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2008年07月26日

言葉の乱れ…?【「古代ロボ ゴダイガー」(1982年 青島文化教材社)】

 昨日の記事でしたか、日本語が乱れているという話がありました。しかし、その原因、本当に若者側にあるのでしょうかね?



 さて、今回は1982年に発売されました「古代ロボ ゴダイガー」です。




 1/460スケール アニメ・ロボというスケールで発売されましたプラモデルです。元々は同社の合体ロボ ニューアトランジャーのおまけロボのようについてきたものを元にし、後に同スケールの合体ロボとして、そして、今回ご紹介しているアニメ・ロボという区分での発売となりました。
 
ニューアトランジャーの兄弟ロボとして紹介されているものですが、それは完全に後付の設定。でも、それはそれでOKなんですよね。
 
 
数多くの合体ロボを世に出してきたアオシマですが、一番の驚きであるのは、その合体ロボが版権物でも行われていたという事でしょう。ですがそれ以上に驚いたのは、この商品ではそれを行っていないという事。
 
この商品が発売されるそれまでに他社から多くのアニメロボットのプラモデルが発売されてきました。中でも機動戦士ガンダムは、各企業にとって驚愕のものであったのでしょう。
いわゆる、ガンプラは、それまでの玩具の既成概念を吹き飛ばしてしまったのです。
 
それはリアリティです。
 
ガンダムはそれまでの、ある種なんでもありのスーパーロボットとは異なり、兵器としてのロボットをかなり意識した商品でした。アオシマやイマイ、童友社、タカラなどは玩具の延長でロボットプラモデルを考えていましたから、それと実物に存在する戦車(や、それに関係する商品)が利用できる1/144スケールのロボット物を出してくるとは思わなかった事でしょう。
 
模型雑誌がそうした…今で言うリアルロボットをディオラマで作っていった事が、それまで単に組み立て、シールを貼るだけで終わっていたプラモデルを更に加工する事を示したわけです。
 
 
それから後に出てくる数多くのリアルロボット。そのプラモデルを良い意味で真似たものが、合体ロボではないゴダイガーであり、アトランジャーではなかったのかと思うわけです。
 
思えば、1982年に超時空要塞マクロス。1983年に機甲創世記モスピーダなどを当時発売したのですから、オリジナルのスーパーロボットもリアルロボットのように発売してみたらどうなのだろう…として発売したのかもしれません。
 
 
さて、実は今回のレビューを記載する上で間違えて覚えていた事があります。それは、ゴダイガーという名前そのものであります。
古代ロボなのだから、コダイガーじゃなかったっけ?と不安を覚えて検索してみますと…あれ?そうか、ゴダイガーであったのか…。記憶が曖昧なのは困ったものですね。
 
プラモデルの出来といえば、それは良い悪いの話ではなく、手足の稼動は全く考えていない、単なる棒立ちの姿…それだけではなく、パッケージとの色がまったく違うというのにも、驚かされました。
これは強烈に覚えているショックな出来事でしたね。思えば、塗装すればよかったのですが、何しろ、そのショックで頭がそこまで回らず、何故かこれはこれで良いんだと納得する始末。そこは子供の頃の脳内変換が勝ったのではと、思うわけです。
 
他にもレビューされている内容を見ますと、そんなストーリーがあったのかぁと思うのですが、そんなのは一切覚えていません。単にニューアトランジャーの兄弟機もしくは、胸の宝石に不思議な力が云々とあやふやな記憶だけです。
 
 
ただ、こうした商品が昨今、少なくなったのには、本当に残念でならないわけです。キオスクにも若干置かれている場合があるのですが、それでも、数はめっきり減りました。食玩でもオリジナルが少なくなっているわけですが、こうした商品の利点は、やはり勝手気ままに設定を考え遊ぶ事が出来るのです。
 
強さも敵も目的も背景も、それは遊ぶ側の自由。原作なんかは関係ねぇ!と言わんばかりに想像できるわけです。胸から不思議なビームが出てくるのも、角から不思議なビームが出てくるのも、目から不思議な…以下略。
そうした楽しみを、今こそ大人に対して出してみても良いのではないのかなぁ…というのは、わがままなお願いなのかもしれませんね。




 言葉とは本来、口から口へ紡がれていくものです。文字を持ってそれを記したのは、比較的最近の話。それまでは口伝といって、物語を覚えて伝えていったわけです。当然、その際に言葉の意味も覚えなければいけないわけで、あまり難しい表現はなかったわけです。
ですが、文字が発明されますと、言葉に対して文字が当てられ、複雑な意味を持つようになりました。そして、現在…考えるに、その文字の意味はこれまで、間違った伝わり方をしていないと言い切れるのでしょうか。
 
言葉は生き物に例えられます。
 
最近の例で言いますと、三つ、挙げられるのではないんのでしょうか。
 
 
一つ目は「雰囲気」。
これは「ふんいき」と読みます。決して「ふいんき」ではありません。では、どうしてそうなったのか、それは音による区切りに問題ああるのではないのかと思うわけです。
 
「ふんいき」の場合、「ふん」「いき」と二つに分かれてしまいます。
しかも、偶数同士ですので、そこに刹那の間が空いてしまうのです。「雰囲気」とは、その場の様子…今風に言えば、空気を読むという事でしょうから、その様子に間があっては説明しづらくなるわけです。
それは昨今の受け答えが昔よりも早くなってる事にも起因しているのかもしれません。
 
一方「ふいんき」の場合はどうでしょう。「ふ」「いんき」と音としてわけられるだけではなく、「ふい」が「ふぃ」と、流れるように発音できる事も、より一つの言葉として発しやすいのでしょう。
そうなりますと「ふぃんき」…文字ではどうかと思いますが、実際に発音してみると、まさに雰囲気で聞こえてしまうわけです。もちろん、この言葉のみで「ふぃんき」と発音すれば、おかしな結果になるでしょうが、文章として組み込んだ場合、少しとちったのだろうと思われるぐらいではないのでしょうか。
 
こうした間違いは、決して多いわけではないのでしょうが、意外に自分の使っている「並び」が間違えている事があるのは、こうした「音の区切り」によるものがあるのだと思います。
 
 
二つ目は「全然」
これは本来「全く~ではない」つまりは完全否定の意味に使われるものです。しかし、そのように使われなくても意味が通じるようになっているのです。つまり全然OKなのです。
 
…「全くOKではない」…?いいえ、この場合は、「OKなのだから、全く気にしなくても良い」という意味になっています。つまりは、肯定の意味で使われているわけですね。
これは、考えるに「全然」の本来の意味ではある否定の度合いが強いものであるからではないのかと思うわけです。即ち、肯定として使う場合でも、その意味は強い肯定の意味で使っているわけです。
 
全然問題ない…「微塵もその問題を気にする必要はない」。つまりは100%の事なんだよという意味になります。
 
では、どうして全然が使われるようになったのか。それは、日常会話の中からの変化ではないのかと推察できます。似た言葉ではないのかと思うのに「美しい」というものがあります。これは今で言う所の「可愛い」という意味ですが、今では「可愛い」は「可愛い」、「美しい」は「美しい」と分けていますね。
 
当初は可愛いもの指して「美しい」とのでしょうが、その概念は人によって変わって来るもの。それを知らない人が見て、現代の「美しい」と思う事を「可愛い」という意味で「美しい」という言葉を聴いてしまったら…ややこしいのですが、つまりは、そうした勘違いが常識のようになっていったもの…つまりは、言葉は生き物であるというのを体現したものではないのかと思うのです。
 
然るに「全然」に関しても、同じ様にその強い口調を捉え、つまりは強調するときに使うものだと思い込んでしまったとしたら…。
恐らく、それが原因ではないのかと思うわけです。
 
 
そして三つ目。これは実際に今の世の中で一番乱れている事ではないのかと思うのですが、無用なカタカナ読みです。
最近の言葉で、正直、腹が立ったのは「コンプライアンス」=「法令遵守」です。
 
私たちは日本人です。何かにつけ、話す言葉は日本語であり、英語ではありません。しかも、最近の英語と思われているものの中にはカタカナ語=和製英語が沢山含まれています。本当に世界で通用する英語を利用するのであれば、何も問題はありません。勉強にもなるのでしょう。
しかし、ある業種だけ、ある業界だけに使われている事が、さも全ての常識のように使われるの=発信されるのは、これは無意味です。
 
「コンプライアンス」はその際たるものです。これでは、どんな意味なのかわかりません。しかし、「法令遵守」…実にわかりやすい。しかも、美しい言葉ではありませんか。
 
さて、この言葉、若者が使い始めたのでしょうか。いいえ、そんな事はありません。しかし、これは知っておくべき常識として伝わっています。
こうした状況であるのに、一方では日本語が乱れていると平気で言っているのが、今の大人の現状なのです。
 
それでいて、何故、子供たちの言葉が乱れていると一概にいえるのでしょう…一蹴するのでしょうか。こんなものは大人の傲慢さでしかないのです。要するに、自分たちが新しく覚えたくはない、その代わりに、自分たちが考えた事を押し付けたいだけの現れに過ぎないのです。
 
だから、子供たちは反発するのです。当たり前の話です。そんな大人の勝手な言い分に、何故、子供がつき合わされなければならないのでしょうか。筋など一本も通っていない状況なのです。だから、彼らは彼らなりに賢しくならなければ、生きていけなくなるのです。
 
 
言葉は変化していくものです。特に、これだけ異文化を受け入れる国においては、その速度は目覚しいものがあるのでしょう。
その中でも、一本通った言葉=母国語を大切にしたいのであれば、それは先達たる人が、見栄や思いあがりなだけで、言葉を容易に使わない事が大切なのです。
 
更に言えば、方言を大切にするべきでしょう。標準語も必要なのでしょうが、それは各地に方言あっての話なのです。それがなくなれば、標準語などあっても意味をなしません。
食物における地産地消が謳われているわけですが、言葉に関しても、地産地消が必要ではないのかと心より必要であると思う次第です。
 
なくなった言葉は、まず戻る事はないのですし、それは同時にその文化を消す事になってしまうのですから。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年07月19日

玩具にワクワク感を感じること【「超合金GC-32 忍者戦士 飛影、DX黒獅子、DX鳳雷鷹、DX爆竜」(1985年 バンダイ)】

 最近の玩具は、それこそ昔あったトンデモ変形すら可能になってきたわけです。それはそれで、面白いとは思うのですけど…。



 さて、今回は1985年に発売されました「超合金GC-32 忍者戦士 飛影、DX黒獅子、DX鳳雷鷹、DX爆竜」です。



 物語の後半で主役機(それまでは、どこかから来て、なぎ倒し、どこかへ去っていく。某ゲームでは経験値&金銭ドロボーと不評)である「飛影」と彼(?)が変形して合体するサポート機(実際にはこちらが最初から目立っていた)である「黒獅子」「鳳雷鷹」「爆竜」の玩具です。
 
※イメージは超合金 飛影のパッケージです。
 
超合金シリーズである飛影に対して、黒獅子、鳳雷鷹、爆竜は超合金として発売されてはない、珍しいシリーズであるかと思います。
 
飛影は合体に重きをおいた商品であり、また、三体は合体後のバランスを重視しています…というより、実際の話、黒獅子以外は、合体時にあまり各部を稼動させている描写が無く、つまりはポポージングだけでそれなりに見栄えが良くなるという所を狙っているのかもと邪推してしまいます。
 
では、変形後のスタイルがそれほど良かったのかと言えば…実際には良くも無く悪くも無くといった所で、探せば荒は見つかるが、それを指摘するほどでもないという所です。
 
例えば、黒獅子が獣魔になった時に、鬣の一部分がひっくり返らないとか。
例えば、鳳雷鷹が空魔になった時に、妙に大きさに違和感があって、寸詰まりのように見えたとか。
例えば、爆竜が海魔になった時に、頭がすこーし大きめになってコミカルに見えるとか。
 
…ようするにバランスが微妙におかしいという話なのです。
 
これは仕方がありません。当時の技術で、これ以上のものを求めるというのがおかしな話なのです。獣魔に関しては、忘れてしまったのか、もしくはそれを組み込むことによってコストが上がるのか、もしくは元々は付いていなかったのか。空魔にいたっては、大きさを考えるよりも、飛影自身のバランスや稼動域を考えると、仕方がない話ではないかと思うわけです。
 
もう少し、飛影の股関節に稼動域があれば、カッコよく出来たのではないかと思うのですけど…やはりコスト的に難しいでしょう。
 
海魔はそれこそ、爆竜の時とのバランスがアニメの方では二次元の嘘で賄っています。いいかえれば、そこにはゲッター理論が使われていますので、玩具でこれだけ再現できたと喜ぶべきでしょう。
 
 
最近では超合金魂で数多くのロボットが復活していますが、飛影もそのうちやってくれるものではないかと思うわけです。その際には、恐らく比べると懐かしさが蘇るような、驚きの機構が組み込まれる事になるのでしょう。
最近ではそうした驚きをゴッドマーズで体験したわけですが、それは当時のアニメはあくまで玩具ありきであったから、今の技術で再現できるものが多いといえるのかもしれません。
 
多くのアニメスポンサーをしていたバンダイ、タカラは、玩具の技術をそれこそ二十数年で飛躍的に進歩させてきました。
中には独自の解釈でプロポーションを重視して作られた商品もありますが、やはり現代にこうして次々と蘇るのであれば、期待は尽きぬものです。
 
 
とは言いまして、思い入れという点では、当時の玩具に勝てるものではありません。
好きだからこそ、言ってしまえば痘痕も笑窪。思い出は美しいものなんですよねぇ。



 超合金魂やらリボルテックなどの玩具商品シリーズ。本当に昔なら考えられないものばかりです。素材や機構など切磋琢磨し精錬してきた結果が商品として確立した要因なのはわかります。
 
ただ、自分としては昔の玩具にそれでも魅かれているものがあるわけです。
そこにはその当時の玩具の面白さがあり、その形態であるからこそ、出来うるものであるという仕組みも少なくはないのです。
 
 
自分の好きな作品でああります聖闘士星矢の聖衣大系など、その一例としては良いものではないのでしょうか。
 
ロボットではありませんので、そのスタイルは重視されますし、更に言えば格闘物(という事にしておいてください)なので、動き…少なくとも、劇中のポージングが出来るようにするべきでしょう。そして、何より作中で最も出てくる顔が似ている必要があります。最後に、商品名ともなっている聖衣がしっかり着れるものでなくてはなりません。
 
結果、放送当時に発売されていたのはどうだったのでしょうか。
 
まず、顔は玩具独自の物になっていますし、何より髪型はペッタリ。これは、ヘルメットを被らせるための措置であったわけですが、初期の物に関しては、ヘッドバンドのような形状に出来なかったために、普通のヘルメットになってしまったわけです。それにあわせて、アニメ版の聖衣が作られたぐらいですから、あくまで玩具先行であったわけですね。
 
聖衣を着ない状況であれば、ある程度動けたものも、着せると固まるわけで、あくまで聖衣を着せる事が主目的となってしまったわけです。
 
そんな商品も今となっては…聖衣神話大系では、表情からしてアニメに近しいのは一目瞭然。また、髪型もその一部を外したりする事で、聖衣のヘッドパーツも無理なく着せる事が出来るようになっています。
少し細身であると思っていた身体も、聖衣を着せれば十分な体格となりますので、迫力も十分。なにより、ガシガシと動かせるのは素晴しいものです。
それだけではなく、そのシリーズの人形も発売を重ねる事によって進化していくわけで、その完成はまだまだ見えてきそうにはありません。
 
 
これは何も、この玩具だけで起こっている事ではなく、超合金魂のシリーズでは、毎回驚きの技術が提供され続けているのです。
 
ただ、先ほども記載しましたが、こうしたリニューアル玩具も元々は、玩具を発売するために放送されたアニメでの活躍がイメージ的に離れていたからであるわけです。
 
 
例えば、ゴッドシグマの玩具資料を見てみますと、元からアニメのような動きは期待できるものではないというのがわかります。
特にビッグウィングが合体した後は、肩、動かせないだろう…と突っ込みを入れてしまうほどです。ですが、アニメではガシガシ動いています。
 
すると、今、新しい玩具として出された場合は、当然、そうしたアニメでの動きも再現される結果になるわけです。
 
つまり、玩具⇒アニメ⇒玩具とう奇妙な段階が踏まれて、新しい玩具は世の中に登場しているわけです。となると、つまり、幼少の頃に見た玩具は何なのだろうと、ふと思ってしまう時があるわけです。
 
想像を働かせ、動きが取れない動きを遊びの時に脳内補正し、それでも自分が操縦しているような感覚を味あわせてくれた玩具。玩具とは本来そうであるべきであり、アニメの中のリアルをどこまで再現すれば良いのかという事ではないように思えるわけです。
 
今リアルタイムで放送されている玩具も、それこそ大人向けに新たに作られた商品もあります。ならば、子供向けは子供だましで良いという事なのでしょうか。
ある意味そうであり、ある意味違うと思うわけです。
 
そうである部分はそれはあくまで玩具であり、なりきりアイテムであるという事。ですが、違うと言う部分は、やはり劇中で出来る事は再現できるようにするのが当然ではないのかという事。
 
大人向けの懐かしいもしくはギミックのスゴイ玩具が発売されているわけですが、それでも基本としてリアルで楽しんでいる子供たち…自分が子供の時に感じたワクワク感を、同じ様に味あわせて欲しいと思うわけなのです。
 
 
なので、ガンプラばっかりとか、ゲームばっかりじゃなく、様々な「なりきりアイテム」の充実を望む次第なのです!
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年07月12日

君を見る、我思う【「幻獣少年キマイラ -キマイラ・吼(1)」(1982年 夢枕獏/朝日ソノラマ)】

 恐らく人が人と異なるのは、自分が自分である事を認識するために必要な事であり、その自分が人と違いながらも、恐らくはこうであろうと思う描くためであるのではないかと思うのです。



 さて、今回は1982年に発売されました「幻獣少年キマイラ」です。



 高校生になったばかりの青年・大鳳吼は、その人離れした美しさから、相対する者にサディスティックな感情を沸き立たせ、暴力によってそれを満足させる…そんな不思議な魅力の持ち主であった。今で言ういじめられっ子タイプなのであろうが、しかし、その身の内には耐え難い欲望も秘めていた。
 
そうした日々の中で、同じ高校生でありながらも鍛え上げられた肉体を持つ九十九三蔵と知り合い、その関係で武道を習う事となる。
 
彼の師匠は真壁雲斎。日々の糧をパソコンでのエロゲーム製作によって賄っているという不思議な年寄りであった。質素な生活と思えば、しかし最新の電化製品も操る。彼の生き様は自然体そのものであった。
 
雲斎の元で修行を積む大鳳、しかし、彼へのサディスティックな攻撃はその日も止む事はなかった。同級生である織部深雪を庇い、絡んできた他の同級生をその手で叩きのめす…その後に熱を出して寝込んでしまった大鳳の下へ一人の女性が尋ねてくる。
 
亜室由魅。彼女は大鳳にささやくように言う。欲しいものがあるのでしょう…と。大鳳は三蔵たちと夕食を共にし、その中で肉をイッパイ食べたいと要求した。確かにその要求は満たされた…が、本心から満足するものではなかった。
彼が欲したのは血の滴る生肉。その芳醇な香りと甘い味わいがするものを存分に胃に満たしたかったのだ。そう、由魅が持ってきたのは、生肉そのものであったのだ。それを貪りつくし、その様子を見つつ由魅は更にささやく。
 
生肉と同じ様に欲しているものがあるのでしょう…と。その通りであった。その言葉に誘われるように、大鳳は由魅を抱いた。
 
それが災いをもたらす事になる。同じ高校にある実質学校を統制している男が居た。彼は大鳳と同じ様に人ならざるほどの美貌の持ち主であったが、しかし、大鳳と異なり弱さを微塵も感じさせなかった。実際に、体躯が彼よりも大きな猛者と言えど、勝てる事はない。それほどの実力があった。
 
彼の名は九鬼麗一。そして、亜室由魅は九鬼の女でもあった。
 
大鳳に報復を決めた九鬼は、大鳳と仲の良い女生徒、深雪をさらい大鳳を誘い出した。その時、大鳳がその目で見たのは、九鬼の体から出てくる異形の口、獣の剛毛…。それを幻獣=キマイラと九鬼は言った。
 
そして同じものを飼っていると大鳳は知ることになる。その時から大鳳は自身の内にある化け物と戦わなければならなくなった。
 
 
夢枕獏氏の初期作。キマイラ・吼シリーズの一巻目「幻獣少年キマイラ」です。
思い出しながらの殴り書きでしたが、多分あっていると思います。あったはずの小説がどこかへ行ってしまったので…。
 
かなり面白く、ショックを受けた記憶があります。
 
その当時から小説を自分なりに記載していたわけですが、その書き方は漫画をベースにしたもので、基本的に擬音と台詞の多い…というか大半がそれというものでした。今のケータイ小説に似ているのかもしれません。
そうした中で読んだこの作品に出てくる擬音は、本当に目から鱗のものでした。
 
口で表現するに足るものでも、実際に音として表現できるのか---?
 
そんな感じの表現が、あちらこちらにあったわけです。
 
この小説は今で言うCDドラマにもなっているわけですが、確か記憶が正しければ聞いたことがあるような気もします。でも、そこまで表現できていたのかと言われれば…基本的にCDドラマは説明が多いわけで、それで賄っていたように記憶しています。(間違えていたらゴメンナサイ)。
 
説明時にはしっかりと行間をつめて記載し、人が動いたり話したりする情景では、行間や擬音でタイミング=間を計る。
結構すらすらっと読めるものなのですが、それでも、一気に読んでしまいたくなる魅力があると思います。
 
生々しい表現も多いわけですけど、それも作品の雰囲気を出すための演出であるわけです。
 
 
現在、朝日新聞社で新装版として「キマイラ(1) 幻獣少年・朧変」として発行されています。夢枕氏が「生涯小説」と言う力作であり、現在も執筆継続中という作品ですので、時代の流れにあっても変わらぬ魅力を出しているのではないのでしょうか。



 …最初に記載したのは、要するに人は一人ずつ違っていて当たり前という話で、しかも、人と言うのは自分を認識するのに他人が必要だという話なのです。
 
当たり前なのですけど忘れてしまうのがこの話なのです。
 
誰々が出来たのだから、自分が出来たのだから、出来ていない人がいないのだから…あなたも出来る。これは、真っ赤な嘘です。
 
人が50mを10秒フラットで走れたとして、その人が出来たから誰もが出来る。それでは記録は意味を持ちませんし、何より、どうして走っているのか理解できなくなります。誰よりも速く走れる。だからこそ、その人の走る行為に価値があるのです。
 
誰かが、未だに解けない公式を解く事ができた。だから誰もが出来る。これも同じ事ですね。
 
農作物を獲る、魚を獲る、鳥を獲る。これも、全ての人に出来る話しではありませんし、何よりそれを絞めて肉にする行為など…私は出来ません。弱虫ですから。命を食っている事に代わりがないのですけどね。怖いんですよねぇ。
 
 
別の人が言います。誰も人と異なっているのだから気にする事はない。確かにその通りかもしれません。ですがそれは社会が許しません。
 
一人一人、特技が合って然るべき。それを見つけるのも重要な事だ。そうですね。でも、それよりも他人と同じものを学び、そこで差をつける事に意味があるとしているのが社会らしいのです。
 
出来不出来。それは一体誰が決めるのでしょう。少なくとも、他人であるのは間違いありません。自分でここまでというのは、大概が甘えなのだというのが一般的な見解なのだそうです。
 
 
私はこう思います。
 
人が人を認識するのに、人を見ていなければ、その人は自分を人と思うのだろうか。恐らく、それは無い話であり、何か見た動くものを自分だと思うのだろう。それだけ人は不完全に自分を理解しているに過ぎない。
しかし、その理解の低さは人にとって我慢できるものではないらしく、それを人は無知と呼び忌み嫌った。
 
無知である事を無意味と思った人々は、あらゆることを理解しようとした。
 
だが、知れば知るほど、理解には程遠く、疑問ばかりが浮かんでくる。その疑問を解決するのに、自分で確かめるよりも簡単な方法があった。それは人の知識を理解する事。これで、人は賢くなったと思った。
 
恐らく人は、様々な地球にいる生物よりも高く飛び、深くもぐれるようになった。何処までも遠くに、そして誰よりも力強く。自由である両手を使い、物を作り、文字を書き…。
 
しかし、それは全て過程であって結論ではない。その事に気付いている人がどれだけいるのだろう。
 
いつしか人は模倣を捨てた。動物に学ぶ事をやめた。植物に学ぶ事をやめた。全てを利用する事を覚えた。だから、人はどこまでも自分のために生きる事が出来るようになった。
 
そして人は他の生き物を見て、人である事を理解できなくなった。
 
 
人は何処に行くのか、人は何者であるのか。かつてとある侵略者が問いかけた言葉を、今、私たちは自分に対し他人に対して聞かなければなりません。その行き先が天国にしろ地獄にしろ、人だけではなく大多数の命を道連れにしなければならない事にどのような意味があるのか。
 
…宗教でもなく哲学でもなく、曖昧ではなく確信でもなく、理路整然に説明できる必要があるのではないのか…そう思うのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年07月05日

常識に捕らわれないモラル【「妖神グルメ」(1984年 菊池秀幸/朝日ソノラマ)】

 食品偽装にタクシー問題。要するに人を騙して楽しよう儲けようとしている人が多いわけ…なんですね。



 さて、今回は1984年に発売されました「妖神グルメ」です。



 とある場所にある料理学校。そこは一切の人工物を使わずに、しかも、如何なるものも食材として使い、一流の料理を作り上げる事を信念とした天才料理人がしぶしぶながらに経営していた。しかも、その経営者は高校生。
 
今日も今日とて数少ない…いや、たった一人の教え子に対して、考えられるだけの罵声を浴びせ倒している。そのたった一人の生徒も流石に逃げていったその日。彼は料理教室をたたむ決心をしていた…いや、どうしてもたたみたかった。
 
彼の名前は内原富手夫。稀代のイカモノ料理研究家である。
 
イカモノ料理は決してゲテモノ料理ではない。そこにあるコケ、ゴキブリ、腐りかけの野菜屑、ハエ。そんな通常では絶対に考えられないものでも彼にとっては食材である。そして、決してマズイ料理は作らない。
 
そんな彼の前に、一人の男がやってくる。アブドゥラ・アルハズレット。
彼が富手夫に頼んだのは、彼の主人に対して、その腕を振るって欲しいということ。しかし、それはあの恐るべき神を蘇らせる事でもあった。
 
ただ、その事よりも富手夫に興味があったのは唯一つ。その日から、富手夫の脳裏にはその事だけが思い浮かぶようになった。
 
だが、彼の周りは彼の考えるよりも騒々しくなる。そして、全てはある海底へと向かって収束していくのだった。
 
 
菊池秀幸氏にしては珍しいのではないのでしょうか。シリーズ化になっていない話です。
しかも、その元ネタは「クトゥルー神話」で、その相手が高校生なのですから、驚きです。
 
物語的にはクトゥルーの恐ろしさというよりも、その周りで動く人の恐ろしさというのが良く描かれている作品ではないのでしょうか。主人公である内原富手夫は、イカモノ料理の天才。その様子はまるで美味しんぼの海原雄山と変わりがありませんと言うくらいに、激しいものです。
 
ただ、彼は孤独を愛するようで、出来る限り人とは係わり合いにはなりたくない様子。まるで、今の引きこもりのような感じですが、アグレッシブさはちと違うような感じがします。
 
 
これが発売されたのは、1984年。グルメが持てはやされた時代でもあったわけです。
 
それまで日本で食べられていたものとは違うものが数多く入ってきた時代でもありました。作るよりも食べる方に重点が置かれていたと記憶しています。
今のように大食漢とかではなく、むしろ少なく貴重な食材をありがたがって食べていた。個人的感想として、少し間違ったような世界であったと思います。
 
 
この小説は食と神話をうまく融合させた話であります。
 
基本的に神話で食の話が出てきても、それで料理まで含めて話を作るというのは稀有ではないのでしょうか。それも最高の食材が神であるというのは、人の反逆としてはありえない、しかしながら最高のものではないかとも思うわけです。
 
確かに、そうした食材を作って作る料理はゲテモノではなく、イカモノという呼称があっているのかもしれません。
 
この作品に出てきた主人公、内原富手夫はこれで死んでしまったのか…と思いきや、そうでもないらしく、実は別の作品にも登場しています。その作品をまだ読んでいないので、どうなっているのかはわかりませんが、恐らくは、イカモノ料理を極めようと東奔西走している事でしょう。



 人のモラル云々と言われた昔も「騙す」犯罪がなかったわけではなく、それ以上に人情があったわけでもないわけです。単純にモラルがあっただけの話。モラルを常識という人もいますけど、本来常識というのは時代ごとに変化していきますし、時代でなくても地域によって変わっていくものです。
 
日本でも西日本と東日本で風習はかわりますし、食事の好みも変わります。用意するべき祝い事も同じ様な祭りでも意味が違っていたり、順番が違っていたりするわけです。それをその地域では常識と言います。
問題は、こうした常識というのが様々な場所で作られてしまうという事です。
 
要するに食肉偽装の常識、タクシー問題の常識、年金問題の常識など、勝手気ままに作った常識が世間の常識であるかの如く振舞うのが、全ての原因となっているわけです。
明らかにこれはモラルではありませんね。
 
もし、モラルが常識であるのならば、その根本にある人に迷惑をかけない…これが常識に入ってなければなりません。ですが実際にはどうでしょう。人に迷惑をかけている事ばかりです。
 
 
人には、それぞれ持って生まれた常識が存在します。その大半は地域性というものでくくられるわけですが、それが時として人同士のコミュニケーションを破壊する場合もあります。モラルとは、そうした異文化の人の事を考えて、迷惑のかからないようにする事だと思うわけです。
そうです。モラルを何か別の言葉にするとすれば、それは奥ゆかしさではないのでしょうか。
 
奥ゆかしさは決して臆した事と同意義ではありません。人を立て、自分を立てる行為の事です。人だけを立てるのはおべっか…今で言えば、ゴマスリと何ら変わりがないわけです。ですが、本来、人は人同士で立てあうものであるわけです。つまり、相手を敬い尊敬し、それを相手も行う。決して誹謗中傷、ましてや卑下していては出来るはずのないものであるわけです。
 
自分の思い通りに行かない世の中を憂う気持ちは誰にでもあることでしょう。しかし、問題はそれぞれに生活があり、それは干渉し合って流れているものであるという事です。
どうにも、その干渉という意味を服従に置き換えて考えている人が多いようで、それが間違った認識である事を気付かないまま日々を暮らしているようなのです。
 
干渉するという事は、ただ、お互いを認識しただけで起こることであり、その間にある流れが自然な流れであるわけです。ところが、それが自分の思い通りに流れていないと、無理矢理その流れを変えようとする人がいるわけです。これが歪です。歪はゴムの張りと同じ様なもの。ある程度以上は変えられないものなのです。しかし、それを無理矢理に変えようとします。結果、流れは決壊し修復など出来なくなってしまうわけです。
 
 
家族の大事がなくなってきていると言いますが、実際には家族の干渉の仕方が変わってきているからおかしな流れになってきているとすれば理解しやすいのではないのでしょうか。
その流れは世間の奔流からすれば、小川のようなものです。歪がなければ、受け流す事もさして難しいものではないのでしょう。しかし、歪にぶち当たる大きな流れは、まるでその流れ自体を壊そうとする勢いのはずです。結果、流されるのではなく、いなすわけでもなく、壊れてしまう。そして壊した原因を大きな流れに求める。そんな所ではないのでしょうか。
 
家庭の歪み、学校の歪み、企業の歪み、社会の歪み。本来あるべき流れに戻すには、それこそ自身の流れの向きや強さなどをしっかり理解する必要があり、それが回りに迷惑をかけるのではなく、影響を与える流れになるわけです。
奥ゆかしさとは人に良き影響を与える流れの事。つまりはモラルとは人に迷惑を与えないだけではなく、正しい事を示す姿勢でもあるという事になるのではないのでしょうか。
 
 
常識にとらわれないと言うのは、決して自由気ままなだけで動く事ではなく、モラルをもって行動する事であると思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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