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2009年07月30日

魔法のような科学技術【「とある魔術の禁書目録」(2008-2009年 PROJECT-INDEX)】

 さて、今回は2008~2009年に放送されました「とある魔術の禁書目録(インデックス)」です。

 超能力が科学によって解明され、なおかつ、開発までされるようになった時代。その開発を授業として行なう学園都市がある。そこでは能力の開発具合によってランク付けがされており、学園都市に存在する学生の六割はレベル0=無能力とされていた。
科学で解明されたがしかし、能力開花が全ての者に間違いなく出来る…というわけでもないらしい。
 
そうしたレベル0の一人に、高校生・上条当麻がいた。だがしかし、彼には隠された能力が秘められていた。
 
その名は幻想殺し(イマジン・ブレイカー)。
効果範囲は右手の手首から先に存在し、右手で触れたありとあらゆる魔術・超能力など、それが異能の力であれば問答無用で打ち消す。だがしかし、それは同時に自分に振りかかる幸運までも打ち消しいている事になり、その結果、彼の口癖である「不幸だ…」の通り、不幸なものになっている。
 
朴念仁の当麻の周りには、多くの女性が集まってくる。その一人が、インデックスであった。
彼女の頭の中には十万三千冊もの魔道書が記憶されており、歩く図書館といえる。だが、その膨大な冊数が彼女を苦しめている事を、彼女と同じ「必要悪の教会(ネセサリウス)」の魔術師から聞く。彼女の命を救うためには、その記憶を一定期間で消すしかないと…。
 
当麻は自身の担任に尋ねる。記憶を留めておく事は出来ないのかと…だがしかし、その教師から聞かされたのは、意外な言葉であった。
 
そして、当麻はその理不尽な幻想を打ち消すために立ち上がった。
 
 
 
 原作はライトノベルのこの作品、アニメ化に当たっては、原作六巻までをほど忠実に再現しているそうです。
ただ、やはりアニメ化…期間が決められた話数の関係で、一部、原作とは異なる物語になってしまったエピソードもあるとの話なのだとか。
 
この作品は原作を読んでいないまま放送を見ていたのですが、魔法物が好きなので大変に楽しめました。それだけではなく、人が超能力でレールガンが使えるとか、通信が出来るとか…ある意味、昔の何でもありな超能力作品をこの時代にアレンジしてみている、そんな気もしたわけです。
 
と言いましても、決して主人公が無敵ではない所が、この作品のミソなんでしょう。
 
彼の持つ最大の武器は幻想殺しなどではなく、その決して折れる事のない心です。人を助けたい、安易な動機かもしれませんが、それでも身体だけではなく心を助けようとしているその姿は決して愚かではないと思うわけです。
 
自分の能力に溺れている者、または理念に溺れている者にとってはこうした愚者は恐ろしい事でしょう。
人にとって恐ろしいのは、倒されても置きあがってくる者ではなく、決して倒せない心を折る事が出来ない者なのかもしれません。
 
彼がどうしてそんな強さを身につけたのか…こればかりは、原作を良く読んでみるしかなさそうです。
原作を読みたくなる様なアニメ作品…しかも、この作品のスピンオフ「とある科学の超電磁砲(レールガン)」もアニメ化されるとの事。
 
アニメから入った自分としては、このアニメを見てから原作を読むべきかどうか…と悩んでいる最中であります。
何も情報がないからこそ、楽しめたアニメ。そう思いますと、原作を読まない楽しさをそのまま残しておくべきなんだろう…か?という風に楽しみに身悶えしているわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「超能力」と言う事で一つ。
 
昔から人は、超能力にあこがれを持っていたわけです。超能力をESP…つまりは超感覚的知覚だけに言及しないのだとすれば、錬金術や魔術も超能力の一種であると考える事が出来ます。
 
人の常識を超えた能力…ある人は元来備わっていた力が、文明によって退化したのだと主張しています。つまり開発は可能なのだと。
ただ、こういう人もいます。科学が進歩していけば、それはまるで魔法を使っているかのような技術が生まれてくるだろうと…。
 
例えば、魔法使いの杖や箒。確かに、魔術師が魔力を持っているから使えるのかもしれませんが、それでも、道具を媒介にして使っているわけで、そう考えますと確かに技術がより進歩していけば考えられない様な、それこそ魔法使いの杖や箒が手に入るのかもしれません。
 
セグウェイという乗り物がありますが、あれも、少し前の技術者からすれば魔法のようなものでしょう。それに携帯電話。あんな小さな箱から彩り豊な画像や、澄んだ音色、それに人と話しが出来るのも驚きといえばそうですよね。
今、私達が使っているパソコンにしても、そうです。文章を打てたり絵を書いたり。また、仮想空間でお買い物や友達と会うことも出来るわけです。
 
電子世界のミッドランドがそこにあるような気がしませんか。
 
水泳競技ではどれだけ速く泳げるのか。人の力と、水着の進化によって、記録は縮められています。そして、医療ではまず、救う事ができなかった病が技術革新によって救える様になってきています。
 
ただ、同時に人は苦悩も手に入れるようになりました。
 
人の力なのか技術の力なのか。その境がはっきりしなくなった事。そして、命とは何かという事です。
ある意味、今、人は岐路に立たされているといっても、決して過言ではありません。技術の進歩をが同時に人の進歩ではない。人はあくまで己の足で進歩していくのだ…改めて、それを心に留めておく必要があるのではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年07月18日

やっぱり作品を楽しむには見るのが一番!【「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」(2007年 クロックワークス/カラー)】

 さて、今回は2007年に公開されました「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」です。

 赤い海。整備された海岸線の公道。そこに並ぶ、戦車の列。蝉の声、鳥の声。そして、赤い海に水柱が立つ。
 
人類がセカンドインパクトという災害に見舞われてから後、その原因とされた使徒の攻撃は終わっていなかった。それを迎撃するために総力戦が繰り広げられるも、まったく相手にもされていない。
 
そうした使徒に対抗するために、戦闘都市が建設された。第三新東京。
 
そこに一人の少年が呼ばれる。その名を碇シンジ。彼を呼んだのは長年離れて暮らしていた父、ゲンドウであった。
彼が新しい生活をしようとしたその時に、新たな使徒が攻めてきたのだった。
 
待ち合わせの連絡をすることもできず、シンジは使徒と自衛隊との戦火に巻き込まれていく。
 
そこに登場したのは、彼と待ち合わせをしていた女性、葛城ミサトであった。彼女はシンジの父が司令を務めるNERV所属である。
 
人の使える最大火力をもってしても倒すことのできない使徒に対して、国はNERVにその権限を委譲する。その切り札となるのが、エヴァンゲリオンであった。
 
しかし、日本におけるエヴァンゲリオンの操縦者は足りておらず、その搭乗者が怪我をしたとしても、使徒が現れれば戦うしかないのが現状であった。
そうした、パイロット候補として呼ばれたのが、シンジであったのだ。
 
久しぶりに会った父が言う。乗れと。乗って使徒と戦えと。やらないのならば、帰れと。
 
憤るシンジの前に、現れた…いや、連れてこられたパイロットは、体中を怪我していた少女であった。
その姿を目の当たりにしたシンジは、乗る事を決意するのであった。
 
 
 
 よく、「ガンダムを超えるロボットアニメは登場するのか」などと言われるわけですが、その質問はある意味、ナンセンスであると言うしかありません。理由としては、条件が大きく異なるからです。
機動戦士ガンダムが放送されたのは1970年代。今は21世紀ですから、情勢も情報も全てが変わっています。その違う土台で比べると言う事は、長距離走ランナーと短距離走ランナーに障害物競走をやらせてどちらが早いのかを競わせているようなものです。
 
同じ様にエヴァンゲリオンがTV放映されて後、「エヴァっぽい」という指摘が様々な作品で成される様になりました。それが、エヴァンゲリオンよりも前の作品であったとしてもです。
 
こうした作品が近年に出たと言うのはアニメ界にとっても僥倖であると思うべきでしょうが、先ほども記載しました通り、それ以降は比べられる可能性が高くなるという事になったわけです。
 
これは仕方がない話かもしれません。機動戦士ガンダム以降、様々な分野でガンダムが、はかりの分銅のような役割を押し付けられた様に、エヴァンゲリオンという作品も同じ様な状況になってしまった。それは人気作品の宿命と言えるのかもしれません。
他にもそうした作品は沢山世に出まわっているわけですからね。個人的な好みであれば、そんな作品だらけと言えるのかもしれません。
 
そんなエヴァンゲリオンですが、流石にもう新作はないだろう…続編もやったとしたら大コケするのではないかと言われていた中に、新劇場版として公開する話が出てきました。
案の定、感想は真っ二つに別れました。
 
期待するか、遠慮するか。
 
期待しないではなく、遠慮…もうお腹一杯だよ、と少しせせら笑うかのような状況と言った方が良いのかもしれません。
そうした中、いよいよ公開となったわけですが、蓋を開けてみれば、流石はエヴァンゲリオンもしくは庵野総監督、もしくは、摩砂雪監督、鶴巻監督、もしくはスタジオカラー初作品…全てひっくるめてやはり、流石はエヴァンゲリオンと言えるのでしょう。その動員数は凄まじいものでした。
 
内容はTV放映もされましたし、今更記載する事もないのでしょうが、しかし、一つだけ大きく変化したなぁと感じた部分がありました。それはキャラクターの心情です。
 
TV版ではある意味、明確に色分けされていた各キャラクターでしたが、それがそれぞれの色を混ぜ合わさない様に必死になっている印象がありました。
それは、ATフィールドという、エヴァンゲリオンの設定が、深く関与していたせいなのかもしれません。ですが、そのために、ドラマと言う部分ではちぐはぐに絡み合う人物ばかりになり、結果、そのちぐはぐした部分をエヴァンゲリオンの登場によってリセットする。そんな印象を受けたわけです。
 
今回の劇場版ではそうした事よりも、より人同士の絡み合いが基本にある事を示してくれている。これはエヴァンゲリオンの活躍を…言ってしまえば、昔のスーパーロボット作品のような展開からの脱却に見えたわけです。
 
あくまで「人」がその業によって「人」をどうするのか。その系列の話では頂点に君臨している作品なのですから、よりそうしたエグい部分をオブラートに包んだ状態で表現しようとしているのだなぁ…そんな感じにも見えました。
オブラートですからね、簡単に向こうが見えてしまうというほどの薄いものです。それは、アニメというカートゥーンキャラを使った壮大な人間ドラマであると言えなくもありません。
 
…が、それもこれも、続く公開の内容によりけりなのでしょう。これ単体だけの評価が良し悪しではなく、ヱヴァンゲリヲン新劇場版がどうであったのかを記載するためには、まだまだ、先にある作品まで見る必要があるのは言うまでもありません。
 
個人的に、同じ徹を踏む事ないように…とは思っていますけどね。
 
ちなみに、この「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」におきまして、使徒のデザインが変わっていたのですが、第六の使徒…テレビではラミエルと呼称していたあの使徒。カッコイイですね。あれは今でなければ出来ない表現だなぁと思い感心しました。
同時に、サキエルの顔が他の使徒にもついていて、可愛く見えてしまうのは…作品としてのギャップを狙っているんでしょうかね?
 
だって、本当は怖い存在ですものね、使徒って。いやはや、こうした事からも思う事は、この作品に、やっぱり引きこまれているんだなぁ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「代表作」と言う事で一つ。
 
エヴァンゲリオンは庵野総監督や貞本義行氏の代表作となったわけですが、その代表作。何かにつけ基準という意味での使われ方がされているのではないのかと思えてなりません。
 
その作品に携わった人を語るのに、大抵の方へ伝わる作品は何か、もしくはすぐに見やすい作品は何か、それが代表作のはずです。
 
所が、その代表作というのが人…もっと言えば携わった人ではなく、カテゴリー分けされた中での話となりますと、これは意味合いが違ってきます。それは標準作品となってしまうからです。
 
ある意味、こうした事がエヴァンゲリオンもそうですが、ガンダムにおける「△□はダメ!」という事を指摘する話になっていく原因を作っている…全てとは言いませんが、その一つではないのでしょうか。
 
リアルタイムで見れた作品に衝撃を受ける。これは確かにその通りでしょう。しかし、だからと言ってそれがその作者の代表作品である…とは限りません。むしろ、代表作というのは、その方が作品を作らなくなった上で決めるべきものではないのかと思うわけです。
 
では、どうすればいいのか。それは簡単な話です。オススメ作品とすれば良いだけなのです。
 
感性というのは個々によって異なります。しかし、その異なる感性が多く共感した作品であれば、オススメするのは簡単な事でしょう。ただ、ススメられた人が同じ感性を…いえ、近しい感性を持っているのかは、開けてみなければわからないものです。
 
そう考えれば、まず作品を見る事が必要になってくる。そうは思いませんか。
 
ブログやサイト、こうしたポータルサイトによってレビュー記事が多く出てきているわけですが、それはそれ、あくまで参考程度にするぐらいでやはり自分の目で耳で確かめる。作品を嗜み、親しむためには、時間という浪費が必要になってくるわけです。
それが多くなればなるほど、大変なのでしょうが、昨今の情勢。更にせわしなくなってくる日本を見ていると、それぐらいの余裕があっても良いのではないのか。そんな風に思えてくるわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年07月11日

どこに向かい、何を成すのか【「魔界都市ハンター」(1986-1989年 菊地 秀行/細馬 信一/秋田書店)】

 さて、今回は1986~1989年に掲載されました「魔界都市ハンター」です。

 198x年9月13日金曜日午前3時。その日、新宿に…その外殻を切り裂く様に、その区内だけで大地震が起こった。新宿区外では、コップの水も揺れなかったその大地震は、しかし、新宿内部には多大な被害を残していた。
遺伝子研究所からサンプルが流出し、また、霊障が各地に残り、次元断裂が空間を捻じ曲げた。たった、一区域の復興すらままならなくなったその地震は、魔震=デビル・クエイクと呼ばれるようになった。
 
それから数年後。
 
新宿はその外、外部とは異なり、独自の世界が構成され始めていた。
何より、復興が成されない理由は霊的な束縛、もしくは遺伝子研究所のサンプルが成長し、魔物のようになってしまい手がつけられない状況になっているからであった。
 
それでも人はたくましく生きぬいていた。
 
だが、その魔界都市に新たな事態が発生する。いや、正確にはその外部、銀座からその現象は発生していたのだった。
銀座のある通りの早朝。その区画を担当する警察官は、ある老人を目撃する。ふらふらと歩き、けらけらと笑うその老人に声をかけた警官は、次の瞬間、水…いや、海の中に落ちてしまう。
 
銀座の通りが海に変わってしまったのだ。しかも、その海にはあり得る筈のない生物が多数住んでいた。
 
「どうじゃ楽しかろうぉ。わしの造った海にはあんなのがいっぱいおるでな」
 
海の上でそう語りかけた老人は、その海の上を滑る様にある場所へ向かっていった。
 
 
その老人の出現をある物は魔術で、ある物は科学で知る事になる。そして、その老人が創り出した銀座の海を、その生物を調査した結果を出した。
 
神、光あれとのたまえば光ありき
 
彼らはその老人を神…しかも、狂った神と結論付けた。彼らはその神の説得もしくは捕獲をするために、魔力を極めた魔道師、そして超能力を秘めた軍人たちが魔界都市より、そして魔界都市へと出陣していったのだった。
 
 
 
 菊地秀行氏の代表作である魔界都市<新宿>を再構築した漫画作品であり、原作である魔界都市<新宿>と同じ様なキャラクターが出てくるものの、その立ち位置が大きく変わっているのが特徴です。
 
主人公は、木刀・阿修羅を持つ念法の使い手、十六夜京也。そしてヒロインは、片桐さやか。この二人が物語の核となって話が紡がれていくのです。
 
老人は神と呼称されていますが、その神ですら大宇宙の一つの生命に過ぎない。この物語はそう語っている様に思えます。
 
魔界都市…その中では殺人が日常のように行なわれています。しかし、実際に外部と呼ばれている場所でも、同じ様に殺人は起こっている。それは、何も変わらない、ただ、頻度の違いなだけという事なのでしょう。
そうした中にあっても、人の心…愛や慈しみが枯れる事はないのです。
 
そうした、まさにエロスとタナトスがより濃く混在した場所で繰り広げられる生命の物語。それが、この漫画であるわけです。
 
 
人の進歩と進化の違い、そして進化の先にあるものは…そのために何を成すべきなのか…それよりも、我々はどこから来て、どこに行こうというのか。
神とは何か。そして人とは…そんな問いかけに人である我々はどのように答えるべきなのでしょうか…。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「クォ・ヴァディス」と言う事で一つ。
 
最近では、様々な媒体の物語にて使われるこの言葉ですが、ラテン語で「どこに行くのか?」という意味です。正確には、「Quo vadis, Domine?(主よ、どこに行かれるのですか)」という、ペテロがイエスに対して、最後の晩餐で尋ねた言葉であると言います。
 
人の人生は旅に例えられます。それはどこに向かうのか、まさに行く宛ての見えない旅と同じであるからなのでしょう。
 
人生のゴールとは一体どこにあるのでしょうか。誕生、成長、学業、就職、結婚、老衰…もしくはその先。
恐らくそれはどれもが通過点でしかないのかもしれません。
 
人という種としてみれば、自分の成した事を継いでいく事、それは一人で走っているわけではなく、これから先に紡いでいく事の他ならないわけです。
親が子に、子が孫に。そうした紡がれていく事、その事がまさにクォ・ヴァディスなのかもしれません。
 
誰もが求める幸せがその先に待っている…そんな保障などあるはずもなく、それは同時に不幸せになると決められた事でもないのです。
 
努力や根性でどうにかなる場合もありますし、どんなにあがいても無理な場合もあります。しかし、意外に楽に手に入れられる事もあるのです。それを人は幸不幸で分けてしまいます。
しかし、それは旅の途中でふと、視線を巡らし気付いた一欠けらの何かでしかないのかもしれません。その後ろには、もっと大きな何かがある。そんな場合だってあるのです。
 
全てにおいて、どこに行くために歩いているのか。いえ、どこに向かって歩いていくのかを考えながら進んでいく必要はあるのでしょう。それが安全に歩んでいくための大事な事なのですから。
 
 
さて、「主よ、どこに行かれるのですか?」と聞かれたイエスがどのように応えたのか。「私が今からいくところに、あなたは今いくことはできない。しかし、後からいくことになる。」
これをその後に迎える死に対することであるのか、それとも別の何かであるのか。
 
宗教という枠を超えた中であっても、当たり前のように考える事が出きる逸話ではないのかと思うわけです。そして、それは意外に何時もの生活に置き換える事が出きる。何に対しても、どうなっていくのか。それを考える事が小さな事から大きな事までを含めて行動する事が出きる事ではないのでしょうか。
 
そう、思えてならないのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年07月04日

また一つ、リアルがマンガに追いつきましたよ!【「JO-ZERO」(2009年 姫路ソフトワークス)】

 さて、今回は2009年に発売されます「JO-ZERO」です。

 二足歩行ホビーロボットの源流である名作漫画「プラレス三四郎」。その作者神矢みのる氏がデザイン監修した二足歩行ロボレスラー「JO-ZERO(ジェイ・オー・ゼロ)」が、今ここに誕生!
「かっこよさ」「速さ」「人間らしさ」をモットーに開発されたJO-ZEROは、デザイン性・運動性能を高い次元で融合。スピードと力強さを備え持つ機体と初心者ユーザーにも優しい専用アプリケーションとのパッケージングで、あなたをかつて夢見たロボットバトルの世界へといざないます。
 
 
 
 今回は、レビューではありません。
 
現在、週刊少年チャンピオンにて同誌創刊40周年を記念に、縁のある作家陣の描き降ろし作品を1作品ずつ掲載していくプロジェクトが進行中なのですが、遂に今週、プラレス3四郎が掲載になりました。先に作品のレビューをしている事からも、私はこの作品が大好きですので、当然雑誌を購入。その中表紙にこのような文面があったのです。
 
『科学がマンガに追いついた!リアル・プラレスラー遂に登場!!』
 
文面にも驚きましたが、その風貌を見て二度驚き。誰がデザイン案を提出したのかなど、説明の不要というやつです。

価格は12万ほどするので容易に手に入れられる物ではありません。こうしたロボットは既にROBO-1という競技に準拠した製品も発売されておりますし、中には自作で付くっていらっしゃる方もいますので、遂に時代が作品に追いついたとするのも決して間違いではないのだと思います。

こうしたロボットの基本はホンダのASIMOであり、現状においてはモーターによって各関節どうしが直接連結されている状況であるのも仕方がない話ではないのかと思います。

ただ、こうした商品が部品販売され、地道に小遣いを貯め購入し、完成に近づいていく。その昔のラジコンのような楽しみを復活させてくれるとしたなら、それは本当にプラレスという新しい遊戯の誕生に一歩近づく事になるのだと思うのです。

このJO-ZEROもKHR-2 HVやMANOI AT01などと同じ様に、そして更に飛躍して実際に漫画であったようなプラレスが楽しめるように進化しつづけて欲しいものです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「身近になっていくロボット」と言う事で一つ。
 
こうしたロボットの進化は目覚しいものがあるわけです。最近では動画投稿サイトの普及により、既存のロボットではなく、改造品やフレームを自作したロボットなども見る事が出来ます。
 
確かに進化はしているのでしょうが、しかし、実際に人の動きと比べればどこかしら不自然な部分があるのは否めないわけです。
 
まず、歩きにしてもヨチヨチ歩き…いえ、しっかりと地面から足が離れているのかも疑問な歩き方をしているのが現状ですが、それも仕方がない話かもしれません。何せ、ASIMOでさえ人の歩き方をしっかりと模倣できているとは現状では言えないのですから。
 
その一番の理由は、やはり骨盤の動きが再現できていないからなのでしょう。
 
人の重心は臍の下…俗に丹田辺りにあると言われています。また、バランスを計測している器官…三半規管は耳の奥、つまり頭部にあるわけです。それだけ不安定な状況において、姿勢を正す計算を逐一しているわけですが、それをコンピュータがしようものなら、今の性能でも追いつかないのだとか。それだけ人の脳や感覚は優れていると言っても良いわけです。
 
そのバランスを保ったままで歩くという事を行なうのには、更に計算が必要になるのは言うまでもない話でしょう。
 
実際、人は今の一歩と先の一歩、前の一歩の幅や位置は違っていると言います。
それもそのはずで、目、足の感覚によって人の刻む一歩の幅など大きく違っているのです。同じ平面であったとしても、その起伏のナンと多い事か。アスファルトの上であったとしても、決して真平らではないのです。それを逐次確認して転ばないように歩く。そのためには、大腿骨を持ち上げる事も大事でしょうが、それを固定のままで…つまり、腰の回転がないままでの動きでは、どうしても一歩一歩を踏みしめる様にしか歩けないという事になってしまうわけです。
 
実際、ASIMOの歩き方を見れば、そろりそろりと歩いているのがわかります。その一歩の動きを早くすれば確かに走るようにもみえるのでしょう…が、それは人の走りではなく、歩く行為を走っているように見せかけているだけに過ぎません。言ってしまえばそれは進化ではなく、進歩でしかないという事なのです。
 
今、ASIMOのような膝を曲げたままで立つのではなく、膝を伸ばして立ち、そして歩くロボットの研究開発が成されています。そこには、股関節や腰に該当する部分がしっかりとあり、その動きは自然な人の歩き方に近くなってきています。
 
それでも、一歩を確かめながら踏みしめていく動作であるのに近しいのかもしれませんが、こうした研究が重なり現物となっていく事によって、静歩行からの脱却が見られるようになるのかもしれません。
その時、こうした技術が玩具や介護、生活にもに使われるのを望んでなりません。
 
人を楽しませる技術が決して人を苦しめる技術にならないように…それはまさにプラレス3四郎にて言われた世界とならないように、私達は見守り、そして狙っている者たちに諭していく必要があるのだと思うわけです。
 
あなたは未来の国に友人としてのロボットを望みますか?それとも、人の代わりとなって傷つけあうロボットを望みますか?
 
人の手によって生み出される新しい「命」をどう扱うのか…それは、まさに私達の「倫理」が問われる瞬間でもあるのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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