TOP>2009年09年

2009年09月26日

戒めとなるべき交代【「まんが日本昔ばなし」(1975-2003年 毎日放送/愛企画センター)】

 さて、今回は1975~2003年に放送されました「まんが日本昔ばなし」です。



 日本各地に存在する民話や寓話、御伽噺といった伝えられている話を特徴のある絵で表現。そして、独特の語り口で知られる市原悦子さんと常田富士男さんの二人だけで全ての登場キャラクターを演じられているのも、その特徴の一つであります。
 
ぼうや~よい子だねんねしな♪…で始まるオープニングは有名過ぎるほど。その時々の子供たちによって様々な替え歌が作られたのも懐かしい思い出ではないのでしょうか。
 
日本における民話や寓話などは、同じようなものが多いわけですが、しかし、そのどれもが、その地方独特のニュアンス…味付けと言った方が言いのでしょう。そうしたスパイスが加えられているわけです。
それは方言であり、また、その地方独自の慣習であったりと、様々なのですが、通じて同じなのは、それが人の心根を推し量るドラマであると言う事なのです。
 
生前、嘘ばかりを言っていると、死んだ後に地獄で舌を抜かれる。雷様が近づいてきたら、おへそを隠さないと行けない。
 
これらは決して笑い話などではなく、死んだ後まで苦しみたくはないだろう?だから誠実に生きろという事と、雷が近づくという事は、雨が降る可能性が高いと言う事。現在のように機密性の高い言えであっても、急激な温度変化でお腹を壊す人が出てくるわけです。その腹痛が、まるで誰かにへその辺りでもいじられたかのようだ…というわけで、はたた神=雷様におへそを取られたと言う事で戒めをかけたわけなのです。
 
伝説なども多く取り上げた中には、悲しい話も多くあるわけですが、それも伝え聞く人がいなくなれば、廃れていくもの。言いかえれば、先ほどの戒めも含めて、なくなっていく事になるとも言えるわけです。
 
 
 
 そんなこの作品が放映されたのは、1975年1月。今で言うテレビ朝日系列で二ヶ月ほど放送していたようです。その後、1976年1月より、TBS系にての放送なので、上記の期日には空白が含まれると言う事になります。
 
その記念するべき第一回放送における題材は「こぶとり爺さん」に「笠地蔵」。どちらも有名な話です。そして最後に放送されたのは、1995年の4月におけるスペシャル放送の「里のかたりべ・むかしばなし」。それ以降は、それまでの再放送が流れたと言う事になるそうです。
 
放送が終わってしまった理由は、有体に言えば時代の流れ。視聴率が稼ぐ事が出来なくなった、というのが一般的な理由かもしれません。ただ、同時にそれまでの多くのキャラを担当してきた市原さんと常田さんがご高齢になったというのもそうではないのか。と個人的には思っています。
 
それでも長く続いて欲しい。また、放送してほしいという声が、今尚スタッフサイドには届いているのだとか。
 
長く続いているという事、そして、寓話という観点から公共広告機構のCMも同じスタッフとキャストで作られたのも有名な話ではないのでしょうか。「ツンツン娘」「もったいないお化け」「おてつだい狸」「ごめん鐘」の名前を聞くと、思い出す方も多いと思います。
公共広告機構からすれば、こうした寓話的なCMによって、あまり言われなくなった事を子供に、そしてそれを見ている大人達にも警鐘を鳴らしているのではないのかと思えるわけです。
 
こうした作品がこれからも続いてくれる事が大事な事であると思うのは、古い考え方なのでしょうかね。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「戒め」と言う事で一つ。
 
最近、世間をにぎわせている政府関係ですけど、結構乱暴な言葉が見て取れる気がするのは、私だけなのでしょうか。ダム問題もそうですし、沖縄の埋め立て問題、米軍基地移転問題もそうです。
一概に彼らのマニフェストに沿わせるだけの政治を期待して良いのでしょうか。
 
彼らが4年後に政権を維持する。その前に、何時までも現総理で政権が続くと誰が言いきれるのでしょうか。彼らも所詮は大半が野党になった自民党の出身。その昔のことを忘れて、何を戒めにするつもりなんでしょうかね。
 
結果的に、そうした問題を置き去り、もしくは店晒しにしたままで何を進めていくというのでしょうか。
 
有体に申し輪げれば、大半の国民にとって政治家は政治家でしかなく、政府は政府でしかない。勝手に論争を繰り広げるのも結構なのですけど、その根本を忘れている様では、信任を得られるはずがない。それでも政治家になれているのは、現在の政治家自身が行っている保身政策でしかない…そう思われていると何故感じられないのでしょうか。
 
こうした危機感があれば、もっと進展するべき事もあるのでしょうし、何より、票のための政治ではなくなるのではないのでしょうか。それは聖人君子の如き話であり、到底理解できるものではない…と仰るのかもしれません。
そんな事はわかっています。わかっているからこそ、指摘するのです。
 
私は後援会なるものは不必要であると思っています。政治家が己の信念にて行動を起こすのに、必要なものは人そのものではなく、人からの信頼であると思っているからです。
当然、それは一部の人が盲信的なまでの行動によって支えられて良いものではないと言う事でもあるのです。
 
そろそろ本音を言うべきでしょう。政権交代など意味はない。政治家の性根を叩きなおす事が必要なのだと。
 
政治家たちにおける格差、それは私達の生活における格差と何ら代わりがありません。一部の政治家のために、他の政治家が利用されている…何とかチルドレン、何とかガール。そんな状況が堂々と繰り広げられている中で、日本の格差をどうにかできるものでしょうか。
 
そうした事が戒めとして理解され、その対策が実行されてからが、本当の意味での政権交代になるのでは…そう思えてならないわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年09月19日

ところ変えても、変えちゃ行けないものもある【「ミスター味ッ子」(1987-1989年 テレビ東京/サンライズ)】

 さて、今回は1987~1989年に放送されました「ミスター味っ子」です。



 今は亡き父の残した食堂。その名も日之出食堂を支える少年、味吉陽一は、ある日、高級レストランを視察しにきていた老人の来店により味勝負を行う事になる。だが、その老人を特製日之出カツ丼でうまい!と言わせると、名刺を一枚残していった。
その名刺に書かれていた名前は村田源二郎…日本料理界のドンと言われている味皇であった。
 
味皇から名刺を貰ったという事は、その料理を認められたという事。そして、その腕は数々の味勝負でライバルと対峙していく事になる。
 
料理の事では、頑固なまでに一途な味っ子の魅力にひかれて行くライバル達との成長によって、陽一は料理の腕をさらに磨いていく。
 
 
 
 さて、原作は漫画で表現も比較的…ま、あくまでこのアニメに比べればという事ですけど、大人しめなのです。そう、このアニメに比べればという事なのですけど…。
 
この作品の監督は原作クラッシャーこと、今川泰宏氏です。
 
そのクラッシュ振りは…人を人間ではなく蛸や魚にする。大阪城を破壊する。最終回を変更する。味将軍グループとの対決を明確化する…と言ったもの。しかし、これが面白いのです。本当に見ごたえがある作品になっています。
 
一応、味勝負の内容はほぼ変わらないのですけど、漫画で出来なくてアニメで出来ることがあります。それは透過光の表現です。
 
料理が光る、人が光る。それだけではなく、更に人が大きくなる海を走る…まぁ、やるだけのことをやってくれました。
 
でも、そうした派手な表現だけではなく、実に人の物語を作り上げて行ってくれた作品でもあるのです。特に最終回は陽一が何故料理を作るのか。その答えを見つける物語になっているわけです。
その答えまでに経験する様々な問題。それに対して、陽一はどう答えをだすのか。
 
本当に力の入った最終回は見ごたえたっぷり。まさに、次回紹介における「おいしいよっ!」という表現ぴったりのものでした。
 
先ほども記載しましたが、最終回はアニメオリジナルのものでした。しかし、それはそれで全く問題がなかった作品ではないのかと思うわけです。
その理由は現素クラッシャーであるから、という話ではなく、原作は原作で、寺沢大介氏のその後の作品に影響があるだろう作風に仕上がっているからです。それをアニメで表現するのが適当であったのか。私はそうではないと思うわけです。
 
漫画や小説は決してアニメ化するに当たり、その素材ではない。しかし、アニメ化するに当たって忘れては行けないのは、決して原作に臆する事なく、アニメならではの表現を探索し、研究し、研鑚していく。その事が大切ではないのかと、この作品で感じたのです。
 
原作付き作品の多い昨今ですが、その原作にとことんまで向き合ったアニメ作品・ドラマ作品がどれだけあるのか。その事をもう一度、考えて欲しいものだと思うわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「ところ変われば」と言う事で一つ。
 
このサイトでも何回も記載している、アニメと漫画、小説、映画、ゲームといった、原作があって別媒体にて表現することになった作品のお話。今回のミスター味っ子は、一つのいい答えを持っている作品であると思うわけです。
 
こうしたところ変わればという事で、今、一番世間の注目を集めているといえば、やはり政権交代における新政権ではないのでしょうか。
 
…と言いましても、良く見ていただければおわかりになるかもしれません。政権交代といいながらも、その中身は元々、自民党に関連している人の多い事。本当の意味で二大政党政治が行える様になるのかは、これからという話になるわけです。
 
当然そうなりますと、私達の生活が大幅に変わる事。これは選挙前からわかっていた話ではないのかという事がちらほら聞き及んでくる
わけです。
そもそも、最近の世論を聞いておりますと、出すのはイヤだが保証は欲しいという、なんてわがまま振りを発揮しているのかと思うしかない状況です。マスコミの情報操作がなければ、何という事なのだろうと苦笑するしかないわけです。
 
日本は資源小国であり、また自給率も低い国です。それでも、圧倒的にサラリーマンが多く、それは消費でしか国を支えられないという事を示しています。つまり、作る人が圧倒的に少ない現状があるわけです。
その一番の原因は、やはり学歴社会である事が挙げられるのでしょう。
 
大学に入れる人数はきまっており、すべての人が大学に入る事は出来ません。もちろん、年齢に関係ないとすればそうでもないのでしょうけど、それで社会が正当に受け入れてくれるのかそれは甚だ疑問です。
また大学に入る事、これがステータスになっており、卒業する事はあまり念頭に置かれていないのも現状です。
 
大学など学びたい人がいれば受け入れ、その中で切磋琢磨させる方式が良いに決まっているのですけどね。つまり、卒業を難しくさせるのが一番なのです。
また、中学卒業すれば高校は行くも行かないも自由なのですから、そうした支援を国が行う方がよっぽど日本にとっては建設的なのです。
 
それこそ、人材不足である伝統工芸に人材を回し、それを世界にアピールする支援を地方と国が合同で行う。その支援を大企業などと同じぐらい手厚くする事が日本の産業を復活させる足がかりになると思うわけです。
 
日本人が器用であったのは、一昔前の話。もう、今の勉強だけに邁進する日本人に、それが維持できるのか、それを国には正視していただきたいと思うわけです。
日本の良さは日本の伝統工芸がしっかりと続いていく。それを忘れて日本の再生などありえないのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年09月12日

企業の配慮が足りないと考える【「聖闘士星矢」(1986-1989年 テレビ朝日/東映動画)】

 さて、今回は1986~1989年に放映されました「聖闘士星矢」です。



 地上に邪悪がはびこる時、必ず現れるという希望の闘士、聖闘士(セイント)。
 
日本にあるグラード財団の総帥、城戸光政によって集められた孤児は、それぞれ世界に点在する聖闘士の修行場へと向かわされた。それは聖闘士の証である聖衣(クロス)を日本に持ちかえり、聖闘士同士の祭典「ギャラクシーウォーズ」を開催させるためであった。
 
だが、それは建前。その目的は城戸光政がある聖闘士より託された赤子、孫として育てている城戸沙織を、そして、赤子を託した聖闘士の黄金に輝く聖衣=黄金聖衣(ゴールドクロス)を悪の手から守るために考え出されたものであった。
 
しかし、それを知っているのは、一握りの者だけ。送り込まれる孤児たちはそれを知る事はなかった。
 
その孤児の一人、星矢は、行方不明の姉の情報と交換に天馬星座(ペガサス)の聖衣を持ちかえることを約束。その約束を無事に果たし、日本に戻ってきたのだった。
だがしかし、そこに不穏な影が…今、聖闘士としての使命が果たされるべき時に、星矢は、そして他の同じような聖衣を獲得した孤児たちはどうするのか…。
 
 
 
 …と上記のように書いてみるとまるで別の話の様ですね。ある程度、ネタばれを知っているからこその書き方であるのは承知の上ですし、それを狙って書いたわけですけど…うん。受け取り手の受け止め方が違うんだなぁとつくづく思います。
 
本当にブームになりました聖闘士星矢。今でも、その勢いは続いていますね。
 
玩具では聖闘士聖衣神話(セイントクロクマイス)シリーズ。そして、雑誌と描き手を変えての前聖戦の話。OVAにおける冥界編の話。未だに、これだけの作品が作られることがスゴイのだな…と思う反面。その反響の仕方があれ?と思うところがあります。
 
そんなわけで、今回は早々に…という感じで思うところとして…へと移りたいと思います。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「CV」と言う事で一つ。
 
CVとは、キャラクターボイスつまりは登場キャラクターに当てられた…配役された役者さんたちの事です。わかりやすく言えば、声優さんで良いのでしょうか。
 
この声優さん。いろいろと問題を波及させているのは、ネットでも知られている事でしょう。ですが、私的には、その問題。正直、何を言っているのだろうと思う次第なのです。
 
最初に言っておきますが、特にこの聖闘士星矢のOVAに関して、声優問題と騒がれた一番の原因は、東映アニメーションの担当者にあります。そう、どうして冥界編からOVAを始めてしまったのでしょうか?
 
…一部混乱するかもしれませんけど、私は冥界編における声優一新には、何も反対するべき余地はないと考えております。
 
理由として一つ挙げるのならば、オリジナルキャストでは無理だからというのが理由です。
 
一つに年齢的問題。これは十何年経過するまで、理由遺憾を問わずに手をつけなかった東映側の落ち度です。当時、冥界編は原作でも行われていたものでした。言いかえれば、そこまでは少しの間を空ければ出来たかも知れない話であったものを、ここまで放置した。その間に役者さんたちの声質も変わっていくわけですし、連続した物としてみせるためには、間が開き過ぎではないのかという事。
 
もう一つはやはり時間という観点からになりますが、亡くなられてしまった役者さんがいるという事です。しかも、重要ポストのキャラクターに関して。
 
この二つの理由で不可能にしてしまった責任は、先ほども記載しましたが、東映アニメーション側にあると言うのは明白な話なのです。
集英社云々、原作者云々の話ではなく、アニメ媒体であれば東映アニメーションが音頭を取っても良いのですから、そこは東映アニメーションに対して、勝手に推しつけちゃいますよw
 
とすれば、新しい役者さんでもう一度、作品を…という気持ちも当然の事になると思います。昨今の声優ブームからすれば当然の話でしょう。
しかし、ここでも大きなミスをしでかしました。
 
冥界編より先は基本6話をパッケージとして進んでいく形になったのです。TVシリーズではありません。
TVシリーズではなかったのが問題なのではなく、そうしたパッケージ的発売をするのならば、新しい役者さんで何故、一からやらなかったのか、という事。これが大失敗な部分なのです。
 
銀河戦争編から十二宮編(これは前後編…つまり12話でも良いと思いますけど)、ポセイドン編までOVAで同じように、新しい星矢を見せてから、冥界編をやる。そうすれば、あくまで1986年からやっていた星矢とは一線を画すことが出来たはずなのです。
 
そう、一度明確に辞めて放置していたのですから、ここはリセットするのが当然であったのです。それを出来ないもしくはしなかった東映アニメーションの判断ミスが、原作者も巻き込んでの騒動に発展した原因ではないのかと考えているわけです。
 
会社は変わりますが、今度、ガンダムの新作がOVAとして発売されます。その際、星矢で紫龍を演じてらした鈴置氏のキャラが登場するはずなのですが、そこに配役される役者さんにも、こうした影響が起こるのではないのかと心配でならないのです。
ガンダムといえば、Zガンダムの映画版でも企業の事情というか大人の事情というか、そのような配役の問題が出ていました。これは星矢とは毛色の違う問題ではありますが、しかし「これぐらい良いだろう」という感じが見え隠れして仕方がありません。
 
舞台役者に熱狂的なファンがあるように、声の役者さんにも同じようにファンがいる。その意見だけを聞くのは危険ですけど、しかし、起用した役者さんに変な影響がないように油断なく邁進する必要が企業側にはあると思えて仕方がないわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年09月05日

ロボットの動物【「デュエルナイツ外伝 メタルウォーリアーズ」(2009年 カバヤ/ボークス 造形村)】

 さて、今回は2009年に発売されました「デュエルナイツ外伝 メタルウォーリアーズ」です。



 ブルー達親子とカイザーカオスの戦いから300年・・・。遠く離れた惑星「メタルス」では、かつて他の惑星から伝えられた、様々な組み替えが可能なロボットシステム「ナイトシステム」が独自の発展を遂げ、人工知能を内蔵し自らの意思を持つ、動物型ロボット「メタルモンスター」が開発されていた。やがて、それらを操り、また人型ロボット「メタルウォリアー」に合体させて戦わせる者たちが現れ、その競技「メタルデュエル」が盛んに行われていた。
 
そしてついに、世界大会「メタルデュエルワールドグランプリ」の幕が切って落とされた。
 
 
 
 物語の設定としては、前作より一気に300年が経過。ここで前作までのデュエルナイツの流れは切れたと言っても過言ではありません。しかし、「それぞれに分けられる部位を合体させる」というコンセプトは継承され、更に面白みを増したように思えます。
 
今回発売されたのは4種。メタルヘラクレス、メタルイカロス、メタルドラグーン、メタルプテラグーン。
 
ですが、これら4種、実は2種にまとめる事が出来るのです。
メタルヘラクレスとイカロス、そして、メタルドラグーンとプテラグーン。もう少し、内容を詳しく記載しますと…
 
 メタルヘラクレス=メタルイーグル(銀)+メタルライオン(赤)+メタルコブラ(銀)
 メタルイカロス=メタルフェニックス(赤)+メタルタイガー(銀)+メタルコブラ(赤)
 メタルドラグーン=メタルバット(青)+メタルティラノザウルス(金)+メタルアノマロカリウス(青)
 メタルプテラグーン=メタルプテラノドン(金)+メタルスピノザウルス(青)+メタルアノマロカリウス(金)
 
…となっております。はた、と気づかれた方もいらっしゃるかもしれませんが、例えばイーグルフニックス、ライオンとタイガーのように、2種にまとめたパターンで見ますと、これらは色違いの同種と見る事が出来るわけです。
もちろん、少し造形は変化させています。しかし、合体のパターンで言えば、まったくの同じ。言い方を換えれば、合体において流用が可能という事になるわけです。
 
三種の動物が合体しロボットになる。考えてみれば昔、そうしたロボットアニメがありましたね。小学生が戦う熱血ロボットアニメでw
あちらはある程度、違和感のないようにまとめていたわけですけど、このラインナップの中で驚くのは、やはりアノマロカリウスですかね。ある意味メジャーである意味マイナーな古代生物と良く持ってきたなとw誉め言葉ですよ、当然。
 
各アニマルには既存の合体用だけではなく、他にも接合できるための穴が用意されていますので、全種合体し巨大なロボットを作る事も不可能ではないはず。ただ、これまでのデュエルナイツと同様に、保持力に問題があるパーツも見受けられるので、実際に合体させた場合には支えるためのスタンドが必要になるのかもしれません。
 
今回のデュエルナイツでは、稼動用関節パーツが8つ付属になっています。これによってより稼動域が広がり、表情をつけやすくなったのですが…股関節用には付属していないので、足を踏ん張るポーズが出来ないというのが残念でなりません。
それでも、格段に進化したデュエルナイツシリーズ。今後とも期待が出来る玩具菓子であるのは間違いありません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「動物ロボット」と言う事で一つ。
 
その昔、いわゆるスーパーロボットがアニメの大半であった頃、動物が合体前のロボットであった場合が多かったと記憶しています。
例えば、ダルタニアスはベラリオンがライオンでしたし、ゴライオンに至っては五体すべてがライオンでした。
先ほど、小学生~という話をしましたが、エルドランシリーズもそうでした。ライジンオーでは、鳥とライオン、ガンバルガーでは、虎に鳥に象、ゴウザウラーでは恐竜が出てきたわけです。
 
こうした動物ロボット。アニメの世界では、ガシガシと動いているわけですが、現実の世界ではどうなのでしょう。
 
実は、こうした動きは現状にある機械にも結構取り入れられているものなのです。機械…というよりも機器と言った方が良いのかもしれません。
 
例えば蟹。そう、蟹といえばはさみですけど、文字通り、人の生活になくてはならない、はさみは蟹のはさみそのものです。はさむという物の根底にあるのは、案外、蟹なのかもしれません。
一気に大きくなって飛行機の翼などは鳥の翼が基になっていますよね。羽ばたく事は出来ませんので、その推進力をエンジンに頼ってはいるものの、羽が生み出す揚力によって機体が持ちあがるのは鳥も飛行機も代わりがありません。
 
逆にイルカやシャチ、クジラといった海洋哺乳類の動きを取りこもうとしている船があります。これまでのスクリューによる推進ではなく、上下にフィンを動かして推進力を生む。これによって、海洋に漂う藻などの海草による航行妨害が解消されると期待されている技術です。
 
アメリカでは犬…というか四足歩行の安定性を利用した重量のある銃器を運ぶロボットを開発しているのだとか。
利用目的の云々はさておき、これも動物から模倣したロボットであるのは間違いありません。
 
人も、もともとは四足歩行であったというのは、これまでの研究でわかってきていることです。
しかし、人が二足歩行になった原因…つまり道具を利用することを覚えた結果、もともと備わっていた身体機能が退化し、その代わりに道具を発展させてきたという歴史があるそうです。
 
考えてみれば、人にある爪や歯というのは、衣食住における食…つまり狩りには適応していません。そのために弓矢を持ち、銃を持ち、刃を使い、罠を使って、人は狩りをする。今では養殖を行い、安定した食料の提供が行えるまでになりました。余計に狩りのための牙や爪はいりませんね。
つまり、動物を模したロボット、もしくは機器というのは、人間が放棄してきた能力…言い換えればもしくは獲得できたかもしれない能力を補完するために研究開発していると言えることも出来るわけなのです。
 
一方で人は動物ロボットに癒しを求めています。
 
主に老人ホームで愛玩用として使われているパロはその代表ではないのでしょうか。
パロはメンタルコミットロボット…セラピー効果のあるアザラシ型ロボットで、なでたり話し掛けたりすると反応を返してくれるロボットです。こうした反応は接触する人の感情を刺激し、パロに話し掛けたり、またあやしたりと活発な行動を促す効果があると聞いています。
 
本物の動物と異なり、食事に排泄、何より抜け毛におけるアレルギー症状を、まず心配する事がないという所から、ますます活躍が期待されている動物ロボットであると言えるわけです。
 
しかし、その動物ロボットもそうなのですが、一つ…あえて挙げる問題があるとすればそれは命のことです。
 
命を与えられたすべての性物には寿命があるわけです。生まれたからには死というのは避けられない運命です。ですから、その命をいとおしむ事が出来る。死の悲しみを感じる事が出来るわけです。
昨今、ゲームにおける育成ジャンルにおいて、生命が軽んじられる問題が指摘されていますが、それは媒体の問題ではなく、世界そのものが生命を軽んじているからではないのかと思うわけです。
 
命をいとおしむ事、それは育むことでもあります。大切に扱う事、それは生き物だけではなく、道具に、そして自然にも通じる大切なこと。それを私達は少し忘れているのではないのでしょうか。
エコという利益に視線を奪われるのは仕方がないことなのかもしれません。ですが、本当のエコ…そこに命が含まれていないのであれば、まるでそれは使い捨てにされる道具と代わりがないのではないのか…そう思えてならないわけです。
 
動物のロボットであっても生き物であっても、その時を一生懸命に生きていることに違いはない。それをいとおしむ気持ちに違いがあってはいけないのだ…と思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

【広告】

サイト内検索

メンバー紹介

このサイトに自分のブログを載せたい!
(ブログの登録は無料です。)


ninja tool counter

>

※2009年4月19日 19:00より開始

ninja tool access