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2009年01月31日

旅をするということ【「魔神英雄伝ワタル」(1988-1989年 日テレ/アサツー ディ ケイ/サンライズ)】

 さて、今回は1998~1989年に放送されました「魔神英雄伝ワタル」です。



 小学校四年生の戦部ワタル。彼はその日、寝坊をし得意のローラースケートを使って近道をしていた。その近道の通路にあるのが龍神沼。そこで紅い曲玉のネックレスを拾うが、それを龍神沼の祠に置いてしまう。
その日、工作に授業において、クラスメイトとどちらがカッコイイロボットを作れるのか、競争する事になる。だが、ワタルが作ったのは、少し不恰好なロボット。どうにも負けそうな感じであったが、しかし、ズボンのポケットに祠においてきたはずの曲玉のネックレスがあるのを見つける。すると、ワタルはそのネックレスを、自分の作ったロボットに飾り付けた。
ワタルが見ても、少し不恰好なロボット。しかし、不思議と他のクラスメイトに人気があったのは、ワタルのロボットであった。
 
その帰り、意気揚々と龍神沼を通っている最中。ワタルは、そのロボットに名前をつけようと考える。その時、頭に浮かんだ名前が、龍…神…丸であった。
そう、ワタルはそのロボットに龍神丸と名付けた。その時、空に暗雲が立ち込め、沼の水面がざわつき、その中から一匹の龍が出てきて、ワタルと天空へと連れ去っていった。
 
意識を失ったワタルであったが、周りの騒々しさに気が付くと、そこは知っている場所の風景ではなかった。遠くを眺めてみれば、モノクロの虹がかかった、不思議な山がある。
ワタルが気が付いたモンジャ村は創界山という神々の住む山の麓にある村であった。そこには一つの言い伝えがある。悪が創界山に君臨する時、救世主ワタルが現われ、世界を救ってくれるだろうと。
 
ワタルは戸惑いを覚えながらも、救世主として悪の帝王ドアクダーを倒す旅に出かけるのだった。
 
 
 
 今回は「魔神英雄伝ワタル」の紹介です。元々、この番組は十五分間のアニメとして放送される予定のものでした(その同じ枠の別番組が鎧伝サムライトルーパーであったのです)。ところが、それを一つの番組として確立する事となり、結果、それは見事に当たったのではないのかと思います。
 
その時点で、オリジナルの作品は低迷を続ける事になっていたのですが、ワタルの玩具。中でもプラクションは簡単に組み立てられることから、男の子だけではなく、女の子も買って飾る人形として売れたと言います。
 
そうした原動力になったのは、やはりキャラクターの影響も大きかったのではないのでしょうか。
 
主役のワタルもそうですが、一緒に旅をする忍部ヒミコに、ワタルから先生という愛称で呼ばれた剣部シバラク、ヒミコからはトリさんと呼ばれていた渡部クラマなど、実に個性的で魅力的なキャラクターが多く登場しました。
また、各話数ごとに出てくる敵キャラも、その当時のCMやニュースなどで話題の人から、舞台や映画、果ては過去の人までを弄ったキャラクターとして登場してきます。
そう、そうしたキャラクター自体がギャグであったのも特徴です。
 
ですが、物語は決してギャグだけではなく、本質はシリアスストーリーでありました。
特に最後になればなるほど、友情や愛情がテーマとして描かれる回が多くなり、ファンを釘付けにしたものです。
 
途中参加であるドアクダーの息子・虎王は、何も知らずにワタルたちにちょっかいを出し、そして、ワタルから友達を教えてもらい、自らそうであると言うものの、そのワタルが自分の父親の命を狙ってきていた事を知りショックを受けます。
その事すらも最終回に向けての伏線であったとは…本当に目が離せない物語であったのだと思うのです。
 
そういう意味では、今のある程度、世間を判りきったかのようなキャラクターの在り方とは異なり、ある種、絵本のような作りであったようにも思えます。
実際は、当時のファミコンで発売されたRPGに代表されるようなゲーム感覚の冒険物であったのは間違いありません。最上階に向かうためには、それぞれの階を攻略する必要があり、また、ワタルを助けてくれるアイテムも入手する事がある。これは正に、RPGゲームの特徴です。プレイをするわけではありませんが、それでもその楽しさを味わえるのではないのでしょうか。
 
ロボット物でありながらも、そのロボットをも巻き込み、勇気・友情・博愛といった事を恥ずかしげも無く盛り込ん行った作品であるからこそ、独特の世界観が生まれ、結果、ファンに大きな感動を与える事が出来たのではないのか、と思います。
 
この後に、OVAが出され、そして第二弾、二回目のOVAと続いていくのですが、その話は機会がありましたら、その時にでも…。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「旅」と言う事で一つ。
 
人が何処から来て、何処へ行くのか…そんな哲学的な事を考えてしまうのも、人が決して定住する生き物ではない証拠なのかもしれません。生物的にも定住するという事は、決して生産的ではありません。全てが自分の手元にある事、それが幸せな事ではなく、むしろ不幸せな事かもしれないと思う事もあるのです。
 
それは僻みだよ…と言われるのかも知れませんが、言い換えれば、それだけ守るべき物が多くなると言う結果でもあるのではないのでしょうか。転じて、そうなりますと、本当に守るべきものの姿が見えない可能性もある事になるかもしれないのです。
 
人が旅をする理由。それは様々ある事でしょう。自分の居場所を見つけるため、見識を広げるため、商売のため…ですが、それのいずれも、万人の理由ではありません。
先ほど、私は様々あると言いましたが、それは一つの根底の下にあっての多用であるのだと思うのです。それは、場所です。
 
その場所に居場所が、新しい何かが、お客がいるのかもしれませんが、いずれにしても、場所があっての話なのです。となれば、何を求めているのかと言えば、旅とは明確に答えてくれる相手を探すためなのかもしれないのです。
 
となれば、その目的は自分が温もりを感じる相手であれば良い事になります。
それが大木であろうと、大地であろうと、荒野であろうと、大海であろうと…。犬であろうと、猫であろうと、鼠であろうと、鷲だろうが、ペリカンだろうが、鯨、イルカ…花でも虫でも、構わないのです。有機無機など関係ありません。当然、実際にあろうが想像のものであろうが、何でも構わないのです。
 
そこに感じる温もりがあれば、そこにたどり着くために人は旅が出来るのです。
 
たどり着く事が終りであるのかと言えば、そうではありません。そこは旅の終りであり、新たな始まりでもあるのです。そこにある、何かがきっかけになる事でしょう。そして人は再び歩き始めます。その歩みが終わるのは、恐らく永遠に人がいなくなるまで続くのかもしれません。
何故なら、途中で歩みが潰えたとしても、その後から旅を続けてくれる人がいるからです。
 
自分の後を振り返っても、その人を見ることは出来ないのでしょう。そして見る必要のないのかもしれません。その人は、同じ道を歩いているのではなく、その道に寄り添っているのですから。
だから、同じ道を歩くといっても、少しだけ横にずれた道であるのです。でも、その方向は一緒。だからこそ、人は人といられるのではないのでしょうか。
 
旅は道連れ世は情け。孤独な旅というのは、案外出来ない…それが世の中なのかもしれませんね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年01月31日

しかし、何を持って裏切りとするのか【「紅いハヤテ」(1992年 ポニーキャニオン)】

 さて、今回は1992年に発表されました「紅いハヤテ」です。



 古より我が国の法的決定機関の影で暗殺と謀略を司ってきた闇の組織「死殻」。彼らは最強の戦士と呼ばれる死殻六人衆を中心に、その組織統轄を行い、この国の歴史を影から操り続けてきた。だが、その六人衆を指揮する死殻の長、鹿沼鍛造が実子、疾風によって暗殺された日…死殻の崩壊は始まった…。
 
それを濡れ衣とする疾風。そして、新しき総帥となった死殻に意を反した、六人衆でもある伊達一角、里見珠里、そして疾風の妹である詩織は死殻を抜ける事を決める。
だが、それはいつ果てる事もない追っ手からの逃亡を意味した。
 
ボクシングジムに住み込むこととなった詩織はユキコという偽名を使い、生活していた。だが、そこにも死殻の追っ手が。追い詰められる詩織。その時、彼女の中にあるもう一つの魂が呼び起こされる。それは、死殻を抜けたあの日、瀕死の重傷を負った疾風が詩織を守るために行った秘術。変身転生の術によって、疾風の魂を詩織に移した結果であった。
 
詩織…いや、疾風を追いかけてきたのは、同じ六人衆の一人、黒田実綱。死殻には、六人衆のみが許された秘術がある。それは自らの影を鎧として纏い、超人的な力を発するようになる、その名も鎧影。
疾風と実綱は互いに鎧影を纏い、闇夜の中で激しい戦いを始めるのだった…。
 
 
 
 上記で秘術と記載しましたが、鎧影が科学力と記載する方が何かおかしいような…それも作品の味なのでしょうけど。というわけで、今回は「紅いハヤテ」です。
 
その昔、レンタルビデオがかなりの勢いで出店してきた時期に、レンタマンという題名で複数のアニメ作品を入れたビデオをレンタル店オンリー…つまりは貸し出しのみで見せるという斬新な発想の下で行われた実験的作品。その一つが、この紅いハヤテであったのです。レンタマン自体は早々に終わってしまった記憶があり、結果的に、その中での完結はなされていない…という記憶もあります。
 
私個人が、レンタマンを借りてみようと思ったのは、これがきっかけであったので、レンタマン自体がなくなったのは、残念でなりませんでした。結局、後ほどビデオとLDで完結編まで出たので、それはそれで良かったんですけどね。
 
物語自体は、抜け忍ものです。なので、そのように見れば理解しやすいのではないのかと。もう一つは、反乱ですね。
実際、主人公である鹿沼詩織は、逃げ回っているだけなんですよね。そこで危機になると、疾風が出てくる。でも、詩織に頼み込んだ変身転生の術というのは、実際、大変な術らしく。多用すると、精神を蝕まれていき、最終的には詩織の精神が消えてしまうという恐ろしい術なのだそうです。
じゃ、その後はどうなるのか…肉体は詩織、精神は疾風という状況になるのだとか。
 
なので、一緒に抜けた一角や珠里はその事実を知ると、詩織に疾風を出すなと言われてしまうんですねぇ。守ろうと必死なだけなんですけどねぇ。カワイソウな疾風。題名にもなっているんだけどねぇ。
 
今ならば、この作品どうかなぁと思うんですけど、確実に深夜枠になるのは決定です。血は吹きだす、男女の絡みはある…得てして、こうした話ならありえる状況なのでしょうけど。ある意味、安全策で行き過ぎた感はあります。
 
鎧影という設定は、個人的には大好きです。死殻の科学力スゲー!と単純に感心してしまいます。
ただ、これを扱うにはそれ相当の精神力と体力が必要なのだとか…ただ、影で暗躍するってことは、暗殺関係のお仕事が多いはず。これで暗殺行ったら目立つんじゃないのかなぁーと思ったりしました。
一国を滅ぼす…とかなら、楽にできそうですけど。ただし、秘密裏にという状況ではなくなりますけどね。
 
物語的には、詰めすぎてしまって、本来語られるべき所が語られていないのが残念でなりません。恐らく十三話ほどの長さでまとまるのではないのかと。まさに、現在の深夜アニメ!
 
何時もの言い訳ですけど、この作品、私的には大好きな作品でしたよ。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしては「裏切り」と言う事で一つ。
 
最近では、様々な事で裏切られたとする事柄が多くなったと感じてなりません。考えすぎなのかもしれませんが、そうしたニュースが多いような感じがするのです。
 
例えば政治…と言いますか、政治の周りの状況が裏切られているなぁと思うわけです。
こうした百年に一度の不景気というのであれば、与野党関係なく、それこそマスコミも政治の有り様について揚げ足を取るのではなく、協力して情報を伝え、欲している事に対する議案が提出できるようにするべきではないのでしょうか。衆議院では、この先の見えない不況の中で解散総選挙をしろと、それこそ、1億2億と税金を使えと言います。
 
そんな事をしなくても、時間がくれば選挙は行われるのです。
それよりも、それこそ一丸となって政を行う。これこそ、望まれている政治の姿勢ではないのでしょうか。
 
政党政治などとカッコイイ事を言っているだけでは、意味などなく、日本国はあくまで一つであり、その日本国に住む日本人を救済することがまず必要であるのです。そうした本当の議論を早急に行っていただきたい。選挙になり真を問われるのは、その結果次第なのではないのかと。
 
他にも、企業にも裏切られていますね。
企業を動かしているのは、経営者ではありません。彼らは調製しているだけの存在です。では株主…彼らは有望な物への投資をしているに過ぎません。企業を支えているのは誰か。それは従業員、労働者でしかないのです。
 
どこでも記載しましょう。
上場企業の経営者が出来るというのであれば、自分だけで商品を企画し、製造し、売り込み、注文を受け、生産し、販売し、サービスを行えば良いのです。それが出来るのであれば、それは確かに企業は経営者のものであるのでしょう。
ですが、実際にそれが出来る企業など殆どありません。上場企業であればあるほど、それこそ大企業と言われているのであれば、不可能な話です。
 
そうした労働者の能力をもって、企業は体裁を保っているに過ぎないわけですが、それを忘れての昨今の行動。正に自滅に向かっているだけなのです。
 
後はなんでしょうかね。世間に裏切られていると言う事でしょうか。
当たり前ですけど、誰も助けちゃくれません。その代わり、誰もが助けを求めています。それで本当に何が出来るのでしょう。それは裏切りなのでしょうか。いいえ、そうではなく、世間の裏切りというのは、結果的に誰かのせいにしているだけの事。それが正に裏切り行為なのです。
 
景気が悪くなったのは…政治が悪いのは…医者が少ないのは…。
そんなのは、最近起こった話ではなく、これまで積み上げられてきた矛盾が耐え切れなくなり、吹きだしているに過ぎません。
 
先達が頑張ったから今の日本がある…この言葉を是ととるか、非ととるか。それよりもそうであるからこそ、今の状況があるととるのか。それだけでも意味合いが大きく異なる言葉ではないのでしょうか。
私個人としては、先達に言いたい事など唯の一つ。立つ鳥、跡を濁さずであっていただきたいと言う事のみです。それこそ、日本の借金もそうですし、この不況に至った状況もそうです。年金問題などの税金に対する問題などもそうでしょう。
 
こうした問題を先送りにしてきた状況が現状を作っている。これこそ、子孫に対する大きな裏切りであると、認めて欲しいのです。
いずれにせよ、まずはそこからではないのかと思う次第です。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年01月31日

経営者を着飾るための企業ではない【「強殖装甲ガイバー」(1986年劇場版、1989年OVA第1期、1992年OVA第2期、2005年テレビアニメ版)】

 さて、今回は「強殖装甲ガイバー」です。



 成沢山を望む場所に立つ高校。そこに通う深町晶は、ある爆発を目撃した時より、その人生を一変させられる事になる。爆発によって飛来してきた物。それを拾い上げ、そこにあるスイッチのようなものを押してしまう。すると、その物からアメーバのような触手が晶目掛けて伸び、彼の身体を覆いつくしていく。まるで食われているかのように見えたその様子であったが、額の部分にある金属が光ることによって、何か統制を受けたように形を成していった。
 
思わずよろめき、沼へ落ちてしまう晶。
それと入れ違いのように現れたのは、正に化け物であった。グレゴールと呼ばれた化け物が、晶と一緒にその場にいた、瀬川哲郎に手を伸ばそうとした時。ソレはその場にいた全員の前に現れた。

グレゴールはその正体不明の怪人に対して、自慢の怪力を揮う。だがしかし、それよりも小柄な怪人は、更に強大な力を持って、グレゴールを撃破。グレゴールと共にやってきた者たちは、その場から逃げて行く。
 
「晶…晶、なんだな?」
 
哲郎の姿を見、声をかけてきた怪人。その声は友人である晶のものであった。それまで気を失っていたのか、現状を見ても理解できない晶。だが、己の手を見た彼は叫ぶ。その恐れと拒絶の叫び声に怪人は晶の体から離れ、沼へと消えていくのだった。
 
 
 
 今回ご紹介する、強殖装甲ガイバー。原作、つまりは漫画版ではなくアニメ版のご紹介です。と言いましても、題名を見ていただければ一目瞭然。このガイバーは何と、これまで四回もアニメ企画が通っている珍しい作品であるのです。
 
まず、第一回目。これは劇場版として作られたもので、劇場用に話を大きく書き換えられているものです。それは、そこで話を区切らなければならないためです。
また、その関係でキャラクターが大きく変わっています。監察官という最初に深町晶=ガイバーⅠの乗り越えなければならない敵として出てくるキャラ、ガイバーⅡにもなるそのキャラですが、原作ではリスカーという男性でありますが、劇場版ではバルキュリアという女性になっています。
 
当然、ガイバーⅡもその形状が原作では男性ライン、しかし劇場版では女性ラインの少しエロティックなものであり、それも話題性の一つとなっていた記憶があります。
最終的に、コントロールメタルの破損により強殖細胞の暴走。そしてガイバーⅠの最大武器であるメガスマッシャーにて消滅という状況になりました。ここは原作を踏襲した部分であるのです。
 
面白いのは、そのバルキュリアというキャラですが、実に二十数年の時を経て、原作に登場したという事でしょう。当然ですが、劇場版のキャラとは異なる設定のはずですから、その活躍が期待されるというものです。
 
 
そして、二回目。実は三回目である1992年版のOVAはこの二回目、1989年度OVAの続編でありますので、一緒に記載していこうと思います。
 
内容は原作に出来るだけ忠実に、そしてテレビ放送ではないために、放送という制限を受ける事なく作られたガイバーであるといえるのではないのでしょうか。
つまりは、エログロが適度に散りばめられた、原作テイストが活きていたアニメであると思うのです。
 
原作が途中であり、尚且つまだ続いている状況でもあるために、登場する場面ではない状況で登場してしまうキャラもいました。この辺りは、現在の原作付きの深夜枠アニメでは御馴染みの状況ではないのかと思うのですが、当時は作品の出来が良いだけに原作通りの状況で製作して欲しかったという意見も強くあったわけです。
 
ただし、そうありながらも、この作品には原作者である高屋良樹氏の意向が強く反映されており、そうした意味では原作者納得のOVAであるといえるのかもしれません。
 
 
更に時間が進み2005年にWOWOWにて放送されたテレビアニメ版。これが現在最新のアニメ版ガイバーと言う事になります。
 
作品の総監修・設定に高屋良樹氏が入り、より原作者が今ならばこうしたであろうというガイバーの初期が見れる作品になっているのではないのかと思います。
また、原作にて主力兵器となった巨人殖装=ギガンティックまでも登場し、さて、これからが…という感じなのでしょうが、原作自体がそこら辺りまでと言う事で、今回もギガンティック登場までという形になっています。
 
 
元々、遅筆でありながら拘りの作画をし、編集者のみならずファンを待たせる事が常である高屋良樹氏の作品…いえ、それだけ緻密に計算され、伏線もしっかりと考慮されているからこその作品と言うべきなのでしょう。だからこそ、時代が経てもこうして新たなアニメ化の話が持ち上がり、遜色ない作品として発表できる…これは理解できる事です。
 
ですので、WOWOW版の続編。是非、原作が溜まって来ましたら、作って欲しいな~と思うのは、ファンの心理の一つではないのかと思うのですけど…どうでしょ?
 
 
 
 と言う感じで思う所としては「企業の有り様」という事で一つ。
 
ガイバーという作品におけるクロノスは当初、秘密結社として世界…いえ、世間から隠れたものとして存在していました。ところが、満を持して世界制服を敢行…と思いきや、それは単純な恐怖による縛りではなく、現体制を崩壊させ、新たな秩序を示していくというものでした。
 
その後に世間に秘密結社ではない状況となって現れたクロノスはどうなったのかといえば、まるで企業のように当たり前に存在していくのです。
 
企業と言う感じなのですが、実際には政権を握っているのですから、一緒の社会主義のようになっているわけです。
 
ふと考えるに辺り、こうした企業…という形で記載します…は、社員を手放すのだろうかと思えば、決してそんな事はありません。少なくとも、企業に貢献してもらうための福利厚生をしっかりと完備し、社員を迎えている状況です。
それはきぎょうが転覆しようとしている状況でもそうだろうと言えるのでしょう。何故なら、その社長…いえ、会長になるのでしょうか。彼自身が更に自分の上司から見捨てられている過去があるからです。
 
 
これは漫画の中の話ですが、実際の企業も一種の社会主義であるのは間違いない話です。
 
企業の中にある休日を守り、その企業を成長させるために働く。その対価として給与や福利厚生が存在し、企業は社員を守る為にサポートを行う。会社に対する愛情などという形で言われている話です。しかし、それも企業側が雇用を守ってこそあるべき話ではないのかと思うわけです。
 
もっと言えば、昨今における雇用不安。これは政府の責任など微塵もあるわけがないのです。全ては経営者の無能によるもの。これ以外の何物でもありません。
 
単純な話、企業が成長するためには、売上げを上げるしか手がありません。その売上げを上げるための商品は、大企業になればなるほど、誰が用意するというのでしょうか。
別に経営者が自力で売上げを上げているのであれば、それはその人の誉れであるのは間違いない話でしょう。ですが実際にはそうではありません。労働者という人たちがあり、企業は成り立っているのです。
 
そう考えますと、企業におけるヒエラルキーは会長・社長が上ではなく労働者が上であるべきものとなるはずです。では、そうならない原因は何故でしょう。それは企業としての責任を誰が果たすのか。この一言に尽きるのです。
 
責任を果たせるからこその経営者であるべきであり、それは消費者だけではなく労働者に向けても必要な事なのです。
 
一体誰があってこその商品であるのか。これを経営者となる人たちには考えて欲しいものであると思うわけです。
 
ぶっちゃけた話、会合やパーティなどを開くのは勝手ですが、そうした金銭を絞るだけでも不必要な人件費は抑えられると思うのですけどね。そうした場所に着ていくスーツで、どれだけの人の飢えを凌げるのか。それが現実問題として考えるべき事、そして消費拡大に繋がっていく事ではないのかと思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年01月31日

今、世の中にある魍魎【「魍魎の匣」(2008年 「魍魎の匣」製作委員会)】

 さて、今回は2008年に放送されました「魍魎の匣」です。



 それは電車の中で偶然に乗り合わせた二人の男から始まる。一人は身内の不幸で帰省する男、もう一人はどこかへ旅に出かける男。互いに異なるのは、その手荷物であろう。帰省する男には何も持たれておらず、一方の男には一つの匣が持たれていた。
匣を持つ男は、その匣に語りかけ、語りかけられるのに同意している。帰省する男がその様子に気付くを知ると、匣を持つ男が語りかけてくる。
 
「ああ、聞こえましたか」。
 
すると、男は嬉しそうに函の扉を開ける。そこにあったのは沢山の花に囲まれた少女…おおよそ、人としては多大に欠損しているものの、間違いなくその匣の中で生きている少女であった。
 
気味が悪いという感情よりも、それを目の当たりにした男に生まれた感情は…ひどく羨ましいというものであった。そして、男は魍魎に取り付かれる…。
 
 
 
 全十三話で構成されましたアニメ版、魍魎の匣。以前にも映画版をレビューした事がありましたが、その際に私は原作を読んでいないと記載しました。このアニメ版を踏破した現在もその状況に変わりがありません。
こうした原作付きの作品を見るに当たって、一番厄介になるのは、その原作のイメージというものです。
 
元来、アニメと小説、漫画に舞台、映画などという多種多様な表現の場は、異質なものであります。それぞれに特化した嘘があり、真実がある。昨今における原作つきの乱雑的な製作に関しては、その計算が成されているのか疑問が多いわけですが…それは、また別の機会にでも記載するとしましょう。
つまりは、原作を読んでいない者がレビューしていると理解していただければ結構なのですから。
 
作品は一人の視点にて進んでいきます。関口巽、その時小説家である彼が遭遇した事件が、その深淵へと否応なしに引きずり込んでいく結果になるのです。
 
一方、それとは別に何ら関係のないはずの事件が起こります。それは女学生の級友同士が夜中に遭遇した事件。一人の女学生が謎の男に線路に突き落とされた…というものでした。その突き落とされた女学生は瀕死の重傷を負い、その男を見たという級友は友人の心配をするばかりであったのです。
 
ただ、この事件も関係のないはず…で終わるはずのものであったのです。思い返せば、これすらも事件の流れにあってその途中でしかなかった。初見であれば、驚きの話ではないのでしょうか。
 
女学生の殺人未遂事件に遭遇した刑事、木場修太郎も、この後、深く関わっていく事になります。
 
関口と木場、彼らには共通の知り合いがいます。一人は探偵である榎木津礼二郎、そしてもう一人は、古本屋の主にして神社の宮司でもある中禅寺秋彦、通称、京極堂という人物です。
 
京極堂と言う人物は、まさに安楽椅子の探偵であり、その膨大な書籍の知識を持って、事案を解決することを得意…いえ、特技としている人物です。古本屋の主人である事もその助けになってるのでしょうが、一方で神社の宮司である事もその助けになっているようです。この魍魎の匣にあっても、事件に関わった人たちの魍魎を落すという意味で彼は立ち回るわけですが、その信憑性が高いのも彼の立場が一役買っているのは間違いない事でしょう。
 
事件の話に戻りますが、女学生の殺人未遂事件、その暫く後に起こる連続バラバラ遺体遺棄事件。その恐ろしい事件の数々が、まるで絹糸のような細くか弱い一本の糸で結ばれている事を知るのは、京極堂の指摘があっての事になるというのも、この作品の特徴ではないのでしょうか。
まるでタイムマシンに乗ってみてきたかのように話す彼の言葉は、恐ろしい程に的確な様子なのです。彼は最後の話数でそれを魍魎を落としに来たと説明しています。これを単純に真実を明白にしに来たと理解すれば良いのかどうかは難しい判断ですが、間違いなくどのようにしても断ち切る事の出来ない真実がそこに露呈する事によって、それが決して幻想の出来事ではなく現実の出来事であるとした京極堂の魍魎払いは正に見事としか良いようがありません。
 
結果、それがどのような現実をもたらすのか…それは物語を最後に見た人の特権であるのかもしれません。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしましては「幻想と現実」と言う事で一つ。
 
この魍魎の匣では、様々な匣という魍魎…幻想と言い直しても良いのかもしれませんが、それに取り付かれた人々が、自分の現実に向き合えないという語りが描かれています。ところが、それは別にこの物語だけの話ではなく、むしろ、その現実に多いのかもしれないと思うわけなのです。
 
昨今、リーマンショックに始まる著しい非正規雇用労働者に対する雇用不安は、決して政府の責任として扱うべき問題などではなく、一重に経営者各々の低脳から来るものであると理解するのが打開の一歩であるはずなのです。
 
確かに、小泉政権下における非正規雇用の緩和政策があったとしても、それをどのように利用するのかは経営者各々の自由であったはずです。その結果が、言い方的には利便性の高い、悪い言い方であれば使い捨てが可能な雇用の有り方を経営者が行ったというだけの問題であるわけです。
これが政治の責任になるのでしょうか。
 
経営者が理解するべきは、自身の無能であるのは間違いない話なのです。
 
何故なら、どれだけ大きな企業であろうとも、経営者が唯一人で注文から納品まで行い、さらに補完まで行う事が出来、そして多大な業績を残せるというのであれば問題は全く有りません。ですが、実際問題はそれは出来ないのです。
多くの注文に対応するには、それだけ営業を行う人が必要であるわけですし、それを納品可能にするまでの労働力も必要です。更には、多数の相手企業に対しての経営処理を行う人も必要になってくるはずですし、それ以外にも必要な人材は多くなる事でしょう。
 
それだけ経営者は人に頼って業績をあげている事を理解しなければならないのです。
 
となれば、それはその人たちの人生を預かる事にも繋がります。当然の話でしょう。無能な経営者を助けてくれる人も、同じ様に有限な時間の中で努力してくれているのですから。
それが給金や福利厚生という形をもって答えるのが常になっている世の中であるだけの話なのです。
 
そう、ニュース映像などで取り上げられる、政府の問題としている企業経営者が多く見られるのですが、それは間違いであり、それを理解しないうちは、海外との競争力をつける必要など微塵もないのです。何故なら、自分の足元も理解していない者が高望みをしようとも、地盤が崩れる事もわからないようでは、何を積み上げるのか不安でならないからです。
それよりも、地盤をしっかりとする事、つまりは共に携ってく人材を成長させることが、今の日本企業には必要であるわけで、それを怠ってきた状況において日本の底力など期待できるものではないのです。
 
高度経済成長、バブル、いざなぎ景気超え…まさに全ては魍魎であるのです。それだけを追いかけ、追い求め、反芻しているようでは、日本の先など見えるはずがないと私は思うのです。
それこそ、全てが一時の夢幻、その後に起こる状況を理解できないようでは、これからも同じ事を繰り返すだけであるのは目に見える話ではないのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2009年01月06日

力の使い所と示し方【「仮面ライダーをつくった男たち」(2007年 小田 克己/村枝 賢一)】

 さて、今回は2007年に発売されました「仮面ライダーをつくった男たち」です。

 銀幕…いわゆる映画低迷における労働組合のストライキが行われている最中、まさにスト破りの様相を呈して作り出されようとしていたのが、仮面ライダーという作品でありました。東京生田スタジオ。そこに「ガキ共のための千年王国」を立国せんとし奔走したのが、内田有作氏そして通称泣き虫プロデューサーと言われた平山亨氏であったのです。
 
毎日放送からの依頼である子供向けの番組。そこには波乱の展開が待っていました。
 
この「仮面ライダーをつくった男たち」は、そこから今日まで続く仮面ライダーというヒーロー、そのきっかけを作り上げた男たちのドラマであるのです。
 
 
 
 改めまして、あけましておめでとうゴザイマス。今年も無事に始まりまして、最初の更新を迎える事が出来ました…昨日まで風邪で潰れていたので、文章は頭に浮かんでいたのですが、こうして形にするのはぶっつけ本番であったりします。皆様も風邪にはお気をつけ下さいませ。
 
そういうわけで今回は「仮面ライダーをつくった男たち」のレビューです。2007年に講談社の週間少年マガジンで四話だけ発表された作品であります。漫画を描いておりますのは、村枝賢一氏。同社のマガジンZにて「仮面ライダーSPIRITS」を描いている方です。
 
さて、仮面ライダーといえば、子供向けの特撮番組である事は言うまでもありません。ただし、そこにリアリティがない…という話を聞く事があるのですが、果たしてそうなのでしょうか。というよりも、何を持ってリアリティと言うのかという話になるわけです。
 
その当時、予算もなく当然CGなどと言う技術もない状況において、ライダーキックは本当にキックであり、ライダーパンチは本当にパンチであったわけです。何より、勧善懲悪であるその物語には嘘偽りなどあるはずがなく、その世界だけではなく、現実世界に対してもやってはいけない事の指針になっていたわけです。
 
思うに、これは何も仮面ライダーが最初というわけではなく、怪傑ハリマオや月光仮面のようなヒーロー、紫頭巾のような時代劇でも語られてきた不朽のメッセージであったわけです。
現在、こうしたメッセージに異論を唱える製作者がいるのは、残念な限りであり、個人的には少なくとも子供向けの作品に携って欲しくはないと思うわけですが、そこは企業としての考え方もあるのでしょうから仕方がない話なのでしょう。
 
「仮面ライダーをつくった男たち」に登場する平山氏、内田氏、そして大野幸太郎氏率いる大野剣友会の方々が、どれだけ仮面ライダーという作品を大事に育ててきたのか。それを考えれば、先のような異論など出てくるはずがないと思うのですけどね。
個人的思想は関係ありません。それを公にしてしまうのか否か、そこが問題なのですから。
 
子供が賢しくなった理由、それは大人が賢しい屁理屈を恥ずかしげもなく公にしているからに過ぎないわけで、これは明らかに大人の責任であるわけです。
子供は少しでも早く大人になろうと背伸びをします。それを分相応に導く事の大切さがあるわけで、つまりは、子供に嘘を突かないこともその一つのやり方であるのは間違いないわけです。
 
仮面ライダーという改造人間やショッカーという悪の組織が実際にいるわけではないのですが、しかしながら、仮面ライダーが存在する事実は嘘などではなく、正義を全うしようとする意思と力を見せる必要があるのは、力ある者の使命ではないのかと思うわけです。
少なくとも、「仮面ライダーをつくった男たち」は、それを見せていた男たちであったと思うのです。
 
 
 
 と言う感じで思うところとしましては、「力の使い様」という事で一つ。
 
色々様々な事がありました年末年始。ゴタゴタしている状況であるのは、代わりがない様子です。少なくとも「正義」にゃ程遠い状況が政治は色濃い様相なのですけど…。
 
こうした状況を子供たちが理解していないと思うのでは、今の大人たちの底は知れたものです。案外、子供の方が簡単に物事を考えているので、素早い対応ができるんじゃないのかと思ってしまうぐらいですね。
そうした場合の大人の返答は、そんなに簡単な事じゃない…なのですけど、難しくしているのは、大人の勝手なんですけどね。
 
今、政治…いや、政治家が行うべきは、政党関係なくなりふり構わず、文字通り政治を行う事であって、政局を奪い取る事ではないのです。
私たちの大事な一票は政局のためのものではなく、生活のためなのですから。そこの履き違えはどの政治家にあっても感じられるわけであり、こうした状況である以上、政治はゲーム以下の存在になってしまったままなのでしょう。
 
こうした場所から出てくるヒーローがいなければ、日本がどれだけ地力を誇示しようとも、その力が穿ってしまうのは、これまでも示してきた事。この機会に目を覚ましてほしいものですけどねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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