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2008年11月29日

駄菓子屋さんやら本屋さんやら…【「機甲界ガリアン コンプリートアートワークス」(2008年 新紀元社)】

 十年近く利用していた本屋さんがなくなる事が残念でなりません。



 さて、今回は2008年に発売されました「機甲界ガリアン コンプリートアートワークス」です。



 1984~85年にテレビ放映、そして1986年に果然オリジナルのOVAである鉄の紋章が発売となった、機甲界ガリアン。その設定資料集が発売となりました。
 
一番驚いたのは、その発売元です。新紀元社なのですが、どうにもケイブンシャの臭いがするのは何故でしょうか。ケイブンシャでこうした大百科でもやっていた方が新紀元社で働いているのでしょうか…というぐらいに、同じ様な臭いがするんですけど…その真偽はわからないまでも、ある意味欲しい情報が、ある意味足りない情報が過不足なしにあるのは嬉しいものです。…つまり、懐かしいと言う意味で、ですけどね。
 
少なくとも、ガリアンにおける設定資料においては、TVシリーズに関してはデュアルマガジン、そして、OVAに関してはニュータイプを網羅していれば十分なのです。問題は、それらを手に入れるのに物凄く労力を必要としていると言う事。
そういう意味では、こうした設定資料集はその作品が大好きなファンにとってはありがたいものです。
 
今回のこのムック本が発売されると同時に、サントラも復刻されました。
こちらは手に入れていないのですが、それでも、当時の雰囲気を楽しみたい人には必須のあいてむであるのは間違いないのです。こうした復刻はアニメというサブカルチャーにとっては大事な事。いわゆるリメイクではなく、当時のありのままを提示してみるには格好の時代なのかもしれません。
 
こうしたムック本における大事な要素の一つに、ムック本を購入したからこそのプレミアを期待するわけです。
それは何かと言えば、没デザインです。
 
例えば、主人公機であるガリアンは当初、カラーリングが赤ではなく青であり、また額の飾りがなかったというのは、結構有名な話。すると、劇中では動かなかったその機体をどうにかして再現してみたいという気持ちになってくるわけです。
つまり、そこで考えるのは、立体化…一から作るのは難しいので既存のプラモデルからの改造をするわけです。
 
そのような魅力もそうした情報には含まれているのは、有名どころではガンダムが立証している話です。
ただし、最近では既に完成したプラモデルを購入する方が多いようで、それを本当に既存のプラモデルという媒体であるのかと突っ込みを入れたくはなるのですけど…。なければ作るが合い言葉であったのは、昔の話なのですねぇ…。
 
OVAにあっても、未登場の機体がありまして、それは何かと言えばアゾルバです。
TV劇中でもそれほど活躍をしている印象はないのですが、それでもあのデザインは何か印象を覚えます。OVAで水辺が出てきたのは最初の辺り。後は雨やら、波打っていても溶岩であったりとか、アゾルバが活躍できる隙はなかったですねぇ。全3巻(実際のビデオ発売は合わせて三巻ですが、内二巻はTVの総集編でありましたので、完全オリジナルストーリーは三番目に発売された、鉄の紋章だけなのです)ぐらいの規模であれば、活躍できた可能性はあったんでしょうけどね。
 
ガリアンにおける商品展開は、ガンダム再放送移行のガンプラブームに追従した形であったのは、当然の話です。つまり、ポストガンダムを狙っていた気質がありました。昨今では、エヴァンゲリオンがガンダムに並ぶ作品のように言われているわけですが、しかし、あれほどまでに搭乗するロボットに対する熱狂的な状況にならなかったのは、結果的に年齢を上げすぎた結果によるもの、そして、何よりプラモデルという商品媒体にしにくかったのが原因であるのは仕方がない話です。
それはガリアンであったり、ダグラムであったり、ボトムズであっても同じことが言えるのでしょう。ボトムズは、ガンダムのような未来型のロボットではなく、今にもどこかから出てきそうな近未来型であったのが、伸びを見せれなかった原因であり、これはダグラムにもいえる話だと考えます。
一方のガリアンはあまりにもファンタジー色が強かったように見受けられました。つまりは、その要素を踏まえた上で楽しまなければならないという前提が見ていた側にあったのかもしれないと言う事なのです。
 
今の時代なら、ファンタジーの定義も広がっていますので、より幅の広い楽しみ方が生まれてきたのだろうなぁと残念でならないわけです。
 
当時、こうした作品は、玩具を売るための媒体であったのは言うまでもありません。そのために、いわゆる打ち切り、テコ入れなど当然のようにあったのだと推測できます。どんなにファンの受けが良かったとしても、玩具が売れなければ不出来のレッテルを貼られるのは仕方がない話なのかもしれません。その上で物語を作っていくのは大変な事ではなかったのかと思います。
しかし、最近では別媒体における人気作品、しかもその別媒体で終了していない作品をアニメ化する傾向が多分に見られるわけです。当然、そうなりますと、アニメに関しても途中で終了したり、アニメ独自の終り方になってしまうのがあります。それが正しいのか正しくないのかは別の時に記載してみるとしまして、しかしながら間違いなく言えるのは、そのアニメに予測する楽しみが少なくなったのは間違いない話なのです。
 
こうしたムック本を見るにつけ思う事は、やはり作品というのはあくまで発信する側が何も理解できないであろう状況から理解できるように仕向け、また見る側はそれを理解し予測する楽しみがある事が大前提ではないのかと思うわけです。単に踏襲するだけの作品に売れる売れないで一喜一憂する状況はどうなのかと。更に言えば、そこに自分たちの誇りを賭けるのは愚か者のする事に思えるわけです。
 
プロであるからには売れる作品で勝負をかける…これを言ってしまっては、それは作り手ではなく売り手です。少なくとも、売れる商品を探すにしても、自分たちのアイデアの中から探していく器量と度量が、今こそ必要ではないのかと思う次第なのです。
今のアニメの乱立は、まるで少し昔に乱立した似通ったドラマを見せ付けられているように思えますな。オリジナル性もない、単なる技術だけで感動させようとしていると。残念な話です。




 本来なら別の作品を今週、記載しようかと思ったのですが、思う事があり書いてみたいのでコチラにしてみました。
 
今回、レビューした冊子ですが今月で閉店してしまう本屋さんで購入しました。昨今における不況…というよりも大型書店の乱立に押されてしまった形なのだと思います。本当に残念な話であると思います。
 
私自身は、大型書店…いえ、最近のショッピングモールの構造に飽き飽きしている状況があります。
 
ちなみに、今近所、と言いましても半径20kmほどの中にどれだけのショッピングモールがあるのかを考えてみますと…モレラにロックシティにサティにイオンにプラントにダイヤモンドシティに平和堂…近場だけでもイオン系列多すぎと言う状況です。それだけ多くても中身が違っていればそれぞれで楽しめるのですけど、中を見てみても同じ様な店舗が同じ様に並んでいるだけ…これでは、一つに行くだけで十分に楽しめるというものです。
 
これは単純に売れ筋しか置かない事に起因している事であるのは明白です。
全体の売れ筋を理解して、客を招く。当然ポイントカードなるものに入ってもらって、それを貯める事によってお得感を演出。ついでにクレジットカード機能のあるポイントカードならば割引までつけちゃおう!…という感じでしょうかね。
 
昔からその場所その店に行く目的など、唯一つしかありません。それはその場所でしか楽しめない物、それを楽しみに行くというものです。
どの業種であれ、その原則原理は変わりません。だからこそ、多少遠くても足を運ぶ人が出てくるというものなのです。
 
もう一つは、その場所が社交場でなければならないと言う事。
特に子供たちにとっては、そうした社交場がある事によって社会とのつながりが出来、また、仲間内やそれ以外との付き合い方を学んでいく場所になるわけです。昔の駄菓子屋さんなどはそうですね。握った百円の中でいかに多くの駄菓子を購入するのか。それがお金の大切さを学んでいく事でもあったはずです。
 
そう、私が懸念しているのは、結果的に何も変わらず何も学べない、単純に物があり購入だけ出来るという場所が周りに多すぎるという点にあるのです。
これではテレビにおける情報発信の偏りがそのまま現実世界に出現したかのように思えてきます。
 
薬屋さん、本屋さん、駄菓子屋さん、おもちゃ屋さん、模型屋さんに服屋さん、八百屋さん、お肉屋さんに魚屋さん。こうした親しみやすい名称の中にあるのは社会とのつながりではないのでしょうか。それをショッピングセンターの単一な状況における対応で感じることなど出来るはずがありません。
全てが同じである事に問題があるのではなく、全てを同じにする事に問題があるのではないのでしょうか。
 
人もそうですし、物もそうです。先ほども記載しましたが、同じ様に何処に行ってもサービスが受けられるのであれば、複数店舗ある意味などないのです。それは特色でもなければ売り物でもありません。単純に提示しているだけの話なのです。
 
社会に浸透する事は決して、サービスによる満足だけではないと私は思います。むしろ、そのサービスというのが付加と言う意味で使われるのであれば、それは尚更です。根付く事の意味を今、大型店舗を有する巨大企業は考えるべきではないのでしょうか。
最近の記事でイオンが撤退戦略を考えているそうですが、結果的にそれはそこにあった小さなつながりを潰す覚悟を持っての展開ではなかったのか、それを結果的に撤退する事に対する問題は皆無であるのかを考えるべきではないのでしょうか。
 
正直、私自身はショッピングモールに買い物に行く事が決して多くはありません。それよりも少し遠くてもスーパーであったり、小売店舗に足を運ぶようにしています。
その理由はそこにしかないかもしれないワクワクした物を手に入れるためです。人に一期一会があるように物にも一期一会はあるのです。それが結果的に物に対する大切さを学ぶ事になるのだろうと私は考えるのです。
 
全てが確実に簡単に手に入る昨今の情況に、便利である反面、達成感が少なく、更に言えば期待感もない。それでいながらより利便性を求める。全てが追求ではなく要求になってしまっている状況は、そら恐ろしさを感じてなりません。それもその利便性の取捨選択を売り手側が決定している事実…与えられているだけの情況に選択している錯覚を覚えている現状…これから先、大丈夫なんでしょうかね。
 
 
ちなみに、自分に十分な資金があれば、駄菓子屋に模型屋をやってみたいと本気で思っております。だって、近くにないもの、そういうも。十円で遊べる機械を設置したりしてね。
ちょっとした夢のような話であります。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年11月22日

素材として活用されています【「機甲創世記モスピーダ」(1983~1984年 フジテレビ/タツノコプロ/アニメフレンド)】

 海外で人気がある日本のアニメや特撮。確かに見てみると再構成された面白い作品が多いのです。



 さて、今回は1983~1984年に放送されました「機甲創世記モスピーダ」です。



 西暦2050年。異星人インビットが地球に来襲、地球人の大半は火星へと非難する事になった。その30年後である2080年、地球奪還および同胞救出のための作戦が開始される。第一次降下作戦は失敗し、その3年後に行われた第二次降下作戦において投入されたのが、可変戦闘機AFC-01「レギオス」、同AB-01「トレッド」。そして搭乗者の生存率を高めるための装備、変形機能付機動倍力ユニット・ライドアーマーである。
 
その第二次降下作戦の際に第21機甲戦闘中隊に所属していたのが、スティック・バーナードである。
 
彼はレギオスで参戦するも、機体を損傷し地球に降下を余儀なくされてしまう。そしてそこからインビットの本拠地へと向かう旅を始めるのであった。
 
 
この物語の主人公はあくまでスティックであると思っているのですが、しかし、取り上げられるのは、レイやイエローであったりします。レイはインビットに占領された地球で生まれ育った17歳の青年。こともあろうに第二次降下作戦で大破した輸送機の残骸よりライドアーマーVR-052F/T・モスピーダを勝手に拝領してしまうのです。
 
そう、この作品の題名でもあるモスピーダはこのライドアーマーの名称であったりするのです。
 
だったらレイが主人公じゃん…いや、もっともな話なのですが、そうなるとあまりにスティーブがカワイソウなんですよ(涙。お堅い性格が仇となって地球即席部隊(と思い込んでいる)をうまく機能させなければならない(と思い込んでいる)ので、すぐにハゲになってしまうのではないかと心配で心配で…。
 
 
物語自体、残念な事に打ち切りになってしまった作品なのですが、今でも、いえ、逆に今だからこそライドアーマーやレギオス、トレッドなどの玩具が多く出てきており、それだけこの作品におけるそうしたアイテムの出来が良かったと言う事を示しています。
バイクが武装として機動兵器になるというのは、斬新でした。それに、OPにおけるライドアーマーが変形したアーマーバイクが大変に格好良いのです。
 
それが団体を組んで疾走していく。OPに燃えたファンも多かったように思えます。
 
 
物語の核にあたるインビットという異星人の目的は、自分の進化に適した惑星を探しており、地球がその条件に適応したからというものでありました。侵略と言う形をとったのは、どうしてなのかは劇中で語られていない…と記憶しています(違っていたらごめんなさい)。
 
こうした状況は当時の作品において、よく見られた傾向であったのですが、それはあくまで侵略というわかりやすい勧善懲悪の図式が必要であったからに過ぎず、結果的にそうした過程が実は種の保存などに必要であったから止む得ずという後付のような説明が良く成されていたと思います。
 
勧善懲悪という単純さでなくなったロボットアニメの悪い部分が、こうした所に出てきているのかもしれません。要するに説明だけの状況が必要でありながらも、あくまで戦闘におけるテンポの良さを先行させる。これでは、どうして彼らは戦っているのか、その核の部分がわからないままで、どれも同じような作品になってしまうのは仕方がない話なのかもしれません。
 
 
ちなみに、このモスピーダと言う作品は、海外で大変受けが良いものであったそうです。その名称もロボテック・ニュージェネレーション。なんというかストレートな題名ですね。
 
この作品については別の機会にでも紹介してみたいと思います。




 特撮やアニメが日本のものである…と誰が言ったのかは知りませんが、決してそうではないようです。というのは、最近のパワーレンジャーを見て、そう思うようになりました。
 
日本のアニメが海外へ輸出される形態には、大きく分けて二通りあるようです。
一つは、既に作り上げている作品をそのままで放送してもらう事。もう一つは、その作品を素材として手渡し、向こうで組みなおしてもらうと言う事です。
アニメにおいても、そういう状況が起こる原因は、やはり民族性が大きいのでしょう。
 
例えば、少なくともカートゥンの関しては、日本のように相手を殺すもしくは破壊するというのはご法度でした。特にそれが人間に似た容姿を持っているのならば尚更です。また、人を模した存在を作り出すのもご法度です。
要するに、海外のヒーローの大前提は、人に成らざる者である事が前提であると言えるわけです。その名称がミュータントであったり、スーパーマンであるという事なのです。
 
日本はどうでしょう。改造はするは修行で身につけるは。要するに選ばれし者なのですが、その選ばれ方が運命である事が少ないわけです。確かに仮面ライダーなどはショッカーに見初められたという状況であるのでしょうが、本郷猛はたまたま生き残ったに過ぎないのです。
そこに本郷猛である必然性はなく、もしかすれば本郷猛とは別の人物が仮面ライダーになった可能性がある…それは特撮物全般に言える話であり、そこが魅力でもあるわけです。
 
人はどれだけ頑張ってもスーパーマンになれません。しかし、条件さえ揃えば、パワーレンジャーにはなれます。そこが人気のある理由なのかもしれません。明らかにこれまでのアメリカンヒーローではあり得ない条件であったからです。
 
そんなパワーレンジャーも当初は、低予算であったのでしょうか。日本で撮影した映像を巧みに組みなおして制作していました。変身前のストーリーは、あくまで海外ドラマ。それだけ抜き出してつなげても、見れない作品にはなりましません。
でも、それも当初の作品のみ。最近では、スーツと日本におけるプロットのみを送り、その中身は再構成した作品が出てきているのです。しかも、その人気と共に予算が出てきたのか、使われる爆発などのエフェクトも現状の日本の比ではないほどの迫力があったりします。
ただ、日本のわびさびだる見得を切るという事には、まだまだ追いついていない様子ですけど…。
 
それでもアクションは流石に素晴しいものがあります。それが韓国系であったとしてもです。
肉体を動かす=アクションに関しては、やはり、ジョン=ウー監督の作品類の影響が高かったのでしょうか。明らかにワイヤーアクション+カンフーアクションが組み込まれているのがわかります。
軍隊の格好をしてアクションというのは、かなり新鮮ですよ。それまでは銃でガガガガガッ!というのが当たり前でしたし、それ以外でも使ってナイフぐらいですから。正直、見とれてしまうほどの動きを見せてくれます。
 
しかも、それを変身前のアクターさん自身がやっているのですから、素晴しいものです。
多少の違和感を感じるのは、やはりそれまでのアメリカ映画とのリズムが違うからなのでしょうが、それはそれ。テンポの良い動きを見るのに問題も文句もありゃしません。
 
そうした試みは、遂に母国で生まれたヒーローにも取り入れられてきた様子。
アイアンマンなどはそれまでのアメリカンヒーロー映画とは異なる雰囲気を醸し出しています。アニメではやはりカートゥンであったアイアンマンが、実写映画ではまるでパワーレンジャーばりの動きや効果を見せてくれるのは素晴しいものです。
その上であの国ならではの外連味まで見せてくれるのですから、コレ以降の作品に大きく期待したいものです。
 
特撮物はパワーレンジャーのような戦隊物だけではなく、仮面ライダーも輸出されておりまして、まだしっかりと見ているわけではないのですが、ドラゴンナイト(日本名:龍騎)もあちらの形として焼直されました。
日本ではもう、見られないのではないのかという仮面ライダーにおける戦闘員がいる様子なのです。
 
やっぱり悪の組織があり、そこにいる戦闘員がいて、その組織と戦い孤高の戦士が仮面ライダーであるのだろう…と、待てよ?龍騎は複数ライダーのはず…と思い調べてみましたら、結論としてはテレビでライダー同士が結託し、グループ対グループの構図になるのだとか。
それって戦隊物でないんですか?と突っ込みを入れたくなったのですけど、それでも、そういう自由な発想が、本来あるべき姿ではないのかと思うわけです。
 
日本でも、ある事情から平成版仮面ライダーの十周年記念ライダーというのが出てくるそうです。
半年間だけの期間限定ライダーのようですけど、思えば十年もやっているのですから、昭和から見ていた世代としては、栄光の平成十人ライダーを見てみたいと思うのは当然のように思うのですけどね。
 
そういう仲間的なコラボを海外では平気で行うというのに、日本では…。確かに商業である事が重要なのはわかるのですけど、それが過ぎるように思えてしまうのは悲しい事だと思うのです。あくまで幼児から当時の幼児まで楽しませる事が、ヒーローの務めであると思うのですけどねぇ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年11月15日

身近にある万魔殿【「ドルアーガの塔」(1984年 ナムコ)】

 古今東西、様々な悪の巣窟があるわけですが、それは決してお話だけの存在ではないのです。



 さて、今回は1984年に発売されました「ドルアーガの塔」です。



 IN ANOTHER TIME. IN ANOTHER WORLD...
THE BLUE CRYSTAL ROD KEPT THE KINGDOM IN PEACE...
BUT THE EVIL DEMON DRUAGA HID THE ROD AND THE MAIDEN KI IN A TOWER...
THE PRINCE GILGAMESH WORE GOLD ARMOR AND ATTACKED MONSTERS TO HELP KI IN THE TOWOR OF DRUAGA.
 
悪魔ドルアーガ…その姿は濃緑にして四対の腕と四本の脚。目は複眼にして黄金の輝きを持ち、口は顔の両端にまで裂けそこから牙を除かせている。だが、その姿が本当にそうであるのかは定かではない。ある勇者の前にあっては魔法使い、ある勇者の前にあっては龍、そしてある勇者の前にあっては騎士の姿で現れたという。
 
その姿を暴くためには、聖なりし防具、剣そしてアイテムが必要となる。それは、ドルアーガの存在する塔に隠されているという。
 
勇気を力にする黄金の鎧をまといギルは、その勇気を力に変えて塔へと入っていく。其処に待ち受けるだろうモンスターたち、そしてドルアーガの力で邪悪な意思を植えつけられた聖龍クオックスや騎士たち。
さらには、封印するために入っていったカイを助け出し、そして聖なる光を放つブルークリスタルロッドも確保しなければならない。
 
ギルはその試練に打ち勝つ事が出来るのか。そして、最上階に何があるのか…それは、その場所に行く事でしか解けない非情な謎であった。
 
 
ある意味画期的な、ある意味非道なゲームとして知られるドルアーガの塔です。
 
それまでのゲームは終りがありませんでした。永遠にループをし、残機数がなくなるまでゲームできるという代物であったわけです。
カンストと言う言葉があるのですけど、その意味するところはカウンターストップ。例えば点数であったり面数であったり。それをマックスにすることが一つのステータスであったわけです。
 
ところが、そのゲームシステムと異なるものが、このドルアーガの塔でした。
 
ドルアーガの塔には明確なゲーム目的があり、その目的を達成するとそこでゲームが終了するシステムを採用していたのです。その目的とは悪魔ドルアーガを倒し、そしてカイを助け出してブルークリスタルロッドを最上階に掲げる事。
ですが、それが非道なゲームであるといわれた原因でもあったのです。
 
このゲーム、RPG的要素を踏まえたもので、ゲーム中に出てくるアイテムでパワーアップをしたり、パワーダウンをしたりします。その効能は獲得してみるまでわからないのではなく、大半は獲得してもわからないものなのです。
しかも、最終的にドルアーガを倒すのに必須となるアイテムがあるのですが、そのアイテムも明記されていないのです。
 
トドメに、そのアイテムに関する事で最も非道な事と言えば、アイテムが入れられている宝箱の出現条件は、プレイヤーで探し出しましょうというものでした。
 
ゲーム発売当初、即ちゲームセンターに設置当初にそのような事がわかるはずもありません。多くのプレイヤーが途中で挫折したわけですが、その情報をいち早く全国に知らせたのは電波新聞社のマイコンBASICマガジン…略してベーマガでした。
其処に載せられた情報によって全国のプレイヤーが、いわゆる解き方を競い合うように研究していったのです。そうした経緯の中には、他のプレイヤーが盗み見しないように、ダンボールで画面を隠すゲームセンターも出てきたほどです。
 
最終的にはその攻略法が世に出回ったことで、一応の解決を見たように見えました…が、問題はその出現パターンを覚える事ができないという事です。
何せ、ドルアーガの塔の階数は全部で60階。その中から必要なアイテムを覚えるというのは、無理と言うもの。結果的に、メモ帳を作ったり、ゲームセンター側が用意したりと言う、ある種のお祭り騒ぎであったゲームと記憶しております。
 
 
その後にファミコンやPCエンジン、パソコンにも移植され、そして今ではオンラインゲームやアニメ化までされたわけですけど、その当時よりメディアミックスはされていたゲームでもありました。
今では名称としても見当たらないゲームブックス。ナムコが家庭用として出す際に使用していたナムコットのブランド名で出されていたボードゲームもありました。また、大阪で開催された国際花と緑の博覧会において屋外型施設として作られたこともありました。
 
時代を経ていくと、その姿を何かに変えて展開していくドルアーガの塔。この先、まだまだその姿を変化させていくような気がしてならないわけですが、どのようになるのでしょうか。楽しみな事です。




 何かとんでもなく、限りなく黒い訝しげな場所の事を万魔殿(パンデモニウム)と呼称しますが、決してこれは異次元や魔界の話ではなく、現実世界の話。しかも、身近に存在する場所に対するお話です。
 
というのは、昨今の税金に対する政治家や役人の対応がどうなっているのかという事。
 
例えば裏金問題。これは日本全国で勃発している問題で、使い切らなければならないというおかしな理論から来ているものです。別に税金を使い切らなければ、それで次回の予算に廻せば良いだけの話。
使い切っていないのだから予算いらないんでしょ?という話もおかしなもので、状況と言うのは日々刻々と変化するものです。
 
要するに現場を何も見ていない典型的な事柄がこうした問題を引き起こしてるのは明白。
ソレに繋がるのは、岡崎の洪水における話でしょう。市の設備でありながらも水門の整備を全く行っていなかった。別に現在の方だけが問題なのではないのは当然ですが、それまでの市制が問われるのも当然の話なのです。
 
また、ダム問題もこれに類する話になるのでしょう。
徳山ダムなどその典型的例かもしれません。実際に見てきたわけですけど、広大なダム湖の役割として大きいといわれる川の氾濫の防止。少なくとも十年以上は揖斐川で川の氾濫など起こっていないはずです。それよりも、そのダムが出来た事による揖斐川の水位が下がった事による問題は、大きいのではないのかと危惧しております。
 
東海において長良川に代表される鮎漁。揖斐川でもやながあるわけですが、本当に鮎が帰ってきたのか心配になりました。
 
有明海の水門の問題もそうですね。
当初の予定では農地確保、それが工業用用地と用水確保、最終的には防災となりましたが、その結果、希少な財産を多く失う結果になりました。
 
結果的にこうした使わなければいけない、やらなければならないとする背景には何があるのでしょう。それは利権です。何かしらの徳を見出せるからこそ、躍起になっているだけです。
戦後から数えて六十数年。これ以上の公共事業が本当に必要であるのでしょうか。当然、中には必要としている場所も当然あります。ただ、その計画がそのままでも資金が回収できるのかという問題も孕んでいるのは間違いない話です。
 
高速道路などはその典型的な例でしょう。無料化をするために料金徴収を行っていたはずが、結果的には無料化できない状況になっています。それは補修などの費用の徴収が必要になっているからだとしています。本当の所はどうなのかわかりませんが。ガソリン税の二重徴収とも言われる暫定税率の問題もありますし。
 
九州地区には新幹線…いえ、高速道路すらも通っていない。それどころか、道路整備の面から見ても、決して利便性が高いというわけでもない状況であります。山間部というよりも、都会から遠く離れた場所、もしくは行きにくい場所における観光地ではない場所、そこは率先して省かれてしまう場所なのでしょう。
むしろ、そうした場所には公共事業は必要であると思っています。ですが、いつまでも公共事業があるのかと言われれば、それはあり得ないと答えるべきではないのでしょうか。
 
公共事業に頼っている建設企業があります。私からすれば、何故?と疑問を投げかけたくなるわけです。
そして、現状における公共事業の削減に嘆いています。何故?それは先が見えていないだけの話ではないのでしょうか。
 
こうした返答における内容として、公共事業がなければ食っていけないという話があります。おかしな事です。公共事業をする場所は公共…つまり、国民が利用するための物としての建設事業です。それを成しただけでは意味がなく、そこから利用することによって資金の回収が出来る目処があってこその公共事業でなくてはならないはずなのです。
ところがそうではなく、困窮している人たちのためだけの公共事業がなされているようにしか思えないわけです。これは国もしくは地方の役所の有り様に問題があるとしか思えません。
 
本来、そうした人たちにおける支援で必要なものは、国の事業に頼らないものでなければならないはずです。それが自立支援としてあるべき姿なのです。となれば、国や地方の役所がするべきことは、その地方における状況を把握し、支援するための税金や人材の投入と精査でなければなりません。
最近では地産地消を謳っておりますが、公共事業に肩入れしている地域、その地方に誇れるものがあるとでも言うのでしょうか。
 
万魔殿は悪徳と背徳に塗れた負の象徴として言われるわけですが、問題は「ソレがあるからこそそうなっている」のではなく、「そうしてしまったからこそそうなった」という考え方の変化ではないのでしょうか。
つまり、それは税金の使い道にもいえる話であり、「使わなければもらえない」とするのではなく、「使わない状況を実行してみた」「今回は大丈夫、でも次回は異なる」「どうしても必要になる部分がある、そのためには必要となる」といった、その意味の中にくくられてしまっている様々な状況をしっかりと見聞きし考え実行する責任が必要ではないのかと思うわけです。
 
足りないものは覚悟と責任。日本における美徳といわれたその二つであるのは間違いない話なのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年11月08日

尊敬と畏怖【「ワルキューレの栄光」(2008年 バンダイナムコゲームス)】

 感謝と畏れを忘れちゃいけないんですよね。



 さて、今回は2008年より配信されました「ワルキューレの栄光」です。



 どんな願いも叶う平和の象徴「黄金の種」が、ある日、悪の化身カムーズに奪われてしまいます。平和は乱れ、大地は枯れ果て、人々の心がすさんでいったその時、世界を救うべく地上に降り立ったのが、愛と勇気の戦士ワルキューレであったのです。
 
 
実にワルキューレの伝説より18年ぶりになるというワルキューレシリーズの最新版が携帯アプリでの登場となりました。
 
今の主流携帯用ゲーム機器とは異なり、携帯電話のアプリとしてのゲームは、昔のドット絵…言ってしまえばパラパラマンガの要素がありますので、私のような昔から、それこそファミコンでワルキューレの伝説を遊んだものにとっては、馴染みやすいゲームであります。
 
ドコモのiアプリ、auのezでも配信されているわけですが、私が持っているのはYahooケータイですので、その仕様でのご説明になります。
 
ゲーム画面は横スクロール。画面下部にアイテムや体力、お金やEXPの表示がありますので、アクション画面としては正方形よりもやや横長といった感じでしょうか。操作は携帯電話にあるアイコン操作のためのキー、もくしは数字キーなどを利用して操作します。
 
画面モードは二つ。一つは大きなマップを移動するのですが、これは決められた場所へ上下左右のクリックで選択する簡易的なものです。キャンプ場や城、森といったフィールドを選択します。
 
キャンプ場や戦闘フィールドでは、横スクロールが基本となっており、上へはジャンプ、下へは飛び降りるのが基本動作です。
ジャンプは最初1回のジャンプしか出来ません。また、攻撃方法として魔法があるのですが、その魔法もファイアーボールが使えるだけ。その魔法も回数性であります。
 
ジャンプや魔法を増やすには、二つのやり方があります。
その一つは女神像に話しかける事。女神像は様々な場所にあるのですが、始めて出会った女神像からは魔法やジャンプの力を与えられるのです。また、とあるキャンプ場の行き止まりにある場所では魚釣りならぬアイテム釣りが可能になっているのです。
 
そこで一生懸命にアイテム使用回数を増やす楽しみもあります。
 
 
ゲームの目的は黄金の種を奪い返し、そしてその主犯者を断罪する事。ですが、物語は二転三転します。基本的に、敵を撃退すれば物語は進んでいくのですが、それでも最近の深夜アニメぐらいの驚きはありました。
 
その途中で、懐かしい~というキャラも使う事が出来ます。それはサンドラという人ではない別の種族なのですが、彼が妙に強かったりするのです。
坂道だけで使える技なのですが、滑り台のようにスルスル~と滑っていくと、その勢いで敵を倒せるのです。それまで、結構苦労していた敵も一気に片付けられるので、意外な爽快感。
 
ただし、あくまでお遊び的な要素な割には、それ以外の救済措置がないのも事実。あまり気を抜きすぎると、ゲームオーバーにもなりかねないのです。
 
 
魔法を蓄え、レベルを上げて、そして敵を倒して行ったその先にある真実とは…。平和を取り戻すのはプレイヤーの腕次第なのです。
 
 
更に、ゲームには難易度レベルがありまして、アイテム位置や敵出現などには手をつけず、単純に敵の攻撃力=受けるダメージが変更するモードがプレイできるます。
デフォルトを1とすると、エキストラ1で三倍、2で五倍、3が九倍、4が17倍。それらをクリアすると遊べるようになるSPECIALは、なんと33倍にもなります。
 
今、そのSPECIALで遊んでいるのですが、クリアできません。単純にダメージが大きいので、気を抜けば瞬殺になるのは当然の話。しかも、携帯電話での操作には慣れもそうですけど、指の大きさも関係あるのではないのかと。
指が太いので、機敏な操作がしにくいんですよねぇ。…それは愚痴ですけどね。
 
SPECIALをクリアすれば何があるのか…それを確認したいと思うんですけど…頑張るしかないですねぇ。




 恐らくですが、その昔における神の啓示というのは、ある種のスケープゴートであったのだと、最近の事件などを見ていると思うのです。特に、予想が上回るものとされる案件に関してはそう思います。
 
例えば洪水などはあって、被害を受けたとします。昔であれば、川の氾濫は竜神が暴れているからだとなり、そこで鎮魂祭が行われるわけです。どうか、暴れてくれなさるな、私たちは常日頃から恵みを受けております。その恵みをお渡しいたしますので、全てを持っていかないで下さい…と。
 
要するに人知の及ばぬものは、全て神かそれに類する力を持つ何かの仕業とされてきたわけです。
 
ところが昨今では、全てに対して責任の明確化を求め、どうにもそうした人知の及ばぬものにまで誰かのの責任にしたがる様子。それが正しいのかどうかというよりも、可能であるのかどうなのかから議論する必要があるのではないのでしょうか。
 
地震や洪水などの自然災害対策に多額の税金が使われているのは事実。半端にやるよりはある程度余裕を持ってやって欲しいというのは当然の話でしょう。しかし一方で、そこまでやるよりも別のもの。それこそ福祉などに資金を回す方が良いという話もあるぐらいです。
要するに、使える金銭は無限ではないという事なんですよね。
 
日本と言う国は、四季折々の様相だけではなく、それを各地それぞれに楽しめる複雑な地形を持ち合わせている国です。
それだけ山川草木が複雑に絡み合っていると言えなくもないのですが、それを人間の生活という、ありもしない免罪符の下に、様々な手を加えてきたのはこれまでの歴史から見てもわかる話です。
 
そのしっぺ返しが本格的に襲ってこようとも、それは必要な行為であったと主張する人が大勢いる事でしょう。
 
結果的に人は他の動植物と同じ様に、自然から離れて生きていく事は出来ないのです。自然を否定する事は、生きる事を否定する事と同じ。どれだけ都会になろうとも、便利になろうとも、それを忘れて生きていく事は、自殺する事と同じになってしまうのです。
 
命は奇跡であり、同時に我々を生かしてくれる物全てが、私たちにとって神と同じであるわけです。
そうした命の輪廻というものを実感する事が、結果、自分の周りの脈動を感じ取り、自然に逆らわない生き方を教えてくれるのかもしれません。
 
それは力で抑え込もうとした、それまでの生き方からの脱却になるのかもしれませんが、それでも人は人である事をやめられない以上、あくまで人の範囲としての責任を取っていく必要があるのではないのかと思うわけです。
あんまり、ドカドカと埋め立てたり、整備するというのは、よろしくないと思うのですけどね。そこに住まわせてもらっている事を自然に感謝する事を忘れてしまってはいけません。
 
これは宗教でも何でもなく、ただ、実に単純な事実であるのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年11月01日

パソコンの中にある魔法世界【「ハウルの動く城」(2004年 「ハウルの動く城」製作委員会)】

 最近ではパソコンを介してですけど、魔法が使えるようになってきた…かもしれません。



 さて、今回は2004年に公開されました「ハウルの動く城」です。



 この作品の原作は、イギリスのファンタジー作家、ダイアナ・ウィン・ジョーンズさんの作品「魔法使いハウルと火の悪魔」を少し変更したものです。アニメ用に焼き直したものとして、この作品はあり、その事については作家自らが絶賛しているとの話です。
 
スタジオジブリといえば、世界でも有名なアニメ制作会社です。その作品と言えば、原作がないものが圧倒的でありまして、この作品も実に15年ぶりの原作付きであるそうなのです。
 
この作品における一番の謎は、魔法そのものでしょう。
 
一つの技術として確立している割には、その描写がそれほど多くはありません。ですが、それが使われた影響を見る事はしっかり出来るわけです。魔法を使っているというよりも、魔法を仕込んでいた道具を使っているとした方がしっくり来るのかもしれません。
 
そうした中で、荒地の魔女がソフィーにかけたという呪いも、どうしたものであるのかという明確な理由は話されていません。
 
ソフィーにかけられた呪い(魔法)は、老婆になってしまうというものでした。ですが、その作中においては、ソフィーの年齢が戻っていく描写が度々見られます。それもソフィーの心境と同調するかのように。
元々、ソフィーは人にどう見られるのか、どう接して良いのかがわからない少女であったのではないのかと思うわけです。そのために、自分と言うものの中に入り込んでしまった。自分はこうであると意固地になってしまった。それは少なくとも少女の心ではないと思うわけです。
 
呪いを受けた後のソフィーは、老婆でいる事に安らぎをも感じているようです。それは一種の変身願望のようなものであったのかもしれません。
 
ですが、それはやはり本心ではなかったと言う事が、映画の最後の方ではありありと出ています。老婆に戻る事がなかったのです。と言っても、それが呪いを解いたという事でもないのかもしれません。
ハウルと恋人になったのでしょうけど、きっと、喧嘩するたびに親(というより祖母)のような気持ちで怒るのかもしれません。そうしたら、あの姿に戻ってしまう…かもしれませんね。
 
一方のハウルもソフィーと似た存在であったと言えます。自分の見た目を気にし、臆病である自分を隠していた。偽名を多く使うのもその現われではないのでしょうか。
自分の正体は自分だけが知っていれば良い。その力も自分のためにあれば良い。人との関わりを煩わしく思い、それでも人と関わって生きていかなければならない。
 
彼にとって、「美女の心臓を食う」という批判でさえ、もしかすれば煩わしく同時に嬉しく思っていたのかもしれません。
 
 
思うに、この作品は人との係わり合いがテーマであるように思えてならないわけです。どれだけ大勢の登場人物がいようとも、人との係わり合いよりも別のことをテーマにする作品は多く存在します。
しかし、ファンタジー作品でありながらも、ファンタジー要素よりも、人との係わり合い…日常的な物語であった事が、例えばそれまでのジブリ作品を見ていた方でアクション性を求めている方には物足りなかったのではないのでしょうか。
 
互いに同じように自分を偽っていたハウルとソフィー。だからこそ、信頼以上の愛情、掛け値なしの友情が物語をまとめてくれたのではないのかと思うわけです。
そんな事あるわけないじゃない…と思っているのなら、それは彼らと同じ呪いにかかっているのかもしれませんね。



 魔法…あったら楽しい半分、大変半分という感じでしょうか。ゲームなどではそういうのが体験できるわけですが、3Dと言っても、それはあくまで画面の中での話。実際に自分がその画面に入り込んで実体験できるという所までは、流石に実現できていないのが現状です。
 
しかし、もしかしたらそれが画面の中…かもしれませんけど、色々な器具を使って仮想体験できるかもしれない。そんな妄想に取り付かれそうな技術が実現しました。
 
ARToolKitがそれです。
 
実際に、これはもうかなり前に発表されていて、ニコニコ動画ではそれを利用した作品が多く出ているわけです。で、これはあくまでパソコン画面ないにおいて、カメラで撮影された映像を表示しに、そこにあるマークに反応して、それに関連した映像をインポーズするわけです。動きのある画像もインポーズできるのですから優れものです。
 
ニコニコ動画ではリリカルなのはに登場するベルカ式の魔方陣が展開する様子などの動画がアップされている状況となっているのですが、これをどうにかしてゲームとして実現できないものかなぁと思ってしまうわけです。
 
例えば、プレイする人は小部屋に入って、そこでゴーグルを装着する。そのゴーグルは半透明になっており、壁面にある画面と、自分の手に持つカード、そしてゴーグルに映る画像が同時に見られるようになっている。部屋の中には、机が置いてあり、その机にカードを出す事によって出て来る敵や対戦プレイヤーと戦う事ができる。
 
一番の話題は、そのカード。机の上に出す事によって、マーク上にアイテムや召喚されたモンスターが出てくる。それがプレイヤーの指示通りに戦うという…感じのものです。
 
カードバトルの雰囲気と言う感じでしょうか。今、ゲームセンターにおいているカードを利用した業務用ゲームの一つと言っても問題ありません。
 
机があり、そこにカードを置くシステムというのは、不正を防ぐためです。要するに自前のカードでズルをしようとさせないためと言った方がいいのかも。少し雰囲気は違いますけど、業務用ゲームでこうしたゲームの中に入れるシステムを作ることが出来れば、ポケモントレーナーにだってなれるかもしれません。
 
開発にどれぐらいかかるのか…それは考えたくありませんけど、ユーザーの勝手な妄想と願望として、どこかで基本となる筐体を作ってもらえないものかなぁと思ったりするのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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