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2009年04月04日

材料であるとして、その良い加工方法は…【「里見八犬伝」(1983年 角川書店/東映)】

 さて、今回は1983年に公開されました「里見八犬伝」です。



 その国は悪霊が支配する国。里見家が治めていた国に現れたのは、怨霊・玉梓が率いる蟇田の軍。それはかつて悪政を行っていた蟇田を攻め民草を解放した里見家への復讐でもあった。
蟇田が求めるのは里見の血。その中でもただ一人逃げている一人娘の静姫を追いかけていた。
 
それと同時に諸国へその手を伸ばしていく、蟇田軍。
 
そうした中で、光る球の導きによって集っていく剣士たちがいた。八つの珠に導かれる八人の剣士。その里見家には一つの伝説があった。ある戦にて、敵の攻めに難儀していた里見の殿は、近くにいた犬・八房に戯れでこう言った。
 
「敵の大将首を取ってこられれば、娘、伏姫をお前にやろう」
 
その戯れが現実の物となった時、殿は驚愕した。だが、伏姫は約束どおりに八房にその身を預け、山深くへと連れ去られてしまう。しかし、戯れた約束の後悔から殿は八房討伐を命じる。
その討伐隊の攻撃が八房を庇った伏姫に当たってしまう。その時に伏姫の持っていた数珠が弾け、八つの大玉が天空へと散ってった。
 
その八つの球こそ、伏姫から放たれた珠。その光の中に輝くのは文字。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌…その珠を持つ者たちを八犬士と呼んだ。
 
それぞれに出生や生活が違っていたとしても、その珠に導かれ静姫の下に集まってくる。その目的は怨霊・玉梓を討ち果たす事であった。
 
 
 
 その当時、CMで見ない日はないという程、広告が打たれていた映画であったと記憶しています。物語的には冒険活劇。しかも、ヒロインとヒーローが存在するもので、いわゆる原作である南総里見八犬伝やその翻訳である新・里見八犬伝とは全く異なる、今で言う所の二次創作物としてみるのが正解なのでしょう。
 
まずヒーローが異なります。南総における主人公は犬塚信乃、そして丶大法師がそれぞれ担っているわけですが、この映画版では犬江親兵衛がヒーロー役として最後に静姫と結ばれて終わります(明確にそうした表現はありませんが、そのように受け取れる終り方なのです)。
 
そして八犬士の象徴でもある珠。この珠が宿敵である玉梓を倒すアイテムになっており、これを収められていた不動尊に戻すと、光の弓矢が生まれるのです。
しかも、玉梓の後ろに御霊様という真の魔王がいるわけで、これを倒さないと玉梓たちは何度でも蘇るそうなのです。その唯一の弱点が光の弓矢なのです。
 
と、ここまで記載すると何かしら不思議な話に聞こえてきます。そう、これはまるで西洋のファンタジーではないかと。
 
その様相がないとは決して言えるはずもなく、インスパイアされた視覚効果もありました。最後に御霊様という魔神像の首が転がってくる所などは、明らかにインディジョーンズの大きな岩が転がってくるシーンその物でしたし。それに、敵である蟇田の城の様子などは、色こそ違えどダース・ベーダーが収める帝国軍のような感じでした。
 
その他にも、時代劇にロックと言われるきっかけを作った作品でもありますし、特殊メイクが本格的に使用された作品であるというのでも有名ではないのでしょうか。
こうなってくると、時代劇というよりは和製ファンタジー映画とした方が良いのかもしれません。もしくは時代考証のない時代劇…それでも、子連れ狼の無敵の乳母車も時代劇とは言いがたいんですけどねぇ…かもしれません。
 
それでも、アクションシーンは役者さんの身体を張ったシーンが素晴しい迫力を見せておりました。今ならば確実にCGだろうというシーンすらも、実際にアクションしているのですから、その迫力はスゴイものです。
そういう意味では、最近の映画は金をかけれるようになりましたし、CGで作れないものはないのかもしれないのですが、生身の迫ってくるような迫力のある演技…これを忘れている時がある気がしてならないんですよねぇ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「二次創作」と言う事で一つ。
 
いまや二次創作と言いますと、同人誌のことのように思われるわけですが、しかし、元々は商業における作品の方が二次創作が多いのは事実なのです。
では何をもて二時創作というのか。一つは原作が存在するという事。もう一つはその原作をあくまで材料として利用している事。大まかにこの二点になるのではないのでしょうか。
 
元々好きな分野でもある漫画や小説に関しては、この二次創作によって製作されたアニメやドラマの題材のように使われているわけで、その内容は別にそれを材料として使わなくても良いんじゃね?という出来の物が多いのが事実です。
 
では何故、そうした作品が多いのか。これは散々記載してきましたが、単純に売上げが見込める=人気が出る可能性が高いからです。
 
オリジナルの作品を展開させるためには、その作品の持つ魅力を販促で文字通り世間に促す必要があります。ですがその費用は決して安いものではありません。こうした原因に、最近のアニメが行われている時間帯、その主力が深夜枠になっている事が挙げられます。
また、同時に放送される話数が極端に少ないのも起因になっている一つなのでしょう。
 
あるニュース記事で日本のアニメーションが海外で受けなくなってきているという話がありました。それは決して一過性のブームであったという話ではなく、数多く排出される作品のほとんどが放送期間が短いことに原因があるのではないのかと思われるわけです。
日本における現在の基本は13話。それを1クールとして数えるわけですけど、大体行われるのは1クールもしくは2クールです。1年…つまりは4クール以上行われる作品は本当に稀になりました。
 
しかし、海外では人気のある作品は1年以上やって当然であり、テレビ局も当然番組を長くやることに目標を掲げて製作しているわけです。だからこそ、視聴率の厳しさがより意味のある物になっているわけです。それは現時点での視聴率。つまりは生きている数字如何において、製作路線の変更から打ち切りまでを決めることが出来るのです。
 
これをシビアというのであれば、その通りなのでしょう。しかし、日本のように視聴率が番組に活かされる事なく終了を迎える番組が多い=視聴率はあくまで結果だけであり、その意味が希薄な割にはその数字を重宝がっているという不可思議な状況に比べれば誠実なのかもしれません。
 
さて、二次創作の話に戻しますが、いわゆるそうした放送事情からして、材料であったとしてもそれを活かしきれるだけの理解を製作者サイドが行い、それを視聴者サイドへとしっかり伝えているのかと言えば、それを行っている番組が少ないのです。
これは結果的に下泣くをしる視聴者のみを対象にした商売のやり方のようなもので、原作をとの差異を楽しめる人のみに訴える…つまりは自身たちでどんどん領域を狭めているわけなのです。
 
こうした中で新しく視聴者を確保する…というのは少し無理な話ではないのかと思うわけで、とあるアニメ制作会社が今年は売れる作品を作るという見当違いなコメントをしてしまうのも無理はないのかもしれないと同時に思ってしまうわけです。
 
売れる作品のノウハウが作れればそれほど楽な話はありませんが、それこそ、神様でも描けないシナリオではないのかと。
 
それよりも短いクールで無駄に材料を消費したりするのではなく、模倣であるのならば模倣なりの礼節と感謝を持って製作に望むべきではないのかナァと思う訳です。オリジナル作品や一年以上の放送で勝負を出来ないのですから、そうした状況を改善するのも大事な事だと思うんですけどねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年12月06日

箱物行政は無駄な投資【「魍魎の匣」(2007年 フューチャープラネット/小椋事務所)】

 私もいつかは死にます。当たり前の話ですけど、だから無駄な投資はしたくはないわけです。



 さて、今回は2007年に公開されました「魍魎の匣」です。



 物語は戦争末期から始まる。榎木津は地獄絵さながらの場所で、生き残るために足掻いていた。そこに助けを求める将校が一人。彼を助けたその時、榎木津の頭上に流星のような光が降り注ぎ、その光を見てしまう。
すると、榎木津は一緒に連れてきた将校の背後に何かを見た。それは「匣」の中にいる少女。将校は問い詰められた言い訳のように話だす…「匣」の話を。話疲れた将校の前にあった一つの「匣」。それを開けてみると…。
 
それから七年後、1952年の東京。榎木津は探偵をしていた。今日も依頼のために奔走している。そんな街中では一つの殺人事件に関しての号外が叫ばれていた。そこには、バラバラ殺人事件の話があった。だが然したる興味も見せず、榎木津はとある場所に向かって車を走らせた。
 
そこは撮影所。榎木津の叔父が経営している撮影所において、彼を待っていたのは、稀代の女優と言われた女性、柚木陽子であった。彼女が榎木津に依頼したのは、娘・加奈子の捜索であった。
 
楠本頼子は、その性格から友人もなかったが、彼女に対し「僕らは、互いが互いの生まれ変わりなんだ」と声をかけてきたのが、クラス一の秀才で美少女の柚木加菜子であった。語る言葉は男言葉でその内容は難しい文芸雑誌のこと。そんな加奈子に戸惑う頼子であったが、それでも二人の少女は互いの孤独を埋めるように親睦を深めていく。
そして、それは遂に一つの行動を促す事になる。
 
それは二人で最終電車に乗って湖を見に行こうという約束であった。
 
ところが、その約束をした加奈子は駅のホームから突き落とされ瀕死の重傷を負ってしまう。病院に運ばれ、集中治療室に入れられた加奈子に肉親がやってくる。それは女優・美波絹子であった。
 
だが、加奈子はより綿密な治療を受けるために搬送される事になった。それはある研究所…その形は、大きな「匣」であったのだった。
 
 
京極夏彦氏の。百鬼夜行シリーズの第二弾。現在、アニメでも放映中の同タイトルですが、先に映画化がなされました。
 
私は原作を見ずに、この映画を見に行きました。それでも十分に楽しめたので、原作はもっと面白いのだろうと思っております…が、まだ読んではいません。なので、映画の中だけの話とさせていただきます。
 
 
この話、3つの「匣」が絶妙に関わりあい、事件の様相を織り成しているわけです。
一つは加奈子に関係する研究所の「匣」、二つ目は連続美少女殺人事件の「匣」、三つ目は新興宗教における「匣」。それらが、巧みになつながりを見せ、最終的にそれまで見えなかった最後の「匣」に集約していく、それが言いえて楽しいものでありました。
 
結構、残虐なシーンもあったりしましたが、それも必要なものとしてあるわけで、単純に気味が悪いと言えませんでした。
気味が悪いと言いましたが、それも単純に流血映画のような気味の悪さではなく、何かしら意味のある気味の悪さであったように思えます。
 
言いえて恐ろしいと思えるのは、それが単純に勢いで行われたものなどではなく、何かの意味を示している事ではないかと思えるのです。それは、その意味に新たな惨劇の予感を覚え、状況によって見ている方も巻き込まれてしまうのではないのかという恐怖を覚えてしまうのです。
しかし、その理由の真相が見えてくると、安心感と同時に更なる不安が起こってくるようになります。それが、この事件が解決できるのかという不安であると思うわけです。
 
 
物語の真相は、研究に没頭した研究者が、その理論を完成させるために躍起になっている状況という、それまでの物語にも幾度も見てきたものであります。ただ、それまでの小さな物語が、その最後に待ち構えている状況を確実に違うものとしているのは、こうした作品を見ていると感じる部分です。
 
同じ様な状況があったとしても、それは個人によって捉え方が変わって来る。それが当事者であっても同じ事。そして、過ぎたことは決して戻らないものである事も示しているわけで、それを悲しいと感じるのか、それとも懐かしいと感じるのか、それによって生き様が変わってくるのではないのでしょうか。
 
 
アニメも始まっている状況ですが、残念ながらまだ放送を見てはいないので、どれほど映画と違っているのか確認できません(ここら辺は、テレビ局などの事情もありますが、こうした作品は確実に放送して欲しいものです)。
レンタルなどで再び映画版を見て、どうにかしてアニメ版を見た後に、原作を読み、そのレビューを書けたら良いなと思います。きっと、それぞれの面白さを見せてくれるのではないかと期待するからなのですが…と、考えてみれば原作が完成形なんですよね。
 
ならば言い直しを、原作の面白さを、どのように料理しているのかを記載できればなぁと思う次第です。というわけで、このレビューは何時かの中編(?)に続きます。




 箱物行政と言う言葉があります。簡単に言ってしまえば、投資はしたものの的確にして適切に活用出来ていない行政の様子を表した言葉です。最近、それを良く考えてしまうわけですが、先ごろの政治家の方々の発言には、まさにそれが浮き彫りになっているのではないのかと思うわけです。
 
私たちは、選挙権を行使し選挙にて代表者を選出します。これが選挙です。難しい仕組みでもありませんよね。
では、どうして選挙を行うのか…と問われた場合、それを簡単に説明できますか…と言われればどうなのでしょうか。正直、私にはその自信がありません。簡単に説明する事が出来ないのです。
 
例えば、国民の代表として国政を行うと言った場合、ならば、国政とは何ぞや?という話になります。それが国益であったとしましょう。ならば、その国益とは何ぞや?と言う話になります。さて、国益と言う話になりますと、それは十人十色の話になります。例えば、高速道路の建設もそうでしょうし、労働力の確保もそうです。医者不足の問題もそうでしょうし、輸出入における他国との外交もそうですね。
つまり、国益とニュースで一言で言っている方を良く見かけますが、貴方の言われる国益とは何ぞや?という話になります。
 
同じ様な話で、国民の皆様が納得しないという言葉が聞かれます。野党では良く使われる言葉ですが、国民の皆様って誰?という話になります。この場合、少なくとも自分を指示してくれる方々には…が正解ではないのかと思うわけです。
 
私たちは税金を投入し、国政を賄っていただいています。それが的確にして適切に活用できない状況は、まさに私たちが箱物行政をしているのと同じなのです。
 
 
ニュース記事によりますれば、自民党政権はイカン、民主党の小沢氏が次期首相に相応しい。早急に解散総選挙を開くべきだと、元自民党の方々が言われています。これは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの典型ではありませんか。要するに自分の天下が取れないとなれば、他に政党を立ち上げる。その際には自民党は悪だ!とシプレキコールを上げれば不満を持っている人たちが付いて来る…と考えているだけなのでしょう。
ついでに言うと、諸外国よりのお願いを聞き入れれば、それだけ諸外国からの指示も受け入れられる。それは、政権維持にとって重要な事だと思っていますよね。
 
これだけ国民不在…ではなく、国民を馬鹿にしている代表者も珍しいのではないのでしょうか。
 
考えてみれば、日本人ほど優しい反乱をする民族も居ないでしょう。まず、自分の血を流さない。だから、他人の血を見たくも無い。当然、軍事クーデーターなどありえないですし、かつてあったような学生運動もあるはずが無い。
国の現状は、政治が悪いと言っておけば、当面自分の責任は回避できますし、何よりそれが皆に広まれば、誰かが何とかしてくれると考えているわけです。
 
医者の問題にしてもそう。自動車における飲酒運転やだろう運転にしてもそう。誰かが何とかしてくれましたかね?
 
 
例えば、後期高齢者医療制度は名前からしてけしからん…何故?
人生80年…まぁ、現状において、人が生きられるとされる限界は130年といわれていますが、比較的長寿である日本であって、80年が平均寿命である場合、成人になるまでが20年。これを初期とするのなら後期は60歳以降であってません?まるで人生の終りを言っているようでけしからんというのは、おかしな話で、人間、必ずどのような形かで終りは迎えますよ。
事故・災害・病気、それがどのような形であれ、終わった時点がその人の寿命です。60歳まで生き延びられたのならば、そこからは後期、つまり、どのように全うするのかを考えるべきなのではないのですか?
 
こうした例からしても、日本人には死に対する覚悟が足りないのではないのかと思えてならないのです。
 
覚悟が無いから尊厳もなく、故に尊敬もない。死に対する問題が希薄であるために、生(性)に対する問題にも希薄になってしまう。これが日本における最大の問題点であるのは間違いないのです。
 
一時の自己満足で少しの偽善をするぐらいであるのならば、以降に続く偽善を執り行った方が、偽善で無くなるわけで、要するに名より実を取るのは当然の話であるわけです。何のことを言っているのかといえば、その時の揚げ足で満足するなよ報道各社という意味ね。
 
 
さて、箱物行政の話。要するに私たちは現在、間違いなく投資している状況を間違えているのは間違いないわけです(変な重複…)。それを断ち切るには苦労もありますし何より現状を正しく把握する必要があるのは間違いありません。
少なくとも、情報の氾濫している状況で、しかも、煙に巻く魑魅魍魎が跋扈している現状では難しい事なのかもしれないわけです。
 
ただ、これからを考えるにあたり、もうぶっちぎっている状況。それは日本は独立した経済大国ではないという事実。こうした身近な問題から始めていく事も必要ではないのかと思うわけです。
 
 
無駄に投資をするのが、無駄に政治を行わせるのであるのならば、無駄に使わせないために必要な事と、無駄な知識を覚えさせない事。その為には、国民の代表を始めとする公務に携る人間の勝手をさせないルール作りをしていく必要があるのは間違いないわけで、そうした方々がエリートであるという認識を排除する必要があると思うわけです。
 
国が全ての国民のためにあるのだという以上、一部の国民だけが良いルール作りなどイリマセンからね。地道に、そうした事から改定する必要があるのだと思うのです。
その為に選挙に関心を持つ…これはこれからの時代に必須であると思うのですけどねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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