年間に犬や猫が処分される件数、実に10万件に届こうとしている勢いです。実際には8万件強でありますが、昨今のペットブームでその勢いは恐らく止まることを知らないのではないのでしょうか。
一方で死刑廃止国際委員会が今年はどこでしたっけ。どこでも良いのですが執り行われており、そこで未だに死刑制度を廃止しない日本を始めとする国を批判し続けています。それはどうしてか、もちろん、人権を無視した蛮行であるというのが彼等の主張です。
さて、今日は毒を吐く事を決めました。それは何故か。死刑を廃止する云々の前に、まず自分たちの立場を見てみようという事です。
私は恐らく一日に2合ほどの米とそれに見合ったおかず、更には水分を摂取して生きています。言い換えれば、それだけの物に生かされていると言う事です。当然、何かしらの問題、つまり食せない状況ではない限り、残さないように気をつけて食しています。それがいかに自分に不味い場合であってもです。
ですので、最初から食べれないものを明言することにしています。その食材が無駄になってしまうからです。これらは勿体無いからという理由だけで行っているわけではありません。その食物が無駄死にであるからです。そして、こうした事は少なくとも私は私の周りまでにしか影響を与える事はできない事です。
私はどれだけの命を、その足の下にして生きてきたのでしょうか。
さて、今回は2005~2007年に発売されました「鴉 -KARAS-」です。

東京。そこには既に昼も夜もなく、まさに不夜城の如き世界が繰り広げられている。しかし、そこに住んでいるのは、何も人間だけではない。闇夜の住人である妖怪もまた、その都市に住んでいる住人である。
彼等は決して人を襲いはしない。ただ、自分の存在を知ってほしいだけ。そして、人が人だけではない、生きていく為の感謝の心をなくして欲しくはないと願っているだけであった。
だが、それも一人の男によって変わっていく。それはかつて、この街を守り続けていた男が起こした反乱であった。
妖怪は機械化され、そして人を襲い続ける。それは都市伝説のように街の中を侵食し続けていく。そんな中、恐らく人であろうと思われる男「鵺」が東京に降り立つ。同時に、街に新たな守り主が降臨する。
その名は乙羽。この街を守護する新たなる鴉であった。
タツノコプロ40周年を記念して作られたOVAがようやく最終巻まで発売される事になりました。全6巻・各1話ですが、CGが見せる迫力のある映像と、ストーリーの持つ悲しさが良い感じで混ぜ合わさっている作品ではないかと思います。
この根底にあるのは、あくまで人は人だけで生きているわけではないと言う事。そして、人は人だけで今日の繁栄を成して来たわけではないと言う事。これらは案外、忘れられている事でもあります。
完全懲悪のストーリー…ではなく、いわゆる敵となった相手にも、危機感や焦燥感を覚える事があっての行動であるというのがしっかりと書かれていましたし、その危惧は何も彼等を倒して終わりではないという事。更に言えば、このストーリーにおける人という存在がその事をしっかり考えて行動している事まで盛り込まれた、特盛のような濃い話でありました。
キャラクターの描写にはかつてのタツノコを思わせるような、それでいて、不自然に思わせないようになっていました。見ていて懐かしさも感じました。
懐かしさと言えば、背景も今の東京というよりも、もし、明治・大正っぽさをそのまま残してみたら、とういうような感じの東京になっていて、今のような鉄骨!コンクリ!という硬いイメージではありません。しかし、それが妖怪というものを加味してみたら、しっかりしっくり来るわけで、流石としか言い様がありません。
結果的に言えば、6巻を見れば大概の話は理解できます(つまり風呂敷は畳まれます)が、それまでの話がそこにつながる上で何か必要であったか…という疑問は残ります。特に4巻の話は少し、説明不足のまま暗転が連続したために、時系列を理解することが難しいような。結構、きわどい話であったのは間違いないんですけどね。
また、最初の巻では鴉が闘うシーンに関しては、CGが使われ、効果的であったと思いますが、その速度を表現使用としすぎて、また、暗闇の表現が行過ぎて見難かったという印象しかなかったので、折角の戦闘シーンが…勿体無いと思ってしまうわけです。音楽も盛上げるのに十分なものであっただけに残念です。
少し不満はあるものの、しかし、40周年の作品としては十分楽しめるものではないのでしょうか。特にこれまでタツノコプロの作品を見てきたオジサン・オバサン諸氏に見ていただきたい作品でありますし、若い方にはこれが老舗の実力だということを見て欲しいものです。
死刑廃止、それは多いに唱えていただいて結構です。主義主張は当然の話です。しかし、ならば犬や猫などの人以外の動物の命を不用意に切り捨てている人に対して、どのように命の大切さ、言ってしまえば今まで行ってきたであろう不道徳を教えていくのかを示してもらいたいものです。
死刑に反対する人の意見でこういう言葉がありました。
「死刑を実行する人の気持ちを考えれば、それは惨いことだ」
では同じように言いましょう。
「処分するために、一つのボタンを押す行為。それは惨い事だ」
グリーンピースという団体がいます。彼等は日本の捕鯨に反対しています。その理由は、鯨などは頭の良い動物であり、食す事は蛮行である。食べ物ならば牛・豚がいるではないか。
いいえ、命というものに上下はありません。全て等しい命であり、その搾取によって生き長らえる事しか出来ない私たちは、その意味をもう一度考えてみるべきなのです。主義主張は結構。しかし、そのためにそれ以外の命を軽んじる発言は絶対に認めないし、理解も出来ません。
毎日のように、処分=死刑にさせられている命がいる事を全ての人たちが知るべきです。その同じ口で人権や一部の命の事のみを話す事が、どれだけ狭窄した世界であるのかを心の底から理解するべきなのです。
人の命だけが尊いのかどうか。もし、この答えがYESであるのならば、この世界から争いが消えることはないのでしょう。それは突き詰めていけば人とは誰なのかという方向に進んでいくからです。
同じように、命とは何ぞや。
全ての命はいずれ亡くなる運命にあるわけですが、それを自由に出来るから人は万物の霊長と呼ばれているわけではないのです。また、生きる権利は何も人間のみに与えられた特権ではないのです。その上で、何故死刑が存在するのか、または存在しなければいけないのかを議論するべきではないのでしょうか。
命とは何ぞや、思うにそれは繋いで行く物であると私は考えます。故に、無為に途切れさせる事が有ってはならないわけで、その行為には何かしらの意味があるべきであると考える次第です。
私たちはあらゆる物に生かされている事を知るべきです。それは宗教でも哲学でもない、実に単純な原則であるのですから。
ちなみに、私は死刑制度を反対していません。何故なら、相当する罰は受けなくてはならないわけです。しかし、死刑は殺人である事に間違いはありません。ならば、死刑となる事件を起こしてしまった事、そうした世界にした事に反省を促すべきであり、そのために死刑となった命を忘れてはいけないと思うわけです。
更生もしくは監視が完璧に行えるようであれば、死刑は廃止するべきでしょう。しかし、そうではない日本では、今、死刑を廃止しても何のメリットもありません。単に死刑を免れる口実を作るだけになるわけです。
よって、今の日本の現状では死刑廃止は早すぎると言っても過言ではないと思っています。
そんなこんなで本日はここまで。



