今日も無益な争いで無駄に散っていく命があります。それは人だけではないのです。
さて、今回は2005年に放送されました「ガン×ソード」です。

エンドレス・イリュージョン。宇宙の吹き溜まりであるその惑星にあるのは、夢と暴力。その惑星を放浪するタキシードを着た男が一人。
テンガロンハットに指輪をつけ、腰にはベルト代わりのような剣を巻き、猫背で抜けた眼差し。だが、その視線の先に目的を見据えて歩き続ける男が一人。
その名はヴァン。
様々な通り名を持つ彼が目指すのは、ただ一人の男に復讐の刃を突きつける事だけ。
あの日、幸せに幸せに幸せになるはずであった、妻になるはずであった女性の復讐のために。瀕死のその改造された身体と、遥か天空にある分身を携えて、その惑星を歩き続ける。
彼の名前はヴァン。
その歩みは決してアイツを逃す事はない…。
この番組が始まった時、そのOPを見て思った事は、「ビバップかい」。歌手の存在しないOP。しかし、その音は和太鼓を使った塚ら強いものでした。ですが、中身が始まってみれば、まるで西部劇のような感じ。あのOPは一体…と思いきや、いきなりの復讐劇の始り。
完全に視聴者を置いてきぼりの作品でした。
既に存在する、ヴァンのロボット(作品ではヨロイと呼称)。そして、その無敵のような強さ。
それでいながら、味覚音痴で人の話など聞きゃしないし、正義感があるのかと思えば、ないようなあるような。
凡そ、それまでの主人公感とは異なるものが、そこにはありました。
この物語は完全に復讐劇なのです。しかし、その復讐の意味は様々であったように思います。
基本はヴァンともう一人の主人公であるレイの、カギ爪の男に対する復讐劇です。しかし、ヒロインであるウィンディとレイの弟であるジョシュアにとっては、兄に対する復讐でもあり、情報屋であるカルメン99やエルドラⅤのお爺さんたちにとっては、世間に対する復讐。
そしてカギ爪の男にしてみれば、理想への復讐であるのではないのでしょうか。
それぞれの復讐には意味があり、その目的は結果であるわけです。
結果、どれだけの人がその復讐劇を成し遂げたのでしょう。そして、その後の思いは…。それは彼らにもわからないのではないのでしょうか。だからこそ、ヴァンは最後にその場を黙って去っていこうとしたように思えます。
復讐からは何も生まれない。そう言われる事があります。しかし、そこからしか再び動き出せない人も間違いなくいるのです。
では、ヴァンはその後、あの惑星で何を見出そうとしているのでしょうか。それは、彼らにしかわからない、彼らだけの話なのだと思うのです。
何に対して憤るのか。それこそ、人の価値観によって変わってくるものでしょう。しかし、そうした中で恐らくは変わらないものがあるとするのならば、それは誇りを踏みにじられた時ではないのでしょうか。
大きな事件でもそうですけど、身近な人との喧嘩でも同じ事が言えるのかもしれません。もちろん、可愛がっているペットの間にも、もしかすれば憤る事があるのではないのでしょうか。
人は一人では生きていく事ができないのと同時に、人は一人で生きているわけではない事を理解する必要があります。
間違えてはいけないのが、一人で生きていく事ができないのだから、一人で生きているわけではない…という事です。この二つはあくまでそれぞれに考えるべき問題であるからなのです。
一人で生きていけないというのは、一人では全てを賄う事はできないという事を示しています。同時に、これは人が全てを一人で賄う事よりも、人と共存する事でより効率を上げられると言う事を示しているわけです。
一方、一人で生きているわけではない。これは周りをみればわかる事です。人は人だけではなく、様々な命あるものと同じ時間と空間を生きているわけです。そこには共存として成り立たない間柄も存在します。その場合、搾取と言い換えても、まず間違いではないのでしょう。
蜜蜂という動物がいます。
蜜彼らは私たちに甘い花の蜜を集めてくれます。しかし、それを味わうためには、私たちは彼らからそのハチミツを搾取する必要があるのです。それは私たちの一方的な搾取であるのですから、彼らにとって共存ではないわけです。
つまり蜜蜂は、彼らで生きていく事は出来ます。また、私たちと共に生きているわけではなく、私たちが彼らにある意味、生かされているということになるわけなのです。
そこで考えます。彼らの誇りとは何なのでしょう。甘い蜜を私たちに提供する事でしょうか。それは違います。彼らの誇りは彼らの種を保存する事です。私たち人間はその誇りを利用して、甘い蜜をいただいているのです。
となれば、私たちはその誇りを奪って生きている事になります。では、その償いとして私たちは奪ったハチミツを捨てることなく、命のつながりとして使う事が一番であるという事になりませんか?
私たち生命は少なからず、何かを犠牲にして命を繋げていく事が必要となっています。それを立場によって、色々と名称があるわけですけど、それでも根っこには、搾取というものが付いてきます。
これまで、人は多大な搾取を続けてきました。だからこれからはそれを止めて…などと言う事は言いません。それは生命の理論としておかしな話になるからです。
ただし、これだけは言えます。自分の倫理だけを掲げて、強大な暴力によって搾取する。これは命の倫理ではなく、単なる破壊でしかないわけです。
今でも、その暴力は治まる気配のないままに続いている状況があります。人が壊した世界には、人が頼るべき生き物も多数存在したのです。しかし、その失った命の価値は無残にも消えてしまったのです。
人である事の素晴しさは、決してなくしてしまった物を取り戻せる力ではないのです。それは取り戻したのではなく、単に模倣しただけに過ぎないのですから。
人が生かされているのは、宗教でも思想でもない。純粋に命をいただく事、その行為からなのだと気付くべきではないのだろうかと、ここ最近、深く思うのです。
そんなこんなで本日はここまで。
さて、今回は2005年に放送されました「ガン×ソード」です。

テンガロンハットに指輪をつけ、腰にはベルト代わりのような剣を巻き、猫背で抜けた眼差し。だが、その視線の先に目的を見据えて歩き続ける男が一人。
その名はヴァン。
様々な通り名を持つ彼が目指すのは、ただ一人の男に復讐の刃を突きつける事だけ。
あの日、幸せに幸せに幸せになるはずであった、妻になるはずであった女性の復讐のために。瀕死のその改造された身体と、遥か天空にある分身を携えて、その惑星を歩き続ける。
彼の名前はヴァン。
その歩みは決してアイツを逃す事はない…。
この番組が始まった時、そのOPを見て思った事は、「ビバップかい」。歌手の存在しないOP。しかし、その音は和太鼓を使った塚ら強いものでした。ですが、中身が始まってみれば、まるで西部劇のような感じ。あのOPは一体…と思いきや、いきなりの復讐劇の始り。
完全に視聴者を置いてきぼりの作品でした。
既に存在する、ヴァンのロボット(作品ではヨロイと呼称)。そして、その無敵のような強さ。
それでいながら、味覚音痴で人の話など聞きゃしないし、正義感があるのかと思えば、ないようなあるような。
凡そ、それまでの主人公感とは異なるものが、そこにはありました。
この物語は完全に復讐劇なのです。しかし、その復讐の意味は様々であったように思います。
基本はヴァンともう一人の主人公であるレイの、カギ爪の男に対する復讐劇です。しかし、ヒロインであるウィンディとレイの弟であるジョシュアにとっては、兄に対する復讐でもあり、情報屋であるカルメン99やエルドラⅤのお爺さんたちにとっては、世間に対する復讐。
そしてカギ爪の男にしてみれば、理想への復讐であるのではないのでしょうか。
それぞれの復讐には意味があり、その目的は結果であるわけです。
結果、どれだけの人がその復讐劇を成し遂げたのでしょう。そして、その後の思いは…。それは彼らにもわからないのではないのでしょうか。だからこそ、ヴァンは最後にその場を黙って去っていこうとしたように思えます。
復讐からは何も生まれない。そう言われる事があります。しかし、そこからしか再び動き出せない人も間違いなくいるのです。
では、ヴァンはその後、あの惑星で何を見出そうとしているのでしょうか。それは、彼らにしかわからない、彼らだけの話なのだと思うのです。
何に対して憤るのか。それこそ、人の価値観によって変わってくるものでしょう。しかし、そうした中で恐らくは変わらないものがあるとするのならば、それは誇りを踏みにじられた時ではないのでしょうか。
大きな事件でもそうですけど、身近な人との喧嘩でも同じ事が言えるのかもしれません。もちろん、可愛がっているペットの間にも、もしかすれば憤る事があるのではないのでしょうか。
人は一人では生きていく事ができないのと同時に、人は一人で生きているわけではない事を理解する必要があります。
間違えてはいけないのが、一人で生きていく事ができないのだから、一人で生きているわけではない…という事です。この二つはあくまでそれぞれに考えるべき問題であるからなのです。
一人で生きていけないというのは、一人では全てを賄う事はできないという事を示しています。同時に、これは人が全てを一人で賄う事よりも、人と共存する事でより効率を上げられると言う事を示しているわけです。
一方、一人で生きているわけではない。これは周りをみればわかる事です。人は人だけではなく、様々な命あるものと同じ時間と空間を生きているわけです。そこには共存として成り立たない間柄も存在します。その場合、搾取と言い換えても、まず間違いではないのでしょう。
蜜蜂という動物がいます。
蜜彼らは私たちに甘い花の蜜を集めてくれます。しかし、それを味わうためには、私たちは彼らからそのハチミツを搾取する必要があるのです。それは私たちの一方的な搾取であるのですから、彼らにとって共存ではないわけです。
つまり蜜蜂は、彼らで生きていく事は出来ます。また、私たちと共に生きているわけではなく、私たちが彼らにある意味、生かされているということになるわけなのです。
そこで考えます。彼らの誇りとは何なのでしょう。甘い蜜を私たちに提供する事でしょうか。それは違います。彼らの誇りは彼らの種を保存する事です。私たち人間はその誇りを利用して、甘い蜜をいただいているのです。
となれば、私たちはその誇りを奪って生きている事になります。では、その償いとして私たちは奪ったハチミツを捨てることなく、命のつながりとして使う事が一番であるという事になりませんか?
私たち生命は少なからず、何かを犠牲にして命を繋げていく事が必要となっています。それを立場によって、色々と名称があるわけですけど、それでも根っこには、搾取というものが付いてきます。
これまで、人は多大な搾取を続けてきました。だからこれからはそれを止めて…などと言う事は言いません。それは生命の理論としておかしな話になるからです。
ただし、これだけは言えます。自分の倫理だけを掲げて、強大な暴力によって搾取する。これは命の倫理ではなく、単なる破壊でしかないわけです。
今でも、その暴力は治まる気配のないままに続いている状況があります。人が壊した世界には、人が頼るべき生き物も多数存在したのです。しかし、その失った命の価値は無残にも消えてしまったのです。
人である事の素晴しさは、決してなくしてしまった物を取り戻せる力ではないのです。それは取り戻したのではなく、単に模倣しただけに過ぎないのですから。
人が生かされているのは、宗教でも思想でもない。純粋に命をいただく事、その行為からなのだと気付くべきではないのだろうかと、ここ最近、深く思うのです。
そんなこんなで本日はここまで。





