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2009年12月26日

昔から今、そしてその先へ…【「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」(2009年 東映)】

 さて、今回は2009年に公開されました「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」です。



 風都にはびこる悪、ドーパントを追いかけ、追い詰め、倒す。そこにいる者たちが名付けてくれた仮面ライダーであるW。だがしかし、その誕生の影には、Wである左 翔太郎そしてフィリップにも忘れられない夜があった。
 
ビギンズナイト…その日、一人の仮面ライダーが死に、二人で一人の仮面ライダーが誕生する…。
 
 
一方、世界は滅亡の危機を迎えていた。
仮面ライダーディケイド。時空を渡り歩く事が出来る仮面ライダーのために、全ての世界はつながり、崩壊を迎え様としている。
 
だが、仮面ライダーディケイド…門矢士は自分の意思で他の世界の仮面ライダーたちを倒していく。
 
それが友であったとしても…。
 
 
※注意:若干のネタばれは含んでおります。
 
 
 
 二つの映画を流す…今までの仮面ライダーと戦隊シリーズの形かと思えば、何と東映のあの映画の最初の波しぶきを三回も連続で見てしまう作りになっている…その事に「へ?」と思わず声を出してしまいました。
 
感想としては、ディケイドの方が「なんじゃそりゃ」と言いたくなったという感じでしょうか。
Wは良いですよ。正直、Wだけでもう一回でも良いやって感じです。
 
ディケイドに関しての一番の理由は、物語はないと言いきった所でしょうか。これ、ディケイドの物語はないのではなく、少なくとも、仮面ライダーとしての物語などないと聞こえたのは私だけなのでしょうか。
それに、Sプロデューサーがインタビューで言っておりましたが、TVの最終回は最初に繋がる…あれ、嘘でしょう。映画はパラレルだとでもいいたいのでしょうか。むしろ、TV最終話から映画の方がスムーズに、これまでのSプロデューサーが担当した仮面ライダー話しに通じるものがあるのですが…。
 
これを考えずに物語りを見ていると非難されても、困ったものです。
幼児向けの作品に、思慮を深く求めるのが間違っているのだと思うのですけど。一緒に考えることと独自に考えさせること、そして、理解を求める事は大きく違っています。
 
再三、色々な場所で記載しておりますが、別に作り手の思想など、どうでも良いのです。それは生きている以上、主義主張はあるのでしょう。しかし、それを表現する場に幼児向けの媒体を使うとなれば、それはお門違いも甚だしい話しなのです。
 
電王が爆発的な売上を見せ、Wもまた、同じ様に売上を上げている背景には、単純明解なことがあると何故理解できないのでしょうか。
 
それは、敵がいて悪さをするから懲らしめる。これだけです。
戦隊シリーズのそれを一人のヒーローが行う。それが仮面ライダーであるだけの話しなのです。
 
別に大きなお友達向けの作品であれば問題はありません。主義主張をぶつけ合うのが正解なのでしょう。しかし、もう一度記載しますが、仮面ライダーを見せるべき相手は幼児なのです。
仮面ライダーは大きなお友達向けの作品ではなく、幼児がヒーローごっごをするために作られるべき娯楽作品なのです。
 
ディケイドに関して、TV最終話で子供が「なんじゃこりゃ」と言った。そう言う話を周りから聞きます。それを大人に尋ねる、それも一つの手なのでしょう。しかし、何よりも子供たちに少なくとも「何じゃこりゃ」と言わせる作品を作った時点で、反省するべきなのです。
何処に向けて、誰を楽しませるために作品を作っているのか。
 
我々のような大きなお友達…言ってしまえば外野からの声に耳を傾けるのではなく、もう一度、子供たちに目線を会わせて欲しいものだと思う次第なのです。
 
 
そう言う意味では、仮面ライダーWは面白い。中には泣き出す子供もいるそうですけど(ドーパントが怖いそうです)、それは正しいあり方なのでしょう。そこに仮面ライダーがやってきて懲らしめてくれる。
何時でも、仮面ライダーは子供たちの味方であり、正義の人であるべきなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「シリーズ」と言う事で一つ。
 
そうは言っても、仮面ライダーも戦隊シリーズも、まだまだ続いていく事でしょう。個人的には宇宙刑事物やメタルヒーローを再開するのも面白いとは思うのですけどね。
 
ディケイドは戦隊シリーズと仮面ライダーの開始時期を半年ずらす事で、玩具の売りだしにバッティングしないようにと放送された作品であるわけです。真実はわかりませんが、恐らくそうなのでしょう。
そうした苦労もあって、新製品の何ともサイクルの早い事早い事。今回の戦隊シリーズは一応の終わりを見せましたが、それで新製品が終わりかと言えば、来年そうそうに仮面ライダーの方では売りに出されますし。
 
何とも、親御さんからすれば懐の痛い話しです。
 
そう言う意味では、ガンダムというのも同じかもしれませんね…どっちもバンダイかw
 
 
それは置いておきまして、こうしたシリーズ物というのは、マンネリの安心感があります。あまり逸脱しない路線におけるマンネリは、飽きが来るとは言いますが、路線が順調に伸びていけば、なくなる不安が大きくなるもの。それがマンネリの安心感というものです。
 
いつでも、チャンネルを合わせれば、そこにいる。
考えてみれば、そうした長く続く作品であるからこそ、親子通じて楽しむ事が出来るのだと思うわけです。
 
同じ様にトミカのプラレールにミニカーもそうですよね。更に言えば、そうした実物を題材にした玩具には、歴史が感じられるものです。それを話し合う事も出来るのでしょう。
 
女の子玩具はより顕著であるのかもしれません。
人形を子供に手渡し、その子供がさらに子供に渡す。物の大事を伝える上でも良い教育になるのではないのでしょうか。
 
 
思うに、消費というのがあくまで使い捨てであるというのならば、確かに、当たらしいものに買い換えるのは当然のことなのでしょう。しかし、それだけでは文化や思いを継承させる事など出来ません。
昔があり、今があり、そして未来がある。
 
昔を懐かしむだけではなく、これからを見るだけでもなく。これまでに続いてきた積み重ねがあるのですから、そこにある思いを忘れない様につなげていく事を、今再確認するべきなのかもしれないと思うのです。
 
 
これからの新しい年が決して楽ではないのでしょうが、それでも少し振りかえれる余裕と先を見ることが出来る余裕を持ちたいものだと思う次第です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。また、来年もよろしくお願いいたします。

2009年05月16日

空を見上げて、ふと思う時【「劇場版 仮面ライダー超・電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」(2009年 東映)】

 さて、今回は2009年に封切りされました「劇場版 仮面ライダー超・電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」です。

 田舎暮らしに馴染めずにいる少年「ユウ」。彼にとって父の故郷であるその田舎はとても退屈な場所であった。同級生にも莫迦にされ、苦手とする小さな虫にすら翻弄される日々。その鬱積した状況の為に、学校へも行かず、また祖母へも反抗する生活が続いていた。
 
そんな折り、大地震によって産まれた時空の歪からオニがユウの田舎へと現われる。
ユウのいる村では、鬼退治の伝説が残っており、その退治されたはずのオニ達が何かを探しに未来の時代へとやってきたのだった。
 
オニの探しているのは、鬼の切り札。その半欠けであるのだという。それがあれば、歴史は変わりオニの時代がやってくるのだという。
 
それを阻止するために、デンライナーでやってきたのが、野上幸太郎=仮面ライダーNEW電王であった。だがしかし、敵の親玉である兄弟オニの弟、ミミヒコの強さは半端なものではなかった。
しかも、ミミヒコが持つ純銀の金棒を天空に突き上げると、そこに歪が生じ、なんとミミヒコが変身してしまったのだ。
 
その名も仮面ライダーシルバラ。
 
変身したミミヒコ=シルバラはNEW電王と一戦交えるも、すぐに退散。事態は一向に改善へと向かう気配がなかった。
 
自宅に帰ったユウはある事で祖母に反発し家を飛び出してしまう。しかし、その時には既にユウが鬼の切り札を持っている事が、ミミヒコには気付かれており、ユウの祖母の家までオニ達が近づいてきていた。
 
祖母を巻き込まないようにと、自分の自転車で逃げるユウ。NEW電王に遭遇した時、彼の仲間である野上良太郎から受け取っていたデンライナーのパスを握り締め、時分秒が揃いデンライナーの駅に行ける機会をうかがっていた
 
NEW電王の助けがあったものの、それでも自力でデンライナーの駅へと入るユウ。その目の前には時を駆ける列車デンライナーがあった。
乗りこんだユウが自分の持つ鬼の切り札を野上たちに見せる。そしてそれを渡しても良いというのだ。
 
ただ、一つの条件さえ飲んでくれるのならば…。その条件にオーナーがユウの前に立ち、問いただした…。
 
 
 
 というわけで、ある程度のネタバレをしつつですが、ストーリーをなぞっていくのはここら辺でやめておきます。
 
仮面ライダー電王の新劇場版第一弾が封切りされて、約一週間経ちました。すでに複数回見ているファンがいるのかもしれません。非常にストーリーがうまく流れており、最後には涙が出てくる様な展開になっています。
しっかりと、電王の世界を踏襲してくれたのには感謝ですね。
 
当然、電王という物語に必要なのは、例えば、モモタロスやウラ、キン、リュウなどのイマジンたち、そして電王を演じるスーツアクターさん、その声を担当する声優さん。そして脇を固めるオーナーやナオミちゃん、コハナちゃんといったキャラ。
そして主役である野上良太郎を演じる役者さん。
 
物語の演出や構成、小道具や大道具を準備活用するスタッフ、それを指示する監督。
監督の考える事を文書化するシナリオライター…など、書いて言ったら切りがない人たちがいればこそであろうと思われるかもしれません。
 
確かにその通りです。ですが、実のところはパフレットの最初をめくったそこに答えがあったのです。…
 
『(前略)「電王」とは<少年が時の列車に乗り、仮面ライダーとなって自分を見いだし、列車を降りるまでの冒険物語>。(後略)』
 
…これを映画を見た後に読んだ時、おもわず大きく頷いた一文でした。
 
今回の物語はユウという少年が主人公です。
野上良太郎が幸太郎が、そして助っ人のように門矢 士が仮面ライダーに変身しているわけです。そして物語の題名は仮面ライダーです。しかし、彼等は主役ではありません。
 
どうしてそう言いきれるのか、それは映画を最後まで見ればわかります。確かに、あの一文の通り、電王の物語はしっかり受け継がれていたのです。だからこそ、ホロリと来たのです。
 
それは、TV版の最終話で彼が見せた喜びの原点がここにあったのかと思うに十分な物語であったわけなのです。
 
電王ファンであれば、また映画かと食わず嫌いをせずに見て欲しい一本であり、初見であるのならば、これを機会に仮面ライダー電王という絆の物語を知って欲しいと思うわけです。

ちなみに、ミミヒコを演じた柳沢慎吾氏、その兄であるクチヒコを演じた篠井英介氏は本当に素敵な演技をなされていました。敵役ながら主役を食ってしまうほど格好良かったですよ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「絆」と言う事で一つ。
 
今回は、少しふとした時に、このように感じた事と言う形で記載していこうと思います。
 
この映画…と言いますか、電王の世界におけるイマジンとの絆。それは契約という形でもたらされるのが基本というわけですが、それを超えた絆もあるという所をしっかりと見せてくれました。
 
物語における絆というのは、予定調和の部分が多分にあるわけで、それは綺麗な形であるわけです。
しかしながら実際には、それほど絆が綺麗なままでいられるというのが難しい事を私達は知っているわけです。
 
その絆が試されるのが約束ではないのかと思うわけですが、容易に絆を断ち切る要因になるのが約束であり、より強固になるのも約束であるわけです。
 
約束にはした側の使命感と達成力が、された側の期待感と応援力が必要となってきます。それが今の日本に足りない云々とは言いませんが、それでも、これは昔から変わる事のない事であるのは間違いないわけです。
 
それぞれの立場がありますし、状況・条件などもありますので、中には不可能とわかっていながらも引けない約束をする場合もあるのでしょう。それをされた側がどのように対応するのか。それによってもまた絆が深まる事もあるわけです。
 
絆を深めていく事は、より研鑚を求められるのかもしれません。
 
それを面倒と感じたとき、人の付き合いは表面だけの絆になっていくのでしょう。自分をさらけ出すのが怖くなるのかもしれません。それでも、人は人と絆を培っていくしかないのです。
 
経験上であるわけですが、自分の培ってきた絆がどれだけの広さ深さであるのかは、死んでからしかわからないのかもしれません。
それを人は得と言います。
 
とすれば人との絆をより良く築いていく事、それが善行=得を積む事なのかもしれませんね。
 
ある人はそれを赤い糸と呼びます。それを自ら断ち切る事がないようにしたいものだ…最近、そんな事がふと頭を過ったのでした。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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