今年の感想を漠然、漫然と記載してしまいました。
さて、今回は2007年に放送されました「天元突破グレンラガン」です。

遥か未来…人が生活をするのは地上ではなく地下。そこに住居を定め、コロニーとして生活していた。各コロニーは村として称され、そこで人々は不自由なく生活している。ただ、その資源などを人の手によるドリルでの採掘で賄っている状況であるのが、特徴と言えた。
ジーハ村に住むシモンは、ドリル使いとしては一級品。しかし、人付き合いが苦手な少年である。今日も今日とて無心に採掘を続けていたシモンのドリルが不思議な手ごたえを感じる。岩でもないその硬さにその周りを堀広げるシモン。すると、そこに出てきたのは、おきな顔と光るドリルであった。
村に戻ったシモンは、その光るドリルを大事そうに持っている。だが、穴掘りシモンは村の中では蔑みの目で見られている。そんなシモンを叱咤激励する存在がいた。彼が兄貴と慕う青年、カミナである。
彼は傍若無人な振る舞いで村では爪弾き者にされていた。それも自分が親と共に見たという地上に行くと言ってはばからなかったからだ。地下に住む者にとって地上は存在しない、それだけではなく禁忌の場所であるのは言うまでもないほどの常識であった。
しかし、カミナはどうしても地上に出たがっていた。地上にこそ、人が住むべき場所がある事を信じていた。
そして、カミナはいよいよ地上への道を開ける計画を実行する。だが、村長によって止められたかのように見えたその計画が、以外な事で実現してしまう。
それは、村の天井をぶち破って落ちてきた巨大な顔。それがカミナが欲していた穴を開けたからだ。だがしかし、その巨大な顔は村人に対して攻撃をし始めた。その前に立ちはだかったのはカミナ。村に未練は欠片もないが、それでもその振る舞いを許せるわけではない。カミナは刀一本で立ち向かっていこうとしていた。
それを止めたのは、やはり地上から来たという美少女ヨーコであった。
彼女の持つライフルが巨大な顔…ガンメンに炸裂する。しかし、その動きをとめることができない。一緒にいたシモンは、そのガンメンの顔を見て、自分が見つけた同じ様な、それでも大きさ的にはかなり小さなガンメンの存在を思い出す。そこにカミナとヨーコを連れて行く。
一緒に掘り出した光るドリルが始動キーになっているらしいとわかり、それを手渡そうとするシモン。だが、カミナはそれを拒み、シモンに動かすように言う。
「いいかシモン!自分を信じるな!俺を信じろ!お前を信じる、俺を信じろ!」
カミナのその言葉が、シモンの運命を開くのだった。
さて、手をつけてしまいました。天元突破グレンラガンです。これは、久しぶりの傑作ロボットアニメであったのは間違いありません。今の時代でも、やれば出来る。スーパーロボット万歳!と言った所でしょうか。
今年(2008年)には、劇場版一作目も公開されましたし、来年には二作目も公開されるとの話。まだまだ、終わりそうにないグレン旋風ですが、そのはしりは間違いなくTV版であるのは間違いないわけです。
これほどまでに玩具展開がしにくいアニメも珍しいのではないのでしょうか。一番の理由は、グレンとラガンの合体にあります。
簡単に言えば、ゲッターロボと同じトンデモ合体。手足は伸びるは、どこからかヘルメットは出てくるわ。ましてや合体のたびに、ドリルで突き刺して行うのですから、玩具にでもしようものなら、壊すのを前提にしなければならないわけです。今はやりのリアリティを追求するのなら…ですけどね。
BSアニメ夜話でも劇場版第一作が取り上げられたわけですけど、その際に言われたのが、台詞が馬鹿臭いということ。
今の言葉だなぁと思いつつ聞いておりましたが、昔ながらの言葉で言えば、単純に熱血なんですよね。ノリと勢いともいえますけど、そういう事を恥ずかしくもなく出来ると言う事に感動を覚える事が出来る…まだまだ捨てたもんじゃないぞ!日本のオタク共!と思ったものです。
また、この作品はロボットがズンドコ出てくる割には、印象に残りにくいという状況になっています。影を多用しているから、とか、アップが多用されているからとかではなく、実はもっと根本にその原因があったのです。
それは、ロボット以上にキャラの印象が強いと言う事です。
これは、ロボットアニメにおいて致命的な欠陥であると言えます。何故なら、ロボットアニメにおける主役はあくまでロボットであり、人間ではないからです。人間はあくまでロボットの運転手であり、エコーのかかった必殺技を叫ぶだけの部品。活躍するのはあくまでロボットでなければならないのです。少なくともスーパーロボットではそれが当たり前であったのです。
ですが、グレンラガンではそれをぶっちぎりで無視しました。ロボットの一部品のように演出されながらも、あくまでロボットを凌駕するほどの力を見せるのは人間である!これを徹頭徹尾、徹底したのです。
だからこそ、その喜びに共に笑い、その散る姿に無念を感じ、その悲しみに共に涙する事が出来るのではないのかと思うのです。
熱い言葉と言う事がどれほどの意味を成すのかわからなくなってしまったこの時代に、それでも魂の熱さだけで物語を作っていった製作者陣には、驚きと共に頭が下がり、同時に昨今におけるリアリティ追求だけの、本当に相手の心を汲む事の面白さと大切さを改めて教えてもらったように思えるのです。
「お前を信じる、俺を信じろ!」が「お前が信じる俺でもない、俺が信じるお前でもない。お前が信じるお前を信じろ」に変わったカミナのその言葉に、人を信じる事と自分を信じる事。その全ての意味と道理がある…だからこそ、馬鹿な言葉でも。いえ、そんな馬鹿になりたいものだと思うのではないのでしょうか。
2008年を振り返りますと、今年の漢字一文字である「変」であると最後まで思い知らされそうです。
今年は痛ましい事件が多かった印象がどうしても拭いきれません。人心が変わってしまったのか、それともそう考える事が変なのか。何を持って正常であるのか異常であるのか。「当たり前」が通用しない状況であるのだなぁと感じるわけです。
最近では雇用不安。これは以前にも同じ様な話を記載しておりますが、結果的にニュースに出てくるようなお偉いさん方に理解できるはずもなく、自分の城を守るので精一杯なのは見え見えな話で、昔の経営者気質とは変わってしまったのだなぁとしみじみ感じてしまうわけです。
変と言えば、その筆頭は国会であるのは明白であります。その状況は明白というよりも迷惑であるのですけど…。
政権与党における総理大臣がコロコロと変わった事、これも問題にされましたけど、結果的には一丸となって日本を持ち直そうとする姿勢がお役人や政治家にないのが問題でありまして、そういう意味では、さっさと偽りの党政治にケリをつけ、国民の代表としての自覚を持っていただきたいと思うのですけどね。
自分の政治生命よりも、国民の生活と生命が大事とする政治家はどこかにいないのでしょうかね。口先だけでなくてね。
先ほどの雇用不安において、率先して報道しているテレビや新聞各局。彼らも変っちゃー変ですよ。
雇用不安で企業側が容易に解雇するのがおかしい。生活に苦しんでいる人が沢山いる。一部の企業ではそうした方々を雇用する方針のようです…で、君らはどうなん?
恐らくは報道の方々っていうのは、ニュースソースを求めるに当たり、そこら辺の状況がよーっく分かっているように思えるんですけどね。だとすれば、そうした方々の雇用をお手伝いなどをするべきでないかと。政治ばかりを批判するのではなくてね。そこら辺が変に見えるのですよ。
変と言えば、こういう事件が横行したと言う中で、予告犯罪があります。
国が何億かかけてネット世界に溢れている犯罪予告情報を獲得しようとしておりましたけど、あれ、どうなったんでしょうかね。その後、ぷっつりと聞こえなくなりましたけど。民間の方の0円サイトで十分って事なのでしょうか。
同じ様にネット関係で問題になったのは、自殺誘発に当たる内容のもの。要するに自殺マニュアルってやつです。
テレビが助長したという書き込みが今でもあちらこちらに見えますが、決してそれだけが問題なのではなく、今でもネットにそうした情報が放置されるが如く掲載され続けているのも大問題であるのは間違いないわけです。表現の自由と言う事をよく言いますけど、状況によっちゃ、自殺幇助もしくは殺人幇助に当たる可能性だって全否定は出来ません。
また、こうした情報を載せないように規制をかけるもしくは、法律で罰則規定を作らなければなくならないのでしょうかね。
まぁ、それも一つの自由なんですけどね。自分が仕出かした事の尻拭いが出来ないのであれば、法律によって自由を狭める。これも、それを選択したという自由の一つですし。
自由っていうのは、結果的に自分で全てを決め、自分でまとめ、自分で完結しなければいけないという事で、結構な不自由であるというのは知られていない話なのです。完結というのは、そこで全てが終わるわけですから、言うなれば立つ鳥跡を濁さずというわけで、それが出来なければどのような状況であれ、理由であれ放棄した事に変わりがないわけです。
最も、放棄したとしても善意によって手が差し伸べられる場合もあるわけで、その際には素直に感謝するべきなのですけど…。
ただ、それが善意であるのか、押し付けの自己満足であるのかも、難しい判断であるのは間違いないわけですけどねぇ。
兎にも角にも、人との距離が自分の感じている状況と変わっていると感じた年であったのではないのでしょうか。それも、単なる長さではなく、広さや高さ、場合によってはそれらを組み合わせた複雑な感じ、もしくは感覚ということでしょうか。
それでも、人同士の距離など、見えるのか見えないのか。それだけで十分ではないのかと思う次第なのです。所詮、人の心根など完璧に理解できるものではなく、そこに汲む必要があるのは重々承知している事。即ち、それは離れていく事ではなく、心地よさを測るためのもの…それが人の心の距離ではなかろうかと思うわけです。
来年は自戒も含めて、そうした距離を感じられる年にしていければ…そう考えております。今年の様々な「変」を忘れず、出来る事を邁進していこうではありませんか。
そんなわけで、今年最後の更新となります。来年は少し、文章の形態を変えて続けていければと思っております。厳しい暮れではありますが、それでもあえて、この言葉で締めくくらせていただきます。
そんなこんなで今年はここまで。また、来年にお会いしましょう。
さて、今回は2007年に放送されました「天元突破グレンラガン」です。

遥か未来…人が生活をするのは地上ではなく地下。そこに住居を定め、コロニーとして生活していた。各コロニーは村として称され、そこで人々は不自由なく生活している。ただ、その資源などを人の手によるドリルでの採掘で賄っている状況であるのが、特徴と言えた。
ジーハ村に住むシモンは、ドリル使いとしては一級品。しかし、人付き合いが苦手な少年である。今日も今日とて無心に採掘を続けていたシモンのドリルが不思議な手ごたえを感じる。岩でもないその硬さにその周りを堀広げるシモン。すると、そこに出てきたのは、おきな顔と光るドリルであった。
村に戻ったシモンは、その光るドリルを大事そうに持っている。だが、穴掘りシモンは村の中では蔑みの目で見られている。そんなシモンを叱咤激励する存在がいた。彼が兄貴と慕う青年、カミナである。
彼は傍若無人な振る舞いで村では爪弾き者にされていた。それも自分が親と共に見たという地上に行くと言ってはばからなかったからだ。地下に住む者にとって地上は存在しない、それだけではなく禁忌の場所であるのは言うまでもないほどの常識であった。
しかし、カミナはどうしても地上に出たがっていた。地上にこそ、人が住むべき場所がある事を信じていた。
そして、カミナはいよいよ地上への道を開ける計画を実行する。だが、村長によって止められたかのように見えたその計画が、以外な事で実現してしまう。
それは、村の天井をぶち破って落ちてきた巨大な顔。それがカミナが欲していた穴を開けたからだ。だがしかし、その巨大な顔は村人に対して攻撃をし始めた。その前に立ちはだかったのはカミナ。村に未練は欠片もないが、それでもその振る舞いを許せるわけではない。カミナは刀一本で立ち向かっていこうとしていた。
それを止めたのは、やはり地上から来たという美少女ヨーコであった。
彼女の持つライフルが巨大な顔…ガンメンに炸裂する。しかし、その動きをとめることができない。一緒にいたシモンは、そのガンメンの顔を見て、自分が見つけた同じ様な、それでも大きさ的にはかなり小さなガンメンの存在を思い出す。そこにカミナとヨーコを連れて行く。
一緒に掘り出した光るドリルが始動キーになっているらしいとわかり、それを手渡そうとするシモン。だが、カミナはそれを拒み、シモンに動かすように言う。
「いいかシモン!自分を信じるな!俺を信じろ!お前を信じる、俺を信じろ!」
カミナのその言葉が、シモンの運命を開くのだった。
さて、手をつけてしまいました。天元突破グレンラガンです。これは、久しぶりの傑作ロボットアニメであったのは間違いありません。今の時代でも、やれば出来る。スーパーロボット万歳!と言った所でしょうか。
今年(2008年)には、劇場版一作目も公開されましたし、来年には二作目も公開されるとの話。まだまだ、終わりそうにないグレン旋風ですが、そのはしりは間違いなくTV版であるのは間違いないわけです。
これほどまでに玩具展開がしにくいアニメも珍しいのではないのでしょうか。一番の理由は、グレンとラガンの合体にあります。
簡単に言えば、ゲッターロボと同じトンデモ合体。手足は伸びるは、どこからかヘルメットは出てくるわ。ましてや合体のたびに、ドリルで突き刺して行うのですから、玩具にでもしようものなら、壊すのを前提にしなければならないわけです。今はやりのリアリティを追求するのなら…ですけどね。
BSアニメ夜話でも劇場版第一作が取り上げられたわけですけど、その際に言われたのが、台詞が馬鹿臭いということ。
今の言葉だなぁと思いつつ聞いておりましたが、昔ながらの言葉で言えば、単純に熱血なんですよね。ノリと勢いともいえますけど、そういう事を恥ずかしくもなく出来ると言う事に感動を覚える事が出来る…まだまだ捨てたもんじゃないぞ!日本のオタク共!と思ったものです。
また、この作品はロボットがズンドコ出てくる割には、印象に残りにくいという状況になっています。影を多用しているから、とか、アップが多用されているからとかではなく、実はもっと根本にその原因があったのです。
それは、ロボット以上にキャラの印象が強いと言う事です。
これは、ロボットアニメにおいて致命的な欠陥であると言えます。何故なら、ロボットアニメにおける主役はあくまでロボットであり、人間ではないからです。人間はあくまでロボットの運転手であり、エコーのかかった必殺技を叫ぶだけの部品。活躍するのはあくまでロボットでなければならないのです。少なくともスーパーロボットではそれが当たり前であったのです。
ですが、グレンラガンではそれをぶっちぎりで無視しました。ロボットの一部品のように演出されながらも、あくまでロボットを凌駕するほどの力を見せるのは人間である!これを徹頭徹尾、徹底したのです。
だからこそ、その喜びに共に笑い、その散る姿に無念を感じ、その悲しみに共に涙する事が出来るのではないのかと思うのです。
熱い言葉と言う事がどれほどの意味を成すのかわからなくなってしまったこの時代に、それでも魂の熱さだけで物語を作っていった製作者陣には、驚きと共に頭が下がり、同時に昨今におけるリアリティ追求だけの、本当に相手の心を汲む事の面白さと大切さを改めて教えてもらったように思えるのです。
「お前を信じる、俺を信じろ!」が「お前が信じる俺でもない、俺が信じるお前でもない。お前が信じるお前を信じろ」に変わったカミナのその言葉に、人を信じる事と自分を信じる事。その全ての意味と道理がある…だからこそ、馬鹿な言葉でも。いえ、そんな馬鹿になりたいものだと思うのではないのでしょうか。
2008年を振り返りますと、今年の漢字一文字である「変」であると最後まで思い知らされそうです。
今年は痛ましい事件が多かった印象がどうしても拭いきれません。人心が変わってしまったのか、それともそう考える事が変なのか。何を持って正常であるのか異常であるのか。「当たり前」が通用しない状況であるのだなぁと感じるわけです。
最近では雇用不安。これは以前にも同じ様な話を記載しておりますが、結果的にニュースに出てくるようなお偉いさん方に理解できるはずもなく、自分の城を守るので精一杯なのは見え見えな話で、昔の経営者気質とは変わってしまったのだなぁとしみじみ感じてしまうわけです。
変と言えば、その筆頭は国会であるのは明白であります。その状況は明白というよりも迷惑であるのですけど…。
政権与党における総理大臣がコロコロと変わった事、これも問題にされましたけど、結果的には一丸となって日本を持ち直そうとする姿勢がお役人や政治家にないのが問題でありまして、そういう意味では、さっさと偽りの党政治にケリをつけ、国民の代表としての自覚を持っていただきたいと思うのですけどね。
自分の政治生命よりも、国民の生活と生命が大事とする政治家はどこかにいないのでしょうかね。口先だけでなくてね。
先ほどの雇用不安において、率先して報道しているテレビや新聞各局。彼らも変っちゃー変ですよ。
雇用不安で企業側が容易に解雇するのがおかしい。生活に苦しんでいる人が沢山いる。一部の企業ではそうした方々を雇用する方針のようです…で、君らはどうなん?
恐らくは報道の方々っていうのは、ニュースソースを求めるに当たり、そこら辺の状況がよーっく分かっているように思えるんですけどね。だとすれば、そうした方々の雇用をお手伝いなどをするべきでないかと。政治ばかりを批判するのではなくてね。そこら辺が変に見えるのですよ。
変と言えば、こういう事件が横行したと言う中で、予告犯罪があります。
国が何億かかけてネット世界に溢れている犯罪予告情報を獲得しようとしておりましたけど、あれ、どうなったんでしょうかね。その後、ぷっつりと聞こえなくなりましたけど。民間の方の0円サイトで十分って事なのでしょうか。
同じ様にネット関係で問題になったのは、自殺誘発に当たる内容のもの。要するに自殺マニュアルってやつです。
テレビが助長したという書き込みが今でもあちらこちらに見えますが、決してそれだけが問題なのではなく、今でもネットにそうした情報が放置されるが如く掲載され続けているのも大問題であるのは間違いないわけです。表現の自由と言う事をよく言いますけど、状況によっちゃ、自殺幇助もしくは殺人幇助に当たる可能性だって全否定は出来ません。
また、こうした情報を載せないように規制をかけるもしくは、法律で罰則規定を作らなければなくならないのでしょうかね。
まぁ、それも一つの自由なんですけどね。自分が仕出かした事の尻拭いが出来ないのであれば、法律によって自由を狭める。これも、それを選択したという自由の一つですし。
自由っていうのは、結果的に自分で全てを決め、自分でまとめ、自分で完結しなければいけないという事で、結構な不自由であるというのは知られていない話なのです。完結というのは、そこで全てが終わるわけですから、言うなれば立つ鳥跡を濁さずというわけで、それが出来なければどのような状況であれ、理由であれ放棄した事に変わりがないわけです。
最も、放棄したとしても善意によって手が差し伸べられる場合もあるわけで、その際には素直に感謝するべきなのですけど…。
ただ、それが善意であるのか、押し付けの自己満足であるのかも、難しい判断であるのは間違いないわけですけどねぇ。
兎にも角にも、人との距離が自分の感じている状況と変わっていると感じた年であったのではないのでしょうか。それも、単なる長さではなく、広さや高さ、場合によってはそれらを組み合わせた複雑な感じ、もしくは感覚ということでしょうか。
それでも、人同士の距離など、見えるのか見えないのか。それだけで十分ではないのかと思う次第なのです。所詮、人の心根など完璧に理解できるものではなく、そこに汲む必要があるのは重々承知している事。即ち、それは離れていく事ではなく、心地よさを測るためのもの…それが人の心の距離ではなかろうかと思うわけです。
来年は自戒も含めて、そうした距離を感じられる年にしていければ…そう考えております。今年の様々な「変」を忘れず、出来る事を邁進していこうではありませんか。
そんなわけで、今年最後の更新となります。来年は少し、文章の形態を変えて続けていければと思っております。厳しい暮れではありますが、それでもあえて、この言葉で締めくくらせていただきます。
そんなこんなで今年はここまで。また、来年にお会いしましょう。




