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2008年06月28日

命が命を食する事【「ルニア戦記」(2007年~ ネクソン)】

 前回も記載したわけですけど、今回も同じ様な話をしませう。



 さて、今回は2007年より開始されました「ルニア戦記」です。



 ローデシア大陸。そこは、人間、エルフ、ホビット、ゴブリン、トロールなど多くの種族が住む、冒険の世界……。
これらの種族は互いに交流を持ち、あるいは争いをし、広大なローデシア大陸で広く暮らしているのです。
 
各種族はそれぞれの守護神に仕えています。神話によれば、神々はおのおのがひとつずつ種族を創造し、その種族による信仰をもとに神としての力を維持しているといいます。ローデシア大陸の歴史については、人間族の有名な歴史家「ルザー・フレッド(Ruther Fred)」が、120年前、世界中を旅してまとめた「ローデシア史書」に詳しく書かれています。
 
太古の神々が大陸と海、そして大自然を創造しました。
 
この時代に生を受けたものは創造と混沌の巨大なエネルギー、そして大気に充満したマナを受け、大きな肉体と大きな力を持っていました。 大陸には、ドラゴンや巨大なワームが君臨していました。彼らこそ、混沌と創造の力が入り混じった太古時代の天と地の支配者だったのです。この時代に生きていた人間型生命体は、ジャイアント (砂巨人、山岳巨人など)たちでした。
 
現世に残っている古代遺跡の大部分が伝承時代の遺産です。
 
伝承によると、この時期、太古の神々が影をひそめ現世の神々が世界に降臨しました。そして様々な種族を創造したのです。月の女神ルニア(Lunia)は人間を、森の神であり音楽の神でもある男神フォリエル(Foriel)はエルフを、豊饒の神セレス(Ceres)はホビットを、平原の神ウィルドゥール(Wyldur)はオーク族を創造しました。その後、太陽神ソルディン(Soldin)が創造した光の種族シカンが、他の種族に対して戦争をしかけます。
この激戦のときに生まれた、神々がそれぞれの種族に授けたという伝説の武器・指輪などは、今もローデシア大陸のどこかに存在しているとか。この戦争は、長年続きました。けれども終結は一瞬でした。シカン族の本土であった「アスース島」が、一夜にして海の中に消えてしまったのです。それは神々の怒りだったのか、それともソルディンになにかが起きたのか……今もって真実は不明です。
 
戦争が終わると、神々は二度とこのような惨事が起きぬよう「神々の大協定」と呼ばれる取り決めを行ったといいます。
 
そして自分の創造した種族から能力を取り去ったり、性格を変えたりするなど、種族の第二次創造がなされました。これから先は、各種族が自分たちの歴史を自分たちの文字で記録する――「歴史」が始まりました。これより後、今に至るまでが「歴史時代」と呼ばれています。
 
そして現代。それぞれの種族は王国を築き、太古より現代にいたるまでの神話、歴史、知識を受け継いでいます。同時に、大陸各地の奥深くに眠る未踏の遺跡が存在しているとか。
そしてそこには太古から脈々と生き続けた生命がいると噂されています。
 
 
 
プレイヤーは7人のキャラより選択してプレイします。最初から選べるキャラもいれば、クエストによって獲得できるものまでいます。そして各キャラには、元々名前が付いています。もちろん、独自の名前をつけて遊ぶわけですが、言い換えれば、同じキャラが複数存在する、変わった世界ともいえるのかもしれません。
 
町は1つしかありません。今までのMMORPGにあるように、どこかの町まで出かける…というシステムではなく、基本的に一つの町からクエスト(このゲームでは伝説と呼称)に出かけるわけです。そこまでの道のりはなく、選択画面を表示させ、プレイするクエストを選択することによって、そのクエストをプレイする事が出来るわけです。
 
また、このゲームの特徴は、アクションゲームであるという事です。
 
敵を倒すことによって成長していくのですが、そのためには、まさに自在にキャラクターを扱えるようにならなくてはなりません。
各キャラには特定の技がありますが、それとは別に通常攻撃も存在します。それらを上手く連結させ、大ダメージを敵に与えていく必要があるのです。
 
そのためには、1に訓練、2に訓練。とにかく回数をこなして慣れていくしかないという一風変わったゲームなのです。
 
 
明らかなアクションではなく、クエストをクリアしていく毎に物語がわかっていくという、ストーリー性も重視した作りになっています。また、アクションに重きを置いているためか、同じパーティ内であっても、中々、すぐに話をする事が難しい場合があります。
そのために、ボイスチャットが用意されています。これは、プレイヤーが話すのではなく、それぞれのキャラで決められた台詞をショートカットキーによって示すもので、これでもある程度の挨拶なら十分に対応できます。
 
 
これほどロールプレイングでありながらもアクション性の高いゲームは珍しいですね。それも、ネットゲームでとなれば、ネクソンの得意とする分野なのでしょうか。
結構、アクションや格闘が好きな人には向いているのかもしれません。
 
ただし、それだけパソコンの負担が大きくなるのは仕方が無い話です。アクションに夢中になっていると、突然、パソコンが落ちる!なんて事もないとは言えませんので、やる方は公式サイトにある必要スペックは熟読し、用意するようにした方がいいのでしょう。
 
やってみたのですけど、楽しいですね。しかも、クエストが単なる一回死んだら終わりというのではなく、二回までは復活できるというのも、昔からあるアクションゲームの要素が高く、なじみやすいものでした。
やられたら終わり!というわけではなく、町に帰れば全て戻ります(獲得したもの=経験値やアイテムはなくなりません)ので、すぐに再挑戦する事もできる所も慣れが必要なアクションゲームとしては嬉しいですね。
 
尚、パーティプレイも出来ますが、一緒にパーティを組みたい人と町で先に組んでおかないと、全く知らない人とパーティを組む事になる可能性が高いのです。
逆に言えば、様々な人とのパーティプレイが気軽に楽しめるというのも、このゲームの魅力の一つであるわけです。
 
 
※そのほかの詳しい内容は公式サイトをご覧下さい。



 …といいましても、少し視点を変えます。
 
最近、秋葉原で行われた惨殺事件の模倣が多いわけですけど、その理由が目立ちたい。これは捕鯨反対をのたもうておりますグリーンピースら自称事前保護団体らと何ら変わりがないのです。
 
人が生き物を殺すのは、実に単純な理由で捕食するから。これだけなのです。そこにいらん理由をグダグダグダグダ。情けないったらありゃしません。
至極、本当に至極簡単な話として、人は捕食します。そうしなければ生きていけないからです。これ以上でも以下でもないのです。
 
さて、では問題。捕食して良い物、悪い物。厳密に言いましてこうした区分はあるのでしょうか。
答えはNOです。
 
それを資源として考える場合には、YESかもしれません。しかし、考えてみてください。自然とはなんでしょうか?
 
 
人類の総人口はどれぐらいいるのでしょう。いえ、言い換えます。人類の総人口を賄える食糧とはどれぐらいを言うのでしょうか。
日に三食という国もあれば、五食が当たり前という国もあります。小麦粉でも、麺にしたりパンにしたり団子にしたりと色々です。米にしても長いの短いの、グルテンの多いもの少ないもの…野菜、野草でもいいのですけど、それはどこに生えているのでしょうか。それは人類だけが食するものですか。肉・魚にしても同じです。
 
当たり前の話ですけど、人間は無機質なものを取るのに、有機質なものから摂取しなければなりません。要するに食料を摂取しなければ栄養が取れないという事です。
別に鉄分を摂取するのに、釘でもなめていればいいのであれば、それが一番なのです。しかし、効率の良い摂取方法はやはり、そうしたミネラルを含んだ食材を食べる事なのです。
 
 
何が言いたいのか。それは殺すという動機に関しての話です。もしくは、それに類する抗議でも良いのです。
もっと単純にしましょう。殺すという動機に関して、自己主張をする。これですっきりします。
 
誰かに認めてもらいたい、軍資金が欲しい。何でもいいんです。一様に言えるのは、それが全部くだらない事であるというだけの話なのですから。
何を言おうとも、これだけは変わりません。人は食しなければ生きられない。
 
 
食人という風習があります。これは大概が戦った相手に対して、その強さを身に入れる儀式であるわけです。ただ、文化人はそれを嫌います。それは人を崇高なものとして見ているからです。それ故に人の損壊は見るに耐えられないわけです。
それを鯨のような特定の生き物に見出す人もいます。理由は様々ですが、その根底には軍資金が得られるということがあるのでしょう。金は経済の潤滑油。これがなければ経済の中で主義主張はできませんから。
 
ただし、人が人を食うという以外における、食に関しては、基本的に生きるための行為であるわけです。
その目の前にした食材を自分が食べられるようにして来た歴史が、それぞれの国には存在するのです。これを無視した上で、しかも自国人が行為を事態を蔑むというのは、歴史を放棄するのと同じです。
それと同じ様な行為が、目立ちたいという理由からだけの殺戮行為です。これは生を馬鹿にする卑劣な行為でしかありません。司法の判断などとは別に、明らかに生を愚弄しているのです。
 
 
命が命を奪う事。これには生きるという事が関わって初めて正当化されるものです。そこにあるのは、純粋な感謝でしかなく、それによって生き延びられる喜びがソレであるはずなのです。
その命は次の命を結びますが、その紡ぎ方にも様々な事が想定されるわけです。しかし、確実に命は紡がれていきます。これを忘れての行動など許されるべきではない。殺人だけではなく、花壇を荒らしたり、白鳥や黒鳥、犬やネコなどを傷つける行為もあってはなりません。そういう意味では、薬殺される犬猫も問題であるわけですし、それが全て人の勝手で行われる事をもっと問題にするべきであるのです。
 
食は必要ですが、美食が必要であるのかはわかりません。それを文化というのでしょうが、問題は無駄に命を奪われてはいけないという事、それと地産地食という食の原点を見直す事が必要なのでしょう。
それが引いては、命の勉強につながり、結果、無用な殺人などが起きなくなれば幸いな話ではないのかと思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年06月21日

イカだけじゃないぞぉ!【「釣りキチ三平」(1973~年 矢口 高雄/講談社)】

 以前にも記載しておりますが、この記事の大元であるレビューは一ヶ月前より準備をしております。
 
まるで狙ったかのような時事ネタですが、今回は釣りという関係で、あの話題をば。




 さて、今回は1973年より週間少年マガジンに連載されました「釣りキチ三平」です。



 サンペイサンペイと書いて三平三平(みひらさんぺい)は大変な釣り好きで、魚に関わるものには何でも首を突っ込みたがる少年です。そんな彼が兄と慕っている鮎川魚紳は三平を連れて各地へと釣りの旅を行います。しかしそれにはある目的がありました。
 
三平が始めての海釣りを体験したその場所で、三平は魚紳のある秘密を知ります。それは魚紳が子供の頃に、父親に連れられて来ていた夜釣りで、その日成果もなく焦る父親の行動によって、片目を失ってしまった事。そして、そんな自分を両親が見て気に病むことのないように、自ら家を出て風来坊のような釣り行脚を続けていること。
 
しかし、三平たちが宿に泊まっている夜。昼間に不良たちに絡まれ、サングラスを割っていた魚紳は、それを直しに町へと向かっていました。その帰りに昼間の不良に再び絡まれてしまいますが、そのことを三平は知りません。
そこに一台の車が…。
 
それは、魚紳の両親の車でありました。
 
少し遅れて返って来る魚紳。それはいきなりの対面であったのでしょう。まるで季節が一気に流れるように、また、それまでの想いが走馬灯のように流れていきます。
魚紳の両親は、魚紳より罵倒される事を覚悟の上で会いにきたのです。しかし、魚紳はむしろ自分の親不孝をわび、そして双方にあったわだかまりを消し去りました。
 
その様子に三平は嬉しい反面、悲しくなったのです。
 
それは三平の生い立ちにも関係のある話でした。彼は祖父である三平一平と二人で住んでいるのですが、出稼ぎに出ている父親は一向に帰ってこず、また、三平の兄である一は三平の生まれる前に溜池で水死。その事を気に病んでいた母は、三平の出産後すぐに亡くなってしまったのです。
一平は一が亡くなった溜池を埋め立てようとします。しかし、それで死んだ二人が帰ってくるはずがありません。その事に気付いた一平は三平を一のように水を怖がるのではない子供に育てる決心をします。
 
実はその頃、父である三平平は記憶喪失になっていたのです。出稼ぎの漁船に乗り込み作業中の事故によって、頭部を強打。それによって記憶喪失になってしまい、その記憶を取り戻すために釣りをしながら放浪の旅へ出ているとの事だったのです。
 
そのことを知った魚紳は、事実を知らない三平には内緒で各地を探し歩く事を決めたのです。
 
 
 
今回は昭和版を中心に紹介いたします。
 
私自身、釣りは父に連れて行ってもらった記憶しかなく、自分が好んでする事はありません。もともと、それほど魚が好きではないという事と、釣り上げた物は食べる物と教えられていたので、食べれない(捌くから始まる調理の事も含めます)自分としては、そうした事をするべきではないと思っているからなのです。
 
釣り好きでした父は、この単行本を好んで集めていました。私がこの作品に触れたのは、父が揃えていたからでもあります。
そして、小学生の頃でしたか、アニメ放送が始ります。それを見て、更に原作を読み返す。思い返せば、そんなオタクの人生が始まったきっかけでもあるのかもしれません。
 
 
とにかく、魚紳さんがカッコよくて仕方がありません。あこがれる存在であるのは間違いないわけです。時折、人間離れした動きを見せるのですが、それも一興。だからこそ、魚紳さんである!と無理矢理納得したものです。
 
しかし、一番はやはり一平爺さんでしょう。今、思い出しても、一平爺さんの亡くなった話は泣けてきます。
死んだ事を理解しつつも、決して泣く事の無かった三平が、魚紳さんが到着した途端に泣き崩れる。そんな彼を見て、魚紳も共に過ごす事を決める。
 
三平と魚紳は他人ですが、心の兄弟であるそのくだりは、涙なくしてみる事はできません。
 
 
それと同じ様に好きなのは、釧路湿原のイトウの話です。
その時に出てきた、谷地坊主はいい味を出していました。怪力の大男でありながら、細やかな神経の持ち主。人見知りで強面のスキンヘッド。しかし三平はすぐに打ち解けてしまった。
これこそ、三平というキャラの魅力を十分に発揮している話ではないかと思うわけです。
 
 
実はこの釣りキチ三平は終了していない作品です。
 
今では平成版として何作か発表されているはずですが、これはつまりキャラクターは物語の中で生き続けているという証でもあるわけです。小突かれれば痛みも感じる、血の通ったキャラクター。
つまり、その世界において一生懸命であるのは、何も私たちの世界だけではないという事なのかもしれませんね。




 私自身、それほど率先して魚類を食べる方ではありませんが、それでも、地元で食べる魚や貝のおいしさは知っているわけです。今日はそんな話から日本の食糧事情について思うことをば。
 
 
イカを始めとした十二の漁協におけるストライキは、海鮮国でもある日本にとって大きな痛手であるのは間違いない話なのです。その原因は原油の高騰。未だ収まりのつかない原油高によって、漁に出れば出るほど赤字になるという状況になっているそうです。
 
さて、最近と言いましても、もうどれぐらいになるのでしょうか。バイキング形式のレストランから始り、今では回転寿司が大変な人気となっております。インターホンでの注文からタッチパネルへの注文方式へと変わり、益々、自分の好きな状況で頼む事が出来るようになったわけですが、その安い価格を維持するためには、輸入に頼っている状況があるわけです。
 
ところが、ストライキの話は何も日本が始りというわけではありません。海外では、日本と比べるまでもないほどの凄まじいストライキに突入しているわけです。
投石から火炎瓶まで。それは暴動としてもおかしくはない状況なのだとか。シュプレヒコールだけを挙げている場合ではない!というのが本音なのでしょう。
 
だからと言って、そうした状況ではない日本は、それほどではないのか…逆です。日本はそれ以上の問題があると言っても言いすぎではありません。
 
 
BSEや農薬など、輸入食材には様々な問題があります。ですが、家庭で作る料理にしても、完全に国内で賄う事は日本では不可能な話です。それはインスタントだけではなく、調味料にしても同じ事が言えるのです。
これだけ食品問題がありながら、何故日本産の物が使えないのか…いいえ、使えないのではなく、使うことが出来ないのです。
 
一つは、食材量の調達という物理的な面があります。
今、報道でも言われている事ですが、日本の自給率は30%付近です。これは他の先進国と比べ、驚くほど少ない数字です。それでも減反政策をし、更に米を輸入しているのですから、どういう事なのかと問いただしてみたくなるわけです。ですが、この自給率はある意味、完全失業率と同じ様な言葉のマジックが含まれています。何故なら、全ての食材において、日本が消費する食材との割合が自給率であるのですから、決して、一つ一つの食材ごとを見た数字ではないという事なのです。
言い換えれば、30%という自給率の中には、どういう食材があるのかは一見して見えてこないという事になります。
 
これ、当たり前のようですが、大事な話なのです。
 
油を使いたくても、油がない。醤油や豆腐にしてもそうです、大豆がなければ意味がありません。それどころか、塩はどうでしょうか。肉にしても、外食産業においては必須ですよね。それを国内で賄いきれるのでしょうか。小麦・大麦など言うに及ばず。パンやケーキ、パスタ、うどん…つまり小麦粉や一日の楽しみであるビールや発泡酒も生産できるはずがないわけです。
 
これらの殆ど…100%に近い数字が輸入に頼っているのが現状なのです。
 
そして二つ目。これは価格です。
輸入食品、これは確かに安いものです。それだけ大量生産していますから、コスト面でも調整することが可能なのでしょう。対して、その代わりに日本ではブランド食品に力を入れてきています。多少高くてもおいしい食材を提供しているわけです。
となれば、輸入がなくなればそれだけ高い商品を買わなくては、今までのような食事は到底できるものではなくなるわけです。
 
では、単純に安くすればいいのでしょうか。答えは明白です。今回のようなストライキが起こるようになるわけです。
何故なら、その生産のために使うエネルギーの大半も輸入で頼っているのですよ。原油などは国外で決まってくる価格が、直接影響するのですから、政治力に期待したいものですが…期待できますか?
 
酪農に関しても、バイオエタノールの関係で、飼料用のとうもろこしが高騰している状況もあります。更には、オーストラリアの大干ばつもまるで後押しする形で状況は悪くなっているわけです。
 
 
日本においての生産で、やはり譲れないのは米です。
小麦粉の代わりに米粉、バイオエタノール用の米の開発など、日本の土壌にあった米の生産を促していく事こそ、政府が行うべき最初の行動でしょう。減反政策などもってのほか。むしろ、食料用の米がダメであるのなら、加工用の米の生産を促し、それを国が買い、企業が加工して国内外に販売するシステムを一刻も早く確立させるべきです。
 
食用・飼料用・加工食品用・燃料用。日本独自の技術力を結集し、今こそ、日本の米は万能にして世界一!という所を見せて欲しいと思うわけです。
 
 
 
…個人的には白米大好きです。米はネー本当に美味しいですよ。もうねー、卵賭けご飯とか最高。玄米とか五穀米とか色々言われていますけど、その前に日本の白米を消費しましょう。それが結果的に、自分の台所を救うきっかけになるんです。
日本人なら米食えー!米!肉に魚に野菜に、カレーにキムチに納豆に、握って炒めて混ぜ合わせる!こんな万能な食材を楽しまずして何が日本の食文化かーーーー!今日もおいしいご飯をアリガトウゴザイマス。あー、おいしいご飯で幸せ。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年06月14日

個の見かた【「ルパン三世 GREEN vs RED」(2008年 ルパン三世 GREEN vs RED製作委員会)】

 突然ですが…思うに、人というのは生まれてから死ぬまで個人であるわけです。
 
いきなりなんじゃらホイと思うかもしれませんが、今回のお話は個性でゴザイマス。



 さて、今回は2008年に発売されました「ルパン三世 GREEN vs RED」です。

 一人の男が欄干にもたれかかり、その手に持ったアルバイト情報誌を見ているところから、物語は始まる。情報誌を投げ捨て、振り返るとそこにあるのは、青いフィアット。その中を覗き込むと、灰皿には山のような吸殻。そしてラジオから流れるニュースでは、指輪盗難の情報が流れている。
 
その犯人とされるのが、緑のジャケットを着たルパン三世であると。
 
男の手に持つ、その指輪。そして自分がルパンだといわれる事に驚く男。男は孤児院の出身者であり、園長先生からは悪い事をしなければ上等なのだと教えられていた。それは悲観的になる事なく、生きる事が良い事。しかし男は日々の生活を少しのアルバイトとスリで賄っていた。
 
一方、人生をかけてルパンを追い続ける男が日本に向けた飛行機に搭乗していた。銭形幸一。ルパンの噂を聞きつけ世界を飛び回るが、しかし、本物ではなかった。
 
 
日本でもニセルパンのニュースが飛び込んでくる。あのルパンが万引きで逮捕されたというのだ。ニュース映像に流れる顔は確かにルパン。しかし、それを見たルパンが憤り、一斉に活動を開始する。
 
そう、その時、ルパンは一人ではなかったのだ。
 
ルパンがまるで姿を隠したのと同じに、世界同時多発的にルパンが出てきた。そして、緑のジャケットを着た青年、ヤスオもまたそんな模倣ルパンの一人であった…あったはずなのだ。あの日、あの橋の上で同じワルサーP38を構えて見据えている赤いジャケットのルパンが現れるその日までは…。
 
 
大変に意欲作であり、同時に問題定義の作品でもあると思います。
 
今までのルパン…というよりも、ある意味、これまでのアニメに対する疑問・批判の答えであるような気がしてならないわけです。
 
この作品のテーマと言いますか、根本にあるのは、「ルパン三世とは何ぞや」という事です。それは原作からアニメ、ゲームに小説、立体などの全ての作品においてのルパン三世のあり方に対する問いかけでもあります。
 
顔かたち、身長や体重に対する正確無比な比率からなる創造。ある種、原作者でもあるモンキーパンチ氏ですら、毎回描き続けるルパンが本物であるのかと指摘しているようなものです。
 
 
昨今の作品において、見ている側がその作画に関して「作画崩壊している」と非難している場合があるわけです。これは、長年続くマンガ作品においても言われる事ですが、ルパンはその顕著な例と言えるのかもしれません。
 
文字としてみれば、東洋風でサル顔。華奢な体つきに見えて、大変な肉体派。頭脳明晰で手先も器用。女に対しては節操がなく、しかし、無用な殺しはしないが、悪人には容赦が無い。
 
所が人によってサル顔の定義も異なりますし、肉体派といっても、どれだけ筋肉質なのかもわかりません。何より、ルパン三世と名乗っておりますが、その証拠は何一つないわけです。
 
 
「ルパンとは何ぞや」。劇中、それを理解しているのは次元大介、石川五右衛門、峰不二子、銭形警部、そしてルパン本人であるわけです。
 
ルパンはルパンであったのではなく、ルパンである必要があるだけ。
 
最初からルパンがいたのかいなかったのかではなく、ルパンであったのか、ルパンでいれたのか。これは、全てのマンガやアニメなどの作品に言える事なのでしょう。
 
特にTVアニメは数多くの作画監督・動画監督の手で作られます。それぞれの監督の癖が必ず反映されてしまうものです。中には、ディフォルメする方も見えることでしょう。果たして、それがどれほどまでに問題であるのか、とも言えるわけです。
恐らく、設定に厳密にして細部まで忠実に再現できる人というのは、まず、いないのではないのでしょうか。本人でさえ、日ごとに変わっていくものなのですから、他人がやれる程度はあくまで模倣の範疇を超えることは出来ないわけです。
 
しかし、それもあくまで同じキャラクターであると言えるのは、それが絵だけで決まるものではない、と言えるからなのです。
 
そのキャラクターたちにも、それまでの人生があるはずです。また、周りには関わってきた人・物があるはずです。それを無視しての人生などありえません。それが匂わせれるかどうかが、キャラクターの芯を作り上げるのだと思います。
 
つまり、実在する人と大差はなく、空想の人であったとしても、そこに存在する「芯」を見てそうであると決まると言えるのかもしれません。
 
 
この作品で言えば、ルパンのジャケットが緑であろうと赤であろうと、日本名でヤスオと名乗っていようとも、その芯がルパンであればそうなのだと言う事なんでしょう。
 
人であっても動物であっても、成長すれば外見はかわるものです。安易に作画崩壊などと言うのではなく、中身を見て判断するだけの度量も必要ではないのか、と思う次第なのです。



 個人を尊重する世の中…聞こえは良いですが実際は大変に生き抜くい世の中であるわけです。個人情報保護という名の下に過敏に反応するのは稀代の綺麗好きとなってしまった日本人の悪い癖なのかもしれません。結果的に、こうしたネットの中では個人情報が流れまくっている反面、個人を特定しない…いわゆる「ななしさん」があちらこちらに増殖中であるわけです。
 
さて、個性という問題は、実の所、何も問題にするべき事ではないわけです。上の方に記載しましたけど、人は誰一人として他人と同じ人物はいないという事です。これが個性=パーソナリティであるわけです。
 
当たり前の話ですけど、実際の話、これが良く忘れられてしまいます。
 
学業・仕事・恋愛。○○のようにだとか、○○は出来るのにとか。とかく他人と比べる事で個人を確認する風潮が、結果、日本における学歴優先の社会を作ってきたかのように思えてならないわけです。これは既に競争ではなく、狂騒というほどの騒ぎとなり、結果的に受験戦争という歴史も作ってきました。未だにそれが脱する事が出来ない原因は、結果的に言えば、個人を見る能力を失ってしまったから…としか言えないわけです。
 
 
例えば、仕事にしても、受験にしても面接があるわけです。
その面接官は一体、何を見て判断しているのでしょうか。態度・口調・応対。それぞれなのでしょうけど、結果的に人と関わりあうのはその後の話です。つまりは、入社・入学してからの話。それから、その人物の事が理解できるはずです。
所が、実際に聞いたことのなる話として…
 
「○○(大学名)を出ていながらなんでこんな事もわからない!」
 
…という言葉が出てきたりします。これは、ある大学を卒業していれば、これぐらいの事は理解して当然だ…もっと言ってしまえば、40を話して120わかるのは当然だと言っているわけです。
 
なんて乱暴な話なのでしょうか。
 
学業というのは、あくまで学問を修了する事であります。社会に出てからの、ましてやその会社の内情など、知る由がありません。そこに研修制度があったとしても、実際に働いてからわかる事など湯水のように出てくるものです。
 
つまりは、その文句を言った人は、とある大学の人間であれば全ての者が理解できるはずだ=教えなくても理解できるんだから、なんて楽なんだと個人を見ずに大学を見て、尚且つ自分の事だけを考えている…あからさまにではなくても、どこかでそう考えているはずなのです。
 
 
個性とは、その人の歩んできた人生が経験として積み重なり、形成されていくものです。恐らくソレは死ぬまで変わり続けるものでしょうし、そうでなければ、成長があるはずないのです。つまりは、個性を伸ばすという事は人を成長させていく事と同意義でもあるわけです。
 
関わった人、物、状況。それらが全て教科書であり先生である。そう理解して人に接していけば、肩書きだけで人を見るという事もなくなり、結果的に「思いやる」事が出来るようになると思うわけです。
 
 
昨今頻発している残虐な事件。それぞれを何かに当てはめようとする動きが多いわけですが、結局、それは自分の理解できない事を理解できないままで納得しようとしている浅はかな行動・言動であると思います。
どうしてそういう事件が起こり、犠牲が増えていくのか。それは人が人を認める事の意味のはき違えから来ているような気がしてなりません。地位・財産・権利。それだけで人を認めるというのであれば、勝ち組・負け組という情けない日本語が世界に広まるのもそれほど時間がかからないような気がするのです。
 
それで、他国にODAを出し、平和を論じるなどおこがましいと思うのですが…。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年06月07日

ばら撒かれる爆弾の必要性【「スカイキッド」(1985年 ナムコ)】

 このサイトでは先に何をレビューするのかを決め手から、上下にある文章を考えます。今回選択した作品は何が特徴なのか…今の世情にも照らし出して考えていくのですが、中々難しいものであったりするわけです。
 
で、今回はどうするのか…本当に悩みました。結果的に…続きは下段にて(逃



 さて、今回は1985年に発売されました「スカイキッド」です。

 バードランドに住む若き飛行機乗り、バロンとマックス。彼らは愛機に乗り込み、敵を倒しまくる!中には基地、巨大飛行艇、母艦などがあるが、途中で補給される1発の爆弾で見事沈めるのだ!
バードランドに平和を!
 
 
強制横スクロールシューティングで、操縦する機体は基本的にゆっくりと動くようになっています。上下ではそれぞれ、機首を上下に動かしながら動きます。メインの武器は機関銃ですから、機首の方向へ真っ直ぐ飛びます。その距離は短いのですが、それは相手も同じ事。
 
その機関銃で戦車や飛行機を倒しながら画面を進んでいきます。
 
このゲームの最も特徴的な動きは宙返りでしょう。敵の弾を宙返りでかわしたり、また、相手の後ろを取ったりと戦術としてはかなり重要な動きです。
ただし、爆弾を補給すると、宙返りボタンは爆弾投下ボタンへと変わりますので、目標撃破までは基本的に我慢する必要がでてきます。
 
また、敵の弾に当たると急降下していくのですが、それを何回かは回避できます。レバーを上に上げながら、ボタンの連打!連打!連打!あまり打ち落とされてしまうと、それも出来なくなり地面に激突、一機失う事になります。
 
最終面に待ち受けるのは巨大戦艦。これを見事に倒してクリアとなります。もちろん失敗すれば、残機は減ります。
 
 
それぞれの面、開始時のダッ!ダカダッ!ダカダッダダガダガダッダッピー--ッ!という音楽が印象的なゲームです。ドット絵ながらも、その可愛さはしっかり伝わってきます。ゲーム難易度的にはかなりシビアなんですけどね。
 
思うに、こうしたゲームが出てきたとしても、それほどの売上げが上がらなくなった時期ではなかったかと。その理由は発売された枚数です。
 
大小関わらず、ゲームメーカーと称する所が、ソフトを有象無象に出していた過渡期ではないでしょうか。出せば売れる。そこに現実問題として、ゲームバランスもしくはキャラクター性が求められた時期でもありました。そして、ゲーム自体が大型化の時期に向かっていた時でもあります。
 
こうしたテーブルゲームより、よりダイナミックに動く筐体が徐々に出てくるわけで、平面の世界から立体の世界へ向かうはしりであったとも言えるのかも知れません。
 
また、この時期、画期的な家庭用ゲーム機が発売されました。任天堂のファミリーコンピュータ、通称ファミコンです。
スカイキッドが発売される二年前に発売されていますから、この時期のファミコンは業務用ゲームの天敵であった事がうかがい知れます。
それまでゲームセンターにいかなくては遊べないゲームが家庭用として次々移植された時期でもありました。
 
ナムコも例に漏れる事無く、この年より、本格的に参入する事になったのです。
 
 
ちなみに、スカイキッドもファミコンに移植されました。それはこの業務用が発売されて、なんと一年後1986年の事であったのです。



 というわけで、逃げられなくなったので、話をば。無いわけではなく、よく知らない内容なのでどう話せば良いのかを悩んでいる次第なのです。
 
というのは、爆弾のお話。先ごろ日本も支持を表明したクラスター爆弾の事です。
 
クラスター爆弾は、親爆弾の中に、無数の子爆弾を仕込みまして、投下後にそれが胞子を飛び散らせるように子爆弾を撒き散らして広範囲に目標を破壊する兵器です。この規制に動き出した原因というのが、仇名のように言われている「空中地雷」。つまりは不発弾の問題なのです。
 
世界の紛争地域で問題になっている地雷。それは人を殺すのが目的ではなく、むしろ負傷させ、そこに人員を裂かせる目的の兵器でもあるわけです。安価で製造でき、しかも除去するにはその何万倍もの高額な費用がかかる事、それ以上に敷設した場所が特定できないために、結果的にそこの場所に住む民間人に多大な被害が出ているわけです。
 
同じ事が、クラスター爆弾も同じ様に子爆弾の不発弾が地雷のようになってしまう事が問題となっているわけです。
 
日本もクラスター爆弾を所持しているのですが、当初はより改良され不発弾の割り害が低くなったものは除外するべきだと言う立場をとっていました。それはアメリカに対しての発言であったわけですが、問題は、割合が低くなったというだけで、完全に0ではないという事です。
 
日本にも、未だに不発弾があり、その処理には大変な労力が必要なわけです。それでも、60年前の代物。もしかすれば、いまだ沢山の不発弾が足元に埋もれているのかもしれません。
しかし、60年の間に日本は経済成長の名の下に、区画整理や宅地開発を進めてきた日本では、おおよそむき出しの不発弾を見つけるのは、まずありえないのでしょう。
 
ですが、そうした状況が世界には数多くあるわけです。
 
人は作物を育てたり、酪農をしながら食物を得ていく必要があるわけです。それには広大な土地が必要であるのは言うまでもありません。しかし、その必要な土地が、地雷やら不発弾にまみれているわけです。
日本のある企業では、爆発物の撤去からその後の作業まで使うことのできる重機の開発を今もしているそうで、それが活躍しているわけです。
 
大変に有意義な活動であるのと同時に、そうした重機が必要のないように、地雷となるようなものを作らないようにするのは必要な事であるのは当然なのだと思うのです。
少なくとも、そうした兵器は想像だけで終わらせるのみに留めるだけの自制心も必要であるとも思います。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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