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2010年01月30日

今の科学、昔から見れば超能力【「NEEDLESS」(2009-2010年 ニードレス製作委員会)】

 さて、今回は2009~2010年に放送されました「NEEDLESS」です。



 西暦200X年
 第三次世界大戦勃発、東京を初めとする各都市が、爆撃の標的となり、紅蓮の業火に包まれた
 
 それから半世紀
 汚染されたかつての爆心地は、今、シティから隔離され、日本の夜景に黒い穴を作り出していた
 
 通称、ブラックスポット
 
 その、荒れ果てた大地にいつの間にか住み着く者が現れた。彼らを、シティの人々は不要者扱いした
 その中に、不思議な能力を操る者たちがいた
 
 火、風、重力
 超自然の力を操る能力、すなわちフラグメントを持つ彼ら
 人は、畏怖の念とともにこう呼んだ
 
 「NEEDLESS(ニードレス)」
 
 
 
 NEEDLESS…なんのこっちゃ?というのが放送開始時におけるしょっぱなの感想で、フラグメント?フラグ立ったがどうしたというのが、内容を見てのしょっぱなの感想。本当にボキャブラリーが足りないとこう言うことになるのだなぁと、最近の不勉強+勉強方法の安易さに、ちょっとへこみました。
 
さて、非常にテンポもよく、見ていて面白かった!とエクスクラメーションマークを、後もう一個つけても良いかなという作品でした。アニメオリジナルのまとまり方があり、原作が未読の自分としては、よし!完結した!と満腹感。最初からもう一度みたら、それはそれで面白い作品なんだろうなぁと思った次第です。
 
 
…と、感想は正直ここまで。
 
というのも、良くも悪くもドタバタ活劇であるからです。どこかで見たかもしれない。同じ様な状況があったかもしれない。
それを独自の設定で味付けした。マクド○ルドかロッテ○アか、はたまた○スであるのか。どれもハンバーガーという商品には変わりは無くても、それぞれに独自の味付けとこだわりがある。
 
そのこだわりが大事なのだろうと思うわけです。
 
模倣については幾度か記載しておりますが、そうした意味では、この作品が何かに見えていたとしても、それはそれ。これはこれ。
シティという設定もありますけど、そうした描写も一切なしで、その世界にあるだろう無数の物語の中の一つをうまくまとめたものだと感心するばかりです。
 
上にも記載しましたが、この話、原作はまだ続いているわけで、最後の方はアニメオリジナルとなっております。
その終わり方も、もし、二期があるのならば続けられそうな終わり方…言いかえれば、見ている視聴者がアニメの続編を模倣できるような状況であるのも、個人的には好感が持てるのです。
 
 
その他にも原作では残酷描写があっても、それをアニメでは柔和にしている。内容的に…まぁ子供に見せるのはどうか~とは思いますが、それでも、見せても…良くはないかw
何が言いたいのかと言えば、娯楽作品としては十分に考慮されていると思う次第なのです。娯楽がちょっとエロ方面に傾きつつもありましたが、それはそれです(こればっか)。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「超能力」と言う事で一つ。
 
その昔、テレビではスプーン曲げとか流行っていた時代があったのですが、今ではそうでもなくなった様子です。
今回レビューしているNEEDLESSにも、サイコキネシスというフラグメントがあります…が、他のフラグメントも超能力って言えばそうですよね。某バビル二世なんか、サイコキネシ~ス、テレパシィ~とか、火炎放射だ電撃だ~ってエンディングで歌っていますもの。
 
最近、手品でも超能力か!?なんて思うものもありまして、ネタとテクニックだけでも、それっぽい事が出来るものだなぁと思ってしまいます。
 
超能力を欲しいと思うのは、それでもいつの時代でもあるのではないのかと思うのです。
 
例えば、とある魔術の禁書目録や、そのスピンオフであるとある科学の超電磁砲は、能力の開発によって、超能力を得るという学問が登場します。これ、けっして荒唐無稽な話ではありません。
 
現状における脳科学は「行動における脳の働き」が主たるものです。ですが、その視点がいつ、逆転し、さらに深みに向かっていくのかなど誰にもわからないですし、何がきっかけになるのかもわからないのです。
 
私達は当然のように生きていますが、どうして生きているのかを明確に説明出来る人は誰もいないのです。
それが解明できれば、もしかすれば鋼の錬金術師のように、世界の有り様が理解でき、あのように何かを生成出来るかもしれません。
 
そうなれば、それは今の世の中からすれば、超能力以外の何物でもありません。
 
 
それは何とも無理な話だ…そうでしょうか。今の世の中に溢れている物は、数十年前では机上のものばかりだったのです。
 
すべては徐々に解明していく事から始まった事。これからも人は何かを解明し、何を作っていくのか。
それが人にも自然にもやさしいものであれば、より嬉しい限りですね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2010年01月30日

カットしすぎじゃなかろうか【「冥王計画ゼオライマー」(1988-1990年 AIC/東芝EMI)】

 さて、今回は1988~1990年に発売されました「冥王計画ゼオライマー」です。



 鉄甲龍
 
 ハウドラゴンの異名を持つ世界を掌握せんとするこの巨大な結社は、八卦衆と呼ばれる巨大ロボット軍団を造り上げた
 …が、その内の一体はある人物によって盗み出され、密かに日本に隠されていた
 
 その名は天のゼオライマー
 
 ゼオライマーが自分の操縦者と認める人物はたった二人だけの男女である
 
 秋津マサト
 氷室美久
 
 だが、ゼオライマーにはある恐るべきプロジェクトがプログラムされていた
 それは、自らを冥府の王とせんとする冥王計画であった。
 
 
 
 元々はレモンピープルという成年向け雑誌に連載されていたアダルトマンガでありました。が、このレモンピープル。今でこそ、ロリータ系マンガ雑誌の先駆けなどと言われておりますが、その実態は、意外にもそうではありません。
今回、レビューしている、ゼオライマーはOVA版で、原作マンガの設定だけを利用したもの。つまりは18禁設定は極力排除したものであります。
しかし当の原作であるマンガ版は、現在、月刊COMICリュウで連載している冥王計画ゼオライマーΩ…幻のサンライズ版とも言われる企画のマンガ版にも流用されている階級別ロボットの設定があったり、またスーパーロボット物のように、世界征服を狙った組織があったりと、男女がいて単にセックスをして終わりという最近の18禁物とは一線を画していた雑誌であったわけです。
 
言いかえれば、それだけを流用しただけでも、これほどの作品が作れるという指針を作ったとも言えるわけです。
 
そうした意味ではテレビ版ではないのだから、もう少しエロスを加えても問題がなかったのではないのか、と考えられない訳ではありません。
実際の世の中において、エロス(性)とタナトス(死)は表裏一体のものですし、私達もそれを避けては生を語れないわけです。何より、その生に関して、道徳や理念はあっても、正解はないというのは、歴史からみても当然の話なのですし、それを物語の根底に組みこむことによってリアリティがよりリアルに近づいていく。そこに、トンデモない設定があったとしても、世界観としてまとまりを見せてくるのではないのか。そう思えるのです。
 
 
一人の科学者によって強大な力を持とうとした物語。それは今の世の中に通じるものがあるのではないのでしょうか。
それが誰であるのか、とかは愚問なのでしょう。何故なら、その方の世界の大きさにもよるものだからです。
 
企業かもしれません、町内かもしれません、国であるのかもしれません、内輪であるのかもしれません。
 
ただ、そうした行動に伴う責任がなければ、このゼオライマーの物語のように、結局待っているのは破滅であるのは間違い無いわけです。
人が人として人に出来ること。その根底にあるのは情ではないのか。
 
であるのならば、それは昔から言われていた道徳に通じる話。進歩したと言われる世の中でも、その根底は変わらないのではないのかと思うわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「カット」と言う事で一つ。
 
ディレクターズカット。映画ではよく聞こえるコレですが、最近…と言いますか、今期の作品において、ここまでディレクターズカットを行って地上波放送する必要があるのか?と疑問を持つ作品が出てきました。
 
正直、個人的な意見としては、別にOVAでよろしいのでは?と思ってしまうわけです。
 
放送時間に対する尺が足りないという状況でカットするのは仕方がない話なのかもしれません。ですが、明らかにそうしたカット…ではなく変更を行う意味を教えてくれ!という作品が、いよいよ出て来たな!と感じてしまうわけです。
 
よく、DVD化される際におまけの映像が入っているものが当たり前になってきているわけですが、これは、DVDだからこそ出来るものであり、正直、良い傾向ではないなぁとは思っておりました。更に言えば、昨今の原作付きアニメであれば、その原作が更に売れることを見越した作品の売り方であれば、それで補完するのもありではないのか。あっちもこっちも、売上を…となると、買う側が追いつくはずがないのです。
 
しかも、最近のそうした映像媒体は、一年も放送しません。サイクルが早くなれば、それだけ番組数も多くなり、さらに投資額も増える。買う側が離脱していくだけなのは目に見えています。更に今の不況です。その速度は更に速くなるのでしょう。
 
これを世間のせいにするのならば、不況のせいにするのならば、それはそれで構いませんが、しかし、アマチュアで行われている…例えば同人誌即売会はその勢いを衰える気配は見せていません。
投資する側の力はそうそう落ちていないのです。
 
すると、記録媒体が優秀になったから。P2Pソフトのように無断でダウンロードが出来るようになったから。
色々と理由を探したくなる事でしょう。
 
 
ですが、一番の理由など、少なくとも原作付きに関しては変わっておりません。それは、原作を本当に読みこんでいるのかい?最後まで面白くするつもりがあるのかい?と言う事です。
 
消費されるなかで、ディレクターズカットなどという小手先の方法で売上をあげようとし、本当の意味での中身で勝負をしないのであれば、先細りはますます加速していくことでしょう。
本当の意味において、中身で勝負出来る作品を見たいものですが、しかし、それよりも売るだけの「商品」。しかも、ちら見せディレクターズカット作品が多くなりそうで、さてはて、という気分になりそうです。
 
 
…だからどうしても、古い作品を見てしまうのだが、それも、ある意味良くない傾向なんだよねぇ…。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2010年01月16日

医者にも患者にも経験は必要なのです【「空中ブランコ」(2009-2010年 空中ブランコ製作委員会)】

 さて、今回は2009~2010年に放送されました「空中ブランコ」です。



 空中ブランコのフライヤーである山下公平は、大技を繰り出すも最近は失敗続き。しかも、寝不足がたたり、海外から雇い入れた団員たちともうまくいかない。そんな日が続いていた。
 
サーカスの世話人から病院に行く様に進められた山下は、とある病院へと向かう。その病院は、伊良部総合病院。その神経科へと向かっていた。
 
その扉を開けると、甲高い声にぬいぐるみを着た中年の先生が座っている。伊良部一郎。それが彼の担当医であった。
問診もそこそこに、伊良部が看護婦である真由美に注射を要求。その太くて大きな注射によって、山下は睡眠障害がなくなったように見えた。
しかし、大技が何故か成功しない。
 
そこで、伊良部はビデオを撮る様に勧める。そのビデオに映っていたのは、意外な真実であった。
 
 
 
 ハイブリッド・アニメーション。実際に声を当てている役者さんも撮影し、そのスナップを加工し、アニメーションのように見せるという手間のかかる手法で表現されたもので、実に効果的な演出がなされたものだと思うわけです。
 
ただ、監督がインタビューで言っている様に、決して万人受けをするものではないのだろうとも思うのです。
 
考えるにその一つの理由としては、実際の役者の顔を使った事による、リアリティとリアルの境界が曖昧になってしまった事。それが単なる顔芸に見えてしまったのではないのかと思うのです。
 
もう一つは、役者…いえ、こちらの場合は声優さんと言った方が良いのでしょうか。その演技があまりにも素に近しく感じられたからではないのかと思うのです。
声優というのが一つの職業のように認識された昨今では、その声はあくまで何かの理想的なキャラクターの声でなければならない。そんな思いを持っている人が少なからずいるのではないのかとも思えるわけです。
 
逆にいえば、そうした考えがあるのだと仮定をした場合、それはキャラクターの向こう側にいる声優という実際の人が演技をしているという事実がよりわかる演出であったと受け止める事も出来るわけです。
 
彼らも舞台を経験するわけですが、そうした際に求められるのは、役者としての演技。それも声だけではなく、指先や視線、体さばきなどを駆使した演技であるわけです。そうした経験が、声の仕事における重要な要因となっている場合、今回のようなハイブリッド・アニメーションという形は、声優…というよりも、彼ら役者の度量を、視聴者に見せる事の出来る一種の舞台であると言えるのだと思うわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「医者」と言う事で一つ。
 
空中ブランコでは精神科医として伊良部一郎が出てきて、その破天荒振りを発揮しておりました。実際に精神科医ってあんな感じなのかといわれれば、別に精神科医ではなくても、破天荒な先生はいらっしゃるわけです。
 
とある地方病院…仮にO病院としておきましょうか。その整形外科の部長さんは、捻挫などをして外来にかかり、その先生であった日には、叫ぶ事になるのは必至です。
 
「こっちは痛くないよな…これも大丈夫だよな。んじゃ、これは?」
 
で、痛い方向や場所を的確に押さえたり、ひん曲げたり。その襲撃に思わず叫び声をあげると満足した様に。
 
「あぁ、やっぱりなぁ」
 
…まぁ、的確であると言えばそうなのでしょう。
 
破天荒という表現をしましたが、その実、意外と思われる行動の根底には、それまでの経験や培ってきた知識があるのだろうと思うのです。ニュースなどでとんでもない行動で患者をさらに困らせる医者もいるわけですが、それは本当に困ったちゃんな医者であって、決して破天荒な医者ではないわけなのです。
 
どの業界でもそうですが、変人と言われていても、その実しっかりと仕事をする人がいて、その人の業務を見ていると意外に無駄がないというのがわかるはずです。何故変人であるのか。それは、どうしてそれで仕事が出来ているのかと思わせるほどに洗練しているから…かもしれないわけです。
 
ただし、こうした変人…いや、達人になるためには、それ相応の時間が必要であり、また、経験も必要であるのは間違いありません。医者は特に、患者を多く診ることが必要であり、それだけ時間がかかるのは当然の話しなのでしょう。
 
今、医師不足である背景には、そうした医者を育てきれない世の中の状況があるように思えてならないわけです。
 
医者は政治が育てるわけではなく、患者が育てる様なものなのです。最先端な医学であっても、僻地の医療であってもそれは同じ。
医者要らずであれば、それに越した事はありませんが、結局それで済む人がいないのも事実なのでしょう。とすれば、かかりつけのお医者さんを得るためにどうすれば良いのか…と言う事も患者側として考える必要があるのかもしれません。
 
自分のことを良く知ってくれている、お医者様と薬剤師はいた方が良いのでしょうね。それが若いお医者様であるのならば、話して悩んで怒って笑って。そうして一緒に年をとっていくのも良いのではないのかと思うわけです。
そうした、成長の仕方もあるのではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2010年01月09日

進化する同時プレー【「マリオブラザーズ」(1983年 任天堂)】

 さて、今回は1983年に発売されました「マリオブラザーズ」です。



 軽快なBGMと共に横スクロールでカメたちを蹴散らしながら進んでいくアクションゲーム…それは、スーパーマリオブラザーズ。今回、ご紹介しているのは、スーパーのない、単なるマリオブラザーズです。
 
このゲーム、記憶が正しければ、最初はファミリーコンピュータ向けに製作されたものではなかったはずです。この1983年に発売というのは業務用(アーケード版)のものであり、画像はファミリーコンピュータ版のものですが、もっと動きも癖が強く、ファミコン版から入ってきた場合にはかない操作し辛かった印象があります。
 
ファミコンという稀代の家庭用ゲーム機の性能を見せるには十分なゲームであり、また、移植という分野を切り開いた作品のひとつでもあるわけです。
 
当然、これまでも移植というのは様々なパソコンの媒体では行われたきたものです。しかし、家庭用ゲーム機というのが、専用カセットもしくはカセットテープの媒体であった時代。基本的には、そのゲーム機用のゲームが出されるのが当然であった時代であり、業務用は業務用、家庭用は課程用と明確な住み分けをしていた時代でもあったわけです。
そう、業務用を遊びたければ、ゲームセンターに行きましょうというのが当たり前であったわけです。
 
所が、ファミコンはその常識を覆しました。
パソコンや業務用、その様々な環境で発売されているテレビゲームを、ファミコンで遊べるようにしましょうと宣伝を打ってきたわけです。今では当たり前のサードパーティのソフト会社。その門戸が開かれたからこそ、今のゲーム機業界があるのは間違いないわけです。
 
 
 
 さて、そんなマリオブラザーズなのですが、主役のマリオ、そして弟のルイージが配管工として登場するのは、実はこれが始めてなのです。それまでは大工であったり、単なるおじさんであったり。
ゲームのイメージが下水管から這い出て来るカメやハエやカニを退治するものですから、確かに配管工であるのが自然なのかもしれません。
 
マリオと言えば、今では様々なパワーアップアイテムが当然でありますが、このゲームにはそんなパワーアップアイテムは一切出てきません。アイテムとして使えるのは、中央付近にあるPOW床だけ。これを下から叩けば画面全体を叩いたのと同じ効果がありますが、それも三回まで。
数ステージで回復すると言っても、その間に使いきってしまえば、回復するためにはステージクリアするしかないのです。
 
また、二人同時プレイが出来るというのも特徴のひとつ。
通常であれば協力プレイが当然ですが、しかし、自然と相手を落とし入れるかのようなプレイになってしまうのも、このゲームの特徴なのかもしれません。そう考えれば、プレイヤーが遊びの幅を広げられるゲームであったと言えるのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「対戦」と言う事で一つ。
 
今では珍しくなくなった対戦プレイ。この当時は、こうしたひとつの画面で複数のプレイヤーが対戦する事自体が画期的なことであったわけです。パソコンゲームであれば、同時に数万人がプレーしているのも当然の世の中になりました。
 
対戦といえば、争うだけのイメージがあるわけですが、今では対戦プレーというよりも、同時プレーという名称である場合も多い様です。
そうした中から生まれるコミュニケーションもあるわけで、そうした意味では「すれちがい通信」というのも一緒の同時プレーと言えるのでしょう。
 
袖すり会うも多少の縁という言葉があるわけですが、実際の世の中で希薄になりつつある、その言葉も、ゲームの世界ではこれから主流になってくる様相があります。まさに、コミュニケーションツールとして、携帯電話に次ぐアイテムとなるのかもしれませんね。
 
…といいましても、結局は、袖すり会うも…のすり合うだけの状況であるのは間違いなく、そこから一歩進んだコミュニケーションツールとしての様相はまだまだのようです。
当然、人として相対するには、最終的に言葉を交わし、意思を疎通することが大事になってくるのは間違いないわけです。それを忘れて本当のコミュニケーションを取れることはないのでしょう。
 
きっかけとしての同時プレーから生まれるコミュニケーション。それが電気を通じているだけの希薄なものでないようにするにはどうすれば良いのか。それが新しいマーケティングを開拓するひとつの方向性であるように思えてならないのです。
 
冒険が生み出す人とのつながり。いつか、ゲームの世界からでも、そうしたコミュニケーションが広がっていくと面白いのではと思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2010年01月09日

今年は何に「はまり」ますかね【「みんなの農場、動物広場、水族館β」(2009年 RAKOO)】

 さて、今回は2009年に公開されました「みんなの農場、動物広場、水族館β」です。



 上記画像はみんなの農場ですが、これは、とあるSNSにて遊ぶ事ができる無料ゲームです。
それぞれやるべき事は単純で、草木や動物、魚の世話をし、収穫を得るというものです。

農場では、草木に水をやり、雑草や虫を除去し、出来るだけ多くの収穫を得る様にする。
動物広場は、牧草を植え、その牧草を食べてしまうウサギを捕まえ、そして出荷をさせる。
水族館は、病気を治したり、水槽を掃除したり、合成エサを与えて大きく育てて収穫する。
…と非常に簡単なものです。
 
それぞれにレベルがあり、そのレベルを超える事によって、更に育てる事が出来る種類を増やす事が出来ます。
 
実際に、生き物を育てるのとは大きく違いますが、それでも、やっていて何か気になるものなのです。
単純であるからこそのはまり度は、かなりのものではないのかと思ってしまいます。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「はまる」と言う事で一つ。
 
何かのスイッチが入った途端に、その事にはまると言うことはあります。新年になりますと、何かしらやりたくなるもので、それが続くか続かないか…いわゆる三日坊主となるかならないかは、案外、はまり具合によるのかもしれません。
 
今回、ご紹介したアプリも、気がつけば放置しているときがあり、そちらに構うと、別のものが放置となかなかバランスがとれにくいのが現状であったりします。
そこは、しかしながら、自己の節制が必要なのでしょう。
 
 
特にゲームにおける問題は社会問題としても取り上げられた国があるほどです。別にテレビゲームだけがそうではなく、カードにしてもスロットにしてもサイコロにしても、とかくゲームには、強くはまる要素があるようです。
 
最近の世の中では、案外、自分だけではないのだ…と性癖に関するものも紹介されるときがありますが…そこは隠して欲しい部分であるのは言うまでもありません。
曝け出す事で、理解される部分もあれば、理解されない部分もある。これは仕方がない話しなのかもしれないからです。
 
 
一方で、はまる度合いがうまく深まれば、そこに芸術性を見出す事も出来るようになるわけです。
 
鉄道写真などはその一例として挙げるのに十分ではないのでしょうか。
鉄の塊であるはずの鉄道が、一枚の写真によって、まるで生きているように切り取られる。それを見た、他の人にも感動を与えられるのであれば、それは芸術といって差し障りがありません。
 
ただ、それを職業にしてしまえば、それははまっているのではなく、仕事と割り切る必要が出てくるわけで…そこのバランスが難しいものですよね。
 
 
何か新しい事を始めたい。それは誰しも思うことでしょう。何かしら変化を求める心がそうした行動を起こさせようとしているのかもしれません。
その流れに乗るのも、また一つのきっかけでしょう。気がつけば、それを全うしているのか、それとも、そこから別の道を見つけているのか。
 
いずれにしても、そうしたきっかけ…区分として、新年というのは良いものなのかもしれません。
 
皆様が今年一年…いえ、今年から何かを始めるにあたり、それが良い結果になりますようにと、思う次第でございます。
 
 
もちろん、そこに悪い事をやろうとしているのであれば、それはすぐにでも止めるべきです。
自制をもって、楽しい事を見出していく。それもまた、想像と創造の成せる技。今年一年、良き年でありますように。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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