昨日の記事でしたか、日本語が乱れているという話がありました。しかし、その原因、本当に若者側にあるのでしょうかね?
さて、今回は1982年に発売されました「古代ロボ ゴダイガー」です。

1/460スケール アニメ・ロボというスケールで発売されましたプラモデルです。元々は同社の合体ロボ ニューアトランジャーのおまけロボのようについてきたものを元にし、後に同スケールの合体ロボとして、そして、今回ご紹介しているアニメ・ロボという区分での発売となりました。
ニューアトランジャーの兄弟ロボとして紹介されているものですが、それは完全に後付の設定。でも、それはそれでOKなんですよね。
数多くの合体ロボを世に出してきたアオシマですが、一番の驚きであるのは、その合体ロボが版権物でも行われていたという事でしょう。ですがそれ以上に驚いたのは、この商品ではそれを行っていないという事。
この商品が発売されるそれまでに他社から多くのアニメロボットのプラモデルが発売されてきました。中でも機動戦士ガンダムは、各企業にとって驚愕のものであったのでしょう。
いわゆる、ガンプラは、それまでの玩具の既成概念を吹き飛ばしてしまったのです。
それはリアリティです。
ガンダムはそれまでの、ある種なんでもありのスーパーロボットとは異なり、兵器としてのロボットをかなり意識した商品でした。アオシマやイマイ、童友社、タカラなどは玩具の延長でロボットプラモデルを考えていましたから、それと実物に存在する戦車(や、それに関係する商品)が利用できる1/144スケールのロボット物を出してくるとは思わなかった事でしょう。
模型雑誌がそうした…今で言うリアルロボットをディオラマで作っていった事が、それまで単に組み立て、シールを貼るだけで終わっていたプラモデルを更に加工する事を示したわけです。
それから後に出てくる数多くのリアルロボット。そのプラモデルを良い意味で真似たものが、合体ロボではないゴダイガーであり、アトランジャーではなかったのかと思うわけです。
思えば、1982年に超時空要塞マクロス。1983年に機甲創世記モスピーダなどを当時発売したのですから、オリジナルのスーパーロボットもリアルロボットのように発売してみたらどうなのだろう…として発売したのかもしれません。
さて、実は今回のレビューを記載する上で間違えて覚えていた事があります。それは、ゴダイガーという名前そのものであります。
古代ロボなのだから、コダイガーじゃなかったっけ?と不安を覚えて検索してみますと…あれ?そうか、ゴダイガーであったのか…。記憶が曖昧なのは困ったものですね。
プラモデルの出来といえば、それは良い悪いの話ではなく、手足の稼動は全く考えていない、単なる棒立ちの姿…それだけではなく、パッケージとの色がまったく違うというのにも、驚かされました。
これは強烈に覚えているショックな出来事でしたね。思えば、塗装すればよかったのですが、何しろ、そのショックで頭がそこまで回らず、何故かこれはこれで良いんだと納得する始末。そこは子供の頃の脳内変換が勝ったのではと、思うわけです。
他にもレビューされている内容を見ますと、そんなストーリーがあったのかぁと思うのですが、そんなのは一切覚えていません。単にニューアトランジャーの兄弟機もしくは、胸の宝石に不思議な力が云々とあやふやな記憶だけです。
ただ、こうした商品が昨今、少なくなったのには、本当に残念でならないわけです。キオスクにも若干置かれている場合があるのですが、それでも、数はめっきり減りました。食玩でもオリジナルが少なくなっているわけですが、こうした商品の利点は、やはり勝手気ままに設定を考え遊ぶ事が出来るのです。
強さも敵も目的も背景も、それは遊ぶ側の自由。原作なんかは関係ねぇ!と言わんばかりに想像できるわけです。胸から不思議なビームが出てくるのも、角から不思議なビームが出てくるのも、目から不思議な…以下略。
そうした楽しみを、今こそ大人に対して出してみても良いのではないのかなぁ…というのは、わがままなお願いなのかもしれませんね。
言葉とは本来、口から口へ紡がれていくものです。文字を持ってそれを記したのは、比較的最近の話。それまでは口伝といって、物語を覚えて伝えていったわけです。当然、その際に言葉の意味も覚えなければいけないわけで、あまり難しい表現はなかったわけです。
ですが、文字が発明されますと、言葉に対して文字が当てられ、複雑な意味を持つようになりました。そして、現在…考えるに、その文字の意味はこれまで、間違った伝わり方をしていないと言い切れるのでしょうか。
言葉は生き物に例えられます。
最近の例で言いますと、三つ、挙げられるのではないんのでしょうか。
一つ目は「雰囲気」。
これは「ふんいき」と読みます。決して「ふいんき」ではありません。では、どうしてそうなったのか、それは音による区切りに問題ああるのではないのかと思うわけです。
「ふんいき」の場合、「ふん」「いき」と二つに分かれてしまいます。
しかも、偶数同士ですので、そこに刹那の間が空いてしまうのです。「雰囲気」とは、その場の様子…今風に言えば、空気を読むという事でしょうから、その様子に間があっては説明しづらくなるわけです。
それは昨今の受け答えが昔よりも早くなってる事にも起因しているのかもしれません。
一方「ふいんき」の場合はどうでしょう。「ふ」「いんき」と音としてわけられるだけではなく、「ふい」が「ふぃ」と、流れるように発音できる事も、より一つの言葉として発しやすいのでしょう。
そうなりますと「ふぃんき」…文字ではどうかと思いますが、実際に発音してみると、まさに雰囲気で聞こえてしまうわけです。もちろん、この言葉のみで「ふぃんき」と発音すれば、おかしな結果になるでしょうが、文章として組み込んだ場合、少しとちったのだろうと思われるぐらいではないのでしょうか。
こうした間違いは、決して多いわけではないのでしょうが、意外に自分の使っている「並び」が間違えている事があるのは、こうした「音の区切り」によるものがあるのだと思います。
二つ目は「全然」
これは本来「全く~ではない」つまりは完全否定の意味に使われるものです。しかし、そのように使われなくても意味が通じるようになっているのです。つまり全然OKなのです。
…「全くOKではない」…?いいえ、この場合は、「OKなのだから、全く気にしなくても良い」という意味になっています。つまりは、肯定の意味で使われているわけですね。
これは、考えるに「全然」の本来の意味ではある否定の度合いが強いものであるからではないのかと思うわけです。即ち、肯定として使う場合でも、その意味は強い肯定の意味で使っているわけです。
全然問題ない…「微塵もその問題を気にする必要はない」。つまりは100%の事なんだよという意味になります。
では、どうして全然が使われるようになったのか。それは、日常会話の中からの変化ではないのかと推察できます。似た言葉ではないのかと思うのに「美しい」というものがあります。これは今で言う所の「可愛い」という意味ですが、今では「可愛い」は「可愛い」、「美しい」は「美しい」と分けていますね。
当初は可愛いもの指して「美しい」とのでしょうが、その概念は人によって変わって来るもの。それを知らない人が見て、現代の「美しい」と思う事を「可愛い」という意味で「美しい」という言葉を聴いてしまったら…ややこしいのですが、つまりは、そうした勘違いが常識のようになっていったもの…つまりは、言葉は生き物であるというのを体現したものではないのかと思うのです。
然るに「全然」に関しても、同じ様にその強い口調を捉え、つまりは強調するときに使うものだと思い込んでしまったとしたら…。
恐らく、それが原因ではないのかと思うわけです。
そして三つ目。これは実際に今の世の中で一番乱れている事ではないのかと思うのですが、無用なカタカナ読みです。
最近の言葉で、正直、腹が立ったのは「コンプライアンス」=「法令遵守」です。
私たちは日本人です。何かにつけ、話す言葉は日本語であり、英語ではありません。しかも、最近の英語と思われているものの中にはカタカナ語=和製英語が沢山含まれています。本当に世界で通用する英語を利用するのであれば、何も問題はありません。勉強にもなるのでしょう。
しかし、ある業種だけ、ある業界だけに使われている事が、さも全ての常識のように使われるの=発信されるのは、これは無意味です。
「コンプライアンス」はその際たるものです。これでは、どんな意味なのかわかりません。しかし、「法令遵守」…実にわかりやすい。しかも、美しい言葉ではありませんか。
さて、この言葉、若者が使い始めたのでしょうか。いいえ、そんな事はありません。しかし、これは知っておくべき常識として伝わっています。
こうした状況であるのに、一方では日本語が乱れていると平気で言っているのが、今の大人の現状なのです。
それでいて、何故、子供たちの言葉が乱れていると一概にいえるのでしょう…一蹴するのでしょうか。こんなものは大人の傲慢さでしかないのです。要するに、自分たちが新しく覚えたくはない、その代わりに、自分たちが考えた事を押し付けたいだけの現れに過ぎないのです。
だから、子供たちは反発するのです。当たり前の話です。そんな大人の勝手な言い分に、何故、子供がつき合わされなければならないのでしょうか。筋など一本も通っていない状況なのです。だから、彼らは彼らなりに賢しくならなければ、生きていけなくなるのです。
言葉は変化していくものです。特に、これだけ異文化を受け入れる国においては、その速度は目覚しいものがあるのでしょう。
その中でも、一本通った言葉=母国語を大切にしたいのであれば、それは先達たる人が、見栄や思いあがりなだけで、言葉を容易に使わない事が大切なのです。
更に言えば、方言を大切にするべきでしょう。標準語も必要なのでしょうが、それは各地に方言あっての話なのです。それがなくなれば、標準語などあっても意味をなしません。
食物における地産地消が謳われているわけですが、言葉に関しても、地産地消が必要ではないのかと心より必要であると思う次第です。
なくなった言葉は、まず戻る事はないのですし、それは同時にその文化を消す事になってしまうのですから。
そんなこんなで本日はここまで。
さて、今回は1982年に発売されました「古代ロボ ゴダイガー」です。

1/460スケール アニメ・ロボというスケールで発売されましたプラモデルです。元々は同社の合体ロボ ニューアトランジャーのおまけロボのようについてきたものを元にし、後に同スケールの合体ロボとして、そして、今回ご紹介しているアニメ・ロボという区分での発売となりました。
ニューアトランジャーの兄弟ロボとして紹介されているものですが、それは完全に後付の設定。でも、それはそれでOKなんですよね。
数多くの合体ロボを世に出してきたアオシマですが、一番の驚きであるのは、その合体ロボが版権物でも行われていたという事でしょう。ですがそれ以上に驚いたのは、この商品ではそれを行っていないという事。
この商品が発売されるそれまでに他社から多くのアニメロボットのプラモデルが発売されてきました。中でも機動戦士ガンダムは、各企業にとって驚愕のものであったのでしょう。
いわゆる、ガンプラは、それまでの玩具の既成概念を吹き飛ばしてしまったのです。
それはリアリティです。
ガンダムはそれまでの、ある種なんでもありのスーパーロボットとは異なり、兵器としてのロボットをかなり意識した商品でした。アオシマやイマイ、童友社、タカラなどは玩具の延長でロボットプラモデルを考えていましたから、それと実物に存在する戦車(や、それに関係する商品)が利用できる1/144スケールのロボット物を出してくるとは思わなかった事でしょう。
模型雑誌がそうした…今で言うリアルロボットをディオラマで作っていった事が、それまで単に組み立て、シールを貼るだけで終わっていたプラモデルを更に加工する事を示したわけです。
それから後に出てくる数多くのリアルロボット。そのプラモデルを良い意味で真似たものが、合体ロボではないゴダイガーであり、アトランジャーではなかったのかと思うわけです。
思えば、1982年に超時空要塞マクロス。1983年に機甲創世記モスピーダなどを当時発売したのですから、オリジナルのスーパーロボットもリアルロボットのように発売してみたらどうなのだろう…として発売したのかもしれません。
さて、実は今回のレビューを記載する上で間違えて覚えていた事があります。それは、ゴダイガーという名前そのものであります。
古代ロボなのだから、コダイガーじゃなかったっけ?と不安を覚えて検索してみますと…あれ?そうか、ゴダイガーであったのか…。記憶が曖昧なのは困ったものですね。
プラモデルの出来といえば、それは良い悪いの話ではなく、手足の稼動は全く考えていない、単なる棒立ちの姿…それだけではなく、パッケージとの色がまったく違うというのにも、驚かされました。
これは強烈に覚えているショックな出来事でしたね。思えば、塗装すればよかったのですが、何しろ、そのショックで頭がそこまで回らず、何故かこれはこれで良いんだと納得する始末。そこは子供の頃の脳内変換が勝ったのではと、思うわけです。
他にもレビューされている内容を見ますと、そんなストーリーがあったのかぁと思うのですが、そんなのは一切覚えていません。単にニューアトランジャーの兄弟機もしくは、胸の宝石に不思議な力が云々とあやふやな記憶だけです。
ただ、こうした商品が昨今、少なくなったのには、本当に残念でならないわけです。キオスクにも若干置かれている場合があるのですが、それでも、数はめっきり減りました。食玩でもオリジナルが少なくなっているわけですが、こうした商品の利点は、やはり勝手気ままに設定を考え遊ぶ事が出来るのです。
強さも敵も目的も背景も、それは遊ぶ側の自由。原作なんかは関係ねぇ!と言わんばかりに想像できるわけです。胸から不思議なビームが出てくるのも、角から不思議なビームが出てくるのも、目から不思議な…以下略。
そうした楽しみを、今こそ大人に対して出してみても良いのではないのかなぁ…というのは、わがままなお願いなのかもしれませんね。
言葉とは本来、口から口へ紡がれていくものです。文字を持ってそれを記したのは、比較的最近の話。それまでは口伝といって、物語を覚えて伝えていったわけです。当然、その際に言葉の意味も覚えなければいけないわけで、あまり難しい表現はなかったわけです。
ですが、文字が発明されますと、言葉に対して文字が当てられ、複雑な意味を持つようになりました。そして、現在…考えるに、その文字の意味はこれまで、間違った伝わり方をしていないと言い切れるのでしょうか。
言葉は生き物に例えられます。
最近の例で言いますと、三つ、挙げられるのではないんのでしょうか。
一つ目は「雰囲気」。
これは「ふんいき」と読みます。決して「ふいんき」ではありません。では、どうしてそうなったのか、それは音による区切りに問題ああるのではないのかと思うわけです。
「ふんいき」の場合、「ふん」「いき」と二つに分かれてしまいます。
しかも、偶数同士ですので、そこに刹那の間が空いてしまうのです。「雰囲気」とは、その場の様子…今風に言えば、空気を読むという事でしょうから、その様子に間があっては説明しづらくなるわけです。
それは昨今の受け答えが昔よりも早くなってる事にも起因しているのかもしれません。
一方「ふいんき」の場合はどうでしょう。「ふ」「いんき」と音としてわけられるだけではなく、「ふい」が「ふぃ」と、流れるように発音できる事も、より一つの言葉として発しやすいのでしょう。
そうなりますと「ふぃんき」…文字ではどうかと思いますが、実際に発音してみると、まさに雰囲気で聞こえてしまうわけです。もちろん、この言葉のみで「ふぃんき」と発音すれば、おかしな結果になるでしょうが、文章として組み込んだ場合、少しとちったのだろうと思われるぐらいではないのでしょうか。
こうした間違いは、決して多いわけではないのでしょうが、意外に自分の使っている「並び」が間違えている事があるのは、こうした「音の区切り」によるものがあるのだと思います。
二つ目は「全然」
これは本来「全く~ではない」つまりは完全否定の意味に使われるものです。しかし、そのように使われなくても意味が通じるようになっているのです。つまり全然OKなのです。
…「全くOKではない」…?いいえ、この場合は、「OKなのだから、全く気にしなくても良い」という意味になっています。つまりは、肯定の意味で使われているわけですね。
これは、考えるに「全然」の本来の意味ではある否定の度合いが強いものであるからではないのかと思うわけです。即ち、肯定として使う場合でも、その意味は強い肯定の意味で使っているわけです。
全然問題ない…「微塵もその問題を気にする必要はない」。つまりは100%の事なんだよという意味になります。
では、どうして全然が使われるようになったのか。それは、日常会話の中からの変化ではないのかと推察できます。似た言葉ではないのかと思うのに「美しい」というものがあります。これは今で言う所の「可愛い」という意味ですが、今では「可愛い」は「可愛い」、「美しい」は「美しい」と分けていますね。
当初は可愛いもの指して「美しい」とのでしょうが、その概念は人によって変わって来るもの。それを知らない人が見て、現代の「美しい」と思う事を「可愛い」という意味で「美しい」という言葉を聴いてしまったら…ややこしいのですが、つまりは、そうした勘違いが常識のようになっていったもの…つまりは、言葉は生き物であるというのを体現したものではないのかと思うのです。
然るに「全然」に関しても、同じ様にその強い口調を捉え、つまりは強調するときに使うものだと思い込んでしまったとしたら…。
恐らく、それが原因ではないのかと思うわけです。
そして三つ目。これは実際に今の世の中で一番乱れている事ではないのかと思うのですが、無用なカタカナ読みです。
最近の言葉で、正直、腹が立ったのは「コンプライアンス」=「法令遵守」です。
私たちは日本人です。何かにつけ、話す言葉は日本語であり、英語ではありません。しかも、最近の英語と思われているものの中にはカタカナ語=和製英語が沢山含まれています。本当に世界で通用する英語を利用するのであれば、何も問題はありません。勉強にもなるのでしょう。
しかし、ある業種だけ、ある業界だけに使われている事が、さも全ての常識のように使われるの=発信されるのは、これは無意味です。
「コンプライアンス」はその際たるものです。これでは、どんな意味なのかわかりません。しかし、「法令遵守」…実にわかりやすい。しかも、美しい言葉ではありませんか。
さて、この言葉、若者が使い始めたのでしょうか。いいえ、そんな事はありません。しかし、これは知っておくべき常識として伝わっています。
こうした状況であるのに、一方では日本語が乱れていると平気で言っているのが、今の大人の現状なのです。
それでいて、何故、子供たちの言葉が乱れていると一概にいえるのでしょう…一蹴するのでしょうか。こんなものは大人の傲慢さでしかないのです。要するに、自分たちが新しく覚えたくはない、その代わりに、自分たちが考えた事を押し付けたいだけの現れに過ぎないのです。
だから、子供たちは反発するのです。当たり前の話です。そんな大人の勝手な言い分に、何故、子供がつき合わされなければならないのでしょうか。筋など一本も通っていない状況なのです。だから、彼らは彼らなりに賢しくならなければ、生きていけなくなるのです。
言葉は変化していくものです。特に、これだけ異文化を受け入れる国においては、その速度は目覚しいものがあるのでしょう。
その中でも、一本通った言葉=母国語を大切にしたいのであれば、それは先達たる人が、見栄や思いあがりなだけで、言葉を容易に使わない事が大切なのです。
更に言えば、方言を大切にするべきでしょう。標準語も必要なのでしょうが、それは各地に方言あっての話なのです。それがなくなれば、標準語などあっても意味をなしません。
食物における地産地消が謳われているわけですが、言葉に関しても、地産地消が必要ではないのかと心より必要であると思う次第です。
なくなった言葉は、まず戻る事はないのですし、それは同時にその文化を消す事になってしまうのですから。
そんなこんなで本日はここまで。





