TOP>2009年10年

2009年10月31日

手作りの大切さ【「劇場版クラッシャージョウ」(1983年 日本サンライズ)】

 さて、今回は1983年に公開されました「劇場版クラッシャージョウ」です。



 誰かから強襲されるトラック。しかし、そのトラックにも武装が施されており、高速カーチェイスの中で生死を分ける戦いが繰り広げられていた。何とか倉庫の中に逃げ込めたトラック。しかし、荷物をそれ以上運ぶことは出来そうにない。
荷物はトラックにある秘密の隠し扉の奥に隠されていた。
 
その荷物は人間であった。
 
恒星間飛行を開発した人類が、その先に求めた停留地…つまり惑星を地球環境に似た状態にするテラフォーミング。それを担っていた者たちは、後に犯罪以外の事柄であれば報酬によって請け負う仕事を始めた。
惑星開発の名残から彼らはクラッシャーと呼ばれる。
 
クラッシャーの地位向上のために遁走している名の知れた元クラッシャー・ダンには同じクラッシャー家業を営む息子がいた。その名をジョウという。
若いながらも名の知れた活躍を見せるジョウではあったが、しかし、クラッシャー評議会議長の父・ダンからは認めてもらえていないと思い、反感を募らせていた。
 
そんなジョウは、名門スコーラン家の執事からある依頼を受ける。それは荷物の宅配であった。
しかし、ミッコラへ向かう途中でジョウたちの宇宙船は操縦不能に陥ってしまう。その後、海賊の容疑をかけられクラッシャーの資格を停止されたジョウは、姿を消した執事が宇宙海賊の一員と知り、無法者が集う惑星ラゴールに乗り込むのだった。
 
 
 
 劇場版アニメとして登場したクラッシャージョウ。1977年に最初の小説が文庫本として発売され、それから数年後に映画化されました。今のようなライトノベル化された何かの話の映画化ではなく、完全オリジナルの物語となっています。
後に、この映画を題材にした小説が発売されたのです。
 
本作の表紙や挿絵、キャラクターデザインなどでも知られる安彦良和さんの初監督作品で、しかも本作品が公開された年というのは、アニメ映画も大作が目白押しでもあったのです。
 
中でも、宇宙戦艦ヤマト 完結編、幻魔大戦は上映時期が重なり、興業戦争なんて言われたのだとか。
 
それぞれに有名な作品でありましたし、また、放映時間も現在と比べれば長かったので、はしごするには結構体力が必要であったはずです。
後にビデオ発売されるとしても、それも長い期間が必要でしたし、何よりその当時のビデオの値段は、高かったですからw とても、簡単に買えるものでもありません。
 
先ほども記載しましたように、これはオリジナルの物語ですから、当然、映画を見なければ話がわかるはずもないわけです。ですが、そうした中にあっても、キャラクターの有り様を変えないようにする努力はしっかりなされていたのではないのかと思うのです。
 
今では爆発の煙などもCG加工によって誰でも同じような煙が出せる・・・いえ、どの作品でもと言いなおした方が良いのかもしれません。しかし、本作品の時代ではそうしたエフェクトも技術として描けなければいけないわけです。
だからこそ、味わいがあるといえるのでしょう。そして、そうした技術がより貪欲に、本物がどうなっており、それを自身の手で表現するには…という気持ちにさせていたのではないのか、と思うわけです。
 
昔のアニメだから、今の作品と比べて…と思われる方は一度見ていただきたいと思う作品です。個人的には、今のレトルト感のあるアニメの作り方しか知らない若い人に、手作りの妙技を見てほしいのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「手作り」と言う事で一つ。
 
現在、セルアニメというのは、見られなくなってきました。人件費的にも、材料費的にも確かにその方が効率的であるとは思います。そして、企業である以上、利益を求めるのは当然でしょう。
 
しかし、それに対して、技術を求め続けていく姿勢はあって当然ではないのかとも思うわけです。
これは今の技術全般に言える話なのかもしれません。
 
とある放送の中に、様々な商品が出来るまで、というものがあります。その中では、商品が出来上がっていく工程を見せてくれるのですが、確かにその大半は機械がその役割を担っています。しかし、中にはどうしても機械では出来ない物もしくは工程があるわけです。
そうした中には、職人と呼ばれる方々の技術が、その商品を残していくのだと見せつけてくれるものもあるわけです。
 
こういう話があります。
スイスの時計職人といえば、現在では国がバックアップし、時計職人を育成しその技術を残していこうとしています。ですが、そうした背景には日本のデジタル時計(クォーツ時計)の台頭があったからなのだそうです。
 
安価で大量生産が可能なお手軽な時計。確かに、そうした時計もあっていいのだと思います。しかし、逆にいえば、せっかくこれまで培ってきた時計の技術が廃れてしまう可能性もあるという事になるわけです。
 
日本を見まわしてみれば一目瞭然。すでに廃れてしまい、文献からの復活を模索している技術もあるぐらいなのです。
 
日本のそうした技術は、日本の中でよりよく精査され研鑽されてきた歴史があるわけです。そうした歴史をうまく使い継承するためには、やはり国のバックアップは必要なのでしょう。
 
大企業ばかりに使われる公的資金。将来的に見て本当にそれが日本を潤す結果になるのかどうか。
それは成人年齢云々だけではなく、社会的に見せかけの学歴ばかりにとらわれてるままで良いのかを問われることになるのではないのかと思うばかりなのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月24日

命の意味と有様【「鋼の錬金術師 FULLMEATL ALCHEMIST 特典映像「盲目の錬金術師」(2009年 鋼の錬金術師製作委員会)】

 さて、今回は2009年に発売されました鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST Blu-rayとDVD 第1巻映像特典の「盲目の錬金術師」です。



 鋼の錬金術師ことエドワード・エルリックとその弟のアルフォンス・エルリックは、旅の途中でとある屋敷に寄った。その屋敷にかかえられている錬金術師の噂を耳にしたからだ。
 
その家…ハンベルガング家に仕える錬金術師、ジュドウが、禁断とされている人体錬成を成功させたというのだ。
 
大きな門、その内側にハンベルガング家の屋敷はある。大きな門を二人の警備員が開門し、エド達を中に入れると再び閉めた。中庭を進んでいく。エドはその短い間に、何か敵意を感じていた。門番に庭師…何をしたのか、皆目検討もつかないが、忌み嫌われている様子であるのは理解できた。
 
気がつくと、屋敷の方から、この屋敷の主であろう奥方と、その横に執事に手をひかれた錬金術師がやってきた。彼こそ、ジュドウであり、噂の錬金術師であったのだ。
 
エドは挨拶もそこそこに話題を切り出した。人体錬成…その言葉に奥方とジュドウは驚きの表情を見せる。一緒にやってきた娘のロザリーをその場から離そうとするが、しかし、ロザリーはアルが気に入った様子。
結局、アルはロザリーと一緒に遊び、エドはジュドウと奥方と一緒に池の中央にある東屋へ向かった。
 
東屋でエドは噂ではなく、きっぱりと自分の言葉で質問した。人体錬成は成功したのかと。すると、ジュドウと奥方は笑って応える。エドは既にその成果を見ているのだと…。そう、ロザリーこそ、ジュドウが人体錬成した結果であるというのだ。
 
アルと遊んでいたロザリーは、アルの兜が外れ、中身がカラッポであるのを知る。しかし、その事にあまり驚きを見せないロザリーはアルをどこかに連れていこうとする。
そこには、ロザリーの秘密があるのだと言うのだが…。
 
 
 
 鋼の錬金術師 パーフェクトガイドブックという冊子に外伝という形で漫画掲載されたものを特典映像化したもので、内容的にはほぼ忠実に再現されています。
 
15分ほどの作品ですが、もう少し長めにして、TV用にしたとしても十分に話をして使えるように出来ています。と言いましても、今現在進んでいる個所に入れようもないんですけどね。1クール目中盤の辺りであれば、十分にインパクトのある一話として活用できた。それぐらいいに十分な出来であると言う事です。
 
この回では敵が出てくるわけでもなく、軍に関係するわけでもなく。あくまで身体を取り戻そうとしている兄弟の旅路、その物語の一つという描き方がされているわけですけど、これも鋼の錬金術師では有り得た作風であるのは間違いなく、思い出せば第一話、リオールの街は、まさにその様子に近しいものであったと思う訳です。
 
物語も最終に向かうにつれ、どうしても善悪の形骸化が起こり…といっても、その方が伝わりやすいわけですけど、アクション面が強くなってきた状況にあって、こうした物語が特典映像としてもアニメ化された事は個人的に嬉しいのです。
 
今、原作では最終話に向かい、アニメもそれに準拠する様子で進んでいるわけですが、その終わり方が同一であれアニメオリジナルで終わることになるとしても、敵を倒してハイ終わり…はやめて欲しいものだと思うわけです。
 
賢者の石が命であるとするのであれば、禁忌と真理は何を指すのか。その答えとは言わなくても、何か何処かを指し示し、訴えて欲しいのだと思うのです。
…決して万事めでたしでは終われるとは思いませんしね、この物語は。でも、何がめでたしなのかも、わからないのも事実。
 
完全調和ではないからこそ物語だと思うのですし、それが面白いのだと思うのですけどね。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「命」と言う事で一つ。
 
鋼の錬金術師では、複数の生きた人の命を使って賢者の石を錬成します。その命という対価を支払う事で等価交換の原則を無視したかのような錬成が出来るわけですけど、それは命の等価交換という価値からすれば、十分に価値のある結果という話なのでしょう。
 
人が死ぬと、約2グラムほど軽くなるのだそうです。これが、魂の重さなのだといわれるのですが、これは死ぬと人は魂が抜けると言われているからなのでしょう。
 
霊感があるという人が稀にいます。意外に身の回りでも、強弱はあるものの、気配を感じる、目に見えるという人がいるはずです。霊気というのは、命でも魂でもないそうです。
 
人や動物だけではなく、植物にも生体エネルギーというのがあるそうで、それをオーラと言うのだそうです。…
 
 
…と話して行きますときりがありません。霊気、魂、精気、命…カタカナ語も含めれば、もっと多くの言葉が出てくる事でしょう。
 
人は人…いえ、物質が成長していく過程を厳密に理解しているわけではなく、結果としてそのように成長していくのだと理解しているに過ぎないのです。その過程で栄養が必要で運動が必要で太陽が必要で酸素が必要で…しかし、同じようにたんぱく質などを組み込んだとして、その生命足り得るのかといえば、それは出来ない事なのだそうです。
 
簡単に言えば、人は人以外から人を作り上げるのは無理と言う事です。
 
その原因は命そのものにあると言われています。
命…言葉では知っているものの、それが何であるのかは理解できない。もし、こうした文章を打つ、運動をする、物を見る、話しをする、食事をとる、排泄をする…そのほかも含めた諸々が脳内の化学反応で説明できるのであれば、人は人を介さずに人を作り上げる事が出来る様になるのでしょう。
 
精子も卵子もいりません。化学物質だけで人足り得る何かを作り上げるのですから。
 
ただ、それが人であるのかどうかはわかりません。人という定義への問題にもなるのでしょう。何より、今の人類がそれを人として認めるのかも疑問です。
 
 
命とは何か。一つの答えとしてあるのは、生まれ生き、そして死ぬものである。それが命であると厳密に言えるのです。
 
宗教が生まれる以前より、それは厳格に遂行されていた事柄であり人の何たるかの根本である、まさに命題のようなものなのです。
今一度、命とは何かを、宗教や経済などから離れ考えてみるべきではないのかと思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月17日

躾と推し付け【「銀河鉄道999」(1978-1981年 フジテレビ/東映動画)】

 さて、今回は1978~1981年に放送されました「銀河鉄道999」です。



 地球。その時代、貧富の差は住居の隔離だけではなく、人として扱われるか否かにまでかかっていた。さらに、裕福な人々は老いも病気も知らない機械化人間となり、その日を楽しく暮らしていた。だが、その一方で貧しい人はその日の暮らしをするだけで精一杯。そんな生活をしている人の中に鉄郎もいた。
 
ある雪の日。鉄郎は母親と共に、銀河鉄道の汽笛を聞く。噂ではその銀河鉄道に乗車できれば無料で機械の身体を与えてくれる星にいけるのだという。
しかし、それに乗車するためには、莫大なお金が必要だ。鉄郎は一生懸命に働き、母と自分のパスポートを買う…そんな話をしているときに、馬のいななきを聞いた。
 
それは機械伯爵の人間狩りであるという。
 
その一発の銃弾が、鉄郎の母を撃ち抜く。鉄郎に隠れる様に言うと、母は息を引き取った…。そして鉄郎も、その場で意識を失ってしまう。
気がついたとき、鉄郎がいたのはとある小屋であった。
 
そこにいたのは、綺麗な女性、ただ一人であった。鉄郎にスープを渡した女性はメーテルと名乗った。さらにメーテルは銀河鉄道999に乗車できる無期限パスまで渡すと言う。その条件は自分も一緒に度へ同行すること。
 
しかし、鉄郎は母を殺した機械伯爵を倒してから、999に乗る決意をする。母の仇を討ち、地球へは戻らない覚悟で999に乗車した鉄郎。その旅路は始まったばかりであった。
 
 
 
 松本零次さんの原作を東映がアニメ化した本作品。実に113話(スペシャルと総集編は除く)が放映された長寿番組でした。ただ、言い方を変えれば、いつでも終着駅にたどり着けるという作品であったと言えるのかもしれません。
 
昨今では考えられないのでしょうが、113話…実に8クール分近くも放映された番組でそれだけ人気があったといえるわけです。打ち切りなどあり得なかった話なのでしょう。
むしろ、人気がなくなるのを待って、最終駅にたどり着くという形でも問題なかったわけです。
 
何かとげのあるような言い方をしていますが、それはこの作品ではなく、今の2クールほどで終わるのが当たり前になっているテレビ業界への嫌味と捉えてください。
良くも悪くも、作品をどのように活用するのかが明確に決められていた…いえ、その前に真剣に考えられていたのではないのかと思うわけです。最近の浪費するだけの状況に、それだけの力があるのでしょうか。
 
それだけ長寿番組となれば、それは記憶に残る作品になるわけです。
 
実際、今も何かしらの形態として復活しては話題を提供しています。実に二十年以上も月日が経っているというのに、それだけ記憶に残っているのが素晴らしいではありませんか。
 
鉄郎が様々な星で経験した物語…と捉えられる事が多いこの作品ですが、しかし、自分の記憶に残っているのは、999の車両での逸話になります。
一つはクレアの話、そしてもう一つは落ち葉の惑星での話です。
 
どちらも機械化した人と鉄郎との交流の話になりますが、何かのためにその命を投げ出す覚悟があったと思うわけです。機械化された身体だからこそ無茶が出来る…と言えなくもないのですが、それでも修理が不可能であれば、死が待っているという事に代わりはないわけで、そこに命とは人生とは、という疑問が出てくるわけです。
 
松本零次さんの作品では、生き様がテーマの根底にあるわけですが、人それぞれの生き様があるわけで、それを指摘するのは勇気のいることなのでしょう。
躾という言葉がありますが、その言葉を自分にとっての楽な解釈で認識しているようではいけないわけです。
 
最終話で親の歪んだ愛情が描かれている本作ですが、人を踏みにじってまでの幸せって、あってはならない。現実でもそれが理解できていない事件が多いですよねぇ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「躾」と言う事で一つ。
 
難しい話です。何を持って躾と言うのか…誰もが明確な答えを持っているわけではないのでしょうし、もし、明確な事絵をもっているとすれば、それは独り善がりになっている可能性もなくはないわけです。
 
ただ、明らかに言えるのは、自分以外に対して迷惑をかけているのは、躾がなっていないという事なのでしょう。
 
当然、その中には一過性のものは関係ありませんよ。失敗するのは人の常です。問題はそこから後の話。
失敗をし、どのように謝罪するのか。言葉であるのか、行動であるのか、それこそ時と場合によりけりなのでしょうけど、それが出来るか否か。それこそ躾がなっているかどうかの分かれ目であると思うわけです。
 
逆に、では何をしてもその後のフォローが出来ていれば良いのか…いいえ、そうではありません。当然、しては行けない事をするのはしつけのなっていない、いえ、躾以前の話なのです。
 
では迷惑とはなんでしょう。それは一つにマナーであるのは間違いない話です。
車に乗っていますと、車内からのポイ捨てを目にする事があります。これは躾がなっていない証拠です。電車内における通話や音漏れもそうなのでしょう。公共施設におけるゴミの投げ捨てや、場合によっては落書きなどもそうでしょう。
 
挙げればきりがありません。では、逆にどうしてそうするのかを考えてみると、「自分のため」と集約する事が出来るのかもしれません。
考えてみれば理不尽な暴力も暴力を振るう自分のためですし、オレオレ詐欺にしてみても、詐欺を行う自分のためです。
 
…ふと、考えてみるのですけど、そうなった背景には何があるのでしょうか。あるCMのフレーズがよぎります…「あなたのためなのよ」。
あぁ、躾と称してよく言われる言葉ですね。
 
つまり躾をする側が結局「自分のため」に相手を躾している。なるほど、それでは躾にならないのは当然。
 
躾は誰に対して何のために行うのか。決してその場を取り繕うためだけの話でもなく、自分が苦しむだけでもなく、一緒に楽しみあえるようにするための所作であると思うのですけどね。
 
そういう自分も躾の何たるかを考える必要はあるわけですけど…本当に難しい話です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月10日

いざと言う時に「生きる」という事は…【「東京マグニチュード8.0」(2009年 東京マグニチュード8.0製作委員会)】

 さて、今回は2009年に放映されました「東京マグニチュード8.0」です。



 東京はその日もぬける様な青空の下、誰もがいつもと同じように生活していた。
 
都内の私立女子中学校に通う小野沢未来は、能天気な弟のお守を言い渡される。共働きである両親は、土日も関係なく仕事に向かい、そのために、弟の面倒は姉が見るものと言われていたからだ。自分の思い通りにならない日常、不満は募るがそれを解消する術がない。
携帯電話に不満をぶつけるも、しかし、それでもいつもと同じように日々は進んでいく。
 
彼女の弟である悠貴は、お台場で実施しているロボット博に行きたがっていた。しかし、両親はいつものように未来に対し、悠貴を連れていく様に言い聞かせる。
 
2012年7月21日の土曜日。夏休み最初の日、未来と悠貴はロボット博に来ていた。目を輝かせる悠貴に対し、未来は不満げな表情をしつづけている。ロボット博を見終わり、ビルからでようとした時、悠貴がトイレに向かう。入り口で待つ未来は、周りの幸せそうな表情に比べて自分がそうではない事に不満を持っていた。
 
別に誰に送ろうとしたわけではない。単に不満を書いてしまいたかっただけだった。携帯電話に書いた文章…こんな世界、こわれちゃえばいいのに。…。
 
次の瞬間、鳥が騒ぎ、狂った様に飛び立つ。低いうねり声のような音が聞こえる。そして大地が跳ね上がった。
 
東京湾北部にてマグニチュード8.0規模の地震が発生。その時、東京は地獄の有り様となった…。
 
 
 
 2009年春の新番組であったこの作品、是非、多くの方に見ていただきたいものだと思うわけです。老若男女に関わらず、勧める事が出来る作品ではないのかと思うからです。
 
別に避難の仕方であったり、心構えと言った話ではなく、純粋に人の力ではどうにもならない天災という内容を、アニメでどのように描いているのかを見て欲しいわけです。
 
例えば、ドラマなどではこれまでも多く題材に上がっている天災物でありますし、映画やテレビスペシャルのような形ではアニメでも幾度も取り上げられたわけです。しかし、こうして連続物としてしっかり描かれたのは珍しいのではないのでしょうか。そうした意味でも、今、描かれる天災のドラマを見て欲しいという事なのです。
 
アニメでは実際に人や機材の使えない事が出来ます。
 
例えば、東京タワーの倒壊などその最たる描写ではないのでしょうか。現状、そうした事はあり得ないと言われています。言われていますが、そのあり得ない事にアニメの表現として行ってみる。それがどのようなものか。
また、避難場所における…特に遺体安置所の表現は、アニメの方が想像を刺激される分、よりリアルに近いリアリティ感があるのかもしれません。
 
この物語は一人の少女の視点から描かれているものです。その一人の少女でも、あれだけの物語があり、番組が終わったとしても、それは区切りにすらならないであろう現実がそこにはあるわけです。
 
地道な人のドラマがそこにあります。まるでアニメっぽい表現だ…と言われる部分があるのかもしれませんが、しかし、非日常になったその現場において、日常的ではないのは当然。だから、あのようなことが起こらないと誰が言いきれるのでしょうか。
 
事実は小説よりも奇なり…様々な天災が、皮肉な事に肥沃な大地を形成してきた日本において、そうした災害が決して対岸のことではないと言う事を理解するためにも、こうしたアニメがもっと出てきて欲しいものだと思うわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「天災は忘れた頃にやってくる」と言う事で一つ。
 
天災は忘れた頃にやってくる…と言いますが、最近ではどうなのでしょう。ネットにおける検索ワードとしてもかなり上位になっているのではないのかと思うわけです。
 
昔から地震、雷、火事、親父というのが…ま、最後はともかく、天災の代表格であったわけです。所が最近はいわゆる温暖化の関係で少し変わってきているようなのです。
 
例えば台風。
 
2009年における台風18号の被害は記憶に新しい事でしょう。それにともない、各地で突風や高潮、土砂崩れ、さらには竜巻の被害までも報告されているのですが、この18号台風。近年稀に見る勢力でありながら、コンパクトになっているものなのだそうです。
回転というのは、大きくなればそれだけゆっくりになるのですが、小さくなると速度が増すのだそうです。それだけ局所的に被害が現れる結果になるのだとか。確かに、この台風もそのような感じでした。
 
そして地震。
 
宮城内陸地震における、逆断層的なものは珍しいのだそうですが、それでもあれだけの被害が出ているわけで、断層の多い日本においては、注目するべき地震であったのは間違いありません。
東海地震が再び起こるとの話も聞いて久しいわけですけど、地震が多いからこそ、慢心している部分があるわけです。
食料や水など、生き残るための備えはしておく必要があるのでしょうね。それと、部屋の片付けw 案外、こうした地道な努力が大事なのだろうと思うわけです。
 
代表的なものを取り上げても、最近で言うところの「あり得ない」状況が起こっているのは、不思議な話です。
どこかの作品ではありませんが、「あり得ない、なんていう事はあり得ない」。臆病ではなく、勇気を持った最悪の想定は必要なのだろうと思うわけです。
 
それでも、命の危険…もしくは残念な結果が待っている事があるのかもしれません。
 
天災であるから仕方がないというのはおかしな話ですし、誰かを恨むのも筋違いなのは間違いないわけです。何故なら、こうして何もなければ問題ないわけなのですから。
厳しい様ですが、自分の事は自分で守る必要があるわけで、その上で協力しあえれば、より生還率が高くなるのではないのでしょうか。
 
そのときの悲しさや辛さを押さえる事は難しいのでしょう。でも、本当の意味の思いやりを普段から考え実践する。いざと言うときに、それが活きてくるのだろうと思うわけです。
 
残酷な話にも聞こえなくはありませんけどね…生きるって素晴らしくも残酷なことなのかもしれない、そんな事が頭をよぎりました。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年10月03日

魔法のような科学【「アスラクライン(第一期)」(2009年 洛高生徒会)】

 さて、今回は2009年に放送されました「アスラクライン(第一期)」です。



 その世界が自分にとっての「何」であり、自分は世界にとっての「何」であるのか。
 
幼馴染の自称守護霊、水無神操緒と共に一人暮しを始める事になった夏目智春は、兄である夏目直貴が暮らしていたという屋敷に引っ越してきたその日に、厄介ごとに巻き込まれることになった。
それは、兄から預かったトランクを渡しにきた、黒崎朱浬。そして、そのトランクを奪いに来た、嵩月奏にただでさえオンボロ屋敷をさらに壊され、更には命の危険にさらされてしまったからだ。
 
だが、そのトランクには「秘密」と「真実」が隠されている。それを手にした瞬間から、智春は否応無しに事象に巻き込まれていく事になる。
 
そのトランク「インストラクタ」は、機巧魔神=アスラ・マキーナを召還するシステムであり、その契約者である演奏者=ハンドラーには、同じ条件が必要であった。
それはアスラ・マキーナを動かすために必要な人の命、副葬処女=ベリアル・ドールがハンドラーの傍にいること。アスラ・マキーナの中に組み込まれたベリアル・ドールは、ハンドラーの傍に幽霊の様に付き添っている様になる。
 
智春にとっての操緒のように…そう、操緒もまたベリアル・ドールであり、智春はハンドラーであった。そのハンドラーとの契約によって召還されるアスラ・マキーナ。その名は黑鐵=クロガネ。
 
彼らは「知るはずのなかった」世界の「真実」と向かい合わなければならなくなる…。
 
 
 
 2009年秋の新番組として、この続きにあたる第二期が開始されましたアスラクライン。この作品もライトノベルが原作となっており、その原作も今もなお続いています。
当然の話ながら、その最後は原作とは異なった話で終わるのではないのかと思うわけです。
 
その話はともかく、正直に言いますとかなりツボな作品だなぁと思うわけです。
 
厳密に魔法という表現を成されているわけではないのですが、魔法と機械が混在する世界は私的には面白くて仕方がありません。アスラ・マキーナもそうですけど、操縦者が乗り込むわけではなく、でも、エネルギー源には人の命が必要という点も、贄的な要素が魔法的で機械っぽいのに、とワクワクしてしまうわけです。
 
こうした話は現実味がないといわれるかもしれません。しかし、今の技術を正確に述べられる人など、極一部です。そうした人たちの話を聞くと、結局はチンプンカンプン。それこそ、魔法の言葉をかけられているようなものです。
 
家電など良い例ではないのでしょうかね。便利と不便は表裏一体のような感じがしてならないのですけどね。
 
その話はまた後にするとしまして、アスラクラインの話は最近では珍しい、世界の命運が一目瞭然にわかる作風として書かれています。滅びと再生。絶望と希望。それは表裏一体であるのか、渾然一体であるのか。その見せ方が大変面白いのではないのでしょうか。
 
一巡目、二巡目と世界が巡っていく中で繰り広げられる人間模様は、かつてのスーパーロボット作品がリアルロボットに向かうにあたる転換期の作品に近しいものを感じます。
ただ、その中でメインとなるのは、あくまでロボットではなく人間。ここら辺は、やはりスポンサーになっている企業の違いからなのでしょう。あくまでロボット売るのではなく、作品…この場合は原作本とアニメのDVDでしょうかね…を売る作りになっているからこその話ではないのかと思うわけなのです。
 
…と、言いましても、そんな思惑は大人の都合に任せるとしまして、その都合に振り回されない様に、作品をしっかりまとめて欲しいものだと、第二期には期待するわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「魔法のような機械」と言う事で一つ。
 
iPhoneを始めとする、いわゆるスマートフォン、もしくはそれに類するケータイなどを、もし、過去に持って行けたとして、そこでも通話が可能であれば、それは妖術に思われるかもしれません。
全自動洗濯機や電気掃除機、炊飯器に到っては、三種の神器などと呼ばれた時代に持っていけば、腰を抜かす事でしょう。
車にしても、電気自動車…いえ、ハイブリッドカーでも驚くのではないのでしょうか。
 
そして、いずれにしても言える事は、それらがまるで魔法のような物と感じられるのではないのかと言う事です。
 
稀代のSF作家であるクラークは、自身のいう三法則にて…
 
 1.高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。
 2.可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。
 3.充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。
 
…と述べたと言います。確かに、今の科学分野…いえ、業界でも納得できる話ではないのでしょうか。その三つ目「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」というのは、特に合点の行くものであります。
 
前にも記載したことがありますが、パソコンのカメラによってあるマークを読み取らせ、そのマークに関連したCGを画面に表示するARToolKitというのも、ある種魔法のようなものです。
また、ホンダが先ほど発表したU3-Xという電気自動一輪車も、漫画やアニメの中ならばありえた乗り物が現実になってきました。
更には、アメリカが軌道エレベータを作る際に適した材質を発見したといわれています。これが実用化されれば、宇宙まで一気に、しかもこれまでとは比べ物にならない安価で宇宙へ人や物が運べるようになるわけです。
 
魔法は存在しない。これは世界の常識です。しかし、それは人が魔法の域にまで科学を発展させてはいない、理解していないからだという意見も少数ながら存在するのです。
 
水があります。今の物理学では、水は水であり、まずそうであるという認識が必要なのだそうです。水を水たらしめている要素は何か、どうして水素二つと酸素一つで水となるのかはわからないわけです。
それは、「・・・となりて」、そうあるからして、そうなる。人はまだ、無知にほど近い存在であり、そのわずかな隙間で右往左往しているのかもしれないわけです。もしかすれば、今はまだ超えられない一点だけが理解できずに、それを超えればゴールに到達するのかもしれませんけどね。それは突破して始めて体験できることなのでしょう。
 
もし、それが突破できれば、人はまさに魔法を使う事が出来るかもしれないのです。理屈によって構築されるのが科学であるのなとして、そこに人の欲求と要求を加味すれば、近いうちに更なる魔法が使えるようになるのかもしれないのです。
 
…とすれば、魔法は決して遠くにあるものではなく、傍に見えないまま、寄り添っているのかもしれませんね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

【広告】

サイト内検索

メンバー紹介

このサイトに自分のブログを載せたい!
(ブログの登録は無料です。)


ninja tool counter

>

※2009年4月19日 19:00より開始

ninja tool access