TOP>2008年12年

2008年12月27日

今年最後に徒然と…【「天元突破グレンラガン」(2007年 GAINAX/アニプレックス/KDE-J/テレビ東京/電通)】

 今年の感想を漠然、漫然と記載してしまいました。



 さて、今回は2007年に放送されました「天元突破グレンラガン」です。



 遥か未来…人が生活をするのは地上ではなく地下。そこに住居を定め、コロニーとして生活していた。各コロニーは村として称され、そこで人々は不自由なく生活している。ただ、その資源などを人の手によるドリルでの採掘で賄っている状況であるのが、特徴と言えた。
 
ジーハ村に住むシモンは、ドリル使いとしては一級品。しかし、人付き合いが苦手な少年である。今日も今日とて無心に採掘を続けていたシモンのドリルが不思議な手ごたえを感じる。岩でもないその硬さにその周りを堀広げるシモン。すると、そこに出てきたのは、おきな顔と光るドリルであった。
村に戻ったシモンは、その光るドリルを大事そうに持っている。だが、穴掘りシモンは村の中では蔑みの目で見られている。そんなシモンを叱咤激励する存在がいた。彼が兄貴と慕う青年、カミナである。
 
彼は傍若無人な振る舞いで村では爪弾き者にされていた。それも自分が親と共に見たという地上に行くと言ってはばからなかったからだ。地下に住む者にとって地上は存在しない、それだけではなく禁忌の場所であるのは言うまでもないほどの常識であった。
しかし、カミナはどうしても地上に出たがっていた。地上にこそ、人が住むべき場所がある事を信じていた。
 
そして、カミナはいよいよ地上への道を開ける計画を実行する。だが、村長によって止められたかのように見えたその計画が、以外な事で実現してしまう。
それは、村の天井をぶち破って落ちてきた巨大な顔。それがカミナが欲していた穴を開けたからだ。だがしかし、その巨大な顔は村人に対して攻撃をし始めた。その前に立ちはだかったのはカミナ。村に未練は欠片もないが、それでもその振る舞いを許せるわけではない。カミナは刀一本で立ち向かっていこうとしていた。
 
それを止めたのは、やはり地上から来たという美少女ヨーコであった。
彼女の持つライフルが巨大な顔…ガンメンに炸裂する。しかし、その動きをとめることができない。一緒にいたシモンは、そのガンメンの顔を見て、自分が見つけた同じ様な、それでも大きさ的にはかなり小さなガンメンの存在を思い出す。そこにカミナとヨーコを連れて行く。
一緒に掘り出した光るドリルが始動キーになっているらしいとわかり、それを手渡そうとするシモン。だが、カミナはそれを拒み、シモンに動かすように言う。
 
「いいかシモン!自分を信じるな!俺を信じろ!お前を信じる、俺を信じろ!」
 
カミナのその言葉が、シモンの運命を開くのだった。
 
 
さて、手をつけてしまいました。天元突破グレンラガンです。これは、久しぶりの傑作ロボットアニメであったのは間違いありません。今の時代でも、やれば出来る。スーパーロボット万歳!と言った所でしょうか。
今年(2008年)には、劇場版一作目も公開されましたし、来年には二作目も公開されるとの話。まだまだ、終わりそうにないグレン旋風ですが、そのはしりは間違いなくTV版であるのは間違いないわけです。
 
これほどまでに玩具展開がしにくいアニメも珍しいのではないのでしょうか。一番の理由は、グレンとラガンの合体にあります。
簡単に言えば、ゲッターロボと同じトンデモ合体。手足は伸びるは、どこからかヘルメットは出てくるわ。ましてや合体のたびに、ドリルで突き刺して行うのですから、玩具にでもしようものなら、壊すのを前提にしなければならないわけです。今はやりのリアリティを追求するのなら…ですけどね。
 
BSアニメ夜話でも劇場版第一作が取り上げられたわけですけど、その際に言われたのが、台詞が馬鹿臭いということ。
今の言葉だなぁと思いつつ聞いておりましたが、昔ながらの言葉で言えば、単純に熱血なんですよね。ノリと勢いともいえますけど、そういう事を恥ずかしくもなく出来ると言う事に感動を覚える事が出来る…まだまだ捨てたもんじゃないぞ!日本のオタク共!と思ったものです。
 
また、この作品はロボットがズンドコ出てくる割には、印象に残りにくいという状況になっています。影を多用しているから、とか、アップが多用されているからとかではなく、実はもっと根本にその原因があったのです。
それは、ロボット以上にキャラの印象が強いと言う事です。
これは、ロボットアニメにおいて致命的な欠陥であると言えます。何故なら、ロボットアニメにおける主役はあくまでロボットであり、人間ではないからです。人間はあくまでロボットの運転手であり、エコーのかかった必殺技を叫ぶだけの部品。活躍するのはあくまでロボットでなければならないのです。少なくともスーパーロボットではそれが当たり前であったのです。
ですが、グレンラガンではそれをぶっちぎりで無視しました。ロボットの一部品のように演出されながらも、あくまでロボットを凌駕するほどの力を見せるのは人間である!これを徹頭徹尾、徹底したのです。
 
だからこそ、その喜びに共に笑い、その散る姿に無念を感じ、その悲しみに共に涙する事が出来るのではないのかと思うのです。
 
熱い言葉と言う事がどれほどの意味を成すのかわからなくなってしまったこの時代に、それでも魂の熱さだけで物語を作っていった製作者陣には、驚きと共に頭が下がり、同時に昨今におけるリアリティ追求だけの、本当に相手の心を汲む事の面白さと大切さを改めて教えてもらったように思えるのです。
 
「お前を信じる、俺を信じろ!」が「お前が信じる俺でもない、俺が信じるお前でもない。お前が信じるお前を信じろ」に変わったカミナのその言葉に、人を信じる事と自分を信じる事。その全ての意味と道理がある…だからこそ、馬鹿な言葉でも。いえ、そんな馬鹿になりたいものだと思うのではないのでしょうか。




 2008年を振り返りますと、今年の漢字一文字である「変」であると最後まで思い知らされそうです。
 
今年は痛ましい事件が多かった印象がどうしても拭いきれません。人心が変わってしまったのか、それともそう考える事が変なのか。何を持って正常であるのか異常であるのか。「当たり前」が通用しない状況であるのだなぁと感じるわけです。
 
最近では雇用不安。これは以前にも同じ様な話を記載しておりますが、結果的にニュースに出てくるようなお偉いさん方に理解できるはずもなく、自分の城を守るので精一杯なのは見え見えな話で、昔の経営者気質とは変わってしまったのだなぁとしみじみ感じてしまうわけです。
 
変と言えば、その筆頭は国会であるのは明白であります。その状況は明白というよりも迷惑であるのですけど…。
政権与党における総理大臣がコロコロと変わった事、これも問題にされましたけど、結果的には一丸となって日本を持ち直そうとする姿勢がお役人や政治家にないのが問題でありまして、そういう意味では、さっさと偽りの党政治にケリをつけ、国民の代表としての自覚を持っていただきたいと思うのですけどね。
自分の政治生命よりも、国民の生活と生命が大事とする政治家はどこかにいないのでしょうかね。口先だけでなくてね。
 
先ほどの雇用不安において、率先して報道しているテレビや新聞各局。彼らも変っちゃー変ですよ。
雇用不安で企業側が容易に解雇するのがおかしい。生活に苦しんでいる人が沢山いる。一部の企業ではそうした方々を雇用する方針のようです…で、君らはどうなん?
恐らくは報道の方々っていうのは、ニュースソースを求めるに当たり、そこら辺の状況がよーっく分かっているように思えるんですけどね。だとすれば、そうした方々の雇用をお手伝いなどをするべきでないかと。政治ばかりを批判するのではなくてね。そこら辺が変に見えるのですよ。
 
 
変と言えば、こういう事件が横行したと言う中で、予告犯罪があります。
国が何億かかけてネット世界に溢れている犯罪予告情報を獲得しようとしておりましたけど、あれ、どうなったんでしょうかね。その後、ぷっつりと聞こえなくなりましたけど。民間の方の0円サイトで十分って事なのでしょうか。
 
同じ様にネット関係で問題になったのは、自殺誘発に当たる内容のもの。要するに自殺マニュアルってやつです。
テレビが助長したという書き込みが今でもあちらこちらに見えますが、決してそれだけが問題なのではなく、今でもネットにそうした情報が放置されるが如く掲載され続けているのも大問題であるのは間違いないわけです。表現の自由と言う事をよく言いますけど、状況によっちゃ、自殺幇助もしくは殺人幇助に当たる可能性だって全否定は出来ません。
また、こうした情報を載せないように規制をかけるもしくは、法律で罰則規定を作らなければなくならないのでしょうかね。
まぁ、それも一つの自由なんですけどね。自分が仕出かした事の尻拭いが出来ないのであれば、法律によって自由を狭める。これも、それを選択したという自由の一つですし。
 
 
自由っていうのは、結果的に自分で全てを決め、自分でまとめ、自分で完結しなければいけないという事で、結構な不自由であるというのは知られていない話なのです。完結というのは、そこで全てが終わるわけですから、言うなれば立つ鳥跡を濁さずというわけで、それが出来なければどのような状況であれ、理由であれ放棄した事に変わりがないわけです。
最も、放棄したとしても善意によって手が差し伸べられる場合もあるわけで、その際には素直に感謝するべきなのですけど…。
ただ、それが善意であるのか、押し付けの自己満足であるのかも、難しい判断であるのは間違いないわけですけどねぇ。
 
兎にも角にも、人との距離が自分の感じている状況と変わっていると感じた年であったのではないのでしょうか。それも、単なる長さではなく、広さや高さ、場合によってはそれらを組み合わせた複雑な感じ、もしくは感覚ということでしょうか。
 
それでも、人同士の距離など、見えるのか見えないのか。それだけで十分ではないのかと思う次第なのです。所詮、人の心根など完璧に理解できるものではなく、そこに汲む必要があるのは重々承知している事。即ち、それは離れていく事ではなく、心地よさを測るためのもの…それが人の心の距離ではなかろうかと思うわけです。
 
来年は自戒も含めて、そうした距離を感じられる年にしていければ…そう考えております。今年の様々な「変」を忘れず、出来る事を邁進していこうではありませんか。
 
 
そんなわけで、今年最後の更新となります。来年は少し、文章の形態を変えて続けていければと思っております。厳しい暮れではありますが、それでもあえて、この言葉で締めくくらせていただきます。
 
 
 
 そんなこんなで今年はここまで。また、来年にお会いしましょう。

2008年12月20日

太陽系より離れていく旅の中で【「ジャイラス」(1983年 コナミ)】

 私たち人類が彼らに追いつく事があるのでしょうか…だとすれば、それは何時、どのような形になるのでしょうか。その彼らとは、ボイジャー1号2号と言います。



 さて、今回は1983年に発売されました「ジャイラス」です。



 海王星より始まり、天王星、土星、木星、火星と経て地球へと向かうのがゲームの目的…と言っても、このゲーム、基本的にはインベーダーゲームなので、ボーナスステージ以外、その面に出現する全ての敵を倒してクリアとなります。
惑星間は初めの海王星に向かう2ワープ以外は全て3ワープ…つまり3ステージ構成になっているわけです。
 
特筆すべきは、やはり自機の動きでしょう。
それまで、横移動がメインであったインベーダーゲームに円の動きを取り入れたのです。先ほど、横移動と記載しましたが、基本的には直線運動と記載した方が正解なのではないのでしょうか。
 
現在ならば、ポリゴンも使用した三次元的な動きは当然なわけであるのですが、当時の技術からすればそれはまだまだ先の話。出来る事と、商売になる事は決して同じではなかった時の話です。大抵のインベーダーゲームは横向き、もしくは真上からの視点でのつくりとなっているわけですが、このジャイラスは斜め後ろからの視点。円運動をするその動きは擬似三次元と言っても決して過言ではないのです。
 
敵は画面の構成からいえば中心から、しかし見た目には、奥から迫ってくるようにグラフィックされています。
奥のほうでは小さく描かれゆっくりと動き、自機に近づいていくる程、大きく素早くなる。その緊張感は他では味わえないものであったと記憶しております。
 
明確な物語を記載しているわけではなく、基本的には殲滅を目的としたゲームであるために、どうして地球に向かっているのかはわかりません。ただ、そうした物語を想像させるに難くないのが、BGMの存在です。
ジャイラスにはJ.S.バッハのトッカータとフーガニ短調、そのアレンジバージョンが使用されています。スタートボタンを押したときに流れる最初のフレーズ。それは絶望感を表現しているかのよう。
つまり、この戦いというのは、引く事が出来ないほどの切羽詰ったものなのだ…と勝手に想像してしまうわけなのです。
 
そうすると自然と燃えてきます。この戦いは俺だけにしか出来ない、俺がやらねば誰がやる…いや、別にそこまで入り込む事もないんですけどね。思えば、任務達成まで(つまりは地球まで)到達した事がどれだけあったのか……任務失敗=GAMEOVERの文字を何度見たことか。
 
難しいというよりも、慌てる事がやられてしまう可能性の高いゲームでもあります。速度は速いのですけど、決して難しいという部類ではないのです。
 
ボーナスステージは、ギャラガタイプとなっており登場する全ての敵機を倒す事が一番の高得点となるわけです。
その登場方法=敵機のルートは各ステージごとに決まっており、初見では運が、二回目以降では覚える事が高得点につながるようになっているわけです。
こうしたゲーム性は当時、企業間によって独占するわけではなく、同じゲームとして面白いものは取り入れるというスタンスであったわけです。
 
最近ではこうした状況をパクリと言いますが、むしろ、ゲームだけではなくそれこそ、エンターテインメント性のある娯楽に関してはパクリではないものが現状少ないのは事実なのです。
パクリであるのかオマージュであるのか、インスパイアであるのか。結果的には捉える側の許容と、親告する側の許容、更には利用した側のモラルという絶妙なバランスで成り立っているのは今も昔も変わる話ではないのです。
 
アコギな方法ではない限りは、不用意にパクリとして非難するのはエンターテインメントの萎縮を促す結果になる…と思うのですけどねぇ。
 
それはともかく、実はこのジャイラス。とある有名なゲームプロデューサーによって作り出されたものです。それは岡本吉起氏。今ではゲーム会社の代表取締役までやっている方でカプコンで数多くのゲームを作られた方として知られています。
この方がコナミで制作したのが、ジャイラスとタイムパイロット。どちらも有名なゲームですし、当時としては斬新なアイデアで作られていたゲームであるのは間違いないのです。
 
思うに、この二作品はそれまで「こうでなければならない」としたシューティングゲームの枠を更に打ち破った作品でもあると思うのです。



 1977年に打ち上げられた二機の無人惑星探査機ボイジャー。2007年7月の段階で1号は太陽から約154億8000万km、2号は約124億5900万km離れたところにいて、それぞれ秒速17km、15kmで飛行中との事であるから、今は更に遠い場所にいる事なのでしょう。
そんな彼らが、まだまだ地球に近いときに送り届けた一枚の写真の中に、太陽光の中にある青い点のような地球というのがありました。本当に点のような地球。それは、地球にいる我々では決して自分の目で見ることも、それを誰かに語ることも出来ないような、遠い場所での風景であり、同時にどれだけ大きな宇宙の中にあって、どれだけ小さな、そして限られた惑星であるのかを知る一枚ではないのかと思うわけです。
 
今、人類は地球の外へ向け、知性と行動をもって一歩を踏み出そうとしています。それが利権を求めるだけのものであるのか、それとも革新ともいえる不文律を生み出すきっかけになるのか、それは行ってみないと分からない話です。
 
地球は無限ではなく、有限である。その事を知識で知る事と実体験で知る事は当然のように刻まれる衝撃は雲泥の差があるはずです。文化や歴史が限られた空間の中で積み重ねられていくと言う事、それは人類の手で作られた歪な積み木を積み上げていく事であったのかもしれないのです。
良く見れば、その歪さもわかり調整もできるのでしょうが、昨今の時代の速度は、その調整もままならないまま進んでいるように思えるわけです。積み上げる事だけを望む世界。そこに何かしらの不具合があったとしてもおかしい話ではありません。
 
積み上げられた歪な積み木。その上に新たに積み上げられてしまったら、それを直す事は不可能です。抜く事なら出来るのかもしれませんが、それはそれまでの…いえ、これからの先に積みあがるはずの場所を取り上げるだけの覚悟が必要になってくるという事なのかもしれないのです。
 
 
様々な憶測や推測がありつつも、人類はこれまで孤独であり続けてきました。これだけ広大な宇宙の中に、人類以外の生物を目の当たりにする事がないのです。縁がないだけかもしれません。隠れているだけなのかもしれません。しかし、そのどちらであろうとも、人は人以外の人にあったことはないのです。
 
奇跡の惑星、地球。その蒼穹の惑星は、地球のどの宝石よりも輝いて存在しています。
 
ボイジャーが送ってきた点のような地球の写真。それは光が一秒間で駆け抜ける距離=光秒で言うと、約2万1473光秒の彼方からの地球の姿でもあるのです。それでも分かるほど、地球は青く輝いているのです。
 
 
同時に、人類がその上で行っている愚行を、ボイジャーは笑っているのかもしれません。…我らを生んだ父よ母よ同胞よ。君たちはそんなちっぽけな場所で何をいがみ合っているのかい?こんな広大な宇宙の中にあって、蒼穹が輝く、その美しい星で…。そう言っているのかもしれません。
 
そんな彼ら、ボイジャーたちには、我々のメッセージが載せられています。ゴールデンレコードと名付けられた黄金のレコード盤です。そこには、55の言語の音声情報や、90分間の電子情報化された音楽。そして、そのジャケットには地球がどこにあるのかという、言ってみれば宇宙航海地図などが記載されています。
 
そこにあるのは、間違いなく平和に存続する人類の姿。将来、このメッセージを受け取った異星人が来た時に、人類が小さな惑星で争っている姿を見てどう思うのか、そんな事も考えてみるべきではないのでしょうか。そして、そのちっぽけな惑星には、人類だけが住んでいるわけではないと言う事、さらには守らなければならないという事も感じ取るべきなのだと思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年12月06日

箱物行政は無駄な投資【「魍魎の匣」(2007年 フューチャープラネット/小椋事務所)】

 私もいつかは死にます。当たり前の話ですけど、だから無駄な投資はしたくはないわけです。



 さて、今回は2007年に公開されました「魍魎の匣」です。



 物語は戦争末期から始まる。榎木津は地獄絵さながらの場所で、生き残るために足掻いていた。そこに助けを求める将校が一人。彼を助けたその時、榎木津の頭上に流星のような光が降り注ぎ、その光を見てしまう。
すると、榎木津は一緒に連れてきた将校の背後に何かを見た。それは「匣」の中にいる少女。将校は問い詰められた言い訳のように話だす…「匣」の話を。話疲れた将校の前にあった一つの「匣」。それを開けてみると…。
 
それから七年後、1952年の東京。榎木津は探偵をしていた。今日も依頼のために奔走している。そんな街中では一つの殺人事件に関しての号外が叫ばれていた。そこには、バラバラ殺人事件の話があった。だが然したる興味も見せず、榎木津はとある場所に向かって車を走らせた。
 
そこは撮影所。榎木津の叔父が経営している撮影所において、彼を待っていたのは、稀代の女優と言われた女性、柚木陽子であった。彼女が榎木津に依頼したのは、娘・加奈子の捜索であった。
 
楠本頼子は、その性格から友人もなかったが、彼女に対し「僕らは、互いが互いの生まれ変わりなんだ」と声をかけてきたのが、クラス一の秀才で美少女の柚木加菜子であった。語る言葉は男言葉でその内容は難しい文芸雑誌のこと。そんな加奈子に戸惑う頼子であったが、それでも二人の少女は互いの孤独を埋めるように親睦を深めていく。
そして、それは遂に一つの行動を促す事になる。
 
それは二人で最終電車に乗って湖を見に行こうという約束であった。
 
ところが、その約束をした加奈子は駅のホームから突き落とされ瀕死の重傷を負ってしまう。病院に運ばれ、集中治療室に入れられた加奈子に肉親がやってくる。それは女優・美波絹子であった。
 
だが、加奈子はより綿密な治療を受けるために搬送される事になった。それはある研究所…その形は、大きな「匣」であったのだった。
 
 
京極夏彦氏の。百鬼夜行シリーズの第二弾。現在、アニメでも放映中の同タイトルですが、先に映画化がなされました。
 
私は原作を見ずに、この映画を見に行きました。それでも十分に楽しめたので、原作はもっと面白いのだろうと思っております…が、まだ読んではいません。なので、映画の中だけの話とさせていただきます。
 
 
この話、3つの「匣」が絶妙に関わりあい、事件の様相を織り成しているわけです。
一つは加奈子に関係する研究所の「匣」、二つ目は連続美少女殺人事件の「匣」、三つ目は新興宗教における「匣」。それらが、巧みになつながりを見せ、最終的にそれまで見えなかった最後の「匣」に集約していく、それが言いえて楽しいものでありました。
 
結構、残虐なシーンもあったりしましたが、それも必要なものとしてあるわけで、単純に気味が悪いと言えませんでした。
気味が悪いと言いましたが、それも単純に流血映画のような気味の悪さではなく、何かしら意味のある気味の悪さであったように思えます。
 
言いえて恐ろしいと思えるのは、それが単純に勢いで行われたものなどではなく、何かの意味を示している事ではないかと思えるのです。それは、その意味に新たな惨劇の予感を覚え、状況によって見ている方も巻き込まれてしまうのではないのかという恐怖を覚えてしまうのです。
しかし、その理由の真相が見えてくると、安心感と同時に更なる不安が起こってくるようになります。それが、この事件が解決できるのかという不安であると思うわけです。
 
 
物語の真相は、研究に没頭した研究者が、その理論を完成させるために躍起になっている状況という、それまでの物語にも幾度も見てきたものであります。ただ、それまでの小さな物語が、その最後に待ち構えている状況を確実に違うものとしているのは、こうした作品を見ていると感じる部分です。
 
同じ様な状況があったとしても、それは個人によって捉え方が変わって来る。それが当事者であっても同じ事。そして、過ぎたことは決して戻らないものである事も示しているわけで、それを悲しいと感じるのか、それとも懐かしいと感じるのか、それによって生き様が変わってくるのではないのでしょうか。
 
 
アニメも始まっている状況ですが、残念ながらまだ放送を見てはいないので、どれほど映画と違っているのか確認できません(ここら辺は、テレビ局などの事情もありますが、こうした作品は確実に放送して欲しいものです)。
レンタルなどで再び映画版を見て、どうにかしてアニメ版を見た後に、原作を読み、そのレビューを書けたら良いなと思います。きっと、それぞれの面白さを見せてくれるのではないかと期待するからなのですが…と、考えてみれば原作が完成形なんですよね。
 
ならば言い直しを、原作の面白さを、どのように料理しているのかを記載できればなぁと思う次第です。というわけで、このレビューは何時かの中編(?)に続きます。




 箱物行政と言う言葉があります。簡単に言ってしまえば、投資はしたものの的確にして適切に活用出来ていない行政の様子を表した言葉です。最近、それを良く考えてしまうわけですが、先ごろの政治家の方々の発言には、まさにそれが浮き彫りになっているのではないのかと思うわけです。
 
私たちは、選挙権を行使し選挙にて代表者を選出します。これが選挙です。難しい仕組みでもありませんよね。
では、どうして選挙を行うのか…と問われた場合、それを簡単に説明できますか…と言われればどうなのでしょうか。正直、私にはその自信がありません。簡単に説明する事が出来ないのです。
 
例えば、国民の代表として国政を行うと言った場合、ならば、国政とは何ぞや?という話になります。それが国益であったとしましょう。ならば、その国益とは何ぞや?と言う話になります。さて、国益と言う話になりますと、それは十人十色の話になります。例えば、高速道路の建設もそうでしょうし、労働力の確保もそうです。医者不足の問題もそうでしょうし、輸出入における他国との外交もそうですね。
つまり、国益とニュースで一言で言っている方を良く見かけますが、貴方の言われる国益とは何ぞや?という話になります。
 
同じ様な話で、国民の皆様が納得しないという言葉が聞かれます。野党では良く使われる言葉ですが、国民の皆様って誰?という話になります。この場合、少なくとも自分を指示してくれる方々には…が正解ではないのかと思うわけです。
 
私たちは税金を投入し、国政を賄っていただいています。それが的確にして適切に活用できない状況は、まさに私たちが箱物行政をしているのと同じなのです。
 
 
ニュース記事によりますれば、自民党政権はイカン、民主党の小沢氏が次期首相に相応しい。早急に解散総選挙を開くべきだと、元自民党の方々が言われています。これは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの典型ではありませんか。要するに自分の天下が取れないとなれば、他に政党を立ち上げる。その際には自民党は悪だ!とシプレキコールを上げれば不満を持っている人たちが付いて来る…と考えているだけなのでしょう。
ついでに言うと、諸外国よりのお願いを聞き入れれば、それだけ諸外国からの指示も受け入れられる。それは、政権維持にとって重要な事だと思っていますよね。
 
これだけ国民不在…ではなく、国民を馬鹿にしている代表者も珍しいのではないのでしょうか。
 
考えてみれば、日本人ほど優しい反乱をする民族も居ないでしょう。まず、自分の血を流さない。だから、他人の血を見たくも無い。当然、軍事クーデーターなどありえないですし、かつてあったような学生運動もあるはずが無い。
国の現状は、政治が悪いと言っておけば、当面自分の責任は回避できますし、何よりそれが皆に広まれば、誰かが何とかしてくれると考えているわけです。
 
医者の問題にしてもそう。自動車における飲酒運転やだろう運転にしてもそう。誰かが何とかしてくれましたかね?
 
 
例えば、後期高齢者医療制度は名前からしてけしからん…何故?
人生80年…まぁ、現状において、人が生きられるとされる限界は130年といわれていますが、比較的長寿である日本であって、80年が平均寿命である場合、成人になるまでが20年。これを初期とするのなら後期は60歳以降であってません?まるで人生の終りを言っているようでけしからんというのは、おかしな話で、人間、必ずどのような形かで終りは迎えますよ。
事故・災害・病気、それがどのような形であれ、終わった時点がその人の寿命です。60歳まで生き延びられたのならば、そこからは後期、つまり、どのように全うするのかを考えるべきなのではないのですか?
 
こうした例からしても、日本人には死に対する覚悟が足りないのではないのかと思えてならないのです。
 
覚悟が無いから尊厳もなく、故に尊敬もない。死に対する問題が希薄であるために、生(性)に対する問題にも希薄になってしまう。これが日本における最大の問題点であるのは間違いないのです。
 
一時の自己満足で少しの偽善をするぐらいであるのならば、以降に続く偽善を執り行った方が、偽善で無くなるわけで、要するに名より実を取るのは当然の話であるわけです。何のことを言っているのかといえば、その時の揚げ足で満足するなよ報道各社という意味ね。
 
 
さて、箱物行政の話。要するに私たちは現在、間違いなく投資している状況を間違えているのは間違いないわけです(変な重複…)。それを断ち切るには苦労もありますし何より現状を正しく把握する必要があるのは間違いありません。
少なくとも、情報の氾濫している状況で、しかも、煙に巻く魑魅魍魎が跋扈している現状では難しい事なのかもしれないわけです。
 
ただ、これからを考えるにあたり、もうぶっちぎっている状況。それは日本は独立した経済大国ではないという事実。こうした身近な問題から始めていく事も必要ではないのかと思うわけです。
 
 
無駄に投資をするのが、無駄に政治を行わせるのであるのならば、無駄に使わせないために必要な事と、無駄な知識を覚えさせない事。その為には、国民の代表を始めとする公務に携る人間の勝手をさせないルール作りをしていく必要があるのは間違いないわけで、そうした方々がエリートであるという認識を排除する必要があると思うわけです。
 
国が全ての国民のためにあるのだという以上、一部の国民だけが良いルール作りなどイリマセンからね。地道に、そうした事から改定する必要があるのだと思うのです。
その為に選挙に関心を持つ…これはこれからの時代に必須であると思うのですけどねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

【広告】

サイト内検索

メンバー紹介

このサイトに自分のブログを載せたい!
(ブログの登録は無料です。)


ninja tool counter

>

※2009年4月19日 19:00より開始

ninja tool access