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2009年10月24日

命の意味と有様【「鋼の錬金術師 FULLMEATL ALCHEMIST 特典映像「盲目の錬金術師」(2009年 鋼の錬金術師製作委員会)】

 さて、今回は2009年に発売されました鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST Blu-rayとDVD 第1巻映像特典の「盲目の錬金術師」です。



 鋼の錬金術師ことエドワード・エルリックとその弟のアルフォンス・エルリックは、旅の途中でとある屋敷に寄った。その屋敷にかかえられている錬金術師の噂を耳にしたからだ。
 
その家…ハンベルガング家に仕える錬金術師、ジュドウが、禁断とされている人体錬成を成功させたというのだ。
 
大きな門、その内側にハンベルガング家の屋敷はある。大きな門を二人の警備員が開門し、エド達を中に入れると再び閉めた。中庭を進んでいく。エドはその短い間に、何か敵意を感じていた。門番に庭師…何をしたのか、皆目検討もつかないが、忌み嫌われている様子であるのは理解できた。
 
気がつくと、屋敷の方から、この屋敷の主であろう奥方と、その横に執事に手をひかれた錬金術師がやってきた。彼こそ、ジュドウであり、噂の錬金術師であったのだ。
 
エドは挨拶もそこそこに話題を切り出した。人体錬成…その言葉に奥方とジュドウは驚きの表情を見せる。一緒にやってきた娘のロザリーをその場から離そうとするが、しかし、ロザリーはアルが気に入った様子。
結局、アルはロザリーと一緒に遊び、エドはジュドウと奥方と一緒に池の中央にある東屋へ向かった。
 
東屋でエドは噂ではなく、きっぱりと自分の言葉で質問した。人体錬成は成功したのかと。すると、ジュドウと奥方は笑って応える。エドは既にその成果を見ているのだと…。そう、ロザリーこそ、ジュドウが人体錬成した結果であるというのだ。
 
アルと遊んでいたロザリーは、アルの兜が外れ、中身がカラッポであるのを知る。しかし、その事にあまり驚きを見せないロザリーはアルをどこかに連れていこうとする。
そこには、ロザリーの秘密があるのだと言うのだが…。
 
 
 
 鋼の錬金術師 パーフェクトガイドブックという冊子に外伝という形で漫画掲載されたものを特典映像化したもので、内容的にはほぼ忠実に再現されています。
 
15分ほどの作品ですが、もう少し長めにして、TV用にしたとしても十分に話をして使えるように出来ています。と言いましても、今現在進んでいる個所に入れようもないんですけどね。1クール目中盤の辺りであれば、十分にインパクトのある一話として活用できた。それぐらいいに十分な出来であると言う事です。
 
この回では敵が出てくるわけでもなく、軍に関係するわけでもなく。あくまで身体を取り戻そうとしている兄弟の旅路、その物語の一つという描き方がされているわけですけど、これも鋼の錬金術師では有り得た作風であるのは間違いなく、思い出せば第一話、リオールの街は、まさにその様子に近しいものであったと思う訳です。
 
物語も最終に向かうにつれ、どうしても善悪の形骸化が起こり…といっても、その方が伝わりやすいわけですけど、アクション面が強くなってきた状況にあって、こうした物語が特典映像としてもアニメ化された事は個人的に嬉しいのです。
 
今、原作では最終話に向かい、アニメもそれに準拠する様子で進んでいるわけですが、その終わり方が同一であれアニメオリジナルで終わることになるとしても、敵を倒してハイ終わり…はやめて欲しいものだと思うわけです。
 
賢者の石が命であるとするのであれば、禁忌と真理は何を指すのか。その答えとは言わなくても、何か何処かを指し示し、訴えて欲しいのだと思うのです。
…決して万事めでたしでは終われるとは思いませんしね、この物語は。でも、何がめでたしなのかも、わからないのも事実。
 
完全調和ではないからこそ物語だと思うのですし、それが面白いのだと思うのですけどね。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「命」と言う事で一つ。
 
鋼の錬金術師では、複数の生きた人の命を使って賢者の石を錬成します。その命という対価を支払う事で等価交換の原則を無視したかのような錬成が出来るわけですけど、それは命の等価交換という価値からすれば、十分に価値のある結果という話なのでしょう。
 
人が死ぬと、約2グラムほど軽くなるのだそうです。これが、魂の重さなのだといわれるのですが、これは死ぬと人は魂が抜けると言われているからなのでしょう。
 
霊感があるという人が稀にいます。意外に身の回りでも、強弱はあるものの、気配を感じる、目に見えるという人がいるはずです。霊気というのは、命でも魂でもないそうです。
 
人や動物だけではなく、植物にも生体エネルギーというのがあるそうで、それをオーラと言うのだそうです。…
 
 
…と話して行きますときりがありません。霊気、魂、精気、命…カタカナ語も含めれば、もっと多くの言葉が出てくる事でしょう。
 
人は人…いえ、物質が成長していく過程を厳密に理解しているわけではなく、結果としてそのように成長していくのだと理解しているに過ぎないのです。その過程で栄養が必要で運動が必要で太陽が必要で酸素が必要で…しかし、同じようにたんぱく質などを組み込んだとして、その生命足り得るのかといえば、それは出来ない事なのだそうです。
 
簡単に言えば、人は人以外から人を作り上げるのは無理と言う事です。
 
その原因は命そのものにあると言われています。
命…言葉では知っているものの、それが何であるのかは理解できない。もし、こうした文章を打つ、運動をする、物を見る、話しをする、食事をとる、排泄をする…そのほかも含めた諸々が脳内の化学反応で説明できるのであれば、人は人を介さずに人を作り上げる事が出来る様になるのでしょう。
 
精子も卵子もいりません。化学物質だけで人足り得る何かを作り上げるのですから。
 
ただ、それが人であるのかどうかはわかりません。人という定義への問題にもなるのでしょう。何より、今の人類がそれを人として認めるのかも疑問です。
 
 
命とは何か。一つの答えとしてあるのは、生まれ生き、そして死ぬものである。それが命であると厳密に言えるのです。
 
宗教が生まれる以前より、それは厳格に遂行されていた事柄であり人の何たるかの根本である、まさに命題のようなものなのです。
今一度、命とは何かを、宗教や経済などから離れ考えてみるべきではないのかと思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年08月09日

人は汎用か万能か【「機神兵団」(1992-1993年 パイオニアLDC)】

 さて、今回は1992~1993年に発売されました「機神兵団」です。

 時代は第二次世界大戦の頃。中国大陸…満州地区を走る列車の中に、一組の家族がいた。両親と少年が一人のその家族には、何かしら緊張感が漂っている。その夜、列車の急ブレーキに少年が目覚める。すると父親が、この人を尋ねるのだと、いきなり鞄と名前の書かれた紙マッチのケースを渡した。そして、少年には隠れているように指示する。

部屋の隣では何者かが、両親と言い合いになっている。いや、言い合いですらない。いきなりの発砲音。それが父親の命を奪ったのを少年は知る。
その発砲した人物…軍人は少年の前に立ち、鞄を渡せと迫ってきた。

しかし、その時、空が紅く光る…そして、空から異形の人形をした何かが降ってきた。

それは手に銃を持ち、誰であろうとも、発見した人を片っ端から撃っていった。その異形の者に恐怖した軍人の一人が銃で対抗する。しかし、衝撃は異形の者を自爆へと追いこんだ。

爆発により背中に重症を負う少年。さらに異形の者に囲まれ絶対絶命となる。

その時、列車の線路を震わす何かが近づいてきている事に気付く。それは確実にこちらに近づいてきており、尚且つ、戦闘体勢に入っていた。
それは巨大な機関車。何かと対抗するために作られた戦闘機関車であった。

機関車の先頭に装備された機関銃が火を放ち、少年は九死に一生を得る。だが、それだけで戦闘が終わる事はなかった。更に異形の者が空から降ってきたのだ。
それに対抗するために、機関車より降り立ったモノ。それは巨大な戦闘ロボットであった。その胸には雷の文字。
だがしかし、背中の傷や緊張感から、少年の意識は薄れていき、しかも、近くにあった川へと転げ落ちていく。そこに停留されていた小さな舟の中に転がり込んだ少年は、岸を離れどこかに流されていった。

それから2ヶ月後。あの時の少年は、とある町にいた。戦災で両親を失った子供達と一緒に暮らしているのだ。その少年の命を救ってくれた医者が会いに来る。
その少年…鷹村大志は元気良く、アパートを飛び出していくのだった。
 
 
 
 原作は、山田正紀氏の同名小説(全10巻)ですが、内容は大きく違っており、また、主役が鷹村大志という少年であり、本作は基本的に彼の視点で語られています。
元々は機神兵団VSエイリアン軍団という図式なのですが、このアニメ版では、((関東軍VSドイツ軍)×エイリアン)VS機神兵団という少し面白い図式になっているのです。

関東軍は強力な兵器である機神を奪取もしくは製造したい。でも、エイリアンの技術“モジュール”を使っているので、それを手にいれるのも難しければ、手に入れたとしても実用化には時間がかかる。

その間、ドイツ軍は総帥によって、エイリアンとのコミュニケーションに成功し、独自の機神=パンツァーカバリエの製造に成功する。しかし、搭乗者がバタバタと死んでいく事がクリアできない。

唯一機神という兵器(といっても、対人用ではなく、あくまで対エイリアン用)の運用に成功しており、これ以上、エイリアンのオーバーテクノロジーが蔓延するのも、エイリアンに大地を蹂躙されるのも防ぎたい。

…まさに三者三様の有様であるわけです。

その争いの中に、巻き込まれてしまうのが、主人公である鷹村大志。父がモジュール研究の第一人者である事から、関東軍に狙われてしまい、その命を奪われてしまうわけです。
モジュールとは、アニメの中で詳しくは語られていませんが、襲ってきたエイリアンの一部、もしくは根底を成す何かである事は示唆されています。これを利用すると、エネルギー効率が飛躍的に上がり、莫大なエネルギーを必要とする機械を動かすだけではなく、その機械とのシンクロも可能になっていくという代物であるらしいのです。

その負の描写といえる部分が最終話にあります。関東軍の新開というキャラがパンツァーカバリエに乗りこむのですが、モジュールに乗っ取られていく描写があるのです。
機械を支配するのか、それとも機械に支配されるのか。言い替えれば、それは力に溺れていくのか否かを示している事でもあるように思えるわけです。

何かを支配するというのも、傲慢なように思えるわけですが、それでも、その有り様にもよるのではないのでしょうか。
支配というより、何かの指示を出すに辺り、明確にして揺らぐ事のない意思を見せる事。それは指示を出す側にとって、大事な事なのですし、受ける側にとっては安心してその指示を受け取る事が出来るわけです。

道具を使う際に迷いが出ると、怪我をする事がある。大工さんでは良く言われていた事と記憶しています。気の緩みではなく、その道具は何をするためのものであるのか。それをしっかりと理解して使う事。そして、使う側もしっかりと意識をして使う事。その一例をこの作品は示しているように思えるわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「汎用」と言う事で一つ。
 
機神兵団では、雷神は列車で地上を、風神は飛行艇で空を、竜神は単独で水中を進んでいきます。それぞれ、陸海空を担当しています。決してどの場所でも十分に行動できる=汎用には作られてはいないわけです。
一方、ガンダムはどうでしょう。リアルサイズ=18mのガンダムを観ていたという話をしましたが、そのガンダム、いずれ動いたとして、もしアニメ通りであれば、陸海空全てがカバーできる=汎用という事になります。
 
汎用とは、様々な場所、状況に対応が出来ると言う事であり、決して万能ではありません。
 
例えば、車を生産する工場があります。Aという車だけを作る工場「あいう」とAとBとCを作る工場「いろは」があり、それぞれに一種類の工作機器で製造したとします。Aという車を作るにあたっては、「あいう」は「いろは」よりも、効率が良い=沢山の車を素早く作れるという事になります。しかし、BやCを作る場合には、「あいう」の工作機器は、再度調整するかもしくは破棄して新しい機器をいれなくてはなりません。一方、「いろは」では、問題なくAと同じ様に生産が可能なわけです。
 
この場合、「あいう」の機器は専用、「いろは」は汎用という事になります。
じゃ、万能という場合はどう言えば良いのでしょうか。それは、何も教えなくても、Dという車を作れる工作機器があったとします。それは確かに万能です。既に、対応が出来ているという事なのですから。
しかし、汎用は対応できるのでしょうが、出来るように慣れさせなければならないわけです。
 
では、人は汎用なのでしょうか、万能なのでしょうか。あくまで人は汎用。様々な事に対応できるだけであり、それを習得するにはそれなりの時間がかかるというわけです。
 
ガンダムが汎用であるという理由には、その動作を行なうには、人の経験が必要になってくると条件があるわけです。それが、すぐに慣れるという事は、主人公がどれだけスゴイのかを物語っているわけです。
 
機神兵団では、それを操作するには、特別な何かが必要なのでしょうが、それぞれの得意フィールドにより特化した=専用の操縦技術が必要になってくると言う事になります。
 
どちらが、大変な事なのかは、時と場合によって異なるのでしょうが、少なくとも人が万能ではない以上、それを得意とする人の協力を得る事も時としては必要になると言う事になります。
それによって、効率良く結果が出るのであれば、それは良い事でありますし、それを自分の中に経験として取り込めるというのは、貴重な事であると思うわけです。
 
教える事、教えられる事、助け合う事、手を差し伸べる事。それは人が出来る、人との付き合い方、互いを成長させるための手段、その一つであると言う事なのです。
 
万能である=一人で大丈夫と思いこんでいるよりも、誰かを助け、誰かに助けられる方が、より成長が早く、しかも深く濃く出来るのではないのでしょうか。私はそう思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年01月31日

しかし、何を持って裏切りとするのか【「紅いハヤテ」(1992年 ポニーキャニオン)】

 さて、今回は1992年に発表されました「紅いハヤテ」です。



 古より我が国の法的決定機関の影で暗殺と謀略を司ってきた闇の組織「死殻」。彼らは最強の戦士と呼ばれる死殻六人衆を中心に、その組織統轄を行い、この国の歴史を影から操り続けてきた。だが、その六人衆を指揮する死殻の長、鹿沼鍛造が実子、疾風によって暗殺された日…死殻の崩壊は始まった…。
 
それを濡れ衣とする疾風。そして、新しき総帥となった死殻に意を反した、六人衆でもある伊達一角、里見珠里、そして疾風の妹である詩織は死殻を抜ける事を決める。
だが、それはいつ果てる事もない追っ手からの逃亡を意味した。
 
ボクシングジムに住み込むこととなった詩織はユキコという偽名を使い、生活していた。だが、そこにも死殻の追っ手が。追い詰められる詩織。その時、彼女の中にあるもう一つの魂が呼び起こされる。それは、死殻を抜けたあの日、瀕死の重傷を負った疾風が詩織を守るために行った秘術。変身転生の術によって、疾風の魂を詩織に移した結果であった。
 
詩織…いや、疾風を追いかけてきたのは、同じ六人衆の一人、黒田実綱。死殻には、六人衆のみが許された秘術がある。それは自らの影を鎧として纏い、超人的な力を発するようになる、その名も鎧影。
疾風と実綱は互いに鎧影を纏い、闇夜の中で激しい戦いを始めるのだった…。
 
 
 
 上記で秘術と記載しましたが、鎧影が科学力と記載する方が何かおかしいような…それも作品の味なのでしょうけど。というわけで、今回は「紅いハヤテ」です。
 
その昔、レンタルビデオがかなりの勢いで出店してきた時期に、レンタマンという題名で複数のアニメ作品を入れたビデオをレンタル店オンリー…つまりは貸し出しのみで見せるという斬新な発想の下で行われた実験的作品。その一つが、この紅いハヤテであったのです。レンタマン自体は早々に終わってしまった記憶があり、結果的に、その中での完結はなされていない…という記憶もあります。
 
私個人が、レンタマンを借りてみようと思ったのは、これがきっかけであったので、レンタマン自体がなくなったのは、残念でなりませんでした。結局、後ほどビデオとLDで完結編まで出たので、それはそれで良かったんですけどね。
 
物語自体は、抜け忍ものです。なので、そのように見れば理解しやすいのではないのかと。もう一つは、反乱ですね。
実際、主人公である鹿沼詩織は、逃げ回っているだけなんですよね。そこで危機になると、疾風が出てくる。でも、詩織に頼み込んだ変身転生の術というのは、実際、大変な術らしく。多用すると、精神を蝕まれていき、最終的には詩織の精神が消えてしまうという恐ろしい術なのだそうです。
じゃ、その後はどうなるのか…肉体は詩織、精神は疾風という状況になるのだとか。
 
なので、一緒に抜けた一角や珠里はその事実を知ると、詩織に疾風を出すなと言われてしまうんですねぇ。守ろうと必死なだけなんですけどねぇ。カワイソウな疾風。題名にもなっているんだけどねぇ。
 
今ならば、この作品どうかなぁと思うんですけど、確実に深夜枠になるのは決定です。血は吹きだす、男女の絡みはある…得てして、こうした話ならありえる状況なのでしょうけど。ある意味、安全策で行き過ぎた感はあります。
 
鎧影という設定は、個人的には大好きです。死殻の科学力スゲー!と単純に感心してしまいます。
ただ、これを扱うにはそれ相当の精神力と体力が必要なのだとか…ただ、影で暗躍するってことは、暗殺関係のお仕事が多いはず。これで暗殺行ったら目立つんじゃないのかなぁーと思ったりしました。
一国を滅ぼす…とかなら、楽にできそうですけど。ただし、秘密裏にという状況ではなくなりますけどね。
 
物語的には、詰めすぎてしまって、本来語られるべき所が語られていないのが残念でなりません。恐らく十三話ほどの長さでまとまるのではないのかと。まさに、現在の深夜アニメ!
 
何時もの言い訳ですけど、この作品、私的には大好きな作品でしたよ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「裏切り」と言う事で一つ。
 
最近では、様々な事で裏切られたとする事柄が多くなったと感じてなりません。考えすぎなのかもしれませんが、そうしたニュースが多いような感じがするのです。
 
例えば政治…と言いますか、政治の周りの状況が裏切られているなぁと思うわけです。
こうした百年に一度の不景気というのであれば、与野党関係なく、それこそマスコミも政治の有り様について揚げ足を取るのではなく、協力して情報を伝え、欲している事に対する議案が提出できるようにするべきではないのでしょうか。衆議院では、この先の見えない不況の中で解散総選挙をしろと、それこそ、1億2億と税金を使えと言います。
 
そんな事をしなくても、時間がくれば選挙は行われるのです。
それよりも、それこそ一丸となって政を行う。これこそ、望まれている政治の姿勢ではないのでしょうか。
 
政党政治などとカッコイイ事を言っているだけでは、意味などなく、日本国はあくまで一つであり、その日本国に住む日本人を救済することがまず必要であるのです。そうした本当の議論を早急に行っていただきたい。選挙になり真を問われるのは、その結果次第なのではないのかと。
 
他にも、企業にも裏切られていますね。
企業を動かしているのは、経営者ではありません。彼らは調製しているだけの存在です。では株主…彼らは有望な物への投資をしているに過ぎません。企業を支えているのは誰か。それは従業員、労働者でしかないのです。
 
どこでも記載しましょう。
上場企業の経営者が出来るというのであれば、自分だけで商品を企画し、製造し、売り込み、注文を受け、生産し、販売し、サービスを行えば良いのです。それが出来るのであれば、それは確かに企業は経営者のものであるのでしょう。
ですが、実際にそれが出来る企業など殆どありません。上場企業であればあるほど、それこそ大企業と言われているのであれば、不可能な話です。
 
そうした労働者の能力をもって、企業は体裁を保っているに過ぎないわけですが、それを忘れての昨今の行動。正に自滅に向かっているだけなのです。
 
後はなんでしょうかね。世間に裏切られていると言う事でしょうか。
当たり前ですけど、誰も助けちゃくれません。その代わり、誰もが助けを求めています。それで本当に何が出来るのでしょう。それは裏切りなのでしょうか。いいえ、そうではなく、世間の裏切りというのは、結果的に誰かのせいにしているだけの事。それが正に裏切り行為なのです。
 
景気が悪くなったのは…政治が悪いのは…医者が少ないのは…。
そんなのは、最近起こった話ではなく、これまで積み上げられてきた矛盾が耐え切れなくなり、吹きだしているに過ぎません。
 
先達が頑張ったから今の日本がある…この言葉を是ととるか、非ととるか。それよりもそうであるからこそ、今の状況があるととるのか。それだけでも意味合いが大きく異なる言葉ではないのでしょうか。
私個人としては、先達に言いたい事など唯の一つ。立つ鳥、跡を濁さずであっていただきたいと言う事のみです。それこそ、日本の借金もそうですし、この不況に至った状況もそうです。年金問題などの税金に対する問題などもそうでしょう。
 
こうした問題を先送りにしてきた状況が現状を作っている。これこそ、子孫に対する大きな裏切りであると、認めて欲しいのです。
いずれにせよ、まずはそこからではないのかと思う次第です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年10月25日

交通事故はテロも同じと考えるべき【「機甲猟兵メロウリンク」(1988~1989年 バップ/サンライズ)】

 交通刑務所におけるグループミーティング…テレビでしたけど、見て目から鱗でした。



 さて、今回は1988~1989年に発売されました「機甲猟兵メロウリンク」です。



 百年戦争。それはアストラギウス銀河を二分したギルガメスとバララントとの戦争。その長きに渡る戦争終結の少し前、ギルガメス連合軍第18メルキア方面軍プランバンドール機甲大隊第8中隊に所属するシュエップス小隊に武装解除と再編成の命令が下る。
 
それは味方の軍が撤退するまでの間の殿を言いつけられたのと同時に、死を宣告させられたのと同じであった。
何故なら、彼らが所有していたアーマード・トルーパーは全て没収。代わりに渡されたのが、旧式の対ATライフルが渡されただけであったからだ。
 
後に起こる戦闘…いや、一方的な虐殺の中で、ただ一人生き残ったメロウリンク・アリティー伍長は、部隊の戦いを報告するべく、その地獄から抜け出し帰還したのだが、それを敵前逃亡と見なされ拘束されてしまう。
だが、メロウにかけられた疑惑はそれだけではなかった。プランバンドール機甲大隊が所有していたヂヂリウムという物質強奪の罪…後の「プランバンドール・スキャンダル」の被告人の一人とされてしまったのだ。
 
軍の略式裁判で証言されたのは、同じプランバンドールに所属していた者たち。完全な汚名であるのだが、実力者である彼らに一介の伍長の立場では証言を覆す事は出来なかった。湧き上がる怒りと憤りは、メロウを法廷から脱走させるという行動を取らせる。
 
最後に手にした旧式の対ATライフル、そして、シュエップス小隊に所属していた仲間の認識票。記憶したのは、濡れ衣をかけた者たち。
 
メロウリンクはたった一人で復讐と言う戦争の終りに向かって歩き出した。
 
 
装甲騎兵ボトムズと同じ世界にありながら、別にあったであろう一人の兵士の話をOVAという形で作り上げたものです。全部で12話ですから、今の深夜枠アニメの短いもの(1クール)と同じほどの長さでありました。
 
ボトムズの世界観、しかも主人公というのは、本当に喋りません。その代わり、脇役はメチャメチャ話しますけどね。それでも…というかこの世界観ではそうでなくては物語が進んでいかないのですから不思議なものです。
 
さて、主人公の兵装は本家でもある装甲騎兵ボトムス、その名称でもあるボトムズ乗り=アーマードトルーパー(AT)ではありません上記にも記載しましたが、対AT用ライフル、それも旧式のものです。
 
主人公であるメロウリンクはボトムズ乗りでなかったわけではなく、兵装を奪われてしまい、代わりにライフルを与えられ、しかも、機甲猟兵という聞こえはカッコイイのですけど、言ってしまえば歩兵に無理矢理させられてしまったのです。
 
それもこれも、全部ヂヂリウムという高価な物質を横領した上官たちの陰謀であったわけです。
 
シュエップスも実際にそのおこぼれに預かるという思惑があったのかもしれません…実際にそんな描写が少しみうけられるのですけど、実際には無謀な作戦に対する意見をしたために、抗命罪という重い罪に問われやむなく従ったという事らしいのです。ここら辺は少し時間を割いて話を書いても良かったように思うのですけど…。
 
メロウが復讐を遂げる相手に対してする事は、仲間の認識票を相手に見せる様にし、そこから戦いが始まるという状況にします。
少し、時代劇の必殺シリーズのような感じも見受けられるのですが、あれほど静かに復讐が行われるのではありません。何と言っても、最後は必ずライフルに装備している対AT用のパイルバンカーで絶命させるのですから。
 
銃や爆弾ではなく、直接パイルバンカーを叩き込む。そこに凄まじさを感じる作品であるわけなのです。
 
で、問題となった「プランバンドール・スキャンダル」ですが、実際にあったのかどうかも定かではありません。恐らくあったのだろうと言うところで終わっているので、その事実をメロウが確認する事はないのですが、しかし、そうした案件で振り回されたという事は間違いなく、利権が絡むととんでもない事をするものだ…というのは、実際でも変わりがない話なんですよねぇ。
 
ボトムスという本家を知らなくても十分に面白く、知っていれば、より面白いという作品ではないかと思うわけです。
 
メロウとキリコが偶然あったとしても、面白かったかもしれませんねぇ。でもそれは同人レベルの話なのかな?とも思ったりします。




 最近、食品における大変な事が起こっているのですが、それは正にテロのような状況でいつ身近にくるものかわかりません。自殺における毒によって巻き込まれた方も一種のテロであるのは間違いない話でしょう。
 
日本においてテロが発生しない、した事はない。もうそれは断言できない事態である事は、誰もが理解している事と思います。
誰が何のために起こしたにしても、それは誤った主義主張の成した事。被害者にどれだけ誠心誠意謝ったとしても、意味のない事なのです。
 
主義主張…言いようによっては大儀と置き換えられるわけですが、その大儀を掲げたから全てが許されるわけでもない事を、世界は認識しているわけです。しかし、それよりも根深い闘争がその意味をかき消してしまう。
最近の現実が、物語の虚構をはるかに凌ぐドラマチックなものである。そんな表現をした方もいましたが、それは人の想像が弱くなったのか、もしくは想像を逸脱した状況となっているのか。そのどちらかでしかないのだと思うわけです。
 
交通事故、交通違反。これにも、事故や違反を起こした際に主義主張があり、しかし、多大な迷惑をかけているもしくは法律を破っている行為であるのは間違いありません。
 
人の何倍以上の重さと固さと速さを持つ凶器が動いている。こう表現すると、どれだけ恐ろしい話だろうと思いませんか。
 
事故を起こした際に運がなかったと表現される方がいます。コレは間違いです。そうした性根である以上、それは運転免許をどのような境遇であっても返上するべきです。必ず、事故をまた起こします。その際に自分の命を失うか、もしくは人の命を奪うのか。そうではなくても、誰かの運命を大きく変えてしまう事でしょう。
 
車がなければ生活出来ないとしても、むしろ、そうした性根の方が運転している事。これはテロ以外の何物でもないのです。
 
交通事故は不注意で起きるのではなく、加害者の事故を起こすであろうという状況が必然で起こしているものです。そして、そこには明確な刑事罰が与えられるのです。言ってしまえば前科者です。
 
免許証は公道で全てのことを許される許可証ではありません。公道において法律を理解し、遵守するその事に対して許可された証であるのです。
守る事が損をするのではなく、守る事が当たり前である。これが交通事故というテロをなくす一番の近道であるわけです。それを出来ない以上、法律の強化がなされていったとしても、それは仕方がない事と思うべきなのでしょう。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年06月14日

個の見かた【「ルパン三世 GREEN vs RED」(2008年 ルパン三世 GREEN vs RED製作委員会)】

 突然ですが…思うに、人というのは生まれてから死ぬまで個人であるわけです。
 
いきなりなんじゃらホイと思うかもしれませんが、今回のお話は個性でゴザイマス。



 さて、今回は2008年に発売されました「ルパン三世 GREEN vs RED」です。

 一人の男が欄干にもたれかかり、その手に持ったアルバイト情報誌を見ているところから、物語は始まる。情報誌を投げ捨て、振り返るとそこにあるのは、青いフィアット。その中を覗き込むと、灰皿には山のような吸殻。そしてラジオから流れるニュースでは、指輪盗難の情報が流れている。
 
その犯人とされるのが、緑のジャケットを着たルパン三世であると。
 
男の手に持つ、その指輪。そして自分がルパンだといわれる事に驚く男。男は孤児院の出身者であり、園長先生からは悪い事をしなければ上等なのだと教えられていた。それは悲観的になる事なく、生きる事が良い事。しかし男は日々の生活を少しのアルバイトとスリで賄っていた。
 
一方、人生をかけてルパンを追い続ける男が日本に向けた飛行機に搭乗していた。銭形幸一。ルパンの噂を聞きつけ世界を飛び回るが、しかし、本物ではなかった。
 
 
日本でもニセルパンのニュースが飛び込んでくる。あのルパンが万引きで逮捕されたというのだ。ニュース映像に流れる顔は確かにルパン。しかし、それを見たルパンが憤り、一斉に活動を開始する。
 
そう、その時、ルパンは一人ではなかったのだ。
 
ルパンがまるで姿を隠したのと同じに、世界同時多発的にルパンが出てきた。そして、緑のジャケットを着た青年、ヤスオもまたそんな模倣ルパンの一人であった…あったはずなのだ。あの日、あの橋の上で同じワルサーP38を構えて見据えている赤いジャケットのルパンが現れるその日までは…。
 
 
大変に意欲作であり、同時に問題定義の作品でもあると思います。
 
今までのルパン…というよりも、ある意味、これまでのアニメに対する疑問・批判の答えであるような気がしてならないわけです。
 
この作品のテーマと言いますか、根本にあるのは、「ルパン三世とは何ぞや」という事です。それは原作からアニメ、ゲームに小説、立体などの全ての作品においてのルパン三世のあり方に対する問いかけでもあります。
 
顔かたち、身長や体重に対する正確無比な比率からなる創造。ある種、原作者でもあるモンキーパンチ氏ですら、毎回描き続けるルパンが本物であるのかと指摘しているようなものです。
 
 
昨今の作品において、見ている側がその作画に関して「作画崩壊している」と非難している場合があるわけです。これは、長年続くマンガ作品においても言われる事ですが、ルパンはその顕著な例と言えるのかもしれません。
 
文字としてみれば、東洋風でサル顔。華奢な体つきに見えて、大変な肉体派。頭脳明晰で手先も器用。女に対しては節操がなく、しかし、無用な殺しはしないが、悪人には容赦が無い。
 
所が人によってサル顔の定義も異なりますし、肉体派といっても、どれだけ筋肉質なのかもわかりません。何より、ルパン三世と名乗っておりますが、その証拠は何一つないわけです。
 
 
「ルパンとは何ぞや」。劇中、それを理解しているのは次元大介、石川五右衛門、峰不二子、銭形警部、そしてルパン本人であるわけです。
 
ルパンはルパンであったのではなく、ルパンである必要があるだけ。
 
最初からルパンがいたのかいなかったのかではなく、ルパンであったのか、ルパンでいれたのか。これは、全てのマンガやアニメなどの作品に言える事なのでしょう。
 
特にTVアニメは数多くの作画監督・動画監督の手で作られます。それぞれの監督の癖が必ず反映されてしまうものです。中には、ディフォルメする方も見えることでしょう。果たして、それがどれほどまでに問題であるのか、とも言えるわけです。
恐らく、設定に厳密にして細部まで忠実に再現できる人というのは、まず、いないのではないのでしょうか。本人でさえ、日ごとに変わっていくものなのですから、他人がやれる程度はあくまで模倣の範疇を超えることは出来ないわけです。
 
しかし、それもあくまで同じキャラクターであると言えるのは、それが絵だけで決まるものではない、と言えるからなのです。
 
そのキャラクターたちにも、それまでの人生があるはずです。また、周りには関わってきた人・物があるはずです。それを無視しての人生などありえません。それが匂わせれるかどうかが、キャラクターの芯を作り上げるのだと思います。
 
つまり、実在する人と大差はなく、空想の人であったとしても、そこに存在する「芯」を見てそうであると決まると言えるのかもしれません。
 
 
この作品で言えば、ルパンのジャケットが緑であろうと赤であろうと、日本名でヤスオと名乗っていようとも、その芯がルパンであればそうなのだと言う事なんでしょう。
 
人であっても動物であっても、成長すれば外見はかわるものです。安易に作画崩壊などと言うのではなく、中身を見て判断するだけの度量も必要ではないのか、と思う次第なのです。



 個人を尊重する世の中…聞こえは良いですが実際は大変に生き抜くい世の中であるわけです。個人情報保護という名の下に過敏に反応するのは稀代の綺麗好きとなってしまった日本人の悪い癖なのかもしれません。結果的に、こうしたネットの中では個人情報が流れまくっている反面、個人を特定しない…いわゆる「ななしさん」があちらこちらに増殖中であるわけです。
 
さて、個性という問題は、実の所、何も問題にするべき事ではないわけです。上の方に記載しましたけど、人は誰一人として他人と同じ人物はいないという事です。これが個性=パーソナリティであるわけです。
 
当たり前の話ですけど、実際の話、これが良く忘れられてしまいます。
 
学業・仕事・恋愛。○○のようにだとか、○○は出来るのにとか。とかく他人と比べる事で個人を確認する風潮が、結果、日本における学歴優先の社会を作ってきたかのように思えてならないわけです。これは既に競争ではなく、狂騒というほどの騒ぎとなり、結果的に受験戦争という歴史も作ってきました。未だにそれが脱する事が出来ない原因は、結果的に言えば、個人を見る能力を失ってしまったから…としか言えないわけです。
 
 
例えば、仕事にしても、受験にしても面接があるわけです。
その面接官は一体、何を見て判断しているのでしょうか。態度・口調・応対。それぞれなのでしょうけど、結果的に人と関わりあうのはその後の話です。つまりは、入社・入学してからの話。それから、その人物の事が理解できるはずです。
所が、実際に聞いたことのなる話として…
 
「○○(大学名)を出ていながらなんでこんな事もわからない!」
 
…という言葉が出てきたりします。これは、ある大学を卒業していれば、これぐらいの事は理解して当然だ…もっと言ってしまえば、40を話して120わかるのは当然だと言っているわけです。
 
なんて乱暴な話なのでしょうか。
 
学業というのは、あくまで学問を修了する事であります。社会に出てからの、ましてやその会社の内情など、知る由がありません。そこに研修制度があったとしても、実際に働いてからわかる事など湯水のように出てくるものです。
 
つまりは、その文句を言った人は、とある大学の人間であれば全ての者が理解できるはずだ=教えなくても理解できるんだから、なんて楽なんだと個人を見ずに大学を見て、尚且つ自分の事だけを考えている…あからさまにではなくても、どこかでそう考えているはずなのです。
 
 
個性とは、その人の歩んできた人生が経験として積み重なり、形成されていくものです。恐らくソレは死ぬまで変わり続けるものでしょうし、そうでなければ、成長があるはずないのです。つまりは、個性を伸ばすという事は人を成長させていく事と同意義でもあるわけです。
 
関わった人、物、状況。それらが全て教科書であり先生である。そう理解して人に接していけば、肩書きだけで人を見るという事もなくなり、結果的に「思いやる」事が出来るようになると思うわけです。
 
 
昨今頻発している残虐な事件。それぞれを何かに当てはめようとする動きが多いわけですが、結局、それは自分の理解できない事を理解できないままで納得しようとしている浅はかな行動・言動であると思います。
どうしてそういう事件が起こり、犠牲が増えていくのか。それは人が人を認める事の意味のはき違えから来ているような気がしてなりません。地位・財産・権利。それだけで人を認めるというのであれば、勝ち組・負け組という情けない日本語が世界に広まるのもそれほど時間がかからないような気がするのです。
 
それで、他国にODAを出し、平和を論じるなどおこがましいと思うのですが…。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年10月14日

“死”を見つめるという事【「鴉 -KARAS-」(2005~2007年 タツノコプロ)】

 年間に犬や猫が処分される件数、実に10万件に届こうとしている勢いです。実際には8万件強でありますが、昨今のペットブームでその勢いは恐らく止まることを知らないのではないのでしょうか。

一方で死刑廃止国際委員会が今年はどこでしたっけ。どこでも良いのですが執り行われており、そこで未だに死刑制度を廃止しない日本を始めとする国を批判し続けています。それはどうしてか、もちろん、人権を無視した蛮行であるというのが彼等の主張です。


 さて、今日は毒を吐く事を決めました。それは何故か。死刑を廃止する云々の前に、まず自分たちの立場を見てみようという事です。

私は恐らく一日に2合ほどの米とそれに見合ったおかず、更には水分を摂取して生きています。言い換えれば、それだけの物に生かされていると言う事です。当然、何かしらの問題、つまり食せない状況ではない限り、残さないように気をつけて食しています。それがいかに自分に不味い場合であってもです。

ですので、最初から食べれないものを明言することにしています。その食材が無駄になってしまうからです。これらは勿体無いからという理由だけで行っているわけではありません。その食物が無駄死にであるからです。そして、こうした事は少なくとも私は私の周りまでにしか影響を与える事はできない事です。


 私はどれだけの命を、その足の下にして生きてきたのでしょうか。


 さて、今回は2005~2007年に発売されました「鴉 -KARAS-」です。

 東京。そこには既に昼も夜もなく、まさに不夜城の如き世界が繰り広げられている。しかし、そこに住んでいるのは、何も人間だけではない。闇夜の住人である妖怪もまた、その都市に住んでいる住人である。

彼等は決して人を襲いはしない。ただ、自分の存在を知ってほしいだけ。そして、人が人だけではない、生きていく為の感謝の心をなくして欲しくはないと願っているだけであった。

だが、それも一人の男によって変わっていく。それはかつて、この街を守り続けていた男が起こした反乱であった。

妖怪は機械化され、そして人を襲い続ける。それは都市伝説のように街の中を侵食し続けていく。そんな中、恐らく人であろうと思われる男「鵺」が東京に降り立つ。同時に、街に新たな守り主が降臨する。

その名は乙羽。この街を守護する新たなる鴉であった。


 タツノコプロ40周年を記念して作られたOVAがようやく最終巻まで発売される事になりました。全6巻・各1話ですが、CGが見せる迫力のある映像と、ストーリーの持つ悲しさが良い感じで混ぜ合わさっている作品ではないかと思います。

この根底にあるのは、あくまで人は人だけで生きているわけではないと言う事。そして、人は人だけで今日の繁栄を成して来たわけではないと言う事。これらは案外、忘れられている事でもあります。

完全懲悪のストーリー…ではなく、いわゆる敵となった相手にも、危機感や焦燥感を覚える事があっての行動であるというのがしっかりと書かれていましたし、その危惧は何も彼等を倒して終わりではないという事。更に言えば、このストーリーにおける人という存在がその事をしっかり考えて行動している事まで盛り込まれた、特盛のような濃い話でありました。


 キャラクターの描写にはかつてのタツノコを思わせるような、それでいて、不自然に思わせないようになっていました。見ていて懐かしさも感じました。

懐かしさと言えば、背景も今の東京というよりも、もし、明治・大正っぽさをそのまま残してみたら、とういうような感じの東京になっていて、今のような鉄骨!コンクリ!という硬いイメージではありません。しかし、それが妖怪というものを加味してみたら、しっかりしっくり来るわけで、流石としか言い様がありません。


 結果的に言えば、6巻を見れば大概の話は理解できます(つまり風呂敷は畳まれます)が、それまでの話がそこにつながる上で何か必要であったか…という疑問は残ります。特に4巻の話は少し、説明不足のまま暗転が連続したために、時系列を理解することが難しいような。結構、きわどい話であったのは間違いないんですけどね。

また、最初の巻では鴉が闘うシーンに関しては、CGが使われ、効果的であったと思いますが、その速度を表現使用としすぎて、また、暗闇の表現が行過ぎて見難かったという印象しかなかったので、折角の戦闘シーンが…勿体無いと思ってしまうわけです。音楽も盛上げるのに十分なものであっただけに残念です。


 少し不満はあるものの、しかし、40周年の作品としては十分楽しめるものではないのでしょうか。特にこれまでタツノコプロの作品を見てきたオジサン・オバサン諸氏に見ていただきたい作品でありますし、若い方にはこれが老舗の実力だということを見て欲しいものです。


 死刑廃止、それは多いに唱えていただいて結構です。主義主張は当然の話です。しかし、ならば犬や猫などの人以外の動物の命を不用意に切り捨てている人に対して、どのように命の大切さ、言ってしまえば今まで行ってきたであろう不道徳を教えていくのかを示してもらいたいものです。

死刑に反対する人の意見でこういう言葉がありました。

 「死刑を実行する人の気持ちを考えれば、それは惨いことだ」

では同じように言いましょう。

 「処分するために、一つのボタンを押す行為。それは惨い事だ」


 グリーンピースという団体がいます。彼等は日本の捕鯨に反対しています。その理由は、鯨などは頭の良い動物であり、食す事は蛮行である。食べ物ならば牛・豚がいるではないか。

いいえ、命というものに上下はありません。全て等しい命であり、その搾取によって生き長らえる事しか出来ない私たちは、その意味をもう一度考えてみるべきなのです。主義主張は結構。しかし、そのためにそれ以外の命を軽んじる発言は絶対に認めないし、理解も出来ません。


 毎日のように、処分=死刑にさせられている命がいる事を全ての人たちが知るべきです。その同じ口で人権や一部の命の事のみを話す事が、どれだけ狭窄した世界であるのかを心の底から理解するべきなのです。

人の命だけが尊いのかどうか。もし、この答えがYESであるのならば、この世界から争いが消えることはないのでしょう。それは突き詰めていけば人とは誰なのかという方向に進んでいくからです。

同じように、命とは何ぞや。


 全ての命はいずれ亡くなる運命にあるわけですが、それを自由に出来るから人は万物の霊長と呼ばれているわけではないのです。また、生きる権利は何も人間のみに与えられた特権ではないのです。その上で、何故死刑が存在するのか、または存在しなければいけないのかを議論するべきではないのでしょうか。

命とは何ぞや、思うにそれは繋いで行く物であると私は考えます。故に、無為に途切れさせる事が有ってはならないわけで、その行為には何かしらの意味があるべきであると考える次第です。


私たちはあらゆる物に生かされている事を知るべきです。それは宗教でも哲学でもない、実に単純な原則であるのですから。

ちなみに、私は死刑制度を反対していません。何故なら、相当する罰は受けなくてはならないわけです。しかし、死刑は殺人である事に間違いはありません。ならば、死刑となる事件を起こしてしまった事、そうした世界にした事に反省を促すべきであり、そのために死刑となった命を忘れてはいけないと思うわけです。

更生もしくは監視が完璧に行えるようであれば、死刑は廃止するべきでしょう。しかし、そうではない日本では、今、死刑を廃止しても何のメリットもありません。単に死刑を免れる口実を作るだけになるわけです。

よって、今の日本の現状では死刑廃止は早すぎると言っても過言ではないと思っています。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年02月27日

戦争を知らない…はずのない子供たち【「鎧伝サムライトルーパー MESSAGE」(1991年 サンライズ)】

 例えば、北朝鮮にしろアメリカにしろ、自国の利益を優先に考えるのは当然の話であるわけで、そこには人が考え人にしか見えない線が大地に海にはあり、それをまたいだ先の利益も求めているからこその欲求であるわけです。それを賺したり脅したりで話し合いをする事を交渉というらしいのですが、それが決裂すれば「力」によって決着を付けたがるように人とは出来ているようです。爪も牙もない人が持つ力とは一体何なのでしょうか。その結果起こることは…。言うまでもなく結果は戦争であり、その傷跡は未だに世界中に残っているわけです。
 
 未だに残る無慈悲で無感情な力は小さな子たちの未来を奪っている事実があるわけです。私たちが無益な力を放棄できる日は永遠に来ないのでしょうか。



 さて、今回は1991年に全5巻リリースされました「鎧伝サムライトルーパー MESSAGE」です。

 前作、煌輝帝伝説において、自分たちの鎧を煌輝帝と共に砕いた遼たちサムライトルーパー。しかし、その力は未だに彼らの身体に存在していた。そんな彼らも、その事を忘れるようにそれぞれの生活をしていたが、天空こと当麻の元に不穏な影が近づく。その人物は当麻を誘うように副都心の都庁に降り立った。その展望階に来た当麻は、鈴薙と言う女性から一つの話を見せられる。
 
 大戦の最中、とある社。そこには先代の天空の鎧の持ち主によって厳重に封印された鎧が収められていた。そこに降り立つカオスはその封印を解き放つ。いずれ訪れるであろう妖邪の襲来に備えて、その使い手を育てるために…。しかし、その天空の鎧のそばに鈴薙が立ち、カオスに話しかける。
 
 この鎧は使ってはならない。
 
 そう、鎧は数々の怨念を生み出していた。その強大な力は時の権力者にとって、魅力的であるのと同時に脅威でもあった。その持ち主が取り込まれようとし、同時に排除されるのは当然の話であった。
 
 そんな歴史の中で、一つの舞台劇が行われていた時代があった。現在にも残されているその文献の中身は、遼たちサムライトルーパーの歩んできた道そのものであった。つまり、彼らの痛み、苦しみは既に決定された物語として記載されており、あまつさえ、上演されていたというのだ。その事実を知った当麻は、一人、その謎を解明するべく都庁に向かったがしかし、鈴薙の手によって新たに作られた天空の鎧に封じ込められていまう。
 
 鈴薙の目的。それはわからないが、しかし、当麻に始まり伸、秀と次々新しい鎧に取り込まれていった。そして、征士が鈴薙の目の前で鎧に取り込まれた時、遼は四人のメッセージを聞いていた。そこに明確な結論はなかったが、しかし、それはわかっている話であった。
 
 そして遼は都庁に向かう。自分たちの始まりの場所に、全てを終わらせるために…いや、これからも続けていくために。手向けとして身につけられた烈火の鎧を纏い、封じられている四人に呼びかける。それは今までのように力を求めての呼びかけではなかった。
 
 
 
 本来、煌輝帝伝説で終焉を迎えるはずでした本作品は、本来、勧善懲悪の活劇物として表現されていたはずのものでした。しかし、そこに彼らトルーパーたちの基本となる心の話を織り交ぜた時、物語は力だけで全ては解決出来るものなのかと言う話になっていったわけです。その最高潮が煌輝帝伝説であったわけですが、しかし、そこで行ったことは力の放棄でしかなかったわけです。
 
 それまで心と力の葛藤に悩んでいた彼らの結論が、単純な放棄では物語として完結した事にはなりません。それでは心の力(TVシリーズで心の修行というのがとある回に出てきているのです)の意味が破綻してしまうわけです。
 
 このメッセージでは明確な敵は存在しません。故に、鎧で戦う必要は皆無であるわけです。むしろ敵は存在しているようで、していない、そんな有耶無耶さが彼ら一人一人の語りという形で物語を進ませる結果になったわけなのでしょうが、作品としては好まれなかったようです。
 
 1~4巻までは一人一人ずつ鈴薙が新しく作った鎧に封印されていきます。その目的は、その世界の中で力の象徴として描かれている鎧世界の中にいる超絶的な力の象徴である煌輝帝を再びこの世に呼ぶ事にあったわけです。この鎧世界というのは、仏教で言うところの修羅界に似ています。しかし、望むは力であり、目的は勝利(単純な破壊ではなく、勝ち続けるための力と考えた方が自然であるのです)ですが、この世においてはその絶対的な力によって無限の破壊が行えるものであり、使い方によっては世界の滅亡が可能であるわけです。
 
 力とは簡単に誰でも持つことの出来るものです。18歳になれば、車を運転する事も可能になるわけですが、その車という力も間違えた操作をすれば、人を傷つける凶器になります。それと何も変わらないわけですが、その力を制するための心についての話をこのシリーズではしているという事なのです。
 
 ですが、単に押さえつけると言う話ではなく、力は力として存在し、それをどう制していくのかという事に話は向かっていきました。それまでの鎧の持ち主は封じる事を、排除する事を懸命に行っていたわけですが、主人公たちは鎧(正確には鎧の力)と共にあっても、それを無用に使うことなく日々を進んでいく事を決めたわけです。
 
 排除すれば、そこまでで終わりのような気がしますが、結局は目を背けただけとも映るかもしれないのです。問題として存在する様々な「何か」を真正面から受け止め、それをどのように解決していくのかを模倣する。物語は終了しましたが、その命題にどのように答えていくのかは、視聴者がそれぞれに考えていくものであるというメッセージがそこにあるように思うわけです。



 前回にも記載しましたが、ヒーロー系における力の葛藤というのは、少し前の作風には良く出てくる命題でした。それ以前は勧善懲悪の図式が出ていましたから単純に正義の力を求めるだけでよかったのですが、勧善懲悪が崩れた際に起こる、正義の建前と本音によって、力は単純な行為とその結果になり、場合によっては力を捨てる事に正義を見た作品もあったわけです。ここは、戦争放棄を謳っている日本にあっているのかもしれませんが、しかし、実際には力は放棄しただけでは消滅しないという事が昨今の情勢からもわかってきた話であるのです。
 
 恐らく戦争というのは、第二次世界大戦が終わって後60年以上経った現在でも世界で起こっているものですし、その影響と言うのが一つ世界を動かしている要因であるのは間違いありません。その原因が宗教であろうと資源であろうと、結果、力を振るうことは人の決めた事であり、それを止めるのもまた人でしか出来ないという事になります。
 
 これは宗教ではなく、厳密にして原則な話であるわけです。どのような媒体でもかまいません。ただ人として、限りある大地に立つ人として何が出来、どうするべきなのかを考える必要性はあるのではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年02月20日

様々な「話」を理解するという事。【「鎧伝サムライトルーパー 煌輝帝伝説」(1989~1990年 サンライズ)】

 とあるきっかけで遅ればせながらアニメ版の「げんしけん」を見ているわけですが、その中に、オタクの青年と付き合っている普通の女性がいます。恐らくは、テレビなどで映っているアキバのオタクたちを見て鼻で笑うか気味悪がるか、そういう女性です。しかし、彼氏はオタクの巣窟にいるものですから、毎日が不機嫌であるわけです。
 
 さて、彼女は何故不機嫌なのでしょうか。
 
 それは、彼氏のいるその世界に自分の中に共通点がない(と思い込んでいる)からです。実際、これにはおかしな点があります。何故ならば、人に自分の価値観を求めるに当たり、その動機として常識を使うからです。常識とは何なんでしょう。その世界(といっても自分の周り、おおよそ見える範囲内の矮小な世界)にとっては、自分の常識が絶対であり、それを覆す事は世界の崩壊を促すからです。
 
 これはオタクの世界にも言える話ですし、それだけではなく他の世界でもいえる話です。大きく括ってしまえば、日本の常識は世界の非常識、という事も言えるわけです。では、常識って何なのでしょうか。大辞林にはこのように記載されています。
 
 「ある社会で、人々の間に広く承認され、当然もっているはずの知識や判断力」…しかし、もう一つの方が納得のいく意味ではないのでしょうか。「「共通感覚」に同じ」。
 
 これは得心の行く話です。共通感覚。そう、常識というのは共通感覚であり、その世界における当たり前の話であるわけです。となれば、共通感覚というのは人が文字や言葉、身振り手振りで伝えあう事=コミュニケーションによって培われていくという事になるわけです。
 
 さて、最初の話、彼女は何故不機嫌なのでしょうか。
 
 答えは、コミュニケーションを培う事によって自分の世界が壊れるのを恐れているという至極単純にして明快な話になったわけです。これは何も、この物語特有の話ではありません。例えば、団塊の世代が今の若者に対して理解を示せない事にもいえる話ですし、その逆も然りなのです。
 
 自分が自分の世界を保つというのは非常に困難な話です。たとえ譲れない根本であったとしても、それは容易に破壊される可能性もあるわけです。今、受け入れる側の話だけをしていますが、それこそ、送り手にも同じことが言えるわけです。理解されないから相手に不可・劣化の烙印を押すのは如何なものなのでしょうか。
 
 受けるにせよ、話すにせよ、一歩引いた場所から相手の様子を見つつ酌み交わす。それは遠慮ではなく思いやりというものです。年齢も性別も関係ありません。言葉を繰る人と言う生き物が出来る不器用でも暖かいコミュニケーションであるのです。



 さて、今回は1989年から全4巻でリリースされました「鎧伝サムライトルーパー 煌輝帝伝説」です。



 眩しい光の下、彼らは思い思いの生活を楽しんでいた。だが、ただ一人、全ての始まりである新宿に向かう少年の姿があった。烈火の鎧を身に纏う遼は、鎧から何かしらの異変を感じ取っていたのだ。時、同じく、新宿では突如として吹き荒れた熱風と共に、サバンナの蜃気楼が見えていた。そして、ビルに絡みつくようなジャングルの幻想。更に、人々が避難した街中に立つ遼の前に、あるか遠いあるはずのない砂漠から一人の人影が近づいてくる。
 
 海辺でその異変を知った秀と伸は急いで新宿へと向かい、同じ時、軽井沢の避暑地へ純の宿題を見に来ていた当麻もナスティたちと一緒に向かっていた。遼と同じように鎧から異変を知った征士も、同じように新宿に向かっている。何かに導かれるように、サムライトルーパーは同じ場所に集結しつつあった。
 
 その新宿では遼がサバンナからの人影に翻弄されていた。アンダーギアを纏い、尋常ならざる力を持った遼。その速度は車でもぴったりと追いつくのは難しいが、しかし、その人影は吸い付くようについてきた。しかも、生身で。その人影が自分と同じぐらいの少年である事をそのとき初めて知るのだった。
 
 少年はその手に持つ巨大なブーメランを、そして自分の肉体を駆使して遼を追い詰めていく。しかし、そこに当麻が、征士が合流する。そんな彼らに対してサバンナからの少年は、何かジェスチャーをする。鎧を、纏え。そう解釈した三人は鎧を身につける…しかし、サバンナの少年はそれを見て不快とも取れる表情をする。
 
 遅れて秀と伸も合流する。鎧をまとって戦う相手を見た伸は相手が生身である事に驚愕する。しかし、それ以上に驚いたのは、鎧をまとった仲間を見た時であった。まるで、それが妖邪のように見えたのだ。しかし、相手の力量を知った伸は秀と共に武装して加勢する。
 
 鎧を身にまとった五人でも生身である少年には歯が立たない。ついに、当麻は天空の矢を少年に向かって放った…しかし、それを素手で掴み、しかも投げ返した。驚く五人の前で更に少年は驚きの行動にでる。
 
 天の太陽に仰ぎ、祈るように、踊るように、そして何かを叫ぶ。
 
 その声に踊りにこたえるように、少年の下に出現し、その身を覆ったのは、五人も良く知る鎧であった…いや、その形は知るものの、色はまるで正反対であった。遼の纏う白い鎧、煌輝帝の鎧。そう少年の纏ったのは黒い煌輝帝の鎧であったのだ。
 
 
 
 完全なテレビ版の続編として、そして、一応の完結編として製作されたのがこの煌輝帝伝説でした。実際には、その後、もう一つのOVAで完結するわけですが、その話はまた次回という事で。
 
 さて、サバンナからきた少年ですが、彼の名はムカラといい、第一巻のサブタイトル(太陽のムカラ)にもなっています。顔立ちは遼によく似た少年で、遼も設定上では野生児であったわけですが、それに輪をかけた野生児となっています。
 
 基本的には無口で強く、しかしセリフは変身と叫び声、あとは最後にナリアという幼馴染の少女に声をかけるのみと、まるでボトムズのキリコみたい(彼もその当時は「何?」「フィアナ」「うむ」という三つしかセリフがなくても成立したと揶揄されたキャラ)でした。鎧と纏う際にトルーパーたちは武装と叫んで舞踏のように踊るのですが、そこはアメリカでそれもおかしいのだろうとして、祈りのような踊りになったのでしょう。その印象が強く、OVAキャラの割りにはすんなりとトルーパーの世界に入ってきたように見えました。
 
 基本的には、TV版では設定のみになっていた鎧世界の話にスポットを置き、鎧と心の有り様を示そうとしたようですが、どうにも四巻では説明しきれない部分があったのでしょうか。最後に何故、遼たちとムカラが戦う事になったのかが、よく考えないと理解できなくなってしまっていました。また、現実世界と鎧の有り様についても話がなされなかったので、結局は黒い煌輝帝も何のために出てきたのか、ストーリー的には不明な状況になったとも言えるわけです(その補完をしたのがメッセージであるわけです)。
 
 要は力と力のぶつかり合いは、予想以上に被害を出すものであるとのメッセージを組ませたかったのかもしれません。それは今までも数多くのアニメで取り上げられてきた命題ともいえるものですが、それをうまく表現しきった作品は現実にあるとはいえないのではないのでしょうか。この煌輝帝伝説もその命題をこなせなかった作品であるのはいたし方のない現実なのでしょう。ただ、だからと言って、そうした事を考えずにこうした作品を作る事は出来ない話です。戦いを一つのテーマにしている以上、必ず通る道であるわけですが、果敢に挑戦したその姿勢には共感が持てると思うのです。
 
 そして、その挑戦は一年の期間をあけて「メッセージ」として登場する事になります(続く)



 いわゆる同人誌バブルと揶揄される作品として知られるわけですが、商業における二次商品の価値を知らしめた作品でもあるとも言えるのです。恐らく、この作品(もちろん、その前にあった聖闘士 星矢、キャプテン翼も含めてです)がなければ、現在のアキバにおける萌え産業もなかったものと思われるのです。
 
 それまでの二次産業と言えば玩具が主流でした。いえ、これは間違いですね。おおよそ原作付きではないアニメや特撮に関しては、玩具が一次産業であり、その玩具を売る媒体としての特撮でありアニメであるわけです。しかし、特にアニメに関しては、グッズと呼ばれる商品の出現により、単なるなりきり玩具だけではなく、まるでアイドルグッズと同じ様相の商品が数多も出現してくるようになりました。いわゆる、アニメイト商品やブロッコリー商品など今も脈々と続く商品は、そうした媒体も商品としてなりえる結果をしめしたと言えるわけです。
 
 現在では、メイド喫茶やネットアイドルなど、少しずつ形態を変化させているわけですが、この先2年で新しい何かが出てくる可能性もあるわけです。もしかすれば、それは萌えに変わる新しい「何か」かもしれないわけで、その時、例えばアキバはどのように変化するのか一つの楽しみであると思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年02月13日

最近で印象に残った作品…ウ~ン?【「鎧伝サムライトルーパー外伝」(1989年 サンライズ)】

 仮面ライダー電王のレビューに関しては、KLEINES HUTTEというBlogで記載しようかと思います。という事で、こちらではちょっと別の話を。
 
 最近、見たアニメの中で大変に面白かったのは、ガン×ソードなのですが、ではそれ以外は見ていなかったかと言うと、そうでもなく、結構しっかりと最後まで見ていたりします。しかし、印象に残らないのが多数であると言えるわけで、昨日もDVDの確認をしていたら…「あー、こんなのあったなぁー」という感じのものが多数あったわけです。
 
 何故にそうした印象になってしまうのでしょうか。それは、どこかで見た事のあるものだから、それとも作画や声優が下手であったから、物語をまとめきれなかったから…恐らくどれも違うのでしょう。強いて言うとすれば情熱を感じないからです。
 
 私が苦手としているジャンルで萌え系があります。おそらくそうなのであろうアニメで「ねぎま」というものがありますが、ふっと見てみると面白さが感じられるわけです。そこにはこだわりを感じます。キャラ同士の交流は良くわからないのですが、魔法を使うシーンに関しては良い意味でのバンク使用であると思います。
 
 別にディズニーのように全てを描けという事もなく、むしろ、日本のアニメーションに関してはバンクフィルムを上手に使うのが良いと思うのです。それはよく言っている話なのですが、時代劇における殺陣と同じように、また水戸黄門の印籠と同じように、締めとして使われているのが適切であるわけです。例えば、エルドランシリーズや勇者シリーズなどの必殺技、例えば、魔女っ子系の変身シーン。これらの作画や演出がキチンとしていれば、締める要素の一つは十分満たされているわけなのです。
 
 他にも、ストーリーとしての流れの要素的な締めというのは連続物でも重要なわけですが、(例えば、おジャ魔女どれみドッカ~ン!の40話「どれみと魔女をやめた魔女」は魔女という存在に関する事を主人公に教える重要な話であり、これがあったからこそ、その後の話が締まったとも言え、結果的にそれまでの全体における話のまとまりがとれたとも言えるわけです)そのような全体を活かす為にも、部分の重要性を見せて欲しいと思うのです。
 
 単に綺麗な作画であっても、そこに締めがなければだだ流れの物語になるわけですから、それは作品として不出来であると言えるわけです。ならば、多少作画が崩れていようとも、締まりのある情熱的な作品を見たいと思うのです。



 さて、今回は1989年に全二巻リリースされました「鎧伝サムライトルーパー外伝」です。


 テレビで大好評であったサムライトルーパーのOVA第一弾としてリリースされたものです。内容的にはテレビ版での敵であった、アラゴや妖邪界は一切出てこず、舞台も日本からアメリカに移りました。
 
 日本・新宿。主人公の一人である真田遼の誕生会。そこにくるはずの伊達征士の姿はなく、しかも、遠く離れたニューヨークで征士の鎧が出現し、人々を襲っているいう。遼はただ一人でニューヨークへ向かうつもりであったが、皆の気持ちは同じ、残りの仲間たちもニューヨークへと向かった。ニューヨークでは確かに不可思議な鎧が街中で暴れていると言う事実があり、それを秀麗黄、羽柴当麻も目撃する。合流した遼と毛利伸はヨロイギアを武装し、誰も纏っていない光輪の鎧と対峙する。その鎧から煙のように何かが立ち上り、そこに現れたのは屍解仙となのる妖術使いであった。
 
 
 
 外伝という様相を持ちながらも、その内容にテレビとのつながりは一切なく、おまけのような感じで発売されたと当時は思っていたわけですが、考え直してみれば、玩具の売上げが振るわなかったがしかし、キャラクターとしての人気が高かった番組においての映像=ビデオ発売としての力を試したのではないのかと思っているのです。その大きな理由は、その後に煌輝帝伝説というOVAが発売されるのですが、こちらは明らかにテレビがあってのOVAとなっており、また、大々的に販促活動を行ったからです。先に手ごたえを感じなければ、例え人気があったとしてもこれだけの行動には出れなかったのでしょう。
 
 内容的にはドラマCDでも十分可能な内容を一つのOVAとして発売した事が、今更ながらこの作品の強さを感じてなりません。というよりも、むしろ、当初はスタッフがファンに対する贈り物的な感じがしてなりませんでした。それほど、キャラクターに重点を置かれている作りになっているわけです。
 
 最終的には鎧をまとって戦うわけですが、特に下巻に関しては終盤の戦いもそれほどしっかりとしたものではなく、バンクフィルムを利用し、その間を埋めたりエフェクトをかけたりしたもので「戦い」というものにはそれほど重点を置いていない作りになっています。鎧をまとう前のアンダーギアの戦いには力を入れていましたけど。
 
 
 
 この頃のトルーパーは終わって尚、その盛り上がりに終わりが見えないほどのもので、この外伝からメッセージまで販促活動しての試写会が東京だけではなく名古屋や大阪でも行われていました。当時、試写会を見に行っている訳ですが、その大半が女性…というよりも男性を見つけるのに困難な状況であったのを覚えています。当時もそうですがトルーパーで男性ファンは珍しいと言われたものです。
 
 そしてなんと4ヵ月後に、早くもOVA第二弾が発馬される事になりました。それが煌輝帝伝説です(つづく)



 今、様々なアイデアの出尽くした感のあるアニメ・特撮・漫画業界ですが、しかし、そのアイデアは案外外の世界にあるものです。ガンダムなどの特定のブランドに捕らわれている感のアニメ業界ですが、さて、衝撃的なアイデアは誰が突きつけるのか楽しみな事です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年02月06日

少し期待感がもてる…かも【「機甲界ガリアン 鉄の紋章」(1986年 サンライズ)】

 仮面ライダーの新しいのが始まりましたが、平成ライダー(クウガと響鬼前半を除きます。でも、これらの作品の方が私は好きです)の中ではメリハリが利いていて面白いというのがまずもっての感想です。なるほど、確かにうわさで聞いていたアニメでの仮面ライダーという状況が見え隠れしておりますが、それはそれ。やはり、実写で動いている方が面白いという事なのでしょうか。またこれは暫くしてからレビューでもしてみたいものです。



 さて、今回は1986年にリリースされました「機甲界ガリアン 鉄の紋章」です。


 前回、紹介しましたテレビ版とは異なり、設定を再構成し物語を一から作り直した作品で、その出だしからして異なります。マーダルは各地を放浪し、そしてある場所にたどり着く。そこは湖、その端を矢にくくりつけた火によって爆薬に点火し爆破すると、水が徐々に引いていく。すると、そこに現れるのは数々の岩の柱であった。その一つを持っている剣で叩き割る。岩が割れていき、中から出現したのは巨大な鉄の蛇神であった。その掘り起こされた巨人たちを駆使し、マーダルは世界統一を成していく。
 
 しかし、そんなマーダルの勢力に抵抗し続ける部族、鳥一族。その根城もいよいよ陥落のときを向かえる。子がいなかったマーダルは三人の養子を迎え入れていた。長兄、ハイ・シャルタット。次兄、ジョルディ。長女、チュルル。ハイ・シャルタットは銀色の飛行兵で、ジョルディも専用の人馬兵でそれぞれの部隊を引き鳥一族の谷に攻め入る。
 
 結果的に鳥一族を事実上壊滅したマーダル軍は、自国の城へと帰参していく。その戦いの中、ハイ・シャルタットは一つの幻影を見る。自分は父王であるマーダルを殺すというものであった。それは城に戻っても変わらず続いており、しかも、ひどくなっていった。ある夜。ハイ・シャルタットは何かに導かれるようにある場所に行く。そこには蛇の下半身も持つ強力な巨人、邪神兵があった。それに魅入られるように仰ぎ見るハイ・シャルタットの背後から近づくのは父王であるマーダル、しかし、マーダルが諭すように声をかけるもハイ・シャルタットは自身の剣でマーダルを刺し貫く。あたかも、彼の見た幻影の通りに。
 
 邪神兵の狂気に魅入られたハイ・シャルタットは、邪神兵に乗り込み、城をそして他の巨人を破壊し始める。それを止めようとしたジョルディとチュルルもハイ・シャルタットによって一命を落とそうしていた…その刹那、遥か遠くより放たれた光がジョルディたちを包み込んだ。
 
 その光がジョルディたちを連れ去ったその場に、突如竜巻が起こり、その中から深紅の鉄巨人が現れる。その中にいるのはジョルディであった。
 
 
 
 話的にはかなりかいつまんでいますし、前後している部分もあります。
 
 何が違うといえば、マーダル陛下は全く違います。鉄の紋章のマーダルはアズベスでありまして、テレビ版のマーダル陛下は出てきません。また、ハイ・シャルタットとジョルディが兄弟であることも違いますし、異星人話も出てきません。何より、巨人たちの話がほとんどされないまま、話は進んでいくわけです。
 
 また、ガリアンをはじめとする機甲兵のデザインもより甲冑に近いものとなっています。それに、テレビ版でありました、アグネシウムアローは廃止。代わりに鉄棒が射出されました。何より、機甲兵がそれほど強くはなく、戦いようによっては人でも十分に対応できるようになっています。
 
 話としてはかなり長くなりそうなものを無理やり一話分とした感があり、行間を読むぐらいでは理解できない部分もあるわけですが、それよりも世界観を楽しむ話としては面白いのではないのでしょうか。



 最近、ワンコインアイテムとして発売されました鉄の紋章ですが、ガレージキットとしても、そこそこの人気がある作品です。プラモデルとして発売されない関係でしょうが、かなり細かいデザインとなっているからこそ見栄えもよく作る楽しさに飾る楽しさがあると思うわけです。
 
 だた、やはりOVAとして一話完結で製作されるよりも、12話ぐらいの長期にわたって展開してほしかった作品であるのは間違いなく、リメイクされないかと願っている作品であります。というよりも、パロディとして書くか?という気持ちになってはいますけど、どうなる事やら。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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