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2009年05月30日

玩具菓子の方がガシガシと動かせる理由は…【「機動戦士ガンダム」(1979-1980年 名古屋テレビ/創通エージェンシー/日本サンライズ)】

 さて、今回は1979~1980年に初回放送されました「機動戦士ガンダム」です。

 宇宙世紀0079。人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させる様になり、既に半世紀が過ぎ去っていた。地球からもっとも遠く離れた宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦に対して独立戦争をしかけてくる。
 
これが世に言う一年戦争の幕開けであった。
 
連邦軍が資源も人員も少ないジオン公国に対して戦果で遅れを取ったのは、モビルスーツ(MS)というそれまでとは異なる兵器の出現が原因であった。
人型をした…いや、巨人のようなその姿は、敵対する連邦軍に対し、焦りを生む。
 
ジオンから遅れるも、連邦軍も独自のMS開発を行なう。その研究が持ちこまれたのが、サイド7であった。
 
連邦の新兵器、そして新造戦艦の噂を聞いたジオン軍はサイド7への調査を命じる。侵入したジオン兵の眼前に確かに連邦軍の新兵器…MSの姿があったのだった。
 
 
 
 もう、多く語る必要はないでしょう(笑)俗に言う初代ガンダムです。
 
私もこれはリアルタイムで見ていました…と言いたいところなのですが、実は完全に番組を最初から最後まで見たのは再放送であったりします。それも再放送一回目の時に見ました。
 
その原因は、当然の話、ガンダムのプラモデルです。
 
このガンプラブームは放送終了後に起こったもので、その火付け役は今は無き、コミックボンボン。その連載作品であります「プラモ狂四郎」であるのは言うまでもありません。それから続くガンプラは凄まじいものです…が、それはまた別の機会に。
 
さて、現在では考えられない話ですけど、このガンプラ。一回目の放送…つまり本放送では売り出されていないのが面白い所なんですね。再放送で放送される話に乗じて、新しいMSやMA(モビルアーマー)のガンプラが発売される。再放送で放送されたMSのガンプラが何時発売されるのか期待感で一杯だった記憶が今も鮮明にあります。
 
それまでのロボット物における玩具は全て完成品でありましたし、決して安いわけではなく子供の手に負えるものではありませんでした。当然、玩具メーカーも子供向けと言いつつ、その子供の親に対しての販売戦略を立てていたわけです。
財布の紐を握っているのは親ですからね。
 
それがガンプラは子供のお小遣い範囲内で愉しめる画期的な商品であったわけです。
 
今からすればそれで愉しめるの?というほどの出来であったのは間違いないのですが、それは言いかえれば、自分の理想に近づけることの出きる余地が残されているとも言えたわけです。
 
そう、改造ブームです。
 
例えば、アムロの乗るガンダムの宿敵、シャア。その最初のMSといえば、シャア専用ザク。あの赤いザクです。
しかし、この赤いザク。足首が稼働しません。いまなら、考えられませんけど、箱の横にあるポーズ集も、あらよっ!こらさっ!という掛け声が似合いそうなものばかり。劇中の迫力はお世辞にも無かったのです。
 
つまり、劇中の動きを再現しようとガンプラを切った貼ったする、いわゆるモデラーが多くなっていったわけなのです。
 
それに合わせるように、模型誌にも変化が見られました。それまで戦車や自動車、飛行機などがメインであった模型誌がガンプラを取り上げる様になったのです。
作り方、塗装の仕方、改造例。それは正に夢のお手本であったわけです。
 
見た事も聞いた事もない道具の数々に目を光らせ、模型店にいってその金額に愕然とした人も少なくないと思います。
 
そうした自分の手で例えば一場面を再現する、設定書にある専用機に改造してみる、と言った行為がガンプラを、そしてガンダムという番組を支えた原動力になったわけです。
 
本放送の際には打ち切りで終了したこの番組も、再放送で燃焼する。それ以降、再放送するたびに高視聴率、ガンプラも1/144とうい小さいものだけではなく、1/100、1/60と大きいサイズまで売り出され、遂にはガンダムがAパーツ、Bパーツ、そしてコアファイターとコアブロックに変形する物まで発売されるという状況になりました。
 
それから今まで続く、進化の走りであったのは間違いありません。
 
ガンダムが成長した陰にガンプラあり。
今では当然の話なのですが、その当時としては画期的な商売の方法であったのは間違い無く、それ以降の玩具のあり方を大きく変えて行ったのは間違い無い作品であったと言えるわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「玩具菓子」と言う事で一つ。
 
ガンプラが売り出されましてから三十年。そう、アニバーサリーの年となりまして、ガンダムも新しいアニメ化の発表が成されました…なのですが、最近のガンプラの悩みというのがあるらしいのです。
 
前にも記載した話ですけど、それは、子供達がガンプラを作れないという事。
 
どう言う事かと、よく話をさせていただいている方に聞いてみますと、最近のお子様は作る事が出来ない子が多いのだとか。だって説明書もありますし、ランナー(プラモデルを成型する際に材料を送りこむ道を金型に作っておきます。部品となるものがパーツ。その部品がくっ付いている枠のようなものをランナーと言うのです)にも番号が振られていますし、どうにも間違え様がないのですけど、それでも作ることができないというのです。
 
そう言えば、同じような話で幼年誌の付録が作れないと言う話も聞きました。
 
なるほどそこでバンダイが出してきたのが、完成品のガンプラと言うわけかと納得するわけです。それが良いのか悪いのかは別にしますけどね。
 
確かに、ガンプラは既存の玩具のようには出来ません。値段は高くなるし種類も多い。完成品のガンプラがその位置にいると言っても言いのでしょう。
 
ガンプラ並に出来の良い商品として、玩具菓子もその一つではないのでしょうか。
 
本当に最近の玩具菓子は出来が良過ぎです。今やっている戦隊物の玩具菓子など、いわゆる通常の玩具と同じように合体が出きるだけではなく、その稼働域も素晴らしいものです。
しかも、この後に発売されるであろうシリーズ物とも合体させる事もできるわけです。
 
どうして玩具菓子の方が、稼働できるのか。それは通常の玩具の立ち位置に答えがあるそうなのです。
 
通常の玩具は3~6歳以上から遊べるわけですけど、彼らに細かい事は望めません。劇中と同じようにガシガシとぶつける様に合体させるわけです。となれば、下手な稼働を与え、それによって玩具が壊れたり、怪我などをされてはメーカー側が堪らないわけです。
 
となれば、通常の玩具はしっかりと作る必要があり、関節の動き…特に膝まではいれにくいという事になるわけです。
 
物が小さく軽く作られ、比較的安価で売られている玩具菓子であれば、怪我をする可能性も少ないですし、何より壊れたとしても親御さんのショックは少なくありません。子供さんはどうかわかりませんけどね。
 
しかも、ガンプラのように改造もしやすい、これは嬉しい限りです。
 
弱点といえるかもしれませんが、玩具菓子を手に入れるには、その番組が放送されている当時でなければならないとい事があります。
ですが、そうした弱点があったとしても、遊びの範囲が大きい玩具菓子はこれから、新しいガンプラの位置としてより進化していく商品なのかもしれません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年05月23日

差し伸べられたその手を払う事なく共に歩む【「仏ゾーン」(1997年 武井 宏之/集英社)】

 さて、今回は1997年に掲載されました「仏ゾーン」です。

 仏像…それは宇宙が生んだスーパーヒーロー。これは、悪を蹴散らし人間を救うため、さまざまな姿をもって現われた仏像たちの慈悲と友情の物語である。
 
時は現代―――とある温泉街にあるお寺、その名を西岸寺。そこの住職に育てられた娘サチは、今、ピンチのど真ん中にいた。地上げでお寺を出ていけと柄の悪い男たちにからまれていたからだ。
そのお寺はボロ寺であっても、古くから代々そこにある歴史のある寺。そこに奉られている仏像も素晴らしいものであった。
 
ご本尊である千手観音像、それはある仏師の最後の作品。そこにあるのは、全てをもれなく救おうとする姿だった。しかし、柄の悪い男達にそれは通用するはずもない。サチが千手観音の話をしても、正に馬の耳に念仏。
 
逆ギレ気味の男に胸倉を掴まれ殴られそうになった瞬間…その男が何者かに殴られたのだった。それまで静観していた、いや、静観しかできないはずの千手観音、そう千手観音像が男を殴ったのだ。
 
しかも、その千手観音から出てきたのは少年。仏像から出てきた少年に驚いた男達は、その場から逃げ去っていった。
 
彼は自分自身をセンジュと名乗る。しかも、仏達の住む世界「仏ゾーン」から大日如来の命を受けやってきたのだというのだ。
当然、サチはその話を信じるはずもない。和尚は信じているようだが…。
 
センジュの話によれば、サチは釈迦如来の入滅した五十六億七千万年後に世に現われる弥勒菩薩の生まれ変わりなのだと言う。
 
そんな話を信じるはずもないサチは、自分が捨て子であり、どうして苦しい暮らしをしなければならないのかとセンジュにぶつけた。自分の不幸を微塵にも出さなかったサチであったが、センジュのあまりにも荒唐無稽な話に、溜まっていたものを吐き出してしまったのだ。
 
翌朝。少しでも家計に足しにするためにサチは牛乳配達のアルバイトをしている。
そんな時、近所の知り合いから、寺に泊まっている少年の事を聞かれた。しかも、その少年が川原で有り難がられているというのだ。思わず、サチはその少年=センジュを引っ張り連れていく。
 
仏と信じていないサチはセンジュがそうして拝まれている事に腹を立てる。だが、センジュは例え自分が仏でなかったとしても、それでも良いのではないのかという。
拝んでいる人たちの気持ちがそれで救われるのであれば、それは意味のない行為ではない…と。
 
その時、その近くをある車が西岸寺に向かって走っていくのが見えた。虫の知らせにサチは急いで寺へと戻る。だが、サチが帰りついた時、寺はガレキの山と化しいていた。
それは、センジュに驚き逃げていった男達が総出で出向き、しでかした事だったのだ。
 
サチや和尚を抑えこみ、さらに乱暴しようとしている男達の前にセンジュが出る。その彼に付きつけられる無数の銃口…それでもせんじゅは動じず、手を合わせ自分の力を解放したのだった。
 
 
 
 かなり昔の作品ですが、今回はあのシャーマンキングと同じ作者であります、武井 宏之氏の作品、仏ゾーンの紹介です。
 
上記の話の続きは、センジュが合掌印を組む事によって、千手天衣(センジュアーマー)が発動し、一斉に撃たれた弾丸をすべて受けとめるわけですけど、千手天衣って中々カッコイイんですよね。
 
最近、仏像に癒しを求める方が多いとか。中でも、国宝に指定されている阿修羅像など人気が高いようです。今、「興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」」をやっていますが、50万人ほどの来場者数があったのだとか。テレビでも若い女性が多いというのもやっていたようですね。
 
さて、この漫画に登場するのは、人間だけではなく、仏とその仏敵といわれる魔羅です。人間はさておいておきまして、仏と魔羅、彼らが人間界に来ているのかといえば、それはサチ=弥勒菩薩を仏は守り、魔羅は滅するためです。
 
釈迦如来から五十六億七千万年後に地上に現われ、全てを救うとされている弥勒菩薩。これは漫画のシナリオではなく、実際に仏の世界のシナリオになっています。でも、釈迦如来の入滅…要するに亡くなったとされるのは、紀元前368年の事。幾らなんでも年月が足りません。まだまだ先の話と思われるのですけど、これは仏の時間と人の時間との違いであると言う話ではなく、年=念であると言う事であり、つまりは、人口であるというのです。
 
五十億七千万年=五十六億七千万念(人)となれば弥勒菩薩は地上に降臨すると言うわけなのです。
 
この年=念という話。決して荒唐無稽な話ではないのですね。そして、仏が説いたとされる言葉も決して今の世の中に無関係ではない。これが創作だとしても、なんと素晴らしい先見の明があったのかと感心するだけですし、本当に仏様が言われたのならば、宗教云々ではなく耳を傾ける必要があるのかもしれませんねぇ。
 
話を戻しまして、仏敵である魔羅にしても、センジュたち仏ゾーンの仏たちも、そのままでは地上で活動できません。そこで彼らが借りるのが仏像であるわけです。
 
彼らは仏像の姿を借りる以上、その仏像の影響を受けてしまいます。木、土、石…それら素材によっても、固さや重さが変わってくるというのです。なにより、彼ら仏も普段は人の姿と変わりがないのです。
でも、思い出してみれば、センジュは千手観音。その無数の手はどこに行ったのでしょうか?
 
それは仏の使う天衣(アーマー)になっているのです。
 
センジュ…千手千眼観世音菩薩は、千本の手があるわけではなく、全部で四十二本の腕があります。背中にある四十本の腕は、それぞれに目を持ち、その眼差しを持って二十五の世界を救うといわれているのです。一本で二十五の世界。四十本で千の世界というわけです。
つまり、彼の千手天衣はその四十本の腕をチャクラによって動かすものであり、それは仏ゾーン特有の機器であるわけなのです。
 
その操作にはそれぞれの仏に関連した印をする必要があります。センジュは合掌印、馬頭観音のバトウなら馬口印という感じ。地蔵菩薩のジゾウは天法輪印を使っていましたけど、それは技として使っていたので少し異なります。
釈迦如来がしている印相の一つが天法輪印ですしね。
 
物語的には、途中で終わっているわけですけど、それはそれで良い終わり方であったと思います。
その一番の理由と言うのは、当時の連載雑誌のあり方であれば、神仏関係なく、誰が一番バトルに突入させられていた事でしょう。それをやってしまったら、天罰が下るのかもしれません。
 
この漫画の本質は、救い。本当に全ての人を救う事が出来るのかという壮大なもの。単行本は3巻で終わっているのですけど、これが10巻、20巻と続いていった際、様々な方面から問題定義された…かもしれません。
そういう意味でも、ここで終わらせておく事は、漫画としての終わり、それから先の話というものを読者が出来ると言う事。その過程でセンジュの目指したすべてを救うという事の意味を考える事が出来る余力を残してくれたという事。
 
そうした事柄がもしかしたら、神仏からの問題なのかもしれないと思うわけです。
 
神仏の存在する意味、仏像のある意味、宗教のある意味、人の存在する意味。仏教徒ではないにしても、別の宗教であったとしても、無宗教であったとしても。本当の意味で人を救うという事では宗教を超えた、まだ終わりの見えない問題であると思えてならないわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「宗教」と言う事で一つ。
 
私などは、一応、実家は仏教なのですけど、本人としては無宗教。それでも言い方をするのであれば精霊信仰と言えば良いのでしょうか。精霊といいましても、火の精霊や水の精霊というわけではなく、単純に全ての生かしてくれる物は神であるとするだけの話です。土着信仰と言っても差し障りはありません。
 
人がゼロからでは何も作れないのは、意外に忘れ去られる事です。
 
土から何かを、水から何かを得たとしても、それはまず土や水があるから出来る話。それすらない場所では何も出来ないのが実情です。
さも当たり前の話に聞こえるのでしょうが、それでも人は生かされているとは思わないでしょう。生きていると思うはずです。
 
別にそう思うのは自由ですし、それが大いなる存在によって成されているとするのも自由です。
それを肯定する事も否定する事も出来ない以上、存在の有無を論ずる事がナンセンスなのですから。それを論じると言う事は、命は何であるのかを論じるのと同じ事なのです。
 
そうした意味不明…いえ、理解不能な状況を神や魔といういかにも理解できそうな媒体に置き換えたものが宗教であります。
偶像信仰であろうともなかろうとも、そこに不可視の神が存在する以上は、全て同じわけです。
 
思うに、宗教というのは大勢の人の方向性をまとめるには大変に優れた学問であると思うのです。
例えば、宗教がある程度限定されている国の成長は国が方向性を決めれば、その方向に進んでいく様子です。インドなどの計算力やプログラミング技術力などは、その典型的な例でしょう。
 
日本には自由の名の下に数多の宗教があります。それだけではなく商業も宗教を利用しているわけです。
こうした中に生まれる思想は、自由という思考であり、あくまでその方向性ではなく、自由という言葉によって統一されているだけに過ぎません。
 
つまりは、指導者がいない状況であると言う事になります。
 
こうなりますと、宗教の自由というよりも、自由宗教と言った方が良いのかもしれませんね。
 
本来、自由というのはそれ以上にない不自由であるわけです。全てを自分で決めると言う事は、その結果を全て受け入れなければならない。当然、後始末も全て自分で行なわなければならないわけです。
 
一人で後始末も出来ない自由など、結局、誰かに依存しているだけに過ぎません。今の日本において、誰かのせいばかりにしている事が多い状況で自由を宣言する事がどれほどの迷惑になるのか。政治・経済・マスコミを見れば一目瞭然の話です。
 
宗教はないと困ります。それは宗教ではなくても、大事な教えが間違いなくあるからなのです。つまり、宗教とい単語が、御伽噺であったり、常識であったりと変わっても良い訳です。
ただし、その教えが誰かの利益になるためだけのものである場合、それは教えではなく押し付けになる事を誰もが理解する必要があるのではないのかと思うわけなのです。
 
宗教の基本は何も難しいものではないのです。手を差し伸べよ、それを振り払う事無く、しっかりと握り共に歩め。間違いを互いに正し、周りを愛する。それこそ救いの道。私が知る限り、神仏が言っている事に大差はありません。
 
何より、人は多くのものから手を差し伸べられて生きている。それは間違いなく真実であり真理なのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年05月16日

空を見上げて、ふと思う時【「劇場版 仮面ライダー超・電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」(2009年 東映)】

 さて、今回は2009年に封切りされました「劇場版 仮面ライダー超・電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」です。

 田舎暮らしに馴染めずにいる少年「ユウ」。彼にとって父の故郷であるその田舎はとても退屈な場所であった。同級生にも莫迦にされ、苦手とする小さな虫にすら翻弄される日々。その鬱積した状況の為に、学校へも行かず、また祖母へも反抗する生活が続いていた。
 
そんな折り、大地震によって産まれた時空の歪からオニがユウの田舎へと現われる。
ユウのいる村では、鬼退治の伝説が残っており、その退治されたはずのオニ達が何かを探しに未来の時代へとやってきたのだった。
 
オニの探しているのは、鬼の切り札。その半欠けであるのだという。それがあれば、歴史は変わりオニの時代がやってくるのだという。
 
それを阻止するために、デンライナーでやってきたのが、野上幸太郎=仮面ライダーNEW電王であった。だがしかし、敵の親玉である兄弟オニの弟、ミミヒコの強さは半端なものではなかった。
しかも、ミミヒコが持つ純銀の金棒を天空に突き上げると、そこに歪が生じ、なんとミミヒコが変身してしまったのだ。
 
その名も仮面ライダーシルバラ。
 
変身したミミヒコ=シルバラはNEW電王と一戦交えるも、すぐに退散。事態は一向に改善へと向かう気配がなかった。
 
自宅に帰ったユウはある事で祖母に反発し家を飛び出してしまう。しかし、その時には既にユウが鬼の切り札を持っている事が、ミミヒコには気付かれており、ユウの祖母の家までオニ達が近づいてきていた。
 
祖母を巻き込まないようにと、自分の自転車で逃げるユウ。NEW電王に遭遇した時、彼の仲間である野上良太郎から受け取っていたデンライナーのパスを握り締め、時分秒が揃いデンライナーの駅に行ける機会をうかがっていた
 
NEW電王の助けがあったものの、それでも自力でデンライナーの駅へと入るユウ。その目の前には時を駆ける列車デンライナーがあった。
乗りこんだユウが自分の持つ鬼の切り札を野上たちに見せる。そしてそれを渡しても良いというのだ。
 
ただ、一つの条件さえ飲んでくれるのならば…。その条件にオーナーがユウの前に立ち、問いただした…。
 
 
 
 というわけで、ある程度のネタバレをしつつですが、ストーリーをなぞっていくのはここら辺でやめておきます。
 
仮面ライダー電王の新劇場版第一弾が封切りされて、約一週間経ちました。すでに複数回見ているファンがいるのかもしれません。非常にストーリーがうまく流れており、最後には涙が出てくる様な展開になっています。
しっかりと、電王の世界を踏襲してくれたのには感謝ですね。
 
当然、電王という物語に必要なのは、例えば、モモタロスやウラ、キン、リュウなどのイマジンたち、そして電王を演じるスーツアクターさん、その声を担当する声優さん。そして脇を固めるオーナーやナオミちゃん、コハナちゃんといったキャラ。
そして主役である野上良太郎を演じる役者さん。
 
物語の演出や構成、小道具や大道具を準備活用するスタッフ、それを指示する監督。
監督の考える事を文書化するシナリオライター…など、書いて言ったら切りがない人たちがいればこそであろうと思われるかもしれません。
 
確かにその通りです。ですが、実のところはパフレットの最初をめくったそこに答えがあったのです。…
 
『(前略)「電王」とは<少年が時の列車に乗り、仮面ライダーとなって自分を見いだし、列車を降りるまでの冒険物語>。(後略)』
 
…これを映画を見た後に読んだ時、おもわず大きく頷いた一文でした。
 
今回の物語はユウという少年が主人公です。
野上良太郎が幸太郎が、そして助っ人のように門矢 士が仮面ライダーに変身しているわけです。そして物語の題名は仮面ライダーです。しかし、彼等は主役ではありません。
 
どうしてそう言いきれるのか、それは映画を最後まで見ればわかります。確かに、あの一文の通り、電王の物語はしっかり受け継がれていたのです。だからこそ、ホロリと来たのです。
 
それは、TV版の最終話で彼が見せた喜びの原点がここにあったのかと思うに十分な物語であったわけなのです。
 
電王ファンであれば、また映画かと食わず嫌いをせずに見て欲しい一本であり、初見であるのならば、これを機会に仮面ライダー電王という絆の物語を知って欲しいと思うわけです。

ちなみに、ミミヒコを演じた柳沢慎吾氏、その兄であるクチヒコを演じた篠井英介氏は本当に素敵な演技をなされていました。敵役ながら主役を食ってしまうほど格好良かったですよ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「絆」と言う事で一つ。
 
今回は、少しふとした時に、このように感じた事と言う形で記載していこうと思います。
 
この映画…と言いますか、電王の世界におけるイマジンとの絆。それは契約という形でもたらされるのが基本というわけですが、それを超えた絆もあるという所をしっかりと見せてくれました。
 
物語における絆というのは、予定調和の部分が多分にあるわけで、それは綺麗な形であるわけです。
しかしながら実際には、それほど絆が綺麗なままでいられるというのが難しい事を私達は知っているわけです。
 
その絆が試されるのが約束ではないのかと思うわけですが、容易に絆を断ち切る要因になるのが約束であり、より強固になるのも約束であるわけです。
 
約束にはした側の使命感と達成力が、された側の期待感と応援力が必要となってきます。それが今の日本に足りない云々とは言いませんが、それでも、これは昔から変わる事のない事であるのは間違いないわけです。
 
それぞれの立場がありますし、状況・条件などもありますので、中には不可能とわかっていながらも引けない約束をする場合もあるのでしょう。それをされた側がどのように対応するのか。それによってもまた絆が深まる事もあるわけです。
 
絆を深めていく事は、より研鑚を求められるのかもしれません。
 
それを面倒と感じたとき、人の付き合いは表面だけの絆になっていくのでしょう。自分をさらけ出すのが怖くなるのかもしれません。それでも、人は人と絆を培っていくしかないのです。
 
経験上であるわけですが、自分の培ってきた絆がどれだけの広さ深さであるのかは、死んでからしかわからないのかもしれません。
それを人は得と言います。
 
とすれば人との絆をより良く築いていく事、それが善行=得を積む事なのかもしれませんね。
 
ある人はそれを赤い糸と呼びます。それを自ら断ち切る事がないようにしたいものだ…最近、そんな事がふと頭を過ったのでした。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年05月09日

白刃の煌きに命燃やして【「新鎧伝サムライトルーパー」(1992年 細井 雄二/矢立 肇/二階堂 いづみ/講談社)】

 さて、今回は1992年に連載されました「新鎧伝サムライトルーパー」です。

 1992年---人々は平和だった。かつであった妖邪界との戦いの傷もいえ、人々は、また、おのれだけの歴史をつづり始めていた…。しかし、人に捨てることの出来ない欲望があるかぎり、妖邪界は、たえることなく存在し、妖邪帝王・阿羅醐は、つねに人々の心のすきを狙い続ける。そしていま、そんな両者に、新たなる伝説が付け加えられようとしていた…。
 
 
 
 …という感じで始まるのですが、媒体は漫画雑誌、今はなき少年ボンボンにて6回だけ連載された作品です。
 
以前にも記載しましたが、元々、サムライトルーパー自体、一回15分作品で企画がだされた物であったわけですが、それが、TVシリーズを経て三度のOVAまで発売されたというのはサンライズにとっても驚きではなかったのでしょうか。
確かにその当時、ロボット物の低迷から等身大ヒーローへの移行がなされていたわけです。それでもロボット物を模索していた中において、いわゆる枠を停滞させないための作品。それがここまで人気がでるとは思っていなかったはずです。
 
実際に、声優がキャラソンではなく実名で歌手デビューし、コンサートまで開けた作品としては、その当時からしても異例であったはず。キャラクターがそうしたバンドを組むもしくは、歌手の真似事をするというわけではなく、あくまで歌っているのはそのキャラの声優さんであるというスタンスも、明確に表示されたのはその当時からしても数少なかったのです。
 
言い換えれば、それだけ人気の高かった作品であるにも拘らず、これまでリメイクの名前が出てこなかったのは不思議な事です。
 
1991年にOVA最終作となるメッセージの後に出てきたこの新鎧伝サムライトルーパーには、再びこの作品を世に出そうとし、様々な模索をしていた経緯が伺えます。
キャラクターデザインも、そのキャラクターたちがまとう鎧デザインも、テレビスタッフと同じ方がデザインをし、そして、設定画もあります。実際、雑誌連載時には、もしかすればテレビ化をするかもしれない…そんな文言もあったぐらいです。
 
ですが、1991年と言う時代には、すでにサムライトルーパーを放送していた時の条件とは大きく異なる状況になっていたのです。
 
その一つは、それまで放送していた名古屋テレビ(現メ~テレ)制作枠が消滅していた事。その前の年、1990年より始まった勇者シリーズ。その番組の放送途中で、放送時間帯が変更され、さらに、その番組を最後にそれまで名古屋テレビ制作であった同系列に連なる作品をテレビ朝日に移行するという事が起こったのです。
 
また、サムライトルーパーでもスポンサーであったタカラ(現タカラトミー)との提携が取りにくい現状もあるのだと容易に推測できます。
1994年にサンライズが資本提携という形でバンダイ(現バンダイナムコホールディングス・トイホビー バンダイ)の傘下となった関係で基本的にサンライズの作品はバンダイが玩具・ゲーム発売することになったわけです。それでも勇者シリーズをタカラで行っていたのではスゴイ事なのですが、それでも勇者シリーズ終了の後、タカラがスポンサーとなるサンライズアニメがない(ここら辺は記憶が曖昧なのですが、あえてこう言い切らせてもらいます)ために、こうしたリメイクもしにくいというのがあるのでしょう。
 
そういう意味では、魔神英雄伝ワタルもタカラであったわけですが、その権利は現在、バンダイにありますので、もしかすればこうした作品が今後ちらほら出てくるのかもしれません。
 
その一つがトルーパーであると言い切れるわけではありませんし、そうなったからと言って、この新鎧伝~がアニメ化されるとは到底思えません。また、トルーパーファンの中にはこうした新しい動きに否定的である人もいるぐらいです。それも仕方がないのかもしれません。
 
ただ、リメイク作品が全て失敗であったのかといわれれば、決してそうではない。新しい作品であると受け入れられれば、新しいファンを獲得することも不可能な話ではないのです。
そういう意味では、この新鎧伝~は、前作品とは一線を画して、新しい話として描く事もありえると言えなくもないのです。
 
そうした作品がこれまでなかったわけではないので、そう考えるのならば、この作品もリメイクが出ないとは限りません。
 
…と書き記してきたわけですけど、作品の中身に関しては記載していない…。
簡単に記載しますと、第三勢力が出てきてしまったので、何とかしなきゃイカン!・・・と言う感じなのですが、これでは端折りすぎ。上でだらだら記載しましたけど、もう少しお付き合いをば。
 
 
作品自体は、先ほども記載しました通り、サムライトルーパーと銘打ってありますが、TV放送のものとは別次元の物語であると認識した方が良さそうです。その一番の理由は、鎧ギアそのものにあります。
 
鎧ギアは元々、敵側の阿羅醐の体(と表現されていますが、これも鎧です)を九つに分けて、そこに仁義礼と言った、人の心を封じ込める事によって作り上げられたもの。しかも、その鎧自体が敵である妖邪の力を封じているのですからさぁ大変。
それを御するのに人の心を磨かなくてはならないという事になって言ったわけです。ところが、それに付けこむかのような存在、輝煌帝が鎧世界よりちゃちゃを入れてきたもんだからスッタモンダとなりました。しかも、その影というのが日本の遥かとーい場所に現れまして、日本に現れちゃって、烈火と光輪はさらわれるわ、んで鎧は暴走するわで…。
 
ま、↑の文章は読まなくてもOK。簡単に言いますと、鎧ギアというのは、OVA第二弾「輝煌帝伝説」において破壊されてしまったわけです。
 
あれ?じゃ、「MESSAGE」の鎧ギアは?…となりますが、これは、スズナギという「MASSEGE」オリジナルキャラの怨念が作り出した鎧ギアに代わる鎧ギアなのです。
さらに言えば、その鎧ギアを託された遼たちがそんなに簡単に次代へと鎧を継がせるというのもおかしな話です。鎧の力をその身に染み込ませたサムライトルーパーたちが、その力を持って何とするのか、その答えがそんなに簡単に出るとも思えませんしね。
 
もう一つ、TV版最終回で煩悩京に行ってしまったカユラが現世にいる事自体がパラドックスになっているのですから、これはもう別次元の物語と結論付けるしかありません。
勇者に対する超者、宇宙の騎士にブレードが付いたようなものです。
 
そうした物語であったとしても、その中身は続きが読んでみたくなる話であったのですが…最初に記載したとおり、これは6回で終わってしまったのです。人気がなかったといえばそれまでかもしれません。内容的に幼年誌向けでは、なかったかもしれません。
 
残念なことですが、これの復活はまずありえないでしょう。
まず、ボンボンと言う媒体もなくなりましたし、オリジナルアニメを行うのが難しいというのも、今の世情をみれば判ると言うもの。さらに言えば、等身大が戦うにしても、鎧をまとうはなくてもカッコよいキャラで同じ様な作品を作れてしまい、そうした作品の方…つまりはキャラの姿がより露出している方が人気が出るという事も逆風になっている要素なんでしょうね。
 
現状においては、脳内補完で続きの物語を作っていくしかない…というのが残念な作品であるわけなのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「時代劇」と言う事で一つ。
 
昨今の戦国ブームは凄まじいものを感じます。しかも、その主導権を女性が握っているというのは、何かサムライトルーパーの時を思い出させてくれるわけです。
 
このトルーパーと言う作品も、鎧を身にまとうという事から、戦国武将の名前がつけられていました。真田に伊達、羽柴に毛利、あと一人いるんですが、設定上では源の子孫であるとなっています。
こうした戦国時代に生きた人物に思いを馳せるのは、別に今のブームに限った話ではなく、NHKの大河ドラマにおいては長年積み重ねてきた物語が多数あるわけです。
 
アメリカでは西部劇、日本ではチャンバラと言われるように、日本人が時代劇を見るというのは、DNAのなせる業かもしれません。それもトンデモ時代劇であろうとも楽しめるのですから、素晴しいものです。
 
そのDNAは時代と共に、老若男女の住み分けをしていくわけですが、それでも同じなのは、その一瞬における生死の緊張感。これは西部劇における早撃ちの決闘と酷似しています。
次の瞬間には、どちらかが地面に倒れる儚さ。そこに有終の美を感じているのかもしれません。
 
戦国時代こそ、人が人として生きた時代…なんて事は言いませんけど、それでも、今の我々よりはずっと激しい時代を生きてきた。それだけではなく、この国の事を、民の事を考えていた。そんな風に感じてしまうのは、仕方がない話なのかもしれませんね
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年05月02日

その昔にあった三部作よ!今蘇ってくれ!【「無敵超人ザンボット3」(1977-1978年 名古屋テレビ/日本サンライズ/創通エージェンシー)】

 さて、今回は1977~1978年に放送されました「無敵超人ザンボット3」です。

 宇宙より突如飛来した宇宙船…彼らは自らをガイゾックと名乗り、地球滅亡に向けメガ・ブーストを送り込んでくる。それに立ち向かうのが、神ファミリー。彼らはその昔、ガイゾックによって滅ぼされたビアル星の生き残り、その子孫であった。
 
ご先祖の残してくれた遺産…ビアルⅠ世、Ⅱ世、Ⅲ世という三機の宇宙船と、ザンバード、サンブル、ザンベースを駆使し、ガイゾックと立ち向かう神ファミリー。それら宇宙船と戦闘機は合体が出来、ビアルⅠからⅢ世が合体し、キングビアルに、そして戦闘機三体は合体し、ザンボット3という巨大ロボットになった。
 
地球を守るために戦うザンボット3、しかし、彼らの戦いに理解をしてくれる地球人は少なかった。
 
 
 
 壮絶なスーパーロボットアニメとして知られるザンボット3。名古屋テレビ(現メ~テレ)が以降に続くアニメ枠として放送した最初の作品ともいえます。
それまで、関東キー局におけるこうした作品は多々あったわけですが、地方局における放送は大変珍しく。以降、勇者シリーズが終わるまで、時間帯移動があったにせよ、長く続いたアニメ枠であったわけです。
また、そのアニメ枠があったからこそ、サンライズという強力なアニメ企業が成長したと言うのも決して言いすぎではないわけです。
 
勧善懲悪。それまでのロボット物には当然あった決まり手のようなものでしたが、このザンボット3に関しては、それを大きく逸脱した最終回が描かれています。
そこにあったのは、世界はそれほど単純ではないという思考、もう一つは、それに伴うそれまでのロボットアニメからの脱出とその実験が含まれていたと言われます。
 
このシリーズ。無敵超人と冠が付くのでお解かりの方も見えるのではないのかと思いますが、その後番組となる無敵鋼人ダイターン3。さらには、その後番組になりました機動戦士ガンダム。当初はこれら三タイトルで一つのグループとして考えられていたわけです。
ザンボット3は三機合体。ダイターン3は三段変形。そしてガンダムは三機のロボットが互いのパーツを状況に応じて換装するというもの。しかし、ザンボット3からその考えは否定されたようなものでした。
 
何故なら、ザンボット3は厳密にスーパーロボットではなく、物語を重視したドラマであったからなのです。
 
更に言えば、ザンボット3はスーパーロボットではありません。少し不思議な動き方をする、兵器として扱われているのです。
 
また、敵の目的が明確になるのは、最終回である事もそれまでのスーパーロボット物とは大きく異なるものでありました。
世界征服にしろ、世界滅亡にしろ、人類抹殺にしろ、それまでのスーパーロボット物には必ず何かしらの目的が明文化されていたものです。その何故、が最後まで隠された理由は、製作者側の意図があったのかもしれません。
 
もし、当初からこのような最終回であろうものなら、スポンサー側から了承が得られたとは考えられないからです。
 
以降、サンライズの作品には、この作品の雰囲気が付きまとう事になります。それが良かったのか悪かったのかと言われれば、難しい判断なのかもしれません。
ただ、ドラマという原点からしてリアリティとリアルを混同させすぎた作品が多かったのは事実です。その結果、所詮は物語である中において現実との混同がより行われるようになってしまった。それは問題点であると思う訳です。
 
物語に引き込まれる事と、引き込む事の違い。特に後者であった場合の責任を製作者がどのように取るのか…いまだその答えは見えてこないのではないのでしょうか。
提示した事をどのように受け取らせるのか、それがあくまで自身の中における思想心理であるのなら、個人が前に出て行うのが正解のような気がしてならないのですけどね。
 
己が意見を映像として出し、その迫力によって説得力を出す。その破壊力を示してくれた最初の作品であるのは間違いないと思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「三部作」と言う事で一つ。
 
その昔…と言うわけでもないですけど、今でも良くあるのが第一期、第二期と放送を区切って行うやり方です。が、ココでいう三部作というのは、例えば宇宙刑事物というシリーズがギャバン、シャリバン、シャイダーであるような。そういう意味で捉えてください。
 
先ほども、記載しましたけど、このザンボット3は当初、三部作の最初として考えられて…いませんでした。結果的にそうなったというのが本当の所なのでしょう。
何せ、すったもんだとありました日本サンライズが背水の陣で取り組んだ作品なのですから。もちろん、これでこけていれば、今サンライズという企業すらあったのか疑問なほどなのです。
 
言い換えれば、それだけハングリー精神に溢れていた時代なのかもしれません。
 
無敵超人ザンボット3、無敵鋼人ダイターン3。では機動戦士ガンダムはどうなる予定であったのか。知れ渡っている話では、ガンボーイもしくはフリーダムファイター。
機動戦士ガンダムというのは、ガンボーイのガンとフリーダムファイターのダムが合わさったものなのだとか。この話を聞いていると、元々はスーパーロボット物を考えていた様子です。それを戦争物にしたのが…言わずもがなの方なのだそうです。
 
というわけで、勝手な想像で考えますけど、無敵は必要ですよね。無敵~なんですから。んで、~人も必須です。無敵○人…となるのですけど、○は何にしましょう。
超人…鋼人…兵器を武装すると言う所から武人にしましょうか。戦争物でもありますし。無敵武人…ガンボーイ…しっくりきません。
フリーダムF…最近のガンダムにそんなのありましたのでパス。
 
というわけで、勝手に命名した名称は無敵武人ガンファイター3としました…こんな感じで決まるとは思いませんけど、少なくとも玩具メーカーはそうしたかったのではないのでしょうか。何故なら、その方が玩具を認知させるのにそれほど苦労はいらないからです。
これは仮面ライダーであったり戦隊物であったり、またガンダムであったりウルトラマンであったりする。これまで続いている作品全てに言える話であるわけです。
 
さて、こうした三部作。何故三部作で終わるのでしょう。その理由は飽きが来るからです。
最初は新鮮味から、二作目までは盛り上がりますが、三作目にはどこかで飽きられてくるようになります。これを抜ければ、それからも続けられる土台が出来るわけですけど、その見極めとして三作目があるとしても決して言いすぎではないのです。
 
こうなって来ますと、策に引っかかった感が否めないのですが、そうでもありません。面白ければ、それだけ楽しませてくれるわけですから、それは水戸黄門の印籠と同じ効果があるわけです。それが桃太郎侍であるのか、それとも大江戸捜査網であるのかの違いなだけなのです。
 
ただ、最近の作品はオリジナリティを優先する必要がない原作付きが大半であり、その人気と進行具合によって同作品の二期三期と続いていくのが現状です。
そうした中では、こうした戦略を取ることもできず、結果的に子供の玩具離れが出てきているという風にも見られなくはありません。
 
実際に過去は過去で、過度の供給をしすぎたゆえに離れて言った例も多々あるわけですし、そうしたさじ加減は難しいものですが、目先の得に揺れ動いてしまうのも仕方がない話なのかもしれません。
 
こうした面白みのある三部作形態が作られなくなってきている事も、もしかすれば時代の流れという曖昧な言い回しの中に埋もれていくのかもしれないと思う訳です。
ただ、出来るのであれば、日本が誇るこうした物語の底力…それを原作に頼るものではなく見せて欲しいと思うのです。
 
そうでなければ、単に動画として実写として加工している、二次創作活動集団でしかない。そんな気がしてならないからです。…と同じ様な文言ばかりですが、それだけオリジナル溢れる作品を見てみたいと思うのは、少数意見なのでしょうかねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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