TOP>2007年08年

2007年08月26日

連作の連続性【「宇宙刑事ギャバン」(1982~1983年 テレビ朝日/東映)】

 番組における連作というのがあります。機動戦士ガンダムや、仮面ライダー、ウルトラマンはその代表例というものでしょう。こうした子供向け作品には一つの通例があります。それは連作は3つまでと言うものです。

例えば機動戦士ガンダムはガンダム、Zガンダム、ガンダムZZ。これでテレビ枠を一括りとします。今回紹介しているギャバンもその後にシャリバン、シャイダーですし、アニメに戻りますが、エルドランシリーズもやはり三作がテレビで放映され、最新作と呼ばれるのは別媒体での紹介に留まりました。

 これはいわゆる二番煎じ以降の玩具展開の問題が絡んでくるわけです。つまり、最初の作品は売れるかどうだか試してみよう。二番目は最初の勢いもあるから売ってみよう、三番目は最後の力を振り絞って売ってみよう。大まか、こんな感じでしょう。

確かに、三作品以降で売れた作品などウルトラマン、仮面ライダーでも難しい話でありました。あれだけ人気のあった作品でも難しいのです。スポンサーとしてのメーカーが挑戦しずらいのも当然の話なのでしょう。


 さて、今回は1982~1983年にテレビ朝日系列にて放送されました「宇宙刑事ギャバン」です。

 広がる大宇宙。そこには地球では考えならない恐るべき犯罪者集団も数多く存在する。それを逃さず、宇宙に平和をもたらす為に奮闘するのがバード星に本拠地を置く、銀河連邦警察である。そこに所属するギャバンは地球担当という事で、地球へと一路向かっていた。だが、その地球に恐ろしい魔の手が迫っている。

宇宙犯罪組織マクー。首領であるドン・ホラーの元、様々な惑星の様々な資源を強奪し独占するために暗躍する組織である。

それを防ぎ、地球を守り抜くためにギャバンの戦いは始まったのだ!


 大変、単純にして明快なヒーロー物ですが、今までと異なるのは、やはり吹き替えを多用していないという所ではないのでしょうか。それまで(というかこれが主流ですが)ヒーローには人間体と着ぐるみ体がおり、気ぐるみ体にはアクション専門の吹き替えの方が、そして、人間体であっても危険な場合はやはり吹き替えの方が演技していらしたわけですが、一番の問題は、やはり吹き替えでは表情が撮れないという事であります。

着ぐるみはいざ知らず、人間体ではやはり出来るだけ主役となる役者さんの表情まで撮ってみたいもの。それまでのタブーを打ち破るようにこの作品では数々の挑戦が始まりました。

爆発などは当然の事、鉄橋でのロープワーク、車のスタントアクションもこなしました。その結果、主役である一条寺 烈は間違いなく、人間体でもヒーローになった数少ない主人公となったのです。

過去、こうした例は最初の仮面ライダーが記憶としてありますが、一番恐ろしいのはやはり怪我である事も同時に教えてくれた作品であります。幸いな事にギャバンはそれほど大きな怪我もなく順調に進んでいった作品であります。それはスタッフの方にとっても良い経験を与えた事ではないのでしょうか。


 以降、この作品を皮切りに宇宙刑事として三作品、メタルヒーローとしては更に続編を作っていく事になります。それまでの仮面ライダーやウルトラマンなどとは違う、新しいジャンルを開拓したと言う点でも画期的な作品であるのは間違いない話なのです。

ただ、昨今の作品にはこれに連なる作品が出てきていないのも事実。正直、渇望する声があるわけですが、やはりこの作品もあくまで玩具があっての物。スポンサーとして強力にして協力的な方が出てくれば復活もされるとは思うのですが…。


 ある意味、最初が完全なオリジナル作品とすれば、二作以降はそのパロディと言っても差し障りありません。問題は、それをどこまでオリジナルとして見せれるのか…という話になっていたのは相当昔の話です。ギャバン以降に関しては、むしろ、系列作品としてみせる努力をしていました。

基本的に一つの作品は一年で終了するのが普通です。番組もその方向性を持って制作されます。しかし、人気があるのであれば、それは商売のチャンスであり、そこで止めるのはもったいない話です。

そこで、チャレンジしたのは物語の連続性というものです。例えば、作品の最終回、もしくはその付近に新しいキャラを登場させる。それは次回作の主人公であった!という感じの演出をするわけです。すると、視聴者の目には、まだ続く物語の延長に見えるわけです。これは見事にヒットしました。未だに、そのパロディが各所で使用されているのがその良い例なのでしょう。それだけ印象に残る作品に仕上げれたわけです。
(最近ではケロロ軍曹にもそのパロディが出ていますね)

案外、めちゃくちゃな状況になりやすい連作物を、こうしたもの覚えの良い作品にまで仕上げたスタッフの方々には本当に脱帽します。こうした所にプロの意気込みを見てしまうのです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年08月20日

影響力と責任【「マックス・ヘッドルーム」(1987年 アメリカABC放送)】

 普段であれば、作品を決めてから記載する内容を考えるのですが、今回は逆で行ってみようかと。


 最近、何かと騒がせている…いや、騒いでいるマスコミでありますが、相変わらずその横柄な態度に苦笑する日々であるのは言うまでもありません。しかも、そんな彼等が言う事には、表現の自由を守れというわけで、まあに片腹痛いというのはこの事なのでしょう。

私は自由というのは権利であると主張しています。何故なら、自由は奔放と取り違えてはならないからです。それは無法と言います。となればそれは権利と言う事になるわけですが、権利を主張する為には義務を果たさなくてはなりません。この場合、義務とは何か、それは発言に関しての所在にあります。そしてそれには責任を負わなければならないわけです。

ですが実際はどうなのでしょう。間違いとされた発言に対して、それをしっかり謝罪したマスコミはこれまでにどれだけあり、それを踏襲した上で尚、権利を施行しているといえるのでしょうか。

ハッキリ言えば、それは存在しないわけです。

そんな彼等自身がどれだけの影響を与えているのか、実際の所彼等もそれはわかっているようなのです。


 さて、今回は1987年にアメリカABC放送で放送されました「マックス・ヘッドルーム」です。

 時は近未来。そこには電源スイッチの存在しないテレビがあり、全ての物事が数千にも昇るテレビ局の視聴率によって決定される世界。その中でトップを走っている「ネットワーク23」に調査報道番組を任されている凄腕のレポーター、エディスン・カーターはいた。彼がその時に追っていたのは視聴者の連続変死事件。しかし、その取材は何故か局上層部から指し止めを食らってしまう。

それもそのはずで、実はこの事件の犯人は正に局内に存在していたからだ。

その首謀者は社長であるグロスバーグ。そして、その原因となったのがとあるCMであり、それにはチャンネルを変えないようにするため=ザッピング防止ためのCM圧縮技術「ブリップバード」が仕込まれていた。それは確かに視聴率を上げる効果はあったものの、しかし副作用として不活発な視聴者には爆発死する結末が待っていたのだ。

当然、その事をひた隠しにしている局であったが、ついにその原因となる技術を開発した天才少年の存在に、カーターは気付く。しかも、その少年は局の企画開発部門のチーフであった。そしてついに、副作用の決定的な場面を抑えたカーターであったが、録画は失敗。カーター自身も捕まっていまう。

グロスバーグはカーターがどこまで調査したのかを知る為に、天才少年ブライスに記憶を数値化し映像化する事を命じる。その結果、ブライスにも予想もしない出来事が起こる。それは実験を行った結果、カーターの分身、そして独自の人格を持ったCGが誕生したのだ。それが「マックス・ヘッドルーム」であった。


 日本語版ではあの七色の声を持つ山寺氏がマックスをやっているわけですが、本当におしゃべりなマックスには最適なやくではないのでしょうか。CGとは言いましても、カーター役のマット・フリューワーが特殊メイクでそれらしいバックの前で演技をするというアナログな方法で撮影はされているものです。

その話の一番となるのは、あくまでマスコミという存在の影響力であり、それをコミカルに批評している作風なのです。

一生懸命に不正を暴こうとするカーター。しかし、局の上層部はあくまで視聴率にこだわり、ある種面白さだけを追い求めている。そしてそれを見ている視聴者の大半は面白さだけを求め何も考えないようになっている。まるで現代を予見していたかのような作品ではないのでしょうか。

確かに、マスコミの影響力は凄まじいものがあります。それによって冤罪となった事例も少なくはありません。もちろん、それを報道することなどまずありえないわけですから、知る事も少ないわけです。

カーターのような正義感の溢れる記者などつまはじきにされる世界なのでしょうが、それは何もマスコミだけの話ではないのです。そうした本当の意味での問題意識を持たないままで繰り返される歴史は決して誇れるものではないわけです。


 この番組ではマックスの軽快なしゃべりが一つの売りになっているわけですが、それも決して笑うばかりではないのです。マックスの役どころは滑稽なピエロのようなもの。つまり、笑いの裏に悲哀が隠されているわけなのです。そういう意味は、単なる近未来を舞台にしたドラマというわけではなく、その当時からあったのだろうある種の警告が含まれていると見ても良い、そう思うのです。


 今の世の中でマックスに似たようなものはないかしらと考えてみたのですが、ある意味、某巨大掲示板はそれに近しいと思うのです。世の中を皮肉り、少し斜めから話をする。とは言いましても、その大半が人を馬鹿にするような発言なのですからマックスよりは役に立っているのかいないのか、微妙な所ではありますけど。

冗談はさておき、今から20年も前にこうした作品が作られるほど、マスコミの影響力は目に付くものであった、そう考えるのが妥当なのでしょう。そしてそれは今でも変わらず…いえ、より酷くなってきていたのかもしれません。Blogの出現により、マスコミの影響力が下がる、もしくは下がったと言われるのでしょうが、それも一時的なこと。結局、それすらも巻き込むだけの技術を持つことになるのではないかと思うのです。

だからこそ、そのモラルはしっかりと率先として誠実になくてはならないはずなのです。昨今の発言に対する責任のあり方は、やはり視聴者として納得できるものばかりではないのが多く、結果的に報道としていてもそれはバラエティの域を抜けないものであると感じてしまうのです。

ならば、そんな無責任の集団のどこに報道の自由、言論の自由があるのか。疑問になるのは当然の話ではないのでしょうか。影響力のある分野であるからこそ、責任の重さをしっかりと認識してほしいものです。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。




2007年08月12日

派生としての物語【「マッピー」(1983年 ナムコ)】

 飽和の時代といえば言いのでしょうか、何もかもが用意されて当たり前の世界の中で、想像力が欠如されていると言われて、どれほどの時間が経ったのでしょう。しかし、それを是正する事はなく、今まで来たわけですが、それほど心配する事はなかったようです。

飽和と言っても、それは全てにおいて飽和しているわけではなく、新しい何かを考えるのに十分なほどの余裕がある。そう思うわけです。しかし、飽和である事の問題は、それを見た人の意識がそれほど変わる事の無い方向を見ているという事です。そこから別へと目を向けることが出来る人こそ、新しい何かを見つけることが出来るという事なのでしょう。

それはよりセンスの要求される話なのかもしれません。


 さて、今回は1983年に発売されました「マッピー」です。

 泥棒ネコのニャームコから盗まれた様々なものを取り返す、全て取り戻せればステージはクリアとなりますが、ニャームコ屋敷には階段がありません。そこで使われるのはトランポリン。それで各階へ移動するのですが、あまり長くジャンプを繰り返していると破れてしまう厄介なもので、各階の床に降りればまたトランポリンは丈夫になります。


軽快なBGMとカラフルな画面構成が印象的なゲームで、それまで主流になっていました「敵を倒す」というものではなく、あくまでは逃げながらアイテムを回収する。マッピーが泥棒でもおかしくはない所に奪還という要素を組み込む事で、明確な正義の味方にしてしまったというのが面白い設定です。

必ず逃げなくてはならないわけではなく、屋敷の中にある沢山のドアの幾つかがパワードアというものになっています。通常のドアでもニャームコたちを気絶させれるのですが、パワードアは衝撃波を発生させ、ニャームコたちを画面外へと運び去ってしまいます。

しかし、そんなマッピーでも絶対に敵わないキャラがご先祖様。マッピーのではなくニャームコのご先祖様なのですが、何故かその姿は緑のコイン状なのです。このキャラは時間経過と共に出てくる永久パターン防止のキャラでもありました。


 1980年代といえば、ナムコ(現バンダイナムコゲームス)の全盛期であったと言っても過言ではありません。ギャラクシアン、パックマン、ゼビウス、ギャラガ、ポールポジションなど、その後の日本ゲーム業界での地位を確立するのに十分な力を持った作品を数多く排出してきた時代でありました。

その数年後に任天堂から発売されたファミリーコンピュータ、通称ファミコンは、それら傑作の後押しもあり、爆発的な人気になりました。


 しかし、同時にゲームセンターという場所が問題視された時代でもあります。暗くて狭くて、不健康なイメージがまだ続いている、現在では考えられないようなものであったわけです。ゲーム喫茶の延長にゲームセンターがあった時代ですから、それも仕方が無い話なのかもしれません。

ただ、この時代の作品がそんな負のイメージから脱却しようと、カラフルな映像、軽快な音楽を率先して取り入れていったのではないのか。だからこそ、耳に残る名曲になったのではないのかと思うわけです。


 今では考えられないようなドット絵にピコピコ音。しかし、結果的にどんなに大層な音楽でも、綺麗な絵でも、壮大なストーリーでも、複雑すぎる物語は理解するまでに時間がかかり、想像するまでに更に時間がかかります。ゲームに物語が語られるようになった時代でもあり、そこにある想像力は今を遥かに越えていたように思うわけです。

全てが用意されている楽しさよりも、決して多くは無い要素から生み出される楽しさ。それはまるで、地域毎にあるおにごっこにように自分ルールを確立させてくれたようにも思えるのです。


 飽和ではない事が素晴らしいとは言いません。同時に飽和である事が良いとは言いません。問題は、どちらであるのかではなく、そこからどうするのかという事なのです。どうするか、その結果が悪事ではないとすれば、さしたる問題はないのでしょう。何を問題とするのかその時々によるものなのでしょう。

想像による物語の構築は、伝説をつなげていく話であるわけです。それは昔の人間が星を見て神話を作り上げていったものと同じなのでしょう。

その神話を小説にするのか漫画にするのか、それとも動画にするのかは、その人次第ですし、言い換えれば表現の根幹は数少ないかもしれませんが、可能性は無限であるという事なのです。


物語は日々日常でも構築されています。日々の流れがそうです。そこから生まれるであろう、派生した物語…夢であるのか妄想であるのか。しかし、それを実現させる事が出来れば、面白い話になるのではないのかと思うわけです。もちろん、法を逸脱すれば、監獄の中で後悔する事になるのは当然の話。迷惑になる夢・妄想は控え目にしましょう。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

2007年08月05日

日本でなくなる時【「魔界都市<新宿>」(1982年 菊池 秀行/朝日ソノラマ)】

 その昔、人類は滅びる!とか言われていた時代は実に混沌としていました。しかし、それは単なる混沌ではなく、時代を生み出そうとしているエネルギーにも満ちていた時代であります。ただ、その方向性が間違っていたのか、現在、そのつけを大小関係なく支払わなくてはならない時代に入っています。

果たしてこの先、どのようになっていくのか…心配な事です。


 さて、今回は1982年に発売されました「魔界都市<新宿>」です。


 魔震…デビルクエイクと呼ばれるその地震が新宿の真下のみで起こったのは、199x年9月13日午前3時にきっかり3秒だけ起こり、しかしその影響は拭いきれることなくその地を覆う事になる。新宿のみに起こった震災は、後にその場所の名称に異名を付け加える事になる。それが魔界都市。

そこには区外では考えられない常識が罷り通り、それでも人々は生活していた。だが、そうした中に存在する悪の因子が動こうとしている。

一方、現地球連邦政府首席である羅摩こずみは、一通の手紙によってその命を危険に晒されていた。その手紙を送り込んだ主こそ、摩導師レヴィ・ラー。地球の至宝とまで言われる首席の命を持って、災厄を呼び覚まそうとしている張本人であった。その危機を知り首席の下に来たのは、稀代の大賢人アグニ・ライ老師である。彼の命を受けた連邦政府の山科は、一人の青年の下へと向かう。

その青年の名は十六夜京也。念を聖的に昇華させ、物理エネルギーすら聞かない魔物たちとも対峙出来る“念法”に使い手であった。

最初こそ渋るものの、しかし、彼は魔界都市へ向かう決意をする。そこで自分と魔導師との因縁を知る事になり、そしてついに災厄が現れ…、そして、ついに決着の時を迎える。


 魔界都市、それは新宿を指し示すきっかけになった作品。それ以降、この魔界都市では様々なヒーロー、ヒールが登場するようになりました。有名どころではせんべい屋に刑事、そして医者といった所でしょうか。彼等はすべてこの魔界都市という本来人の住めないような場所で生活している人たちなのです。しかも、それぞれに特殊能力があり、それを駆使しして難問奇問に立ち向かっています。

しかし、主人公である十六夜京也は魔界都市の住人ではありません。あくまで区外の人間であるわけです。ここが魔界都市に関連する作品の中で異なる部分なのでしょう。

それにしても、この作品、大変に面白く読んだ記憶があり、今回再度読んでみましたが、すんなり読めてしまえるようになっています。あまり、難しい事をしていないのです。前に出てきた事で伏せてある内容は必ず、その数ページ先に記載してあって、つまり、あくまで冒険活劇として読むことが出来るようになっています。

どうしてレヴィ・ラーはもう一度災厄を起こそうとしたのか。それも記載されていますが、悪党の言う事の典型的な話をしております。

 作品の基本としては実在の場所を使い、また、1999年に起こるとされた災厄を使い、更に念力やテレパシーなどの不思議能力、そして魔界の生き物に…と今のゲームではすっかり御馴染みのごった煮状態で記載されています。しかし、単なるごった煮とは思うなかれ、その素晴らしいテイスティングによって、煮込まれた材料はそれぞれが互いを破壊する事なく利用されているのです。
作品内ではそれぞれが破壊と戦いを繰り広げておりますけど…。


 それにしてもこの作品は数多くの模倣が織り込まれており、しかし、それをうまい具合に菊池風味にしている作品であるわけです。二次創作も嗜んでいる自分としては、大変参考になる書籍である事は間違いありません。一種のセンスなのでしょうが、それでも憧れる存在であるわけです。


 前振りで不安な事を記載しましたが、それでも日常は回り続けていくものです。ただ、最近の日本というものを省みるにつけ、大人の不正があまりにも大きく、本当に日本を正しく残そうとしているのか…そこに関しては不安が残ります。年金問題、裏金問題、政治資金問題。なんでも金が関係しているわけですが、それでも日本を良くして行こうというのであれば、そういう行き過ぎた煩悩からは脱却するべきなのでしょう。

日本には統一された主義主張は存在しません。宗教でも理念でも、それは個人が唱える事ができるとなっています。しかし、その弊害として主張における対立が、激化している様子が見て取れます。自分の意見を批判する場合、それは敵とみなすわけです。個人がそれぞれの理念を持つ場合、結果的にはそれを受け止めれるだけの度量が必要になってくるはずなのですが、それが無いようなのです。

かつての混沌としていた時代の中にもあった幾つかの常識。それすらも今の世の中では笑いの対象となっていくようです。それらが全て壊れ去った時、日本は日本であり続けられるのでしょうか。新しい日本になるのか、消滅するのか。それはその時にならないとわからないのかもしれません。
 
 
 
 そんなこんなで本日はここまで。

【広告】

サイト内検索

メンバー紹介

このサイトに自分のブログを載せたい!
(ブログの登録は無料です。)


ninja tool counter

>

※2009年4月19日 19:00より開始

ninja tool access