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2009年04月25日

古くても新しくても、遊びはお手軽が一番【「ワルキューレの冒険 時の鍵伝説」(1986年 ナムコ)】

 さて、今回は1985年に発売されました「ワルキューレの冒険 時の鍵伝説」です。

 『はるか昔マーベルランドの住民達は永遠の命を持っていた。
 
人々は地上に溢れ、飢えと争いで憎しみの日々が続いた。人々の心に悪魔が宿ったのだ。そんな有様を見かねた神は、この地に大きな時計を築き、全ての者に生まれ、そして去るべき“時”を決めた。
神は、人々にその“時”を守ることを約束させると、大時計に“時の鍵”を差し込んだ。そして人々にとりついた魔物達を時の狭間に追いやり、二度と出て来られない様にした。
 
人々は命に限りがある由に、哀れみと労わりを知り、仲良く暮らし始めた。マーベルランドに平和な日々が続いた。
 
しかしある夜、死を恐れた男が“時の鍵”を抜き取ってしまう。
 
程なくして、針がくるくると回り時代が逆流し始めた。そして、時の狭間においやられた悪の化身ゾウナが甦ってしまった。
ゾウナは“時の鍵”を手に入れ、時を思うがままに操り、マーベルランドのあちこちに魔物達を放った。魔物達は町や村を破壊し、人々の魂を奪ってゾウナに捧げた。
 
恐怖と絶望の闇に包まれるマーベルランド。人々の救いを求める声は天を舞い、その声は、神の子“ワルキューレ”の胸に木霊した。
 
ついに、見かねたワルキューレは人間の姿に身を転じ、下界に降り立った。ワルキューレは地上を救うため、そしてゾウナを再び封印するために時の鍵を探す冒険に出る。』(ウィキペディアより)
 
 
 
 ウィキペディアを見て、「そうだったなー」と「そうだったのかー」という感想を持った物語ですね。当然、そのような話はゲーム中には少しも語られることはなく、いきなりフィールドに放り出されると言う点が、当時、難しいという感じを出していたのではないのでしょうか。
 
と言いますのも、その当時は数多くの攻略雑誌が溢れ、ゲーム自体が攻略本ありきで作られている感があったように、今となっては思えるわけです。
当然、今もそうした攻略本は出ているわけですが、それでもこれほどまでに不条理な設定のあるゲームもないでしょう。
 
ヒントがまるでないのですから。
 
不思議なもので、ファミコン全盛期のユーザーたちには、何かを探し出す勘が大変よく働いており、初見のゲームであったりしても、その謎を解いてしまう猛者がいたわけです。今でなら説明不足で駄作のレッテルを貼られそうですけど、当時はそれを挑戦状のように受け止め、探し出す。しかも、その情報を雑誌社に投稿までする…そうした土台があったればこその話なのですけどね。
 
さて、このワルキューレの冒険 時の鍵伝説は、その当時としては斬新とも言える、星座と血液型で初期の性能が決まるシステムを採用していました。と言いましても、体力と魔力の初期値、そして成長パターンが決まるというものでしたが、それによって戦略が変わってくるという要素もあったわけです。
 
リアルタイムアクションゲームでありますので、状況は時間と共に刻々と変わっていきます。それを利用した謎解きもありました。
正直、これは普通に気付くのは無理。本当に偶然から理解するしかありません。それでも、それを読み解いたプレイヤーもいたとか聞いたことありましたね。
 
ゲームの目的は時の鍵というアイテムを奪い返し、ゾウナという悪の親玉と共に魔物を封じる事。それまでにいかにワルキューレを成長させ、謎を解いていくのかがまさに鍵となるわけです。
 
このゲームにおいて、もう一つの大事な要素…と言いますか、こちらのほうがメインではないのかと思う要素に、漫画があります。
 
キャラクターデザインをやられている冨士宏氏。彼によって書かれた漫画は、確実にワルキューレファンを増やしていったのです。ゲームが発売されていた時期、ナムコはNGという冊子を出していました。そこにも冨士宏氏の漫画が描かれていたのを覚えています。
今もし揃えられるのなら、NG、揃えてみたいですねぇ。
 
今のゲームフリークの走りとも言えるナムコマニア。その最盛期が、この少し前からこの辺りの時期までではなかったのかと思うのですが…これはまたの機会に調べてみましょう。拾えれたら、結構、濃い話が出来そうな予感。
 
そんなある意味、時代の先を行き過ぎた時に出てきた作品の一つではないのかと思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「ドット絵のゲーム」と言う事で一つ。
 
最近、昔のファッションがまた流行りだしたりしていますけど、ゲームでも同じ様な事が起こっていますね。その媒体は携帯ゲーム機。ニンテンドーDSiのソフトやケータイ電話のゲームアプリです。
 
そうしたゲームは確かにファミコンからすれば色数も増え、音源も素晴しいですので、比べる事が出来ないのかもしれませんが、それでもこれは同じというものにドット表現している事が挙げられます。
いまならポリゴンなどという名称すら出てこない、美麗な3D表現でのゲームが数多に出ているわけですが、それでも、ドット表現のしているゲームの人気が衰えないというのはどういう事なのか…そんな事を考えてしまいます。
 
確かに、飛行機のシミュレータなどもゲームのようなものです。単なるゲームと異なるのは、その仕事に対する真剣さが必要であり、単なる遊戯などではないという事なのですけど、その画像並の素晴しいシミュレーターが家庭でも出来るようになりました。
つまり、素人でもパイロットになれるほどの能力をパソコンが持ち合わせ、場合によっては家庭用ゲーム機はそれ以上の処理をしてくれると言う事なのです。
 
ですが、そうした美麗なものの全てが面白いのかといえば、これは明らかに異なります。
また、捜査が複雑になりかねない、さらには値段がどうしても高くなってしまうという二つの敷居の高さを見せてしまうことになったわけです。
 
そうなりますと、ケータイ電話のゲームアプリで500円ぐらい、携帯ゲーム機でも4000円もあれば購入できるソフトで面白いものがあればそちらに流れるのは仕方がない話なのです。
 
それまで業務用…つまりはゲームセンターに行かないと体験出来なかったゲームが家庭でも同じ様に出来るようになったファミコンの登場に驚きを隠せなかったわけですけど、その感動というのは薄れたわけではなく、何か手軽に出来る娯楽要素がなくなっていったからではないのかと、ふと思ってしまうわけです。
 
あくまでゲームがお気楽にプレイするのが一番のような気がするわけで、そういう意味ではトランプというのは優れたゲーム用の道具であると思いますし、アレを抜くテレビゲームが出ることはないのだろうと同時に思ってしまうわけです。
それも技術革新でいきなり変わる可能性がない…と言えない楽しみも同時にあるのもまた事実。時代に左右されない想像を超えた遊びがどのように出てくるのか、楽しみな事です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年04月18日

前にも同じ様な事を記載したわけですけど…【「星のローカス」(1984-1985年 小山田いく/秋田書店)】

 さて、今回は1984~1985年に連載されました「星のローカス」です。

 長野県小諸市にある星恵高校機械科に通う学生、二木聡は気の弱い自分にコンプレックスを持っている青年である。工場を切り盛りする父親に従い、本来は進みたかった普通科そして美術学校への道を諦め、ただ唯一許された下宿生活の中で怠惰な日々を過ごしていた。
その隣りの部屋に住む長尾友幸は、同じ機械科のクラスメートで、自称変体魔人で神話好きの星好き。いつも、二木にちょっかいを出しては怒られ、飽きられている。
 
二木には阿見志保里という幼馴染がおり、彼女もまた機械科の同じクラスメートであった。それだけではなく、二木に対してあからさまに好意を持っている。二木はそれを知りつつも、彼女に甘えている部分があったのだ。
 
そんな優柔不断な二木が初めてラブレターを貰う。同じ高校に通う普通科の女子であった。
 
志保里にとってはライバルの出現。その事に危機感を覚えた行動が二木のデートを壊してしまう。その事にショックを受けた二木は、志保里を拒絶する。それでも、志保里は二木に一緒にいて欲しいという気持ちを抑える事はできない。
 
その夜、長尾の部屋でやけ酒を食らい、自己嫌悪で愚痴を言いまくる二木がそこにいた。その心の中は、志保里ではなく走り去って言った彼女に対してのさよならを繰り返していただけであった。
 
 
 
 と…なんだか、第一話をかなり省略してなぞっていくと、二木がどんだけトロいのかと思ってしまう内容です。が、この星のローカス。実際には、素敵な物語であるのです。
 
題名にある星のローカス、これは実際に夜空に浮かんでいる星たちを指し示しており、そのローカス…つまりは軌跡になぞらえて話が進んでいくのです。
星座を形作るローカス、星がそれぞれ動いていく事のローカス。そうした事を経験や交わりといった人と人同士の事柄に合わせた物語となっているのです。
 
第一話にしても、優柔不断でありながらも優しくみえる二木を牛飼い座アルファ星のアークチュルスになぞらえました。春の星、オレンジ色の暖かい色の星なのだそうです。しかし、二木が求め目指そうとしているのは、おおいぬ座アルファ星のシリウス。青白く輝くクールな色の星です。
それだけ自分の優柔不断さや甘さがイヤだったと言うことなのでしょう。
 
つまり、この星のローカスというのは二木が長尾から星の神話や星の特徴などを聞き、その時の物語に、そうした神話などをなぞらえていくという形を取っていったのです。
 
当初は二木と各話で出てくる女子との恋愛…いえ、失恋話。しかし、それがある話より一転して二木と長尾、二人の物語になってきます。どうして長尾が二木と同じ下宿にいたのか。その理由も明確になっていくのです。
 
ある日、二木は志保里や飲み友達でもあり、長尾に好意を持っている祖父江夕子を連れ、スキーに出かけます。その時、二木はある言葉を長尾に言うのです。その言葉に長尾は全てを悟りました。同時に、二木が再び今の自分の環境を壊そうするかの行動を取ろうとしている事も理解するのです。
それは長尾にとっても最悪な事であったわけなのです。
 
彼にとって二木は大切な存在であるわけです。それは志保里の好意とは別の無類の愛情であったのです。
 
そして、長尾は二木から離れていきます。もう、学校も卒業という時、その時に自分の軌跡を今一度、二木に見つめなおさせるために。自分という二木にとっても衝撃的であった存在を除外し、考えてもらうために。
二木は実家へと走ります、長尾からの手紙を持って。そして自分の知っている事を父親にぶつけるのです。そして二木は全てを知る事になりました。自分のこと、両親のこと、そして長尾の事を。
 
行方不明も同然になった長尾はある場所へきていました。それは、二木を連れ旅行にいった直江津だったのです。
 
そこにある旅館は、二人にとっても思い出深い場所でありました。そして、海岸…そこで二人は再会します。長尾と二木ではなく、兄と弟として。弟を見守るためにやってきた兄。しかし、兄は頼りない弟にかまけすぎ、自分が自分である事を忘れていたと自嘲するのです。自分の軌跡を見つめる事が出来るようになるまで、旅を続ける…それは別れではなく、再会のための約束でありました。
 
長尾友幸という男の強さは決して誰も怨む事無く、ひがむ事無く。何より、肉親に対する愛情が素晴しいという事です。自称変態魔人でありますが…行動もそうであったわけですけど、この男のカッコよさは、かなりの物です。
そして、その兄によって自分の足で軌跡を辿れるようになった二木聡も、終盤では本当の意味で良い男になりました。アークチュルスのまま、しかし、その暖かさが人に染み入っていくようなカッコ良い男になったのではないのかと思う訳です。
 
その二人に恋する、阿見志保里に祖父江夕子。彼ら四人の物語としての星のローカスは、一旦終りを告げ、新たな星のローカスを刻んでいく。そんな物語の終り方を描いているのです。

 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「ドラマ」と言う事で一つ。
 
漫画原作とするドラマが最近多いわけですけど、その大半は原作が途中までで、その当時に人気に乗っかる形で製作決定をするというものが多く、結果的にそのドラマ自体がどうしても原作の改竄を行わなくてはならないわけです。それは言い換えれば、原作という計算された作品を一度壊し、新たに構築することになるわけで、本来その作品のファンが見て納得するのかどうかは甚だ疑問でなりません。
 
事実、最近のドラマにおいて先行するのは、いわゆるイケメン俳優の起用ばかり。そのドラマの真意がどこにあり、そのために原作を抜擢したのかなど蚊帳の外になっているわけです。
とすれば、これはアニメの話においても、同じ様な事を言うわけですが、別に漫画原作のドラマである必要性はまったくないという話になります。むしろ、そうした脚本家をテレビ局で育て上げる事がいいのではないのかと思うぐらいです。
 
今回紹介している星のローカスなどは、ドラマ化するとして、確かに当時許された表現が現在に通用するのかというマイナス面があるわけですが、それを変更したとしても、根本となる筋は完結しているわけです。それを弄らない限り、ぐらつく事はないはずなのです。
 
何が言いたいのかといえば、要するにこれもアニメと同じになるわけですけど、目先の利益に固執しすぎという事なのです。
 
今人気があるから放送しなければならない…これは真実なのでしょうか?要するに宣伝費を抑える事が出来、尚且つ人気のある題材であるからこそ、自分たちの苦労もさほどなく見てもらえる。そんな甘えがあるのではないのでしょうか。作る側の人間がそんな安易な行動をし続けている事に危機感を感じてならないわけです。
 
少なくとも原作付きの物、それが漫画であれ小説であれ、当初からメディアミックスを念頭においていないのであれば、それは完結した物を使うべきであると思う訳です。
その昔は、オリジナル作品が大半であったのですから、それも出来ない話ではないと思いますし。
 
出来ないのではなくやらないと言うのであれば、それも時代なのでしょうか。あとは緩やかに死滅していくだけであると思うのです。少なくともサブカルチャーであるはずの文化が時代に飲み込まれた時点で終焉を迎えているのかもしれないのですけどね。
想像することを停止した創造など、運だけが残るわけで、そこに反省もないし経験も蓄えられない。ドラマでもアニメでもいえる話は、何で4クールやらのでしょうかね。長くても26話で終了…そりゃ乱立もします。
 
ここら辺のらんちき騒ぎをどうにかするべきなのかもしれませんね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年04月11日

想像のエネルギーを創造し【「機動戦士ガンダム00」(2007-2009年 サンライズ/毎日放送)】

 さて、今回は2007~2008年、半年間を空けて2008~2009年に放送されました「機動戦士ガンダム00」です。

 西暦2301年。人類が新たなるエネルギーとして開発し運用する宇宙太陽光発電システム、そしてそのエネルギーを地上まで浮くり届ける軌道エレベーター。無限ともいえるそのエネルギーを優先的に使用できるの大国もしくは連合国であるごく一部に限られていた。
 
ユニオン、人類革新連盟、AEU。そして、彼らは互いに互いを牽制し、その軍事力を制限する事無く増大させていった。
 
そうした狭間にある小国は彼らの代理戦争のような状況に置かれ、中でも化石燃料資源が主力産業であった中東は、宇宙太陽発電システムのために、かつての栄華は見る影もなくなっていた。それだけではなく、そうした事における国内情勢の不安定さは、小国同士が合い争う結果になり、そうした中で死滅した国も少なくはなかった。
 
そうした国の一つにクルジス共和国がある。そこでは内紛が起こり、中でも年端も行かない少年兵が神の名の下に集められ、敵と交戦していた。だがしかし、そうした中でモビルスーツに対し、銃一つで立ち向かう事に無理があった。
圧倒的な戦力差に少年兵たちは、倒されていく。その中にいた一人、ソラン・イブラヒムも、今その銃口が自身に向けられるのをスローモーションのように見ていた。
 
その時、そこにいたモビルスーツを倒した光。それはたった一機のモビルスーツが起こした奇跡にも見えた。
 
緑色の鮮やかな光、それが羽のように大地にまで届き、ゆっくりと、こちらを見下ろすかのようにたたずんでいる。ソランはその姿を目に焼き付けていた。
 
それから6年後の2307年。世界に対し宣戦布告をする組織が現れる。それは、その年より約200年前に設立された組織であり、その目的は地上からの戦争撲滅であった。
だがしかし、武力による武力制圧。それは誰からも受け入れられるはずもなく、世界はその組織によって戦争へと突入して行く事になる。世界対組織…いや、三大大国対組織。手を組むことはない国々がそれぞれの思惑を孕みつつ、その組織の力を欲し、それでも対抗していくことになる。
 
それは科学者イオリア・シュヘンベルグによって作られた組織。彼こそ、太陽エネルギーの基礎理論を作り出し、そして、無限のエネルギーをもたらした張本人であり、そして同時に世界の諍いに心痛めていた人物である。
そのイオリアが戦争根絶のために作り上げたものが、通称太陽炉=GNドライブ。重粒子を蒸発させることなく質量崩壊させ、莫大な陽電子と光子を発生させることにより、莫大なエネルギーを半永久的に生み出す機関…それを搭載したモビルスーツ・ガンダム、そして組織ソレスタルビーイングであった。
 
今、再生のための破壊が行われる。
 
 
 
 先ごろ、テレビ版が終了しました機動戦士ガンダム00のお話です。
 
面白い設定と物語。しかも、テレビ版においては半年の休憩を挟んでの前半25話、後半25話という特殊な状況で行われた作品でもあります。
ここ最近における同枠においては、珍しくなくなってきた感はありますけど。
 
この作品、全体的に見れば、これまでガンダム作品を見ていた人にとっては少し懐かしく、まったく見ていない人にとっては新鮮に映っていたのではないのでしょうか。
 
特に宇宙歴(UC歴)を知っている人にとってはニヤリとさせられる場面が多かったのではないのかと思います。
 
それでも、それが単純にリメイクされているのではなく、あくまでこの作品のために加工されているのがわかり、決して破綻している表現ではないのが嬉しい限りでした。
今やっている作品なのですから、それは大事な話です。あくまで、今のガンダムは今の子供たちが楽しめるように作るべきであって、決してそれまで楽しんでいた大人たちが楽しめるのは後付でもかまわないと個人的には思う訳です。
 
最近では他にも楽しめる媒体が多くありますので、どうしても大人の方に向いてしまう作品が多いのですけど、だからこそ、昔のロボットアニメが今必要ではないのかとも思うのですけどね。
 
ただし、ガンプラというその作品を手に触って楽しめる媒体として00は少し年齢設定高いのではないのかと思ってしまいます。
 
いじり倒して遊ぶというのは、初代もそうでしたし、ガンプラとしては素晴しい事ではないのかと思う訳です。ただ、現在において、ガンプラがその当時ほど遊ばれない状況があり(プラモデルとしてはと言う意味。完成形であるハイコンシリーズは別です)、果たして模型としてもガンダム作品としてはどうか…というのが疑問でならず、同時に残念でなりません。
 
ティエリアの乗っていたガンダムなど、改造しがいありますけどねぇ。あのグ○ンゾートっぽいの。アク○ビート風とか、ウ○ンザート風とか、抜け殻になったセラヴィーなんかをどうやって動かすようにするのかとか。
プラモ○四郎なんかが続いていたら、面白いことになりそうですけどねぇ。
 
そんな感じで見ていたわけですけど、基本的に物語はあくまで人同士の対等と葛藤に終始しておりまして、その姿勢は最後まで貫かれておりました。
人同士は分かり合えるのかどうか、そして人は人とは別の知的生命体との出会いを争いではなく迎えられるのか。これは、今の人類にも言える話であるのは間違いない話です。
 
ただし、同じ様に争いはなくならない事も、物語ではつづられており、結果的にその模索をする事が必要である。ここまでがテレビ版における人同士の話であったわけです。
有史以来、争いを続けている人類がどのようにするべきであるのか。一つの答えもないまま、物語が進んでいるというのは、それを安易に提示するべきではないのか、それとも出来ないのか…それをそう捉えるのも野暮な話なのかもしれません。
 
狂気染みた破壊が、全体主義の名のもとで行われるか、自由と民主主義の聖なる名のもので行われるかということが、死にゆく人々や孤児や浮浪者に対して、一体何の違いをもたらすのであろうか…マハトマ・ガンジーが言った言葉であるわけです。大義名分という言葉がどの立場であろうとも、結果的に暴力であるのならば、同じ暴力に他ならないという事であるのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「エネルギー」と言う事で一つ。
 
この作品に登場するGNドライブ。それは重粒子を崩壊させる事によって光子と陽電子を生み出し、それをエネルギーとして利用するというものでした。実は、その元になったのだろう構想および実験が既に行われているのです。
 
そのシステムは、海水に含まれる重水素を結合させる核融合発電というもの。要するにお天道様の仕組みを作り出そうとしているわけなのです。ちなみに、今の原子力発電は核融合ではなく核分裂なのです。詳しい事は、調べてみると面白いですよ。
実際に成功し更に進化すれば、机上では無限に近いエネルギーを取り出せるのだとか。現実の物になるまで生きていられるかはわかりませんけどねぇ。
 
今、私たちを照らしてくれている太陽がそのエネルギーを消費するのに約46億年かかるといわれているので、現状において太陽光は無限に近しいエネルギーであるといえます。残念ですが、先ほどの言ってしまえば太陽炉構想は実現にもう少し時間がかかるようですが、太陽発電システムにいたってはかなり研究が進んでいるものです。
 
しかも、アメリカでは本当に軌道エレベータの建設に向けて準備を始めているのだとか。
 
こうなってきますと、作品の世界が現実になる日も近いのかもしれません。
日本もそうですが、アメリカも化石燃料には不自由している国であります。そうした中で、必要とするエネルギー量は決して減る事はなく、そのほとんどを輸入に頼っているのが現実です。
 
そうした問題をなくすためには、やはり、太陽光、風車、揚水、地熱といった自然エネルギーを利用することが急務とされています。中でも太陽光発電に関しては、日本でも国を挙げての事業になりような状況にやっとなってきました。
太陽電池では世界を先んじていた日本ですが、それを活用する事にいたってはかなり遅れているのが現状なのです。
 
完全に太陽光とするにはまだまだ問題があるのは当然ですので、あくまで化石燃料の代用品ではなく、補助品としての位置は少なくとも半世紀はかわらないのかもしれません。
ただ、化石燃料が地球からの採掘である以上、その容量は確実に減っているのは事実です。たとえ、日本の真下に合ったとしても、それを安定して汲み上げるだけの技術力もないのでしょうし、何より採算が合わない事でしょう。
 
となれば、補助的でも徐々に変更していけば問題はない話なのです。
 
少なくとも、太陽は日本にその姿を見せているわけです。例えば、近郊に関しては電気で、遠距離に関してはガスでという役割を完全に分配したハイブリット車や、春夏秋冬によって火力と電力を使い分ける家電など、そうした技術開発が必要になってくるのでしょう。
結果的に、そうした家電などの何割かが、自宅での発電によって賄う事ができれば、エネルギー問題とエコ問題は方向性を変えて行く事が出来るはずです。
 
その問題に企業の存続もあるわけですが、しかし、そうした企業だけが潤う状況よりも、日本が潤う事を考えるのならば、企業は率先して国と協力することが、即ち、不況に強い国造りになるのではないのでしょうか。
 
そう、国が企業が利益を得るのではなく、あくまでそれを支える国民が潤う国造り。日本はその岐路に立っているのだと思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年04月04日

材料であるとして、その良い加工方法は…【「里見八犬伝」(1983年 角川書店/東映)】

 さて、今回は1983年に公開されました「里見八犬伝」です。



 その国は悪霊が支配する国。里見家が治めていた国に現れたのは、怨霊・玉梓が率いる蟇田の軍。それはかつて悪政を行っていた蟇田を攻め民草を解放した里見家への復讐でもあった。
蟇田が求めるのは里見の血。その中でもただ一人逃げている一人娘の静姫を追いかけていた。
 
それと同時に諸国へその手を伸ばしていく、蟇田軍。
 
そうした中で、光る球の導きによって集っていく剣士たちがいた。八つの珠に導かれる八人の剣士。その里見家には一つの伝説があった。ある戦にて、敵の攻めに難儀していた里見の殿は、近くにいた犬・八房に戯れでこう言った。
 
「敵の大将首を取ってこられれば、娘、伏姫をお前にやろう」
 
その戯れが現実の物となった時、殿は驚愕した。だが、伏姫は約束どおりに八房にその身を預け、山深くへと連れ去られてしまう。しかし、戯れた約束の後悔から殿は八房討伐を命じる。
その討伐隊の攻撃が八房を庇った伏姫に当たってしまう。その時に伏姫の持っていた数珠が弾け、八つの大玉が天空へと散ってった。
 
その八つの球こそ、伏姫から放たれた珠。その光の中に輝くのは文字。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌…その珠を持つ者たちを八犬士と呼んだ。
 
それぞれに出生や生活が違っていたとしても、その珠に導かれ静姫の下に集まってくる。その目的は怨霊・玉梓を討ち果たす事であった。
 
 
 
 その当時、CMで見ない日はないという程、広告が打たれていた映画であったと記憶しています。物語的には冒険活劇。しかも、ヒロインとヒーローが存在するもので、いわゆる原作である南総里見八犬伝やその翻訳である新・里見八犬伝とは全く異なる、今で言う所の二次創作物としてみるのが正解なのでしょう。
 
まずヒーローが異なります。南総における主人公は犬塚信乃、そして丶大法師がそれぞれ担っているわけですが、この映画版では犬江親兵衛がヒーロー役として最後に静姫と結ばれて終わります(明確にそうした表現はありませんが、そのように受け取れる終り方なのです)。
 
そして八犬士の象徴でもある珠。この珠が宿敵である玉梓を倒すアイテムになっており、これを収められていた不動尊に戻すと、光の弓矢が生まれるのです。
しかも、玉梓の後ろに御霊様という真の魔王がいるわけで、これを倒さないと玉梓たちは何度でも蘇るそうなのです。その唯一の弱点が光の弓矢なのです。
 
と、ここまで記載すると何かしら不思議な話に聞こえてきます。そう、これはまるで西洋のファンタジーではないかと。
 
その様相がないとは決して言えるはずもなく、インスパイアされた視覚効果もありました。最後に御霊様という魔神像の首が転がってくる所などは、明らかにインディジョーンズの大きな岩が転がってくるシーンその物でしたし。それに、敵である蟇田の城の様子などは、色こそ違えどダース・ベーダーが収める帝国軍のような感じでした。
 
その他にも、時代劇にロックと言われるきっかけを作った作品でもありますし、特殊メイクが本格的に使用された作品であるというのでも有名ではないのでしょうか。
こうなってくると、時代劇というよりは和製ファンタジー映画とした方が良いのかもしれません。もしくは時代考証のない時代劇…それでも、子連れ狼の無敵の乳母車も時代劇とは言いがたいんですけどねぇ…かもしれません。
 
それでも、アクションシーンは役者さんの身体を張ったシーンが素晴しい迫力を見せておりました。今ならば確実にCGだろうというシーンすらも、実際にアクションしているのですから、その迫力はスゴイものです。
そういう意味では、最近の映画は金をかけれるようになりましたし、CGで作れないものはないのかもしれないのですが、生身の迫ってくるような迫力のある演技…これを忘れている時がある気がしてならないんですよねぇ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「二次創作」と言う事で一つ。
 
いまや二次創作と言いますと、同人誌のことのように思われるわけですが、しかし、元々は商業における作品の方が二次創作が多いのは事実なのです。
では何をもて二時創作というのか。一つは原作が存在するという事。もう一つはその原作をあくまで材料として利用している事。大まかにこの二点になるのではないのでしょうか。
 
元々好きな分野でもある漫画や小説に関しては、この二次創作によって製作されたアニメやドラマの題材のように使われているわけで、その内容は別にそれを材料として使わなくても良いんじゃね?という出来の物が多いのが事実です。
 
では何故、そうした作品が多いのか。これは散々記載してきましたが、単純に売上げが見込める=人気が出る可能性が高いからです。
 
オリジナルの作品を展開させるためには、その作品の持つ魅力を販促で文字通り世間に促す必要があります。ですがその費用は決して安いものではありません。こうした原因に、最近のアニメが行われている時間帯、その主力が深夜枠になっている事が挙げられます。
また、同時に放送される話数が極端に少ないのも起因になっている一つなのでしょう。
 
あるニュース記事で日本のアニメーションが海外で受けなくなってきているという話がありました。それは決して一過性のブームであったという話ではなく、数多く排出される作品のほとんどが放送期間が短いことに原因があるのではないのかと思われるわけです。
日本における現在の基本は13話。それを1クールとして数えるわけですけど、大体行われるのは1クールもしくは2クールです。1年…つまりは4クール以上行われる作品は本当に稀になりました。
 
しかし、海外では人気のある作品は1年以上やって当然であり、テレビ局も当然番組を長くやることに目標を掲げて製作しているわけです。だからこそ、視聴率の厳しさがより意味のある物になっているわけです。それは現時点での視聴率。つまりは生きている数字如何において、製作路線の変更から打ち切りまでを決めることが出来るのです。
 
これをシビアというのであれば、その通りなのでしょう。しかし、日本のように視聴率が番組に活かされる事なく終了を迎える番組が多い=視聴率はあくまで結果だけであり、その意味が希薄な割にはその数字を重宝がっているという不可思議な状況に比べれば誠実なのかもしれません。
 
さて、二次創作の話に戻しますが、いわゆるそうした放送事情からして、材料であったとしてもそれを活かしきれるだけの理解を製作者サイドが行い、それを視聴者サイドへとしっかり伝えているのかと言えば、それを行っている番組が少ないのです。
これは結果的に下泣くをしる視聴者のみを対象にした商売のやり方のようなもので、原作をとの差異を楽しめる人のみに訴える…つまりは自身たちでどんどん領域を狭めているわけなのです。
 
こうした中で新しく視聴者を確保する…というのは少し無理な話ではないのかと思うわけで、とあるアニメ制作会社が今年は売れる作品を作るという見当違いなコメントをしてしまうのも無理はないのかもしれないと同時に思ってしまうわけです。
 
売れる作品のノウハウが作れればそれほど楽な話はありませんが、それこそ、神様でも描けないシナリオではないのかと。
 
それよりも短いクールで無駄に材料を消費したりするのではなく、模倣であるのならば模倣なりの礼節と感謝を持って製作に望むべきではないのかナァと思う訳です。オリジナル作品や一年以上の放送で勝負を出来ないのですから、そうした状況を改善するのも大事な事だと思うんですけどねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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