さて、今回は1985年に発売されました「ワルキューレの冒険 時の鍵伝説」です。

『はるか昔マーベルランドの住民達は永遠の命を持っていた。
人々は地上に溢れ、飢えと争いで憎しみの日々が続いた。人々の心に悪魔が宿ったのだ。そんな有様を見かねた神は、この地に大きな時計を築き、全ての者に生まれ、そして去るべき“時”を決めた。
神は、人々にその“時”を守ることを約束させると、大時計に“時の鍵”を差し込んだ。そして人々にとりついた魔物達を時の狭間に追いやり、二度と出て来られない様にした。
人々は命に限りがある由に、哀れみと労わりを知り、仲良く暮らし始めた。マーベルランドに平和な日々が続いた。
しかしある夜、死を恐れた男が“時の鍵”を抜き取ってしまう。
程なくして、針がくるくると回り時代が逆流し始めた。そして、時の狭間においやられた悪の化身ゾウナが甦ってしまった。
ゾウナは“時の鍵”を手に入れ、時を思うがままに操り、マーベルランドのあちこちに魔物達を放った。魔物達は町や村を破壊し、人々の魂を奪ってゾウナに捧げた。
恐怖と絶望の闇に包まれるマーベルランド。人々の救いを求める声は天を舞い、その声は、神の子“ワルキューレ”の胸に木霊した。
ついに、見かねたワルキューレは人間の姿に身を転じ、下界に降り立った。ワルキューレは地上を救うため、そしてゾウナを再び封印するために時の鍵を探す冒険に出る。』(ウィキペディアより)
ウィキペディアを見て、「そうだったなー」と「そうだったのかー」という感想を持った物語ですね。当然、そのような話はゲーム中には少しも語られることはなく、いきなりフィールドに放り出されると言う点が、当時、難しいという感じを出していたのではないのでしょうか。
と言いますのも、その当時は数多くの攻略雑誌が溢れ、ゲーム自体が攻略本ありきで作られている感があったように、今となっては思えるわけです。
当然、今もそうした攻略本は出ているわけですが、それでもこれほどまでに不条理な設定のあるゲームもないでしょう。
ヒントがまるでないのですから。
不思議なもので、ファミコン全盛期のユーザーたちには、何かを探し出す勘が大変よく働いており、初見のゲームであったりしても、その謎を解いてしまう猛者がいたわけです。今でなら説明不足で駄作のレッテルを貼られそうですけど、当時はそれを挑戦状のように受け止め、探し出す。しかも、その情報を雑誌社に投稿までする…そうした土台があったればこその話なのですけどね。
さて、このワルキューレの冒険 時の鍵伝説は、その当時としては斬新とも言える、星座と血液型で初期の性能が決まるシステムを採用していました。と言いましても、体力と魔力の初期値、そして成長パターンが決まるというものでしたが、それによって戦略が変わってくるという要素もあったわけです。
リアルタイムアクションゲームでありますので、状況は時間と共に刻々と変わっていきます。それを利用した謎解きもありました。
正直、これは普通に気付くのは無理。本当に偶然から理解するしかありません。それでも、それを読み解いたプレイヤーもいたとか聞いたことありましたね。
ゲームの目的は時の鍵というアイテムを奪い返し、ゾウナという悪の親玉と共に魔物を封じる事。それまでにいかにワルキューレを成長させ、謎を解いていくのかがまさに鍵となるわけです。
このゲームにおいて、もう一つの大事な要素…と言いますか、こちらのほうがメインではないのかと思う要素に、漫画があります。
キャラクターデザインをやられている冨士宏氏。彼によって書かれた漫画は、確実にワルキューレファンを増やしていったのです。ゲームが発売されていた時期、ナムコはNGという冊子を出していました。そこにも冨士宏氏の漫画が描かれていたのを覚えています。
今もし揃えられるのなら、NG、揃えてみたいですねぇ。
今のゲームフリークの走りとも言えるナムコマニア。その最盛期が、この少し前からこの辺りの時期までではなかったのかと思うのですが…これはまたの機会に調べてみましょう。拾えれたら、結構、濃い話が出来そうな予感。
そんなある意味、時代の先を行き過ぎた時に出てきた作品の一つではないのかと思うのです。
と言う感じで思うところとしては「ドット絵のゲーム」と言う事で一つ。
最近、昔のファッションがまた流行りだしたりしていますけど、ゲームでも同じ様な事が起こっていますね。その媒体は携帯ゲーム機。ニンテンドーDSiのソフトやケータイ電話のゲームアプリです。
そうしたゲームは確かにファミコンからすれば色数も増え、音源も素晴しいですので、比べる事が出来ないのかもしれませんが、それでもこれは同じというものにドット表現している事が挙げられます。
いまならポリゴンなどという名称すら出てこない、美麗な3D表現でのゲームが数多に出ているわけですが、それでも、ドット表現のしているゲームの人気が衰えないというのはどういう事なのか…そんな事を考えてしまいます。
確かに、飛行機のシミュレータなどもゲームのようなものです。単なるゲームと異なるのは、その仕事に対する真剣さが必要であり、単なる遊戯などではないという事なのですけど、その画像並の素晴しいシミュレーターが家庭でも出来るようになりました。
つまり、素人でもパイロットになれるほどの能力をパソコンが持ち合わせ、場合によっては家庭用ゲーム機はそれ以上の処理をしてくれると言う事なのです。
ですが、そうした美麗なものの全てが面白いのかといえば、これは明らかに異なります。
また、捜査が複雑になりかねない、さらには値段がどうしても高くなってしまうという二つの敷居の高さを見せてしまうことになったわけです。
そうなりますと、ケータイ電話のゲームアプリで500円ぐらい、携帯ゲーム機でも4000円もあれば購入できるソフトで面白いものがあればそちらに流れるのは仕方がない話なのです。
それまで業務用…つまりはゲームセンターに行かないと体験出来なかったゲームが家庭でも同じ様に出来るようになったファミコンの登場に驚きを隠せなかったわけですけど、その感動というのは薄れたわけではなく、何か手軽に出来る娯楽要素がなくなっていったからではないのかと、ふと思ってしまうわけです。
あくまでゲームがお気楽にプレイするのが一番のような気がするわけで、そういう意味ではトランプというのは優れたゲーム用の道具であると思いますし、アレを抜くテレビゲームが出ることはないのだろうと同時に思ってしまうわけです。
それも技術革新でいきなり変わる可能性がない…と言えない楽しみも同時にあるのもまた事実。時代に左右されない想像を超えた遊びがどのように出てくるのか、楽しみな事です。
そんなこんなで本日はここまで。





