TOP>2008年08年

2008年08月30日

命という名の誇り【「ガン×ソード」(2005年 ガンソードパートナーズ)】

 今日も無益な争いで無駄に散っていく命があります。それは人だけではないのです。



 さて、今回は2005年に放送されました「ガン×ソード」です。


 エンドレス・イリュージョン。宇宙の吹き溜まりであるその惑星にあるのは、夢と暴力。その惑星を放浪するタキシードを着た男が一人。
テンガロンハットに指輪をつけ、腰にはベルト代わりのような剣を巻き、猫背で抜けた眼差し。だが、その視線の先に目的を見据えて歩き続ける男が一人。
 
その名はヴァン。
 
様々な通り名を持つ彼が目指すのは、ただ一人の男に復讐の刃を突きつける事だけ。
 
あの日、幸せに幸せに幸せになるはずであった、妻になるはずであった女性の復讐のために。瀕死のその改造された身体と、遥か天空にある分身を携えて、その惑星を歩き続ける。
 
彼の名前はヴァン。
 
その歩みは決してアイツを逃す事はない…。


 この番組が始まった時、そのOPを見て思った事は、「ビバップかい」。歌手の存在しないOP。しかし、その音は和太鼓を使った塚ら強いものでした。ですが、中身が始まってみれば、まるで西部劇のような感じ。あのOPは一体…と思いきや、いきなりの復讐劇の始り。
 
完全に視聴者を置いてきぼりの作品でした。
 
既に存在する、ヴァンのロボット(作品ではヨロイと呼称)。そして、その無敵のような強さ。
それでいながら、味覚音痴で人の話など聞きゃしないし、正義感があるのかと思えば、ないようなあるような。
 
凡そ、それまでの主人公感とは異なるものが、そこにはありました。
 
この物語は完全に復讐劇なのです。しかし、その復讐の意味は様々であったように思います。
 
基本はヴァンともう一人の主人公であるレイの、カギ爪の男に対する復讐劇です。しかし、ヒロインであるウィンディとレイの弟であるジョシュアにとっては、兄に対する復讐でもあり、情報屋であるカルメン99やエルドラⅤのお爺さんたちにとっては、世間に対する復讐。
 
そしてカギ爪の男にしてみれば、理想への復讐であるのではないのでしょうか。
 
それぞれの復讐には意味があり、その目的は結果であるわけです。
結果、どれだけの人がその復讐劇を成し遂げたのでしょう。そして、その後の思いは…。それは彼らにもわからないのではないのでしょうか。だからこそ、ヴァンは最後にその場を黙って去っていこうとしたように思えます。
 
復讐からは何も生まれない。そう言われる事があります。しかし、そこからしか再び動き出せない人も間違いなくいるのです。
 
では、ヴァンはその後、あの惑星で何を見出そうとしているのでしょうか。それは、彼らにしかわからない、彼らだけの話なのだと思うのです。



 何に対して憤るのか。それこそ、人の価値観によって変わってくるものでしょう。しかし、そうした中で恐らくは変わらないものがあるとするのならば、それは誇りを踏みにじられた時ではないのでしょうか。
 
大きな事件でもそうですけど、身近な人との喧嘩でも同じ事が言えるのかもしれません。もちろん、可愛がっているペットの間にも、もしかすれば憤る事があるのではないのでしょうか。
 
人は一人では生きていく事ができないのと同時に、人は一人で生きているわけではない事を理解する必要があります。
 
間違えてはいけないのが、一人で生きていく事ができないのだから、一人で生きているわけではない…という事です。この二つはあくまでそれぞれに考えるべき問題であるからなのです。
 
一人で生きていけないというのは、一人では全てを賄う事はできないという事を示しています。同時に、これは人が全てを一人で賄う事よりも、人と共存する事でより効率を上げられると言う事を示しているわけです。
 
一方、一人で生きているわけではない。これは周りをみればわかる事です。人は人だけではなく、様々な命あるものと同じ時間と空間を生きているわけです。そこには共存として成り立たない間柄も存在します。その場合、搾取と言い換えても、まず間違いではないのでしょう。
 
 
蜜蜂という動物がいます。
 
蜜彼らは私たちに甘い花の蜜を集めてくれます。しかし、それを味わうためには、私たちは彼らからそのハチミツを搾取する必要があるのです。それは私たちの一方的な搾取であるのですから、彼らにとって共存ではないわけです。
 
つまり蜜蜂は、彼らで生きていく事は出来ます。また、私たちと共に生きているわけではなく、私たちが彼らにある意味、生かされているということになるわけなのです。
 
そこで考えます。彼らの誇りとは何なのでしょう。甘い蜜を私たちに提供する事でしょうか。それは違います。彼らの誇りは彼らの種を保存する事です。私たち人間はその誇りを利用して、甘い蜜をいただいているのです。
 
となれば、私たちはその誇りを奪って生きている事になります。では、その償いとして私たちは奪ったハチミツを捨てることなく、命のつながりとして使う事が一番であるという事になりませんか?
 
 
私たち生命は少なからず、何かを犠牲にして命を繋げていく事が必要となっています。それを立場によって、色々と名称があるわけですけど、それでも根っこには、搾取というものが付いてきます。
 
これまで、人は多大な搾取を続けてきました。だからこれからはそれを止めて…などと言う事は言いません。それは生命の理論としておかしな話になるからです。
 
ただし、これだけは言えます。自分の倫理だけを掲げて、強大な暴力によって搾取する。これは命の倫理ではなく、単なる破壊でしかないわけです。
今でも、その暴力は治まる気配のないままに続いている状況があります。人が壊した世界には、人が頼るべき生き物も多数存在したのです。しかし、その失った命の価値は無残にも消えてしまったのです。
 
 
人である事の素晴しさは、決してなくしてしまった物を取り戻せる力ではないのです。それは取り戻したのではなく、単に模倣しただけに過ぎないのですから。
人が生かされているのは、宗教でも思想でもない。純粋に命をいただく事、その行為からなのだと気付くべきではないのだろうかと、ここ最近、深く思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年08月23日

ソレには説明書があるのにねぇ…【「ムゲンバイン ムゲン剣聖獣」(2008年 バンダイ)】

 夏のイベントで、ここ数回話をさせていただけている作家さんがいます。その方との楽しい話の中で、少し考えさせられる話をお聞きいたしました。



 さて、今回は2008年に発売されました「ムゲンバイン ムゲン剣聖獣」です。



 遥か昔、世界を二分し、偉大なる力・バインパワーをそれぞれの形で守護していた巨大文明、レジェロニアとミスティリオ。
そして現代…巨大文明の末裔・ロイダーと文明の守護者・ムゲンバインとの出会いが、数千年の時を超えた壮大な戦いの幕を上げる!
 
…というわけで、当初のムゲンバインとは全く異なる話となってしまったムゲンバインの食玩新製品です。
 
今回の製品は、それまでに出てきたものと同じく、この前に発売された「ムゲン五神獣」と同じ舞台、つまりはシリーズ物となっています。とは言うものの、ムゲンバインとして今までに発売された食玩や商品と一緒に遊べないのかと言えば、そんな事は全くありません。むしろ、こうした、今回の獣に特化した物は、新しいオリジナルムゲンバインのパーツとしてしっかり活躍してくれる事でしょう。
 
 
さて、食玩として一つだけで弱点があるとすれば、それはシールを貼るという事でしょう。
 
それを元にして色を塗ればいいのですが、大半の方、特に子供たちはシールをはるのが精一杯ではないのかと思います。これがシールを貼ってから遊びますと、やはり自然と剥がれやすくなります。
薄い中性洗剤で部品を洗ってから、貼り付けたとしても、こすれる部分はやはりめくれるか、破れてしまうのです。
 
何らの技術をもって、何とかしてくれないものでしょうかね。
 
 
それと、大きく変わったのは、中に封入されているガムです。
昨今の食糧事情やエネルギー問題が此処にも表れているのでしょうか。ガムの大きさが確実に異なっております。
 
食玩とは、食品…つまりはアメ、ラムネ、ガムなどのおまけに玩具が同封されているものです。最近は、全く逆の様相になってきていますが、これで食料をなくすとそれは単なる玩具になってしまうので、出来る限り値段を変えたりしないようにするためには、食料を減らすしかないのかも。
 
まるで、趣味において我慢するのが、まずは食費であると言わんばかりの状況と同じですね。
 
 
今回のこの商品のリリースは五つ。ムゲンナイト、ムゲンライオ、ムゲンユニコーン、ムゲンリヴァイアサン、ムゲンフェニックス。
この五つを合体させると、ムゲンアーサーになるわけです。
 
ムゲンバインにおける優れている所は、従来のロボット物にある「合体をする際に分解しすぎてはいけない」というある種のお約束をあえて破っている事なのです。
基本的にこれまでのロボット物は、合体する場合はブロック状になる、もしくは人型に着ぐるみのようにしてまとうのが当然でした。しかし、このムゲンバインはそれぞれのロボットでも、ある程度のプロポーションを維持し、更に合体した時にカッコよくなるように、一旦、全ての部品をバラバラにして、再度合体させるわけです。
 
商品の世界観的にはこれをバインパワーというそうなのですが、それによって出来上がるロボットの大きさとカッコよさ。
とても2,000円にも満たない玩具とは思えないほどです。更に、種類を揃えればより大きくて、自分好みのカッコよさを追求できるだけではなく、人型だけではない獣型、武器型なども汲み上げる事が出来る…本当にブロック遊びの新しい形であるのは間違いないわけです。
 
 
恐らくこれからも、このシリーズは食玩で出てくるのでしょう。出来れば、これはこのままのペースで、そしてオリジナルの設定・世界観の下で続けて欲しいシリーズであります。




 曰く、最近のガンプラは非常に良くできており、四色成型のお陰でマーカーでの隅入れで見られる物になる。だがしかし、その見られるものであっても、今の子供たちは作る事ができない状況なのだ。言われて思い出しましたが、確かにそのような記事を見たことがあります。
 
確かその話には、幼年誌における付録の話もしていたように思います。
 
幼年氏の付録といえば、厚紙などで作り上げ、玩具にはないギミックを楽しめるものとして、毎月楽しみであったわけです。最近の付録を組み立ててみたのですが、結構、時間がかかります。
しかし、これを一つ一つ乗り越えていき、自分で組み立てることに意義がある…と思いきや、早々に諦めて、親に頼んでしまうのだとか。
 
その親も、組み立てるのに必死なわけですけど、その間に子供はその事を忘れて、別の玩具で遊ぶ…。何か少し違うような気がする記事であったなぁと思いました。
 
 
危ないなどの理由でナイフが遠ざけられた結果、工作と料理が不器用な子供が多くなったのは間違いない話です。また、刃物の取り扱いに気をつけなければ、自分も回りも怪我をする。本来、こうした工作や料理というのは、物を作る苦労と作り上げた喜びと同時に、扱う事の難しさを教えるものであるはずなのです。
 
ですが、現在においては、さほど苦労しなくても少し金額を上乗せすれば、欲しいものに近しいものは手に入る世の中である。これは疑うべき事柄ではありません、事実です。
 
では、そうしたのは誰なのでしょうか。メーカーです。半分は当たりでしょう。しかし、半分は違っています。
正確には、メーカーは仕方なくそうした売り方をしている。これが正解な言い方です。
 
 
便利な世の中という言い方があります。冷蔵庫にしろ、洗濯機にしろ、テレビにしろ。現在はそれらが家庭に入り始めた時期の物とは大きく違っています。消費電力は言うに及ばず、氷はどんどん作ってくれますし、場合によっては野菜やお肉の鮮度を保ち、脱臭までしてくれます。洗濯も乾燥機能だけではなく、靴などの脱臭もしてくれますし、録画にしても別にデッキが必要ではない機種もあるぐらいです。
 
便利になれば何が変わるのでしょうか。よく言われたのは自分の時間が持てるようになるというものです。ですが実際はどうなのでしょう…それほど自分の時間など持てるわけではないのです。
何故か。簡単な事です。それだけ家庭で利便性が高まり、時間が出来たのなら、社会がその時間を活用しようとしているからなのです。
 
個人ではなく社会が…ここが不思議な所なのです。
 
 
そんな利便性は親だけではなく、当然、子供たちにも波及していくわけです。
テレビを見なくても録画できますから、出来るだけ勉強をするようにさせる。ここはスポーツでもかまいませんけどね。最近の子供たちの話題の中心はネットであるのは間違いありませんので、ますますテレビなどの工面するべき時間の努力がなくなっていきます。
レンタルビデオとかで見逃した映画もそんなに待たなくても見られる世の中になりましたしね。
 
そうなりますと、「ここでこれをしなければいけない」という危機感がなくなります。
 
もう一つ、その危機感がある時出てきた時にどうなるのか。それは諦めに繋がっていくのです。
先ほど、映画もさほど待たなくても…と記載しました。言い換えれば、映画を見なくても良いと諦めたとしても、それほど時期を待たずにレンタルビデオで見る事が出来る…という理論になるわけです。
 
映画は映画館で見た方が迫力がある。仰るとおりです。
 
ただし、それに価値を見出している人ばかりではないというのも事実であり、同時に、映画館で見ることの優位が薄くなってきているのも事実であるわけです。
となれば、家でカウチポテトをしながらでも大画面で一人で気兼ねなく見ることが出来る方を選択してしまう人が多くなるのではないのでしょうか。
 
 
楽という事は利便性が良いという事であるのと同時に、怠惰になっていくきっかけでもあります。
 
物を作らなくても同じ様な物を手に入れられる。映画をその時に見なくても、家で見られるようになる。天気を見なくても洗濯物を乾かす事が出来る。
 
これらは便利な事ですが、同時に自分の努力をおざなりにしても良いということにもなるわけであるのです。
 
考えてみれば、その努力がなんの意味を成すのかという事になるわけですが、しかし、そうした努力と別の努力が、ある時に必要な努力の礎になっている。そんな事も全くないわけではないのです。
 
例えば、ナイフを使えると言う事は、工作と料理という全く別の事柄に流用できるだけではなく、刃物を使った専門職の技術を会得する上でも、その危険性や利便性を教えてくれるきっかけになってくれるわけです。
これはナイフを使った。痛かった、便利であった。そんな経験がなければ想像でき、また理解できるものでもないわけです。
 
 
便利であるからこそ、落ち込んでいく可能性。不便であるからこそ、その不便さを楽しむだけの余裕が必要とされているのかもしれませんね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年08月09日

面白い原作だからと言って…【「機神幻想ルーンマスカー」(1991年 出渕 裕/富士見書房)】

 以前に打ち切り作品は駄作であるのか、そんな話をした事があります。今日はそれに少し関連した話なのかもしれません。



 さて、今回は1991年に発売されました「機神幻想ルーンマスカー」1巻です。



 ルーン歴1208年4月。その日、イングラッド王国はいつもと同じ様な日を過ごしていた。そこにジパードが侵入してくるまでは…。ジパードには、古の物理魔道で作られた巨人兵「ナイトマスカー」が存在し、それを持って侵攻してきたのだった。
 
しかし、それにも一つのわけがあった。
 
イングラッドには、その土地に根ざした「生物」が存在した。それがルーンマスカー…ナイトマスカーはルーンマスカーの模倣品といえるものであった。
確かに、一介の兵では太刀打ちできないナイトマスカーも、イングラッドのルーンマスカー「スレイプニール」にとっては造作も無い話。その溢れ躍動する力はナイトマスカーを大人しくさせるのに、それほどの時間はかからなかった。
 
王宮にまで入り込んだジパードの兵。だが、イングラッドの王がいよいよ倒されるか…その時、宮殿の壁を破って戦いに乱入してきたのは、誰でもないスレイプニールであった。
 
ジパード軍の指揮をとる、アギトはスレイプニールに詰め寄る。ルーンマスカーの介入は戦乱を無用に広げるのではないのか…と。
しかし、スレイプニールはジパードのその行動にミューが関わっているのではないかと勘ぐる。だとしたら、それは許されるべきではないと。だが、以外にもその戦いを終わらせたのは一人の女性であった。
 
アギトの妹であるツクメ。彼女はジパードのルーンマスカー「タケミカヅチ」の巫女であった。
 
ツクメを介しての会話によってジパードは矛を収める事になる。だが、その事に納得しないイングラッドの青年、レアルは近くに倒れているジパードの兵隊が来ていた鎧をまとい、あろう事かジパードの船に乗り込み、イングラッドを離れていった。
 
普通の人間には聞こえないツクメとスレイプニール、そしてタケミカヅチの話、心話(ロゴス)を聞く事そして話しかける事が出来るレアルには、ある秘密があった。その秘密とルーンマスカーたち、更にミューとの関わりが、レアルを世界の中心へと向かわせていく事になる…。
 
 
…そして、秘密の暴露と共に話は佳境に向かう…はずが、実際には一巻で打ち切り同然の状況になってるのが、この漫画であったりするわけです。
 
どうして、再開しないのか…その理由は定かではありませんが、是非、終わらせて欲しい内容であるので、たのみこむにでも頼み込んでみようかしらと思うわけです。
 
さて、この漫画、実に作者である出渕色が随所に出されておりまして、ロードス島戦記などでイラストを見て燃えて(萌えて?)いた人にはたまらないものではないのでしょうか。人物もそうですが、ルーンマスカーやナイトマスカーのデザインは、パトレイバーとはまた違ったテイストで楽しませてくれます。
 
また、氏がたずさわった過去の作品のデザインも所々に出ているのは嬉しい話しで。チェンジマンのブーバやフラッシュマンのレー・ネフェルとわかるデザインが出て来るのもファンにとっては嬉しいものです。
 
先ほども記載しましたが、今の世の中ですと、こうした作品の玩具なども出す事は決して不可能ではありませんし、結構売れると思うのです。可動式でもかなり造詣的に素晴しい玩具になるのではないかと…なので、出渕氏には、もう一度この企画を再開してほしいと切に願っているわけです。
 
物語の終りも見てみたいし…ねぇ。



 昨今のアニメ事情と言いますか、個人的な感想から言いますと正直「賢しい」としか言い様がありません。その一番の理由は、やはり人気のある原作をその原作が完結する前にアニメにしてしまうと言う状況が賢しく見えて仕方がないのです。
 
ここで大きく疑問がわいてきます。日本のアニメーションにおける物語を作る人。シナプスでもシチュエーションでも、ストーリーでも良いのですが、そんなにレベルが低いのでしょうか。
 
1クールで様子を見る。それは別に問題ではありません。
人気がなければそれで止めれば良いだけの話なのですから。しかし、それをやるのであれば、オリジナルでやった方が良いのではないのか?と思うわけなのです。
 
原作付きをアニメにするという事は少なくとも、その原作に人気がなければ製作できるはずがありません。それだけ原作ファンに期待している部分もあるからです。
これを無視してまでその原作をアニメ化する意味。それは作る側が好きだからなのでしょうが、それでも原作ファンの眼に耳に入ってくるのは当然の結果になります。
 
そうしますと、原作ファンからすれば、どれだけの表現が成されているのかが期待であり不安であるわけです。これは作画・演出だけではなく、声にも言える話です。
 
そして、これも至極当然ですが、必ず不平不満が出てきます。
何故なら、少なくとも小説や漫画に関しては、元々の媒体に音がないからなのです。擬音が描かれていたり、どのような音であるのかを文章で表現したりと様々な工夫がされているわけですが、それでも読み手の経験以上の想像はまずできず、そこで既に作者との違和感があるのですから、アニメとして起こされたものになりますと、違和感を覚える人が出てくるわけです。
 
もう一つはやはり、絵そのものでしょう。
小説にも挿絵があるのは当然です。それでイメージを補正するという意味でも、大切な要素であると思います。漫画にいたっては、それがなければ成立しません。当然、それぞれに表現の仕方が多数あるわけです。
アニメは抽象的な表現であったとしても、あくまで動く事が前提です。紙芝居のように表現する方法もあるのでしょうが、それを毎回行って効果があるのは、それを前提にしたシナリオのみでしょう。
 
つまり、絵として動いた原作が、挿絵であったり漫画と大きくかけ離れていては違和感が増していくわけです。それならば、最初から「似たような」オリジナルでアニメを作れば問題ない話なのですから。
 
安く放映し、そして高く回収する。
何気にローリスク・ハイリターンを期待しているように見えて仕方がないのです。
 
 
昔放送していたアニメも玩具を売るためのスポンサーがありましたから、原作無しと言いつつも、結果的には原作有りに近しいものであったのかもしれません。だから、現状における作品も同じ様になってしまう…ですが、そう言ってしまったら、それはクリエイターとしては失格ではないのでしょうか。
 
また、今の流行は大きく変動しやすい。だからこそ、原作で受けているものをアニメ化する。これも同等の意味です。
酷く言えば、同人誌と変わりません。ただ、何が違うのかと言えば、同人誌などよりもはるかに高額な資金が賭けられ、そして、人員が避けるという状況、それだけの話なのです。
 
攻殻機動隊…ジャパニメーションとして評価されている作品ではありますが、これも原作付きです。
ただし、この作品は同じキャラ、同じ背景でありながら、全く別の作品になっています。原作を読んでいるから、また、映画を見たからといってそれぞれしか知らない人が話し合えば、かみ合わない事でしょう。
 
 
原作はあくまでそれが完成品であるのは間違いありません。
 
アニメ化はその完成品に手を加えるのですから、複製品として利用するのか、それとも新たな作品としての素材として利用するのか。この二つしかないはずなのです。
最初は同じ様に初め、結果的にオリジナルの最後で終わらせる。場合によっては、人気が出始めたらそこに無理矢理なつじつまを合わせて放送を延ばしていく。これでは原作をどうしたいのか、それよりも自分がどう表現したいのか、視聴者側に伝える事など出来るはずがないのです。
 
10分や20分で一つの話が完結する作品であれば、オリジナルの話を入れても、それはその話数を作った人が評価される事になるわけですが、連続したストーリー性のある作品では、原作者の評価であるのか、それともアニメ製作側の評価であるのか。
それは結果的に正当な評価にも繋がりにくい話になるものではないのでしょうか。
 
 
厳しい言い方をします。深夜枠における原作付き作品の台頭が決して、作り手の正当な評価を促し、かつ、全ての作り手に対する成長の手助けしているとは思えないのです。
 
それが物語である以上、そこにある期待感はやはり先の読めない、作り手と読み手のバトルであるはずなのです。それは絵・音・演出・構成、全てにいえる話ではないのでしょうか。とすれば、先の読める原作付きがこれほど多くなった現状は、単に決められた物語を踏襲しているだけに見えてしまう、そうさせられているように見えてしまうというのは、考えすぎなのでしょうか。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年08月02日

あの懐かしくも素晴しい玩具たち【「4体合体 グレートダッシュビークル」(2008年 カバヤ)】

 最近のアニメ番組は、スポンサーの業界が大きく変更した関係か、等身大のものが多いわけです。やっぱり、昔のようなロボット物はガンダムだけになってしまうのでしょうかね。



 さて、今回は2008年に発売されました「4体合体 グレートダッシュビークル」です。



 2007年に発売されました「3体合体 ダッシュビーグルGO」のパワーアップ版です。基本となる3体合体にパワーアップ用の4機目が参入という結構燃えるシチュエーションなのです。正統派ロボットアニメの食玩のようですが、カバヤのオリジナル商品なのです。
 
その雰囲気というのが、アオシマやイマイが漂ってくるような良い香りであったりします。番組の玩具というのも面白いのですけど、こうしたオリジナティ溢れるものも、その番組などを好きに想像できるのが楽しかったりするわけです。
 
ふと考えますと、パッケージにあります、グレートダッシュビーグル。これはロボットの名称ではありません。あくまでそのロボットを構成するビーグル=乗り物の総称という事になります。
 
マッハストライカー、タイガータンク、ドリルドーザーの三体が合体して完成するのがダッシュタイガー3。胸にトラの顔がある正統派(?)のロボットです。これが前作にあたるロボット…とは少し違っています。
実は前作のバージョンでは、ダッシュフォーミュラ、アームドタンク、グランドーザーの三体が合体してライオガンナーになったのです。そうです名前から察するにライオンであったのですが、新作ではトラになりました。
 
トラがライオンより劣っているわけではありませんが、由緒正しい(?)スーパーロボット物ではライオンが主役を張るのは当然の話。そうです、今回もライオンが出てくるのです。
それがパワーアップの4機目、フェニックスウィングなのです。
 
このフェニックスウィングが合体して完成するのが、グレートダッシュライガーFX(フェニックス)。胸にあるのはライオン顔なのですが、名前を良く見てみるとライガー=ライオンとトラ(タイガー)のハーフなんですね。カッコイイ。しかも、フェニックスとくれば、その様子が手に取るように考えられるわけです。
 
…。
 
 
前回の戦闘(これが何の戦闘であるのかは突っ込み禁止)によって大破したライオガンナー。しかし、その修理を行っている間に敵が大人しくなっているのか…そんなはずは無かった。
破壊される街、焼きだされる人々。だが、修理が完了していないダッシュビーグルチームには成す術が無かった。
 
それを理解しているのか敵の攻撃が激しくなる。その時、どこからともなく現れた一機の戦闘機が彼らの不在の街を守った。
その強大な戦闘力に一時は撤退した敵の猛攻が再び始まった時、ダッシュビーグルの修理は完了したのだった…いや、修理ではない改良されパワーアップまで行われていた。
 
ダッシュフォーミュラはマッハストライカー、アームドタンクはタイガータンク、グランドーザーはドリルドーザーへ。その装備も能力も格段に上がっていた。
 
倒したはずのダッシュビーグルチームの反撃は、敵を浮き足立たせる。合体しダッシュタイガー3として生まれ変わったが、弱点が克服されているわけではなかった。それは空を飛べないという事であった。
空中より攻撃を仕掛けてくる敵の軍団に、パワーアップしたといっても、苦戦を強いられるダッシュビーグルチーム。またもや破れるのかと思ったその時、あの正体不明の戦闘機がまたもや現れた。
 
敵の中に突入しかく乱する一方で、その戦闘機から交信が入る。今こそ、真の姿となるのだ…と。
 
そう、その正体不明の戦闘機こそ、新たなチームメイトが乗るフェニックスウィングであった。フェニックスウィングのパーツがダッシュタイガー3に合体し、そして、フェニックスウィングにダッシュタイガー3に合体した際の余剰パーツが合体する。クロス合体システムによって、ダッシュタイガー3はグレートダッシュライガーFXに、フェニックスウィングはマッハファイターへとなった。
 
空も飛行できるようになったグレートダッシュライガーFXと、その支援機・マッハファイターが協力すれば、もはや敵なし。繰り出してきた敵ロボットも掃討され、敵の軍団も逃げるように退散するしかなかった。
 
新たな力を手に入れたダッシュビーグルチーム。いよいよ戦いは佳境へと向かう!
 
 
…。
 
交代劇のように記載しましたが、少しマジンガーZやら何やらの要素を組み込んで見ました。王道ですからね。それはそれで面白いかと。
もう少し錬りこんでみれば、結構面白そうな話ができそうです。かなりベタな話になるのは目に見えていますけど、それはそれ。楽しんで作れそうですネェ。
 
 
出来ればカバヤさんには、こうした食玩は出し続けていただきたいと思うわけです。何かのタイアップもいいのですけど、それでは想像できる部分が偏りすぎてつまらないんですよね。
その偏りを緩和するためには、こうしたオリジナルのロボットで遊んでみるのが良い訳です。
 
何より、オリジナルと言いましても独自で考えたものと異なるのは、他者=全国で同じ様に遊んでいるであろう大きなお友達が沢山いるという事。それぞれのオリジナリティを打ち出していくのにもいい素材となるのです。



 懐古主義…そういわれてしまえばそれで終りのこの話。ある程度は長く持っていきたいものですので、頑張ってみましょう。
 
この話をする上で、必須となってい来るのは、「アニメとは何ぞや」。手塚治虫氏が鉄腕アトムやジャングル大帝をアニメ化した際には、凡そ考えられなかったものが、二次版権物ではないのでしょうか。何故なら、手塚氏のアニメ作品は、あくまで彼自身の夢であり、趣味である部分が大きいからです。
これは、ウォルト・ディズニー氏も同じであるはずです。
 
つまりは、その作品を見る側に対してのメッセージが強い作品を作り上げた結果の物であるとしても、決して過言ではないのです。
 
しかし、そうした作品ばかりではなくなってきたのが、1970年代にあったのです。マジンガーZ、ゲッターロボに代表される、男子向け玩具の発売が行われた作品です。
それまでも、確かに二次版権商品はありますが、大きく変化したのは、やはりこの時代であるのは間違いありません。同時に、玩具を売るために、アニメを作る。そのためのスポンサーとなる玩具企業が出てきたのも、この時代ではないのでしょうか。
 
そして、空前絶後のロボットアニメ乱立の時代が始まるわけです。
 
その前に、では少女作品はどうであったのでしょう。これは今に至るも、大きく代わり映えはないのが現状です。つまり、少女向けの最大の特徴はなりきりであるという事。その媒体がコンパクトなのか、ステッキなのか、それとも携帯電話であるのかの違いだけで、結果的には、それを持つ事によってなりきり遊びをする。その事に代わりはないわけです。
 
これは特撮系ヒーロー物にも言える話なのですが、しかし、これがアニメの巨大ロボットになると、少し事情が変わってきます。
 
まず、なりきるという遊びは基本的に不可能になります。ロボット片手に、必殺技や合体などを楽しめるのが玩具の良さではありますが、それはなりきりではありません。あくまで、俯瞰による行動の確認であり、それはテレビで見る情景と何も変わらないわけです。
 
もう一つは、玩具遊びはあくまで人形遊びであるという事。これは、幼児期から少年期に変わる男子にとって、大きな気持ちの変化をもたらす事になります。すなわち玩具離れです。
人形遊びは幼児の遊び。これが玩具離れだけではなく、その玩具に関係したアニメからも足を遠のかせる理由になっていったのです。結果、売上げはある程度の幼児までしか見込みがないという事になります。
 
そんな中で、一つの変化が訪れました。今で言うリアルロボットの誕生です。
 
玩具離れを起こしたと言いましても、ヒーローから離れたわけではなく、それが車、バイク、飛行機、電車、戦車や戦艦などといった、その欲求を埋めてくれる媒体へと変化しただけの話であるのです。
 
その当時…1980年代においては、アニメは子供の見るものと決め付けられていました。しかしながら、そうした中において、宮崎駿氏、松本零士氏などのアニメ作品は、その当時の大人にも人気がありましたし、さらにTVではないアニメ映画絶好調という状況も手伝い、よりリアリティ=現実感のある作品が好まれていったのです。
つまり、未知の兵器であれば、それなりの設定が重視されていった=SF色が強くなったともいえます。
 
そのような中で、再放送で爆発的な人気を得て、結果、映画化にまでなった作品が機動戦士ガンダム…リアルロボットの方向性を決めた作品であります。
 
その人気の後押しをしたのが、ガンプラ、作中に出てくるモビルスーツを代表とした兵器のプラモデルであったわけです。
その状況は今更記載するべくもなく、これまでの作品でガンプラが出なかったものの方が圧倒的に少ない作品でもあるわけです。更に言えば、この作品の恵まれた点は、兵器であるという事をユーザー側が固執した事であるわけです。
 
別に、三体のロボットがコアファイターという核になるユニットに、それぞれのパーツを交換して活躍する作品…これでも、問題なかったわけです。しかしながら結果として、モビルスーツはあくまでも兵器であり、それを操る人間があっての物。ユーザーはそれをプラモデルで表現していったわけです。
 
そうした作品を載せる雑誌も登場し、リアルロボットはスーパーロボットを確実に侵食していったのです。
 
かくして、スーパーロボット=破天荒ではあっても、正義を守るロボットは玩具の発売がなくなるのと同時に、限りなくゼロとなっていきます。
現在、超合金魂やリボルテックのようなシリーズで懐かしい作品が多く発売されていますが、その当時のように、新しい作品のための玩具を出す…という域にまでなっていないのが現実。恐らく、今後そうした売り方が出来るのかどうか…難しいというよりも限りなくないのではと思えてならないわけです。
 
結果的に玩具が売れてから、原作が売れているからなどの安全パイを選択する状況があるからなのでしょうが、経営と言う観点から見れば当たり前の話。昔の無謀なまでの作り方が、正にそういう時代であったと言っても過言ではないのかもしれないのです。
 
ただ、そうであったとしても、やはりスーパーロボット物の憧れや感動を大人になってまで忘れていない大人もいる。この事実を忘れて欲しくはないのです。
そして、それが今の子供たちに伝わらないはずがない…そう考えてしまうと、やはり、玩具ありきのスーパーロボット作品を期待するのは、おかしな話ではないと思ってしまうわけです。
 
同時に、そういう懐かしさを感じる権利を子供たちに与えて欲しいと思うわけなのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

【広告】

サイト内検索

メンバー紹介

このサイトに自分のブログを載せたい!
(ブログの登録は無料です。)


ninja tool counter

>

※2009年4月19日 19:00より開始

ninja tool access