TOP>2009年02年

2009年02月28日

力の使いようと使いどころがズレていませんか【「覇王街」(1995-1996年 神崎将臣/講談社)】

 さて、今回は1995~1996年に連載されました「覇王街」です。



 その強さ故、格闘界・武道界からその存在を永久抹消された音固体---何時しか彼らは自分たちだけの闘いの“場”を持った…己が生命と誇りを“旗(フラッグ)”に託して。
 
その街では、不定期にストリートファイトが行われていた。自分の“旗”を掲げ、闘いに命を賭ける…それはまるで治外法権でも働いているかのような闘いであった。
 
どの世界にもはぐれる輩は存在する。ただ、規格外であったためだけに、場所を無くした者たちがいる。
 
闘う事で自分を表現する彼らにとって、その場所がない事は、苦痛でしかない。だがしかし、ある時、彼らの間にふと舞い込んだ噂…千本の“旗”を取れば天下が取れる。
“旗”を取るには、己の“旗”を掲げ、敵の“旗”を奪うしかない。それがフラッグファイトであった。
 
刺激に飢えていた若者たちの間で、それは熱狂的な人気となる。そして、その中で賭け事も横行していた。
だが、旗闘士(フラッガー)たちにそれは関係ない。飢える心を満たすために、闘い続けるだけなのだから。千本を手にする、その日まで。
 
そんなフラッグファイトの中に、一人の学生が飛び込む。だが、中学生でありながら圧倒的な彼の強さは、何時しか、フラッグファイトが何たるかを、あからさまにしていくのであった。
 
その彼の名は、神楽烈破と言った。
 
 
 
 月刊少年マガジンで連載されていました、覇王街です。
 
背は小さく、ほうき頭の中学生、神楽烈破が自分の腕一本だけで、フラッグファイトに飛び込んでいく話です。最初は、彼の素性も何もわからないままで話が始まりますが、その後、烈破が街に現れ、フラッグファイトに参加した理由がわかります。
 
ストリートファイト物…といっても、ゲームセンターで人気を博したストリートファイターⅡ以降に出てくる、不思議な力を有した普通の人の格闘物。そんな雰囲気は拭いきれません。
正直、内容的にも平凡な話であり、結果的に人気が出たのかどうかも定かではありませんが、逆に捉えれば、こうした設定であっても、圧倒的な魅力が一つでもあれば長続きする可能性があると示した作品であると思うわけです。
 
それは言葉であるのか絵であるのか。少なくとも、人物設定や基本設定などは、そうそう弄れるわけでもありませんし、また性別だけで変わるようなものであれば、結果的には萌え系の作品としか評価はされないでしょう。
 
この作品も月刊誌で一年は続きました。ですが、結局最後は作中の文字だけで、結論付けられてしまった作品となっています。
 
この作品において、恐らく挑戦したかったことは、様々なイジメに対する批判ではないのかと思うわけです。
同世代のイジメ、例えば集団で個をいじめるだけではなく、最近ではプロフによるイジメもあります。また、ハラスメントという言葉をかえたイジメも存在するわけです。
 
一見、この漫画ではいじめられる方に問題があるとも取られかねない描き方がされています。しかし、実際にはそうではなく、いじめている側は反撃しないいじめられた側を弄んでいるように見えるが、実際は生かされているだけだと言い切っているのです。
それはいじめられた側が傷みを知っているからだと言うわけです。
 
今、その言葉が当てはまるのかはわかりません。ただ、少なくとも、他人に対する厳しさが裏にある優しさではなく、厳しく言っている側の安息を求める行為の延長である…最近のイジメの話を聞くたびにそう思えてならないわけです。
 
イジメはどこにも存在します。イジメという言葉を変えたことも沢山あるわけです。
モンスターペアレンツで使われるようになったモンスター何とかという行動、DV…ドメスティックバイオレンスや幼児虐待もそうです。そして先ほども記載しました、セクハラ、パワハラのようなハラスメント。
 
何もイジメの代名詞が若者ではなく、むしろ、成人した後の社会でも横行していると、伝えているように思えるわけです。
 
何をして暴力と言うのか…そんなある意味抽象的な言い訳ではなく、力ある者が行使してはいけない行動。単にそれを指摘している漫画ではないのかと思うわけです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「力」と言う事で一つ。
 
神崎氏の作品で「KAZE」と言う漫画があります。その中で記載されている台詞にこういうものがあります。
 
『権力とは“力”とは金や富ではない、「滅び」をあたえる立場に立てるか否かだ!!』
 
確かにその通りです。イジメとはある意味、こうした滅びを与える側に立てる簡単な行為であるのは間違いありません。その快楽はしている側にとって途方もないものでしょう。
ですが、イジメという物が大概は、そこまでになるとは思わなかったという状況にまで容易に達してしまう行動であるのも、知るべきなのでしょう。つまり、滅びを与えていた側が、ある日、滅ぶ側に容易になってしまうということなのです。
 
これは企業においても、同じことが言えるのでしょう。
 
最近では、使い込みがばれるケースがありますが、これも一種の力の使い方を誤った結果であると言えます。しかも、企業側においても、これは滅びを招く結果になりかねない事であるわけです。
同じ様に簡単にリストラを発表している企業が多いわけですが、これも安易な企業計画におけるイジメであるのは間違いない話ですし、好景気といわれた中でこうした状況を考えなかったのも一種のハラスメントであるのは間違いない話なのです。
 
こうした企業の行動が結果的に自分に返って来るのは理解できないのでしょうか。
 
無い袖を触れるはずが無いのです。リストラをして、金銭を世間に戻さない状況が、景気を良くするとは到底思えないわけです。これは明らかに温存している力の使い方を間違っていると言う状況であるのは言うまでもない話であるわけです。
 
力の使い様によって、良くも悪くもなる。戦争から遠くはなれてしまった感のある日本ですが、しかし、そうであったとしても、結果的に勝ち負けを決めたがっている状況が、何か力の使い方や使いどころを間違えているように思えて仕方が無いわけです。
 
どんな形であれ、イジメは良くありません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年02月21日

同じ馬鹿なら良い馬鹿になろう!【「滅日 -HOROBI-」(1987-1990年 たがみよしひさ/徳間書店)】

 さて、今回は1987~1990年に連載されました「滅日 -HOROBI-」です。



 男は夢を見ていた。その夢の中で、声が聞こえる。あきらめろ…無理だ、逃げられしない…わかっているはずだ…。その声が掛けられているのは、一組の男女。駆け落ちをしているらしいが、何かから車で逃げている。そしてその車は、崖の上から落ちてしまい…。
 
男は、そんな悪夢を毎晩のように見ている。彼の名前は尼子全。とある生物研究所に助教授として勤めている。
今彼が共同で研究しているのはアルビノのサンショウウオが成長できるのと言う事である。そして、同じ研究所に勤める同じ助教授である相賀修一もまた、尼子の知り合いであった。
 
研究所の所長である呼野氏には、一人娘がいる。呼野翔子。彼女に対して尼子は好意を持っていた。しかし、翔子が好きなのは尼子ではなく相賀であった。
何かにつけ、相賀に劣等感を持つ尼子。恐らくそれは研究にしても、女性に関する事についても、苛立ちを覚えるものであった。
 
そして、ある日、ある場所で事故が起きる。
それは、車が神社近くの崖から落下し、乗っていた男女が死亡したというものであった。それは尼子が見ていた夢と全く同じ内容のものであった。誰かに話せば楽になるのかもしれない…尼子は相賀に夢の話をした。だが、悪夢はなくならなかった。なくなりはしなかったが、しかし、駆け落ちの男女が死亡した日から夢が変わった。
 
尼子はその夢の話も相賀にしている。平静を装いながら聞いていた相賀であったが、彼もまた、眠ることに怯えていた。そして、彼だけが知る真実。それは彼と尼子が同じ悪夢を見ているという事であった。
 
その後、また事件が起きる。ある中学校のホラー研究会が、車の落下事故があった現場にきていた。その付近で幽霊の目撃談があったからだ。山の中を散策していると、ある一人が、丸い銅盤を発見する。それを持ち帰って調べようとした時、彼らの目の前に怪物が現れた。
それは、尼子や相賀が夢で見た怪物であった。
 
三角縁神獣鏡と名付けられたその銅盤は、ホラー研究会の中学生が巨大な獣に襲われた現場…あの、車の落下現場にきていた、青目麗衣子によって回収され、そして翔子の父親である呼野教授が保管する事になった。
 
その夜。
呼野教授から神獣鏡をしまって置くように言われた尼子が、それを手にしようとした瞬間、神獣鏡の中央にあるレンズのようなものが尼子の右掌にくっついた。その瞬間、強烈なテレパシーが相賀や翔子、呼野教授たちに飛ばされ、彼らもそれが尼子からの物であると認識する。
 
次の日、相賀が慌ててやってくる。怪我をしたという尼子に代わり、神獣鏡をしまって置くように頼まれた相賀であったが、残りの部分が今度は相賀の胸に、まるで刺青のような形で吸い込まれていった…。
 
 
 
 徳間書店から発行されていた月刊少年キャプテンにて連載されていた「滅日 -HOROBI-」です。
たがみ氏の作品の中では、個人的にかなり好きな部類に入ります。というか、今からでもリメイクしても面白い作品ではないのでしょうかね。
 
基本的に描かれているのは、実に簡単に悪意と善意です。
これは全く別物でもなく、また、表裏のものでもなく、同じものであると言う話なんです。
 
一つには捉え方、もう一つは発し方。その結果によって、悪意であるとか善意であるとかを決めているだけに過ぎないという、人の捕らえ方の一部分を描いているように思えてならないわけです。
結果的にはその捉え方によって、相手に好意を持つことも、恨みを持つことも出来ると言う話。コレを人は度量と言う尺度を使って表現しているわけです。
 
作品上で、尼子は実に誰にでも優しい、包括力のある人物として描かれています。しかし、捉え方によっては、優柔不断な人間であるとも言えるわけです。
同じ様に相賀は活動的で自分の意見をはっきりといえる人物として描かれているわけですが、それも捉え方によっては、傍若無人な人間であると言えなくもありません。
 
ある意味、性悪説をそこらここらに散りばめている作品ですが、それでも、そうした発言の後に来るのは、それで良いのかもしくは割り切れる話じゃないという否定であります。その否定が、諦めになるのかそれとも否定からの行動に繋がるのだろうかという部分も見えなくもないわけです。
 
こうしてみますと、かなり曖昧な作品のように思えるのですが、実際に曖昧な部分が常識であるような描き方には共感をもてます。
 
今でも、言われている事は、決して今言い始めた事じゃないというのも、この作品では見て取ることが出来るのです。
それはエコに対してもそうですし、人口に関してもそう。仕事に関してもそうです。一体、いつの頃から言われ続けているのだろうかと思えば、少なくとも、この作品が描かれた時には、既に言われていたのですから、もう、20年以上は同じ文言を言い続けて尚、好転していない状況であるといえるのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「滅亡」と言う事で一つ。
 
人が滅亡というテーマで話をする上で必ず問題視するのは、人の滅亡が全ての終りであるという基準を設けることです。これが正しいのか正しくないのか、それは宗教家と生物学などの学問に任せるとしまして、本当にそれが滅亡であるのかと言えば、全ての宗教学問が揃って言う台詞は「いいえ」であるのでしょう。
 
中には人の滅亡が地球自然の再生であるとする人もいます。現状からすれば、あながち間違いではないのかもしれません。
人がいなければ、確かに自然破壊は起こっていませんしね。
 
しかしながら、生物の滅亡が起こっていないのかと言えば、それは違います。事実、化石になっているような恐竜にはお目にかかれませんし。
 
要するに人の手にかかってしまうと、その滅亡が早くなってしまうのが問題と言う事になるわけです。ならば、逆の考え方も出来るわけで、そうした議論を国連主導してやっていただきたいものですね。
 
正直、人類だけが滅亡することに問題はないんです。でも、その後にその巻き添えを食らって滅亡していく動物がいてはならない。それはどんな理由をつけようとも、そして人がいなくなろうとも、人という種が行った償うことが出来ない行為なのですから。
 
少なくとも、日本は化石燃料に依存することが難しい国なのですから、太陽光発電の国家的プロジェクトを立ち上げて地球に貢献する必要があるのではないのでしょうか。住宅地の上に太陽光発電の設置を必須にするとか。
そして、風力発電の改良も必要になってくるのでしょうね。雨水の排水を利用した水力発電も、風力発電の改良が成功すれば、応用できるようになると思いますし。
 
衛星から見たら、日本の居住区が黒光りしていても良いのではないのかと思うわけです。その上で省エネの機器を研究開発してみると。
 
日本の科学技術をより向上させる事が、より自然との共存が出来るようになる。そんな時代が来れば良いんですけどね。馬鹿やって滅亡するよりも、馬鹿になってそういう研究を進めてみる。それが良い意味での大馬鹿者ではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年02月14日

思い出は懐かしむだけではなく省みることも必要【「すくらっぷブック」(1980-1982年 小山田いく/秋田書店)】

 さて、今回は1980~1982年に連載されました「すくらっぷブック」です。



 長野県小諸市の芦ノ原中学校。2年7組、出席番号2番・市野清文、7番・柏木晴、9番・坂口光明は、新学期早々、音楽の授業で残り練習をさせられていた。市野清文…通称イチノは算数とサッカーが得意、柏木晴…通称晴ボンは国語と美術が得意、そして坂口光明は工作と柔道が得意、なのだが三人とも音楽は苦手としている。
そこに、イチノの恋人である隣りのクラスの女子、青木理美が居残りの話を聞き音楽室にやってきた。音楽な得意な彼女にコーチを頼むイチノ。
 
その時、晴ボンが不吉な話をし始める。
 
夕方、一人で音楽室に残っていると、何処からともなく不気味な呻き声が聞こえてくるというのだ。だが、この部屋に残っているのは四人。しかも、そうそう出てくるものではないのだろうと高をくくっていた矢先…。
 
場が騒然となったその後、気が強い事で有名なイチノは気絶をし、イチノの恋人であるはずの理美は間違えて坂口に抱きついてしまう。翌日から四人のドタバタ劇が始まってしまうのであった…。
 
 
 
 連載第一話、冒頭のお話です。すくらっぷブックは、2年7組に在籍する中学生たちの何気ない生活の中にあって、友情や恋愛、出会いと別れのエピソードを書き記した、文字通り彼らのスクラップブックです。
冒険談が出てくるわけでもなく、異世界に行くわけでもない。単なる日常絵巻が実に二年間…彼らが2年から3年へと進級し、そして卒業するその時までが描かれました。
 
異世界に行くわけではありませんが、到底、人間とは思えない技を数々使うのも、この物語の特徴であるのかもしれません。
 
晴ボンは残像が見える四歩足で走り回り、時には妖怪油すましに変化し、イチノの幽霊が怖いわりにぬりかべ電卓に変化し、坂口に至っては月ノ輪熊に変化します。それどころか、晴れボンのライバルであり悪友の小宮山雅一郎は妖怪土ころびに…まぁ、書いていてコレの何処が普通の青春群像劇であるのかと思うのですが、こうしたことを含め…ようするに彼らなりの馬鹿をやっているその一瞬までも、彼らの青春であるという事なのですね。
 
笑いも涙も、苦悩も戸惑いも、全てはちょっと苦い喜びに向かっていく。物語の中で彼らはそれを学んでいったのだと思うのです。
 
この物語は、キャラクターの年齢がその時の読者とマッチしています。1980年から1982年の春まで。彼らは私たちと同じ時間を漫画の中で過ごしてきました。中学から高校に向かうにあたり、必須となる受験。その後の卒業式を経て、彼らの芦ノ原中学校の話は終りを迎えます。
そして、同時に新しい物語が始まるのです。
 
最後の101話で第一部・芦ノ原グラフティは終り、第二部・それぞれの学級日誌が始まります。その先にあるのは、紙に描かれない物語。作者である小山田氏は彼らの物語は、まだまだ続くことを明言し、その物語を閉じました。
 
ある、中学校のあるクラスが経験した日々。表題であるすくらっぷブックは、読者に対して贈られたそんなほろ苦いスクラップブックなのだと思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「思い出」と言う事で一つ。
 
人生を重ねていけば…などと言うまでもなく、一日を過ごせば、それだけでも思い出はできるものです。変な話になりますが、その情報量たるや、一分一秒、いえ、一時間ごとの事さえ覚えている事が難しいのは当然の話です。
 
そこで、記憶チェックと言う話ではありませんが、有名な一文字についての確認をば。
 
その年を象徴する京都清水寺の行事、漢字一文字ですが、2008年の文字は「変」でした。では2007年は何であったのか覚えていますか?
答えは「偽」…捏造問題における偽証、食品問題における偽装が象徴したのだそうです。
では、一気に、2006から遡り、2001年…21世紀分を覚えていますか?
答えは以下の通りです。
 
  2008年=変
  2007年=偽
  2006年=命
  2005年=愛
  2004年=災
  2003年=虎
  2002年=帰
  2001年=戦
 
それぞれの一文字に込められた思いは、ぜひ調べていただくとしまして、こうした事に思いを馳せる事は大事な事だと私は思うのです。
私たちが営んでいる歴史は、決して、過去をおざなりにして進んで良いものではありません。同時に、過去ばかりを懐かしんでも意味がないわけです。
 
省みるという言葉は、後ろ向きなものではなく、過去を省みることによって同じ過ちを繰り返さない反省の意味が込められています。
つまり、思い出は昔を懐かしむ物であるのと同時に今を省みるものでもあるわけです。
 
今の世の中において、それを思い出したときに、結果的にどんな時代であったのか。それすらも理解できないままになっているのではないのかと思えてなりません。その原因の一つは間違いなく、私たちが誰かのせいにばかりしている…言い換えれば、責任を他者に押し付け、同時に利益を他者に依存している姿勢に他ならないわけです。
 
昭和の時代は良かったという状況を単に懐かしむのか、それとも省みるのか。私たちはその帰路に立たされているのかもしれません。
 
過去を消すことなど出来ません。過去があるからこそ現在があり、そして未来に向かっていけるのです。政府にしても経済にしても、本当の意味で省みていただきたいものだと思うのですけどね。
あんまり無慈悲な方法ばかりでは、結果的に自分たちの首を絞めるだけになる。その事に気付いて欲しいものです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年02月07日

あるべき正義という系譜【「仮面ライダーG」(2009年 テレビ朝日/石ノ森プロダクション)】

 さて、今回は2009年に放送されました「仮面ライダーG」です。



 2009年…世界各地でテロが多発。日本政府は対テロ組織としてシェードを創設。あらゆる分野の精鋭が集められ、相当な成果を挙げた。だがしかし、人間を洗脳し兵器化する改造実験計画が発覚し、組織は解散。その創始者である徳川清山も逮捕された。
 
しかし、ある日のテレビ朝日にて事件が起こる。
 
いきなり振ってくる人間。そして、平和な日本には不具合な装備を身に付けた男たち。その場にいた人々は、テレビ撮影であるかのように沸いていた。警備員が駆けつけ、問いただす。だが、彼らに向けられた銃口より出てきたのは本物の銃弾。それは演技などではなく、本物のテロ集団…いや、テロ組織と化したシェードの精鋭部隊であった。
 
ある番組の収録スタジオに彼らはやってくる。
そこで行われていたのは、ワインの紹介。そして、そこにいたのは、一人の女性であった。
 
シェードの精鋭部隊はそのテレビを通じて犯行声明を読み上げる。それを任された一人の男、No.5。その顔を見た瞬間、女性は声を詰まらせた。その顔、それは自分に愛を語ってくれた男性であったからだ。
 
犯行声明を読み上げたNp.5。しかし、その鼻をくすぐる豊潤な香り…振り返ると、そこにあったのは、グラスに注がれたワインであった。女性は叫ぶ。そのワインを口にして…と。
訝しげに見つけるNo.5であったが、何かに誘われるかのように、そのワインを手に取り、口に運んだ。
 
その瞬間、自分の置かれた状況がありのままに浮かんでくる。洗脳、改造手術。だがそれ以上に、彼は思い出したのだ。愛する女性を…No.5、いやゴローはシェードから逃げ出すことを決意したのだった。
 
 
 
 テレビ朝日50周年の記念番組、SMAP★がんばりますっ!!で行われたコーナーの一つ、SMAPチャレンジで、稲垣悟郎氏が行ったのが、仮面ライダーになる事。そして石ノ森プロ全面協力の下で生まれたのが仮面ライダーGです。
 
奇しくも、今年は平成仮面ライダーの10周年(平成仮面ライダーとは、仮面ライダークウガより以降を指します)。番組としては仮面ライダーディケイドを放送しているわけですが、それとは別のライダーとして放送されました。
 
ですが中身は実に昭和テイスト。1号、2号ライダーの臭いがしてくる内容でした。
 
平成ライダーの大半は、肉体の生物的変性もしくは機械的武装の装着が前提のもので、仮面ライダーGはそのどちらでもない改造手術をうけた改造人間であるのが特徴です。
シェードという組織の中で法を逸脱した行為として行われていた改造手術。最初から悪の組織でなかったにしても、悪の組織として結果出てくる所も、最近の仮面ライダーではありませんでした。
 
当然、改造手術を受けているのですから、普通の人間ではありえない身体能力を発揮します。それは変身前でもそうである…そういう描写もきっちりありました。
 
変身後はそのパワーは遺憾なく発揮できるわけですが、変身シーンは今の平成ライダーの様相でした。ベルトにちっちゃなワイン瓶を装着するというのが面白かったです。
 
武器も使いますが、その武器もソムリエナイフを模したものであったり、必殺技であるキックにもワイン好きな主人公が伺える名称が付いていました。
その必殺キック。その名称を叫ぶ仮面ライダーは本当に久しぶりではないのでしょうか。
 
「スワリング・ライダーキック!」
 
ワイングラスを回して、より香りを立たせるものなのですが、確かにライダーGが回っておりました。
 
さて、この仮面ライダーG。この企画のためのライダーであるわけですが、しかし、石ノ森プロは懐が広い。平成仮面ライダーの系列にきちんと入っている正式な仮面ライダーなのです。その証拠をいえる場面も劇中にあります。
最新のディケイドを始め、これまでの平成ライダーが一同に介するシーンがしっかりあるのです。しかも、仮面ライダーGの名付け親が彼らであるのだから、確実ではありませんか。
 
出来れば、この仮面ライダーG。また、どこかで活躍して欲しいものだと、心から思うのです。ディケイドも劇場版やるようですし、そこに出演してもらえれば、嬉しい限りですね。後、敵の総帥がVシネマに沢山出演している哀川翔氏がやっているのですから、ビデオでの販売というのもありではないかと。
CSの東映チャンネルの放送でも良いかナァ…など勝手に希望を出してみたくなるライダーでありますね。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「勧善懲悪」と言う事で一つ。
 
この仮面ライダーGは実の所、完全な勧善懲悪ではなく、元々は日本政府の立ち上げた機関の一部が暴走。要するに手綱を引く事が出来なかったと言う事になります。
 
このような話は至る所にニュースとして毎日のように伝えられています。
本来であれば、悪を取り締まるべきもしくは諌めるべき人自身が取り締まられているのが問題ではないのでしょうか。
 
そうなりますと、この世の中に勧善懲悪はないと言う話になってきます。
 
それはその通りだ。宗教や資源などの関係からすれば勧善懲悪などありえるはずがない…その通りです。同時にそれは正義ではありません。それを指し示すのは都合という言葉であるわけです。
 
では正義とは何なのでしょう。
それは単純明快。人のためになり迷惑にならない事。それだけしかありません。
 
戦争は他国に迷惑をかけるのですから、先ほど記載したように、正義ではなくあくまで都合であるという事になります。つまり正義の戦争というのは、その国の都合で行う戦争の勝手な呼び名でしかないと言う話になります。
言い換えれば、それは大人の都合でしかなく、そうした事が結果的に次世代に正義が何かという疑問と疑心だけを残していくのであれば、そこに正義を伝えていく事が本当に出来るのかといわれれば、それは無理な話でしょう。
 
そうした大人の都合が結果的に矛盾を作り、それが山のように積もっていくのですから、的確な説明など出来るわけがないのです。
結果、子共に対して諦めのように勧善懲悪など存在しないという事になっていき、正しいことの意味も不明瞭になっていくわけなのです。
 
諦めるのは大人の勝手です。しかしそれを、次世代に残していくことは身勝手ではないのでしょうか。
その灰色の連鎖をとめられるのは、今、大人である人たちの覚悟であるのかもしれないと思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

【広告】

サイト内検索

メンバー紹介

このサイトに自分のブログを載せたい!
(ブログの登録は無料です。)


ninja tool counter

>

※2009年4月19日 19:00より開始

ninja tool access