが〆切です。個人でしかも趣味でやっているので、それほどストレスはないだろうと思いきや、そうでもありません。実際、かなりのストレスを感じるものです。
 
だったら辞めればいいのですが、それも楽しんでいる気配がありますので、これはもうマゾっぽい感性なのかもしれません。商業的にもこんな感じってあるのでしょうかね?



 さて、今回は1983年に公開されました「幻魔大戦」です。

 あらゆる生命の完全な絶滅。それのみを求めて宇宙をさすらう破壊者「幻魔一族」。その魔の手がついに地球へと伸びてきたとき、それをいち早く察知したのは、小国の姫「ルナ」であった。彼女を乗せた飛行機は幻魔の魔の手によって落とされた巨大な隕石の落下によって破壊されてしまう。しかし、その危機を救ったのは宇宙にある善なる意識生命体「フロイ」。フロイは彼女に幻魔のビジョンを見せ、その運命を示す。それは、幻魔と戦うために生まれ変わった地球のサイオニクス戦士としての運命であった。
 
彼女が殺されそうになった原因、隕石と思われていたのは、遠い別の銀河系で同じように幻魔と戦いながらも、絶望により心を閉ざしていた戦士「ベガ」。ルナとベガの出会いは、新たなる戦いの幕開けを意味していた。
  
 とある野球部の選抜メンバー選考会。そこで華々しくアピールしていた一人の少年がいた。「東 丈」…しかし、彼がその選抜メンバーに選ばれることはなかった。自暴自棄になった彼の前に、異形の姿をしたロボットのような人間のようなモノが現れる。丈は必死に鳴って逃げるが、しかし異形は間違いなく彼を追い詰めていった。そして、その窮地にあって彼が手にしたのは、念動力=サイコキネシスであった。丈を追い詰めていたのはベガ、そして、ベガの後ろでルナは丈を見ていたのだ。
 
超能力に目覚めた丈。しかし、同時に能力を過信した丈は親友を失う事になる。目覚めた事による高揚とどれに伴う孤独。そんな不安定な日々の中、ついにルナは丈にテレパスを送る。それは、フロイから貰ったメッセージ。幻魔のイメージであった。
 
だが、そこでアクシデントは起こる。イメージの幻魔に負けたと思い込んだ丈が自分の殻に閉じこもってしまったのだ。ルナはテレパスを使い、丈の深層心理まで入っていく。それは大変危険な行為であった。しかし、彼女は言った。丈を失うわけには行かない。丈はルナによって現実に戻ってくる事ができた。
 
一端、ルナたちと別れ、家路につく丈。しかし幻魔の進行はすぐそこまで近づいてきていた。


 SF作家の平井和正氏とマンガ家である石ノ森章太郎氏の合作として始まった幻魔大戦。その1~3巻にオリジナルのストーリーを加えて完結させたのが、映画版の幻魔大戦です。記憶から引っ張り出すと、CMがガンガンに流れていました。しかし、今見ても、少し完成度が低いと思われる点が無きにしも非ず。
 
それもそのはずで、監督のりんたろう氏ですが、同時期に銀河鉄道999の映画もやっていたわけです。そんな多忙の中では…という事で999の方に力を注がれたという噂を聞いたことがありますけど、本当の所はわかりません。
 
実際には、原作の途中という事もあり、また、壮大な内容でもあった為に、削られたり足りなかったりで話の流れがいきなりわからなくなる箇所もあるのですが、それでも見れる映画ではなかったかと思います。

ただ、残念なのは、やはり人数の多さでしょうか。サイオニクス戦士が沢山出てくるのですが、その活躍の場が与えきれなかったのは尺の関係で仕方がないのかもしれません。これ以上のボリュームでやるにはOVAしかないのでしょうが、当時、当然のようにビデオは高価なものでしたので、無理な話です。
 
後年、テレビ作品としてリメイクされたわけですが、正直な感想として映画の方が面白いと思うわけです。つまるところ、原作者に画像を似せる努力よりも、マンガをアニメとして如何に加工する能力を持っているのか。それを知らしめてくれた作品の一つであると思う次第です。



 Blogのサイトを複数持つのだけでも大変だというのに、映画を連続で監督するというのは大変な労力が行った事でしょう。ただ、必要なのは出来上がる事…いえ、それは違います。商業と趣味の隔たりはやはり「儲け」そのものにあるのです。
 
その公開の結果、次回作に期待できる作品であれば、今後の儲けもネームバリューで期待できるでしょう。しかし、観客は残酷なものです。期待できなければ、まず、後ろ足で砂をかけるものです。固定ファンも確実にいるのでしょうが、やっぱり気になるのは、全体の感想。固定ファンだけで収益が得られればいいのですけど、それに甘えるといつかは持たなくなります。
 
 
 この話、政治に似ているような気がしますね。今回の場合は参議院選挙の結果、どのように政局が変わるにしても、結局、支持を得る為には誠実にして確実な結果を出すのが一番。政治家は言ってしまえば、国の監督。楽しませてくれることを期待する国民という観客をどれだけ満足させる事ができるのか…うーんこれは、大変な努力を求めるものですねぇ。
 
ま、そのために前払いで視聴料という名の税金を払っているのですから当然といえば、当然ですね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年06月10日

節度のある依存とは【「イノセンス」(2004年 東宝/Production I.G】

 少し前に柔らかな皮膚を持つ子供ロボットが登場した話をしましたが、考えてみれば、日本ぐらいなんでしょう人型ロボットに興味を示しているのは。何故ならば、人の形を成したのは神であるとしている宗教を信仰している方々には、人間をこしらえるなどというのは論外な話であり、神を冒涜する行為でもあるからです。

しかし、人の欠損している部分を補う技術に長けているのは、以外にも日本よりも海外であったりするわけですが、それは許認可の話もあるので、一概には言えませんが、しかしやはり宗教が絡んでいる部分が大きいと言えなくも無いのです。

その昔、人が人ならざる姿をしていない場合、それは信仰心不足として処分の対象になりました。それは歴史としてあった話です。現在ではおよそ許されぬ行為が行われていた…それは即ち、自分たちが生き残るための手段であったともいえます。

ですが、生命の設計図である遺伝子の解明が実際になされ始めたとき、人は何故病気になるのかという事も理解し始めて来たわけです。より完全な人は、即ち神の模倣品からの逸脱を目指しているとも言えなくも無いのです。


人が目指しているのは一体何であるのか、そして神は一体何であったのか。今、人類はその岐路に立たされているのかもしれないのです。



 さて、今回は2004年に公開されました「イノセンス」です。

 公安9課から草薙素子が去ってから三年後。巷では、愛玩用アンドロイド=ガイノイドによる暴走事件が多発していた。その被害者のには政府関係者も含まれている。公安9課はその事件の担当となり、バトーはトグサと供に、事件の捜査へと向かう。
 
しかし、バトーは捜査に乗り気ではない…というよりも全てのことに意味を見出せずにいた。その原因は素子の存在である。恐らく、愛情に極々近しいその感情を自分でもどうしようもない事に、もはや無気力感を感じていた。だからと言って捜査に手を抜くわけにもいかない。トグサと供に、警察から探りを入れにいく。
 
警察にある解析室では、問題のアンドロイドが解析されていた。その担当官は言う。彼女たちは自殺しようとしていた…アンドロイドが自殺するという表現にトグサは否定する。自殺すると言う表現はアンドロイドには適切ではない、自壊というべきではないのか。だが、担当官は続ける。彼女たちにはまず必要はないであろう機能がつけられている…そして、彼女たちが残した言葉「死にたい…」。バトーは繰り返されるその遺言のレコーダーを止めると、礼を言いその場から離れていった。
 
 その中さらに別の事件が発生する。その凄惨な事件現場でバトーは一枚のホログラムカードを見つける。その少女が記録されたカードが気になるのか。カードを胸に忍ばせ、その事件現場も離れる。
 
その帰り、バトーは飼っている犬のためにドックフードを購入し、イシカワに送ってもらう。バトー自身はイシカワ自体にも、セーフハウスを隠しているつもりであったが、しかし、確実に誰かにバトーの行動はトレースされていた。だが、イシカワが何を言おうとも聞き入れるつもりのないバトーには、気づくはずもなく。結果、後日、ショッピングセンター内、一人で大立ち回りを演じた結果、イシカワに取り押さえられる事になる。
 
 
 物語はこの後、バトーが暴力団に向かって自前の重火器を乱射したり、また、調査に向かったハッカーの家で電脳迷路に陥れられたりと映像的にはかなり見ごたえのある場面が出てきます。
 
バトーが主役であるこの物語は、前作に位置づけられる、GOHST IN THE SHELL/攻殻機動隊を見ていた方がわかりやすいのかもしれませんが、お勧めするのは、やはり原作の漫画版です。この一連のシリーズはいい意味で原作の要素をきちんと使っており、また、それを独自の解釈、さらには時代にあわせた設定の更新を行い、製作されています。その意味では、原作をしっかり読み、前作を見ていれば、イノセンスの流れをつかむのに、それほど苦労しなくても済むのではないのかと思います。
 
原作だけで掴みにくいその理由は、バトーの心理とそれを基にした行動でしょう。
 
映画のバトーは素子に依存しています。だからこそ、自分の前から消えた素子の事をいつでも考えてしまうのです。それは、素子がガイノイドで現れた際によく表現されています。その安心感はまるでスーパーマンが現れたかのような安心感であり、探していた恋人が現れたかのような高揚感でもあるように感じます。
 
つまり、この物語というのは、あくまで恋物語であり、そして命の物語であるという事なのです。そこに、電脳世界があり、銃撃戦があり。もし、それがアニメではなく特撮であったとしても表現出来る物語であるともいえます。あくまで人の物語であり、単なるバイオレンスでもサスペンスでもないわけなのですから。
 
 
 前作もそうですが、イノセンスも観れば観るほど、新たな発見が出来る物語であると思います。ですが、その発見は必ずしも、監督である押井氏と同じであるのかどうか。それは些細な事なのかもしれません。何故なら、結局はその答えは物語として観るバトーたちにしかわからない事なのかもしれないのですから。



 神様っていると思いますか?

 そんな質問をする必要もないと思います。神様というのは、少なくとも存在し、こちらを見ている存在であるわけです。それは何故か。そうでなければ、私たちは生きていけないからです。

何のことを言っているのかといえば、それは自然そのものの話です。例えば、人は沢山の犠牲の上で生活をしています。命というもので考えていけば、一日生きていくだけでどれだけの犠牲を必要としているのか想像もつきません。つまり、それら一つ一つが神であるともいえます。

ただし、神が依存する相手であれば…という意味も含めての話です。


神様に依存するという事に関しては、宗教が明確ではないのでしょうか。宗教が存在するから神がいる場合もあるわけですが、しかし、大多数は神がいて、宗教が存在するわけです。宗教にはルールが存在します。そのルールというのが戒律です。戒律を破れば、罰が与えられます。罰はイヤですから戒律を守るわけです。最終的には、神の身元へいけるように努力していくわけですが、それが宗教における道徳であるともいえるわけです。

道徳と常識は異なります。しかし、どちらも絶対的に不変なものではありません。ただ、常識が時と場所によって変化するものであるのに対して、道徳の根本は変わりないものです。それは迷惑をかけないという事です。ただし、何が迷惑なのかは、時と場所によって変わっていきます。


最近の日本人に道徳が足りないといわれるのは、結局、こうした共通して依存するものがなくなったからなのかもしれません。その代わり、学歴やネットなどに依存する人が多くなっている現状から見れば、依存したがりの人は多くいるという事になります。

何に依存するのか、それはその人の問題であるのかもしれませんが、しかし、依存しすぎるというのは中毒になる事であるとも言えます。

中毒になれば抜け出すことは難しく、場合によっては周りに多大な迷惑をかける事になりかねません。人も金も趣味も、自分のできる範囲で収めておくのが一番良い依存であるとわかっているのではないのでしょうか。

ただ、自分にとって良い依存は中々抜けられないのもまた事実であるわけです。自戒も込めて思う事は、もう少し、自身に対する節度を学ぶ必要があるという事なのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年06月03日

記憶と記録=心と脳…感情のプログラム【「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」(1995年 Production I.G/講談社、バンダイビジュアル】

 何回かお話していると思いますが、今回もロボットの話です。

 NHKのニュースで、3~4歳の理解力を持つ、ロボットが紹介されていました。皮膚もあり、表情も言葉は話せませんが、声を出す事もできます。問題は、自律的に動く事ができない事、先ほども記載しましたが言葉を話せない事。表情も人間のような複雑な表情筋があるわけではないので、無表情に近くなってしまう事。しかし、こうした事は技術が進めばすぐに解決していく問題なのです。

 恐らく、一番の問題となるのは「感情」そして「感性」です。

 人には二つの記憶する場所があります。物理的な話ではないのですが、一つは脳もう一つは心です。これは私の見解なのですが、記録と言うものは脳に、記憶というものは心に残るものであると考えています。
記録はそれこそ機械的なことです。つまり重複した経験や初見した経験がそこに整理整頓されていって、予測が可能になると思うわけです。これがあるからこそ、人は出来るだけ間違いの無い行動をとり、構想を練る事ができるわけです。
一方、記憶は感動と恐怖によるスナップ写真であると考えています。写真とは実際にその場を記録したものですが、その場そのものではありません。そこにあった状況を記録しているものです。それを見ると人は想像します。旅行などのスナップ写真で実に鮮やかなものがあるのですが、それはそう撮れるような技術をもって写しているわけです。もちろん、その場の状況がそれだけの写真となる素質を持っているわけですが、素質はあくまで素質。言い換えれば宝石ではなく原石です。
原石は磨かれれば光り輝きますが、その原型は留めていません。写真も似たようなもので、写真に撮られたものはすでに宝石であるわけです。その原石はその場のその時にしかないのですから、原石はないに等しく、しかも写真に収められた段階ですでに研磨された状態になっているのです。

 つまり、感動したものが記憶の中でより美しくなるのも、恐怖が記憶の中でより恐ろしく感じるのも、それが心の中で磨かれた記録であるという事になります。これは実に複雑怪奇と言える事ではないのでしょうか。

 現在、こうした感情をプログラム化しようと研究しているグループがあります。今までのロボットは一定の条件を元に、あらかじめプログラムされたデータを模倣しているにすぎません。しかし、感情はそんな単純な話ではありません。何故なら、人が十人存在すれば、それだけ感動できるものも、恐怖するものも変わってくるからです。
つまり、プログラムしようとしているのは、そのロボット独自の心であると言っても過言ではないのです。

 もしこの技術が成功すれば、そのロボット独自の感性が生まれてくる事でしょう。その一つは善と悪です。しかし、その事は一つの問題を同時に投げかける事になると思うのです。


 さて、今回は1995年に公開されました「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」です。

 吾が舞えば(あがまえば) 麗し女(くはしめ) 酔いにけり(よいにけり) 吾が舞えば(あがまえば) 照る月(てるつき) 響むなり(とよむなり) 結婚に(よわいに) 神降りて(あみあまくだりて) 夜は開け(よはあけ) 鵺鳥(ぬえどり) 鳴く(なく) 遠神恵賜(とおかみえみため)

 この有名すぎるほどの歌が流れる劇場版の攻殻機動隊は、原作が最初にそれを作った料理人の味を、まさに自分に合わせるために作ったはずが万人に受けた料理ではないのだろうかと思うのです。監督であります、押井氏は原作を知りつつも、それに甘んじることなく自分の作品として作り上げていく監督で、有名な作品といいますか、まさに代表作とされているのが「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」です。あれも原作ファンの中に物議を放り込んだ作品としても有名で、しかし良作であるのは間違いない作品であるわけです。

 この攻殻機動隊も同じように原作を知りつつも、その中身…特にキャラクターを大きく変えた作品であるといえるのです。


 原作から見ていて当初、違和感を覚えたのは、草薙素子、バトー、荒巻の三名です。そう、主要キャラクターに大変な違和感を覚えてしまった作品であるのです。それは何故か…。

 素子は原作からして生にしがみつくキャラではありません。しかし、死に救いを求めているわけでもなく、真実のみを求めているわけで、故に正義という真実に対する悪が明らかに行われている、もしくは行われようとしている事を制止するために攻勢の組織を切望していたわけです。同じように、仕事に対しては率先的であっても、私的な部分では何かに依存したがっている女性。それが劇場版の素子であった印象があるのです。ただ、彼女の依存したがっていたものは、恐らくおいそれと与える事のできないものであったようで、それをある意味かなえたのは、人形使いだけであったようです。

 バトーの原作の違いは一目瞭然、素子への依存度です。愛情のように見えなくも無いのですが、その表現の下手な所をみると、むしろ、犬のようにも見えます。だからこそ、第二作目のイノセンスではあれほど気の抜けたバトーが出てくるようになったわけです。この素子への依存はその後製作されるTV版にも受け継がれているものです。ある意味、攻殻機動隊の核となる一つの物語といえるのかもしれません。

 荒巻は老人の様相が強くなっています。自発的に行動するというよりも、状況を的確に見極め指示する立場をより強調しているともいえます。原作でもTV版でも、自発的な行動が目立ったわけですが、劇場版ではそうではありません。少し生に落胆しているかのような余生短い老人の最後の一花を咲かせようとしている風にも見えるのです。

 トグサに関しても、その立ち位置が変更されているわけですが、それはこの上記三名につられて変わってしまったという事、そしてその声優でもある山寺氏の声質の影響もあって、原作などよりも活躍するキャラとなっていました。原作では攻殻機動隊2でやっと一人前になっていったようですけど。


 原作そのままではないのは、当然物語にも言えることですが、しかし、何回見ても原作者であります士朗氏の影響が色濃く残っているといいますか、その世界設定には驚かされるばかりです。原作の初出が1989年。単行本化が1991年。先見の明があったというのは、正にこのことなのでしょう。今、この世界観であっても、それほどの遜色はなく、また荒唐無稽すぎる話でもないわけです。

 劇場版でメインになるのは原作での終わり付近の話「人形使い」です。

 限りなく人間に近い人形であり人間ではない存在に魂は存在するのか。原作では、人形使いと素子が一つとなることで、素子の目に天使の足と羽が見えたような絵が描かれていましたが、劇場版では、天から羽が振ってくる事でその表現としていました。そして、結果として、魂の答えは何も出さないまま、物当たりは終わっていきます。それは可能性の話であり、結果ではないという事なのかもしれません。
(結果というのは、物語の…ではなく、魂とは何であるのか、その答えはという事に対する結果であります)

 素子は結局、9課を抜け、広大なネットの海へと旅立っていきました。そしてイノセンスに舞台を移していくわけです。


 日本での興行は振るわなかったらしいのですが、海外での評価がすこぶる良く、世界に押井の名を更に広げる作品となったという事は改めて記載する事でもないかもしれません。


 この物語でロボットと言えばタチコマに人形使い(としているが正確にはプログラムであるために厳密にはロボットとは言えない。しかし、この世界におけるロボットの定義は今の世界よりも広がっていると解釈するので、今回はロボットという言葉を使っています)なのですが、彼らを人との大きな違いはゴーストが存在するかどうかという事です。

 人は生まれながらに魂を持っています。少なくとも、有機的化合物によって動いている存在であるにせよ、単なる物体ではないという事です。ですが、魂というものは不可視である以上、その存在は仮定でしかありません。
 
 ただ、もし、感情のプログラムが本当に完成すれば人は人を介さずして魂を現存できるかもしれないのです。ただ、その時、そのロボットは大変なトラウマを抱えてしまうかもしれません。それは人の感情を持ちながらも人ではない自分へのコンプレックスです。それは童話にあるピノキオが持っていたトラウマである事と同じなのでしょう。

 …とここまで記載してふと気づいたのですが、んー取り上げる作品を間違えたのかもしれませんね。石ノ森先生のキカイダーやロボット刑事のときに取り上げればよかったのかも…。しかし、タチコマもそうですが、こうした物語の際に「心」という問題は切り離せないのは当然の話。それは人に返ってくる問題であるからなのです。

 人の心が失われているという今、感動と恐怖、それが希薄になっているのかもしれないと、ふと思ってしまいます。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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