
小学校四年生の戦部ワタル。彼はその日、寝坊をし得意のローラースケートを使って近道をしていた。その近道の通路にあるのが龍神沼。そこで紅い曲玉のネックレスを拾うが、それを龍神沼の祠に置いてしまう。
その日、工作に授業において、クラスメイトとどちらがカッコイイロボットを作れるのか、競争する事になる。だが、ワタルが作ったのは、少し不恰好なロボット。どうにも負けそうな感じであったが、しかし、ズボンのポケットに祠においてきたはずの曲玉のネックレスがあるのを見つける。すると、ワタルはそのネックレスを、自分の作ったロボットに飾り付けた。
ワタルが見ても、少し不恰好なロボット。しかし、不思議と他のクラスメイトに人気があったのは、ワタルのロボットであった。
その帰り、意気揚々と龍神沼を通っている最中。ワタルは、そのロボットに名前をつけようと考える。その時、頭に浮かんだ名前が、龍…神…丸であった。
そう、ワタルはそのロボットに龍神丸と名付けた。その時、空に暗雲が立ち込め、沼の水面がざわつき、その中から一匹の龍が出てきて、ワタルと天空へと連れ去っていった。
意識を失ったワタルであったが、周りの騒々しさに気が付くと、そこは知っている場所の風景ではなかった。遠くを眺めてみれば、モノクロの虹がかかった、不思議な山がある。
ワタルが気が付いたモンジャ村は創界山という神々の住む山の麓にある村であった。そこには一つの言い伝えがある。悪が創界山に君臨する時、救世主ワタルが現われ、世界を救ってくれるだろうと。
ワタルは戸惑いを覚えながらも、救世主として悪の帝王ドアクダーを倒す旅に出かけるのだった。
今回は「魔神英雄伝ワタル」の紹介です。元々、この番組は十五分間のアニメとして放送される予定のものでした(その同じ枠の別番組が鎧伝サムライトルーパーであったのです)。ところが、それを一つの番組として確立する事となり、結果、それは見事に当たったのではないのかと思います。
その時点で、オリジナルの作品は低迷を続ける事になっていたのですが、ワタルの玩具。中でもプラクションは簡単に組み立てられることから、男の子だけではなく、女の子も買って飾る人形として売れたと言います。
そうした原動力になったのは、やはりキャラクターの影響も大きかったのではないのでしょうか。
主役のワタルもそうですが、一緒に旅をする忍部ヒミコに、ワタルから先生という愛称で呼ばれた剣部シバラク、ヒミコからはトリさんと呼ばれていた渡部クラマなど、実に個性的で魅力的なキャラクターが多く登場しました。
また、各話数ごとに出てくる敵キャラも、その当時のCMやニュースなどで話題の人から、舞台や映画、果ては過去の人までを弄ったキャラクターとして登場してきます。
そう、そうしたキャラクター自体がギャグであったのも特徴です。
ですが、物語は決してギャグだけではなく、本質はシリアスストーリーでありました。
特に最後になればなるほど、友情や愛情がテーマとして描かれる回が多くなり、ファンを釘付けにしたものです。
途中参加であるドアクダーの息子・虎王は、何も知らずにワタルたちにちょっかいを出し、そして、ワタルから友達を教えてもらい、自らそうであると言うものの、そのワタルが自分の父親の命を狙ってきていた事を知りショックを受けます。
その事すらも最終回に向けての伏線であったとは…本当に目が離せない物語であったのだと思うのです。
そういう意味では、今のある程度、世間を判りきったかのようなキャラクターの在り方とは異なり、ある種、絵本のような作りであったようにも思えます。
実際は、当時のファミコンで発売されたRPGに代表されるようなゲーム感覚の冒険物であったのは間違いありません。最上階に向かうためには、それぞれの階を攻略する必要があり、また、ワタルを助けてくれるアイテムも入手する事がある。これは正に、RPGゲームの特徴です。プレイをするわけではありませんが、それでもその楽しさを味わえるのではないのでしょうか。
ロボット物でありながらも、そのロボットをも巻き込み、勇気・友情・博愛といった事を恥ずかしげも無く盛り込ん行った作品であるからこそ、独特の世界観が生まれ、結果、ファンに大きな感動を与える事が出来たのではないのか、と思います。
この後に、OVAが出され、そして第二弾、二回目のOVAと続いていくのですが、その話は機会がありましたら、その時にでも…。
と言う感じで思うところとしては「旅」と言う事で一つ。
人が何処から来て、何処へ行くのか…そんな哲学的な事を考えてしまうのも、人が決して定住する生き物ではない証拠なのかもしれません。生物的にも定住するという事は、決して生産的ではありません。全てが自分の手元にある事、それが幸せな事ではなく、むしろ不幸せな事かもしれないと思う事もあるのです。
それは僻みだよ…と言われるのかも知れませんが、言い換えれば、それだけ守るべき物が多くなると言う結果でもあるのではないのでしょうか。転じて、そうなりますと、本当に守るべきものの姿が見えない可能性もある事になるかもしれないのです。
人が旅をする理由。それは様々ある事でしょう。自分の居場所を見つけるため、見識を広げるため、商売のため…ですが、それのいずれも、万人の理由ではありません。
先ほど、私は様々あると言いましたが、それは一つの根底の下にあっての多用であるのだと思うのです。それは、場所です。
その場所に居場所が、新しい何かが、お客がいるのかもしれませんが、いずれにしても、場所があっての話なのです。となれば、何を求めているのかと言えば、旅とは明確に答えてくれる相手を探すためなのかもしれないのです。
となれば、その目的は自分が温もりを感じる相手であれば良い事になります。
それが大木であろうと、大地であろうと、荒野であろうと、大海であろうと…。犬であろうと、猫であろうと、鼠であろうと、鷲だろうが、ペリカンだろうが、鯨、イルカ…花でも虫でも、構わないのです。有機無機など関係ありません。当然、実際にあろうが想像のものであろうが、何でも構わないのです。
そこに感じる温もりがあれば、そこにたどり着くために人は旅が出来るのです。
たどり着く事が終りであるのかと言えば、そうではありません。そこは旅の終りであり、新たな始まりでもあるのです。そこにある、何かがきっかけになる事でしょう。そして人は再び歩き始めます。その歩みが終わるのは、恐らく永遠に人がいなくなるまで続くのかもしれません。
何故なら、途中で歩みが潰えたとしても、その後から旅を続けてくれる人がいるからです。
自分の後を振り返っても、その人を見ることは出来ないのでしょう。そして見る必要のないのかもしれません。その人は、同じ道を歩いているのではなく、その道に寄り添っているのですから。
だから、同じ道を歩くといっても、少しだけ横にずれた道であるのです。でも、その方向は一緒。だからこそ、人は人といられるのではないのでしょうか。
旅は道連れ世は情け。孤独な旅というのは、案外出来ない…それが世の中なのかもしれませんね。
そんなこんなで本日はここまで。






