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2008年09月06日

誰のために何があるのか【「狂科学ハンターREI (1)」(1996年 中里融司/電撃文庫/メディアワークス)】

 今回の突然の辞任劇。様々な場所での感想が、的外れに思ってしまうわけです。



 さて、今回は1996年に発行されました「狂科学ハンターREI (1)」です。



 若いながら優れた鑑定眼を持ち、芸術界にその名を知られる、実業家・姫城玲。彼の画廊ギャラリーである「ギャラリー・HIME」には、世界から不明になった絵が普通に飾られており、知る人ぞ知るギャラリーとして銀座でも知られている。
 
だが、彼には裏の顔があり、その仇名は「狂科学ハンター」。
 
超科学、擬似科学、異端科学と言われ世間からは爪弾きにされる科学技術。しかし、それらを実際に活用し暗躍する組織があった。
 
「黄金の薔薇」…表向きには世界に進出している大企業「ギア・グローバル」の本当の姿でもある。
彼らは日毎に様々な異端科学…いや、彼らの言う所の秘宝科学の成果を挙げ、それを組織のために活用している。
 
実は玲もその成果の一つであった。
彼の父、姫城正樹に改造されたその能力は、人類の持つ力としてあまりにも強大なものであった。そこで、父と同じく黄金は薔薇で科学者をしていた姉・茉莉香によって安全装置が設定された。
 
それは玲に沸き起こる純粋な怒りにのみ作動するとうリミッター。
そのリミッターが外れるとき、彼の能力は解放され、その手に持つ魔玉を持って奇跡のような「魔玉操」を繰り出す。
 
玲の敵である「黄金の薔薇」そして父である正樹を追い詰め、姉の仇を討つために。
今日もその形見である白いマフラーを風になびかせ、都会の闇の中を飛翔していく…。
 
 
この小説の扉絵・挿絵、実はデスノートで御馴染みの小畑健氏です。
主人公である姫城玲が美しいわけですねぇ。
 
狂化学ハンター…思うに、こうした「○○ハンター」ネタには結構はまる方です。その昔、週間少年チャンピオンで連載されていた魔界都市ハンターもそうですし、鈴宮和由氏の悪業ハンターに、安永 航一郎氏の巨乳ハンターも見てました(古いな~)。
 
それにプラスして嵌った原因になったのは、秘宝科学=狂科学です。
 
うまく命名したものだなぁというのがまず最初の感想で、うまく利用したものだなぁというのが次の感想。
劇中にある狂科学は、結構名の通っている有名なものが多かったですし、そういうのが好きならば、読んで楽しい作品ではないかと思います。
 
今なら、深夜枠アニメ1シーズンでも十分に表現出来そうな作品だなぁと思うんですけどね。
 
魔界都市ハンターを出しましたが、ある意味、それに類した作品であるといえます。R.O.Dにも雰囲気が似ているかもしれません。でも、それは似ているという話であって、真似をしているというわけじゃありません。
内容は、突き詰めていけば復讐劇。自分の生い立ちや姉への愛情から動いているのが、主人公である玲の原動力なのですから、物語としては先ほど似ている雰囲気の作品とした物とは一線を画しています。
 
この作品を見ていると、意外な物まで狂科学とされているのがわかります。
これって、モンスターじゃないの?…でも、考えてみればその分類は間違っておりません。確かに狂科学です。
 
同時に、そうした狂科学を手にする事ができた人間。そこに野心が加わればどうなるのか。
単に立ち回りの激しいアクションだけではなく、そうした人の内面にまで話が及んでいると言う所が更に面白いのではないのかと。
 
惜しむらくは、現在、本編5巻、外伝(EX)が1巻で停まっているという事。
出来れば、また再開して欲しいなぁと思っている次第です。




 最近、政治が慌しくなっているわけですけど、本当にそれで良いの?と問いたくなってしまうのです。
 
福田氏が首相になり、そして任期満了前に突然辞任しました。民意は怒っているそうです…私はそうでもないのですが、民意は怒っているそうです。
 
野党も当然起こっています。民意からすれば、野党に政権を渡せと言う事のようです…私はそうでもないのですが、民意はそうらしです。
 
福田政権は無責任なのだそうです。年金問題も全く解決していないし、高齢者問題も解決していない。これで一生懸命だったというのは、おかしいのだそうです…私は(以下略)。
 
 
前にも何度も記載しております。我々が民意を託しているのは、一票を投じた方に対しての話です。それが国民の責務なのです。
今回のこの騒動をテレビで拝見しておりますと、テレビはテレビの責任をすっ飛ばし、国民は国民の責任をすっ飛ばして、人の責任を追及しているようにしか見えないわけです。
 
普段から政治に関心もなく、その内容にも疎いくせに、よくもまぁ、それだけ文句を言えたもんだと呆れてしまうほどです。
 
「政治が関心を持たせないのが悪い」という本当に頭の悪い意見もチラホラ聞こえる場合がありますが、関心を持つのは持つ側の意識であり、持たせる側になんら責任はありません。
ましてや政治はファッションでもなく、音楽でもないのです。興味が持てないから関心がないと言うのは、自分の権利を放棄したのと同じ事です。
 
それで権利がないと文句を言っても当たり前の話なのです。
 
 
一番の事例で言えば、正に年金問題がそれです。
社会保険庁は確かに、仕事をサボっていました。遊んでいました。いい加減でした。そのツケが今、まわっています。
 
ですが、それはここ数年の話なのでしょうか?
 
これまでに…問題が提起される前にはなかった話なのでしょうか?
 
それを監視するための機構が何故作られなかったのでしょう?
 
不思議な事ばかりです。今、60歳を過ぎ、いざ自分の番になった時に騒ぐ。これでは、遅いわけです。
仕事が大変だったから、仕組みが複雑だったから…残念ですが、言い訳にすらなりません。それを理解して彼らはズルをしていたのですから。
これは政治不信が起こしたわけではなく、政治への無関心が起こした事。まずそこを反省するべきではないのでしょうか。
 
 
恐らく、与党の総裁選が終了後に選挙が行われる事になるはずです。
その際に、投票率80%もいかないとすれば…正直、現状からすればこれでも低いわけですが、日本の国を捨てたのは、国民であると理解するべきなのでしょう。
 
国を捨てた民がどこへ行くのか、何が出来るのか。今の世の中で考えれば、決して多くはないと思いますし、楽ではないはずです。
 
政府が無責任と蔑む前に、自分の責任を果たした上で、文句を言うべきではないのでしょうか。そして、これは国民である以上、連帯責任でもあると考えるべきなのだと思うわけです。
 
誰に投票するのか…ではなく、投票所へ行き、一票を投じたのか。その投じた信念は自分の中にあれば良いのです。それをとやかく言う必要はありません。
そして、自分が監視しているのだと、だからしっかり働けと政府に圧力をかけるべきなのです。
 
政府のために国民があるのではなく、国民のために政府はあるのですから。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年07月12日

君を見る、我思う【「幻獣少年キマイラ -キマイラ・吼(1)」(1982年 夢枕獏/朝日ソノラマ)】

 恐らく人が人と異なるのは、自分が自分である事を認識するために必要な事であり、その自分が人と違いながらも、恐らくはこうであろうと思う描くためであるのではないかと思うのです。



 さて、今回は1982年に発売されました「幻獣少年キマイラ」です。



 高校生になったばかりの青年・大鳳吼は、その人離れした美しさから、相対する者にサディスティックな感情を沸き立たせ、暴力によってそれを満足させる…そんな不思議な魅力の持ち主であった。今で言ういじめられっ子タイプなのであろうが、しかし、その身の内には耐え難い欲望も秘めていた。
 
そうした日々の中で、同じ高校生でありながらも鍛え上げられた肉体を持つ九十九三蔵と知り合い、その関係で武道を習う事となる。
 
彼の師匠は真壁雲斎。日々の糧をパソコンでのエロゲーム製作によって賄っているという不思議な年寄りであった。質素な生活と思えば、しかし最新の電化製品も操る。彼の生き様は自然体そのものであった。
 
雲斎の元で修行を積む大鳳、しかし、彼へのサディスティックな攻撃はその日も止む事はなかった。同級生である織部深雪を庇い、絡んできた他の同級生をその手で叩きのめす…その後に熱を出して寝込んでしまった大鳳の下へ一人の女性が尋ねてくる。
 
亜室由魅。彼女は大鳳にささやくように言う。欲しいものがあるのでしょう…と。大鳳は三蔵たちと夕食を共にし、その中で肉をイッパイ食べたいと要求した。確かにその要求は満たされた…が、本心から満足するものではなかった。
彼が欲したのは血の滴る生肉。その芳醇な香りと甘い味わいがするものを存分に胃に満たしたかったのだ。そう、由魅が持ってきたのは、生肉そのものであったのだ。それを貪りつくし、その様子を見つつ由魅は更にささやく。
 
生肉と同じ様に欲しているものがあるのでしょう…と。その通りであった。その言葉に誘われるように、大鳳は由魅を抱いた。
 
それが災いをもたらす事になる。同じ高校にある実質学校を統制している男が居た。彼は大鳳と同じ様に人ならざるほどの美貌の持ち主であったが、しかし、大鳳と異なり弱さを微塵も感じさせなかった。実際に、体躯が彼よりも大きな猛者と言えど、勝てる事はない。それほどの実力があった。
 
彼の名は九鬼麗一。そして、亜室由魅は九鬼の女でもあった。
 
大鳳に報復を決めた九鬼は、大鳳と仲の良い女生徒、深雪をさらい大鳳を誘い出した。その時、大鳳がその目で見たのは、九鬼の体から出てくる異形の口、獣の剛毛…。それを幻獣=キマイラと九鬼は言った。
 
そして同じものを飼っていると大鳳は知ることになる。その時から大鳳は自身の内にある化け物と戦わなければならなくなった。
 
 
夢枕獏氏の初期作。キマイラ・吼シリーズの一巻目「幻獣少年キマイラ」です。
思い出しながらの殴り書きでしたが、多分あっていると思います。あったはずの小説がどこかへ行ってしまったので…。
 
かなり面白く、ショックを受けた記憶があります。
 
その当時から小説を自分なりに記載していたわけですが、その書き方は漫画をベースにしたもので、基本的に擬音と台詞の多い…というか大半がそれというものでした。今のケータイ小説に似ているのかもしれません。
そうした中で読んだこの作品に出てくる擬音は、本当に目から鱗のものでした。
 
口で表現するに足るものでも、実際に音として表現できるのか---?
 
そんな感じの表現が、あちらこちらにあったわけです。
 
この小説は今で言うCDドラマにもなっているわけですが、確か記憶が正しければ聞いたことがあるような気もします。でも、そこまで表現できていたのかと言われれば…基本的にCDドラマは説明が多いわけで、それで賄っていたように記憶しています。(間違えていたらゴメンナサイ)。
 
説明時にはしっかりと行間をつめて記載し、人が動いたり話したりする情景では、行間や擬音でタイミング=間を計る。
結構すらすらっと読めるものなのですが、それでも、一気に読んでしまいたくなる魅力があると思います。
 
生々しい表現も多いわけですけど、それも作品の雰囲気を出すための演出であるわけです。
 
 
現在、朝日新聞社で新装版として「キマイラ(1) 幻獣少年・朧変」として発行されています。夢枕氏が「生涯小説」と言う力作であり、現在も執筆継続中という作品ですので、時代の流れにあっても変わらぬ魅力を出しているのではないのでしょうか。



 …最初に記載したのは、要するに人は一人ずつ違っていて当たり前という話で、しかも、人と言うのは自分を認識するのに他人が必要だという話なのです。
 
当たり前なのですけど忘れてしまうのがこの話なのです。
 
誰々が出来たのだから、自分が出来たのだから、出来ていない人がいないのだから…あなたも出来る。これは、真っ赤な嘘です。
 
人が50mを10秒フラットで走れたとして、その人が出来たから誰もが出来る。それでは記録は意味を持ちませんし、何より、どうして走っているのか理解できなくなります。誰よりも速く走れる。だからこそ、その人の走る行為に価値があるのです。
 
誰かが、未だに解けない公式を解く事ができた。だから誰もが出来る。これも同じ事ですね。
 
農作物を獲る、魚を獲る、鳥を獲る。これも、全ての人に出来る話しではありませんし、何よりそれを絞めて肉にする行為など…私は出来ません。弱虫ですから。命を食っている事に代わりがないのですけどね。怖いんですよねぇ。
 
 
別の人が言います。誰も人と異なっているのだから気にする事はない。確かにその通りかもしれません。ですがそれは社会が許しません。
 
一人一人、特技が合って然るべき。それを見つけるのも重要な事だ。そうですね。でも、それよりも他人と同じものを学び、そこで差をつける事に意味があるとしているのが社会らしいのです。
 
出来不出来。それは一体誰が決めるのでしょう。少なくとも、他人であるのは間違いありません。自分でここまでというのは、大概が甘えなのだというのが一般的な見解なのだそうです。
 
 
私はこう思います。
 
人が人を認識するのに、人を見ていなければ、その人は自分を人と思うのだろうか。恐らく、それは無い話であり、何か見た動くものを自分だと思うのだろう。それだけ人は不完全に自分を理解しているに過ぎない。
しかし、その理解の低さは人にとって我慢できるものではないらしく、それを人は無知と呼び忌み嫌った。
 
無知である事を無意味と思った人々は、あらゆることを理解しようとした。
 
だが、知れば知るほど、理解には程遠く、疑問ばかりが浮かんでくる。その疑問を解決するのに、自分で確かめるよりも簡単な方法があった。それは人の知識を理解する事。これで、人は賢くなったと思った。
 
恐らく人は、様々な地球にいる生物よりも高く飛び、深くもぐれるようになった。何処までも遠くに、そして誰よりも力強く。自由である両手を使い、物を作り、文字を書き…。
 
しかし、それは全て過程であって結論ではない。その事に気付いている人がどれだけいるのだろう。
 
いつしか人は模倣を捨てた。動物に学ぶ事をやめた。植物に学ぶ事をやめた。全てを利用する事を覚えた。だから、人はどこまでも自分のために生きる事が出来るようになった。
 
そして人は他の生き物を見て、人である事を理解できなくなった。
 
 
人は何処に行くのか、人は何者であるのか。かつてとある侵略者が問いかけた言葉を、今、私たちは自分に対し他人に対して聞かなければなりません。その行き先が天国にしろ地獄にしろ、人だけではなく大多数の命を道連れにしなければならない事にどのような意味があるのか。
 
…宗教でもなく哲学でもなく、曖昧ではなく確信でもなく、理路整然に説明できる必要があるのではないのか…そう思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年07月05日

常識に捕らわれないモラル【「妖神グルメ」(1984年 菊池秀幸/朝日ソノラマ)】

 食品偽装にタクシー問題。要するに人を騙して楽しよう儲けようとしている人が多いわけ…なんですね。



 さて、今回は1984年に発売されました「妖神グルメ」です。



 とある場所にある料理学校。そこは一切の人工物を使わずに、しかも、如何なるものも食材として使い、一流の料理を作り上げる事を信念とした天才料理人がしぶしぶながらに経営していた。しかも、その経営者は高校生。
 
今日も今日とて数少ない…いや、たった一人の教え子に対して、考えられるだけの罵声を浴びせ倒している。そのたった一人の生徒も流石に逃げていったその日。彼は料理教室をたたむ決心をしていた…いや、どうしてもたたみたかった。
 
彼の名前は内原富手夫。稀代のイカモノ料理研究家である。
 
イカモノ料理は決してゲテモノ料理ではない。そこにあるコケ、ゴキブリ、腐りかけの野菜屑、ハエ。そんな通常では絶対に考えられないものでも彼にとっては食材である。そして、決してマズイ料理は作らない。
 
そんな彼の前に、一人の男がやってくる。アブドゥラ・アルハズレット。
彼が富手夫に頼んだのは、彼の主人に対して、その腕を振るって欲しいということ。しかし、それはあの恐るべき神を蘇らせる事でもあった。
 
ただ、その事よりも富手夫に興味があったのは唯一つ。その日から、富手夫の脳裏にはその事だけが思い浮かぶようになった。
 
だが、彼の周りは彼の考えるよりも騒々しくなる。そして、全てはある海底へと向かって収束していくのだった。
 
 
菊池秀幸氏にしては珍しいのではないのでしょうか。シリーズ化になっていない話です。
しかも、その元ネタは「クトゥルー神話」で、その相手が高校生なのですから、驚きです。
 
物語的にはクトゥルーの恐ろしさというよりも、その周りで動く人の恐ろしさというのが良く描かれている作品ではないのでしょうか。主人公である内原富手夫は、イカモノ料理の天才。その様子はまるで美味しんぼの海原雄山と変わりがありませんと言うくらいに、激しいものです。
 
ただ、彼は孤独を愛するようで、出来る限り人とは係わり合いにはなりたくない様子。まるで、今の引きこもりのような感じですが、アグレッシブさはちと違うような感じがします。
 
 
これが発売されたのは、1984年。グルメが持てはやされた時代でもあったわけです。
 
それまで日本で食べられていたものとは違うものが数多く入ってきた時代でもありました。作るよりも食べる方に重点が置かれていたと記憶しています。
今のように大食漢とかではなく、むしろ少なく貴重な食材をありがたがって食べていた。個人的感想として、少し間違ったような世界であったと思います。
 
 
この小説は食と神話をうまく融合させた話であります。
 
基本的に神話で食の話が出てきても、それで料理まで含めて話を作るというのは稀有ではないのでしょうか。それも最高の食材が神であるというのは、人の反逆としてはありえない、しかしながら最高のものではないかとも思うわけです。
 
確かに、そうした食材を作って作る料理はゲテモノではなく、イカモノという呼称があっているのかもしれません。
 
この作品に出てきた主人公、内原富手夫はこれで死んでしまったのか…と思いきや、そうでもないらしく、実は別の作品にも登場しています。その作品をまだ読んでいないので、どうなっているのかはわかりませんが、恐らくは、イカモノ料理を極めようと東奔西走している事でしょう。



 人のモラル云々と言われた昔も「騙す」犯罪がなかったわけではなく、それ以上に人情があったわけでもないわけです。単純にモラルがあっただけの話。モラルを常識という人もいますけど、本来常識というのは時代ごとに変化していきますし、時代でなくても地域によって変わっていくものです。
 
日本でも西日本と東日本で風習はかわりますし、食事の好みも変わります。用意するべき祝い事も同じ様な祭りでも意味が違っていたり、順番が違っていたりするわけです。それをその地域では常識と言います。
問題は、こうした常識というのが様々な場所で作られてしまうという事です。
 
要するに食肉偽装の常識、タクシー問題の常識、年金問題の常識など、勝手気ままに作った常識が世間の常識であるかの如く振舞うのが、全ての原因となっているわけです。
明らかにこれはモラルではありませんね。
 
もし、モラルが常識であるのならば、その根本にある人に迷惑をかけない…これが常識に入ってなければなりません。ですが実際にはどうでしょう。人に迷惑をかけている事ばかりです。
 
 
人には、それぞれ持って生まれた常識が存在します。その大半は地域性というものでくくられるわけですが、それが時として人同士のコミュニケーションを破壊する場合もあります。モラルとは、そうした異文化の人の事を考えて、迷惑のかからないようにする事だと思うわけです。
そうです。モラルを何か別の言葉にするとすれば、それは奥ゆかしさではないのでしょうか。
 
奥ゆかしさは決して臆した事と同意義ではありません。人を立て、自分を立てる行為の事です。人だけを立てるのはおべっか…今で言えば、ゴマスリと何ら変わりがないわけです。ですが、本来、人は人同士で立てあうものであるわけです。つまり、相手を敬い尊敬し、それを相手も行う。決して誹謗中傷、ましてや卑下していては出来るはずのないものであるわけです。
 
自分の思い通りに行かない世の中を憂う気持ちは誰にでもあることでしょう。しかし、問題はそれぞれに生活があり、それは干渉し合って流れているものであるという事です。
どうにも、その干渉という意味を服従に置き換えて考えている人が多いようで、それが間違った認識である事を気付かないまま日々を暮らしているようなのです。
 
干渉するという事は、ただ、お互いを認識しただけで起こることであり、その間にある流れが自然な流れであるわけです。ところが、それが自分の思い通りに流れていないと、無理矢理その流れを変えようとする人がいるわけです。これが歪です。歪はゴムの張りと同じ様なもの。ある程度以上は変えられないものなのです。しかし、それを無理矢理に変えようとします。結果、流れは決壊し修復など出来なくなってしまうわけです。
 
 
家族の大事がなくなってきていると言いますが、実際には家族の干渉の仕方が変わってきているからおかしな流れになってきているとすれば理解しやすいのではないのでしょうか。
その流れは世間の奔流からすれば、小川のようなものです。歪がなければ、受け流す事もさして難しいものではないのでしょう。しかし、歪にぶち当たる大きな流れは、まるでその流れ自体を壊そうとする勢いのはずです。結果、流されるのではなく、いなすわけでもなく、壊れてしまう。そして壊した原因を大きな流れに求める。そんな所ではないのでしょうか。
 
家庭の歪み、学校の歪み、企業の歪み、社会の歪み。本来あるべき流れに戻すには、それこそ自身の流れの向きや強さなどをしっかり理解する必要があり、それが回りに迷惑をかけるのではなく、影響を与える流れになるわけです。
奥ゆかしさとは人に良き影響を与える流れの事。つまりはモラルとは人に迷惑を与えないだけではなく、正しい事を示す姿勢でもあるという事になるのではないのでしょうか。
 
 
常識にとらわれないと言うのは、決して自由気ままなだけで動く事ではなく、モラルをもって行動する事であると思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年08月05日

日本でなくなる時【「魔界都市<新宿>」(1982年 菊池 秀行/朝日ソノラマ)】

 その昔、人類は滅びる!とか言われていた時代は実に混沌としていました。しかし、それは単なる混沌ではなく、時代を生み出そうとしているエネルギーにも満ちていた時代であります。ただ、その方向性が間違っていたのか、現在、そのつけを大小関係なく支払わなくてはならない時代に入っています。

果たしてこの先、どのようになっていくのか…心配な事です。


 さて、今回は1982年に発売されました「魔界都市<新宿>」です。


 魔震…デビルクエイクと呼ばれるその地震が新宿の真下のみで起こったのは、199x年9月13日午前3時にきっかり3秒だけ起こり、しかしその影響は拭いきれることなくその地を覆う事になる。新宿のみに起こった震災は、後にその場所の名称に異名を付け加える事になる。それが魔界都市。

そこには区外では考えられない常識が罷り通り、それでも人々は生活していた。だが、そうした中に存在する悪の因子が動こうとしている。

一方、現地球連邦政府首席である羅摩こずみは、一通の手紙によってその命を危険に晒されていた。その手紙を送り込んだ主こそ、摩導師レヴィ・ラー。地球の至宝とまで言われる首席の命を持って、災厄を呼び覚まそうとしている張本人であった。その危機を知り首席の下に来たのは、稀代の大賢人アグニ・ライ老師である。彼の命を受けた連邦政府の山科は、一人の青年の下へと向かう。

その青年の名は十六夜京也。念を聖的に昇華させ、物理エネルギーすら聞かない魔物たちとも対峙出来る“念法”に使い手であった。

最初こそ渋るものの、しかし、彼は魔界都市へ向かう決意をする。そこで自分と魔導師との因縁を知る事になり、そしてついに災厄が現れ…、そして、ついに決着の時を迎える。


 魔界都市、それは新宿を指し示すきっかけになった作品。それ以降、この魔界都市では様々なヒーロー、ヒールが登場するようになりました。有名どころではせんべい屋に刑事、そして医者といった所でしょうか。彼等はすべてこの魔界都市という本来人の住めないような場所で生活している人たちなのです。しかも、それぞれに特殊能力があり、それを駆使しして難問奇問に立ち向かっています。

しかし、主人公である十六夜京也は魔界都市の住人ではありません。あくまで区外の人間であるわけです。ここが魔界都市に関連する作品の中で異なる部分なのでしょう。

それにしても、この作品、大変に面白く読んだ記憶があり、今回再度読んでみましたが、すんなり読めてしまえるようになっています。あまり、難しい事をしていないのです。前に出てきた事で伏せてある内容は必ず、その数ページ先に記載してあって、つまり、あくまで冒険活劇として読むことが出来るようになっています。

どうしてレヴィ・ラーはもう一度災厄を起こそうとしたのか。それも記載されていますが、悪党の言う事の典型的な話をしております。

 作品の基本としては実在の場所を使い、また、1999年に起こるとされた災厄を使い、更に念力やテレパシーなどの不思議能力、そして魔界の生き物に…と今のゲームではすっかり御馴染みのごった煮状態で記載されています。しかし、単なるごった煮とは思うなかれ、その素晴らしいテイスティングによって、煮込まれた材料はそれぞれが互いを破壊する事なく利用されているのです。
作品内ではそれぞれが破壊と戦いを繰り広げておりますけど…。


 それにしてもこの作品は数多くの模倣が織り込まれており、しかし、それをうまい具合に菊池風味にしている作品であるわけです。二次創作も嗜んでいる自分としては、大変参考になる書籍である事は間違いありません。一種のセンスなのでしょうが、それでも憧れる存在であるわけです。


 前振りで不安な事を記載しましたが、それでも日常は回り続けていくものです。ただ、最近の日本というものを省みるにつけ、大人の不正があまりにも大きく、本当に日本を正しく残そうとしているのか…そこに関しては不安が残ります。年金問題、裏金問題、政治資金問題。なんでも金が関係しているわけですが、それでも日本を良くして行こうというのであれば、そういう行き過ぎた煩悩からは脱却するべきなのでしょう。

日本には統一された主義主張は存在しません。宗教でも理念でも、それは個人が唱える事ができるとなっています。しかし、その弊害として主張における対立が、激化している様子が見て取れます。自分の意見を批判する場合、それは敵とみなすわけです。個人がそれぞれの理念を持つ場合、結果的にはそれを受け止めれるだけの度量が必要になってくるはずなのですが、それが無いようなのです。

かつての混沌としていた時代の中にもあった幾つかの常識。それすらも今の世の中では笑いの対象となっていくようです。それらが全て壊れ去った時、日本は日本であり続けられるのでしょうか。新しい日本になるのか、消滅するのか。それはその時にならないとわからないのかもしれません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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