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2007年09月30日

苦手を克服できないからと言って…【「未来忍者 -慶雲機忍外伝-」(1989年 ナムコ)】

 知人と話をして、あ、これ話として良いかも…と思いましたので、今回はその話をば。

 アニメ、特撮、小説、ゲーム。作品を発表する中で、こうした区分けというのはどうしても出てくるものです。こうした各媒体で見ていて面白くないと感じている人も少なくは無いのでしょう。

例えば、特撮は苦手とか、アニメは苦手とか。そうした話を聞いていると、面白くないその原因は「白々しさ」に我慢できないというものらしいというのが分かってきました。それは一体どういうのかといえば、つまり、堅く書いてしまえば、正視できないというものです。

この話の前提として、その媒体の作品である事を否定する事は含まれません。作品としての批判ではなく、単なるその媒体では見る事が出来ない場合と言う場合にです。

私にも経験があるのですが、嫌いというより、苦手としている分類がるわけですが、その関係の番組を見るたびに「ぎにゃぁぁぁぁぁっ!」と叫び倒したくなります。それは、気恥ずかしくて堪らないわけです。その事を知事に話した際、「わたしは特撮がそうだわ」と言われました。

そう考えると、いわゆる物語としての嘘=白々しさがどうにも我慢できなくなるからこそ、苦手としている…という事が考えられるようになるわけです。


 さて、今回は1989年に発売されました「未来忍者 -慶雲機忍外伝-」です。

 ナムコシステムII基板の第3弾として登場した、近未来を舞台とした忍者アクションゲーム。 ロボット忍者・白怒火(しらぬい)を操作し、剣と手裏剣を武器に、森・都会・山・洞窟などを回りながら機忍軍団と戦い、サキ姫を救出する…というものですが、この作品、実はゲームだけに留まるものではなかったのです。

同年、同タイトル(正確には「慶雲機忍外伝 未来忍者」)でオリジナルビデオ作品として発売されたものですが、その内容は根本=サキ姫を救出するものとしては同じなのですが、その道中があまりにも異なるものでした。

ゲームの方は基本的にはアクションシューティングゲームで、主人公の白怒火を操作し、現れる敵を倒して進んでいくタイプのもので、様々なアイテムが出てくるのですが、操作はかなりシビア。明らかに初心者向けには作られていない…というよりはオリジナルビデオ作品に便乗させるような形での発売となったわけです。

ただし、音楽はかなりの評判であったらしく、映像作品のサントラと一緒に一枚のCDとして売り出されたのですが、結構、遜色なく楽しめるものに仕上がっていました。


 オリジナルビデオ作品の方は、別の機会にレビューするとしまして…といいましても、かなり特徴のないゲームであるのは間違いなく、また、褒める部分も少ない、かといって、貶す部分もない…空気のようなゲームであった印象が拭えません。

ステージ数は全部12。残機数ではなく体力メーター(これもオリジナルビデオ作品の方では気力メーターとして使っていたはず…)となっており、それが0になればゲームオーバーになるものです。

基本的には覚えていけば先に進めるパターンタイプのゲームですので、自然にお金を投入する機会が増えていくわけですが、それだけリピートが高かったのか…それはわかりません。


 個人的に言えば、面白い面白くないではなく、あればやっているゲームでした。ワンコインでどこまでいけるのかを試すと言う意味では、立派なシューティングとしての要素があったと言えるのでしょう。そうやって楽しんでいる人が多かったような気がします。

ただ、オリジナルビデオ作品の中にあった様々なアイテムや乗り物など、もう少し、そうした要素を取り込んで欲しかったというのも事実であり、今ならそうしたアイテムを取り込んでくれているのだろうと思いつつ、それでも、そうしたアイテムを取り込んでしまうと、よりつまらなくなってしまうような気がして、何とも微妙なバランスの上に立っているゲームであると再認識しました。


 様々な媒体で一つの作品を紹介し、相乗効果で売り出す=マルチメディアミックスは最近では当然のように使われている手法です。それにおける弊害は、一つに他媒体における作品の変化が最ものような気がします。つまり、雰囲気の変化というものです。

原作にこだわる場合(それがどの媒体であろうとも)見た場合のは批判は凄まじいものがあります。言い換えれば排除行動です。ただし、中には原作となった媒体を知らずに別媒体を始めて見たという人も大勢いることでしょう。そうなると、原作の方に違和感を感じるのは当然の話です。


 これは作品の白々しさというのにも通じるもので、よく起こる現象です。ただし、考えてみれば、その原作における表現はその媒体を基準にして考えたものである以上、それを別媒体にする際には、やはり違和感が出て当然なわけです。よほどうまく作っていたように見えても、全ての原作ファンを喜ばせると言う事は、場合によっては新規顧客が獲得できない可能性も出てくるわけです。


 こうして考えると、媒体とジャンルの白々しさが掛け合わされればそれだけ、得手・不得手の作品が出てくるのも当然の話。不得手=排除にならないような楽しみ方を見つける事が一番、楽しい事ではないのかとも思えてくるわけです。何せ、時間が過ぎれば苦手としたジャンル・媒体も見れるようになってくるかもしれませんし。そうなった時に変な先入観=嫌いという事で楽しめなかったらつまらないですから。

苦手な場合は苦手と認めたうえで付き合っていくのも良い事かもしれません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年09月23日

新交通と新都市【「新世紀エヴァンゲリオン(TV)」(1995~1996年 GAINAX/テレビ東京)】

 リニアモーターカーを名古屋に止めよう!…志は分かるのですが、無駄のような気がするのは地元に住んでいても感じる話です。その一番の理由は、現行の新幹線で十分じゃない。東京まででも2時間弱、大阪でも1時間強。おそらくリニアで東京~大阪であれば1時間強~2時間ほど。途中でわざわざ止める必要があるのかしらと考えてしまいます。

例えば、1時間に5本走っていたとして、その内の1本が止まるというのであれば、九州まで、また東北までという長距離の移動には便利な事でしょう。あくまで東京から大阪に限定する可能性があるのならば、その1本もいるかどうかと思ってしまいます。

便利なものであるから、目新しいものであるから、だから、人が集まるという前時代的な発想はなくした方が良いと思うのですけどね。


ただし、新しい都市を作るというのであれば、それは候補地に入れる必要があると思うのですが、ではその候補地というのは何なのでしょうか。


 さて、今回は1995~1996年に放送されました「新世紀エヴァンゲリオン」です。

 もう、通常のレビューはいらないのではないのかと言われる作品の一つです。

 簡単にストーリーをば。2000年に起こったセカンドインパクトという大災害後に生き残った人類に対して脅威として降臨する使徒。それを迎撃するために作られた戦闘都市「第三新東京市」。そして、決戦兵器として存在するエヴァンゲリオン。そのパイロットに指名されたのはいずれも14歳の少年少女であった。その一人、碇シンジは、自分の存在に悩みつつもエヴァンゲリオンに乗り、使徒を迎撃していく。しかし、その行為が何かに操られたものである事を知る由もなかった。そして、人と人の境界が崩れ…。


…と、簡単には記載できない濃い内容の作品であったと再認識。上の記述も間違いではないのですが、短すぎ。そして、一番の問題としては本質を語りきれていないと言う事にあるのです。

ただし、この本質と言う問題は、TV版に関して恐らくは監督であっても語りきれないであろうという事は、最終話を見れば理解できるのではと思います。まとめきれなかったと言うよりも、スタッフ内での論争があったのかな?という感じを放送当時印象として受けました。(※実際に何かしらの問題が多発した作品と聞いたのは、後日の事)

物語の根底にあるのは、宗教的思想・哲学的思想であるのは受け止められるのですが、それを絵文字にするのが難しいという作品であります。


 当然、個人的な好き嫌いというのも個人のレビューである以上、加味されていくものですが、この作品はどちらでもないと言うのが自分の中における正解であると思うのです。その理由としては「未だ完結をしていない作品であるから」。好きも嫌いも決められないのです。好みか苦手かは区別できますけどね。

テレビにおいては26話。映画を二回公開し、今、新たに三作目(正確には三作目群)を公開中、更には漫画も連載中というこの作品。いずれも完結までには至っておりません。確かに、映画では完結したかに見えましたが、何を言いたいのか全く理解できない…いえ、出来ていない状況では完成したと言えるはずも無く、結果三作目の制作に取り掛かったというのが背景にあるのではないのかと思う次第です。

TV版に至っては、大きく広げた風呂敷をたたまないままで終わった事についての賛否両論が当時噴出してきたものですが、もし、それを無視し、なおかつ映画は全くの別物として製作していたら、それはそれで評価できた事でしょう。


 作品中では「何かを行うと何かが終わる」という雰囲気を匂わせてきました。それぞれの立場によって匂わせてきたのです。でも、匂わせた割には、その匂いが消えることなく、ただ蔓延しただけ…それで、映画版でその匂いはコレですよ~と種明かししたつもりであったのが、実は少し分量を間違えていた事に気付き、再度、訂正してみた…。

これはアマチュアのやる趣味でならば許される事でしょう。ただし、本編はいざ知らず、その周りは爆発的に商品が生み出され、多額な利益を生んでいきました。その点に関しては、昨今のアニメなど足元に及ばないほどの評価が関係各所では、なされている事でしょう。関係各所ではね。


 そういう意味では、今回公開している三作目関係にはある種の期待があります。どのようにまとめるのか。作品である以上、それは製作者の命題であるのは間違いない話なのです。

混沌であるなら混沌として、慄然とするのであれば、整然とするのであれば…様々な言葉はありますが、今、TV版を見直し、二作の映画版を見直し、そして今作品を見る。そうした見方も場合によってはありではないかと思うわけです。

少なくとも、個人的感想としては、新作一本目を見た感想としては、TV版は見ておくべきであろうと思います。何故なら話がつながらないから。漫画版でも十分に補完できるとは思いますけど、全く予備知識を持たずに見るのは辛いだろうなと思いました。


 長々とそれてしまいましたが、実際この話、26話で完結できるような話ではないのです。恐らくは32~35話ぐらいまであって、完結できるような話ではないかと。一年やるには間延びするが、半年では短すぎる。そんな物語のような気がします。

話のつかみとしては大変、面白い作品で好みの分類と言えるのですが、それに関わる人間模様は思わず苦笑するしかない状況でありました。当然、知り合いと喧々諤々と話をしていったわけですが、今思えば、コレは既に製作者側の思惑にどっぷり浸かっていたのかと思う節もありました。

正確には製作者側といっても、完全に制作している人たちの思惑ではないのですけど。

でも、不思議な事にグッズには手を出しませんでした。LDとプラモだけかな、ムック本には手を出さなかったのです。ソレは何故だろうと考えてみれば、「設定はテレビを見ていれば分かるから。人物の心理は読解するものではないから」。

案外、親切な作りであったのですね。設定は見ていれば100%とまで行かなくても楽しむ分には理解できますからそれで十分。そして、登場人物の心理など、自分で考えてみるべきものですから解説などで理解する事など物語としてあってはならないわけです。それを汲み取れるように制作するのが物語というものですから。そういう意味では見事であったと思うわけです。

ただし、それが製作者の能力を超えた結果もこの作品では見せてくれたわけで、それが終盤も終盤、残り二話に言える事であります。

その結果が未完成の傑作を生む原因になったのは否めません。思うに、こうした作品の締めというのは、本当に難しいものです。言ってしまえば、何十年、何百年とかかって作られるはずの神話を一ヶ月で完成させよと言っているようなものだからです。しかも、多くの人の手によってではなく、極限られた人の手によってです。

決して、この作品に携わった方々が才能不足であるわけではないのです。作品がその才能を超えてしまったと言うだけの話です。言い換えれば、関係した人々の経験不足によって完結できなかったと言えるのかもしれません。つまり、当時という時代においては早過ぎた名作であったと言えるかもしれないわけです。


 今回記載した作品には東京は存在しません。今の日本では考えられない話ですが、しかし、それが現実に起こらないとはいえない状況でもあります。言い換えれば、絶対に存続する保証などどこにも無いといえるわけです。当然、これはどこの場所にも言える話ですが、しかし、東京の問題は日本の機能が一極集中しすぎている点にあります。

政治・経済がこれほどまでに集中している国を私は知りません。確かに、日本という国は狭いわけですが、今、地方格差も出ている関係上、何かを移動させる必要はあるのかもしれないと思うのです。

経済の移動はまず不可能でしょう。それを行うための労力も資金もありはしないのです。しかし、政治というのはどうなのでしょうか。

例えば、次期新幹線であるリニアモーターカーの停車駅を長野付近にしてみる。そこに政治の中心を持ってきてみる。地震・台風の被害に遭い難い場所であれば、それだけ日本が危機的状況であったとしても、機能が損なわれる事はありません。何より、富士山が噴火した際に、その火山灰は東京方面に流れる予測もされているわけです。そう考えても、かなり良い場所であると思うのです。

何より、過疎に悩んでいる村に資金が流れていく事になります。地盤も整備されていく事でしょう。更に言えば、そうした緑の中での政治はこれから重要視される地球規模の環境問題に目を向けるためにも良い環境ではないのでしょうか。


 乱暴な話ですが、しかし、こうした構想はあっても良いはず。何も東京だけに全てを集中させ、そこが壊滅してしまっては意味がありません。豪雨や豪雪で不便になるような場所なのです。無理に留めておく必要もないと思うのですけどね。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。


2007年09月16日

日本が頓挫したわけですが【「宇宙戦士バルディオス」(1980年 、葦プロダクション/国際映画社)】

 こちらも時事ネタで総理総裁選の話…ではなく、その影響で環境問題の話が出来なくなったというお話を。

京都議定書に始まる地球規模の環境問題。詳しくは、記載しませんが、その動きは緩やかな放物線を描くように加速してきています。あの、アメリカに中国もようやく足並みを揃えてきた…そんな矢先に日本の首相が辞意を表明。何を考えているのかと非難轟々の中、当の本人は入院いたしました。

ソレはともかく…ではなく、これは一大事な話。例えば今後行われる洞爺湖サミット。その前不利とも言える会合が行われるも、それに日本が出席できる可能性などなくなってしまったわけで、これで日本は京都議定書の件がありながらも、そのアドバンテージを失くす可能性が出てきたと言えるわけです。

さて、失くす、と言うのが言いすぎなのでか、そうでないのか。それは今後の行方を見れば判る事ですが、それよりも、アドバンテージをなくした場合、日本にとって何が不利になるのか、そこら辺を話してくれるジャーナリストや専門家が皆無というのはこれ如何に。


 さて、今回は1980年に放送されました「宇宙戦士バルディオス」です。

 S-1星。長く戦乱の中にあったその星は、もはや人の住めない星になってしまう。しかしそれでも、惑星再生をするために軍部への戦争締結を働きかけ、尚且つ、環境改善システムの開発をしていたレイガン博士は、惑星移住を強行した軍部の凶弾によって倒れてしまう。そして同時に、惑星移住と共に、全宇宙の掌握を目指していた軍部の最高権力者ガットラーは、ついに航海の旅路へと出発する。

父であるレイガン博士を殺されたマリンは、遺品ともいえるパルサバーンに乗り込み、軍部より逃亡をする。

亜空間ワープを使い、逃亡したその先にあったのが、太陽系第三惑星地球であった。その青い星を目にしたマリンは、必ずガットラーが狙ってくるであろうと思い、地球へその危機を知らせに行く。

しかし、彼に待っていたのはスパイ疑惑であった。

投獄された彼を待っていたのは、全てを取り上げられ、監視の目にさらされる辛い日々であった。それよりも、この青い美しい星がガットラーの手によって破壊され、奪われる事を恐れたマリンは、叫び続けた。信じてほしいと。


 その彼の言葉が真実となるのに、それほど時間がかかることはなかった。ついに、世界連盟軍の防衛組織ブルー・フィクサーが動き出す。しかし、その戦力差は圧倒的なものであった。

そこで、エラ・クィンシュタイン博士はマリンの乗って来たパルサバーン。ブルー・フィクサーに実践配備されていた、ジャック・オリバーの乗るバルディ・プライズ、北斗雷太の乗るキャタレンジャーを改造し、合体できるようにした。その合体した姿がバルディオスである。

バルディオスにはそれまで地球にはなく、またS-1星軍の科学技術である亜空間ワープが使える。これによって後手に回っていた戦闘を回復できるようになると思われていた、が、それほど順調に物事は運ばなかった。

度重なる戦いは確実に地球を破壊していく。その事に心を痛めるマリン。そしてその戦いもついに終わりを迎える…その驚愕な真実と共に。


 今、リメイクすると大変面白い作品になるのではないのかと思う作品の一つが、宇宙戦士バルディオスです。

テレビ版では視聴率の関係上、打ち切りになりましたが、その補完は劇場版でなされました。それでも、一応の完結を見れたのはいいことなのですが、やはり尻切れ的な印象派拭えません。今でなら26話で立派に完結できるリメイク作品として作れるし、何より、その内容的にメッセージ色の濃いものが出来そうで面白いのですけど。

 この作品のテーマは、愛・自然・後悔・涙ではないかと思います。

人と人との確執。相互理解の難しさ。裏切り、妬み、嫉みといった負の感情が表に出てくると思いきや、それを覆い隠すような、友情、愛情、信頼。そして別れという本当に思い返しても重いストーリー展開であったと思います。

何より、結果的に人は救いがない生き物なのかと思わせたのが劇場版の最後。ストーリーの流れから恐らくそうであろうと判っていた事ですが、それを覆さなかった演出に唖然としたものです。これは決して悪い事ではなく、やはりやってはいけない事だという意味からも下手な救いの手を差し伸べなかった英断とも言える演出ではないのでしょうか。


 一見すればスーパーロボット、しかし、中身はリアルロボット並であった作品とも言えるような気がします。


 どうやら…という推測ですが、アメリカさんは宇宙に逃げようとしたい気持ちでいっぱいの様子。あわよくば、月と火星の資源を自分の物に出来れば万々歳といった所でしょうか。これは中国も一緒なのでしょうが、一日の長と言う事で、アメリカさんには早々追いつけるものではありません。

さて、日本はどうかと言えば、実は恐らく作れるだけの技量はあるのでしょうが、それを飛ばす場所に乏しいのが現実。それも言い換えれば、その今の位置から飛ばせればとんでもないロケット製造の技術が手に入れられるということです。


 …はい、未来の話はここまで。現実に戻りましょうか。今の世の中、昔の環境と比べれば衛生面で格段に進歩したようですが、それによる弊害も出てきたようで、それがアレルギーにたいする抵抗力と言う形で蝕み始めているのかもしれません。同じように、地球上も区画整理という名の元に開発を進めて言った結果、どうやら体調を崩されたご様子。

その証拠に日本から四季がなくなり始めており、場合によっては熱帯地方特有の気候まで出てきそうな気配。

こうなりますと、マラリアにコレラなんていう教科書でも見られなくなったような伝染病がはやる可能性もありまして、抵抗力の低下している場合はポックリと逝ってしまうかもしれません。

さて、これは脅かしずぎだと思いますか?

今までの歴史では、現実になっていない事を「気にしすぎ」「考えすぎ」と嘲笑してきました。また、「なってから考えればいい」「起こってからでも遅くはない」そんな意見も聞かれました。

では質問です。地球上の緑が何らかの要因で一気に、酸素を吐き出しました。通常の数百倍の酸素です。これで地球温暖化は解決になったのでしょうか?

温室効果ガスの一つである二酸化炭素。それを光合成して酸素に変えてくれるのが植物です。となれば、それは温暖化防止にもなるし何より酸素は動物にとっても必要なものであるから大丈夫じゃない…残念ながら間違いです。

推測の域を出ませんが、地球上の酸素が急激に上昇した場合、人間は即効で中毒になる危険があります。場合によっては死に至る危険性もあるのでしょう。簡単に言えば、行き過ぎは毒と言う事です。何より、そんな植物の行動は異常事態の何物でもありません。ですが、それを打開する手は何一つ持っていないのが現状です。

だからと言って、その打開策として木を打ち倒し、燃やし、全てを失くすとした場合。それは人間…いえ、全ての滅亡を意味します。未来などなくなってしまうのです。


 過去があり、現在があり、未来がある。では、この中で重要なのはどこなのでしょう。経験として蓄えられた過去?それとも、これからの希望とする未来?いいえ、現代です。どれだけ知識があろうとも、それを揮えなければ無駄なものです。今がしっかりしていなければ未来へ進むことなど出来るはずがありません。

環境問題は決して蚊帳の外で良い問題ではありません。常に身近な問題としてあるべき事柄であるのです。


というわけで最初の京都議定書に関係する話で締めるとするのならば、議員の方々には身近な危機である事をより深く理解し、だからこそ、さっさと自分の票の獲得数だけ数えるのは辞めにして、しっかりとした政策を打ち出し、かつ実行してもらいたいものです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年09月09日

愛されるバカになろう【「コヨーテ ラグタイムショー」(2006年 coyote project)】

 最近の政治家さんや官僚さん達の言い訳三昧。聞いていて情けないと言うよりも可愛そうに思えてなりません。何をそこまで守ろうと必死なのでしょうか。

今やテレビの時代です。もっと言えば、マスコミによって扇動されかねない時代であるわけです。先週記載したマックスヘッドルームのような世界が来ている実感があります。そこに、あの言い訳三昧です。当然、若者もその映像をしっかり見ているわけです。すると彼等はそれを真似します。それは当然でしょう。御偉い方があのような発言をすれば、それが正しい正しくないではなく使えると認識するのです。使わない手はありませんからね。

その生き様を見て、どう思うのか。それは意外に自部が考えるよりも影響のある事なのです。それを彼等は知っているのか、甚だ疑問であるわけです。


 さて、今回は2006年に放送されました「コヨーテ ラグタイムショー」です。

 ジョン・スミス、フレデリック・ゴンドーフ、レイ・モスキン、リチャード・フィリップス…それはただ一人の男を指し示す名前である。彼に憧れるコヨーテたちは、親愛の情を込めてミスターと呼ぶ。

宇宙を舞台に暴れまわるロマンチストなエゴイスト。それがコヨーテと呼ばれる者たち。彼等が愛するのは酒と仲間とスリル。その結果に金が付いてこれば申し分のないその日暮らしな連中であった。

そんなコヨーテの中でも伝説と言われるのが、海賊王ブルース。彼が攻略不可能とされたセントラルバンクから強奪した100億ドルが、ある惑星に残っているという噂がある。その惑星はグレイスランド。戦争末期でありながらもこう着状態。政府が決着させるための秘策として光子爆弾を撃ち込もうとしている惑星でもあった。

そんなニュースが流れるなか、交通違反でサンドウィルに服役中であったミスターを連れ出しに、仲間であるカタナ、ビショップはやってくる。同時に、ミスターを追い続ける選任捜査官のアンジェリカもサンドウィルへと降り立った。さらに、ミスターを付け狙うギルドの戦闘部隊、マダム・マルチアーノの12姉妹までもがやってくる。

刑務所内から炙り出そうと12姉妹が暴れる中、全員の眼前に不適な笑いと共に現れたミスターは、アンジェリカにある策を使うと言う。しかしそれは眼前にその姿を見つけながらも、見逃さなければならないという選択をアンジェリカに突きつけるのと同じであった。

結果、ミスターはサンドウィルより逃走。古巣である海賊亭というバーに戻っていく。そこには店を切り盛りする少女、フランカがいた。彼女こそ、海賊王ブルースの娘である。

ブルースがマルチアーノに殺された際に引き取ったミスターは店を与え、生活させていた。根っからのコヨーテであるミスターは店にいる時間も少なかったが、それでもフランカを大事に育てていた。

店に戻ったミスターたち。それを待っていたかのように、12姉妹が強襲に来る。そこで、ミスターはフランカに尋ねる。ブルースの残した遺産を見に行かないか…と。フランカも当然それは大金であろうと言う事は理解していた。しかし、それが何かは自分の目で確かめろとミスターは言う。

自分の存在をブルースの娘だから、遺産の隠し場所が記載されているだろうペンダントを持っているからを思っていたフランカ。12姉妹に強襲され、逃げ場がなくなった時、ミスターは言う。

コヨーテは家族を裏切らない…その言葉がフランカに決意をさせる。かくして、ミスターたちは光子爆弾の放たれようとしているグレイスランドへと向かっていった。


 作り方がハリウッド映画の西部劇を意識した作りになっており、基本的にはオヤジを楽しむアニメです。12姉妹というゴスロリ姉ちゃんたちが出てきますが、本編自体が12話と大変短く、何かに焦点を当てなければまとめきれない状況であったのでしょう。基本的にキャラは画面外で動き回っているような感があります。

最初に新作アニメとしての情報を見た際に、オヤジが主人公という事であまり動きのない、話も縮こまった作品になるのかと思ったのですが、意外にもそうではなく、個人的には楽しめた作品でした。

ただし、話数としては12話ではなく、13話にするべきであったと思います。その一番の理由は、最終話。実にはしょり過ぎな作りになっているからです。勢いそのままに一気に終わらせたい…というよりも、その作り方からなのでしょう。どこで切って良いのか分からないのかもしれないと思うほど勢いだけで作り上げた最終話であったのです。

終わりよければ全て良し。たためない風呂敷よりも良いのですが、畳み方が大変に雑な部分、よれている部分があるのは否めません。それが残念といえば残念なのです。

 実はこの話。そうは申しましても、大変においしい要素が溢れかえっているのです。言い換えれば、タイミングや費用さえあれば、続編がすぐに作れる話であるわけです。また、そのキャラ視点を何もミスターだけに絞る必要もない作りになっている作品でもあります。

テレビ版で中心となったのは、ブルースの遺産の話。なるほど、これではブルースの子であるフランカに、彼女を育てているミスターがスポットを浴びて当然です。ならば、例えば12姉妹やアンジェリカ、また、マルチアーノにスポットを当てた話を作れないかと言えば、そんな事はないのです。十分に作る事ができます。当然、その際にはミスターたちは脇役になるわけですが、それでも魅力的な話は作れる事でしょう。それほど、キャラクターに魅力がある作品でもあります。

ここら辺は作風の似ている(と言うよりも気になったはずであろう)ルパン三世、カウボーイビバップよりも自由度が高いと言えます。こう言うのも、また続編でもやってくれないかと言う期待も込めての話ですが、それも要望があれば可能な話かもしれません。


 当然の如く、悪い事はいけません。しかし、悪い事をしながらも謝らないのはもっといけない事です。こんなに簡単に記載してもそれが出来ない人が日本には大勢いるようです。それは何も御偉いさんばかりではありません。

ですが、何にせよ言い訳として使う言葉は「他にもやっている人がいる」「関係ない」というものです。

何かを指摘されたとき、それが悪い事であればすぐに辞め、素直に謝罪するべきです。しかしながら、言い訳としては最も低能な言葉がまず出てくるようです。その時、自分のしていた事も責任の持てない。何とも情けない話であります。

莫迦である事に恥じるよりも、愚かである事に恥を持って欲しいものです。しかしながら、同じ愚かだとしても、愚鈍であっても仕方がない場合もあるのですが、愚劣になってはいけません。いずれ言い訳として愚劣であるから卑劣になってしまったという事でしょう。それは諦めではなく、開き直りでしかないのですから。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年09月02日

リアルが現実になる日【「アナザーセンチュリーズエピソード」(2005年 フロム・ソフトウェア/バンプレスト)】

 最近、リアルロボットというものに、ふとした疑問を感じるようになりました。その一番の理由は、どうやらレイバーに似たものが出てきたこと、どうやら義体に似たようなものが出てきたこと、どうやらアンドロイドに似たようなものが出てきたことがその原因であるようです。

何が疑問かと言えば、それらが一概に二次元の嘘で括られる存在ではなくなってきたようだという事なのです。

ガレージキットメーカーでSTUDIO HALFEYEさんが見えますが、そこから発売された完全変形ゲッターロボなどを見ますと、中に機構を組み込むには、まだ様々な問題があるとしても必ずしも不可能ではないなと思うわけです。

となれば、リアルロボットと称されるものなど、スーパーロボットよりも無理はあっても無茶な変形は決してしていないわけで、より、実現不可能ではないという話になってくるのではないのかと思うわけです。

ただ、全てのそうしたロボットは基本的に兵器なわけで、実現できるようになってきた代わりに、物語までも現実となってくるのかと思えてくるようになったわけです。


 さて、今回は2005年に発売されました「アナザーセンチュリーズエピソード」です。

 統一地球暦045年1月。人々にとて忘れがたい事件が発生する。それは、時代の移り変わりの始まりなのか。それとも、粛清の始まりなのだろうか。時のUCEの若き代表、リリーナ・ピースクラフトが声明した宇宙難民受け入れ計画。しかし、それは結果、大規模な犠牲者を出す事となった。その数、およそ90万人。その事件の首謀者とされているのが、同じUCS所属であるラー・カイラム。

だが、その真実は、未だ誰の目に、耳に入る事はなかった…。


 アーマード・コアで有名なフロム・ソフトウェア、そして、数多くのアニメ・特撮を媒体にゲーム展開をし、中でもスーパーロボット大戦という一つの結果を出しているバンプレストがタッグを組み世の出してきたのが、アナザーセンチュリーズエピソードです。

ゲーム内容としてはフロム・ソフトウェアの得意とする、第三者視点からのリアルタイム操縦によるバトルアクション。それを、数々の有名なロボットアニメで行っているのですから、好きな人にはたまらない話です。

しかも、この作品、スーパーロボット大戦と同じようなクロスオーバー作品=様々な設定の垣根を超えたものとして、オリジナルのストーリー構成になっています。全くのオリジナルではないのですが、他の作品が関わってきますので、知っている話でも意外性を持って楽しめるようになっています。ただ、これには賛否両論があるのでしょうが、クロスオーバー作品の宿命と言う事もあり、純粋に楽しんだ方が勝ちのような気もしないでもありません。


 話の展開は古い作品といえど、やってらっしゃらない方も見えると思いますので、詳しくは記載いたしませんが、我が家の感想としては「救われねぇ」というのが最後のストーリーまでやった感想でした。正直、泣きそうになりました。そして、ヒーロー物は主人公がどういう形でも救われないとイカンとも思ったわけです。

ゲームシステムとしては、同じようなクロスオーバー作品であります、スーパーロボット大戦よりはすんなり入り込めるものです。その一番の理由はリアルタイムで進んでいると言う事なのでしょう。

アニメ作品としても、確かにスーパーロボット物に関しては、技の発動に時間がかかりますから、それこそ歌舞伎のように見得をするように時間が必要なのでしょう。しかし、このゲームにおける主役は大半がリアルロボットと称されるものです。「ちぃっ!」とか「なんとぉっ!」という攻撃時の台詞はあるのでしょうが、それこそ、ゲームから聞こえれば楽しく、そうでなければ自分で補完すればいいわけです。むしろ必要なのは、攻撃の連続性であり、それはしっかりと再現されているように思います。


 登場する作品が好きな方、またフロム・ソフトウェアのアーマードコアシリーズが好きな方には十分に楽しめるゲームと思います。


 前振りの文章は半分冗談で聞いて置いてくださいませ。とは言うものの、実際に日本の技術は決して世界に遅れるものではなく、結果的に9条の壁があるからこそ、大々的に行っていないだけのような気がするわけです。今、模型であはありますが、純国産のステルス戦闘機の開発も行われております。更に言えば、日本ではテレビの向こうで起こっている戦争は今、この瞬間も確実に行われている行為であり、また、その兵器開発も滞ることなく進んでいるのです。

兵器開発をする事が決して悪ではないとする人もいます。ただ、作られた兵器はどうにかして使ってみようとするのも人間の性であると言えなくもありません。それはこれまでの歴史が証明している事でもあります。

願わくば、物語の中だけで行われる戦争が現実世界に漏れでないように…人が争うだけの生き物である事の否定を求めて止みません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

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