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2009年03月30日

記念というその一瞬を大事に【「ルパン三世VS名探偵コナン」(2009年 日本テレビ/読売テレビ)】

 さて、今回は2009年に放送されました「ルパン三世VS名探偵コナン」です。



 物語はヴェスパニア王国で起こったある事故がきっかけで始まる。それは、その国の王女であるサクラが息子に誤って猟銃で撃たれ死亡てしまうというものであった。その為に王女の息子である王子は自害。結果、次の王となるのは、サクラ王女の娘であるミラということになった。
 
その日、その情報は日本にも流れ、毛利探偵事務所でコナンたちはその速報を見ていた。その同じ時間、飛行機の中にいたルパン三世は、ある場所へと向かっていた。ヴェスパニア王国である。
 
彼の目的は、王家に伝わる冠であった。それはミラの戴冠式に使われるものであった。
 
そのミラは第一王位継承者として、日本に向けての公務を行う必要があった。それは彼女の意思とは関係なく、国として行われるものであった。
 
日本に到着したミラを待っていたのは、ホテルでのパーティであった。だが、事件はそこで起こる。ソムリエが注いだワインを持ち、乾杯の音頭と取ろうとしたその時、ワインを飲んではいけないという声が会場に響いた。
その声に驚き、声を発した者を見るミラ王女。そこにいたのは、一人の少年…コナンであった。
 
コナンはミラ王女の持つワインを、それを注いだソムリエに試飲するように言う。さらに、その会場に身包みはがされた本物のソムリエが登場する。
その偽ソムリエは王女の命を狙い、ワインの中に毒を仕込んでいたのだった。
 
騒然となる会場、そしてその隙に逃げ出した偽ソムリエ。その手に持たれたナイフに臆することなく一撃を加えた人物は、毛利小五郎であった。
 
ショックのあまり自室に閉じこもるミラ王女。その時、彼女の取った行動は突拍子もないものであった。
ホテルの火災報知機を作動させ、脱出を試みたのだった。
 
街中を走る王女。その時、彼女はある女性とぶつかってしまう。その顔を見た時、まるでそこに鏡があるかのような衝撃を受ける。
その女性の名は毛利蘭。毛利小五郎の娘である彼女の顔はミラ王女とそっくりであったのだ。
 
 
 
 …その後は、ミラ王女を探し出したはずの警備員を蘭が見事に勘違いで撃退。そして…という形で物語は進んでいきます。
 
日本テレビが開局55周年、読売テレビは50周年。その記念に合作となったルパン三世VS名探偵コナン。これまで、テレビスペシャルという形で放送を金曜ロードショーで続けていたルパン三世の特別編としての位置づけにあるこの作品。
それぞれの原作者であるモンキーパンチ氏と青山剛昌氏も楽しみにしているということで週刊少年サンデーでも大々的に紹介されていました。
 
コナンといえば、最近では金田一少年の事件簿とのコラボを実現させ、また青山剛昌氏の作品におけるコラボをアニメでも行っていた事もあります。
かたやルパン三世はその昔に秋本治氏とのこち亀合作にてコラボ経験がありますので、両者ともコレが初コラボと言うわけではないのですね。
 
ルパンの絵柄的にコナンと会うものかと思っていましたが、それほど不自然さは感じませんでした。最近のテレビスペシャルのルパン三世たちが、かなり柔らかい線の印象を受けるからかもしれません。当然、この作品と作る際に、変更した部分もあるのでしょうし。
 
元々、ルパンはヤング向け、コナンは少年誌向けですからキャラクターとしての描き方が違って当然なのです。しかも描かれ始めた時代も片や1967年、片や1994年。その開き30年弱なのですから、時代背景も何もかも食い違うはずなのです。
 
でも、このアニメではそうした雰囲気はありませんでした。それだけルパンが時代ごとに成長し、コナンもコレまでに培ってきたアニメでの歴史があるからなのでしょう。
互いに雰囲気の違うものを一緒の場所にする苦労は並大抵の物ではないのでしょうが、それでも見事に成し遂げたと思います。
 
毛利小五郎役の神谷明氏も普段のコナンでは出来ない小五郎の言い回しをやれたのですから、面白かったのではないのでしょうか。その場面は、これから発売されるであろうビデオにてご確認の程を。
 
最後の最後までスタッフの遊び心が沢山溢れている作品でありました。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「記念」と言う事で一つ。
 
アニバーサリーなどと言う言葉が聞かれて久しいわけですけど、基本的に○周年という時に半端な数字は如何なものかと思う訳です。sれなら毎年毎日がアニバーサリーでもよろしいじゃないですかと。
 
また、普段から20%引きという看板をみたんですけど、それって結局常にその値段でやっているわけですから、それを基本に考えればよろしいのですかね?
 
記念という聞こえで惑わせるような商品って、正直JAROに電話しちゃえって思いませんかね。
 
それでも確かに記念品と呼べるものがあるわけですし、また、それが好きな人にとっての記念という物が存在するのは間違いないわけで、それは記念と呼ぶのに十分なわけです。
 
要するに記念の安売りをするのは如何なものかと言うわけで、記念と言うからにはその時だけの希少価値を求めたいわけです。
そういう意味では、人同士の付き合いによる記念日はたった一度きりの時間なわけで、その記念は大事にしたいものであるなぁと思う訳です。
 
それは一期一会の決して繰り返すことが出来ない貴重な時であるのですから。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年03月30日

人を思い出すという事【「ヴォイス~命なき者の声~」(2009年 フジテレビ)】

 さて、今回は2009年に放送されました「ヴォイス~命なき者の声~」です。

 

 15年前…とある地下鉄で大規模な事故が起こった。その現場に駆りだされていた佐川文彦はある女性の蘇生に当たっていた。しかし、絶望的なその状況下にあって、優先されるべきは死者ではなく生者に向けられていた。
佐川が離れようとしたその時、その女性の手から鈴のキーホルダーが転がり落ちる。そのキーホルダーを拾ったのは、幼い少年であった。
 
「このお母さん、声がでなくなっちゃったんだね。もうちょっとだよ、がんばれっていってあげられなくなったから、鈴…ならしてあげたんだね、きっと」
 
そして少年は持っていた鈴を近くにいた赤ん坊に手渡す。その事がきっかけとなり、佐川は臨床医ではなく法医学へ進むことを決意したのだった。
 
そして月日が流れ、 東凛大学医学部法医学教室に佐川の姿があった。そして同じ大学の学生にある名前を見つけていた。
 
加地大己。その名前は佐川にとって、忘れることの出来ない名前であった。そう、彼こそが15年前のあの日、あの場所で鈴を赤ちゃんに渡した少年であったのだ。
 
心臓外科学ゼミを希望していた大己であったが、佐川は法医学に入るように細工をした。
 
「君は法医学に向いていると思ってね」
 
大己はその言葉の意味を理解できるはずもなく、しかしながら、法医学ゼミを受講することになる。そこで出合った四人の学生と共に、法医学を学んでいくことになった。
 
 
 
 先ごろ終わりましたフジテレビの月9ドラマ、ヴォイス~命なき者の声~です。
 
法医学をテーマにしてるのかと思えば、内容的にはそうではなく、むしろ、アームチェア・ディテクティブのように情報を募り、その人の言葉を遺族に伝えていくという物語でした。ただ、安楽椅子に座って情報を集めるというよりも、率先して行動をして情報を集めている所から当てはまるかどうかは微妙ですが…。
 
主人公は加地大己を含め五人。
 
大病院の跡継ぎである石末亮介、医学部一の才女の久保秋佳奈子、、監察医が描かれた海外ドラマがきっかけで法医学ゼミを選んだ桐畑哲平、元不良の羽井彰。
 
それぞれに動機も目的も異なる五人が法医学ゼミを受ける中で、自分の過去を振り返りながら、目の前の声にならない声を拾っていくのです。
 
面白いといえるのが、解剖や分析に関する話はほんの少ししか出てきません。むしろ、現場検証であったり捜査であったりと、凡そ関係ない場面が多いドラマでした。というのも、それが全て大己の特殊能力を前面に出すための布石であるからなのです。
 
それまでに見てきたこと、聞いたことを大己は彼なりの考察によって結び付けていきます。その瞬間、彼の世界は閉ざされた空間のような、時間を取り残した空間のように表現されるのです。
そして導き出した答えを遺族に伝えに行くのです。それは大己の想像の部分が大半です。それでも、遺族を納得させるに十分なものであるようなのです。
 
そう、ここで重要なのは、遺族を納得させるということなのです。
 
物語の中で全てが完璧にうまくいくということはありませんでしたが、それでも彼らは遺族に声を伝えようと努力してきたのです。このことを基本として、物語は進んでいきます。
そして、ドラマの最後には大きな事件が…起こったといえば起こったのでしょうし、起こらなかったといえば起こらなかったという感じでしょう。正直、淡々と進んでいったナァと言う感想が残りました。
 
全十一話であったのですが、それが短かった故の不完全燃焼であったと個人的には思っております。その辺は残念でなりませんね。
第二期やって欲しいものですねぇ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「故人」と言う事で一つ。
 
人も生き物ですから必ず死にます。その死亡原因をはっきりしてくれるのが法医学であると思うのですが、それでも納得が行くかいかないのかというのは、その人に関わってきた方々の思い入れの仕方によってではないのかと思う訳です。
事故であろうと病気であろうとも確実にわかっているのは、その人の声を聞くことも抱いてもらうことも叱ってもらうことも、もうないという事。それだけは真実です。
 
また、人は故人に対する思いも募るものです。その良し悪しに関係なく生きている時よりも深まっていくものです。だからこそ、故人に対する思い出はなくならないのかもしれません。
 
同時にだからこそ、その故人がどうして亡くなってしまったのかを憤るのでしょう。少なくとも、「あぁ良かった」などと言われない、生活を送って生きたいものです。
 
何時までも泣いて欲しくはありませんけど、それでも思い出してくれる人がいればそれで良いかな。
 
人の生きている以上は何時かは死ぬわけで、どう死ぬのかよりも死んでしまった時にどうなるのかを考えるべきなのかもと思うわけです。言ってしまえば自分の持ち物の整理整頓と言う話です。
一番イヤなのは、見つかって欲しくない物が見つかってしまった時。まぁ、自分は死んでいますから焦ろうが何しようが止める事は出来ません。それで幻滅されないように…言いえて妙ですけど、これって真理な心理ですよね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年03月15日

頑張って作っているのは…【「ファイブスター物語」(1989年 永野護/角川春樹/角川書店)】

 さて、今回は1989年に公開されました「ファイブスター物語」です。



 クラウン大銀河に存在する4つの恒星系…イースター、ウェスタ、サザンド、ノウズと長大軌道を持つスタント遊星により構成されるジョーカー太陽星団。星団には極めて発達しつつも緩やかに衰退を始めている文明が存在している。
4つの太陽系の幾つかの惑星に居住している人類は、無数の国家を形成し、国家は互いに勢力拡大を争っていた。
 
惑星デルタ・ベルンの統治者、「光の神」天照帝は、その日、妻であったリトラーとの話である場所へ向かう事を決めた。
 
星団歴2986年。
第1太陽系第2惑星アドラー西方トラン自治区。大規模な惑星改造により数千年前より人が住み始めた、歴史のある惑星である。そこに、一機のモーターヘッド(MH)が落下してくる場面から物語は始まる。
そして、そのMHを操縦して来たのは、レディオス・ソープというMH技師=マイスターであった。
 
砂漠の真ん中で往生しているソープを見つけた一台のキャリア、それは評議会よりある任務を託された騎士=ヘッドライナーであるボード・ヴュラードの物であった。
ソープを乗せたドーリーは奇しくも同じ方向を目指していた。ソープは古き友人にあるため、そして、ヴュラードはファティマのお披露目を見届けるため。
 
ファティマ。それは人の姿をしている人ならざるもの。MHを駆るヘッドライナーのために存在する生体コンピューター。
星団全てのヘッドライナーにとって、それはMHと共に自身を騎士たらしめている存在であった。だが、騎士に対して絶対的に服従を誓うファティマにも、一つだけ許されている事があった。それは自身が仕えるヘッドライナーを自身で決める事が出来るというものであった。
 
ファティマは騎士に惚れるわけではない。騎士の力に身をゆだねる。それを愛情と間違ってはいけない。それだけの美貌と献身さを兼ね備えているファティマが魔性のように言われる所以でもあった。
 
ファティマは人と同じ様に生まれるわけではない。マイトと呼ばれる設計者によって作り出される。ソープが会いに行った古き友人は、そのファティママイトである、狂気の科学者、クローム・バランシェであった。
 
そのバランシェがソープに言う。彼女らを守ってくれと。
 
今回、お披露目が行われる自治区の大公ユーバーには、黒い噂が絶えないからだ。だがしかし、バランシェはソープにある秘密を暴露する。それが守って欲しいという最大の理由であったからだ。
 
ファティマには、マインドコントロールを施される。それは人よりも長生きをし、その演算能力、そして身体能力を恐れる故に人が施した鎖のようなものであった。
明らかに人類よりも上位に位置するファティマを配下に置くには、絶対的な精神的支配が必要であったからだ。だが、バランシェはそれを疑問視していた。だからこそ、アトロポス、クローソー、そしてラキシスにはマインドコントロールをさせていないというのだ。
 
それは星団法を無視した重罪であった。だからこそ、ソープに守って欲しい。クローソーをしかるべき騎士に、そしてラキシスをその手に託すと…。
しかし、ソープの心は揺れていた。それは自身の心の問題でもあったからだ。
 
それから後のある日、ヴュラートにMHを見せてもらっていたソープ。そこに警報が鳴り響く。お披露目を控えていたファティマ、クローソーが脱走を図ったのだった…。
 
 
 
 1989年…今から20年も昔に公開されましたファイブスター物語 劇場版のご紹介です。上記はかなり割愛されていますので、ご了承のほどを。
 
原作は月刊ニュータイプというアニメ雑誌に掲載されている(現在進行形)同タイトルの漫画です。原作者である永野氏が忙しいので、休載を挟んでの長期掲載になっており、その関係でこれほどまでに長期作品となっているといえるわけです。
 
劇場版は、その第一巻をまとめた作品となっております。
デルタ・ベルンの天照が、自身のファティマであり最愛の人となるラキシスとしっかり手を取り合うラブストーリーなのです。
 
そう、これを決してロボット物と呼称してはなりません。あくまで絵本。そして神話でありSFではなくファンタジーであるのです。その劇場版アニメ化であるのです。
ですので、この第一巻の物語はこれから始まるラブストーリーの始まりを描いたものとしても何も問題はないのです。
 
ファイブスター物語は言ってしまえば、剣や魔法の物語となんら変わりがありません。言い換えるとすれば、全てのロボット物がそうであると言ってもおかしくはないのです。特にスーパーロボットと呼称されるのは当然なのですが、リアルロボットと呼称されるものであったとしても、とても近代兵器に並ぶものではありません。
 
正直、兵器としては不完全なものばかりなのです。
 
とすれば、これらは魔法世界で言う所の土人形(ゴーレム)と何ら変わりがないという事になります。昔ありましたロードス島の青銅の巨人がMHであるとしても無理な話ではありません。そこに立ち向かう勇者が騎士であったとしても不思議はないのです。
生身では敵わないから、魔法の防具に剣。それが相対するMH。そしてその手助けをしてくれる魔法使い=ファティマ。
 
確かにファンタジーです。
 
となれば、バスター砲は禁忌の魔法という事になるのでしょうか。その土地を壊滅にしてしまうほどの威力という事は、メテオフォールぐらいの強力魔法と言う話になるのかもしれません。
 
そのファンタジーをこうしたアニメ化するというのは、かなりの苦労があったのではないのかと思います。
今でも、これだけの作りをして営業するという企業がどれだけあるのか、正直疑問です。ポケモンやケロロ軍曹など、確かに劇場版で活躍しているアニメは数多くありますが、それでも定番を脱出できないのは今の時代仕方がない話なのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「アニメ」と言う事で一つ。
 
昨今におけるアニメ事情というのは、決して良い方向に向かっているとは思えません。確かに、海外における評価はありますし、何より声優アワードを開催したり、世界コスプレサミットなどでも、ジャパニメーションはその地位を確立しているわけです。
 
…が、それだけです。
 
例えば、映画においては俳優だけではなく、監督や監修にスポットを当てられる事は当然の如くあるわけです。漫画・小説にしてもそうです。作者にスポットが当てられるというのは当然の話です。
 
ですが、最近のアニメに関しては声優にスポットが当てられているだけで、監督や作画に動画、音楽といった分類には目が向かれにくい状況になっています。
以前にも記載しましたが、アニメは声優があってのアニメではありません。声優もあってのアニメです。一部だけにスポットが当てられ、それでアニメ自体の得になっていくのでしょうか。
 
アニメ…動画作品と呼称しても良いのでしょうが、こうした作品を作り上げるのは、技術者・芸術家の仕事と変わりがありません。
作品となってみてもらうこと。それは第一であるべき事です。問題は、そうした事が行われつつも、それを作り上げた人にスポットを当てられない原因は何だろうという事なのです。
 
プログラマーと違い、一人で全てを行うには無理がある世界であるからこそ、一人の英雄を作りにくいのでしょうか。それとも、最近の何を見ても同じ様な映像しかない事に問題があるのでしょうか。
 
個性は特徴であり、歪みから来る味わいです。原画があったとしても、それをどう料理するのかはそれぞれの認識にかかっています。
同じ花を見て、それを華と感じるのか、鼻と感じたのかは、それぞれの個性ですし、それを絵として表現するにあたり、花に戻すかそうではないのかも、個性です。
 
絵を描くにあたり、原作と異なる設定と異なると吠える視聴者に問題があるのでしょうか。それとも、それをそうであると納得させられない作家陣に問題があるのでしょうか。
 
私自身はそれよりも何よりも、今の放送形態そのものに問題があるのだと思うのです。
売れる物を作ること、その認識の違いがこうした問題の根底にあるような気がしてならないのです。
 
売れる作品とは何でしょうか。今のライトノベルや漫画で売上げが上がっている作品をアニメ用にオリジナル設定にすること。原作の人気があるのだから、それに便乗でして売上げを上げればいい…アニメである意味はあるのでしょうか?
ハリウッドもそうですが、原作におんぶに抱っこの姿勢で本当に良作が作れるとは思えません。事業である以上、確かに売れる事が前提であるのは当然の話ですが、守りに入った状況で、何が創作できるというのでしょうか。
 
もう一つ、製作している方々がもっと、前に出てきて作品の説明をしても良いのではないのかと私は思うのです。それが出来ない理由は何なのでしょう。
 
才能が足りない人が足りない…そうした結論はあるのでしょうが、それを補える組織が現状でもあるはずです。広告代理店などは、そう動いてみるのも一つの手ではないのでしょうか。
映画やドラマでの世間に対する売り込みをアニメでもやってみる事に何の問題があるのでしょうか。それを踏まえて時間を作るのも手段の一つであると思うのですけどね。
 
声優がこれだけ前に出てきているのですから、製作者側も持っと世間に出るべきなのです。それこそ、声優アワードと同じ様なものを作り称えるのは当然の話ではないのでしょうか。
一部分の誉れだけで良しとしている。現状のアニメ業界はそのように見えて仕方がないのですけどねぇ。
 
他にも素人目にでも見えている「このままで良いのかナァ?」という事は他にもありますが、それはまた後の機会にて。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年03月07日

良い進歩への模倣【「マリーとエリーのアトリエ ザールブルグの錬金術師 新装版」(2007年 越智 義彦/エンターブレイン)】

 さて、今回は2007年に発刊されました「マリーとエリーのアトリエ ザールブルグの錬金術師 新装版」です。



 光とか闇とか剣やら闇やらが入り乱れ、魔法や妖精さんなんかが生きる世界。---とくりゃあハデなちゃんばらや魔物との戦い、壮大な英雄物語の始まりィ!!---となりそうだケド、そこで生きるほとんどの人々は、平凡なあたりまえな日々の暮らしを営んでいたりする。
 
シグザール王国の都市ザールブルグ。その都市には錬金術師を養成する王立魔術学校があり、通称アカデミーを卒業した中で優秀な人はマイスタークラスへと進むことも出来るという。エルフィールもそうしたマイスタークラスへと進めるほどの実力を有する錬金術師の一人であった。
 
彼女は卒業に向け、町の工房で仕事を請け負いながら、その過程で培った経験と成果をアカデミーに提出し無事に卒業することが出来たのだ。そうした事を過去に行った人物がいた。
それはアカデミー史上最低成績で卒業も危ういとされた人物に教師イングリドが課した課題であったのだ。
 
無事、その試験をクリアし卒業した錬金術師をマルローネと言った。
 
エルフィーユと談笑しながら街を行くイングリドの視線の先に、そのマルローネがいたのです。ふらっと旅に出ていくマルローネがこうして街に帰って来る事自体が珍しいことであった。その旅のお陰でエルフィールは流行り病から生還し、錬金術師を目指すことになったのだが…この時まで、彼女の成績がアカデミーのワーストを記録するものであるとは知らなかったようである。
 
ザールブルグに帰ってきたのは良いが、目的もなく帰ってきたマルローネ…マリーに対して、学校から借りていた工房を出て行かなくてはならなかったエルフィール…エリーは一緒に工房を開こうと持ち掛ける。戸惑いを見せるマリーであったが、それでも学校ではわからない錬金術の可能性を知る一人として、一緒に工房を営むことを決めるのだった。
 
 
 
 元々はゲームでありますこの漫画は、エリーのアトリエのノーマルエンディングからの話になります。また、この新装版には全5巻で発刊された漫画を上下2巻にし、さらにアンソロジーに掲載された話をまとめております。更に、作者である越智氏のロングインタビューもありますので、ファンにはたまらない上下巻であるというわけです。
 
イベントに参加している関係もありまして、何回かお話をさせていただいた事があります(その節はお邪魔をしまして申し訳ありませんでした)。その話の中で、どれだけこのゲームを楽しんでいるのか、そしてその想像が膨らんでいるのかをお聞きいたしました。
 
その成果とも言うべき内容が同人誌で続けられているのですが、それも遂に商業用の本として発売されているのです(マリーとエリーのアトリエ ザールブルグの錬金術師 Second Season。現在二巻まで発売中)。
 
その時に言われていた事で印象的な事柄があります。それはマリーやエリーたちキャラクターはザールブルグで今も普通に生活をしているという事です。
 
当たり前の話に聞こえますが、これは物語を書き続ける際には忘れやすい話なのです。
 
よく物語が進んでいく際に言われるのが風呂敷を広げるという事です。風呂敷の中には、その物語の秘密であったり伏線であったりキャラクターの謎であったりします。そして、その物語をうまくまとめて終わらせることを風呂敷を畳むという表現が使われます。
元々、この二つの意味は違っているのですが、その元ネタのニュアンスからして、そうなっていったのでしょう。
 
要するに、物語をうまく終わらせるのは、その物語の終焉=世界の終焉のように思われる節があるのですが、それはとんでもない話で、実際にはどの物語も、世界の滅亡であったとしても、その後に続く話が必ずあるわけです。
更に言えば、物語の基本的な流れ=筋が描かれている裏でも、その時間軸と同じ流れで登場しないキャラクターたちの生活があるわけです。
 
この物語は、そうした見えていない部分の話が見えるような雰囲気がある漫画であるのです。
 
当然、その物語が漫画だけのオリジナルであると言えば、そうなのかもしれませんが、それと原作…この場合で言えばゲームがコラボレーションすれば、話は変わってきます。実際、この漫画で登場するマリーたちと一緒に生活している妖精たちが出てくるゲームが存在するのです。
となれば、漫画の中にある物語がゲームで出てこないとしても、それはゲームのストーリーの間にある物語ということになるわけです。
 
思うに、本来、物語とはそのキャラクターたちの心情や行動を完全に説明してもらうものではなく、それを共感できるように読み手が想像を膨らませるものではないのかと思う訳です。それが間違っていようとも問題ではなく、そういう可能性もあったというだけの話であり、もし、考えていた通りであったのなら…虫の知らせでもあったのだろうと思うべきなんでしょうね。
 
決して全てが明らかになる事が全てを知ることではない…と思うわけです。もしそうであるのだとすれば、それは悲しいことに新しい想像、そしてそこからの模倣を経た創造の喪失でしかないのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「模倣」と言う事で一つ。
 
この漫画は先ほども記載しました通り、ゲームからの模倣であります。しかしながら、その模倣は新しい創造となって、こうして形を成しています。これは、三国志や忠臣蔵と同じことです。物語の核が存在しており、それを想像を持ってエンターテインメントの形を作り上げているわけです。
 
同じ様にどの業界であっても、近代文化は何かの模倣があり、そこからの取捨選択と挑戦によって新しい何かが創造されたと言えます。仕事にしても遊びにしても、全てにおいてそれらは大胆な取捨選択と斬新な挑戦の結果があったと思えるわけです。
 
HONDAのASIMOなどは、その典型的な例なのでしょう。アトムを作れ…こんな途方もない話から、世界でも有名な二足歩行ロボットが出来たのです。しかも、それは日々進化し続けています。
これも、人の模倣であり、それまでの培った技術から想像した斬新な挑戦があったからこそ出来上がったものではないのかと思う訳です。
 
ですが、世間で言う所のバブル崩壊からいざなぎ越えの景気を経て、現在の100年の1度の不況に至るまで、どうであったのかと考えるべきではないのかと思う訳です。
 
人材と言う言葉があるように、そうした想像また創造は、人が連なって技術と英知を伝え続けてこその物。それを断ち切ることは人材の育成云々だけではなく、そうした想像を放棄する結果になる可能性もあるのです。それは、まるで栄華を誇ったことに満足し、堕落を続けたノアの時代の人たちのように、私たちの目の前には、再び大洪水が待っているのかもしれません。もしくは、様々な不浄を蔓延させたソドムとゴモラの人々のように、滅びの道を辿っているのかもしれないのです。
 
これらの例えが言いすぎであったとしても、同じ模倣であるのならば、人類の進歩、自然の共存、そして共に進化の道を歩んでいける模倣をしていきたいものだと思う訳です。
それこそ、人と言うかけがえのない財を育てる事になるのだと思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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