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2009年09月19日

ところ変えても、変えちゃ行けないものもある【「ミスター味ッ子」(1987-1989年 テレビ東京/サンライズ)】

 さて、今回は1987~1989年に放送されました「ミスター味っ子」です。



 今は亡き父の残した食堂。その名も日之出食堂を支える少年、味吉陽一は、ある日、高級レストランを視察しにきていた老人の来店により味勝負を行う事になる。だが、その老人を特製日之出カツ丼でうまい!と言わせると、名刺を一枚残していった。
その名刺に書かれていた名前は村田源二郎…日本料理界のドンと言われている味皇であった。
 
味皇から名刺を貰ったという事は、その料理を認められたという事。そして、その腕は数々の味勝負でライバルと対峙していく事になる。
 
料理の事では、頑固なまでに一途な味っ子の魅力にひかれて行くライバル達との成長によって、陽一は料理の腕をさらに磨いていく。
 
 
 
 さて、原作は漫画で表現も比較的…ま、あくまでこのアニメに比べればという事ですけど、大人しめなのです。そう、このアニメに比べればという事なのですけど…。
 
この作品の監督は原作クラッシャーこと、今川泰宏氏です。
 
そのクラッシュ振りは…人を人間ではなく蛸や魚にする。大阪城を破壊する。最終回を変更する。味将軍グループとの対決を明確化する…と言ったもの。しかし、これが面白いのです。本当に見ごたえがある作品になっています。
 
一応、味勝負の内容はほぼ変わらないのですけど、漫画で出来なくてアニメで出来ることがあります。それは透過光の表現です。
 
料理が光る、人が光る。それだけではなく、更に人が大きくなる海を走る…まぁ、やるだけのことをやってくれました。
 
でも、そうした派手な表現だけではなく、実に人の物語を作り上げて行ってくれた作品でもあるのです。特に最終回は陽一が何故料理を作るのか。その答えを見つける物語になっているわけです。
その答えまでに経験する様々な問題。それに対して、陽一はどう答えをだすのか。
 
本当に力の入った最終回は見ごたえたっぷり。まさに、次回紹介における「おいしいよっ!」という表現ぴったりのものでした。
 
先ほども記載しましたが、最終回はアニメオリジナルのものでした。しかし、それはそれで全く問題がなかった作品ではないのかと思うわけです。
その理由は現素クラッシャーであるから、という話ではなく、原作は原作で、寺沢大介氏のその後の作品に影響があるだろう作風に仕上がっているからです。それをアニメで表現するのが適当であったのか。私はそうではないと思うわけです。
 
漫画や小説は決してアニメ化するに当たり、その素材ではない。しかし、アニメ化するに当たって忘れては行けないのは、決して原作に臆する事なく、アニメならではの表現を探索し、研究し、研鑚していく。その事が大切ではないのかと、この作品で感じたのです。
 
原作付き作品の多い昨今ですが、その原作にとことんまで向き合ったアニメ作品・ドラマ作品がどれだけあるのか。その事をもう一度、考えて欲しいものだと思うわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「ところ変われば」と言う事で一つ。
 
このサイトでも何回も記載している、アニメと漫画、小説、映画、ゲームといった、原作があって別媒体にて表現することになった作品のお話。今回のミスター味っ子は、一つのいい答えを持っている作品であると思うわけです。
 
こうしたところ変わればという事で、今、一番世間の注目を集めているといえば、やはり政権交代における新政権ではないのでしょうか。
 
…と言いましても、良く見ていただければおわかりになるかもしれません。政権交代といいながらも、その中身は元々、自民党に関連している人の多い事。本当の意味で二大政党政治が行える様になるのかは、これからという話になるわけです。
 
当然そうなりますと、私達の生活が大幅に変わる事。これは選挙前からわかっていた話ではないのかという事がちらほら聞き及んでくる
わけです。
そもそも、最近の世論を聞いておりますと、出すのはイヤだが保証は欲しいという、なんてわがまま振りを発揮しているのかと思うしかない状況です。マスコミの情報操作がなければ、何という事なのだろうと苦笑するしかないわけです。
 
日本は資源小国であり、また自給率も低い国です。それでも、圧倒的にサラリーマンが多く、それは消費でしか国を支えられないという事を示しています。つまり、作る人が圧倒的に少ない現状があるわけです。
その一番の原因は、やはり学歴社会である事が挙げられるのでしょう。
 
大学に入れる人数はきまっており、すべての人が大学に入る事は出来ません。もちろん、年齢に関係ないとすればそうでもないのでしょうけど、それで社会が正当に受け入れてくれるのかそれは甚だ疑問です。
また大学に入る事、これがステータスになっており、卒業する事はあまり念頭に置かれていないのも現状です。
 
大学など学びたい人がいれば受け入れ、その中で切磋琢磨させる方式が良いに決まっているのですけどね。つまり、卒業を難しくさせるのが一番なのです。
また、中学卒業すれば高校は行くも行かないも自由なのですから、そうした支援を国が行う方がよっぽど日本にとっては建設的なのです。
 
それこそ、人材不足である伝統工芸に人材を回し、それを世界にアピールする支援を地方と国が合同で行う。その支援を大企業などと同じぐらい手厚くする事が日本の産業を復活させる足がかりになると思うわけです。
 
日本人が器用であったのは、一昔前の話。もう、今の勉強だけに邁進する日本人に、それが維持できるのか、それを国には正視していただきたいと思うわけです。
日本の良さは日本の伝統工芸がしっかりと続いていく。それを忘れて日本の再生などありえないのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年09月12日

企業の配慮が足りないと考える【「聖闘士星矢」(1986-1989年 テレビ朝日/東映動画)】

 さて、今回は1986~1989年に放映されました「聖闘士星矢」です。



 地上に邪悪がはびこる時、必ず現れるという希望の闘士、聖闘士(セイント)。
 
日本にあるグラード財団の総帥、城戸光政によって集められた孤児は、それぞれ世界に点在する聖闘士の修行場へと向かわされた。それは聖闘士の証である聖衣(クロス)を日本に持ちかえり、聖闘士同士の祭典「ギャラクシーウォーズ」を開催させるためであった。
 
だが、それは建前。その目的は城戸光政がある聖闘士より託された赤子、孫として育てている城戸沙織を、そして、赤子を託した聖闘士の黄金に輝く聖衣=黄金聖衣(ゴールドクロス)を悪の手から守るために考え出されたものであった。
 
しかし、それを知っているのは、一握りの者だけ。送り込まれる孤児たちはそれを知る事はなかった。
 
その孤児の一人、星矢は、行方不明の姉の情報と交換に天馬星座(ペガサス)の聖衣を持ちかえることを約束。その約束を無事に果たし、日本に戻ってきたのだった。
だがしかし、そこに不穏な影が…今、聖闘士としての使命が果たされるべき時に、星矢は、そして他の同じような聖衣を獲得した孤児たちはどうするのか…。
 
 
 
 …と上記のように書いてみるとまるで別の話の様ですね。ある程度、ネタばれを知っているからこその書き方であるのは承知の上ですし、それを狙って書いたわけですけど…うん。受け取り手の受け止め方が違うんだなぁとつくづく思います。
 
本当にブームになりました聖闘士星矢。今でも、その勢いは続いていますね。
 
玩具では聖闘士聖衣神話(セイントクロクマイス)シリーズ。そして、雑誌と描き手を変えての前聖戦の話。OVAにおける冥界編の話。未だに、これだけの作品が作られることがスゴイのだな…と思う反面。その反響の仕方があれ?と思うところがあります。
 
そんなわけで、今回は早々に…という感じで思うところとして…へと移りたいと思います。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「CV」と言う事で一つ。
 
CVとは、キャラクターボイスつまりは登場キャラクターに当てられた…配役された役者さんたちの事です。わかりやすく言えば、声優さんで良いのでしょうか。
 
この声優さん。いろいろと問題を波及させているのは、ネットでも知られている事でしょう。ですが、私的には、その問題。正直、何を言っているのだろうと思う次第なのです。
 
最初に言っておきますが、特にこの聖闘士星矢のOVAに関して、声優問題と騒がれた一番の原因は、東映アニメーションの担当者にあります。そう、どうして冥界編からOVAを始めてしまったのでしょうか?
 
…一部混乱するかもしれませんけど、私は冥界編における声優一新には、何も反対するべき余地はないと考えております。
 
理由として一つ挙げるのならば、オリジナルキャストでは無理だからというのが理由です。
 
一つに年齢的問題。これは十何年経過するまで、理由遺憾を問わずに手をつけなかった東映側の落ち度です。当時、冥界編は原作でも行われていたものでした。言いかえれば、そこまでは少しの間を空ければ出来たかも知れない話であったものを、ここまで放置した。その間に役者さんたちの声質も変わっていくわけですし、連続した物としてみせるためには、間が開き過ぎではないのかという事。
 
もう一つはやはり時間という観点からになりますが、亡くなられてしまった役者さんがいるという事です。しかも、重要ポストのキャラクターに関して。
 
この二つの理由で不可能にしてしまった責任は、先ほども記載しましたが、東映アニメーション側にあると言うのは明白な話なのです。
集英社云々、原作者云々の話ではなく、アニメ媒体であれば東映アニメーションが音頭を取っても良いのですから、そこは東映アニメーションに対して、勝手に推しつけちゃいますよw
 
とすれば、新しい役者さんでもう一度、作品を…という気持ちも当然の事になると思います。昨今の声優ブームからすれば当然の話でしょう。
しかし、ここでも大きなミスをしでかしました。
 
冥界編より先は基本6話をパッケージとして進んでいく形になったのです。TVシリーズではありません。
TVシリーズではなかったのが問題なのではなく、そうしたパッケージ的発売をするのならば、新しい役者さんで何故、一からやらなかったのか、という事。これが大失敗な部分なのです。
 
銀河戦争編から十二宮編(これは前後編…つまり12話でも良いと思いますけど)、ポセイドン編までOVAで同じように、新しい星矢を見せてから、冥界編をやる。そうすれば、あくまで1986年からやっていた星矢とは一線を画すことが出来たはずなのです。
 
そう、一度明確に辞めて放置していたのですから、ここはリセットするのが当然であったのです。それを出来ないもしくはしなかった東映アニメーションの判断ミスが、原作者も巻き込んでの騒動に発展した原因ではないのかと考えているわけです。
 
会社は変わりますが、今度、ガンダムの新作がOVAとして発売されます。その際、星矢で紫龍を演じてらした鈴置氏のキャラが登場するはずなのですが、そこに配役される役者さんにも、こうした影響が起こるのではないのかと心配でならないのです。
ガンダムといえば、Zガンダムの映画版でも企業の事情というか大人の事情というか、そのような配役の問題が出ていました。これは星矢とは毛色の違う問題ではありますが、しかし「これぐらい良いだろう」という感じが見え隠れして仕方がありません。
 
舞台役者に熱狂的なファンがあるように、声の役者さんにも同じようにファンがいる。その意見だけを聞くのは危険ですけど、しかし、起用した役者さんに変な影響がないように油断なく邁進する必要が企業側にはあると思えて仕方がないわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年07月30日

魔法のような科学技術【「とある魔術の禁書目録」(2008-2009年 PROJECT-INDEX)】

 さて、今回は2008~2009年に放送されました「とある魔術の禁書目録(インデックス)」です。

 超能力が科学によって解明され、なおかつ、開発までされるようになった時代。その開発を授業として行なう学園都市がある。そこでは能力の開発具合によってランク付けがされており、学園都市に存在する学生の六割はレベル0=無能力とされていた。
科学で解明されたがしかし、能力開花が全ての者に間違いなく出来る…というわけでもないらしい。
 
そうしたレベル0の一人に、高校生・上条当麻がいた。だがしかし、彼には隠された能力が秘められていた。
 
その名は幻想殺し(イマジン・ブレイカー)。
効果範囲は右手の手首から先に存在し、右手で触れたありとあらゆる魔術・超能力など、それが異能の力であれば問答無用で打ち消す。だがしかし、それは同時に自分に振りかかる幸運までも打ち消しいている事になり、その結果、彼の口癖である「不幸だ…」の通り、不幸なものになっている。
 
朴念仁の当麻の周りには、多くの女性が集まってくる。その一人が、インデックスであった。
彼女の頭の中には十万三千冊もの魔道書が記憶されており、歩く図書館といえる。だが、その膨大な冊数が彼女を苦しめている事を、彼女と同じ「必要悪の教会(ネセサリウス)」の魔術師から聞く。彼女の命を救うためには、その記憶を一定期間で消すしかないと…。
 
当麻は自身の担任に尋ねる。記憶を留めておく事は出来ないのかと…だがしかし、その教師から聞かされたのは、意外な言葉であった。
 
そして、当麻はその理不尽な幻想を打ち消すために立ち上がった。
 
 
 
 原作はライトノベルのこの作品、アニメ化に当たっては、原作六巻までをほど忠実に再現しているそうです。
ただ、やはりアニメ化…期間が決められた話数の関係で、一部、原作とは異なる物語になってしまったエピソードもあるとの話なのだとか。
 
この作品は原作を読んでいないまま放送を見ていたのですが、魔法物が好きなので大変に楽しめました。それだけではなく、人が超能力でレールガンが使えるとか、通信が出来るとか…ある意味、昔の何でもありな超能力作品をこの時代にアレンジしてみている、そんな気もしたわけです。
 
と言いましても、決して主人公が無敵ではない所が、この作品のミソなんでしょう。
 
彼の持つ最大の武器は幻想殺しなどではなく、その決して折れる事のない心です。人を助けたい、安易な動機かもしれませんが、それでも身体だけではなく心を助けようとしているその姿は決して愚かではないと思うわけです。
 
自分の能力に溺れている者、または理念に溺れている者にとってはこうした愚者は恐ろしい事でしょう。
人にとって恐ろしいのは、倒されても置きあがってくる者ではなく、決して倒せない心を折る事が出来ない者なのかもしれません。
 
彼がどうしてそんな強さを身につけたのか…こればかりは、原作を良く読んでみるしかなさそうです。
原作を読みたくなる様なアニメ作品…しかも、この作品のスピンオフ「とある科学の超電磁砲(レールガン)」もアニメ化されるとの事。
 
アニメから入った自分としては、このアニメを見てから原作を読むべきかどうか…と悩んでいる最中であります。
何も情報がないからこそ、楽しめたアニメ。そう思いますと、原作を読まない楽しさをそのまま残しておくべきなんだろう…か?という風に楽しみに身悶えしているわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「超能力」と言う事で一つ。
 
昔から人は、超能力にあこがれを持っていたわけです。超能力をESP…つまりは超感覚的知覚だけに言及しないのだとすれば、錬金術や魔術も超能力の一種であると考える事が出来ます。
 
人の常識を超えた能力…ある人は元来備わっていた力が、文明によって退化したのだと主張しています。つまり開発は可能なのだと。
ただ、こういう人もいます。科学が進歩していけば、それはまるで魔法を使っているかのような技術が生まれてくるだろうと…。
 
例えば、魔法使いの杖や箒。確かに、魔術師が魔力を持っているから使えるのかもしれませんが、それでも、道具を媒介にして使っているわけで、そう考えますと確かに技術がより進歩していけば考えられない様な、それこそ魔法使いの杖や箒が手に入るのかもしれません。
 
セグウェイという乗り物がありますが、あれも、少し前の技術者からすれば魔法のようなものでしょう。それに携帯電話。あんな小さな箱から彩り豊な画像や、澄んだ音色、それに人と話しが出来るのも驚きといえばそうですよね。
今、私達が使っているパソコンにしても、そうです。文章を打てたり絵を書いたり。また、仮想空間でお買い物や友達と会うことも出来るわけです。
 
電子世界のミッドランドがそこにあるような気がしませんか。
 
水泳競技ではどれだけ速く泳げるのか。人の力と、水着の進化によって、記録は縮められています。そして、医療ではまず、救う事ができなかった病が技術革新によって救える様になってきています。
 
ただ、同時に人は苦悩も手に入れるようになりました。
 
人の力なのか技術の力なのか。その境がはっきりしなくなった事。そして、命とは何かという事です。
ある意味、今、人は岐路に立たされているといっても、決して過言ではありません。技術の進歩をが同時に人の進歩ではない。人はあくまで己の足で進歩していくのだ…改めて、それを心に留めておく必要があるのではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年06月27日

バカにする前に考えて見ましょうよ【「機甲戦記ドラグナー」(1987-1988年 名古屋テレビ/創通エージェンシー/日本サンライズ)】

 さて、今回は1987~1988年に放送されました「機甲戦記ドラグナー」です。

 21世紀初頭。人類は月面入植を果たし、新たな宇宙時代に突入するはずだった。しかし西暦2087年、月面開発技術を軍事に転用した月入植者が、人型兵器「メタルアーマー」を開発し、月を植民地としてしか見ていない地球人類に宣戦布告したために全面戦争が勃発。一部の月入植者たちは「統一帝国ギガノス」を建国し独立宣言をした。
一方、メタルアーマーの威力と、マスドライバー攻撃で瞬く間に窮地に立たされた地球連合軍は、劣勢を挽回するべくギガノスからの亡命科学者、ラング・プラートの手引きでギガノスの最新鋭メタルアーマー「ドラグナー」シリーズ3機の奪取に成功する。だが難民輸送船に偽装し、地球までドラグナーを運ぶ任務にあった宇宙船アイダホは、宇宙コロニー「アルカード」に寄航したところで攻撃に遭ってしまった。
 
アルカードのアストロノーツアカデミーに在籍しているケーン・ワカバ、タップ・オセアノ、ライト・ニューマンは、スパイとしてアルカードに潜入していたギガノスのスパイからディスクを託される。
不当な攻撃を繰り返すギガノスから宇宙船アイダホに逃れたその場所で、ドラグナーとの運命的な出会いを果たす。
 
ドラグナーにノリで載りこみ、託されたディスクをセット。機械音声が言う通りに、その場で考えたコードと自分の氏名を大声で言うケーン。だが、それをドラグナー…D-1は記録してしまう。つまり、その瞬間から、D-1はケーンの専用機になってしまったのだ。
 
成行でドラグナーに乗り込む事になったケーンたち…だが、それが彼らを逃れられない運命に導く事となるのであった…。
 
 
 
 この作品は、名古屋テレビ(現メ~テレ)が長年続けてきたサンライズオリジナルのロボット枠、その区切りの作品となります。この作品が終了した後、日仏合作の宇宙伝説ユリシーズ31が途中の12話まで、その後に鎧伝サムライトルーパーが放送され、そして、獣神ライガー、勇者シリーズと続いていくのですが、実質、リアルロボット路線としては、これが最後になるわけです。
 
この時、サンライズに限らず他の関係各社が求めていた事は、ポストガンダムでした。
 
ガンダムの再放送以降の売れ行きは、サンライズというよりも、玩具メーカーであるバンダイに喜びと苦悩を同時に与える結果になったのは言うまでもありません。
こうしたロボットアニメもしくはそれに連なる玩具の全てが、ガンダムと比べられる結果になったからです。
 
これは仕方がない話かもしれませんが、しかし、今だから言える事は…
 
 1.メーカーはあまり考えすぎる必要はなかった。
 2.ユーザーはあまり振りまわされる必要はなかった。
 3.情報誌は、あまり振りまわす必要はなかった。
 
…ではないのでしょうか。この悪循環は、その後、現状まで続いています。○○より××が良かった…こんな感想はその方だけの価値観であり、同意を求める事がナンセンス。それは各方面の萎縮を生む結果でしかなくなったのです。
それから後、暫く最悪の状況を生む結果になります。それはリアルタイムに見ていたかどうかという事です。
 
これも、深く考える必要がないはずなのですが、そうした結果が、格差というよりも差別につながっていった…としても言い過ぎではないのかもしれません。これも、今につながる悪い伝統になっています。
見ていない事を大げさに指摘する…いや、これも言い方なのでしょう。それがおかしいというような言い方、それ事態がおかしい様に思うのは稀有なのでしょうか?
 
さて、こうした個人的に思うところの批判も置いておきまして、ドラグナーで真っ先に言われるのは、やはり前期OPではないでしょうか。
いわゆる「バリグナー」という言葉の示す通り、その映像美には驚かされます。
 
洋画でトップガンという作品がありますが、その影響を受けているのだろうと言う感じがありありと見受けられますが、それをロボット物として素晴らしく昇華しているのは言うまでもありません。本当にこうしたロボットが戦闘機の代わりになるのだとしたら…そんな日が来る事無く、そうした事は作品として何時までも楽しめれば良いと心から思いますけどね。
 
更に大きく違う所は、このドラグナーが改良型になった際にも見受けられました。それは翼です。
 
それまでの、飛行といえば、その代表はマジンガーZ…いえ、その前にありましたアストロガンガーでも良いのですが、水に浮ぶ様に身体を寝そべるわけですが、ドラグナーはパラグライダーのように、立った状態で翼が水平になるようになっています。
例えば、旋回にしても、足の移動によって細かい動きが可能になるのではないのか。スラスターだけではなく、避けるという動作にも動きが出てくるその形に、よりリアリティを感じた方も多いのだと思います。
 
決して主人公が特別な存在ではなく、特殊な能力もなく、しかし、自分たちの出切る事を一生懸命にやっていく事で、結果を残していく。こうした話が成立するリアルロボット作品は決して多くないわけですが、この作品ではそれを見事に成功させているのも特筆すべきなのでしょう。
 
誰もがもしかしたら同じ様にドラグナーのパイロットになれるのかもしれない。それは新しいリアリティの一歩ではなかったのかと思うわけです。
悲惨な話ばかりがリアルロボットの根本ではない…そう、リアリティの定義を考えさせられる作品の一つであると思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「代替わり」と言う事で一つ。
 
このドラグナーという作品もある意味、代替わりの一つであると思うわけです。その結果がついてこなかったのは、残念な話ですが、今でも時折、ポストガンダムやポストマクロスを目指す作品が出てきてくれる事があり、それにはある意味期待しているわけです。
その一番の理由は、ガンダムもしくはマクロスが最高という幻想を打ち砕いて欲しいからなのです。
 
そうした停滞は進化どころか進歩すら生むことが出来ません。
 
全ての否定は後退ではなく停滞でしかないのです。後退なら、まだ別の道に進めるかもしれませんが、停滞はその場に止まっているわけですから、どちらにも動くことが出来ずに同じ場所にいるだけになるのです。
これでは、同じような作品しか出来ずに飽きられるのは当然の話。
 
深夜枠アニメの全てがそうであるとは言いませんが、受ければ右に倣えの精神では、まぁ先は見えたようなものでしょう。
後進の海外産に抜かれるのも時間の問題です。実際に海外の作品でオリジナリティ溢れる作品もあるのですから。
 
同じ様な話が今、政治の世界でも起きています。宮崎県知事への出馬要請がそれです。
これをどの様に受けたのかが気になりましたが、本心からがっかりしました。
 
まず、自民党の中堅と呼ばれる方々に真剣さがない。所詮は自分たちとは違うんだ…という雰囲気で話をしている。そんな要求(全国知事会でまとめられた案を自民党のマニフェストとする事、次回総裁選挙候補として迎える事が出来るのか)は有り得ないと一笑している事。
これらは…いえ、この行為が自民党にとっての大きなマイナスになるのは目に見えて当然ではないのでしょうか。
 
こうした事に対して、自民党はマスコミも面白がって取り上げているだけだろう。国民も本気ではないのだろう…この発言は痛かった。むしろ、この発言を真摯に受け止めるだけの姿勢が欲しかったと思うわけです。
 
何故なら、言ってしまえば現宮崎県知事は外様の方。その方にそうまで言われるほど、舐められているのか…とい受け取り方ではなかった。これがは明らかな失言となるでしょう。
 
これが民主党への牽制になったかもしれない。その理論はわかります…が、何時までも彼をタレント議員として扱っているようでは、底が知れるという話です。
どれだけ勉強をしているのか…それだけではなく、マスコミやテレビなどのメディアを使い、うまくアピールしているのか。
 
それを考えれば、決して軽視できる存在ではない筈なんですけどね。
 
個人的には、政党の思惑によって首相が決定する制度など辞めてしまえと思うわけです。日本もアメリカなどと同じ様に、大統領制にするべきでしょう。
そう、国民の実質的な投票によって、国の代表を決定するべき時期に来ているのです。
 
政治が企業などではなく、国民に視線を向ける事。それが消費税を上げるにしても、海外への協力をするにしても、国民の意見が一番通る仕組みではないのかと思うわけです。
日本国の国民がより政治に興味を持ち参加するには、今、大胆な改革をするためには、トップを選ぶその方式を変える必要がある。そのために、現宮崎県知事が自民党の総裁になり、時期与党としても野党としても活動する事が決して、国民にとってのマイナスになるのとは思えないのですけどね。
 
全てが肯定できるわけではないにしても、現自民党や民主党に在籍する議員さんたちに比べれば、期待できると思うのですけど。
 
個人的に言えば、現首相は嫌いじゃありませんので、しっかりと任期を終わらせてから選挙に臨んで欲しいものです。それこそ、前首相やもう一度やる気の前々首相などよりも、しっかりしていると思うのですけどね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年05月30日

玩具菓子の方がガシガシと動かせる理由は…【「機動戦士ガンダム」(1979-1980年 名古屋テレビ/創通エージェンシー/日本サンライズ)】

 さて、今回は1979~1980年に初回放送されました「機動戦士ガンダム」です。

 宇宙世紀0079。人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させる様になり、既に半世紀が過ぎ去っていた。地球からもっとも遠く離れた宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦に対して独立戦争をしかけてくる。
 
これが世に言う一年戦争の幕開けであった。
 
連邦軍が資源も人員も少ないジオン公国に対して戦果で遅れを取ったのは、モビルスーツ(MS)というそれまでとは異なる兵器の出現が原因であった。
人型をした…いや、巨人のようなその姿は、敵対する連邦軍に対し、焦りを生む。
 
ジオンから遅れるも、連邦軍も独自のMS開発を行なう。その研究が持ちこまれたのが、サイド7であった。
 
連邦の新兵器、そして新造戦艦の噂を聞いたジオン軍はサイド7への調査を命じる。侵入したジオン兵の眼前に確かに連邦軍の新兵器…MSの姿があったのだった。
 
 
 
 もう、多く語る必要はないでしょう(笑)俗に言う初代ガンダムです。
 
私もこれはリアルタイムで見ていました…と言いたいところなのですが、実は完全に番組を最初から最後まで見たのは再放送であったりします。それも再放送一回目の時に見ました。
 
その原因は、当然の話、ガンダムのプラモデルです。
 
このガンプラブームは放送終了後に起こったもので、その火付け役は今は無き、コミックボンボン。その連載作品であります「プラモ狂四郎」であるのは言うまでもありません。それから続くガンプラは凄まじいものです…が、それはまた別の機会に。
 
さて、現在では考えられない話ですけど、このガンプラ。一回目の放送…つまり本放送では売り出されていないのが面白い所なんですね。再放送で放送される話に乗じて、新しいMSやMA(モビルアーマー)のガンプラが発売される。再放送で放送されたMSのガンプラが何時発売されるのか期待感で一杯だった記憶が今も鮮明にあります。
 
それまでのロボット物における玩具は全て完成品でありましたし、決して安いわけではなく子供の手に負えるものではありませんでした。当然、玩具メーカーも子供向けと言いつつ、その子供の親に対しての販売戦略を立てていたわけです。
財布の紐を握っているのは親ですからね。
 
それがガンプラは子供のお小遣い範囲内で愉しめる画期的な商品であったわけです。
 
今からすればそれで愉しめるの?というほどの出来であったのは間違いないのですが、それは言いかえれば、自分の理想に近づけることの出きる余地が残されているとも言えたわけです。
 
そう、改造ブームです。
 
例えば、アムロの乗るガンダムの宿敵、シャア。その最初のMSといえば、シャア専用ザク。あの赤いザクです。
しかし、この赤いザク。足首が稼働しません。いまなら、考えられませんけど、箱の横にあるポーズ集も、あらよっ!こらさっ!という掛け声が似合いそうなものばかり。劇中の迫力はお世辞にも無かったのです。
 
つまり、劇中の動きを再現しようとガンプラを切った貼ったする、いわゆるモデラーが多くなっていったわけなのです。
 
それに合わせるように、模型誌にも変化が見られました。それまで戦車や自動車、飛行機などがメインであった模型誌がガンプラを取り上げる様になったのです。
作り方、塗装の仕方、改造例。それは正に夢のお手本であったわけです。
 
見た事も聞いた事もない道具の数々に目を光らせ、模型店にいってその金額に愕然とした人も少なくないと思います。
 
そうした自分の手で例えば一場面を再現する、設定書にある専用機に改造してみる、と言った行為がガンプラを、そしてガンダムという番組を支えた原動力になったわけです。
 
本放送の際には打ち切りで終了したこの番組も、再放送で燃焼する。それ以降、再放送するたびに高視聴率、ガンプラも1/144とうい小さいものだけではなく、1/100、1/60と大きいサイズまで売り出され、遂にはガンダムがAパーツ、Bパーツ、そしてコアファイターとコアブロックに変形する物まで発売されるという状況になりました。
 
それから今まで続く、進化の走りであったのは間違いありません。
 
ガンダムが成長した陰にガンプラあり。
今では当然の話なのですが、その当時としては画期的な商売の方法であったのは間違い無く、それ以降の玩具のあり方を大きく変えて行ったのは間違い無い作品であったと言えるわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「玩具菓子」と言う事で一つ。
 
ガンプラが売り出されましてから三十年。そう、アニバーサリーの年となりまして、ガンダムも新しいアニメ化の発表が成されました…なのですが、最近のガンプラの悩みというのがあるらしいのです。
 
前にも記載した話ですけど、それは、子供達がガンプラを作れないという事。
 
どう言う事かと、よく話をさせていただいている方に聞いてみますと、最近のお子様は作る事が出来ない子が多いのだとか。だって説明書もありますし、ランナー(プラモデルを成型する際に材料を送りこむ道を金型に作っておきます。部品となるものがパーツ。その部品がくっ付いている枠のようなものをランナーと言うのです)にも番号が振られていますし、どうにも間違え様がないのですけど、それでも作ることができないというのです。
 
そう言えば、同じような話で幼年誌の付録が作れないと言う話も聞きました。
 
なるほどそこでバンダイが出してきたのが、完成品のガンプラと言うわけかと納得するわけです。それが良いのか悪いのかは別にしますけどね。
 
確かに、ガンプラは既存の玩具のようには出来ません。値段は高くなるし種類も多い。完成品のガンプラがその位置にいると言っても言いのでしょう。
 
ガンプラ並に出来の良い商品として、玩具菓子もその一つではないのでしょうか。
 
本当に最近の玩具菓子は出来が良過ぎです。今やっている戦隊物の玩具菓子など、いわゆる通常の玩具と同じように合体が出きるだけではなく、その稼働域も素晴らしいものです。
しかも、この後に発売されるであろうシリーズ物とも合体させる事もできるわけです。
 
どうして玩具菓子の方が、稼働できるのか。それは通常の玩具の立ち位置に答えがあるそうなのです。
 
通常の玩具は3~6歳以上から遊べるわけですけど、彼らに細かい事は望めません。劇中と同じようにガシガシとぶつける様に合体させるわけです。となれば、下手な稼働を与え、それによって玩具が壊れたり、怪我などをされてはメーカー側が堪らないわけです。
 
となれば、通常の玩具はしっかりと作る必要があり、関節の動き…特に膝まではいれにくいという事になるわけです。
 
物が小さく軽く作られ、比較的安価で売られている玩具菓子であれば、怪我をする可能性も少ないですし、何より壊れたとしても親御さんのショックは少なくありません。子供さんはどうかわかりませんけどね。
 
しかも、ガンプラのように改造もしやすい、これは嬉しい限りです。
 
弱点といえるかもしれませんが、玩具菓子を手に入れるには、その番組が放送されている当時でなければならないとい事があります。
ですが、そうした弱点があったとしても、遊びの範囲が大きい玩具菓子はこれから、新しいガンプラの位置としてより進化していく商品なのかもしれません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年05月02日

その昔にあった三部作よ!今蘇ってくれ!【「無敵超人ザンボット3」(1977-1978年 名古屋テレビ/日本サンライズ/創通エージェンシー)】

 さて、今回は1977~1978年に放送されました「無敵超人ザンボット3」です。

 宇宙より突如飛来した宇宙船…彼らは自らをガイゾックと名乗り、地球滅亡に向けメガ・ブーストを送り込んでくる。それに立ち向かうのが、神ファミリー。彼らはその昔、ガイゾックによって滅ぼされたビアル星の生き残り、その子孫であった。
 
ご先祖の残してくれた遺産…ビアルⅠ世、Ⅱ世、Ⅲ世という三機の宇宙船と、ザンバード、サンブル、ザンベースを駆使し、ガイゾックと立ち向かう神ファミリー。それら宇宙船と戦闘機は合体が出来、ビアルⅠからⅢ世が合体し、キングビアルに、そして戦闘機三体は合体し、ザンボット3という巨大ロボットになった。
 
地球を守るために戦うザンボット3、しかし、彼らの戦いに理解をしてくれる地球人は少なかった。
 
 
 
 壮絶なスーパーロボットアニメとして知られるザンボット3。名古屋テレビ(現メ~テレ)が以降に続くアニメ枠として放送した最初の作品ともいえます。
それまで、関東キー局におけるこうした作品は多々あったわけですが、地方局における放送は大変珍しく。以降、勇者シリーズが終わるまで、時間帯移動があったにせよ、長く続いたアニメ枠であったわけです。
また、そのアニメ枠があったからこそ、サンライズという強力なアニメ企業が成長したと言うのも決して言いすぎではないわけです。
 
勧善懲悪。それまでのロボット物には当然あった決まり手のようなものでしたが、このザンボット3に関しては、それを大きく逸脱した最終回が描かれています。
そこにあったのは、世界はそれほど単純ではないという思考、もう一つは、それに伴うそれまでのロボットアニメからの脱出とその実験が含まれていたと言われます。
 
このシリーズ。無敵超人と冠が付くのでお解かりの方も見えるのではないのかと思いますが、その後番組となる無敵鋼人ダイターン3。さらには、その後番組になりました機動戦士ガンダム。当初はこれら三タイトルで一つのグループとして考えられていたわけです。
ザンボット3は三機合体。ダイターン3は三段変形。そしてガンダムは三機のロボットが互いのパーツを状況に応じて換装するというもの。しかし、ザンボット3からその考えは否定されたようなものでした。
 
何故なら、ザンボット3は厳密にスーパーロボットではなく、物語を重視したドラマであったからなのです。
 
更に言えば、ザンボット3はスーパーロボットではありません。少し不思議な動き方をする、兵器として扱われているのです。
 
また、敵の目的が明確になるのは、最終回である事もそれまでのスーパーロボット物とは大きく異なるものでありました。
世界征服にしろ、世界滅亡にしろ、人類抹殺にしろ、それまでのスーパーロボット物には必ず何かしらの目的が明文化されていたものです。その何故、が最後まで隠された理由は、製作者側の意図があったのかもしれません。
 
もし、当初からこのような最終回であろうものなら、スポンサー側から了承が得られたとは考えられないからです。
 
以降、サンライズの作品には、この作品の雰囲気が付きまとう事になります。それが良かったのか悪かったのかと言われれば、難しい判断なのかもしれません。
ただ、ドラマという原点からしてリアリティとリアルを混同させすぎた作品が多かったのは事実です。その結果、所詮は物語である中において現実との混同がより行われるようになってしまった。それは問題点であると思う訳です。
 
物語に引き込まれる事と、引き込む事の違い。特に後者であった場合の責任を製作者がどのように取るのか…いまだその答えは見えてこないのではないのでしょうか。
提示した事をどのように受け取らせるのか、それがあくまで自身の中における思想心理であるのなら、個人が前に出て行うのが正解のような気がしてならないのですけどね。
 
己が意見を映像として出し、その迫力によって説得力を出す。その破壊力を示してくれた最初の作品であるのは間違いないと思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「三部作」と言う事で一つ。
 
その昔…と言うわけでもないですけど、今でも良くあるのが第一期、第二期と放送を区切って行うやり方です。が、ココでいう三部作というのは、例えば宇宙刑事物というシリーズがギャバン、シャリバン、シャイダーであるような。そういう意味で捉えてください。
 
先ほども、記載しましたけど、このザンボット3は当初、三部作の最初として考えられて…いませんでした。結果的にそうなったというのが本当の所なのでしょう。
何せ、すったもんだとありました日本サンライズが背水の陣で取り組んだ作品なのですから。もちろん、これでこけていれば、今サンライズという企業すらあったのか疑問なほどなのです。
 
言い換えれば、それだけハングリー精神に溢れていた時代なのかもしれません。
 
無敵超人ザンボット3、無敵鋼人ダイターン3。では機動戦士ガンダムはどうなる予定であったのか。知れ渡っている話では、ガンボーイもしくはフリーダムファイター。
機動戦士ガンダムというのは、ガンボーイのガンとフリーダムファイターのダムが合わさったものなのだとか。この話を聞いていると、元々はスーパーロボット物を考えていた様子です。それを戦争物にしたのが…言わずもがなの方なのだそうです。
 
というわけで、勝手な想像で考えますけど、無敵は必要ですよね。無敵~なんですから。んで、~人も必須です。無敵○人…となるのですけど、○は何にしましょう。
超人…鋼人…兵器を武装すると言う所から武人にしましょうか。戦争物でもありますし。無敵武人…ガンボーイ…しっくりきません。
フリーダムF…最近のガンダムにそんなのありましたのでパス。
 
というわけで、勝手に命名した名称は無敵武人ガンファイター3としました…こんな感じで決まるとは思いませんけど、少なくとも玩具メーカーはそうしたかったのではないのでしょうか。何故なら、その方が玩具を認知させるのにそれほど苦労はいらないからです。
これは仮面ライダーであったり戦隊物であったり、またガンダムであったりウルトラマンであったりする。これまで続いている作品全てに言える話であるわけです。
 
さて、こうした三部作。何故三部作で終わるのでしょう。その理由は飽きが来るからです。
最初は新鮮味から、二作目までは盛り上がりますが、三作目にはどこかで飽きられてくるようになります。これを抜ければ、それからも続けられる土台が出来るわけですけど、その見極めとして三作目があるとしても決して言いすぎではないのです。
 
こうなって来ますと、策に引っかかった感が否めないのですが、そうでもありません。面白ければ、それだけ楽しませてくれるわけですから、それは水戸黄門の印籠と同じ効果があるわけです。それが桃太郎侍であるのか、それとも大江戸捜査網であるのかの違いなだけなのです。
 
ただ、最近の作品はオリジナリティを優先する必要がない原作付きが大半であり、その人気と進行具合によって同作品の二期三期と続いていくのが現状です。
そうした中では、こうした戦略を取ることもできず、結果的に子供の玩具離れが出てきているという風にも見られなくはありません。
 
実際に過去は過去で、過度の供給をしすぎたゆえに離れて言った例も多々あるわけですし、そうしたさじ加減は難しいものですが、目先の得に揺れ動いてしまうのも仕方がない話なのかもしれません。
 
こうした面白みのある三部作形態が作られなくなってきている事も、もしかすれば時代の流れという曖昧な言い回しの中に埋もれていくのかもしれないと思う訳です。
ただ、出来るのであれば、日本が誇るこうした物語の底力…それを原作に頼るものではなく見せて欲しいと思うのです。
 
そうでなければ、単に動画として実写として加工している、二次創作活動集団でしかない。そんな気がしてならないからです。…と同じ様な文言ばかりですが、それだけオリジナル溢れる作品を見てみたいと思うのは、少数意見なのでしょうかねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年04月11日

想像のエネルギーを創造し【「機動戦士ガンダム00」(2007-2009年 サンライズ/毎日放送)】

 さて、今回は2007~2008年、半年間を空けて2008~2009年に放送されました「機動戦士ガンダム00」です。

 西暦2301年。人類が新たなるエネルギーとして開発し運用する宇宙太陽光発電システム、そしてそのエネルギーを地上まで浮くり届ける軌道エレベーター。無限ともいえるそのエネルギーを優先的に使用できるの大国もしくは連合国であるごく一部に限られていた。
 
ユニオン、人類革新連盟、AEU。そして、彼らは互いに互いを牽制し、その軍事力を制限する事無く増大させていった。
 
そうした狭間にある小国は彼らの代理戦争のような状況に置かれ、中でも化石燃料資源が主力産業であった中東は、宇宙太陽発電システムのために、かつての栄華は見る影もなくなっていた。それだけではなく、そうした事における国内情勢の不安定さは、小国同士が合い争う結果になり、そうした中で死滅した国も少なくはなかった。
 
そうした国の一つにクルジス共和国がある。そこでは内紛が起こり、中でも年端も行かない少年兵が神の名の下に集められ、敵と交戦していた。だがしかし、そうした中でモビルスーツに対し、銃一つで立ち向かう事に無理があった。
圧倒的な戦力差に少年兵たちは、倒されていく。その中にいた一人、ソラン・イブラヒムも、今その銃口が自身に向けられるのをスローモーションのように見ていた。
 
その時、そこにいたモビルスーツを倒した光。それはたった一機のモビルスーツが起こした奇跡にも見えた。
 
緑色の鮮やかな光、それが羽のように大地にまで届き、ゆっくりと、こちらを見下ろすかのようにたたずんでいる。ソランはその姿を目に焼き付けていた。
 
それから6年後の2307年。世界に対し宣戦布告をする組織が現れる。それは、その年より約200年前に設立された組織であり、その目的は地上からの戦争撲滅であった。
だがしかし、武力による武力制圧。それは誰からも受け入れられるはずもなく、世界はその組織によって戦争へと突入して行く事になる。世界対組織…いや、三大大国対組織。手を組むことはない国々がそれぞれの思惑を孕みつつ、その組織の力を欲し、それでも対抗していくことになる。
 
それは科学者イオリア・シュヘンベルグによって作られた組織。彼こそ、太陽エネルギーの基礎理論を作り出し、そして、無限のエネルギーをもたらした張本人であり、そして同時に世界の諍いに心痛めていた人物である。
そのイオリアが戦争根絶のために作り上げたものが、通称太陽炉=GNドライブ。重粒子を蒸発させることなく質量崩壊させ、莫大な陽電子と光子を発生させることにより、莫大なエネルギーを半永久的に生み出す機関…それを搭載したモビルスーツ・ガンダム、そして組織ソレスタルビーイングであった。
 
今、再生のための破壊が行われる。
 
 
 
 先ごろ、テレビ版が終了しました機動戦士ガンダム00のお話です。
 
面白い設定と物語。しかも、テレビ版においては半年の休憩を挟んでの前半25話、後半25話という特殊な状況で行われた作品でもあります。
ここ最近における同枠においては、珍しくなくなってきた感はありますけど。
 
この作品、全体的に見れば、これまでガンダム作品を見ていた人にとっては少し懐かしく、まったく見ていない人にとっては新鮮に映っていたのではないのでしょうか。
 
特に宇宙歴(UC歴)を知っている人にとってはニヤリとさせられる場面が多かったのではないのかと思います。
 
それでも、それが単純にリメイクされているのではなく、あくまでこの作品のために加工されているのがわかり、決して破綻している表現ではないのが嬉しい限りでした。
今やっている作品なのですから、それは大事な話です。あくまで、今のガンダムは今の子供たちが楽しめるように作るべきであって、決してそれまで楽しんでいた大人たちが楽しめるのは後付でもかまわないと個人的には思う訳です。
 
最近では他にも楽しめる媒体が多くありますので、どうしても大人の方に向いてしまう作品が多いのですけど、だからこそ、昔のロボットアニメが今必要ではないのかとも思うのですけどね。
 
ただし、ガンプラというその作品を手に触って楽しめる媒体として00は少し年齢設定高いのではないのかと思ってしまいます。
 
いじり倒して遊ぶというのは、初代もそうでしたし、ガンプラとしては素晴しい事ではないのかと思う訳です。ただ、現在において、ガンプラがその当時ほど遊ばれない状況があり(プラモデルとしてはと言う意味。完成形であるハイコンシリーズは別です)、果たして模型としてもガンダム作品としてはどうか…というのが疑問でならず、同時に残念でなりません。
 
ティエリアの乗っていたガンダムなど、改造しがいありますけどねぇ。あのグ○ンゾートっぽいの。アク○ビート風とか、ウ○ンザート風とか、抜け殻になったセラヴィーなんかをどうやって動かすようにするのかとか。
プラモ○四郎なんかが続いていたら、面白いことになりそうですけどねぇ。
 
そんな感じで見ていたわけですけど、基本的に物語はあくまで人同士の対等と葛藤に終始しておりまして、その姿勢は最後まで貫かれておりました。
人同士は分かり合えるのかどうか、そして人は人とは別の知的生命体との出会いを争いではなく迎えられるのか。これは、今の人類にも言える話であるのは間違いない話です。
 
ただし、同じ様に争いはなくならない事も、物語ではつづられており、結果的にその模索をする事が必要である。ここまでがテレビ版における人同士の話であったわけです。
有史以来、争いを続けている人類がどのようにするべきであるのか。一つの答えもないまま、物語が進んでいるというのは、それを安易に提示するべきではないのか、それとも出来ないのか…それをそう捉えるのも野暮な話なのかもしれません。
 
狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか…マハトマ・ガンジーが言った言葉であるわけです。大義名分という言葉がどの立場であろうとも、結果的に暴力であるのならば、同じ暴力に他ならないという事であるのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「エネルギー」と言う事で一つ。
 
この作品に登場するGNドライブ。それは重粒子を崩壊させる事によって光子と陽電子を生み出し、それをエネルギーとして利用するというものでした。実は、その元になったのだろう構想および実験が既に行われているのです。
 
そのシステムは、海水に含まれる重水素を結合させる核融合発電というもの。要するにお天道様の仕組みを作り出そうとしているわけなのです。ちなみに、今の原子力発電は核融合ではなく核分裂なのです。詳しい事は、調べてみると面白いですよ。
実際に成功し更に進化すれば、机上では無限に近いエネルギーを取り出せるのだとか。現実の物になるまで生きていられるかはわかりませんけどねぇ。
 
今、私たちを照らしてくれている太陽がそのエネルギーを消費するのに約46億年かかるといわれているので、現状において太陽光は無限に近しいエネルギーであるといえます。残念ですが、先ほどの言ってしまえば太陽炉構想は実現にもう少し時間がかかるようですが、太陽発電システムにいたってはかなり研究が進んでいるものです。
 
しかも、アメリカでは本当に軌道エレベータの建設に向けて準備を始めているのだとか。
 
こうなってきますと、作品の世界が現実になる日も近いのかもしれません。
日本もそうですが、アメリカも化石燃料には不自由している国であります。そうした中で、必要とするエネルギー量は決して減る事はなく、そのほとんどを輸入に頼っているのが現実です。
 
そうした問題をなくすためには、やはり、太陽光、風車、揚水、地熱といった自然エネルギーを利用することが急務とされています。中でも太陽光発電に関しては、日本でも国を挙げての事業になりような状況にやっとなってきました。
太陽電池では世界を先んじていた日本ですが、それを活用する事にいたってはかなり遅れているのが現状なのです。
 
完全に太陽光とするにはまだまだ問題があるのは当然ですので、あくまで化石燃料の代用品ではなく、補助品としての位置は少なくとも半世紀はかわらないのかもしれません。
ただ、化石燃料が地球からの採掘である以上、その容量は確実に減っているのは事実です。たとえ、日本の真下に合ったとしても、それを安定して汲み上げるだけの技術力もないのでしょうし、何より採算が合わない事でしょう。
 
となれば、補助的でも徐々に変更していけば問題はない話なのです。
 
少なくとも、太陽は日本にその姿を見せているわけです。例えば、近郊に関しては電気で、遠距離に関してはガスでという役割を完全に分配したハイブリット車や、春夏秋冬によって火力と電力を使い分ける家電など、そうした技術開発が必要になってくるのでしょう。
結果的に、そうした家電などの何割かが、自宅での発電によって賄う事ができれば、エネルギー問題とエコ問題は方向性を変えて行く事が出来るはずです。
 
その問題に企業の存続もあるわけですが、しかし、そうした企業だけが潤う状況よりも、日本が潤う事を考えるのならば、企業は率先して国と協力することが、即ち、不況に強い国造りになるのではないのでしょうか。
 
そう、国が企業が利益を得るのではなく、あくまでそれを支える国民が潤う国造り。日本はその岐路に立っているのだと思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年03月30日

記念というその一瞬を大事に【「ルパン三世VS名探偵コナン」(2009年 日本テレビ/読売テレビ)】

 さて、今回は2009年に放送されました「ルパン三世VS名探偵コナン」です。



 物語はヴェスパニア王国で起こったある事故がきっかけで始まる。それは、その国の王女であるサクラが息子に誤って猟銃で撃たれ死亡てしまうというものであった。その為に王女の息子である王子は自害。結果、次の王となるのは、サクラ王女の娘であるミラということになった。
 
その日、その情報は日本にも流れ、毛利探偵事務所でコナンたちはその速報を見ていた。その同じ時間、飛行機の中にいたルパン三世は、ある場所へと向かっていた。ヴェスパニア王国である。
 
彼の目的は、王家に伝わる冠であった。それはミラの戴冠式に使われるものであった。
 
そのミラは第一王位継承者として、日本に向けての公務を行う必要があった。それは彼女の意思とは関係なく、国として行われるものであった。
 
日本に到着したミラを待っていたのは、ホテルでのパーティであった。だが、事件はそこで起こる。ソムリエが注いだワインを持ち、乾杯の音頭と取ろうとしたその時、ワインを飲んではいけないという声が会場に響いた。
その声に驚き、声を発した者を見るミラ王女。そこにいたのは、一人の少年…コナンであった。
 
コナンはミラ王女の持つワインを、それを注いだソムリエに試飲するように言う。さらに、その会場に身包みはがされた本物のソムリエが登場する。
その偽ソムリエは王女の命を狙い、ワインの中に毒を仕込んでいたのだった。
 
騒然となる会場、そしてその隙に逃げ出した偽ソムリエ。その手に持たれたナイフに臆することなく一撃を加えた人物は、毛利小五郎であった。
 
ショックのあまり自室に閉じこもるミラ王女。その時、彼女の取った行動は突拍子もないものであった。
ホテルの火災報知機を作動させ、脱出を試みたのだった。
 
街中を走る王女。その時、彼女はある女性とぶつかってしまう。その顔を見た時、まるでそこに鏡があるかのような衝撃を受ける。
その女性の名は毛利蘭。毛利小五郎の娘である彼女の顔はミラ王女とそっくりであったのだ。
 
 
 
 …その後は、ミラ王女を探し出したはずの警備員を蘭が見事に勘違いで撃退。そして…という形で物語は進んでいきます。
 
日本テレビが開局55周年、読売テレビは50周年。その記念に合作となったルパン三世VS名探偵コナン。これまで、テレビスペシャルという形で放送を金曜ロードショーで続けていたルパン三世の特別編としての位置づけにあるこの作品。
それぞれの原作者であるモンキーパンチ氏と青山剛昌氏も楽しみにしているということで週刊少年サンデーでも大々的に紹介されていました。
 
コナンといえば、最近では金田一少年の事件簿とのコラボを実現させ、また青山剛昌氏の作品におけるコラボをアニメでも行っていた事もあります。
かたやルパン三世はその昔に秋本治氏とのこち亀合作にてコラボ経験がありますので、両者ともコレが初コラボと言うわけではないのですね。
 
ルパンの絵柄的にコナンと会うものかと思っていましたが、それほど不自然さは感じませんでした。最近のテレビスペシャルのルパン三世たちが、かなり柔らかい線の印象を受けるからかもしれません。当然、この作品と作る際に、変更した部分もあるのでしょうし。
 
元々、ルパンはヤング向け、コナンは少年誌向けですからキャラクターとしての描き方が違って当然なのです。しかも描かれ始めた時代も片や1967年、片や1994年。その開き30年弱なのですから、時代背景も何もかも食い違うはずなのです。
 
でも、このアニメではそうした雰囲気はありませんでした。それだけルパンが時代ごとに成長し、コナンもコレまでに培ってきたアニメでの歴史があるからなのでしょう。
互いに雰囲気の違うものを一緒の場所にする苦労は並大抵の物ではないのでしょうが、それでも見事に成し遂げたと思います。
 
毛利小五郎役の神谷明氏も普段のコナンでは出来ない小五郎の言い回しをやれたのですから、面白かったのではないのでしょうか。その場面は、これから発売されるであろうビデオにてご確認の程を。
 
最後の最後までスタッフの遊び心が沢山溢れている作品でありました。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「記念」と言う事で一つ。
 
アニバーサリーなどと言う言葉が聞かれて久しいわけですけど、基本的に○周年という時に半端な数字は如何なものかと思う訳です。sれなら毎年毎日がアニバーサリーでもよろしいじゃないですかと。
 
また、普段から20%引きという看板をみたんですけど、それって結局常にその値段でやっているわけですから、それを基本に考えればよろしいのですかね?
 
記念という聞こえで惑わせるような商品って、正直JAROに電話しちゃえって思いませんかね。
 
それでも確かに記念品と呼べるものがあるわけですし、また、それが好きな人にとっての記念という物が存在するのは間違いないわけで、それは記念と呼ぶのに十分なわけです。
 
要するに記念の安売りをするのは如何なものかと言うわけで、記念と言うからにはその時だけの希少価値を求めたいわけです。
そういう意味では、人同士の付き合いによる記念日はたった一度きりの時間なわけで、その記念は大事にしたいものであるなぁと思う訳です。
 
それは一期一会の決して繰り返すことが出来ない貴重な時であるのですから。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年01月31日

旅をするということ【「魔神英雄伝ワタル」(1988-1989年 日テレ/アサツー ディ ケイ/サンライズ)】

 さて、今回は1998~1989年に放送されました「魔神英雄伝ワタル」です。



 小学校四年生の戦部ワタル。彼はその日、寝坊をし得意のローラースケートを使って近道をしていた。その近道の通路にあるのが龍神沼。そこで紅い曲玉のネックレスを拾うが、それを龍神沼の祠に置いてしまう。
その日、工作に授業において、クラスメイトとどちらがカッコイイロボットを作れるのか、競争する事になる。だが、ワタルが作ったのは、少し不恰好なロボット。どうにも負けそうな感じであったが、しかし、ズボンのポケットに祠においてきたはずの曲玉のネックレスがあるのを見つける。すると、ワタルはそのネックレスを、自分の作ったロボットに飾り付けた。
ワタルが見ても、少し不恰好なロボット。しかし、不思議と他のクラスメイトに人気があったのは、ワタルのロボットであった。
 
その帰り、意気揚々と龍神沼を通っている最中。ワタルは、そのロボットに名前をつけようと考える。その時、頭に浮かんだ名前が、龍…神…丸であった。
そう、ワタルはそのロボットに龍神丸と名付けた。その時、空に暗雲が立ち込め、沼の水面がざわつき、その中から一匹の龍が出てきて、ワタルと天空へと連れ去っていった。
 
意識を失ったワタルであったが、周りの騒々しさに気が付くと、そこは知っている場所の風景ではなかった。遠くを眺めてみれば、モノクロの虹がかかった、不思議な山がある。
ワタルが気が付いたモンジャ村は創界山という神々の住む山の麓にある村であった。そこには一つの言い伝えがある。悪が創界山に君臨する時、救世主ワタルが現われ、世界を救ってくれるだろうと。
 
ワタルは戸惑いを覚えながらも、救世主として悪の帝王ドアクダーを倒す旅に出かけるのだった。
 
 
 
 今回は「魔神英雄伝ワタル」の紹介です。元々、この番組は十五分間のアニメとして放送される予定のものでした(その同じ枠の別番組が鎧伝サムライトルーパーであったのです)。ところが、それを一つの番組として確立する事となり、結果、それは見事に当たったのではないのかと思います。
 
その時点で、オリジナルの作品は低迷を続ける事になっていたのですが、ワタルの玩具。中でもプラクションは簡単に組み立てられることから、男の子だけではなく、女の子も買って飾る人形として売れたと言います。
 
そうした原動力になったのは、やはりキャラクターの影響も大きかったのではないのでしょうか。
 
主役のワタルもそうですが、一緒に旅をする忍部ヒミコに、ワタルから先生という愛称で呼ばれた剣部シバラク、ヒミコからはトリさんと呼ばれていた渡部クラマなど、実に個性的で魅力的なキャラクターが多く登場しました。
また、各話数ごとに出てくる敵キャラも、その当時のCMやニュースなどで話題の人から、舞台や映画、果ては過去の人までを弄ったキャラクターとして登場してきます。
そう、そうしたキャラクター自体がギャグであったのも特徴です。
 
ですが、物語は決してギャグだけではなく、本質はシリアスストーリーでありました。
特に最後になればなるほど、友情や愛情がテーマとして描かれる回が多くなり、ファンを釘付けにしたものです。
 
途中参加であるドアクダーの息子・虎王は、何も知らずにワタルたちにちょっかいを出し、そして、ワタルから友達を教えてもらい、自らそうであると言うものの、そのワタルが自分の父親の命を狙ってきていた事を知りショックを受けます。
その事すらも最終回に向けての伏線であったとは…本当に目が離せない物語であったのだと思うのです。
 
そういう意味では、今のある程度、世間を判りきったかのようなキャラクターの在り方とは異なり、ある種、絵本のような作りであったようにも思えます。
実際は、当時のファミコンで発売されたRPGに代表されるようなゲーム感覚の冒険物であったのは間違いありません。最上階に向かうためには、それぞれの階を攻略する必要があり、また、ワタルを助けてくれるアイテムも入手する事がある。これは正に、RPGゲームの特徴です。プレイをするわけではありませんが、それでもその楽しさを味わえるのではないのでしょうか。
 
ロボット物でありながらも、そのロボットをも巻き込み、勇気・友情・博愛といった事を恥ずかしげも無く盛り込ん行った作品であるからこそ、独特の世界観が生まれ、結果、ファンに大きな感動を与える事が出来たのではないのか、と思います。
 
この後に、OVAが出され、そして第二弾、二回目のOVAと続いていくのですが、その話は機会がありましたら、その時にでも…。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「旅」と言う事で一つ。
 
人が何処から来て、何処へ行くのか…そんな哲学的な事を考えてしまうのも、人が決して定住する生き物ではない証拠なのかもしれません。生物的にも定住するという事は、決して生産的ではありません。全てが自分の手元にある事、それが幸せな事ではなく、むしろ不幸せな事かもしれないと思う事もあるのです。
 
それは僻みだよ…と言われるのかも知れませんが、言い換えれば、それだけ守るべき物が多くなると言う結果でもあるのではないのでしょうか。転じて、そうなりますと、本当に守るべきものの姿が見えない可能性もある事になるかもしれないのです。
 
人が旅をする理由。それは様々ある事でしょう。自分の居場所を見つけるため、見識を広げるため、商売のため…ですが、それのいずれも、万人の理由ではありません。
先ほど、私は様々あると言いましたが、それは一つの根底の下にあっての多用であるのだと思うのです。それは、場所です。
 
その場所に居場所が、新しい何かが、お客がいるのかもしれませんが、いずれにしても、場所があっての話なのです。となれば、何を求めているのかと言えば、旅とは明確に答えてくれる相手を探すためなのかもしれないのです。
 
となれば、その目的は自分が温もりを感じる相手であれば良い事になります。
それが大木であろうと、大地であろうと、荒野であろうと、大海であろうと…。犬であろうと、猫であろうと、鼠であろうと、鷲だろうが、ペリカンだろうが、鯨、イルカ…花でも虫でも、構わないのです。有機無機など関係ありません。当然、実際にあろうが想像のものであろうが、何でも構わないのです。
 
そこに感じる温もりがあれば、そこにたどり着くために人は旅が出来るのです。
 
たどり着く事が終りであるのかと言えば、そうではありません。そこは旅の終りであり、新たな始まりでもあるのです。そこにある、何かがきっかけになる事でしょう。そして人は再び歩き始めます。その歩みが終わるのは、恐らく永遠に人がいなくなるまで続くのかもしれません。
何故なら、途中で歩みが潰えたとしても、その後から旅を続けてくれる人がいるからです。
 
自分の後を振り返っても、その人を見ることは出来ないのでしょう。そして見る必要のないのかもしれません。その人は、同じ道を歩いているのではなく、その道に寄り添っているのですから。
だから、同じ道を歩くといっても、少しだけ横にずれた道であるのです。でも、その方向は一緒。だからこそ、人は人といられるのではないのでしょうか。
 
旅は道連れ世は情け。孤独な旅というのは、案外出来ない…それが世の中なのかもしれませんね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年01月31日

経営者を着飾るための企業ではない【「強殖装甲ガイバー」(1986年劇場版、1989年OVA第1期、1992年OVA第2期、2005年テレビアニメ版)】

 さて、今回は「強殖装甲ガイバー」です。



 成沢山を望む場所に立つ高校。そこに通う深町晶は、ある爆発を目撃した時より、その人生を一変させられる事になる。爆発によって飛来してきた物。それを拾い上げ、そこにあるスイッチのようなものを押してしまう。すると、その物からアメーバのような触手が晶目掛けて伸び、彼の身体を覆いつくしていく。まるで食われているかのように見えたその様子であったが、額の部分にある金属が光ることによって、何か統制を受けたように形を成していった。
 
思わずよろめき、沼へ落ちてしまう晶。
それと入れ違いのように現れたのは、正に化け物であった。グレゴールと呼ばれた化け物が、晶と一緒にその場にいた、瀬川哲郎に手を伸ばそうとした時。ソレはその場にいた全員の前に現れた。

グレゴールはその正体不明の怪人に対して、自慢の怪力を揮う。だがしかし、それよりも小柄な怪人は、更に強大な力を持って、グレゴールを撃破。グレゴールと共にやってきた者たちは、その場から逃げて行く。
 
「晶…晶、なんだな?」
 
哲郎の姿を見、声をかけてきた怪人。その声は友人である晶のものであった。それまで気を失っていたのか、現状を見ても理解できない晶。だが、己の手を見た彼は叫ぶ。その恐れと拒絶の叫び声に怪人は晶の体から離れ、沼へと消えていくのだった。
 
 
 
 今回ご紹介する、強殖装甲ガイバー。原作、つまりは漫画版ではなくアニメ版のご紹介です。と言いましても、題名を見ていただければ一目瞭然。このガイバーは何と、これまで四回もアニメ企画が通っている珍しい作品であるのです。
 
まず、第一回目。これは劇場版として作られたもので、劇場用に話を大きく書き換えられているものです。それは、そこで話を区切らなければならないためです。
また、その関係でキャラクターが大きく変わっています。監察官という最初に深町晶=ガイバーⅠの乗り越えなければならない敵として出てくるキャラ、ガイバーⅡにもなるそのキャラですが、原作ではリスカーという男性でありますが、劇場版ではバルキュリアという女性になっています。
 
当然、ガイバーⅡもその形状が原作では男性ライン、しかし劇場版では女性ラインの少しエロティックなものであり、それも話題性の一つとなっていた記憶があります。
最終的に、コントロールメタルの破損により強殖細胞の暴走。そしてガイバーⅠの最大武器であるメガスマッシャーにて消滅という状況になりました。ここは原作を踏襲した部分であるのです。
 
面白いのは、そのバルキュリアというキャラですが、実に二十数年の時を経て、原作に登場したという事でしょう。当然ですが、劇場版のキャラとは異なる設定のはずですから、その活躍が期待されるというものです。
 
 
そして、二回目。実は三回目である1992年版のOVAはこの二回目、1989年度OVAの続編でありますので、一緒に記載していこうと思います。
 
内容は原作に出来るだけ忠実に、そしてテレビ放送ではないために、放送という制限を受ける事なく作られたガイバーであるといえるのではないのでしょうか。
つまりは、エログロが適度に散りばめられた、原作テイストが活きていたアニメであると思うのです。
 
原作が途中であり、尚且つまだ続いている状況でもあるために、登場する場面ではない状況で登場してしまうキャラもいました。この辺りは、現在の原作付きの深夜枠アニメでは御馴染みの状況ではないのかと思うのですが、当時は作品の出来が良いだけに原作通りの状況で製作して欲しかったという意見も強くあったわけです。
 
ただし、そうありながらも、この作品には原作者である高屋良樹氏の意向が強く反映されており、そうした意味では原作者納得のOVAであるといえるのかもしれません。
 
 
更に時間が進み2005年にWOWOWにて放送されたテレビアニメ版。これが現在最新のアニメ版ガイバーと言う事になります。
 
作品の総監修・設定に高屋良樹氏が入り、より原作者が今ならばこうしたであろうというガイバーの初期が見れる作品になっているのではないのかと思います。
また、原作にて主力兵器となった巨人殖装=ギガンティックまでも登場し、さて、これからが…という感じなのでしょうが、原作自体がそこら辺りまでと言う事で、今回もギガンティック登場までという形になっています。
 
 
元々、遅筆でありながら拘りの作画をし、編集者のみならずファンを待たせる事が常である高屋良樹氏の作品…いえ、それだけ緻密に計算され、伏線もしっかりと考慮されているからこその作品と言うべきなのでしょう。だからこそ、時代が経てもこうして新たなアニメ化の話が持ち上がり、遜色ない作品として発表できる…これは理解できる事です。
 
ですので、WOWOW版の続編。是非、原作が溜まって来ましたら、作って欲しいな~と思うのは、ファンの心理の一つではないのかと思うのですけど…どうでしょ?
 
 
 
 と言う感じで思う所としては「企業の有り様」という事で一つ。
 
ガイバーという作品におけるクロノスは当初、秘密結社として世界…いえ、世間から隠れたものとして存在していました。ところが、満を持して世界制服を敢行…と思いきや、それは単純な恐怖による縛りではなく、現体制を崩壊させ、新たな秩序を示していくというものでした。
 
その後に世間に秘密結社ではない状況となって現れたクロノスはどうなったのかといえば、まるで企業のように当たり前に存在していくのです。
 
企業と言う感じなのですが、実際には政権を握っているのですから、一緒の社会主義のようになっているわけです。
 
ふと考えるに辺り、こうした企業…という形で記載します…は、社員を手放すのだろうかと思えば、決してそんな事はありません。少なくとも、企業に貢献してもらうための福利厚生をしっかりと完備し、社員を迎えている状況です。
それはきぎょうが転覆しようとしている状況でもそうだろうと言えるのでしょう。何故なら、その社長…いえ、会長になるのでしょうか。彼自身が更に自分の上司から見捨てられている過去があるからです。
 
 
これは漫画の中の話ですが、実際の企業も一種の社会主義であるのは間違いない話です。
 
企業の中にある休日を守り、その企業を成長させるために働く。その対価として給与や福利厚生が存在し、企業は社員を守る為にサポートを行う。会社に対する愛情などという形で言われている話です。しかし、それも企業側が雇用を守ってこそあるべき話ではないのかと思うわけです。
 
もっと言えば、昨今における雇用不安。これは政府の責任など微塵もあるわけがないのです。全ては経営者の無能によるもの。これ以外の何物でもありません。
 
単純な話、企業が成長するためには、売上げを上げるしか手がありません。その売上げを上げるための商品は、大企業になればなるほど、誰が用意するというのでしょうか。
別に経営者が自力で売上げを上げているのであれば、それはその人の誉れであるのは間違いない話でしょう。ですが実際にはそうではありません。労働者という人たちがあり、企業は成り立っているのです。
 
そう考えますと、企業におけるヒエラルキーは会長・社長が上ではなく労働者が上であるべきものとなるはずです。では、そうならない原因は何故でしょう。それは企業としての責任を誰が果たすのか。この一言に尽きるのです。
 
責任を果たせるからこその経営者であるべきであり、それは消費者だけではなく労働者に向けても必要な事なのです。
 
一体誰があってこその商品であるのか。これを経営者となる人たちには考えて欲しいものであると思うわけです。
 
ぶっちゃけた話、会合やパーティなどを開くのは勝手ですが、そうした金銭を絞るだけでも不必要な人件費は抑えられると思うのですけどね。そうした場所に着ていくスーツで、どれだけの人の飢えを凌げるのか。それが現実問題として考えるべき事、そして消費拡大に繋がっていく事ではないのかと思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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