さて、今回は1997年に掲載されました「仏ゾーン」です。

仏像…それは宇宙が生んだスーパーヒーロー。これは、悪を蹴散らし人間を救うため、さまざまな姿をもって現われた仏像たちの慈悲と友情の物語である。
時は現代―――とある温泉街にあるお寺、その名を西岸寺。そこの住職に育てられた娘サチは、今、ピンチのど真ん中にいた。地上げでお寺を出ていけと柄の悪い男たちにからまれていたからだ。
そのお寺はボロ寺であっても、古くから代々そこにある歴史のある寺。そこに奉られている仏像も素晴らしいものであった。
ご本尊である千手観音像、それはある仏師の最後の作品。そこにあるのは、全てをもれなく救おうとする姿だった。しかし、柄の悪い男達にそれは通用するはずもない。サチが千手観音の話をしても、正に馬の耳に念仏。
逆ギレ気味の男に胸倉を掴まれ殴られそうになった瞬間…その男が何者かに殴られたのだった。それまで静観していた、いや、静観しかできないはずの千手観音、そう千手観音像が男を殴ったのだ。
しかも、その千手観音から出てきたのは少年。仏像から出てきた少年に驚いた男達は、その場から逃げ去っていった。
彼は自分自身をセンジュと名乗る。しかも、仏達の住む世界「仏ゾーン」から大日如来の命を受けやってきたのだというのだ。
当然、サチはその話を信じるはずもない。和尚は信じているようだが…。
センジュの話によれば、サチは釈迦如来の入滅した五十六億七千万年後に世に現われる弥勒菩薩の生まれ変わりなのだと言う。
そんな話を信じるはずもないサチは、自分が捨て子であり、どうして苦しい暮らしをしなければならないのかとセンジュにぶつけた。自分の不幸を微塵にも出さなかったサチであったが、センジュのあまりにも荒唐無稽な話に、溜まっていたものを吐き出してしまったのだ。
翌朝。少しでも家計に足しにするためにサチは牛乳配達のアルバイトをしている。
そんな時、近所の知り合いから、寺に泊まっている少年の事を聞かれた。しかも、その少年が川原で有り難がられているというのだ。思わず、サチはその少年=センジュを引っ張り連れていく。
仏と信じていないサチはセンジュがそうして拝まれている事に腹を立てる。だが、センジュは例え自分が仏でなかったとしても、それでも良いのではないのかという。
拝んでいる人たちの気持ちがそれで救われるのであれば、それは意味のない行為ではない…と。
その時、その近くをある車が西岸寺に向かって走っていくのが見えた。虫の知らせにサチは急いで寺へと戻る。だが、サチが帰りついた時、寺はガレキの山と化しいていた。
それは、センジュに驚き逃げていった男達が総出で出向き、しでかした事だったのだ。
サチや和尚を抑えこみ、さらに乱暴しようとしている男達の前にセンジュが出る。その彼に付きつけられる無数の銃口…それでもせんじゅは動じず、手を合わせ自分の力を解放したのだった。
かなり昔の作品ですが、今回はあのシャーマンキングと同じ作者であります、武井 宏之氏の作品、仏ゾーンの紹介です。
上記の話の続きは、センジュが合掌印を組む事によって、千手天衣(センジュアーマー)が発動し、一斉に撃たれた弾丸をすべて受けとめるわけですけど、千手天衣って中々カッコイイんですよね。
最近、仏像に癒しを求める方が多いとか。中でも、国宝に指定されている阿修羅像など人気が高いようです。今、「興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」」をやっていますが、50万人ほどの来場者数があったのだとか。テレビでも若い女性が多いというのもやっていたようですね。
さて、この漫画に登場するのは、人間だけではなく、仏とその仏敵といわれる魔羅です。人間はさておいておきまして、仏と魔羅、彼らが人間界に来ているのかといえば、それはサチ=弥勒菩薩を仏は守り、魔羅は滅するためです。
釈迦如来から五十六億七千万年後に地上に現われ、全てを救うとされている弥勒菩薩。これは漫画のシナリオではなく、実際に仏の世界のシナリオになっています。でも、釈迦如来の入滅…要するに亡くなったとされるのは、紀元前368年の事。幾らなんでも年月が足りません。まだまだ先の話と思われるのですけど、これは仏の時間と人の時間との違いであると言う話ではなく、年=念であると言う事であり、つまりは、人口であるというのです。
五十億七千万年=五十六億七千万念(人)となれば弥勒菩薩は地上に降臨すると言うわけなのです。
この年=念という話。決して荒唐無稽な話ではないのですね。そして、仏が説いたとされる言葉も決して今の世の中に無関係ではない。これが創作だとしても、なんと素晴らしい先見の明があったのかと感心するだけですし、本当に仏様が言われたのならば、宗教云々ではなく耳を傾ける必要があるのかもしれませんねぇ。
話を戻しまして、仏敵である魔羅にしても、センジュたち仏ゾーンの仏たちも、そのままでは地上で活動できません。そこで彼らが借りるのが仏像であるわけです。
彼らは仏像の姿を借りる以上、その仏像の影響を受けてしまいます。木、土、石…それら素材によっても、固さや重さが変わってくるというのです。なにより、彼ら仏も普段は人の姿と変わりがないのです。
でも、思い出してみれば、センジュは千手観音。その無数の手はどこに行ったのでしょうか?
それは仏の使う天衣(アーマー)になっているのです。
センジュ…千手千眼観世音菩薩は、千本の手があるわけではなく、全部で四十二本の腕があります。背中にある四十本の腕は、それぞれに目を持ち、その眼差しを持って二十五の世界を救うといわれているのです。一本で二十五の世界。四十本で千の世界というわけです。
つまり、彼の千手天衣はその四十本の腕をチャクラによって動かすものであり、それは仏ゾーン特有の機器であるわけなのです。
その操作にはそれぞれの仏に関連した印をする必要があります。センジュは合掌印、馬頭観音のバトウなら馬口印という感じ。地蔵菩薩のジゾウは天法輪印を使っていましたけど、それは技として使っていたので少し異なります。
釈迦如来がしている印相の一つが天法輪印ですしね。
物語的には、途中で終わっているわけですけど、それはそれで良い終わり方であったと思います。
その一番の理由と言うのは、当時の連載雑誌のあり方であれば、神仏関係なく、誰が一番バトルに突入させられていた事でしょう。それをやってしまったら、天罰が下るのかもしれません。
この漫画の本質は、救い。本当に全ての人を救う事が出来るのかという壮大なもの。単行本は3巻で終わっているのですけど、これが10巻、20巻と続いていった際、様々な方面から問題定義された…かもしれません。
そういう意味でも、ここで終わらせておく事は、漫画としての終わり、それから先の話というものを読者が出来ると言う事。その過程でセンジュの目指したすべてを救うという事の意味を考える事が出来る余力を残してくれたという事。
そうした事柄がもしかしたら、神仏からの問題なのかもしれないと思うわけです。
神仏の存在する意味、仏像のある意味、宗教のある意味、人の存在する意味。仏教徒ではないにしても、別の宗教であったとしても、無宗教であったとしても。本当の意味で人を救うという事では宗教を超えた、まだ終わりの見えない問題であると思えてならないわけです。
と言う感じで思うところとしては「宗教」と言う事で一つ。
私などは、一応、実家は仏教なのですけど、本人としては無宗教。それでも言い方をするのであれば精霊信仰と言えば良いのでしょうか。精霊といいましても、火の精霊や水の精霊というわけではなく、単純に全ての生かしてくれる物は神であるとするだけの話です。土着信仰と言っても差し障りはありません。
人がゼロからでは何も作れないのは、意外に忘れ去られる事です。
土から何かを、水から何かを得たとしても、それはまず土や水があるから出来る話。それすらない場所では何も出来ないのが実情です。
さも当たり前の話に聞こえるのでしょうが、それでも人は生かされているとは思わないでしょう。生きていると思うはずです。
別にそう思うのは自由ですし、それが大いなる存在によって成されているとするのも自由です。
それを肯定する事も否定する事も出来ない以上、存在の有無を論ずる事がナンセンスなのですから。それを論じると言う事は、命は何であるのかを論じるのと同じ事なのです。
そうした意味不明…いえ、理解不能な状況を神や魔といういかにも理解できそうな媒体に置き換えたものが宗教であります。
偶像信仰であろうともなかろうとも、そこに不可視の神が存在する以上は、全て同じわけです。
思うに、宗教というのは大勢の人の方向性をまとめるには大変に優れた学問であると思うのです。
例えば、宗教がある程度限定されている国の成長は国が方向性を決めれば、その方向に進んでいく様子です。インドなどの計算力やプログラミング技術力などは、その典型的な例でしょう。
日本には自由の名の下に数多の宗教があります。それだけではなく商業も宗教を利用しているわけです。
こうした中に生まれる思想は、自由という思考であり、あくまでその方向性ではなく、自由という言葉によって統一されているだけに過ぎません。
つまりは、指導者がいない状況であると言う事になります。
こうなりますと、宗教の自由というよりも、自由宗教と言った方が良いのかもしれませんね。
本来、自由というのはそれ以上にない不自由であるわけです。全てを自分で決めると言う事は、その結果を全て受け入れなければならない。当然、後始末も全て自分で行なわなければならないわけです。
一人で後始末も出来ない自由など、結局、誰かに依存しているだけに過ぎません。今の日本において、誰かのせいばかりにしている事が多い状況で自由を宣言する事がどれほどの迷惑になるのか。政治・経済・マスコミを見れば一目瞭然の話です。
宗教はないと困ります。それは宗教ではなくても、大事な教えが間違いなくあるからなのです。つまり、宗教とい単語が、御伽噺であったり、常識であったりと変わっても良い訳です。
ただし、その教えが誰かの利益になるためだけのものである場合、それは教えではなく押し付けになる事を誰もが理解する必要があるのではないのかと思うわけなのです。
宗教の基本は何も難しいものではないのです。手を差し伸べよ、それを振り払う事無く、しっかりと握り共に歩め。間違いを互いに正し、周りを愛する。それこそ救いの道。私が知る限り、神仏が言っている事に大差はありません。
何より、人は多くのものから手を差し伸べられて生きている。それは間違いなく真実であり真理なのです。
そんなこんなで本日はここまで。











