さて、今回は1983年に公開されました「劇場版クラッシャージョウ」です。

誰かから強襲されるトラック。しかし、そのトラックにも武装が施されており、高速カーチェイスの中で生死を分ける戦いが繰り広げられていた。何とか倉庫の中に逃げ込めたトラック。しかし、荷物をそれ以上運ぶことは出来そうにない。
荷物はトラックにある秘密の隠し扉の奥に隠されていた。
その荷物は人間であった。
恒星間飛行を開発した人類が、その先に求めた停留地…つまり惑星を地球環境に似た状態にするテラフォーミング。それを担っていた者たちは、後に犯罪以外の事柄であれば報酬によって請け負う仕事を始めた。
惑星開発の名残から彼らはクラッシャーと呼ばれる。
クラッシャーの地位向上のために遁走している名の知れた元クラッシャー・ダンには同じクラッシャー家業を営む息子がいた。その名をジョウという。
若いながらも名の知れた活躍を見せるジョウではあったが、しかし、クラッシャー評議会議長の父・ダンからは認めてもらえていないと思い、反感を募らせていた。
そんなジョウは、名門スコーラン家の執事からある依頼を受ける。それは荷物の宅配であった。
しかし、ミッコラへ向かう途中でジョウたちの宇宙船は操縦不能に陥ってしまう。その後、海賊の容疑をかけられクラッシャーの資格を停止されたジョウは、姿を消した執事が宇宙海賊の一員と知り、無法者が集う惑星ラゴールに乗り込むのだった。
劇場版アニメとして登場したクラッシャージョウ。1977年に最初の小説が文庫本として発売され、それから数年後に映画化されました。今のようなライトノベル化された何かの話の映画化ではなく、完全オリジナルの物語となっています。
後に、この映画を題材にした小説が発売されたのです。
本作の表紙や挿絵、キャラクターデザインなどでも知られる安彦良和さんの初監督作品で、しかも本作品が公開された年というのは、アニメ映画も大作が目白押しでもあったのです。
中でも、宇宙戦艦ヤマト 完結編、幻魔大戦は上映時期が重なり、興業戦争なんて言われたのだとか。
それぞれに有名な作品でありましたし、また、放映時間も現在と比べれば長かったので、はしごするには結構体力が必要であったはずです。
後にビデオ発売されるとしても、それも長い期間が必要でしたし、何よりその当時のビデオの値段は、高かったですからw とても、簡単に買えるものでもありません。
先ほども記載しましたように、これはオリジナルの物語ですから、当然、映画を見なければ話がわかるはずもないわけです。ですが、そうした中にあっても、キャラクターの有り様を変えないようにする努力はしっかりなされていたのではないのかと思うのです。
今では爆発の煙などもCG加工によって誰でも同じような煙が出せる・・・いえ、どの作品でもと言いなおした方が良いのかもしれません。しかし、本作品の時代ではそうしたエフェクトも技術として描けなければいけないわけです。
だからこそ、味わいがあるといえるのでしょう。そして、そうした技術がより貪欲に、本物がどうなっており、それを自身の手で表現するには…という気持ちにさせていたのではないのか、と思うわけです。
昔のアニメだから、今の作品と比べて…と思われる方は一度見ていただきたいと思う作品です。個人的には、今のレトルト感のあるアニメの作り方しか知らない若い人に、手作りの妙技を見てほしいのです。
と言う感じで思うところとしては「手作り」と言う事で一つ。
現在、セルアニメというのは、見られなくなってきました。人件費的にも、材料費的にも確かにその方が効率的であるとは思います。そして、企業である以上、利益を求めるのは当然でしょう。
しかし、それに対して、技術を求め続けていく姿勢はあって当然ではないのかとも思うわけです。
これは今の技術全般に言える話なのかもしれません。
とある放送の中に、様々な商品が出来るまで、というものがあります。その中では、商品が出来上がっていく工程を見せてくれるのですが、確かにその大半は機械がその役割を担っています。しかし、中にはどうしても機械では出来ない物もしくは工程があるわけです。
そうした中には、職人と呼ばれる方々の技術が、その商品を残していくのだと見せつけてくれるものもあるわけです。
こういう話があります。
スイスの時計職人といえば、現在では国がバックアップし、時計職人を育成しその技術を残していこうとしています。ですが、そうした背景には日本のデジタル時計(クォーツ時計)の台頭があったからなのだそうです。
安価で大量生産が可能なお手軽な時計。確かに、そうした時計もあっていいのだと思います。しかし、逆にいえば、せっかくこれまで培ってきた時計の技術が廃れてしまう可能性もあるという事になるわけです。
日本を見まわしてみれば一目瞭然。すでに廃れてしまい、文献からの復活を模索している技術もあるぐらいなのです。
日本のそうした技術は、日本の中でよりよく精査され研鑽されてきた歴史があるわけです。そうした歴史をうまく使い継承するためには、やはり国のバックアップは必要なのでしょう。
大企業ばかりに使われる公的資金。将来的に見て本当にそれが日本を潤す結果になるのかどうか。
それは成人年齢云々だけではなく、社会的に見せかけの学歴ばかりにとらわれてるままで良いのかを問われることになるのではないのかと思うばかりなのです。
そんなこんなで本日はここまで。

誰かから強襲されるトラック。しかし、そのトラックにも武装が施されており、高速カーチェイスの中で生死を分ける戦いが繰り広げられていた。何とか倉庫の中に逃げ込めたトラック。しかし、荷物をそれ以上運ぶことは出来そうにない。
荷物はトラックにある秘密の隠し扉の奥に隠されていた。
その荷物は人間であった。
恒星間飛行を開発した人類が、その先に求めた停留地…つまり惑星を地球環境に似た状態にするテラフォーミング。それを担っていた者たちは、後に犯罪以外の事柄であれば報酬によって請け負う仕事を始めた。
惑星開発の名残から彼らはクラッシャーと呼ばれる。
クラッシャーの地位向上のために遁走している名の知れた元クラッシャー・ダンには同じクラッシャー家業を営む息子がいた。その名をジョウという。
若いながらも名の知れた活躍を見せるジョウではあったが、しかし、クラッシャー評議会議長の父・ダンからは認めてもらえていないと思い、反感を募らせていた。
そんなジョウは、名門スコーラン家の執事からある依頼を受ける。それは荷物の宅配であった。
しかし、ミッコラへ向かう途中でジョウたちの宇宙船は操縦不能に陥ってしまう。その後、海賊の容疑をかけられクラッシャーの資格を停止されたジョウは、姿を消した執事が宇宙海賊の一員と知り、無法者が集う惑星ラゴールに乗り込むのだった。
劇場版アニメとして登場したクラッシャージョウ。1977年に最初の小説が文庫本として発売され、それから数年後に映画化されました。今のようなライトノベル化された何かの話の映画化ではなく、完全オリジナルの物語となっています。
後に、この映画を題材にした小説が発売されたのです。
本作の表紙や挿絵、キャラクターデザインなどでも知られる安彦良和さんの初監督作品で、しかも本作品が公開された年というのは、アニメ映画も大作が目白押しでもあったのです。
中でも、宇宙戦艦ヤマト 完結編、幻魔大戦は上映時期が重なり、興業戦争なんて言われたのだとか。
それぞれに有名な作品でありましたし、また、放映時間も現在と比べれば長かったので、はしごするには結構体力が必要であったはずです。
後にビデオ発売されるとしても、それも長い期間が必要でしたし、何よりその当時のビデオの値段は、高かったですからw とても、簡単に買えるものでもありません。
先ほども記載しましたように、これはオリジナルの物語ですから、当然、映画を見なければ話がわかるはずもないわけです。ですが、そうした中にあっても、キャラクターの有り様を変えないようにする努力はしっかりなされていたのではないのかと思うのです。
今では爆発の煙などもCG加工によって誰でも同じような煙が出せる・・・いえ、どの作品でもと言いなおした方が良いのかもしれません。しかし、本作品の時代ではそうしたエフェクトも技術として描けなければいけないわけです。
だからこそ、味わいがあるといえるのでしょう。そして、そうした技術がより貪欲に、本物がどうなっており、それを自身の手で表現するには…という気持ちにさせていたのではないのか、と思うわけです。
昔のアニメだから、今の作品と比べて…と思われる方は一度見ていただきたいと思う作品です。個人的には、今のレトルト感のあるアニメの作り方しか知らない若い人に、手作りの妙技を見てほしいのです。
と言う感じで思うところとしては「手作り」と言う事で一つ。
現在、セルアニメというのは、見られなくなってきました。人件費的にも、材料費的にも確かにその方が効率的であるとは思います。そして、企業である以上、利益を求めるのは当然でしょう。
しかし、それに対して、技術を求め続けていく姿勢はあって当然ではないのかとも思うわけです。
これは今の技術全般に言える話なのかもしれません。
とある放送の中に、様々な商品が出来るまで、というものがあります。その中では、商品が出来上がっていく工程を見せてくれるのですが、確かにその大半は機械がその役割を担っています。しかし、中にはどうしても機械では出来ない物もしくは工程があるわけです。
そうした中には、職人と呼ばれる方々の技術が、その商品を残していくのだと見せつけてくれるものもあるわけです。
こういう話があります。
スイスの時計職人といえば、現在では国がバックアップし、時計職人を育成しその技術を残していこうとしています。ですが、そうした背景には日本のデジタル時計(クォーツ時計)の台頭があったからなのだそうです。
安価で大量生産が可能なお手軽な時計。確かに、そうした時計もあっていいのだと思います。しかし、逆にいえば、せっかくこれまで培ってきた時計の技術が廃れてしまう可能性もあるという事になるわけです。
日本を見まわしてみれば一目瞭然。すでに廃れてしまい、文献からの復活を模索している技術もあるぐらいなのです。
日本のそうした技術は、日本の中でよりよく精査され研鑽されてきた歴史があるわけです。そうした歴史をうまく使い継承するためには、やはり国のバックアップは必要なのでしょう。
大企業ばかりに使われる公的資金。将来的に見て本当にそれが日本を潤す結果になるのかどうか。
それは成人年齢云々だけではなく、社会的に見せかけの学歴ばかりにとらわれてるままで良いのかを問われることになるのではないのかと思うばかりなのです。
そんなこんなで本日はここまで。






