
風都にはびこる悪、ドーパントを追いかけ、追い詰め、倒す。そこにいる者たちが名付けてくれた仮面ライダーであるW。だがしかし、その誕生の影には、Wである左 翔太郎そしてフィリップにも忘れられない夜があった。
ビギンズナイト…その日、一人の仮面ライダーが死に、二人で一人の仮面ライダーが誕生する…。
一方、世界は滅亡の危機を迎えていた。
仮面ライダーディケイド。時空を渡り歩く事が出来る仮面ライダーのために、全ての世界はつながり、崩壊を迎え様としている。
だが、仮面ライダーディケイド…門矢士は自分の意思で他の世界の仮面ライダーたちを倒していく。
それが友であったとしても…。
※注意:若干のネタばれは含んでおります。
二つの映画を流す…今までの仮面ライダーと戦隊シリーズの形かと思えば、何と東映のあの映画の最初の波しぶきを三回も連続で見てしまう作りになっている…その事に「へ?」と思わず声を出してしまいました。
感想としては、ディケイドの方が「なんじゃそりゃ」と言いたくなったという感じでしょうか。
Wは良いですよ。正直、Wだけでもう一回でも良いやって感じです。
ディケイドに関しての一番の理由は、物語はないと言いきった所でしょうか。これ、ディケイドの物語はないのではなく、少なくとも、仮面ライダーとしての物語などないと聞こえたのは私だけなのでしょうか。
それに、Sプロデューサーがインタビューで言っておりましたが、TVの最終回は最初に繋がる…あれ、嘘でしょう。映画はパラレルだとでもいいたいのでしょうか。むしろ、TV最終話から映画の方がスムーズに、これまでのSプロデューサーが担当した仮面ライダー話しに通じるものがあるのですが…。
これを考えずに物語りを見ていると非難されても、困ったものです。
幼児向けの作品に、思慮を深く求めるのが間違っているのだと思うのですけど。一緒に考えることと独自に考えさせること、そして、理解を求める事は大きく違っています。
再三、色々な場所で記載しておりますが、別に作り手の思想など、どうでも良いのです。それは生きている以上、主義主張はあるのでしょう。しかし、それを表現する場に幼児向けの媒体を使うとなれば、それはお門違いも甚だしい話しなのです。
電王が爆発的な売上を見せ、Wもまた、同じ様に売上を上げている背景には、単純明解なことがあると何故理解できないのでしょうか。
それは、敵がいて悪さをするから懲らしめる。これだけです。
戦隊シリーズのそれを一人のヒーローが行う。それが仮面ライダーであるだけの話しなのです。
別に大きなお友達向けの作品であれば問題はありません。主義主張をぶつけ合うのが正解なのでしょう。しかし、もう一度記載しますが、仮面ライダーを見せるべき相手は幼児なのです。
仮面ライダーは大きなお友達向けの作品ではなく、幼児がヒーローごっごをするために作られるべき娯楽作品なのです。
ディケイドに関して、TV最終話で子供が「なんじゃこりゃ」と言った。そう言う話を周りから聞きます。それを大人に尋ねる、それも一つの手なのでしょう。しかし、何よりも子供たちに少なくとも「何じゃこりゃ」と言わせる作品を作った時点で、反省するべきなのです。
何処に向けて、誰を楽しませるために作品を作っているのか。
我々のような大きなお友達…言ってしまえば外野からの声に耳を傾けるのではなく、もう一度、子供たちに目線を会わせて欲しいものだと思う次第なのです。
そう言う意味では、仮面ライダーWは面白い。中には泣き出す子供もいるそうですけど(ドーパントが怖いそうです)、それは正しいあり方なのでしょう。そこに仮面ライダーがやってきて懲らしめてくれる。
何時でも、仮面ライダーは子供たちの味方であり、正義の人であるべきなのです。
と言う感じで思うところとしては「シリーズ」と言う事で一つ。
そうは言っても、仮面ライダーも戦隊シリーズも、まだまだ続いていく事でしょう。個人的には宇宙刑事物やメタルヒーローを再開するのも面白いとは思うのですけどね。
ディケイドは戦隊シリーズと仮面ライダーの開始時期を半年ずらす事で、玩具の売りだしにバッティングしないようにと放送された作品であるわけです。真実はわかりませんが、恐らくそうなのでしょう。
そうした苦労もあって、新製品の何ともサイクルの早い事早い事。今回の戦隊シリーズは一応の終わりを見せましたが、それで新製品が終わりかと言えば、来年そうそうに仮面ライダーの方では売りに出されますし。
何とも、親御さんからすれば懐の痛い話しです。
そう言う意味では、ガンダムというのも同じかもしれませんね…どっちもバンダイかw
それは置いておきまして、こうしたシリーズ物というのは、マンネリの安心感があります。あまり逸脱しない路線におけるマンネリは、飽きが来るとは言いますが、路線が順調に伸びていけば、なくなる不安が大きくなるもの。それがマンネリの安心感というものです。
いつでも、チャンネルを合わせれば、そこにいる。
考えてみれば、そうした長く続く作品であるからこそ、親子通じて楽しむ事が出来るのだと思うわけです。
同じ様にトミカのプラレールにミニカーもそうですよね。更に言えば、そうした実物を題材にした玩具には、歴史が感じられるものです。それを話し合う事も出来るのでしょう。
女の子玩具はより顕著であるのかもしれません。
人形を子供に手渡し、その子供がさらに子供に渡す。物の大事を伝える上でも良い教育になるのではないのでしょうか。
思うに、消費というのがあくまで使い捨てであるというのならば、確かに、当たらしいものに買い換えるのは当然のことなのでしょう。しかし、それだけでは文化や思いを継承させる事など出来ません。
昔があり、今があり、そして未来がある。
昔を懐かしむだけではなく、これからを見るだけでもなく。これまでに続いてきた積み重ねがあるのですから、そこにある思いを忘れない様につなげていく事を、今再確認するべきなのかもしれないと思うのです。
これからの新しい年が決して楽ではないのでしょうが、それでも少し振りかえれる余裕と先を見ることが出来る余裕を持ちたいものだと思う次第です。
そんなこんなで本日はここまで。また、来年もよろしくお願いいたします。



