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2008年04月26日

競争を闘争にしないで【「ドラゴンバスター」(1985年 ナムコ)】

 人の心に魔物が住む…。
 
…と、その昔何かで読んだか聞いたかした記憶があります。本当に昨今の状況は、そう言えるのかもと思えるほど、世の中がざわついております。
日本もその渦中に巻き込まれていくのでしょうか。



 さて、今回は1985年に発売されました「ドラゴンバスター」です。

 主人公のクロービスがドラゴン山までの屋敷や山の中にある洞窟などを潜り抜けて、ドラゴンを倒し、お姫様を救うという横スクロールのアクションゲームです。
 
 
このゲームにめぐり合って最初に驚いたのは画面のきれいさ、そして音楽の多彩性でした。
 
レバーでジャンプすると言う部分になれるのに、時間がかかったのは仕方がない話なのですが(当時のゲームで8方向レバーになっていないテーブル形も多くあり、四方向型ではスムーズにジャンプしたり、かぶと割りなどの技を駆使する事が難しかったのです)、それでも繰り返しプレイしたのは、パソコンゲーム並みの楽しさがそこにあったからなのでしょう。
 
当時のテレビゲームの主流はパソコンでした。
 
色数が少なかろうと、音楽が乏しかろうと、ドットが荒いとしても、その画面から醸し出される雰囲気はプレイヤーを引き込むのに十分な要素を含んでいたのです。当時の業務用テレビゲームは、どうしても時間をかけてプレイするものから、如何に短時間に楽しめさせかつ、プレイを繰り返させるかという部分に移行し始めた段階でしたので、1コイン長時間プレイに命をかけていたプレイヤーが離れ始めた時代でもあったのです。
 
しかし、そうしたプレイヤーよりも新たなプレイヤーを獲得できた一番の要因は、やはり敵キャラクターの多様性・多彩性から来る戦略の重要性であるのでしょう。
 
それまでは攻めるというのは撃墜させる、逃げる場合にはとことん逃げるという二分された要素であったものに、自分の手持ちの武器や体力、そしてマップや敵の強さなどを加味した戦略的撤退まで視野に入れたゲーム性が出てきた最初の業務用ゲームではないのかと思うわけです。
 
もちろん、ゲームとして逃げるばかりでは先に進む事は出来ません。必ず、強敵と戦う必然があり、ここには如何なる戦術を用いるのかが決め手となってくるわけです。しかし、手持ちの武器で少なからずドラゴン用の必殺技おいうのがありますから、それを如何にドラゴンで使うようにするのか…言い換えれば、例えば中ボスであったとしても、本来の相手ではないモノに使わないようにするには…本当にこれだけで攻略記事が数ヶ月に渡って掲載できた時代でありました。
 
 
不思議なのは、クロービスの助けに行くお姫様。
 
幾つかのアイテムを獲得できれば、お姫様は助ける事が出来ます。でも、そこでクロービスの戦いは終わりではありません。また、さらわれたお姫様を助けに行く必要があるのです。その際にお姫様は衣装をどんどん変化(と言っても3~4種ほどでしたが)させていきます。
 
一体、何をしていたのでしょうかね?
 
ちなみにアイテムが揃わない場合は、お姫様は別のドラゴンにクロービスの目の前でさらわれていきます。
 
 
…そうです。実は、このゲームに勝利はありません。確実にクロービスの死亡=敗退で終了する哀しい物語でもあるのです。



 本日、北京オリンピックの聖火リレーがありました。が、なんでしょうか、あの騒ぎは。何のための聖火リレーであるのかわかりません。
 
聖火が悪いわけでも、オリンピックが悪いわけでもなく、それを国家掲揚であったり、人権問題であったりと政治に絡めるのが間違い…と言いますが、それは無理な話でしょう。何故なら、オリンピックで勝ちを取った人には、悠々自適の生活が待っているとする国が存在する以上、そこに国としての威信=国家間の争いが全くないとは言えないからです。
 
その昔…といいましても、本当に昔は民間からも参加の意志があれば参加できたのが、オリンピックであったわけです。
 
しかし、現状ではそうではありません。国の代表…これが平和の祭典として成り立っていると言えるものなのでしょうか。本当にこれが争いの火種にならないとは言えない。その事を、今までの歴史も教えてきてくれたはずなのですが…。
 
スポーツには国境は存在しません。プレイする選手に国境を課したのは、国そのものです。ただ、強い選手と正々堂々戦いたいという願いを踏みにじる権利など、どの国にもないと思うのです。
 
 
話がそれますけど、魔物と言う事で、記載し尚且つ今日あった出来事なので、これを記載しましたけど、思えば、Gガンの方がしっくり来る内容であったのかも。
いよいよ本番のときには…いや、それはまたそのときにでも、考えましょうかね。
 
 
でも、本当に全世界の選手が、その力を完全燃焼できるように、全ての人がバックアップをして上げれるように、世界をする必要があるのだなぁと思った出来事です。
 
今でも戦争が起こり、飢餓があり、病気に苦しみ、経済に苦しみ。
 
日本でもありえない自体が起こっているのは周知の通りです。日本だけが苦しいのではありませんが、しかし裕福であるわけでもないのです。世界を是正するあたり、戦争放棄を完全に成し遂げるにあたり、日本の役割は決して小さいものではないとも思うのですけどね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年04月19日

裁判員の責任をこう考える【「スカルマン」(2007年 フジテレビ/スカルマン製作委員会)】

 最近のニュースなどで一般の方の話を聞いておりますと、責任をは負いたくはないけど利権にはあやかりたい…そのような風潮が見えてきます。
 
例えば、税金は支払いたくはないが福利厚生は手厚くしてほしいとか、年金は支払いたくはないけど保障は手厚くして欲しいとか、ガソリン税は支払いたくはないけど道路は整備して欲しいとか。
確かに、無駄遣いをしているために、国の財政は圧迫しております。無駄遣いとは何か、それは収支支出のバランスが悪い事、そのものであるわけです。
 
また、一方ではニュースや報道バラエティ、一般の方まで含めて、事件の批評はしたいが、裁判員にはなりたくないというものがあります。
 
私たちの責任というのは、どこまで行うべきなのでしょうか。



 さて、今回は2007年に放送されました「スカルマン」です。

 第二次世界大戦後、それでも軍が存在する架空の日本。ある市で官僚や政治家、また女優が不慮の死を遂げる事件が多発する。その現場を目撃した人たちが口々に言ったのが骸骨男の存在であった。
 
事件の詳細を調べるべく、故郷に戻ってきた男・御子神隼人は叔父である黒崎の企業が、その事件に関わっている事を知ることになる。そして同時にそれは骸骨男の正体も知ることになる。
 
隼人の取るべき行動は善か悪か。それは骸骨だけが知っていた。
 
 
元々は、仮面ライダーのプロットであったものに、ストーリーを加味させた作品でありました。
 
しかし、その物語は決して単なる付けたしなどではなく、一人の主人公の苦悩を十分に引き出したものでした。また、彼は決してヒーローではなく、その本質はヒールであったというのも特徴的です。
 
そうした物語をテレビアニメにする際に、独自にアレンジを加えました。
 
例えば、主人公である御子神隼人、そしてその叔父である黒潮会長。これは前回紹介しました「空飛ぶゆうれい船」の名称から取っており、また、その配役も同じ様そうとなっている事がわかります。
 
更には、この最終回に驚くべき事がわかるのですが…この作品と平成版サイボーグ009はつながっていると匂わせる形で終わっているのです。
 
元々、石ノ森キャラは様々な作品に立場を変えて出てくる場合があります。印象的なキャラであれば尚の事なのですが、その作風すらもうまく使われたと言う事なのでしょう。
 
 
スカルマンのデザインは出渕氏がリメイクしたものですが、まるで加速装置のような力を発揮する際に口元のシャッターが閉じるシチュエーションは続編となる島本氏のスカルマンから拝借したものとの事。
 
それらを考えるにしても、本当にうまく出来た作品であると思うのです。



 裁判員制度、良い制度であると思うのですけどね。
 
既に今まででも、ネットやテレビなどで司法の批判を沢山行ってきたのです。それだけ、司法に関わりたいという事なのではないのでしょうか。少なくとも、そこに責任がないから言いたい様に言っているだけ…では、何も変わりはしませんし、何より意味がありません。
 
互いの記事を読んでおりますと、司法の経験がないから責任が持てない、だからこそ責任を取りたくはないという意見が大半ですが、本当にそうなのでしょうか。
 
例えば、殺人事件が起こりました。その容疑者が逃走し何日かしてから逮捕されました。逮捕後は尋問に対して素直に自白しているそうです。被害者は容疑者の知り合いで、よく一緒にお酒を飲んでいたそうです。その日も、一緒に被害者の自宅で飲んでいたそうですが、そのときに口論となり、逆上した容疑者が台所にあった刃物で、胸部を一突き。死因は出血性のショック死。容疑者はそのまま被害社宅から逃走し、逮捕された時には駅二つほど行った駅前のカプセルホテルから出てくるのを警ら中の警察官に任意で質問され、容疑者自身であることをその場で確認・逮捕となった。
 
…という、穴だらけでしょうがそんなシチュエーションがあったとします。今、この場でならどのような判決にしますか?
 
私ならば…でしょうが、あえて書きません。何故なら、このシチュエーションには先ほども言いましたが穴だらけであるから、条件付けまで記載すると莫大な量になるからです。そうした情報を得て、なおかつ、複数の裁判員、裁判長たちと話し合い結論をつける。これほど、民意があるのでしょうか。
 
強いて言うのであれば、この裁判員に関しての責任は、その後にあります。別に内容を話してはいけないとかそういう事ではなく、どうしてその事件が起きたのか、そしてその事件が自分の周りで起きる可能性があるのではないのか、それをしない・させないためにはどうすれば良いのか。私は裁判員になった方々が、こうした事を考え、出来ればその考えに基づき話、行動することが本当の意味の責任であると思っています。
 
確かにその容疑者のこれからを決める事であるのは間違いあありません。最近の冤罪という言葉も気になる事でしょう。しかし、そうした事も踏まえた上で、判決のための意見を出すという事に二の足を踏んでしまう事はないのです。
 
罰には罪。もちろん、その判決が間違いではないとするために、検察側のより柔軟な対応(例えば、取調べの完全可視化など)は必要になってくるわけです。
 
そうした事をしっかりと前向きに、政治家や官僚に向かって訴えて行く。死刑制度や量刑のあり方も含め、今の殺伐とした世の中には必要ではないのかと思うわけです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年04月12日

いざと言う時に【「空飛ぶゆうれい船」(1969年 東映動画)】

 先日、バスの事故で、高速道路を走っていたバスに、反対側から飛んできたトラックのタイヤにぶつかったというものがありました。最初の一報では、運転手は死亡とだけ言われていましたが、その夜、その運転手の方は、タイヤが飛び込んできた際に全身強打をしながらも、バスを端に寄せつつブレーキを踏み、サイドブレーキも引き上げて停まったとの事でした。
 
しかもその運転手さんは、サイドブレーキをしっかり握ったまま、命を落されていたとの事です。
 
これほどの職業意識の高い、まさにプロを見習い、もしもの時には同じ様な事が出来るのだろうかと思ってしまうのです。



 さて、今回は1969年に公開されました「空飛ぶゆうれい船」です。

謎のゆうれい船が出てくるという海。そこでは、黒潮コンツェルンの船ばかりが襲われると言う事件が起こっていた。ある日、父親とボートで遊んでいた隼人は、海岸の道路で交通事故を発見する。その車には黒潮コンツェルンの会長夫妻が乗っていた。その婦人が骸骨を見たという。
 
隼人と父は会長夫妻を、空き家で解放する。その屋敷で隼人は夫人が見たという骸骨を見る。しかも、その骸骨は明らかに黒潮会長を敵対する言葉を残し、隼人たちの目の前で空中に消えていった。
 
後日、隼人の住む町にゆうれい船の使いだとするロボット・ゴーレムが出現。町を破壊する。応戦する防衛隊であったが、ゴーレムの破壊力になす術もなく倒されていく。その中、隼人はビルの破片が当たり重傷を負った父と共に、自宅へ戻る。しかし、その自宅はすでにゴーレムに破壊され、母親も既に亡くなっていた。
 
病院に担ぎ込まれた父であったが、母の後を追うように息を引き取る。その今際の際に、実は隼人が実の息子ではない事を告白する。
 
一方、無敵と思われたゴーレムは、自身が使いであると言ったゆうれい船と対峙していた。圧倒的な力でゴーレムを破壊するゆうれい船。その模様をテレビで見ていた隼人は、疑問を感じた。だが、ゆうれい船がゴーレムを破壊した事に喜び、それを席を外し隣の部屋へと向かった黒潮会長に報告しにいくも、その部屋に黒潮会長の姿はおらず、ただ一つのイスがあるだけであった。
 
興奮気味の隼人がそのイスに座り、肘掛を叩くと、イスは床下に吸い込まれ、通路まで降りていく。そこにあったのは別のイス。そのイスに座り、再び肘掛を叩くと通路を進む隼人の目の前に地価兵器工場が現れ、そこにあの破壊さえたゴーレムが帰還したのだった。
 
そしてイスが辿り着いた先で隼人は重大な秘密を見ることになる。
 
 
久しぶりに見た作品です。実はNHKで放送した「とことん!石ノ森章太郎」で放送してくれたのです。
 
この作品の面白いと思うのは、隼人でもゆうれい船でもなく、敵ボスであるゴアそのものであったりするのです。ゴアの正体は最後の最後までわかりません。本当に色々想像できる状況が、映画の中にあるのです。その正体不明な敵に隼人はどのように戦いを挑んでいくのか。
 
当時の映画ですので、大変説明口調が激しいのですが、それでも話のつながりがスムーズではない点が幾つか見えます。まとめるには尺の問題があるのはいつの映画でも同じ事なんでしょう。
 
この映画を見た人が恐らく印象に残ると思われるのが、ボアジュースのコマーシャルソングではないでしょうか。
 
♪ごっくりごっくりこんと、ボアジュース♪という歌にあわせて、西部劇に出てくるようなバーの中で相対して二人のガンマンが次々とボアジュースを飲んでいくのですが、最後の一本を奪い合い、銃で互いを撃ってしまって。結局、天国にまで昇りながら、その一本を分け合うというブラックユーモアなものです。それだけおいしいと言う事を表現したCMであるという事なのでしょうが、作品内のテレビCMでありながら、実際にあったら飲んで見たいと思わせるできであったわけです。
 
実際に飲んでしまったら、ボア中毒で死んでしまうんですけどね。
 
今では恐らく作風として作ることが難しい映画ではないかと思います。それゆえに、こうした作品が新たに作られないものかと期待をしてしまうわけなんですけどね。



 驚きと共に、本当に残念な事だろうと、思ってしまいます。しかし、恐らくは薄れ行く意識の中で職務を全うしたという事に、尊敬するだけです。
 
自動車だけではなく、人はいざという時のために色々準備しておく必要があるわけです。例えば事故、例えば災害。この世の中で安全な場所を探したとしても、予想もしない状況に見舞われる事などあるわけです。
 
これは確かに運という言葉で片付けられる話なのかもしれません。どれだけ心配しようとも、防ぎきれない事なのかもしれません。ただ、人はそうした事が起こらないように出来る限りの注意を促し、そして払う事が出来るわけです。
 
ただし、あまりびくついていても仕方がありません。それでは動きが取れなくなってしまいます。
 
結果的にはある程度の覚悟というのは必要になってくる事なのでしょう。ただ、それを日々持ち続ける事の困難は確かにあるような気がします。
 
 
これから車などで遠出をする機会も多くなってくる時期になりました。
 
せめて自分が加害者にならないように、気をつけて行きたいものですね。お互いがそう気をつけていれば、不注意による被害は減らせるものと信じております。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2008年04月05日

何事も単純明快に【「ワルキューレの冒険 -時の鍵伝説-」(2006年 バンダイナムコゲームズ)】

 昔より、どんどんと複雑になっていく世の中…このフレーズ、かなり昔から使われていたように思えるのですけど、最近は頓にそう思うようになってきました。
 
…が、振り返れば、本当に世の中が複雑になっているのか…ちょっと疑問です。



 さて、今回は2006年に配信が開始されました「ワルキューレの冒険 -時の鍵伝説-」です。

 紹介している画面のものはiモード用。しかし、自分が遊んでいるのはソフトバンクのもの。見ると少し画面が違いますね。
 
非常に懐かしいし、大好きなゲームであったので、即効でダウンロード。まず、気になったのが、コンティニューはどうなっているのか!という話。実は、この索引、最初にでたファミコン版の時にはコンティニューが英数文字の入力だったのです。当然、自動で記録してくれるという時代でもありませんでしたし。
 
でも、そのおかげで、ちょっとしたウラワザが使えたりしたのです。今回はそれが出来なくてちょっと残念。
 
また、ケータイ用のノーマルモード。昔懐かしいオリジナルモードの二つで遊べるのが嬉しいですね。音楽も、オリジナルとケータイ用の二つが自由に選べますし。
 
でも、一番変わったのは、やはりワルキューレをはじめとするキャラクターの容姿。こんなに小さな画面なのに、ファミコン版より数十倍かわいい。これは遣り甲斐がありますねぇ。
 
始めたばかりなので何が違って、何が同じなのかわかりません。でも、それはそれ。やっていく内にわかる事でしょう。
 
いずれにしても、こうした懐かし新しゲームがイッパイでている中で、思い入れのあるゲームが出てくれるのは本当にうれしいものです。
 
一応、ワルキューレシリーズとしては冒険、伝説、そして栄光があるそうですが、徐々に制覇していきたいものです。
(これを書いた後でわかったのですが、ソフトバンク関係には冒険はなさそうです。いつかリリースしてほしいものですねぇ)



 昨今の年金問題にしても、今度の高度老人保険制度にしても、そこまで難しく考える必要があるのかと思ってしまいます。こうした難しく考える要因はすべて、政界・財界の方々の小難しい言い回しに原因があるように思えてなりません。
 
こうした文章を記載するのは、確かに言葉が好きでだからのですが、さりとて難しい言葉を使う事が良い事であるとは思っておりません。むしろ、本当に自分が理解している言葉をつむいでいく方が人には伝わりやすいものです。
 
ニュースでも良く使われる言葉になったコンプライアンス。日本はカタカナ文化は存在しますが、決して英語圏で暮らしているわけではなく、独自の文字文化があるわけです。つまり、コンプライアンスではなく法令順守とすれば、よりイメージしやすい言葉になるのではないのでしょうか。
 
言葉や文字というのは、相手に自分の意向を伝えるものです。
 
こうした言葉を好んで使う人に限って、若者文化がわかりづらいと文句を言います。ですが、決して今の年寄り文化がわかりやすいかといえば、そうではないのです。そして、その方々が若かりし頃には同じ様な事が言われていたはずなのです。
 
なにより、そうした時代を自分たちが進んでいながら、より難しく考えより難しく実行しようとするのは、おかしな話ではありませんか。
 
暫定税率にしてもそうです。暫定…とりあえずのという意味のものが既に何十年。そして更に何十年と続けて行きたいとしている。とりあえずのものにそれだけ依存しているから、税金の使い方における是正が出来ないと考えられないのでしょうか。
 
道路財源として徴収したものを他のものに使用しておきながら、法律的には問題がない。おかしな話です。実に単純ではない。
 
こうした言葉を単純明確にしないままで、どうしてそれを施行する際に単純に出来るのでしょうか。
 
 
今まで上記で使ってきた単純というのは、決して中身のないものではなく、中身を吟味し精査し、その上で明確にするものであると言う事です。つまり、無用に難しいものというのは、その実、中身が存在しないという事でもあるというわけなのです。
 
見直すべきは見直し、存続するべきは存続させ、新設するべきは新設し、廃止するべきは廃止する。
その理由が明確であればあるほど、説得力も増し、結果、自己の利益になるとは思わないのでしょうか。
 
目先の状況に振り回されるようでは、望むべくもないのでしょうが、その狼狽が最もわかりやすいというのも皮肉であると言えばそうなのかもしれません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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※2009年4月19日 19:00より開始

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