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2010年01月30日

今の科学、昔から見れば超能力【「NEEDLESS」(2009-2010年 ニードレス製作委員会)】

 さて、今回は2009~2010年に放送されました「NEEDLESS」です。



 西暦200X年
 第三次世界大戦勃発、東京を初めとする各都市が、爆撃の標的となり、紅蓮の業火に包まれた
 
 それから半世紀
 汚染されたかつての爆心地は、今、シティから隔離され、日本の夜景に黒い穴を作り出していた
 
 通称、ブラックスポット
 
 その、荒れ果てた大地にいつの間にか住み着く者が現れた。彼らを、シティの人々は不要者扱いした
 その中に、不思議な能力を操る者たちがいた
 
 火、風、重力
 超自然の力を操る能力、すなわちフラグメントを持つ彼ら
 人は、畏怖の念とともにこう呼んだ
 
 「NEEDLESS(ニードレス)」
 
 
 
 NEEDLESS…なんのこっちゃ?というのが放送開始時におけるしょっぱなの感想で、フラグメント?フラグ立ったがどうしたというのが、内容を見てのしょっぱなの感想。本当にボキャブラリーが足りないとこう言うことになるのだなぁと、最近の不勉強+勉強方法の安易さに、ちょっとへこみました。
 
さて、非常にテンポもよく、見ていて面白かった!とエクスクラメーションマークを、後もう一個つけても良いかなという作品でした。アニメオリジナルのまとまり方があり、原作が未読の自分としては、よし!完結した!と満腹感。最初からもう一度みたら、それはそれで面白い作品なんだろうなぁと思った次第です。
 
 
…と、感想は正直ここまで。
 
というのも、良くも悪くもドタバタ活劇であるからです。どこかで見たかもしれない。同じ様な状況があったかもしれない。
それを独自の設定で味付けした。マクド○ルドかロッテ○アか、はたまた○スであるのか。どれもハンバーガーという商品には変わりは無くても、それぞれに独自の味付けとこだわりがある。
 
そのこだわりが大事なのだろうと思うわけです。
 
模倣については幾度か記載しておりますが、そうした意味では、この作品が何かに見えていたとしても、それはそれ。これはこれ。
シティという設定もありますけど、そうした描写も一切なしで、その世界にあるだろう無数の物語の中の一つをうまくまとめたものだと感心するばかりです。
 
上にも記載しましたが、この話、原作はまだ続いているわけで、最後の方はアニメオリジナルとなっております。
その終わり方も、もし、二期があるのならば続けられそうな終わり方…言いかえれば、見ている視聴者がアニメの続編を模倣できるような状況であるのも、個人的には好感が持てるのです。
 
 
その他にも原作では残酷描写があっても、それをアニメでは柔和にしている。内容的に…まぁ子供に見せるのはどうか~とは思いますが、それでも、見せても…良くはないかw
何が言いたいのかと言えば、娯楽作品としては十分に考慮されていると思う次第なのです。娯楽がちょっとエロ方面に傾きつつもありましたが、それはそれです(こればっか)。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「超能力」と言う事で一つ。
 
その昔、テレビではスプーン曲げとか流行っていた時代があったのですが、今ではそうでもなくなった様子です。
今回レビューしているNEEDLESSにも、サイコキネシスというフラグメントがあります…が、他のフラグメントも超能力って言えばそうですよね。某バビル二世なんか、サイコキネシ~ス、テレパシィ~とか、火炎放射だ電撃だ~ってエンディングで歌っていますもの。
 
最近、手品でも超能力か!?なんて思うものもありまして、ネタとテクニックだけでも、それっぽい事が出来るものだなぁと思ってしまいます。
 
超能力を欲しいと思うのは、それでもいつの時代でもあるのではないのかと思うのです。
 
例えば、とある魔術の禁書目録や、そのスピンオフであるとある科学の超電磁砲は、能力の開発によって、超能力を得るという学問が登場します。これ、けっして荒唐無稽な話ではありません。
 
現状における脳科学は「行動における脳の働き」が主たるものです。ですが、その視点がいつ、逆転し、さらに深みに向かっていくのかなど誰にもわからないですし、何がきっかけになるのかもわからないのです。
 
私達は当然のように生きていますが、どうして生きているのかを明確に説明出来る人は誰もいないのです。
それが解明できれば、もしかすれば鋼の錬金術師のように、世界の有り様が理解でき、あのように何かを生成出来るかもしれません。
 
そうなれば、それは今の世の中からすれば、超能力以外の何物でもありません。
 
 
それは何とも無理な話だ…そうでしょうか。今の世の中に溢れている物は、数十年前では机上のものばかりだったのです。
 
すべては徐々に解明していく事から始まった事。これからも人は何かを解明し、何を作っていくのか。
それが人にも自然にもやさしいものであれば、より嬉しい限りですね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2010年01月16日

医者にも患者にも経験は必要なのです【「空中ブランコ」(2009-2010年 空中ブランコ製作委員会)】

 さて、今回は2009~2010年に放送されました「空中ブランコ」です。



 空中ブランコのフライヤーである山下公平は、大技を繰り出すも最近は失敗続き。しかも、寝不足がたたり、海外から雇い入れた団員たちともうまくいかない。そんな日が続いていた。
 
サーカスの世話人から病院に行く様に進められた山下は、とある病院へと向かう。その病院は、伊良部総合病院。その神経科へと向かっていた。
 
その扉を開けると、甲高い声にぬいぐるみを着た中年の先生が座っている。伊良部一郎。それが彼の担当医であった。
問診もそこそこに、伊良部が看護婦である真由美に注射を要求。その太くて大きな注射によって、山下は睡眠障害がなくなったように見えた。
しかし、大技が何故か成功しない。
 
そこで、伊良部はビデオを撮る様に勧める。そのビデオに映っていたのは、意外な真実であった。
 
 
 
 ハイブリッド・アニメーション。実際に声を当てている役者さんも撮影し、そのスナップを加工し、アニメーションのように見せるという手間のかかる手法で表現されたもので、実に効果的な演出がなされたものだと思うわけです。
 
ただ、監督がインタビューで言っている様に、決して万人受けをするものではないのだろうとも思うのです。
 
考えるにその一つの理由としては、実際の役者の顔を使った事による、リアリティとリアルの境界が曖昧になってしまった事。それが単なる顔芸に見えてしまったのではないのかと思うのです。
 
もう一つは、役者…いえ、こちらの場合は声優さんと言った方が良いのでしょうか。その演技があまりにも素に近しく感じられたからではないのかと思うのです。
声優というのが一つの職業のように認識された昨今では、その声はあくまで何かの理想的なキャラクターの声でなければならない。そんな思いを持っている人が少なからずいるのではないのかとも思えるわけです。
 
逆にいえば、そうした考えがあるのだと仮定をした場合、それはキャラクターの向こう側にいる声優という実際の人が演技をしているという事実がよりわかる演出であったと受け止める事も出来るわけです。
 
彼らも舞台を経験するわけですが、そうした際に求められるのは、役者としての演技。それも声だけではなく、指先や視線、体さばきなどを駆使した演技であるわけです。そうした経験が、声の仕事における重要な要因となっている場合、今回のようなハイブリッド・アニメーションという形は、声優…というよりも、彼ら役者の度量を、視聴者に見せる事の出来る一種の舞台であると言えるのだと思うわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「医者」と言う事で一つ。
 
空中ブランコでは精神科医として伊良部一郎が出てきて、その破天荒振りを発揮しておりました。実際に精神科医ってあんな感じなのかといわれれば、別に精神科医ではなくても、破天荒な先生はいらっしゃるわけです。
 
とある地方病院…仮にO病院としておきましょうか。その整形外科の部長さんは、捻挫などをして外来にかかり、その先生であった日には、叫ぶ事になるのは必至です。
 
「こっちは痛くないよな…これも大丈夫だよな。んじゃ、これは?」
 
で、痛い方向や場所を的確に押さえたり、ひん曲げたり。その襲撃に思わず叫び声をあげると満足した様に。
 
「あぁ、やっぱりなぁ」
 
…まぁ、的確であると言えばそうなのでしょう。
 
破天荒という表現をしましたが、その実、意外と思われる行動の根底には、それまでの経験や培ってきた知識があるのだろうと思うのです。ニュースなどでとんでもない行動で患者をさらに困らせる医者もいるわけですが、それは本当に困ったちゃんな医者であって、決して破天荒な医者ではないわけなのです。
 
どの業界でもそうですが、変人と言われていても、その実しっかりと仕事をする人がいて、その人の業務を見ていると意外に無駄がないというのがわかるはずです。何故変人であるのか。それは、どうしてそれで仕事が出来ているのかと思わせるほどに洗練しているから…かもしれないわけです。
 
ただし、こうした変人…いや、達人になるためには、それ相応の時間が必要であり、また、経験も必要であるのは間違いありません。医者は特に、患者を多く診ることが必要であり、それだけ時間がかかるのは当然の話しなのでしょう。
 
今、医師不足である背景には、そうした医者を育てきれない世の中の状況があるように思えてならないわけです。
 
医者は政治が育てるわけではなく、患者が育てる様なものなのです。最先端な医学であっても、僻地の医療であってもそれは同じ。
医者要らずであれば、それに越した事はありませんが、結局それで済む人がいないのも事実なのでしょう。とすれば、かかりつけのお医者さんを得るためにどうすれば良いのか…と言う事も患者側として考える必要があるのかもしれません。
 
自分のことを良く知ってくれている、お医者様と薬剤師はいた方が良いのでしょうね。それが若いお医者様であるのならば、話して悩んで怒って笑って。そうして一緒に年をとっていくのも良いのではないのかと思うわけです。
そうした、成長の仕方もあるのではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月17日

躾と推し付け【「銀河鉄道999」(1978-1981年 フジテレビ/東映動画)】

 さて、今回は1978~1981年に放送されました「銀河鉄道999」です。



 地球。その時代、貧富の差は住居の隔離だけではなく、人として扱われるか否かにまでかかっていた。さらに、裕福な人々は老いも病気も知らない機械化人間となり、その日を楽しく暮らしていた。だが、その一方で貧しい人はその日の暮らしをするだけで精一杯。そんな生活をしている人の中に鉄郎もいた。
 
ある雪の日。鉄郎は母親と共に、銀河鉄道の汽笛を聞く。噂ではその銀河鉄道に乗車できれば無料で機械の身体を与えてくれる星にいけるのだという。
しかし、それに乗車するためには、莫大なお金が必要だ。鉄郎は一生懸命に働き、母と自分のパスポートを買う…そんな話をしているときに、馬のいななきを聞いた。
 
それは機械伯爵の人間狩りであるという。
 
その一発の銃弾が、鉄郎の母を撃ち抜く。鉄郎に隠れる様に言うと、母は息を引き取った…。そして鉄郎も、その場で意識を失ってしまう。
気がついたとき、鉄郎がいたのはとある小屋であった。
 
そこにいたのは、綺麗な女性、ただ一人であった。鉄郎にスープを渡した女性はメーテルと名乗った。さらにメーテルは銀河鉄道999に乗車できる無期限パスまで渡すと言う。その条件は自分も一緒に度へ同行すること。
 
しかし、鉄郎は母を殺した機械伯爵を倒してから、999に乗る決意をする。母の仇を討ち、地球へは戻らない覚悟で999に乗車した鉄郎。その旅路は始まったばかりであった。
 
 
 
 松本零次さんの原作を東映がアニメ化した本作品。実に113話(スペシャルと総集編は除く)が放映された長寿番組でした。ただ、言い方を変えれば、いつでも終着駅にたどり着けるという作品であったと言えるのかもしれません。
 
昨今では考えられないのでしょうが、113話…実に8クール分近くも放映された番組でそれだけ人気があったといえるわけです。打ち切りなどあり得なかった話なのでしょう。
むしろ、人気がなくなるのを待って、最終駅にたどり着くという形でも問題なかったわけです。
 
何かとげのあるような言い方をしていますが、それはこの作品ではなく、今の2クールほどで終わるのが当たり前になっているテレビ業界への嫌味と捉えてください。
良くも悪くも、作品をどのように活用するのかが明確に決められていた…いえ、その前に真剣に考えられていたのではないのかと思うわけです。最近の浪費するだけの状況に、それだけの力があるのでしょうか。
 
それだけ長寿番組となれば、それは記憶に残る作品になるわけです。
 
実際、今も何かしらの形態として復活しては話題を提供しています。実に二十年以上も月日が経っているというのに、それだけ記憶に残っているのが素晴らしいではありませんか。
 
鉄郎が様々な星で経験した物語…と捉えられる事が多いこの作品ですが、しかし、自分の記憶に残っているのは、999の車両での逸話になります。
一つはクレアの話、そしてもう一つは落ち葉の惑星での話です。
 
どちらも機械化した人と鉄郎との交流の話になりますが、何かのためにその命を投げ出す覚悟があったと思うわけです。機械化された身体だからこそ無茶が出来る…と言えなくもないのですが、それでも修理が不可能であれば、死が待っているという事に代わりはないわけで、そこに命とは人生とは、という疑問が出てくるわけです。
 
松本零次さんの作品では、生き様がテーマの根底にあるわけですが、人それぞれの生き様があるわけで、それを指摘するのは勇気のいることなのでしょう。
躾という言葉がありますが、その言葉を自分にとっての楽な解釈で認識しているようではいけないわけです。
 
最終話で親の歪んだ愛情が描かれている本作ですが、人を踏みにじってまでの幸せって、あってはならない。現実でもそれが理解できていない事件が多いですよねぇ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「躾」と言う事で一つ。
 
難しい話です。何を持って躾と言うのか…誰もが明確な答えを持っているわけではないのでしょうし、もし、明確な事絵をもっているとすれば、それは独り善がりになっている可能性もなくはないわけです。
 
ただ、明らかに言えるのは、自分以外に対して迷惑をかけているのは、躾がなっていないという事なのでしょう。
 
当然、その中には一過性のものは関係ありませんよ。失敗するのは人の常です。問題はそこから後の話。
失敗をし、どのように謝罪するのか。言葉であるのか、行動であるのか、それこそ時と場合によりけりなのでしょうけど、それが出来るか否か。それこそ躾がなっているかどうかの分かれ目であると思うわけです。
 
逆に、では何をしてもその後のフォローが出来ていれば良いのか…いいえ、そうではありません。当然、しては行けない事をするのはしつけのなっていない、いえ、躾以前の話なのです。
 
では迷惑とはなんでしょう。それは一つにマナーであるのは間違いない話です。
車に乗っていますと、車内からのポイ捨てを目にする事があります。これは躾がなっていない証拠です。電車内における通話や音漏れもそうなのでしょう。公共施設におけるゴミの投げ捨てや、場合によっては落書きなどもそうでしょう。
 
挙げればきりがありません。では、逆にどうしてそうするのかを考えてみると、「自分のため」と集約する事が出来るのかもしれません。
考えてみれば理不尽な暴力も暴力を振るう自分のためですし、オレオレ詐欺にしてみても、詐欺を行う自分のためです。
 
…ふと、考えてみるのですけど、そうなった背景には何があるのでしょうか。あるCMのフレーズがよぎります…「あなたのためなのよ」。
あぁ、躾と称してよく言われる言葉ですね。
 
つまり躾をする側が結局「自分のため」に相手を躾している。なるほど、それでは躾にならないのは当然。
 
躾は誰に対して何のために行うのか。決してその場を取り繕うためだけの話でもなく、自分が苦しむだけでもなく、一緒に楽しみあえるようにするための所作であると思うのですけどね。
 
そういう自分も躾の何たるかを考える必要はあるわけですけど…本当に難しい話です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月10日

いざと言う時に「生きる」という事は…【「東京マグニチュード8.0」(2009年 東京マグニチュード8.0製作委員会)】

 さて、今回は2009年に放映されました「東京マグニチュード8.0」です。



 東京はその日もぬける様な青空の下、誰もがいつもと同じように生活していた。
 
都内の私立女子中学校に通う小野沢未来は、能天気な弟のお守を言い渡される。共働きである両親は、土日も関係なく仕事に向かい、そのために、弟の面倒は姉が見るものと言われていたからだ。自分の思い通りにならない日常、不満は募るがそれを解消する術がない。
携帯電話に不満をぶつけるも、しかし、それでもいつもと同じように日々は進んでいく。
 
彼女の弟である悠貴は、お台場で実施しているロボット博に行きたがっていた。しかし、両親はいつものように未来に対し、悠貴を連れていく様に言い聞かせる。
 
2012年7月21日の土曜日。夏休み最初の日、未来と悠貴はロボット博に来ていた。目を輝かせる悠貴に対し、未来は不満げな表情をしつづけている。ロボット博を見終わり、ビルからでようとした時、悠貴がトイレに向かう。入り口で待つ未来は、周りの幸せそうな表情に比べて自分がそうではない事に不満を持っていた。
 
別に誰に送ろうとしたわけではない。単に不満を書いてしまいたかっただけだった。携帯電話に書いた文章…こんな世界、こわれちゃえばいいのに。…。
 
次の瞬間、鳥が騒ぎ、狂った様に飛び立つ。低いうねり声のような音が聞こえる。そして大地が跳ね上がった。
 
東京湾北部にてマグニチュード8.0規模の地震が発生。その時、東京は地獄の有り様となった…。
 
 
 
 2009年春の新番組であったこの作品、是非、多くの方に見ていただきたいものだと思うわけです。老若男女に関わらず、勧める事が出来る作品ではないのかと思うからです。
 
別に避難の仕方であったり、心構えと言った話ではなく、純粋に人の力ではどうにもならない天災という内容を、アニメでどのように描いているのかを見て欲しいわけです。
 
例えば、ドラマなどではこれまでも多く題材に上がっている天災物でありますし、映画やテレビスペシャルのような形ではアニメでも幾度も取り上げられたわけです。しかし、こうして連続物としてしっかり描かれたのは珍しいのではないのでしょうか。そうした意味でも、今、描かれる天災のドラマを見て欲しいという事なのです。
 
アニメでは実際に人や機材の使えない事が出来ます。
 
例えば、東京タワーの倒壊などその最たる描写ではないのでしょうか。現状、そうした事はあり得ないと言われています。言われていますが、そのあり得ない事にアニメの表現として行ってみる。それがどのようなものか。
また、避難場所における…特に遺体安置所の表現は、アニメの方が想像を刺激される分、よりリアルに近いリアリティ感があるのかもしれません。
 
この物語は一人の少女の視点から描かれているものです。その一人の少女でも、あれだけの物語があり、番組が終わったとしても、それは区切りにすらならないであろう現実がそこにはあるわけです。
 
地道な人のドラマがそこにあります。まるでアニメっぽい表現だ…と言われる部分があるのかもしれませんが、しかし、非日常になったその現場において、日常的ではないのは当然。だから、あのようなことが起こらないと誰が言いきれるのでしょうか。
 
事実は小説よりも奇なり…様々な天災が、皮肉な事に肥沃な大地を形成してきた日本において、そうした災害が決して対岸のことではないと言う事を理解するためにも、こうしたアニメがもっと出てきて欲しいものだと思うわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「天災は忘れた頃にやってくる」と言う事で一つ。
 
天災は忘れた頃にやってくる…と言いますが、最近ではどうなのでしょう。ネットにおける検索ワードとしてもかなり上位になっているのではないのかと思うわけです。
 
昔から地震、雷、火事、親父というのが…ま、最後はともかく、天災の代表格であったわけです。所が最近はいわゆる温暖化の関係で少し変わってきているようなのです。
 
例えば台風。
 
2009年における台風18号の被害は記憶に新しい事でしょう。それにともない、各地で突風や高潮、土砂崩れ、さらには竜巻の被害までも報告されているのですが、この18号台風。近年稀に見る勢力でありながら、コンパクトになっているものなのだそうです。
回転というのは、大きくなればそれだけゆっくりになるのですが、小さくなると速度が増すのだそうです。それだけ局所的に被害が現れる結果になるのだとか。確かに、この台風もそのような感じでした。
 
そして地震。
 
宮城内陸地震における、逆断層的なものは珍しいのだそうですが、それでもあれだけの被害が出ているわけで、断層の多い日本においては、注目するべき地震であったのは間違いありません。
東海地震が再び起こるとの話も聞いて久しいわけですけど、地震が多いからこそ、慢心している部分があるわけです。
食料や水など、生き残るための備えはしておく必要があるのでしょうね。それと、部屋の片付けw 案外、こうした地道な努力が大事なのだろうと思うわけです。
 
代表的なものを取り上げても、最近で言うところの「あり得ない」状況が起こっているのは、不思議な話です。
どこかの作品ではありませんが、「あり得ない、なんていう事はあり得ない」。臆病ではなく、勇気を持った最悪の想定は必要なのだろうと思うわけです。
 
それでも、命の危険…もしくは残念な結果が待っている事があるのかもしれません。
 
天災であるから仕方がないというのはおかしな話ですし、誰かを恨むのも筋違いなのは間違いないわけです。何故なら、こうして何もなければ問題ないわけなのですから。
厳しい様ですが、自分の事は自分で守る必要があるわけで、その上で協力しあえれば、より生還率が高くなるのではないのでしょうか。
 
そのときの悲しさや辛さを押さえる事は難しいのでしょう。でも、本当の意味の思いやりを普段から考え実践する。いざと言うときに、それが活きてくるのだろうと思うわけです。
 
残酷な話にも聞こえなくはありませんけどね…生きるって素晴らしくも残酷なことなのかもしれない、そんな事が頭をよぎりました。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月03日

魔法のような科学【「アスラクライン(第一期)」(2009年 洛高生徒会)】

 さて、今回は2009年に放送されました「アスラクライン(第一期)」です。



 その世界が自分にとっての「何」であり、自分は世界にとっての「何」であるのか。
 
幼馴染の自称守護霊、水無神操緒と共に一人暮しを始める事になった夏目智春は、兄である夏目直貴が暮らしていたという屋敷に引っ越してきたその日に、厄介ごとに巻き込まれることになった。
それは、兄から預かったトランクを渡しにきた、黒崎朱浬。そして、そのトランクを奪いに来た、嵩月奏にただでさえオンボロ屋敷をさらに壊され、更には命の危険にさらされてしまったからだ。
 
だが、そのトランクには「秘密」と「真実」が隠されている。それを手にした瞬間から、智春は否応無しに事象に巻き込まれていく事になる。
 
そのトランク「インストラクタ」は、機巧魔神=アスラ・マキーナを召還するシステムであり、その契約者である演奏者=ハンドラーには、同じ条件が必要であった。
それはアスラ・マキーナを動かすために必要な人の命、副葬処女=ベリアル・ドールがハンドラーの傍にいること。アスラ・マキーナの中に組み込まれたベリアル・ドールは、ハンドラーの傍に幽霊の様に付き添っている様になる。
 
智春にとっての操緒のように…そう、操緒もまたベリアル・ドールであり、智春はハンドラーであった。そのハンドラーとの契約によって召還されるアスラ・マキーナ。その名は黑鐵=クロガネ。
 
彼らは「知るはずのなかった」世界の「真実」と向かい合わなければならなくなる…。
 
 
 
 2009年秋の新番組として、この続きにあたる第二期が開始されましたアスラクライン。この作品もライトノベルが原作となっており、その原作も今もなお続いています。
当然の話ながら、その最後は原作とは異なった話で終わるのではないのかと思うわけです。
 
その話はともかく、正直に言いますとかなりツボな作品だなぁと思うわけです。
 
厳密に魔法という表現を成されているわけではないのですが、魔法と機械が混在する世界は私的には面白くて仕方がありません。アスラ・マキーナもそうですけど、操縦者が乗り込むわけではなく、でも、エネルギー源には人の命が必要という点も、贄的な要素が魔法的で機械っぽいのに、とワクワクしてしまうわけです。
 
こうした話は現実味がないといわれるかもしれません。しかし、今の技術を正確に述べられる人など、極一部です。そうした人たちの話を聞くと、結局はチンプンカンプン。それこそ、魔法の言葉をかけられているようなものです。
 
家電など良い例ではないのでしょうかね。便利と不便は表裏一体のような感じがしてならないのですけどね。
 
その話はまた後にするとしまして、アスラクラインの話は最近では珍しい、世界の命運が一目瞭然にわかる作風として書かれています。滅びと再生。絶望と希望。それは表裏一体であるのか、渾然一体であるのか。その見せ方が大変面白いのではないのでしょうか。
 
一巡目、二巡目と世界が巡っていく中で繰り広げられる人間模様は、かつてのスーパーロボット作品がリアルロボットに向かうにあたる転換期の作品に近しいものを感じます。
ただ、その中でメインとなるのは、あくまでロボットではなく人間。ここら辺は、やはりスポンサーになっている企業の違いからなのでしょう。あくまでロボット売るのではなく、作品…この場合は原作本とアニメのDVDでしょうかね…を売る作りになっているからこその話ではないのかと思うわけなのです。
 
…と、言いましても、そんな思惑は大人の都合に任せるとしまして、その都合に振り回されない様に、作品をしっかりまとめて欲しいものだと、第二期には期待するわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「魔法のような機械」と言う事で一つ。
 
iPhoneを始めとする、いわゆるスマートフォン、もしくはそれに類するケータイなどを、もし、過去に持って行けたとして、そこでも通話が可能であれば、それは妖術に思われるかもしれません。
全自動洗濯機や電気掃除機、炊飯器に到っては、三種の神器などと呼ばれた時代に持っていけば、腰を抜かす事でしょう。
車にしても、電気自動車…いえ、ハイブリッドカーでも驚くのではないのでしょうか。
 
そして、いずれにしても言える事は、それらがまるで魔法のような物と感じられるのではないのかと言う事です。
 
稀代のSF作家であるクラークは、自身のいう三法則にて…
 
 1.高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
 2.可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
 3.充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。
 
…と述べたと言います。確かに、今の科学分野…いえ、業界でも納得できる話ではないのでしょうか。その三つ目「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」というのは、特に合点の行くものであります。
 
前にも記載したことがありますが、パソコンのカメラによってあるマークを読み取らせ、そのマークに関連したCGを画面に表示するARToolKitというのも、ある種魔法のようなものです。
また、ホンダが先ほど発表したU3-Xという電気自動一輪車も、漫画やアニメの中ならばありえた乗り物が現実になってきました。
更には、アメリカが軌道エレベータを作る際に適した材質を発見したといわれています。これが実用化されれば、宇宙まで一気に、しかもこれまでとは比べ物にならない安価で宇宙へ人や物が運べるようになるわけです。
 
魔法は存在しない。これは世界の常識です。しかし、それは人が魔法の域にまで科学を発展させてはいない、理解していないからだという意見も少数ながら存在するのです。
 
水があります。今の物理学では、水は水であり、まずそうであるという認識が必要なのだそうです。水を水たらしめている要素は何か、どうして水素二つと酸素一つで水となるのかはわからないわけです。
それは、「・・・となりて」、そうあるからして、そうなる。人はまだ、無知にほど近い存在であり、そのわずかな隙間で右往左往しているのかもしれないわけです。もしかすれば、今はまだ超えられない一点だけが理解できずに、それを超えればゴールに到達するのかもしれませんけどね。それは突破して始めて体験できることなのでしょう。
 
もし、それが突破できれば、人はまさに魔法を使う事が出来るかもしれないのです。理屈によって構築されるのが科学であるのなとして、そこに人の欲求と要求を加味すれば、近いうちに更なる魔法が使えるようになるのかもしれないのです。
 
…とすれば、魔法は決して遠くにあるものではなく、傍に見えないまま、寄り添っているのかもしれませんね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年09月26日

戒めとなるべき交代【「まんが日本昔ばなし」(1975-2003年 毎日放送/愛企画センター)】

 さて、今回は1975~2003年に放送されました「まんが日本昔ばなし」です。



 日本各地に存在する民話や寓話、御伽噺といった伝えられている話を特徴のある絵で表現。そして、独特の語り口で知られる市原悦子さんと常田富士男さんの二人だけで全ての登場キャラクターを演じられているのも、その特徴の一つであります。
 
ぼうや~よい子だねんねしな♪…で始まるオープニングは有名過ぎるほど。その時々の子供たちによって様々な替え歌が作られたのも懐かしい思い出ではないのでしょうか。
 
日本における民話や寓話などは、同じようなものが多いわけですが、しかし、そのどれもが、その地方独特のニュアンス…味付けと言った方が言いのでしょう。そうしたスパイスが加えられているわけです。
それは方言であり、また、その地方独自の慣習であったりと、様々なのですが、通じて同じなのは、それが人の心根を推し量るドラマであると言う事なのです。
 
生前、嘘ばかりを言っていると、死んだ後に地獄で舌を抜かれる。雷様が近づいてきたら、おへそを隠さないと行けない。
 
これらは決して笑い話などではなく、死んだ後まで苦しみたくはないだろう?だから誠実に生きろという事と、雷が近づくという事は、雨が降る可能性が高いと言う事。現在のように機密性の高い言えであっても、急激な温度変化でお腹を壊す人が出てくるわけです。その腹痛が、まるで誰かにへその辺りでもいじられたかのようだ…というわけで、はたた神=雷様におへそを取られたと言う事で戒めをかけたわけなのです。
 
伝説なども多く取り上げた中には、悲しい話も多くあるわけですが、それも伝え聞く人がいなくなれば、廃れていくもの。言いかえれば、先ほどの戒めも含めて、なくなっていく事になるとも言えるわけです。
 
 
 
 そんなこの作品が放映されたのは、1975年1月。今で言うテレビ朝日系列で二ヶ月ほど放送していたようです。その後、1976年1月より、TBS系にての放送なので、上記の期日には空白が含まれると言う事になります。
 
その記念するべき第一回放送における題材は「こぶとり爺さん」に「笠地蔵」。どちらも有名な話です。そして最後に放送されたのは、1995年の4月におけるスペシャル放送の「里のかたりべ・むかしばなし」。それ以降は、それまでの再放送が流れたと言う事になるそうです。
 
放送が終わってしまった理由は、有体に言えば時代の流れ。視聴率が稼ぐ事が出来なくなった、というのが一般的な理由かもしれません。ただ、同時にそれまでの多くのキャラを担当してきた市原さんと常田さんがご高齢になったというのもそうではないのか。と個人的には思っています。
 
それでも長く続いて欲しい。また、放送してほしいという声が、今尚スタッフサイドには届いているのだとか。
 
長く続いているという事、そして、寓話という観点から公共広告機構のCMも同じスタッフとキャストで作られたのも有名な話ではないのでしょうか。「ツンツン娘」「もったいないお化け」「おてつだい狸」「ごめん鐘」の名前を聞くと、思い出す方も多いと思います。
公共広告機構からすれば、こうした寓話的なCMによって、あまり言われなくなった事を子供に、そしてそれを見ている大人達にも警鐘を鳴らしているのではないのかと思えるわけです。
 
こうした作品がこれからも続いてくれる事が大事な事であると思うのは、古い考え方なのでしょうかね。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「戒め」と言う事で一つ。
 
最近、世間をにぎわせている政府関係ですけど、結構乱暴な言葉が見て取れる気がするのは、私だけなのでしょうか。ダム問題もそうですし、沖縄の埋め立て問題、米軍基地移転問題もそうです。
一概に彼らのマニフェストに沿わせるだけの政治を期待して良いのでしょうか。
 
彼らが4年後に政権を維持する。その前に、何時までも現総理で政権が続くと誰が言いきれるのでしょうか。彼らも所詮は大半が野党になった自民党の出身。その昔のことを忘れて、何を戒めにするつもりなんでしょうかね。
 
結果的に、そうした問題を置き去り、もしくは店晒しにしたままで何を進めていくというのでしょうか。
 
有体に申し輪げれば、大半の国民にとって政治家は政治家でしかなく、政府は政府でしかない。勝手に論争を繰り広げるのも結構なのですけど、その根本を忘れている様では、信任を得られるはずがない。それでも政治家になれているのは、現在の政治家自身が行っている保身政策でしかない…そう思われていると何故感じられないのでしょうか。
 
こうした危機感があれば、もっと進展するべき事もあるのでしょうし、何より、票のための政治ではなくなるのではないのでしょうか。それは聖人君子の如き話であり、到底理解できるものではない…と仰るのかもしれません。
そんな事はわかっています。わかっているからこそ、指摘するのです。
 
私は後援会なるものは不必要であると思っています。政治家が己の信念にて行動を起こすのに、必要なものは人そのものではなく、人からの信頼であると思っているからです。
当然、それは一部の人が盲信的なまでの行動によって支えられて良いものではないと言う事でもあるのです。
 
そろそろ本音を言うべきでしょう。政権交代など意味はない。政治家の性根を叩きなおす事が必要なのだと。
 
政治家たちにおける格差、それは私達の生活における格差と何ら代わりがありません。一部の政治家のために、他の政治家が利用されている…何とかチルドレン、何とかガール。そんな状況が堂々と繰り広げられている中で、日本の格差をどうにかできるものでしょうか。
 
そうした事が戒めとして理解され、その対策が実行されてからが、本当の意味での政権交代になるのでは…そう思えてならないわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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