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2009年05月23日

差し伸べられたその手を払う事なく共に歩む【「仏ゾーン」(1997年 武井 宏之/集英社)】

 さて、今回は1997年に掲載されました「仏ゾーン」です。

 仏像…それは宇宙が生んだスーパーヒーロー。これは、悪を蹴散らし人間を救うため、さまざまな姿をもって現われた仏像たちの慈悲と友情の物語である。
 
時は現代―――とある温泉街にあるお寺、その名を西岸寺。そこの住職に育てられた娘サチは、今、ピンチのど真ん中にいた。地上げでお寺を出ていけと柄の悪い男たちにからまれていたからだ。
そのお寺はボロ寺であっても、古くから代々そこにある歴史のある寺。そこに奉られている仏像も素晴らしいものであった。
 
ご本尊である千手観音像、それはある仏師の最後の作品。そこにあるのは、全てをもれなく救おうとする姿だった。しかし、柄の悪い男達にそれは通用するはずもない。サチが千手観音の話をしても、正に馬の耳に念仏。
 
逆ギレ気味の男に胸倉を掴まれ殴られそうになった瞬間…その男が何者かに殴られたのだった。それまで静観していた、いや、静観しかできないはずの千手観音、そう千手観音像が男を殴ったのだ。
 
しかも、その千手観音から出てきたのは少年。仏像から出てきた少年に驚いた男達は、その場から逃げ去っていった。
 
彼は自分自身をセンジュと名乗る。しかも、仏達の住む世界「仏ゾーン」から大日如来の命を受けやってきたのだというのだ。
当然、サチはその話を信じるはずもない。和尚は信じているようだが…。
 
センジュの話によれば、サチは釈迦如来の入滅した五十六億七千万年後に世に現われる弥勒菩薩の生まれ変わりなのだと言う。
 
そんな話を信じるはずもないサチは、自分が捨て子であり、どうして苦しい暮らしをしなければならないのかとセンジュにぶつけた。自分の不幸を微塵にも出さなかったサチであったが、センジュのあまりにも荒唐無稽な話に、溜まっていたものを吐き出してしまったのだ。
 
翌朝。少しでも家計に足しにするためにサチは牛乳配達のアルバイトをしている。
そんな時、近所の知り合いから、寺に泊まっている少年の事を聞かれた。しかも、その少年が川原で有り難がられているというのだ。思わず、サチはその少年=センジュを引っ張り連れていく。
 
仏と信じていないサチはセンジュがそうして拝まれている事に腹を立てる。だが、センジュは例え自分が仏でなかったとしても、それでも良いのではないのかという。
拝んでいる人たちの気持ちがそれで救われるのであれば、それは意味のない行為ではない…と。
 
その時、その近くをある車が西岸寺に向かって走っていくのが見えた。虫の知らせにサチは急いで寺へと戻る。だが、サチが帰りついた時、寺はガレキの山と化しいていた。
それは、センジュに驚き逃げていった男達が総出で出向き、しでかした事だったのだ。
 
サチや和尚を抑えこみ、さらに乱暴しようとしている男達の前にセンジュが出る。その彼に付きつけられる無数の銃口…それでもせんじゅは動じず、手を合わせ自分の力を解放したのだった。
 
 
 
 かなり昔の作品ですが、今回はあのシャーマンキングと同じ作者であります、武井 宏之氏の作品、仏ゾーンの紹介です。
 
上記の話の続きは、センジュが合掌印を組む事によって、千手天衣(センジュアーマー)が発動し、一斉に撃たれた弾丸をすべて受けとめるわけですけど、千手天衣って中々カッコイイんですよね。
 
最近、仏像に癒しを求める方が多いとか。中でも、国宝に指定されている阿修羅像など人気が高いようです。今、「興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」」をやっていますが、50万人ほどの来場者数があったのだとか。テレビでも若い女性が多いというのもやっていたようですね。
 
さて、この漫画に登場するのは、人間だけではなく、仏とその仏敵といわれる魔羅です。人間はさておいておきまして、仏と魔羅、彼らが人間界に来ているのかといえば、それはサチ=弥勒菩薩を仏は守り、魔羅は滅するためです。
 
釈迦如来から五十六億七千万年後に地上に現われ、全てを救うとされている弥勒菩薩。これは漫画のシナリオではなく、実際に仏の世界のシナリオになっています。でも、釈迦如来の入滅…要するに亡くなったとされるのは、紀元前368年の事。幾らなんでも年月が足りません。まだまだ先の話と思われるのですけど、これは仏の時間と人の時間との違いであると言う話ではなく、年=念であると言う事であり、つまりは、人口であるというのです。
 
五十億七千万年=五十六億七千万念(人)となれば弥勒菩薩は地上に降臨すると言うわけなのです。
 
この年=念という話。決して荒唐無稽な話ではないのですね。そして、仏が説いたとされる言葉も決して今の世の中に無関係ではない。これが創作だとしても、なんと素晴らしい先見の明があったのかと感心するだけですし、本当に仏様が言われたのならば、宗教云々ではなく耳を傾ける必要があるのかもしれませんねぇ。
 
話を戻しまして、仏敵である魔羅にしても、センジュたち仏ゾーンの仏たちも、そのままでは地上で活動できません。そこで彼らが借りるのが仏像であるわけです。
 
彼らは仏像の姿を借りる以上、その仏像の影響を受けてしまいます。木、土、石…それら素材によっても、固さや重さが変わってくるというのです。なにより、彼ら仏も普段は人の姿と変わりがないのです。
でも、思い出してみれば、センジュは千手観音。その無数の手はどこに行ったのでしょうか?
 
それは仏の使う天衣(アーマー)になっているのです。
 
センジュ…千手千眼観世音菩薩は、千本の手があるわけではなく、全部で四十二本の腕があります。背中にある四十本の腕は、それぞれに目を持ち、その眼差しを持って二十五の世界を救うといわれているのです。一本で二十五の世界。四十本で千の世界というわけです。
つまり、彼の千手天衣はその四十本の腕をチャクラによって動かすものであり、それは仏ゾーン特有の機器であるわけなのです。
 
その操作にはそれぞれの仏に関連した印をする必要があります。センジュは合掌印、馬頭観音のバトウなら馬口印という感じ。地蔵菩薩のジゾウは天法輪印を使っていましたけど、それは技として使っていたので少し異なります。
釈迦如来がしている印相の一つが天法輪印ですしね。
 
物語的には、途中で終わっているわけですけど、それはそれで良い終わり方であったと思います。
その一番の理由と言うのは、当時の連載雑誌のあり方であれば、神仏関係なく、誰が一番バトルに突入させられていた事でしょう。それをやってしまったら、天罰が下るのかもしれません。
 
この漫画の本質は、救い。本当に全ての人を救う事が出来るのかという壮大なもの。単行本は3巻で終わっているのですけど、これが10巻、20巻と続いていった際、様々な方面から問題定義された…かもしれません。
そういう意味でも、ここで終わらせておく事は、漫画としての終わり、それから先の話というものを読者が出来ると言う事。その過程でセンジュの目指したすべてを救うという事の意味を考える事が出来る余力を残してくれたという事。
 
そうした事柄がもしかしたら、神仏からの問題なのかもしれないと思うわけです。
 
神仏の存在する意味、仏像のある意味、宗教のある意味、人の存在する意味。仏教徒ではないにしても、別の宗教であったとしても、無宗教であったとしても。本当の意味で人を救うという事では宗教を超えた、まだ終わりの見えない問題であると思えてならないわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「宗教」と言う事で一つ。
 
私などは、一応、実家は仏教なのですけど、本人としては無宗教。それでも言い方をするのであれば精霊信仰と言えば良いのでしょうか。精霊といいましても、火の精霊や水の精霊というわけではなく、単純に全ての生かしてくれる物は神であるとするだけの話です。土着信仰と言っても差し障りはありません。
 
人がゼロからでは何も作れないのは、意外に忘れ去られる事です。
 
土から何かを、水から何かを得たとしても、それはまず土や水があるから出来る話。それすらない場所では何も出来ないのが実情です。
さも当たり前の話に聞こえるのでしょうが、それでも人は生かされているとは思わないでしょう。生きていると思うはずです。
 
別にそう思うのは自由ですし、それが大いなる存在によって成されているとするのも自由です。
それを肯定する事も否定する事も出来ない以上、存在の有無を論ずる事がナンセンスなのですから。それを論じると言う事は、命は何であるのかを論じるのと同じ事なのです。
 
そうした意味不明…いえ、理解不能な状況を神や魔といういかにも理解できそうな媒体に置き換えたものが宗教であります。
偶像信仰であろうともなかろうとも、そこに不可視の神が存在する以上は、全て同じわけです。
 
思うに、宗教というのは大勢の人の方向性をまとめるには大変に優れた学問であると思うのです。
例えば、宗教がある程度限定されている国の成長は国が方向性を決めれば、その方向に進んでいく様子です。インドなどの計算力やプログラミング技術力などは、その典型的な例でしょう。
 
日本には自由の名の下に数多の宗教があります。それだけではなく商業も宗教を利用しているわけです。
こうした中に生まれる思想は、自由という思考であり、あくまでその方向性ではなく、自由という言葉によって統一されているだけに過ぎません。
 
つまりは、指導者がいない状況であると言う事になります。
 
こうなりますと、宗教の自由というよりも、自由宗教と言った方が良いのかもしれませんね。
 
本来、自由というのはそれ以上にない不自由であるわけです。全てを自分で決めると言う事は、その結果を全て受け入れなければならない。当然、後始末も全て自分で行なわなければならないわけです。
 
一人で後始末も出来ない自由など、結局、誰かに依存しているだけに過ぎません。今の日本において、誰かのせいばかりにしている事が多い状況で自由を宣言する事がどれほどの迷惑になるのか。政治・経済・マスコミを見れば一目瞭然の話です。
 
宗教はないと困ります。それは宗教ではなくても、大事な教えが間違いなくあるからなのです。つまり、宗教とい単語が、御伽噺であったり、常識であったりと変わっても良い訳です。
ただし、その教えが誰かの利益になるためだけのものである場合、それは教えではなく押し付けになる事を誰もが理解する必要があるのではないのかと思うわけなのです。
 
宗教の基本は何も難しいものではないのです。手を差し伸べよ、それを振り払う事無く、しっかりと握り共に歩め。間違いを互いに正し、周りを愛する。それこそ救いの道。私が知る限り、神仏が言っている事に大差はありません。
 
何より、人は多くのものから手を差し伸べられて生きている。それは間違いなく真実であり真理なのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年05月09日

白刃の煌きに命燃やして【「新鎧伝サムライトルーパー」(1992年 細井 雄二/矢立 肇/二階堂 いづみ/講談社)】

 さて、今回は1992年に連載されました「新鎧伝サムライトルーパー」です。

 1992年---人々は平和だった。かつであった妖邪界との戦いの傷もいえ、人々は、また、おのれだけの歴史をつづり始めていた…。しかし、人に捨てることの出来ない欲望があるかぎり、妖邪界は、たえることなく存在し、妖邪帝王・阿羅醐は、つねに人々の心のすきを狙い続ける。そしていま、そんな両者に、新たなる伝説が付け加えられようとしていた…。
 
 
 
 …という感じで始まるのですが、媒体は漫画雑誌、今はなき少年ボンボンにて6回だけ連載された作品です。
 
以前にも記載しましたが、元々、サムライトルーパー自体、一回15分作品で企画がだされた物であったわけですが、それが、TVシリーズを経て三度のOVAまで発売されたというのはサンライズにとっても驚きではなかったのでしょうか。
確かにその当時、ロボット物の低迷から等身大ヒーローへの移行がなされていたわけです。それでもロボット物を模索していた中において、いわゆる枠を停滞させないための作品。それがここまで人気がでるとは思っていなかったはずです。
 
実際に、声優がキャラソンではなく実名で歌手デビューし、コンサートまで開けた作品としては、その当時からしても異例であったはず。キャラクターがそうしたバンドを組むもしくは、歌手の真似事をするというわけではなく、あくまで歌っているのはそのキャラの声優さんであるというスタンスも、明確に表示されたのはその当時からしても数少なかったのです。
 
言い換えれば、それだけ人気の高かった作品であるにも拘らず、これまでリメイクの名前が出てこなかったのは不思議な事です。
 
1991年にOVA最終作となるメッセージの後に出てきたこの新鎧伝サムライトルーパーには、再びこの作品を世に出そうとし、様々な模索をしていた経緯が伺えます。
キャラクターデザインも、そのキャラクターたちがまとう鎧デザインも、テレビスタッフと同じ方がデザインをし、そして、設定画もあります。実際、雑誌連載時には、もしかすればテレビ化をするかもしれない…そんな文言もあったぐらいです。
 
ですが、1991年と言う時代には、すでにサムライトルーパーを放送していた時の条件とは大きく異なる状況になっていたのです。
 
その一つは、それまで放送していた名古屋テレビ(現メ~テレ)制作枠が消滅していた事。その前の年、1990年より始まった勇者シリーズ。その番組の放送途中で、放送時間帯が変更され、さらに、その番組を最後にそれまで名古屋テレビ制作であった同系列に連なる作品をテレビ朝日に移行するという事が起こったのです。
 
また、サムライトルーパーでもスポンサーであったタカラ(現タカラトミー)との提携が取りにくい現状もあるのだと容易に推測できます。
1994年にサンライズが資本提携という形でバンダイ(現バンダイナムコホールディングス・トイホビー バンダイ)の傘下となった関係で基本的にサンライズの作品はバンダイが玩具・ゲーム発売することになったわけです。それでも勇者シリーズをタカラで行っていたのではスゴイ事なのですが、それでも勇者シリーズ終了の後、タカラがスポンサーとなるサンライズアニメがない(ここら辺は記憶が曖昧なのですが、あえてこう言い切らせてもらいます)ために、こうしたリメイクもしにくいというのがあるのでしょう。
 
そういう意味では、魔神英雄伝ワタルもタカラであったわけですが、その権利は現在、バンダイにありますので、もしかすればこうした作品が今後ちらほら出てくるのかもしれません。
 
その一つがトルーパーであると言い切れるわけではありませんし、そうなったからと言って、この新鎧伝~がアニメ化されるとは到底思えません。また、トルーパーファンの中にはこうした新しい動きに否定的である人もいるぐらいです。それも仕方がないのかもしれません。
 
ただ、リメイク作品が全て失敗であったのかといわれれば、決してそうではない。新しい作品であると受け入れられれば、新しいファンを獲得することも不可能な話ではないのです。
そういう意味では、この新鎧伝~は、前作品とは一線を画して、新しい話として描く事もありえると言えなくもないのです。
 
そうした作品がこれまでなかったわけではないので、そう考えるのならば、この作品もリメイクが出ないとは限りません。
 
…と書き記してきたわけですけど、作品の中身に関しては記載していない…。
簡単に記載しますと、第三勢力が出てきてしまったので、何とかしなきゃイカン!・・・と言う感じなのですが、これでは端折りすぎ。上でだらだら記載しましたけど、もう少しお付き合いをば。
 
 
作品自体は、先ほども記載しました通り、サムライトルーパーと銘打ってありますが、TV放送のものとは別次元の物語であると認識した方が良さそうです。その一番の理由は、鎧ギアそのものにあります。
 
鎧ギアは元々、敵側の阿羅醐の体(と表現されていますが、これも鎧です)を九つに分けて、そこに仁義礼と言った、人の心を封じ込める事によって作り上げられたもの。しかも、その鎧自体が敵である妖邪の力を封じているのですからさぁ大変。
それを御するのに人の心を磨かなくてはならないという事になって言ったわけです。ところが、それに付けこむかのような存在、輝煌帝が鎧世界よりちゃちゃを入れてきたもんだからスッタモンダとなりました。しかも、その影というのが日本の遥かとーい場所に現れまして、日本に現れちゃって、烈火と光輪はさらわれるわ、んで鎧は暴走するわで…。
 
ま、↑の文章は読まなくてもOK。簡単に言いますと、鎧ギアというのは、OVA第二弾「輝煌帝伝説」において破壊されてしまったわけです。
 
あれ?じゃ、「MESSAGE」の鎧ギアは?…となりますが、これは、スズナギという「MASSEGE」オリジナルキャラの怨念が作り出した鎧ギアに代わる鎧ギアなのです。
さらに言えば、その鎧ギアを託された遼たちがそんなに簡単に次代へと鎧を継がせるというのもおかしな話です。鎧の力をその身に染み込ませたサムライトルーパーたちが、その力を持って何とするのか、その答えがそんなに簡単に出るとも思えませんしね。
 
もう一つ、TV版最終回で煩悩京に行ってしまったカユラが現世にいる事自体がパラドックスになっているのですから、これはもう別次元の物語と結論付けるしかありません。
勇者に対する超者、宇宙の騎士にブレードが付いたようなものです。
 
そうした物語であったとしても、その中身は続きが読んでみたくなる話であったのですが…最初に記載したとおり、これは6回で終わってしまったのです。人気がなかったといえばそれまでかもしれません。内容的に幼年誌向けでは、なかったかもしれません。
 
残念なことですが、これの復活はまずありえないでしょう。
まず、ボンボンと言う媒体もなくなりましたし、オリジナルアニメを行うのが難しいというのも、今の世情をみれば判ると言うもの。さらに言えば、等身大が戦うにしても、鎧をまとうはなくてもカッコよいキャラで同じ様な作品を作れてしまい、そうした作品の方…つまりはキャラの姿がより露出している方が人気が出るという事も逆風になっている要素なんでしょうね。
 
現状においては、脳内補完で続きの物語を作っていくしかない…というのが残念な作品であるわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「時代劇」と言う事で一つ。
 
昨今の戦国ブームは凄まじいものを感じます。しかも、その主導権を女性が握っているというのは、何かサムライトルーパーの時を思い出させてくれるわけです。
 
このトルーパーと言う作品も、鎧を身にまとうという事から、戦国武将の名前がつけられていました。真田に伊達、羽柴に毛利、あと一人いるんですが、設定上では源の子孫であるとなっています。
こうした戦国時代に生きた人物に思いを馳せるのは、別に今のブームに限った話ではなく、NHKの大河ドラマにおいては長年積み重ねてきた物語が多数あるわけです。
 
アメリカでは西部劇、日本ではチャンバラと言われるように、日本人が時代劇を見るというのは、DNAのなせる業かもしれません。それもトンデモ時代劇であろうとも楽しめるのですから、素晴しいものです。
 
そのDNAは時代と共に、老若男女の住み分けをしていくわけですが、それでも同じなのは、その一瞬における生死の緊張感。これは西部劇における早撃ちの決闘と酷似しています。
次の瞬間には、どちらかが地面に倒れる儚さ。そこに有終の美を感じているのかもしれません。
 
戦国時代こそ、人が人として生きた時代…なんて事は言いませんけど、それでも、今の我々よりはずっと激しい時代を生きてきた。それだけではなく、この国の事を、民の事を考えていた。そんな風に感じてしまうのは、仕方がない話なのかもしれませんね
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年04月18日

前にも同じ様な事を記載したわけですけど…【「星のローカス」(1984-1985年 小山田いく/秋田書店)】

 さて、今回は1984~1985年に連載されました「星のローカス」です。

 長野県小諸市にある星恵高校機械科に通う学生、二木聡は気の弱い自分にコンプレックスを持っている青年である。工場を切り盛りする父親に従い、本来は進みたかった普通科そして美術学校への道を諦め、ただ唯一許された下宿生活の中で怠惰な日々を過ごしていた。
その隣りの部屋に住む長尾友幸は、同じ機械科のクラスメートで、自称変体魔人で神話好きの星好き。いつも、二木にちょっかいを出しては怒られ、飽きられている。
 
二木には阿見志保里という幼馴染がおり、彼女もまた機械科の同じクラスメートであった。それだけではなく、二木に対してあからさまに好意を持っている。二木はそれを知りつつも、彼女に甘えている部分があったのだ。
 
そんな優柔不断な二木が初めてラブレターを貰う。同じ高校に通う普通科の女子であった。
 
志保里にとってはライバルの出現。その事に危機感を覚えた行動が二木のデートを壊してしまう。その事にショックを受けた二木は、志保里を拒絶する。それでも、志保里は二木に一緒にいて欲しいという気持ちを抑える事はできない。
 
その夜、長尾の部屋でやけ酒を食らい、自己嫌悪で愚痴を言いまくる二木がそこにいた。その心の中は、志保里ではなく走り去って言った彼女に対してのさよならを繰り返していただけであった。
 
 
 
 と…なんだか、第一話をかなり省略してなぞっていくと、二木がどんだけトロいのかと思ってしまう内容です。が、この星のローカス。実際には、素敵な物語であるのです。
 
題名にある星のローカス、これは実際に夜空に浮かんでいる星たちを指し示しており、そのローカス…つまりは軌跡になぞらえて話が進んでいくのです。
星座を形作るローカス、星がそれぞれ動いていく事のローカス。そうした事を経験や交わりといった人と人同士の事柄に合わせた物語となっているのです。
 
第一話にしても、優柔不断でありながらも優しくみえる二木を牛飼い座アルファ星のアークチュルスになぞらえました。春の星、オレンジ色の暖かい色の星なのだそうです。しかし、二木が求め目指そうとしているのは、おおいぬ座アルファ星のシリウス。青白く輝くクールな色の星です。
それだけ自分の優柔不断さや甘さがイヤだったと言うことなのでしょう。
 
つまり、この星のローカスというのは二木が長尾から星の神話や星の特徴などを聞き、その時の物語に、そうした神話などをなぞらえていくという形を取っていったのです。
 
当初は二木と各話で出てくる女子との恋愛…いえ、失恋話。しかし、それがある話より一転して二木と長尾、二人の物語になってきます。どうして長尾が二木と同じ下宿にいたのか。その理由も明確になっていくのです。
 
ある日、二木は志保里や飲み友達でもあり、長尾に好意を持っている祖父江夕子を連れ、スキーに出かけます。その時、二木はある言葉を長尾に言うのです。その言葉に長尾は全てを悟りました。同時に、二木が再び今の自分の環境を壊そうするかの行動を取ろうとしている事も理解するのです。
それは長尾にとっても最悪な事であったわけなのです。
 
彼にとって二木は大切な存在であるわけです。それは志保里の好意とは別の無類の愛情であったのです。
 
そして、長尾は二木から離れていきます。もう、学校も卒業という時、その時に自分の軌跡を今一度、二木に見つめなおさせるために。自分という二木にとっても衝撃的であった存在を除外し、考えてもらうために。
二木は実家へと走ります、長尾からの手紙を持って。そして自分の知っている事を父親にぶつけるのです。そして二木は全てを知る事になりました。自分のこと、両親のこと、そして長尾の事を。
 
行方不明も同然になった長尾はある場所へきていました。それは、二木を連れ旅行にいった直江津だったのです。
 
そこにある旅館は、二人にとっても思い出深い場所でありました。そして、海岸…そこで二人は再会します。長尾と二木ではなく、兄と弟として。弟を見守るためにやってきた兄。しかし、兄は頼りない弟にかまけすぎ、自分が自分である事を忘れていたと自嘲するのです。自分の軌跡を見つめる事が出来るようになるまで、旅を続ける…それは別れではなく、再会のための約束でありました。
 
長尾友幸という男の強さは決して誰も怨む事無く、ひがむ事無く。何より、肉親に対する愛情が素晴しいという事です。自称変態魔人でありますが…行動もそうであったわけですけど、この男のカッコよさは、かなりの物です。
そして、その兄によって自分の足で軌跡を辿れるようになった二木聡も、終盤では本当の意味で良い男になりました。アークチュルスのまま、しかし、その暖かさが人に染み入っていくようなカッコ良い男になったのではないのかと思う訳です。
 
その二人に恋する、阿見志保里に祖父江夕子。彼ら四人の物語としての星のローカスは、一旦終りを告げ、新たな星のローカスを刻んでいく。そんな物語の終り方を描いているのです。

 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「ドラマ」と言う事で一つ。
 
漫画原作とするドラマが最近多いわけですけど、その大半は原作が途中までで、その当時に人気に乗っかる形で製作決定をするというものが多く、結果的にそのドラマ自体がどうしても原作の改竄を行わなくてはならないわけです。それは言い換えれば、原作という計算された作品を一度壊し、新たに構築することになるわけで、本来その作品のファンが見て納得するのかどうかは甚だ疑問でなりません。
 
事実、最近のドラマにおいて先行するのは、いわゆるイケメン俳優の起用ばかり。そのドラマの真意がどこにあり、そのために原作を抜擢したのかなど蚊帳の外になっているわけです。
とすれば、これはアニメの話においても、同じ様な事を言うわけですが、別に漫画原作のドラマである必要性はまったくないという話になります。むしろ、そうした脚本家をテレビ局で育て上げる事がいいのではないのかと思うぐらいです。
 
今回紹介している星のローカスなどは、ドラマ化するとして、確かに当時許された表現が現在に通用するのかというマイナス面があるわけですが、それを変更したとしても、根本となる筋は完結しているわけです。それを弄らない限り、ぐらつく事はないはずなのです。
 
何が言いたいのかといえば、要するにこれもアニメと同じになるわけですけど、目先の利益に固執しすぎという事なのです。
 
今人気があるから放送しなければならない…これは真実なのでしょうか?要するに宣伝費を抑える事が出来、尚且つ人気のある題材であるからこそ、自分たちの苦労もさほどなく見てもらえる。そんな甘えがあるのではないのでしょうか。作る側の人間がそんな安易な行動をし続けている事に危機感を感じてならないわけです。
 
少なくとも原作付きの物、それが漫画であれ小説であれ、当初からメディアミックスを念頭においていないのであれば、それは完結した物を使うべきであると思う訳です。
その昔は、オリジナル作品が大半であったのですから、それも出来ない話ではないと思いますし。
 
出来ないのではなくやらないと言うのであれば、それも時代なのでしょうか。あとは緩やかに死滅していくだけであると思うのです。少なくともサブカルチャーであるはずの文化が時代に飲み込まれた時点で終焉を迎えているのかもしれないのですけどね。
想像することを停止した創造など、運だけが残るわけで、そこに反省もないし経験も蓄えられない。ドラマでもアニメでもいえる話は、何で4クールやらのでしょうかね。長くても26話で終了…そりゃ乱立もします。
 
ここら辺のらんちき騒ぎをどうにかするべきなのかもしれませんね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年03月07日

良い進歩への模倣【「マリーとエリーのアトリエ ザールブルグの錬金術師 新装版」(2007年 越智 義彦/エンターブレイン)】

 さて、今回は2007年に発刊されました「マリーとエリーのアトリエ ザールブルグの錬金術師 新装版」です。



 光とか闇とか剣やら闇やらが入り乱れ、魔法や妖精さんなんかが生きる世界。---とくりゃあハデなちゃんばらや魔物との戦い、壮大な英雄物語の始まりィ!!---となりそうだケド、そこで生きるほとんどの人々は、平凡なあたりまえな日々の暮らしを営んでいたりする。
 
シグザール王国の都市ザールブルグ。その都市には錬金術師を養成する王立魔術学校があり、通称アカデミーを卒業した中で優秀な人はマイスタークラスへと進むことも出来るという。エルフィールもそうしたマイスタークラスへと進めるほどの実力を有する錬金術師の一人であった。
 
彼女は卒業に向け、町の工房で仕事を請け負いながら、その過程で培った経験と成果をアカデミーに提出し無事に卒業することが出来たのだ。そうした事を過去に行った人物がいた。
それはアカデミー史上最低成績で卒業も危ういとされた人物に教師イングリドが課した課題であったのだ。
 
無事、その試験をクリアし卒業した錬金術師をマルローネと言った。
 
エルフィーユと談笑しながら街を行くイングリドの視線の先に、そのマルローネがいたのです。ふらっと旅に出ていくマルローネがこうして街に帰って来る事自体が珍しいことであった。その旅のお陰でエルフィールは流行り病から生還し、錬金術師を目指すことになったのだが…この時まで、彼女の成績がアカデミーのワーストを記録するものであるとは知らなかったようである。
 
ザールブルグに帰ってきたのは良いが、目的もなく帰ってきたマルローネ…マリーに対して、学校から借りていた工房を出て行かなくてはならなかったエルフィール…エリーは一緒に工房を開こうと持ち掛ける。戸惑いを見せるマリーであったが、それでも学校ではわからない錬金術の可能性を知る一人として、一緒に工房を営むことを決めるのだった。
 
 
 
 元々はゲームでありますこの漫画は、エリーのアトリエのノーマルエンディングからの話になります。また、この新装版には全5巻で発刊された漫画を上下2巻にし、さらにアンソロジーに掲載された話をまとめております。更に、作者である越智氏のロングインタビューもありますので、ファンにはたまらない上下巻であるというわけです。
 
イベントに参加している関係もありまして、何回かお話をさせていただいた事があります(その節はお邪魔をしまして申し訳ありませんでした)。その話の中で、どれだけこのゲームを楽しんでいるのか、そしてその想像が膨らんでいるのかをお聞きいたしました。
 
その成果とも言うべき内容が同人誌で続けられているのですが、それも遂に商業用の本として発売されているのです(マリーとエリーのアトリエ ザールブルグの錬金術師 Second Season。現在二巻まで発売中)。
 
その時に言われていた事で印象的な事柄があります。それはマリーやエリーたちキャラクターはザールブルグで今も普通に生活をしているという事です。
 
当たり前の話に聞こえますが、これは物語を書き続ける際には忘れやすい話なのです。
 
よく物語が進んでいく際に言われるのが風呂敷を広げるという事です。風呂敷の中には、その物語の秘密であったり伏線であったりキャラクターの謎であったりします。そして、その物語をうまくまとめて終わらせることを風呂敷を畳むという表現が使われます。
元々、この二つの意味は違っているのですが、その元ネタのニュアンスからして、そうなっていったのでしょう。
 
要するに、物語をうまく終わらせるのは、その物語の終焉=世界の終焉のように思われる節があるのですが、それはとんでもない話で、実際にはどの物語も、世界の滅亡であったとしても、その後に続く話が必ずあるわけです。
更に言えば、物語の基本的な流れ=筋が描かれている裏でも、その時間軸と同じ流れで登場しないキャラクターたちの生活があるわけです。
 
この物語は、そうした見えていない部分の話が見えるような雰囲気がある漫画であるのです。
 
当然、その物語が漫画だけのオリジナルであると言えば、そうなのかもしれませんが、それと原作…この場合で言えばゲームがコラボレーションすれば、話は変わってきます。実際、この漫画で登場するマリーたちと一緒に生活している妖精たちが出てくるゲームが存在するのです。
となれば、漫画の中にある物語がゲームで出てこないとしても、それはゲームのストーリーの間にある物語ということになるわけです。
 
思うに、本来、物語とはそのキャラクターたちの心情や行動を完全に説明してもらうものではなく、それを共感できるように読み手が想像を膨らませるものではないのかと思う訳です。それが間違っていようとも問題ではなく、そういう可能性もあったというだけの話であり、もし、考えていた通りであったのなら…虫の知らせでもあったのだろうと思うべきなんでしょうね。
 
決して全てが明らかになる事が全てを知ることではない…と思うわけです。もしそうであるのだとすれば、それは悲しいことに新しい想像、そしてそこからの模倣を経た創造の喪失でしかないのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「模倣」と言う事で一つ。
 
この漫画は先ほども記載しました通り、ゲームからの模倣であります。しかしながら、その模倣は新しい創造となって、こうして形を成しています。これは、三国志や忠臣蔵と同じことです。物語の核が存在しており、それを想像を持ってエンターテインメントの形を作り上げているわけです。
 
同じ様にどの業界であっても、近代文化は何かの模倣があり、そこからの取捨選択と挑戦によって新しい何かが創造されたと言えます。仕事にしても遊びにしても、全てにおいてそれらは大胆な取捨選択と斬新な挑戦の結果があったと思えるわけです。
 
HONDAのASIMOなどは、その典型的な例なのでしょう。アトムを作れ…こんな途方もない話から、世界でも有名な二足歩行ロボットが出来たのです。しかも、それは日々進化し続けています。
これも、人の模倣であり、それまでの培った技術から想像した斬新な挑戦があったからこそ出来上がったものではないのかと思う訳です。
 
ですが、世間で言う所のバブル崩壊からいざなぎ越えの景気を経て、現在の100年の1度の不況に至るまで、どうであったのかと考えるべきではないのかと思う訳です。
 
人材と言う言葉があるように、そうした想像また創造は、人が連なって技術と英知を伝え続けてこその物。それを断ち切ることは人材の育成云々だけではなく、そうした想像を放棄する結果になる可能性もあるのです。それは、まるで栄華を誇ったことに満足し、堕落を続けたノアの時代の人たちのように、私たちの目の前には、再び大洪水が待っているのかもしれません。もしくは、様々な不浄を蔓延させたソドムとゴモラの人々のように、滅びの道を辿っているのかもしれないのです。
 
これらの例えが言いすぎであったとしても、同じ模倣であるのならば、人類の進歩、自然の共存、そして共に進化の道を歩んでいける模倣をしていきたいものだと思う訳です。
それこそ、人と言うかけがえのない財を育てる事になるのだと思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年02月28日

力の使いようと使いどころがズレていませんか【「覇王街」(1995-1996年 神崎将臣/講談社)】

 さて、今回は1995~1996年に連載されました「覇王街」です。



 その強さ故、格闘界・武道界からその存在を永久抹消された音固体---何時しか彼らは自分たちだけの闘いの“場”を持った…己が生命と誇りを“旗(フラッグ)”に託して。
 
その街では、不定期にストリートファイトが行われていた。自分の“旗”を掲げ、闘いに命を賭ける…それはまるで治外法権でも働いているかのような闘いであった。
 
どの世界にもはぐれる輩は存在する。ただ、規格外であったためだけに、場所を無くした者たちがいる。
 
闘う事で自分を表現する彼らにとって、その場所がない事は、苦痛でしかない。だがしかし、ある時、彼らの間にふと舞い込んだ噂…千本の“旗”を取れば天下が取れる。
“旗”を取るには、己の“旗”を掲げ、敵の“旗”を奪うしかない。それがフラッグファイトであった。
 
刺激に飢えていた若者たちの間で、それは熱狂的な人気となる。そして、その中で賭け事も横行していた。
だが、旗闘士(フラッガー)たちにそれは関係ない。飢える心を満たすために、闘い続けるだけなのだから。千本を手にする、その日まで。
 
そんなフラッグファイトの中に、一人の学生が飛び込む。だが、中学生でありながら圧倒的な彼の強さは、何時しか、フラッグファイトが何たるかを、あからさまにしていくのであった。
 
その彼の名は、神楽烈破と言った。
 
 
 
 月刊少年マガジンで連載されていました、覇王街です。
 
背は小さく、ほうき頭の中学生、神楽烈破が自分の腕一本だけで、フラッグファイトに飛び込んでいく話です。最初は、彼の素性も何もわからないままで話が始まりますが、その後、烈破が街に現れ、フラッグファイトに参加した理由がわかります。
 
ストリートファイト物…といっても、ゲームセンターで人気を博したストリートファイターⅡ以降に出てくる、不思議な力を有した普通の人の格闘物。そんな雰囲気は拭いきれません。
正直、内容的にも平凡な話であり、結果的に人気が出たのかどうかも定かではありませんが、逆に捉えれば、こうした設定であっても、圧倒的な魅力が一つでもあれば長続きする可能性があると示した作品であると思うわけです。
 
それは言葉であるのか絵であるのか。少なくとも、人物設定や基本設定などは、そうそう弄れるわけでもありませんし、また性別だけで変わるようなものであれば、結果的には萌え系の作品としか評価はされないでしょう。
 
この作品も月刊誌で一年は続きました。ですが、結局最後は作中の文字だけで、結論付けられてしまった作品となっています。
 
この作品において、恐らく挑戦したかったことは、様々なイジメに対する批判ではないのかと思うわけです。
同世代のイジメ、例えば集団で個をいじめるだけではなく、最近ではプロフによるイジメもあります。また、ハラスメントという言葉をかえたイジメも存在するわけです。
 
一見、この漫画ではいじめられる方に問題があるとも取られかねない描き方がされています。しかし、実際にはそうではなく、いじめている側は反撃しないいじめられた側を弄んでいるように見えるが、実際は生かされているだけだと言い切っているのです。
それはいじめられた側が傷みを知っているからだと言うわけです。
 
今、その言葉が当てはまるのかはわかりません。ただ、少なくとも、他人に対する厳しさが裏にある優しさではなく、厳しく言っている側の安息を求める行為の延長である…最近のイジメの話を聞くたびにそう思えてならないわけです。
 
イジメはどこにも存在します。イジメという言葉を変えたことも沢山あるわけです。
モンスターペアレンツで使われるようになったモンスター何とかという行動、DV…ドメスティックバイオレンスや幼児虐待もそうです。そして先ほども記載しました、セクハラ、パワハラのようなハラスメント。
 
何もイジメの代名詞が若者ではなく、むしろ、成人した後の社会でも横行していると、伝えているように思えるわけです。
 
何をして暴力と言うのか…そんなある意味抽象的な言い訳ではなく、力ある者が行使してはいけない行動。単にそれを指摘している漫画ではないのかと思うわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「力」と言う事で一つ。
 
神崎氏の作品で「KAZE」と言う漫画があります。その中で記載されている台詞にこういうものがあります。
 
『権力とは“力”とは金や富ではない、「滅び」をあたえる立場に立てるか否かだ!!』
 
確かにその通りです。イジメとはある意味、こうした滅びを与える側に立てる簡単な行為であるのは間違いありません。その快楽はしている側にとって途方もないものでしょう。
ですが、イジメという物が大概は、そこまでになるとは思わなかったという状況にまで容易に達してしまう行動であるのも、知るべきなのでしょう。つまり、滅びを与えていた側が、ある日、滅ぶ側に容易になってしまうということなのです。
 
これは企業においても、同じことが言えるのでしょう。
 
最近では、使い込みがばれるケースがありますが、これも一種の力の使い方を誤った結果であると言えます。しかも、企業側においても、これは滅びを招く結果になりかねない事であるわけです。
同じ様に簡単にリストラを発表している企業が多いわけですが、これも安易な企業計画におけるイジメであるのは間違いない話ですし、好景気といわれた中でこうした状況を考えなかったのも一種のハラスメントであるのは間違いない話なのです。
 
こうした企業の行動が結果的に自分に返って来るのは理解できないのでしょうか。
 
無い袖を触れるはずが無いのです。リストラをして、金銭を世間に戻さない状況が、景気を良くするとは到底思えないわけです。これは明らかに温存している力の使い方を間違っていると言う状況であるのは言うまでもない話であるわけです。
 
力の使い様によって、良くも悪くもなる。戦争から遠くはなれてしまった感のある日本ですが、しかし、そうであったとしても、結果的に勝ち負けを決めたがっている状況が、何か力の使い方や使いどころを間違えているように思えて仕方が無いわけです。
 
どんな形であれ、イジメは良くありません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年02月21日

同じ馬鹿なら良い馬鹿になろう!【「滅日 -HOROBI-」(1987-1990年 たがみよしひさ/徳間書店)】

 さて、今回は1987~1990年に連載されました「滅日 -HOROBI-」です。



 男は夢を見ていた。その夢の中で、声が聞こえる。あきらめろ…無理だ、逃げられしない…わかっているはずだ…。その声が掛けられているのは、一組の男女。駆け落ちをしているらしいが、何かから車で逃げている。そしてその車は、崖の上から落ちてしまい…。
 
男は、そんな悪夢を毎晩のように見ている。彼の名前は尼子全。とある生物研究所に助教授として勤めている。
今彼が共同で研究しているのはアルビノのサンショウウオが成長できるのと言う事である。そして、同じ研究所に勤める同じ助教授である相賀修一もまた、尼子の知り合いであった。
 
研究所の所長である呼野氏には、一人娘がいる。呼野翔子。彼女に対して尼子は好意を持っていた。しかし、翔子が好きなのは尼子ではなく相賀であった。
何かにつけ、相賀に劣等感を持つ尼子。恐らくそれは研究にしても、女性に関する事についても、苛立ちを覚えるものであった。
 
そして、ある日、ある場所で事故が起きる。
それは、車が神社近くの崖から落下し、乗っていた男女が死亡したというものであった。それは尼子が見ていた夢と全く同じ内容のものであった。誰かに話せば楽になるのかもしれない…尼子は相賀に夢の話をした。だが、悪夢はなくならなかった。なくなりはしなかったが、しかし、駆け落ちの男女が死亡した日から夢が変わった。
 
尼子はその夢の話も相賀にしている。平静を装いながら聞いていた相賀であったが、彼もまた、眠ることに怯えていた。そして、彼だけが知る真実。それは彼と尼子が同じ悪夢を見ているという事であった。
 
その後、また事件が起きる。ある中学校のホラー研究会が、車の落下事故があった現場にきていた。その付近で幽霊の目撃談があったからだ。山の中を散策していると、ある一人が、丸い銅盤を発見する。それを持ち帰って調べようとした時、彼らの目の前に怪物が現れた。
それは、尼子や相賀が夢で見た怪物であった。
 
三角縁神獣鏡と名付けられたその銅盤は、ホラー研究会の中学生が巨大な獣に襲われた現場…あの、車の落下現場にきていた、青目麗衣子によって回収され、そして翔子の父親である呼野教授が保管する事になった。
 
その夜。
呼野教授から神獣鏡をしまって置くように言われた尼子が、それを手にしようとした瞬間、神獣鏡の中央にあるレンズのようなものが尼子の右掌にくっついた。その瞬間、強烈なテレパシーが相賀や翔子、呼野教授たちに飛ばされ、彼らもそれが尼子からの物であると認識する。
 
次の日、相賀が慌ててやってくる。怪我をしたという尼子に代わり、神獣鏡をしまって置くように頼まれた相賀であったが、残りの部分が今度は相賀の胸に、まるで刺青のような形で吸い込まれていった…。
 
 
 
 徳間書店から発行されていた月刊少年キャプテンにて連載されていた「滅日 -HOROBI-」です。
たがみ氏の作品の中では、個人的にかなり好きな部類に入ります。というか、今からでもリメイクしても面白い作品ではないのでしょうかね。
 
基本的に描かれているのは、実に簡単に悪意と善意です。
これは全く別物でもなく、また、表裏のものでもなく、同じものであると言う話なんです。
 
一つには捉え方、もう一つは発し方。その結果によって、悪意であるとか善意であるとかを決めているだけに過ぎないという、人の捕らえ方の一部分を描いているように思えてならないわけです。
結果的にはその捉え方によって、相手に好意を持つことも、恨みを持つことも出来ると言う話。コレを人は度量と言う尺度を使って表現しているわけです。
 
作品上で、尼子は実に誰にでも優しい、包括力のある人物として描かれています。しかし、捉え方によっては、優柔不断な人間であるとも言えるわけです。
同じ様に相賀は活動的で自分の意見をはっきりといえる人物として描かれているわけですが、それも捉え方によっては、傍若無人な人間であると言えなくもありません。
 
ある意味、性悪説をそこらここらに散りばめている作品ですが、それでも、そうした発言の後に来るのは、それで良いのかもしくは割り切れる話じゃないという否定であります。その否定が、諦めになるのかそれとも否定からの行動に繋がるのだろうかという部分も見えなくもないわけです。
 
こうしてみますと、かなり曖昧な作品のように思えるのですが、実際に曖昧な部分が常識であるような描き方には共感をもてます。
 
今でも、言われている事は、決して今言い始めた事じゃないというのも、この作品では見て取ることが出来るのです。
それはエコに対してもそうですし、人口に関してもそう。仕事に関してもそうです。一体、いつの頃から言われ続けているのだろうかと思えば、少なくとも、この作品が描かれた時には、既に言われていたのですから、もう、20年以上は同じ文言を言い続けて尚、好転していない状況であるといえるのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「滅亡」と言う事で一つ。
 
人が滅亡というテーマで話をする上で必ず問題視するのは、人の滅亡が全ての終りであるという基準を設けることです。これが正しいのか正しくないのか、それは宗教家と生物学などの学問に任せるとしまして、本当にそれが滅亡であるのかと言えば、全ての宗教学問が揃って言う台詞は「いいえ」であるのでしょう。
 
中には人の滅亡が地球自然の再生であるとする人もいます。現状からすれば、あながち間違いではないのかもしれません。
人がいなければ、確かに自然破壊は起こっていませんしね。
 
しかしながら、生物の滅亡が起こっていないのかと言えば、それは違います。事実、化石になっているような恐竜にはお目にかかれませんし。
 
要するに人の手にかかってしまうと、その滅亡が早くなってしまうのが問題と言う事になるわけです。ならば、逆の考え方も出来るわけで、そうした議論を国連主導してやっていただきたいものですね。
 
正直、人類だけが滅亡することに問題はないんです。でも、その後にその巻き添えを食らって滅亡していく動物がいてはならない。それはどんな理由をつけようとも、そして人がいなくなろうとも、人という種が行った償うことが出来ない行為なのですから。
 
少なくとも、日本は化石燃料に依存することが難しい国なのですから、太陽光発電の国家的プロジェクトを立ち上げて地球に貢献する必要があるのではないのでしょうか。住宅地の上に太陽光発電の設置を必須にするとか。
そして、風力発電の改良も必要になってくるのでしょうね。雨水の排水を利用した水力発電も、風力発電の改良が成功すれば、応用できるようになると思いますし。
 
衛星から見たら、日本の居住区が黒光りしていても良いのではないのかと思うわけです。その上で省エネの機器を研究開発してみると。
 
日本の科学技術をより向上させる事が、より自然との共存が出来るようになる。そんな時代が来れば良いんですけどね。馬鹿やって滅亡するよりも、馬鹿になってそういう研究を進めてみる。それが良い意味での大馬鹿者ではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年02月14日

思い出は懐かしむだけではなく省みることも必要【「すくらっぷブック」(1980-1982年 小山田いく/秋田書店)】

 さて、今回は1980~1982年に連載されました「すくらっぷブック」です。



 長野県小諸市の芦ノ原中学校。2年7組、出席番号2番・市野清文、7番・柏木晴、9番・坂口光明は、新学期早々、音楽の授業で残り練習をさせられていた。市野清文…通称イチノは算数とサッカーが得意、柏木晴…通称晴ボンは国語と美術が得意、そして坂口光明は工作と柔道が得意、なのだが三人とも音楽は苦手としている。
そこに、イチノの恋人である隣りのクラスの女子、青木理美が居残りの話を聞き音楽室にやってきた。音楽な得意な彼女にコーチを頼むイチノ。
 
その時、晴ボンが不吉な話をし始める。
 
夕方、一人で音楽室に残っていると、何処からともなく不気味な呻き声が聞こえてくるというのだ。だが、この部屋に残っているのは四人。しかも、そうそう出てくるものではないのだろうと高をくくっていた矢先…。
 
場が騒然となったその後、気が強い事で有名なイチノは気絶をし、イチノの恋人であるはずの理美は間違えて坂口に抱きついてしまう。翌日から四人のドタバタ劇が始まってしまうのであった…。
 
 
 
 連載第一話、冒頭のお話です。すくらっぷブックは、2年7組に在籍する中学生たちの何気ない生活の中にあって、友情や恋愛、出会いと別れのエピソードを書き記した、文字通り彼らのスクラップブックです。
冒険談が出てくるわけでもなく、異世界に行くわけでもない。単なる日常絵巻が実に二年間…彼らが2年から3年へと進級し、そして卒業するその時までが描かれました。
 
異世界に行くわけではありませんが、到底、人間とは思えない技を数々使うのも、この物語の特徴であるのかもしれません。
 
晴ボンは残像が見える四歩足で走り回り、時には妖怪油すましに変化し、イチノの幽霊が怖いわりにぬりかべ電卓に変化し、坂口に至っては月ノ輪熊に変化します。それどころか、晴れボンのライバルであり悪友の小宮山雅一郎は妖怪土ころびに…まぁ、書いていてコレの何処が普通の青春群像劇であるのかと思うのですが、こうしたことを含め…ようするに彼らなりの馬鹿をやっているその一瞬までも、彼らの青春であるという事なのですね。
 
笑いも涙も、苦悩も戸惑いも、全てはちょっと苦い喜びに向かっていく。物語の中で彼らはそれを学んでいったのだと思うのです。
 
この物語は、キャラクターの年齢がその時の読者とマッチしています。1980年から1982年の春まで。彼らは私たちと同じ時間を漫画の中で過ごしてきました。中学から高校に向かうにあたり、必須となる受験。その後の卒業式を経て、彼らの芦ノ原中学校の話は終りを迎えます。
そして、同時に新しい物語が始まるのです。
 
最後の101話で第一部・芦ノ原グラフティは終り、第二部・それぞれの学級日誌が始まります。その先にあるのは、紙に描かれない物語。作者である小山田氏は彼らの物語は、まだまだ続くことを明言し、その物語を閉じました。
 
ある、中学校のあるクラスが経験した日々。表題であるすくらっぷブックは、読者に対して贈られたそんなほろ苦いスクラップブックなのだと思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「思い出」と言う事で一つ。
 
人生を重ねていけば…などと言うまでもなく、一日を過ごせば、それだけでも思い出はできるものです。変な話になりますが、その情報量たるや、一分一秒、いえ、一時間ごとの事さえ覚えている事が難しいのは当然の話です。
 
そこで、記憶チェックと言う話ではありませんが、有名な一文字についての確認をば。
 
その年を象徴する京都清水寺の行事、漢字一文字ですが、2008年の文字は「変」でした。では2007年は何であったのか覚えていますか?
答えは「偽」…捏造問題における偽証、食品問題における偽装が象徴したのだそうです。
では、一気に、2006から遡り、2001年…21世紀分を覚えていますか?
答えは以下の通りです。
 
  2008年=変
  2007年=偽
  2006年=命
  2005年=愛
  2004年=災
  2003年=虎
  2002年=帰
  2001年=戦
 
それぞれの一文字に込められた思いは、ぜひ調べていただくとしまして、こうした事に思いを馳せる事は大事な事だと私は思うのです。
私たちが営んでいる歴史は、決して、過去をおざなりにして進んで良いものではありません。同時に、過去ばかりを懐かしんでも意味がないわけです。
 
省みるという言葉は、後ろ向きなものではなく、過去を省みることによって同じ過ちを繰り返さない反省の意味が込められています。
つまり、思い出は昔を懐かしむ物であるのと同時に今を省みるものでもあるわけです。
 
今の世の中において、それを思い出したときに、結果的にどんな時代であったのか。それすらも理解できないままになっているのではないのかと思えてなりません。その原因の一つは間違いなく、私たちが誰かのせいにばかりしている…言い換えれば、責任を他者に押し付け、同時に利益を他者に依存している姿勢に他ならないわけです。
 
昭和の時代は良かったという状況を単に懐かしむのか、それとも省みるのか。私たちはその帰路に立たされているのかもしれません。
 
過去を消すことなど出来ません。過去があるからこそ現在があり、そして未来に向かっていけるのです。政府にしても経済にしても、本当の意味で省みていただきたいものだと思うのですけどね。
あんまり無慈悲な方法ばかりでは、結果的に自分たちの首を絞めるだけになる。その事に気付いて欲しいものです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年01月06日

力の使い所と示し方【「仮面ライダーをつくった男たち」(2007年 小田 克己/村枝 賢一)】

 さて、今回は2007年に発売されました「仮面ライダーをつくった男たち」です。

 銀幕…いわゆる映画低迷における労働組合のストライキが行われている最中、まさにスト破りの様相を呈して作り出されようとしていたのが、仮面ライダーという作品でありました。東京生田スタジオ。そこに「ガキ共のための千年王国」を立国せんとし奔走したのが、内田有作氏そして通称泣き虫プロデューサーと言われた平山亨氏であったのです。
 
毎日放送からの依頼である子供向けの番組。そこには波乱の展開が待っていました。
 
この「仮面ライダーをつくった男たち」は、そこから今日まで続く仮面ライダーというヒーロー、そのきっかけを作り上げた男たちのドラマであるのです。
 
 
 
 改めまして、あけましておめでとうゴザイマス。今年も無事に始まりまして、最初の更新を迎える事が出来ました…昨日まで風邪で潰れていたので、文章は頭に浮かんでいたのですが、こうして形にするのはぶっつけ本番であったりします。皆様も風邪にはお気をつけ下さいませ。
 
そういうわけで今回は「仮面ライダーをつくった男たち」のレビューです。2007年に講談社の週間少年マガジンで四話だけ発表された作品であります。漫画を描いておりますのは、村枝賢一氏。同社のマガジンZにて「仮面ライダーSPIRITS」を描いている方です。
 
さて、仮面ライダーといえば、子供向けの特撮番組である事は言うまでもありません。ただし、そこにリアリティがない…という話を聞く事があるのですが、果たしてそうなのでしょうか。というよりも、何を持ってリアリティと言うのかという話になるわけです。
 
その当時、予算もなく当然CGなどと言う技術もない状況において、ライダーキックは本当にキックであり、ライダーパンチは本当にパンチであったわけです。何より、勧善懲悪であるその物語には嘘偽りなどあるはずがなく、その世界だけではなく、現実世界に対してもやってはいけない事の指針になっていたわけです。
 
思うに、これは何も仮面ライダーが最初というわけではなく、怪傑ハリマオや月光仮面のようなヒーロー、紫頭巾のような時代劇でも語られてきた不朽のメッセージであったわけです。
現在、こうしたメッセージに異論を唱える製作者がいるのは、残念な限りであり、個人的には少なくとも子供向けの作品に携って欲しくはないと思うわけですが、そこは企業としての考え方もあるのでしょうから仕方がない話なのでしょう。
 
「仮面ライダーをつくった男たち」に登場する平山氏、内田氏、そして大野幸太郎氏率いる大野剣友会の方々が、どれだけ仮面ライダーという作品を大事に育ててきたのか。それを考えれば、先のような異論など出てくるはずがないと思うのですけどね。
個人的思想は関係ありません。それを公にしてしまうのか否か、そこが問題なのですから。
 
子供が賢しくなった理由、それは大人が賢しい屁理屈を恥ずかしげもなく公にしているからに過ぎないわけで、これは明らかに大人の責任であるわけです。
子供は少しでも早く大人になろうと背伸びをします。それを分相応に導く事の大切さがあるわけで、つまりは、子供に嘘を突かないこともその一つのやり方であるのは間違いないわけです。
 
仮面ライダーという改造人間やショッカーという悪の組織が実際にいるわけではないのですが、しかしながら、仮面ライダーが存在する事実は嘘などではなく、正義を全うしようとする意思と力を見せる必要があるのは、力ある者の使命ではないのかと思うわけです。
少なくとも、「仮面ライダーをつくった男たち」は、それを見せていた男たちであったと思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしましては、「力の使い様」という事で一つ。
 
色々様々な事がありました年末年始。ゴタゴタしている状況であるのは、代わりがない様子です。少なくとも「正義」にゃ程遠い状況が政治は色濃い様相なのですけど…。
 
こうした状況を子供たちが理解していないと思うのでは、今の大人たちの底は知れたものです。案外、子供の方が簡単に物事を考えているので、素早い対応ができるんじゃないのかと思ってしまうぐらいですね。
そうした場合の大人の返答は、そんなに簡単な事じゃない…なのですけど、難しくしているのは、大人の勝手なんですけどね。
 
今、政治…いや、政治家が行うべきは、政党関係なくなりふり構わず、文字通り政治を行う事であって、政局を奪い取る事ではないのです。
私たちの大事な一票は政局のためのものではなく、生活のためなのですから。そこの履き違えはどの政治家にあっても感じられるわけであり、こうした状況である以上、政治はゲーム以下の存在になってしまったままなのでしょう。
 
こうした場所から出てくるヒーローがいなければ、日本がどれだけ地力を誇示しようとも、その力が穿ってしまうのは、これまでも示してきた事。この機会に目を覚ましてほしいものですけどねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年09月20日

休刊や打ち切りはイカンでしょう【「トライガン/トライガン マキシム」(1995~1997年 徳間書店、1997年~2007年 少年画報社)】

 最近、雑誌の休刊が多いな~と思うのですが…というそんな話。



 さて、今回は1995~2007年に連載されました「トライガン/トライガン マキシム」です。



 人が生き延びるには過酷すぎる二重恒星…つまりは二つの太陽と、五つの月が昼と夜を告げる砂漠の惑星。そこに人が強制的な入植を果たして百数十年。その間、か弱い人が生き延びてこられたのは、一つの奇跡があったからだ。それはプラントと呼ばれる巨大な白熱電球のような形状をした生産工場である。
 
少しの力をもって大量の品物を作り上げるそれは、その時代における錬金術においての哲学者の卵のようなものなのかもしれない。
 
しかし、人はその中であっても、決して協力という言葉で結束しているわけではない。暴力、それも間違いなくその惑星には満ち溢れていた。
 
そうした惑星において、一つの噂が流れる。それは一人の賞金首の噂…その腕前というか壊滅的な破壊力からついた仇名が「人間台風(ヒューマノイド・タイフーン)」。同時に生死を問わずに600億ダブドルという途方も無い金額が賭けられている事。当然、彼の周りには彼の意思などお構いなしで、今日も不毛な争いが巻き起こる。
 
その賞金首の名は、ヴァッシュ・ザ・スタンピード。曰く筋金入りのラブ&ピースである。
 
 
こう記載していくと、実にギャグマンガの様相なのですが、実際には、かなりのハードボイルド・ガンアクションであったりします。
 
当初は徳間書店発行の「月刊少年キャプテン」で連載。それが休刊になると、今度は少年画法社発行の「ヤングキングアワーズ」で再連載という形で続けられました。
徳間時代は「トライガン」であったのを、少年画法社時代からは「トライガン・マキシマム」と題名も若干変わりました。
 
少年キャプテンの休刊には、昨今でも起こっているような書店側の問題が多々あるのではないのかと個人的には考えております…が、ここではその話は置いておくとしまして…。
 
この漫画、実に登場人物が多かった作品であるわけです。しかも、そのほとんど全てに名前が与えられていたんじゃないか~というぐらいに名前を呼び合っておりました。全てを覚えるのは大変ですけど、それでも、何回かで覚えられてしまうのは不思議なものです。
恐らくはリズムが良かったのではないのか…そう感じるのです。
 
例えば、ヴァッシュ・ザ・スタンピード、ニコラス・D・ウルフウッド、メリル・ストライフ、ミリィ・トンプソン等々。大半のキャラの名前が飛び跳ねているように感じるのです。特に、ヴァッシュを代表とする「ザ」が付くキャラは、大抵、そのキャラを象徴する名前になっているわけです。
 
ヴァッシュは「人間台風」、ニコラスもニコラス・ザ・パニッシャーで「パニッシャー使い」、レオノフ・ザ・パペットマスターは「人形使い」等とわかりやすかったというのもあります。
 
 
さて、この物語の基本はヴァッシュの復讐劇のように流れていくのですが、実はこの物語の根底にあるのは「調和」です。
 
人が搾取をしなければ生きていけない生き物であるにも拘らず、そこに感謝もなく、当然のように搾取を続けていく。これは今の世の中に通じる話でもあるわけです。そうした現状をヴァッシュの旅を通じて発信していく。
結果的に、人は生かされている事に気付くのですが、その時には何かしら大きな問題が起きている。その事を他人のせいにし、自分だけは惨めなくらいに生き延びようとする。
 
確かに、それが人間の姿であるとするのは問題ない話ですし、その通りです。ですが、そこで停まってしまう事、その事が大きな問題であるわけです。現状を理解し、更にその現状に問題があるのならば、解決する。解決も無理を通すのではなく道理を通す。
 
人が人であり続ける意味を長年に渡り描いていった作品、それがトライガンという作品であるように思えるのです。
 
 
アニメ版に関しても、少し。
この作品のアニメ版がありまして、連載途中で作成したのですから、当然、細部…というか大部分が書き換えられている状況であるわけです。そうした問題に関しても一言言いたいように思うのですが、とりあえず置いておくとしまして。
 
個人的には原作の雰囲気が当初より、ある意味抜け目のない作品であると感じていたために、連載途中でのアニメ用に変換されてしまうのが残念でありませんでした。
 
そういう意味では、現在、OVA展開しているヘルシングのように、原作をある程度(要するにアニメではNGの表現を柔和にするぐらいという意味としてのある程度です)踏襲した作品として再度作って欲しいと思うわけです。
動きの緩急が大変な作品になるのでしょうけど、それが見てみたいと思ったりするのですよねぇ。
 
企画の段階で「トライガンX」としてTVアニメ企画があったようですが、どうやらオリジナルの話としての映画で落ち着く様子。そういう意味では残念だなぁと個人的に思ってしまうわけです。
 
まぁ、それもこれも、T社が最初にほっぽり出しやがったのが問題だと思うんですけどねぇ。どんなり理由があろうともさ…というのはここでは横へうっちゃりましょうか~ね~。
 
 
ちなみにですが、今作品はパイロット版の様相を持つ、一話完結の作品が、連載数ヶ月前にお目見えしたのですが、その時には、すでにキャラが出来上がっておりました。
本編でも、閑話休題の如く、一話完結の話が出てくるのですが、キャラがしっかりと立っていると、余計な説明も必要なく、見せる(魅せるでも問題なし)事が出来るのだなぁと。でも、そうなるとキャラ自身が勝手に暴走する可能性もありますし、そういう意味としては良い意味での作者泣かせの作品ではないかとも思うわけです。




 漫画雑誌と言う事に限定させていただきますが、昨今、休刊が目立っているように思えるのです。少し古くなると幼年誌のボンボン。最近ではマガジンZもそうですし、他にも何冊かあったと記憶しています。
 
そうした場合に困るのは、やはり好きな作品を今後どこで見られるのかという話になります。
当然、描き手さんの生活云々の話にもなるのですが、それは企業同士。要するに作家さんと出版社さんの話でありまして、読者には関係のないといえば関係のない話になるのです。物凄く突き放した言い方をすれば、物語を始めたのならば完結させるのは当然ではないのか…ということになるわけです。
 
同じ様な問題に打ち切りがあります。
文字通り、作品の途中であったとしても、その作品を無理矢理終わらせる手法として広く知られています。
 
こうした休刊や打ち切りに関しては、その大半が出版社の都合によって行われる事が多いわけです。つまりは売上げに結びつかないと言う事。ここで問題は出版社=編集者たちがどのように考えているのかという話になってくるのではないのでしょうか。
 
最近、こういう話があったのをご存知でしょうか。金色のガッシュベルという作品の原作者が小学館という出版者を相手に訴訟を起こしたというものです。
この是非に関しては十人十色、まさにその立場においての意見が違うものでしょうが、読者としてはそれは衝撃的な内容でした。
 
幼少の頃より漫画に親しんできた身としては、そうした漫画界のグレーゾーンをこれまでも幾度も聞いてきたわけです。しかし、実際に描き手さんから話を聞くと現実味を通り越して、現実として感じてしまうわけです。
何より、結果的に編集者は読者の事を考えていないんだろうという行動もみえてくるわけです。
 
お客様は神様です…かつてはそんなフレーズがあったわけですけど、こんなものは嘘です。お客様の金が神様なのですから。そう指摘しても問題ないでしょ?というぐらいの状況が繰り広げられていたんだなぁと思うわけです。
 
で、最初の方の話にもどりますけど、大規模であれ、小規模であれ、その作品のファンというのはファン以上でも以下でもないのは当然の話です。となるとこうした休刊や打ち切りの問題というのは、編集側からの突きつけのように思うわけです。
 
即ち「お前らが買わないからこういう結果になったんだぞ~」。
 
おかしなもので、漫画を編集している立場からすれば、面白さを加味もしくは是正しているのは編集者だといっているように聞こえるわけです。少なくとも、打ち合わせがある時点で、それは間違いない話なのでしょう。
雑誌の品質云々なども関係あるのでしょうが、どうなのでしょうか?
 
例えば、作家の引き抜きなどそうですよね。とりあえず物語がつたなかろうとも、絵が描ければ良い。場合によっては原作を別につければ良いとか。それはそれで問題ないんですよ。他にも記載している他業種の状況と同じ様に、その漫画家を成長させるつもりであるのならば。
 
ただ、気になった作家さんが、同じ雑誌で再び作品を出すのかと言えば、決してそうではない状況は一体何なのですかね?
 
無数の描き手をいずれは雑誌に載せてやるという言葉で囲い込みしている現状というのはないのでしょうか?
 
そして、結果的にどれだけ連載を抱えていようとも、休刊すればそれで終り…努力不足なのは、作家と読者というのは勝手な話ではないのでしょうか。
 
正直、物語を始めたと言う事はその物語を終わらせる責任というのはあるはずなのです。それは読者に対する責任というのもそうなのですが、それよりもその中で培っていく様々な事が作者を成長させる事になるわけですから。
編集者が作者を育てているのだとすれば、少なくとも全ての作品を終わらせてからの休刊を決めるべきではないのでしょうか。それが無理ならば、一生懸命に売り込みに行き、その場所を確保し更に読者に知らせるというのも編集者の絶対するべき仕事であると思うのです。
 
何故なら、自分の所で終わらせられなかった事。それは恥ずかしい事じゃないんですかね?少なくとも、その尻拭いをするのは、大人として当然の話じゃないではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年08月09日

面白い原作だからと言って…【「機神幻想ルーンマスカー」(1991年 出渕 裕/富士見書房)】

 以前に打ち切り作品は駄作であるのか、そんな話をした事があります。今日はそれに少し関連した話なのかもしれません。



 さて、今回は1991年に発売されました「機神幻想ルーンマスカー」1巻です。



 ルーン歴1208年4月。その日、イングラッド王国はいつもと同じ様な日を過ごしていた。そこにジパードが侵入してくるまでは…。ジパードには、古の物理魔道で作られた巨人兵「ナイトマスカー」が存在し、それを持って侵攻してきたのだった。
 
しかし、それにも一つのわけがあった。
 
イングラッドには、その土地に根ざした「生物」が存在した。それがルーンマスカー…ナイトマスカーはルーンマスカーの模倣品といえるものであった。
確かに、一介の兵では太刀打ちできないナイトマスカーも、イングラッドのルーンマスカー「スレイプニール」にとっては造作も無い話。その溢れ躍動する力はナイトマスカーを大人しくさせるのに、それほどの時間はかからなかった。
 
王宮にまで入り込んだジパードの兵。だが、イングラッドの王がいよいよ倒されるか…その時、宮殿の壁を破って戦いに乱入してきたのは、誰でもないスレイプニールであった。
 
ジパード軍の指揮をとる、アギトはスレイプニールに詰め寄る。ルーンマスカーの介入は戦乱を無用に広げるのではないのか…と。
しかし、スレイプニールはジパードのその行動にミューが関わっているのではないかと勘ぐる。だとしたら、それは許されるべきではないと。だが、以外にもその戦いを終わらせたのは一人の女性であった。
 
アギトの妹であるツクメ。彼女はジパードのルーンマスカー「タケミカヅチ」の巫女であった。
 
ツクメを介しての会話によってジパードは矛を収める事になる。だが、その事に納得しないイングラッドの青年、レアルは近くに倒れているジパードの兵隊が来ていた鎧をまとい、あろう事かジパードの船に乗り込み、イングラッドを離れていった。
 
普通の人間には聞こえないツクメとスレイプニール、そしてタケミカヅチの話、心話(ロゴス)を聞く事そして話しかける事が出来るレアルには、ある秘密があった。その秘密とルーンマスカーたち、更にミューとの関わりが、レアルを世界の中心へと向かわせていく事になる…。
 
 
…そして、秘密の暴露と共に話は佳境に向かう…はずが、実際には一巻で打ち切り同然の状況になってるのが、この漫画であったりするわけです。
 
どうして、再開しないのか…その理由は定かではありませんが、是非、終わらせて欲しい内容であるので、たのみこむにでも頼み込んでみようかしらと思うわけです。
 
さて、この漫画、実に作者である出渕色が随所に出されておりまして、ロードス島戦記などでイラストを見て燃えて(萌えて?)いた人にはたまらないものではないのでしょうか。人物もそうですが、ルーンマスカーやナイトマスカーのデザインは、パトレイバーとはまた違ったテイストで楽しませてくれます。
 
また、氏がたずさわった過去の作品のデザインも所々に出ているのは嬉しい話しで。チェンジマンのブーバやフラッシュマンのレー・ネフェルとわかるデザインが出て来るのもファンにとっては嬉しいものです。
 
先ほども記載しましたが、今の世の中ですと、こうした作品の玩具なども出す事は決して不可能ではありませんし、結構売れると思うのです。可動式でもかなり造詣的に素晴しい玩具になるのではないかと…なので、出渕氏には、もう一度この企画を再開してほしいと切に願っているわけです。
 
物語の終りも見てみたいし…ねぇ。



 昨今のアニメ事情と言いますか、個人的な感想から言いますと正直「賢しい」としか言い様がありません。その一番の理由は、やはり人気のある原作をその原作が完結する前にアニメにしてしまうと言う状況が賢しく見えて仕方がないのです。
 
ここで大きく疑問がわいてきます。日本のアニメーションにおける物語を作る人。シナプスでもシチュエーションでも、ストーリーでも良いのですが、そんなにレベルが低いのでしょうか。
 
1クールで様子を見る。それは別に問題ではありません。
人気がなければそれで止めれば良いだけの話なのですから。しかし、それをやるのであれば、オリジナルでやった方が良いのではないのか?と思うわけなのです。
 
原作付きをアニメにするという事は少なくとも、その原作に人気がなければ製作できるはずがありません。それだけ原作ファンに期待している部分もあるからです。
これを無視してまでその原作をアニメ化する意味。それは作る側が好きだからなのでしょうが、それでも原作ファンの眼に耳に入ってくるのは当然の結果になります。
 
そうしますと、原作ファンからすれば、どれだけの表現が成されているのかが期待であり不安であるわけです。これは作画・演出だけではなく、声にも言える話です。
 
そして、これも至極当然ですが、必ず不平不満が出てきます。
何故なら、少なくとも小説や漫画に関しては、元々の媒体に音がないからなのです。擬音が描かれていたり、どのような音であるのかを文章で表現したりと様々な工夫がされているわけですが、それでも読み手の経験以上の想像はまずできず、そこで既に作者との違和感があるのですから、アニメとして起こされたものになりますと、違和感を覚える人が出てくるわけです。
 
もう一つはやはり、絵そのものでしょう。
小説にも挿絵があるのは当然です。それでイメージを補正するという意味でも、大切な要素であると思います。漫画にいたっては、それがなければ成立しません。当然、それぞれに表現の仕方が多数あるわけです。
アニメは抽象的な表現であったとしても、あくまで動く事が前提です。紙芝居のように表現する方法もあるのでしょうが、それを毎回行って効果があるのは、それを前提にしたシナリオのみでしょう。
 
つまり、絵として動いた原作が、挿絵であったり漫画と大きくかけ離れていては違和感が増していくわけです。それならば、最初から「似たような」オリジナルでアニメを作れば問題ない話なのですから。
 
安く放映し、そして高く回収する。
何気にローリスク・ハイリターンを期待しているように見えて仕方がないのです。
 
 
昔放送していたアニメも玩具を売るためのスポンサーがありましたから、原作無しと言いつつも、結果的には原作有りに近しいものであったのかもしれません。だから、現状における作品も同じ様になってしまう…ですが、そう言ってしまったら、それはクリエイターとしては失格ではないのでしょうか。
 
また、今の流行は大きく変動しやすい。だからこそ、原作で受けているものをアニメ化する。これも同等の意味です。
酷く言えば、同人誌と変わりません。ただ、何が違うのかと言えば、同人誌などよりもはるかに高額な資金が賭けられ、そして、人員が避けるという状況、それだけの話なのです。
 
攻殻機動隊…ジャパニメーションとして評価されている作品ではありますが、これも原作付きです。
ただし、この作品は同じキャラ、同じ背景でありながら、全く別の作品になっています。原作を読んでいるから、また、映画を見たからといってそれぞれしか知らない人が話し合えば、かみ合わない事でしょう。
 
 
原作はあくまでそれが完成品であるのは間違いありません。
 
アニメ化はその完成品に手を加えるのですから、複製品として利用するのか、それとも新たな作品としての素材として利用するのか。この二つしかないはずなのです。
最初は同じ様に初め、結果的にオリジナルの最後で終わらせる。場合によっては、人気が出始めたらそこに無理矢理なつじつまを合わせて放送を延ばしていく。これでは原作をどうしたいのか、それよりも自分がどう表現したいのか、視聴者側に伝える事など出来るはずがないのです。
 
10分や20分で一つの話が完結する作品であれば、オリジナルの話を入れても、それはその話数を作った人が評価される事になるわけですが、連続したストーリー性のある作品では、原作者の評価であるのか、それともアニメ製作側の評価であるのか。
それは結果的に正当な評価にも繋がりにくい話になるものではないのでしょうか。
 
 
厳しい言い方をします。深夜枠における原作付き作品の台頭が決して、作り手の正当な評価を促し、かつ、全ての作り手に対する成長の手助けしているとは思えないのです。
 
それが物語である以上、そこにある期待感はやはり先の読めない、作り手と読み手のバトルであるはずなのです。それは絵・音・演出・構成、全てにいえる話ではないのでしょうか。とすれば、先の読める原作付きがこれほど多くなった現状は、単に決められた物語を踏襲しているだけに見えてしまう、そうさせられているように見えてしまうというのは、考えすぎなのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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